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桐生高等工業学校(きりゅうこうとうこうぎょうがっこう)は、1915年(大正4年)創立の桐生高等染織学校が改称した旧制専門学校(実業専門学校)。略称は「桐生高工」。英語名称は「Kiryu Technical College」。
明治政府は生糸から付加価値を高めた織物生産へ転換するために全国6都市(桐生、足利、米沢、京都、福井、富山)に模範撚糸工場を設置した。模範工場設置に伴い教育機関も必要となり、本校や京都高工、米沢高工、福井高工に繊維系学科を設置した。両毛地方の染織業の発展と海外輸出の邁進が設置目的で、設立にあたっては渋沢栄一から桂太郎首相への進言もあった[5]。帝国議会では第八高等工業学校として審議され[6]、桐生高等染織学校として公布された。先発する京都高工の美術的染織工芸教育に対して、本校では工業的染織技術教育を主とする方針であった[7]。染色工業の基礎は化学であるため応用化学科の増設が設立当初から提案されていた。設立から5年後に応用化学科を増設し、学校の陣容が染織にとどまらなくなったことから桐生高等工業学校と改称した[7]。
創立当時の桐生市は繊維業の最盛期で国内GDPの4分の1を占めたといわれ、初代校長大竹多氣は入学式において「當地には隨分青年を墮落せしむべき誘惑物が少なからぬやう認めらるゝ」と注意を促したほどに賑わっていた[8]。水力発電による電力供給を受けて手織機工業から力織機工業に転換が始まった時期であり、本校の存在が群馬県の企業の機械化を大きく前進させる要因となった[9]。地元産業に密着した実業専門学校のため、卒業生の多くは群馬県の代表的な企業やパブリックセクターに就職した[9][10]。旧制高校とは違い完成教育であったが、大学への進学者数は全専門学校中1,2位であり、特に色染科と紡織科は全国の高等工業学校の中で最優秀と評価されていた[11][12]。
二代目校長である西田博太郎は、異例といえる27年間という長きにわたり奉職し学生と寝食を共にした。このため、官立校でありながら「西田塾」の異名で知られ[13]、学生に対し英国流の紳士の素養を求めた[14]。また、技術者は管理・経営的な感覚を持つべきであるとして、染色化学関係の他に工場管理学や工場経営法など経営工学に関する講義を行うところも特徴だった[15]。そのため卒業後に名古屋高等商業学校研究科に進む者もいた[16]。
第二次世界大戦中の1944年、「桐生工業専門学校」と改称された。理科系である高工生は学徒出陣が猶予されていたが、武器・弾薬の設計、製造、修理を担当する技術者の養成を目的とした造兵科が設置され、また中島飛行機のお膝元でもあったため同窓の戦没者は429名を数えた[17]。またこの時期には、横須賀から海軍航空技術廠材料部が疎開していた[18]。
戦後の学制改革による新制大学への移行にともない、1949年、群馬師範学校・群馬青年師範学校・(旧制)前橋医科大学・前橋医学専門学校とともに新制群馬大学に包括されて同大学の工学部の母体となり、1951年に廃止された。
群馬大学の人物一覧を参照のこと。
創設時に群馬県から寄附された桐生市天神町の校地を廃止まで使用した。同校地は後身の群馬大学理工学部に引き継がれている。1915年竣工の旧制桐生高等染織学校講堂と本館の一部は、1970年に校地中央から正門脇に移設された。1998年には国の登録有形文化財に登録された。
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