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1995年に日本の兵庫県で発生した兵庫県南部地震による災害 ウィキペディアから
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)とは、1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46分52秒(日本時間=UTC+9)に発生した兵庫県南部地震により引き起こされた災害のことである。
1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3[注釈 1]の兵庫県南部地震が発生した。
近畿圏の広域が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市の市街地(東灘区、灘区、中央区[注釈 2]、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、近代都市での災害として日本国内のみならず、世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。
同年7月25日、激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律に基づく激甚災害に指定された。
地震による揺れとして、地震後の気象庁の地震機動観測班による現地調査で阪神間(兵庫県東南部の神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市)および淡路島の一部(津名町・北淡町・一宮町)に震度7の激震が適用された。神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台、当時の所在地は神戸市中央区中山手)および洲本測候所(洲本市小路谷)では震度6を観測し、地震機動観測班による現地調査で兵庫県南部の広い範囲に加え、大阪府でも大阪市西淀川区佃、豊中市庄本町、池田市住吉において震度6と判定される地域があった[2]。
そのほか、東は小名浜(福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟県新潟市、南は鹿児島県鹿児島市までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。
戦後に発生した地震では、1946年(昭和21年)の昭和南海地震や1948年(昭和23年)の福井地震を大きく上回り、当時の地震災害としては戦後最大規模の被害を出した。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。日本での都市型震災としては、大都市を直撃した1944年(昭和19年)の昭和東南海地震以来となる。
福井地震を契機として新設された「震度7」が適用された初めての事例であり、実地検分(気象庁の地震機動観測班による現地調査)によって震度7が適用された最初の事例であった。しかし、現地調査後に震度7を発表したのでは対応が遅れるとの意見を踏まえ、この震災の翌年から震度7も計測震度によって速報可能な体制に変更された[3]。これ以降に発生した2004年の新潟県中越地震や2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016年の熊本地震、2018年の北海道胆振東部地震、2024年の能登半島地震における震度7の観測は、震度計によって実測されたものである。
建造物に対する被害が大きいとされる周期1-2秒程度のキラーパルスを伴った地震動は、数値上でも当時最大級のものとして記録され[4]、10秒以上続いた地域もあった[注釈 4]。神戸海洋気象台では、最大加速度818ガル[5]、最大速度105カイン、最大変位27cmの地震動が襲ったと分析されている[6][注釈 5]。これらは、釧路沖地震(922ガル、67カイン、変位93cm)、ノースリッジ地震(約800ガル、128カイン)に匹敵するものである。六甲アイランドの地震計では縦揺れ507ガルが記録された。なお、日本で過去最大の地震動は、2008年(平成20年)6月に発生した岩手・宮城内陸地震の際、岩手県一関市で観測された4022ガルである[8]。
道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などの生活インフラ(現代社会においてはライフラインと通称される例が多い)は寸断されて、広範囲においてまったく機能しなくなった。関西では1946年の南海地震を最後に地震が少ない時期に入っていたため、「関西では大地震は起こらない」という神話が広まっていたことも被害を拡大した[9]。これ以降、都市型災害および地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」などの行政の対策などが注目されるようになった。
