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日本の国学者 ウィキペディアから
黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日(1829年12月7日) - 明治39年(1906年)8月29日)は、江戸時代・明治時代の国学者、宮内省御歌所寄人、東京帝国大学教授。
日本の古来からの歴史、制度、有職故実、風俗、律令、格式、法制史、日本文学、音韻学、美術、工芸など幅広く研究し、考証学的な知を近代に継承して、再編成した明治の碩学である。大学校、元老院、東京帝国大学で研究した著書・論文は数多く、日本文化の集成者と言われた[1]。
本姓は金子、幼名は嘉吉、名は寛長、号は荻斎。上野国桐生新町(現在の群馬県桐生市)にて代々機業を営む父・金子吉右衛門治則と母・るゐの子として生まれる。生まれつき右目が不自由だったが、幼少時から家の土蔵の中で本を読みあさった。7歳の時に雨のしぶくのを聞き、「夕立やしのをたばねてふる雨に かすかに聞こゆ馬方のこえ」と詠み家族を驚かせる[1][2]。天保12年(1841年)、12歳で江戸の国学者である黒川春村に師事し、 国文、国語、音韻学、和歌などを学ぶ。その刻苦精進と博覧強記は領主・酒井忠良の認めるところとなり、御褒美書とともに扇子を受領した[3]。
慶応2年(1867年)、春村の遺言により養子として黒川家を継ぎ、黒川春村の学統の後継者となる。
明治2年(1869年)に大学校より府県学校取調御用を命ぜられ、8月に中助教となり、明治3年(1870年)語箋編輯を命ぜられる。明治4年(1871年)に文部権大助教に任ぜられる。文部省で『語彙』の編纂が企てられ、木村正辞、横山由清、岡本保孝、小中村清矩、榊原芳野、塙忠韶らと参画、後の辞書編纂の基礎をつくる。
明治6年(1873年)、文部省雇になり史略編集を命ぜられ『史略考証』三巻を編集、ローマ字での国語綴輯兼務を命ぜられ、ローマ字綴りの『横文字百人一首』を刊行している[4][5][6]。
明治7年(1874年)、文部省より国史編纂を命ぜられ、木村正辞と分担して編纂する。また同省の命によって歴代天皇の御諡号、御名、年号の読方を考証し、『御諡号及年号読例』一巻を出版。10月31日に報告課雇を命ぜられる。明治8年(1875年) 、元老院権大書記生に任ぜられ、横山由清と『纂輯御系図』、『皇位継承篇』の編纂に従事する。
森有礼が英語を国語として採用する論を打ち出すと、これを痛烈に批判する『言語文字改革ノ説ノ弁』を『洋々社談』第二号に発表し、日本語を守った立役者の一人となった[7][8][9]。
明治9年(1876年)元老院大書記生に任ぜられる。明治12年(1879年)、東京大学法学部文学部講師を嘱託され、日本古代法律及び和文学を担当する。明治維新に伴う西洋の法制及び法律学の移入とともに、法制整備を目的に律令法や幕府法などの法制史の研究が行われた時の代表的な研究家の一人であった。
明治20年(1887年)、東京学士会院より『古事類苑』の編纂委員を嘱託され[10]帝都部を編纂、農商務省の依頼で 『大日本農史』を編纂する[11]。
明治6年(1873年)ウイーン万国博覧会「出品差出勤請書」添付の出品規定においては、Fine Artの訳語を美術と定めた[12]。 明治10年(1877年)、内務省に転じて博物館史伝課長心得となって仏国博覧会出品事務取扱を命ぜられる。この年に開催された内国勧業博覧会の際に、名誉、進歩、有功、妙技、協賛等に用いる賞牌の原型をつくり、博物局の命で『工芸志料』7巻を編纂する。従来,技術史料は廃棄される傾向が強かったが、日本技術史研究を定着させる礎となった。故郷の桐生織を日本工藝史上に特筆して位置づけている[13]。
