Remove ads
近代以降の日本において建造された、戦死者の霊を顕彰する塔 ウィキペディアから
忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴として表す塔である。忠魂碑とは異なり忠霊塔は納骨堂を備えていることが前提である。
明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり忠魂碑が各地に建立された。
1930年代後半、戦時色が強まる中、各地で遺骨を祀る忠霊塔を建設する機運が高まった。 1938年(昭和13年)3月、内務省警保局は「時期尚早につき暫く時期を待つよう」通牒を発したが、流れを押しとどめることはできず、1939年(昭和14年)1月18日、内務省は各市町村に忠霊塔建立許可の方針を定め、次の条件を提示している[1][2]。
同年7月7日に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地および日本国内の各市町村毎に1基ずつ忠霊塔の建立を奨めた[3][4][5][6]。
大日本忠霊顕彰会には内閣総理大臣を名誉会長、菱刈隆陸軍大将を会長、各省大臣、海軍大将等が役員として名を連ねた[7]。
塔の建立にあたっての資金は国や自治体の支援もあったが、その市町村の国民は「一日戦死」運動と呼び、1日分の収入が無かったつもりで1日分の給与の額を拠出している[3][8]。1941年(昭和16年)9月には戦争の拡大にともない戦死者も増え,各地の陸軍墓地は陸軍省の通達が出され忠霊塔へとまとめられた経緯もある[9]。こうして各地方自治体毎に多くの忠霊塔が建立されたが第二次世界大戦後は戦争を賛美するとか軍国主義的であるとしてGHQの指示により多くは撤去された。一方一時、塔を土に埋めて隠し撤去を逃れたものもあるとされるが現在も各地に在る[3]。
1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約と日米安全保障条約が発効し、日本国民の主権の回復がされた後には忠霊塔に替わるものとして慰霊碑が建立された[10]。忠霊塔は西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争のそれぞれの戦死者の遺骨を納め、 塔の下部には戦死した者の名が刻まれている[9][11]。千葉県忠霊塔など1954年(昭和29年)4月に新たに造られたものや○○県忠霊塔などと呼称を変えたものも幾つかある。
現在では忠霊塔は自治体や地元の人達のボランティアによって塔の周りの草取りや維持・整備が行われている[12]。例年、自治体や遺族らによって行われる戦没者の霊への顕彰・慰霊・追悼の対象の場として慰霊碑、慰霊塔と共に使われることが多い。
この節の加筆が望まれています。 |
中国には日本軍が13基建設したが戦後破壊されたといわれる[19]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.