元々日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震には耐えられない構造であることが分かったので、1981年(昭和56年)には大幅な建築基準法の改正が行われた(いわゆる新耐震基準[10])。しかし、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も多く、また新耐震基準施行の1982年(昭和57年)以降に建てられたビル、マンション、病院、鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多く見られた。
1995年1月17日午前5時46分に発生した当地震に対し、同日午前10時(4時間14分後)に政府が「兵庫県南部地震非常災害対策本部」の設置を決定した[11]。同日午前11時、気象庁は当地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(英: the 1995 Southern Hyogo Prefecture Earthquake[12][13])と命名した[11]。
一方、当地震によって引き起こされた災害(震災)を指す名称はマスメディア等により任意に命名されていた。『毎日新聞』は地震発生当日の午後3時半ごろ、「阪神大震災」の名称を発案し、1月18日付朝刊以後、同紙上で広められた[14][注釈 6]。テレビでは読売テレビが地震発生当日から一部の番組で「阪神大震災」を使い始め(1月24日昼から統一)[14]、毎日放送テレビは1月18日昼頃から呼称を「阪神大震災」に統一した[14]。その後、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた。関西テレビは1月19日から[14]、『読売新聞』は1月22日付朝刊から[14]、『朝日新聞』[14] と『産経新聞』[14] は1月23日付朝刊から、『日本経済新聞』は1月23日付夕刊から[14]、朝日放送テレビは1月23日から[14]、NHKは1月23日夕方から[14]、『神戸新聞』は1月24日付朝刊から[14]、共同通信は1月24日の配信記事から[14]、『週刊文春』は2月2日号から[14]、それぞれ「阪神大震災」の名称を使い始めた。
一方で、『週刊現代』(2月4日号)[14] や『サンデー毎日』(2月5日号)[注釈 7][14]、『週刊朝日』(2月3日号)[注釈 8][14]、『アサヒグラフ』(2月1日号)、『AERA』(1月30日号、2月5日号緊急増刊、2月13日号、2月25日号臨時増刊、3月25日号臨時増刊など)、『諸君!』(3月号、4月号)、『日刊スポーツ』(1月18日付)[15] では「関西大震災」、『東京新聞』(1月23日付夕刊まで)[14]、『週刊読売』(2月5日号)[14]、『産経新聞緊急増刊』(『産経新聞』『週刊Gallop』『サンケイスポーツ』1月27日号)では「神戸大震災」、『週刊新潮』(2月2日号)[注釈 9][14] では「神戸地震」、読売テレビの一部の番組[要出典]では「関西大地震」など、当初は統一されていなかった。
「阪神大震災」の表記が優勢となる中で、それまで独自の名称を採用していたメディアも震災名を「阪神大震災」に切り替える傾向が進んだ。『東京新聞』は1月24日付朝刊から[14]、『週刊朝日』は2月5日緊急増刊号から[14]、『アサヒグラフ』は2月10日号から、それぞれ「阪神大震災」を使い始めた。
2月14日、災害名を「阪神・淡路大震災」とすることが閣議で口頭了解された[11][16]。これは政府が、神戸市を中心とした阪神地域および淡路島北部において被害が甚大であり、また、災害の規模が大きいことに加え今後の復旧に統一的な名称が必要と考えたためである[16]。なおそれ以前から、震災当時の北淡町長・小久保正雄は「阪神・淡路大震災」の名称を提案していた[14]。2月24日には、5年間の時限立法として阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(1995年(平成7年)法律第12号)が制定、即日施行された。
なお、大阪府下では豊中市を除くと兵庫県ほどの被害でないにもかかわらず、「阪」の文字が入っているのは兵庫県内における地域区分である「阪神間」(神戸市灘区・東灘区と兵庫県の芦屋市、尼崎市、西宮市近辺)における被害が甚大であったためである(なお、豊中市では南部を中心に甚大な被害が出ており、死者9名が出たほか避難所暮らしを余儀なくされた人も多い。)。ただし、上記の用法による「阪神」では神戸市、明石市も豊中市も外れてしまうことになり、大阪市や神戸市も含めたより広義の「阪神」では大阪府西部・兵庫県南部の順で表現されていることになるため、なお異論は少なくない。そうしたこともあって、「南兵庫大震災」という表記を用いる書籍もある[17]。