明治14年(1881年)、第二回内国勧業博覧会審査官等を命ぜられる。博物局が内務省から農商務省に移管されたため農商務省准奏任御用掛、博物局事務取扱となり 、東京学士会院会員に任命された。明治15年(1882年)、東京・上野に博物館(東京国立博物館の前身)が移転・開館すると、真頼が運搬担当となって皇室への献納が決まった法隆寺献納宝物を海路で横浜へ運び、横浜からは小形船に積み替えて隅田川を上り、陸揚げされた。明治22年(1889年)に帝国博物館学芸委員、臨時全国宝物取調掛として帝国博物館歴史部兼美術工芸部勤務となる。同時に皇典講究所・國學院大學でも教鞭をとる。明治23年(1890年)、第三回内国勧業博覧会審査官を拝命。
明治19年(1886年)、宮内省御歌掛寄人を拝命、明治21年(1888年)宮内省御歌所寄人に就き、歌人としても活躍した。穏やかで柔和な筆勢でも知られた[14]。
明治21年(1888年)に文学博士の学位を授与され、文部省の命で美術取調として10月から12月まで京都、大阪、奈良、滋賀、和歌山の寺社の宝物を巡視する。明治25年(1892年)には、宮内庁より正倉院御物整理係を命ぜられ、臨時博覧会事務局鑑査官となる。正倉院の唐櫃にしまってあった御物を硝子戸棚に陳列し、一般に拝観するようにしたのはこの時からである[15]。 真頼が指導したアーネスト・フェノロサと岡倉天心が設立に尽力した東京美術学校が明治22年(1889年)に開校すると教諭に就任、東京美術学校の官制改正により教授に任ぜられ歴史、和文、金工、漆工史等の授業を担当する[16]。日本美術を高く評価して世界へ紹介したことで知られるフェロノサは、ハーバード大学の同窓生である金子堅太郎の影響で日本美術に深い関心を持ち、本格的に日本美術を研究するためには誰に師事すべきかと金子に相談、大学校教授の黒川真頼と小中村清矩に学ぶことを推薦され、フェノロサは黒川に学んだ[17]。東京美術学校の初期の学生には福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らがいて、のちに高村光太郎なども受講している。日本古代美術の研究により、古代美術の評価を世界的なものにした功績は非常に大きいとされている[18]。 明治24年(1891年)、東京音楽学校教授兼任となり、祝日祭日歌詞及び楽譜審査委員を命ぜられ、「天長節奉祝」の唱歌を作詞、奥好義が作曲して発表された。
黒川は、東京大学で指導した岡倉天心からの依頼で当時教授をしていた東京美術学校の開設時の制服を考案した[20]。
明治23年(1890年)、初代司法大臣・山田顕義からの依頼により、判事、検事、裁判所書記、弁護士が裁判所で着用する法服を考案した[21][22]。これらの制服は、聖徳太子像より考証した古代官服風の冠と闕腋袍から成っており、当時としても異様なものであった[23]。そのため、黒川が裁判所に事件の証人として召喚された際には、廷丁に判事と間違えられたという逸話もある[24]。この法服考案の背景には、当時の日本は、急速な西洋化、鹿鳴館時代への反動から、日本古来の伝統を重んじる復古主義が台頭しており、裁判制度の整備は不平等条約改正のポイントのひとつでもあった。不平等な扱いと決別し、日本の「自立」を印象付けるには、「日本は長い歴史と伝統文化を持つ国」だと示す必要があった[25][26]。
明治26年(1893年)、帝国大学文科大学教授(国語学国文学国史学第三講座担当)に就任[27]。明治28年(1895年)古事類苑編修顧問、明治29年(1896年)古寺社保存会委員、明治31年(1898年)帝国博物館鑑査委員・歴史部長心得を命ぜられるが、明治32年(1899年)に再発した中風のため起居の自由を失ったため休職、明治35年(1902年)には全ての公職から退き、勅旨を以って東京帝国大学名誉教授の名称を授与された。
春村・真頼・真道三代の蔵書のうち、歌学書を中心に3387冊がノートルダム清心女子大学に、物語・随筆関係2286冊が実践女子大学に、神道関係704冊が國學院大學に、仏教関係500部が日本大学に、それぞれ「黒川文庫」として分散所蔵されている。これら所蔵左記以外にも、蔵書は分散して様々な機関に入っている。
「著述書目 黒川真頼全集所収書目」(『文学博士黒川真頼伝』所収)参照
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