現在でも、マスメディアなどで単に「阪神大震災」と呼ばれることがある。これに対して疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けたように表現され、同様に甚大な被害を受けた淡路島北部のほか、阪神地区の周辺について考慮されていないからである[14]。『毎日新聞』には、実際に淡路島の読者から「阪神大震災」の名称に対して「なぜ淡路を入れないんだ」という抗議の手紙が届いたという[18]。震災当時、淡路島にあった津名町(現・淡路市)の柏木和三郎町長は「阪神大震災」の名称に対して、「どこで起きた地震かと、他人事のような気がする」「マスコミに厳重に抗議したいが、忙しくてそれどころではない」と発言している[14]。またNHKでは「阪神大震災」と呼ぶ際、できるだけ「淡路島を震源とする」という注釈を添えて呼ぶようにしていた[14]。
市町村 | 死者 | 不明 | 負傷者 | 全壊 | 半壊 |
---|---|---|---|---|---|
神戸市 | 4,564人 | 2人 | 14,678人 | 61,800棟 | 51,125棟 |
西宮市 | 1,126人 | 1人 | 6,386人 | 20,667棟 | 14,597棟 |
芦屋市 | 443人 | 3,175人 | 3,915棟 | 3,571棟 | |
宝塚市 | 117人 | 2,201人 | 3,559棟 | 9,313棟 | |
淡路市 | 58人 | 1,177人 | 3,076棟 | 3,976棟 | |
尼崎市 | 49人 | 7,145人 | 5,688棟 | 36,002棟 | |
伊丹市 | 22人 | 2,716人 | 1,395棟 | 7,499棟 | |
明石市 | 11人 | 1,884人 | 2,941棟 | 6,673棟 | |
川西市 | 4人 | 551人 | 554棟 | 2,728棟 | |
洲本市 | 4人 | 61人 | 203棟 | 932棟 | |
加古川市 | 2人 | 15人 | 13棟 | ||
三木市 | 1人 | 19人 | 25棟 | 94棟 | |
高砂市 | 1人 | 8人 | 1棟 | ||
南あわじ市 | 28人 | 181棟 | 415棟 | ||
三田市 | 23人 | ||||
稲美町 | 11人 | ||||
小野市 | 3人 | ||||
猪名川町 | 3人 | ||||
姫路市 | 2人 | 1棟 | |||
加東市 | 2人 | ||||
加西市 | 1人 | ||||
丹波市 | 1人 | 1棟 | |||
豊岡市 | 1人 | ||||
播磨町 | 1人 | 11棟 |
NHKによる死体検案書の分析によると、地震当日に死亡した5,036人の76%に当たる3,842人は地震から1時間以内に死亡しており、このうちの9割が圧迫死(圧死、窒息死など)だった[29]。多くは木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとみられる。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。
2階建て木造住宅の場合、「(屋根瓦と2階の重みで)1階の柱が折れて潰れるケース」が多かったが、建物が倒壊しても2階の場合は生存のスペースが残りやすく、死者は少なかった。
死者の90% 程度は圧死とされている[30]。なお、死亡に至るまでの時間も短かった。遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2,456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2,221人と92%にも上り、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた[31]。サンデー毎日による調査では、分析対象とした247人のうち47人が建物の下敷きになる一方で、家具の下敷きは2人のみだった[32]。
死者のうち20代が30代よりも200人近く多く、年齢階層ごとに死者数が増える東日本大震災と異なった様相を呈している[33]。20代が多かった理由としては、大学が多い神戸市灘区などで高齢者と同様、文化住宅など木造アパートに住んでいた学生が倒壊したアパートの下敷きになったケースが多いと見られている[34]。31の大学で111人が死亡し、特に神戸大学では学生39人、教職員2人の大学関係最多の死者を出した[35][36]。
超高層建築物はおおむね無事であった。さらに、1978年宮城県沖地震の被害を踏まえて1981年(昭和56年)に改正された建築基準法にしたがって建築されたビルは、被害も少なかった。
港町・神戸に象徴される多くのレンガ造りやコンクリート造りの古い倉庫等の物流施設の他、老朽化したビルや一階が駐車場のビル・マンションの物件(いわゆるピロティ構造)では被害も多かった[37]ものの、幸い死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは火災が発生していたが、隣戸に延焼することはなかった。
だが古いビルでは、日本ではありえないとされていた中層階のパンケーキクラッシュが多数起こり、低層ビル1階部分の崩壊、建物が土台から切り離されて倒壊するなど、今まで日本では見られなかったような被害が多数あった。傾いた状態だった柏井ビルは翌朝の余震によって完全にフラワーロードに横倒しになった。そのほかにも、神戸市兵庫区の三菱銀行兵庫支店(1968年、鉄筋6階建て)、兵庫県薬剤師会館(1967年)、第一勧業銀行神戸支店(1926年、2階建て、長野宇平治設計)が崩壊した。
兵庫県内の342病院のうち、全半壊焼失が13件であった。診療所をあわせた2,926件のうち、全壊239件、半壊270件、全半焼13件、インフラの停止による診療停止973件となり、約半数が機能を停止した。公式に数えられた負傷者だけでも35,000人である。神戸市内の災害医療機関3つのうち、西市民病院本館が全壊し中央市民病院が孤立するなど機能を失った。県立西宮病院438人、明和病院658人、笹生病院1,029人、西宮渡辺病院1,200人など負傷者で溢れかえった。逆に西宮市武庫川町の兵庫医科大学病院では救命救急センターの22人を含む274人の医師が待機したが、患者は平日の8%の約200人だけだった。
長田区にある神戸市立西市民病院は、本館5階が圧壊して入院中の患者44人と看護師3人が閉じ込められる状態になったが、生存空間があったため即死することはなかった。のちに患者1名が死亡した。他の損壊を免れた病院には多大な数の負傷者が搬送されることとなり、病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、またはほかの病院に転院させるなどして病床をできるだけ確保した。しかしそれでも病床の数がまったく足りず、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置を取らざるを得なかった。また、治療を行う医師の数も患者の数に対して圧倒的に不足していたこともあり、治療を待っている間に息絶えた人もいた[注釈 14]。
長田区海運町の高橋病院には87人の入院患者がいたが、熱風や爆発のため鷹取中学校に避難した。
神戸発祥の竹中工務店建築では、神戸国際会館7階、神戸市役所第2庁舎6階、神戸新聞会館、神戸阪急ビルが倒壊し、2,500件のビルのうち倒壊17件、大破25件、解体56件、補修217件であった。大成建設施工の明治生命ビルは、フラワーロードに2.5mせり出した。
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被災した新聞会館 神戸新聞 |
神戸新聞は本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに、編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年(平成8年)7月に神戸情報文化ビルへと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。
当時、神戸市須磨区にあったラジオ関西の本社も被災し敷地内の仮設スタジオに移転した後、1996年(平成8年)6月に現在のハーバーランドへと移転した。
芦屋市若葉町・高浜町に位置する海岸沿いの高級高層マンション群「芦屋浜シーサイドタウン」[注釈 15]では厚さ5cm、幅50cmの極厚ボックス骨が3cm程度の距離で全面破断し、52棟中25棟で57箇所の破断があった。これは想定通りの被害であったが[38][注釈 16]、重量鉄骨造の脆性破壊の、日本での初めての例であった。マンションの鉄骨はむき出しとなっており、当時の気温(0℃程度)や使用鉄骨の低温特性、埋立地で増幅された地震動の高層ビルの固有周期との一致などにより、限界を超えたと考えられている。
日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで筋交いの少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、神戸地域においては新築の瓦屋根はほとんど見られなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けている[39]。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」にもかかわらず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解されている[40][41]。
古い木造住宅は、年月の経過によって乾燥している点、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅が地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重く、なおかつ瓦の固定方法も屋根に土を葺いてその上に瓦を載せる方法が多かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる工法の住宅が高い耐震性を示している。3階建住宅の被害もほとんどなかった。
日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法で多くの即死者が出た原因は、潰れた建物の下敷きになり、生存空間がなくなったためである。分解しやすい構造のため、地震の場合瓦屋根、屋根土、土壁、床、柱がバラバラになって落下し、下敷きになって人体が潰れる。揺れが小さい場合は土壁が建物を守るが、揺れが大きい場合は土壁も破壊され落下し凶器になる場合がある。
鉄筋コンクリート造りの場合は強固な一体構造であり、大破しても柱、屋根、床はバラバラになって潰れることがない。柱は破壊されても、天井が低くなるだけで床や屋根部分はバラバラになることはなく、即死することが少ない。さらに普通のマンションの場合、壁が多く、壁が柱の役目をするので構造的に潰れにくい。マンションは大破した場合でドアが開かない、大きな亀裂が入るなど住むことはできないが、建物の下敷きになって怪我をしたり即死することはない。例外的に低層階に会社、スーパーマーケットなど窓が大きく、柱が少なく、壁の少ない構造のマンションでは一階の柱が破壊され、天井が極端に低くなった例がある。
耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1981年(昭和56年)以降で1982年頃から建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。倒壊した木造家屋の98%が旧耐震基準で建てられたものであった[42]。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者の出た住宅は1982年(昭和57年)以前の建築物件で、当時の建築基準法により設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も1996年(平成8年)・2000年(平成12年)・2006年(平成18年)に建築基準法は改正されている。
危険な合法住宅の問題点としては、古い住宅の場合は耐震性がなく危険であっても違法ではない。違法かどうかは、新築時の建築基準法に対して判断するため、新築時の法規に適合していた建物は、その後に老朽化して危険になっても違法ではない(既存不適格と呼ぶ)。たとえば、建築基準法がない江戸時代の建造物は危険であっても合法である。
3階建て住宅ではほとんど被害が出ていないのは1988年(昭和63年)に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において木造3階建ての建築は禁止されていたため、耐震性がない合法3階建住宅(古い3階建て)がなかったためである。また、日本では耐震性が不十分な住宅が国土交通省の推計より2008年(平成20年)時点で約1,050万戸(日本の住宅総数の約23%に当たる)あるといわれている[43]。
道路においては、中国自動車道や国道43号・国道2号において復旧のための車線規制による渋滞が発生した。特に、高架が崩落した阪神高速3号神戸線(第二神明道路や姫路バイパスなどと直結し、大阪 - 姫路間の連絡道路となっている。)は、長らくの間不通となった。このため、鉄道の不通と相まって単に関西を通過するだけの道路交通にも深刻な影響を及ぼし、復旧までの期間には国道9号・国道372号(両国道で、京都 - 姫路間を迂回できる。)や国道27号などの一般道に、長距離トラックや長距離バスが殺到した。当時は、被災区間を一般道を通らずに迂回できるルートが一つもなく、京阪神を通らない迂回ルートの貧弱さが浮き彫りとなった。
阪神高速道路3号神戸線(延長39.6km)の倒壊は[44][注釈 17]、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく掲載された。橋脚1,175基のうち637基、橋桁1,304径間のうち551径間が損傷したが[44]、中でも東灘区(深江地区)では全長635mにわたって高架橋が横倒しになる(17基の橋脚が倒壊)という極めて衝撃的な光景が見られた[44][45][46][47]。
「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。橋脚と道路面の接合部分が地震によって破壊されたことも確認された。そのため、「柱の上にただ乗っかっている板」のような状態になり、耐震性はほぼゼロになったと考えられる。崩落した高速道路と辛うじて残った部分との境に取り残された高速バスの写真が印象深いが、その部分ではこの事象が発生していたと考えられている[48]。
被災し破損した構造物の実物や資料などは、1999年より阪神高速が東灘区に有する震災資料保管庫にて展示されており、事前予約をすることで誰でも見学することができる[49]。
中国自動車道では、吹田JCTと西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、三重県亀山市(東海道沿線)や滋賀県米原市(中山道沿線)周辺から兵庫県姫路市(山陽道沿線)まで行くには、「迂回路」としての北近畿の福井県敦賀市(北陸地方南部)から兵庫県和田山町(現・朝来市)までを通らなければ到達できないということが指摘されている。道州制論議においてもこの北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべき」という意見が出されている。
当時建設中であった明石海峡大橋は地震による直接的な被害はなかったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上に、フランス革命200周年記念事業として日仏友好モニュメントが建設予定で、1995年1月12日に日仏の関係者約220人が参加しくわ入れ式を挙行したが、その5日後に震災が発生し事業を休止していた。しかし2015年11月に発足時メンバーの逝去や建設再開の機運醸成が難しいことから、日仏友好のモニュメント日本委員会が事業中止と委員会解散を提唱した。関係者がこれに承諾し、このプロジェクトは未完に終わった[50]。
震災直後、被災地の幹線道路で大規模な交通規制が実施された。当初は、警察署が通行許可標章を発行していたが偽造が出回り渋滞の改善が見込めないため、その後コピーのできない新たな標章「復興標章」「除外標章」への切り替え、標章の交付審査を厳格にした。交通規制は阪神高速3号神戸線の復旧に合わせ徐々に緩和され1996年(平成8年)8月には全て解除となった。交通規制実施道路は次の通りである。
震災直後からJR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は、不通区間の解消とともに順次終了された。
西宮駅 - 須磨駅間で貨物列車を含め8本が脱線したほか、鷹取駅の駅舎が半壊、鷹取工場でも39両が脱線、転覆した。駅施設関係では、駅舎が倒壊した六甲道駅を中心に高架橋や柱に大きな被害を受け、新長田駅付近の盛土が崩壊して駅設備が壊滅、全壊した。また、鷹取工場では建物が全壊したほか、検修庫や検修設備に損傷を受けたほか、土留め擁壁が倒壊するなどの被害を受けた。 神戸発富山行き「スーパー雷鳥」1号(鷹取駅まで回送中)が住吉駅で被災、三ノ宮駅700m手前で停止。10両中8両が脱線。「シュプール白馬・栂池」6号・西明石発京都行き普通列車が住吉駅 - 三ノ宮駅間で脱線した。
発生直後から全線で運転を見合わせたが震災当日に運転再開することができず、翌18日には大阪駅 - 尼崎駅( - 福知山線塚口駅)間の上下外側線と西明石駅 - 姫路駅間で運転を再開した。運転再開は、折り返しができる駅を活用して工事が進められたが、折り返しができない須磨駅・住吉駅では新規にポイントを設置し、灘駅ではその先の東灘信号場の構内配線を変更して引き上げ線とすることにより折り返しができるようにした。
西明石方面からは、ホームのある上下電車線を優先して復旧を行ったが、灘駅 - 兵庫駅間は方向別線路となっていたため海側2線(下り列車線・電車線)を優先して復旧作業を行った。新長田駅付近では被害が大きかったため、下り列車線と和田岬線への小運転線を活用して複線化している。当時この小運転線は非電化であったため、急遽電化して対応した。なお、新長田駅は駅舎が全壊したため、1月30日に神戸駅 - 須磨駅間の運転を再開しても停車せず、3月10日に仮駅舎ができるまで通過していた。
ダイヤ面においては大阪方面から甲子園口駅までの復旧時は新快速(ただし大阪駅以西は各駅停車)と普通のみ運転され、京都方面からの快速は大阪駅で折り返し運転を行っていた。新快速は大阪方面からは芦屋駅開通時に運転を開始したが、姫路方面からは3月12日まで運転されることはなかった。(ただし加古川駅 - 姫路駅間では新快速運転を行う列車は存在していた。)
震災の復旧作業の進捗によって、不通区間が徐々に短縮されていったが不通区間の東西それぞれで封じ込められた車両で運用を行わなければならず、特に不通区間の東側では車両が不足していた。そのため、播但線を迂回ルートとして車両が回送されたが、播但線は非電化のためパンタグラフなどの付属機器を網干電車区(現在の網干総合車両所)で一旦撤去し、ディーゼル機関車の牽引により福知山運転所(現在の福知山電車区)まで回送され、同所で取り外した機器類を取り付けて自力で宮原電車区(現在の宮原総合運転所)などに回送された。
しかしこの再配置だけでは車両不足が解消できず、岡山電車区・広島運転所から115系19両および森ノ宮電車区・日根野電車区の103系が運用されたほか、震災時に鷹取工場に入場していた奈良電車区の221系も運用された。また、車両の増結を行うなどし、201系は通常7両編成で運用されているが、このうち4本を4M4Tの8両編成と8M4Tの12両編成に組み替え、201系では最長となる12両編成で運転された。
六甲道駅を含む住吉駅 - 灘駅間は高架橋の崩落が最も大きな被害を受けたため最後まで不通区間として残ることになったが、4月1日に74日ぶりに全線が開通した。これにより震災後、阪神間の鉄道が初めて復旧することになり、この日に行われたダイヤ改正で新快速を増発している。六甲道駅復旧の模様は日本放送協会 (NHK) のテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』でも取り上げられた。開通区間が延長されるたびに、開通直後から路盤固めまでの暫定ダイヤと、路盤が固まってから次に開通区間がのびるまでの暫定ダイヤの2種類が造られ、震災発生から全通まで18回のダイヤ改正が行われた。
1月20日から姫路駅 - 和田山駅間ノンストップ快速がキハ65形の4両編成で1日2往復運転され、21日・22日はキハ181系による5両編成で3往復の運転を行った。23日からは姫路駅 - 和田山駅 - 福知山駅 - 新大阪駅間でキハ181系による直通快速が1往復設定され、27日からはノンストップ快速に智頭急行HOT7000系も投入して最大6往復、キハ181系は7両編成で、HOT7000系は5両編成で東海道・山陽本線が開通する3月31日まで運転された。
寝台特急も地震発生により運行が中止されたが、「あかつき」「なは」は、1月30日から播但線を経由して迂回運転が行われ[51]、新製車両の甲種鉄道車両輸送も、3月14日甲種鉄道車両8本、特大貨物2本が迂回運転された。
定期列車では、JR西日本管内の気動車はもとより五能線で運用されていた東日本旅客鉄道(JR東日本)南秋田運転所(現・秋田総合車両センター南秋田センター)に所属するキハ58系6両までもが応援運用されていた。
震災の復旧作業の進捗によってJR神戸線の不通区間が徐々に短縮されていった中で、不通区間の東西ではそれぞれに封じ込められた車両での運行を強いられたため、特に不通区間の東側の網干や西明石などにある大規模な車両基地から切り離されたJR京都線・琵琶湖線では、車両が不足していた。
だが、回送ルートとして使用できる播但線は非電化で明治時代に建造された古いトンネルが多く、開口面積が小さかったのでパンタグラフなどの付属機器を網干電車区(当時)で一旦撤去し、ディーゼル機関車の牽引により回送した後に、福知山運転所(当時)で取り外した機器類を取り付けて自力で宮原電車区(当時)などに回送された。なお、生野駅 - 新井駅間の生野トンネルは特に開口面積が小さく、トンネル内に敷設されたケーブルなどの付帯設備などに当たらないよう速度を落とし15 km/hで通り抜けた[52]。
網干電車区からは震災による損傷が復旧して出場し、所属区所に回送された車両とあわせて149両が、また不通区間の西側での輸送力増強のため広島運転所と日根野電車区の103系8両が吹田工場(当時)から網干電車区に回送された。このほか、4月20日のダイヤ改正にあわせて新装された681系・207系も同様に播但線経由で回送された。
迂回ルートで最も重要な線区として、最優先で福知山線の復旧作業が行われた。福知山線では川西池田駅 - 中山寺駅間の被害が大きく、地震発生の1月17日には広野駅 - 福知山駅間が開通し、その後順次運転を再開した。
輸送力の確保のため運転開始直後から臨時列車が運転され、5時30分から21時まで、1時間につき1本か2本の臨時列車を最大42本運転し、特急「北近畿」の増結も行われた。大阪駅を発着としていた特急列車は、東海道新幹線との接続のため3往復を新大阪駅発着で運転し、このほかに「北近畿」15号は福知山駅 → 和田山駅間で延長運転し、播但線との接続を改善した。またJR神戸線が全通した4月1日以降も4月17日まで、新大阪駅延長運転が2往復、和田山駅延長運転が行われた。
JR神戸線で運行されていた貨物列車の迂回運転も行われた。が、福知山線や山陰本線の和田山駅 - 湖山駅間では貨物列車が運転されなくなっていたため、重い貨物列車を毎日運転するには問題があり、乗務員の養成や設備の一部改良の必要性があったが、福知山線・山陰本線・伯備線を経由して2月11日から迂回運転が開始された[53]。貨物列車が運転されていなかった区間の迂回貨物列車の乗務は、JR西日本が担当した[54]。なお、ダイヤ改正にあわせた新製車両の甲種鉄道車両輸送も3月14日から8本、特大貨物2本が迂回運転された。
加古川線は播但線よりも迂回距離・所要時間も短いが、ワンマン運転が主体の線区で列車の行き違いのため編成両数が制限されること、および谷川駅の福知山線と加古川線を結ぶ構内配線が非常用の分岐器しかないことから福知山線への直通運転ができず、線内列車の増発および増結で対応した。加古川線では西脇市駅で運行形態が分かれており、西脇市駅で乗り換えが必要であったが、乗り換えを解消して直通列車を設定し、震災前に9本しかなかった直通列車は同年2月6日には45本に増加し、ほとんどの列車で直通運転が行われた。このほか、加古川駅 - 谷川駅間で快速も運転された。
山陽新幹線においては、橋脚の倒壊と倒壊箇所の調査から手抜き工事の痕跡が見つかっている。
東海旅客鉄道(JR東海)でも東海道新幹線の京阪間の一部で橋脚に亀裂が見つかったため、震災直後は京都駅 - 新大阪駅間で徐行運転(170km/h程度)を行っていた。
西日本旅客鉄道(JR西日本)はどの私鉄よりも先に急速な復旧を遂げて、最初に全線での運行を再開した。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった[55]。「資本力の違い」「旧国鉄線だったため、線路脇に比較的余裕があり作業が行いやすかったこと」「旅客列車のほか、貨物列車も往来する物流の大動脈でもあったこと」「全国のJRグループから応援を呼んだこと」などが要因とされる。
被災地区を運行する鉄道路線のうち、もっとも南を走行する阪神本線は、おもに東灘区から灘区における高架構造である区間に大きな被害を受けている。特に大きな被害を挙げると、御影駅西方の留置線の車両が横転して大きく損壊した。石屋川車庫も崩壊し、地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車両が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が高度経済成長期の1967年(昭和42年)に竣工した物件であり、耐震構造が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。この区間においては数箇所で鉄橋が落下し、南北に至る道路が遮断された。新在家駅付近では高架橋下を土地貸ししていたこともあって、復旧過程で借主に取り壊しの承諾を得るため避難先を回ったり、近隣住民から高架橋共々自宅の瓦礫も片付けてほしいと要望を受けたりしたという[57]。こうした阪神の被害状況は日本各地の橋梁において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなっている。
なお、三宮付近の地下区間で運行中に被災した車両と合わせて、41両の車両が一挙に廃車され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。このため、復旧車両や新造車両の導入も当面は尼崎車庫の容量で賄える範囲にとどまり、JRや阪急が開通と同時に震災前ダイヤ比で増発を行ったのに対して、阪神は減便ダイヤでの運転再開となった。他の事業者も線路や施設に大きな被害が出たものの、車両面で車庫1個級の被害を被ったのは阪神だけである。
神戸市内中心部では、2月1日に阪神・神戸高速線が三宮駅 - 高速神戸駅間でピストン運転をしていた[60]。このピストン運転は2日前に運転再開された神戸以西のJRと連絡することで被災者の大きな足となった。2月下旬には阪急御影 - 王子公園、阪神岩屋 - 三宮間がそれぞれ復旧し、先に復旧していたJR住吉以東・阪神青木以東からこれらのルートを乗り継いで大阪方面から神戸市内に向かうことができた。特に阪急の同区間はJRの全線開通まで振替輸送先に指定された。一方で液状化現象が発生したポートアイランドや六甲アイランドを通る神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)や六甲アイランド線(六甲ライナー)の復旧には相当な時間を要し、再開予定を1ヶ月前倒しした前者で7月31日、後者は8月23日に全線開通した。
神戸経済にとって大きな収益源である神戸港も被害を受け、多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区のポートアイランド、東灘区の六甲アイランド、芦屋市の芦屋浜、尼崎市の築地地区など埋立地を中心に、地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。
神戸港にはフェリーなどが四国・九州方面を中心に多く発着していたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的には大阪南港などに発着地を変更して運航されていた。
陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして、その後機能した。また、ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて、大阪 - 神戸間、神戸 - 西宮間など短距離の臨時航路も整えられ、代替交通機関として疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行った。残された海岸部分を利用して、医療物資などの搬入も優先的に行っていた。多くの手助けのもと、2年後の1997年(平成9年)3月31日に、全ての埠頭・コンテナバースが復旧した。そして、同年5月19日に「神戸港復興宣言」が発表された。
揺れの激しかった大阪国際空港(大阪府豊中市・池田市と兵庫県伊丹市)では滑走路・誘導路に亀裂が生じた。空港ターミナルビルも外壁などが損傷した。震源から離れた関西国際空港(震災発生前年の1994年に開港)も空港ターミナルビル・関西空港駅・駐車場エリアにて建物の損傷が確認された。しかし、両空港ともに航空機の運航等に影響は出なかった[61]。特に、被災地の大阪国際空港では、その日のうちに、警視庁や東京消防庁、自衛隊、アメリカ軍、政府チャーター便の機体が支援に多数飛来した。さらに、特別措置として大阪国際空港は通常7時〜21時の運用時間制限を設けているが、運用時間外になる21時台の臨時便を運航させるなどして復旧・復興に協力した[62]。
特に神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大だった。全体で7,000棟近い建物が焼失している。火災旋風は、発生しなかったとされている[63]。消防庁の資料によると[64]、地震後に計285件の火災が発生している。うち7割は地震発生当日の火災だが、6時までの出火件数が87件と地震発生から一定時間が経過した後の発生が相当数ある。出火原因が判明したのは全体の約半数で、最も多かったのが電気による発熱体の85件で、ガス関係の13件、火種関係の12件と続いた。地震翌日以降の出火では、送電の再開に伴うものがかなりあったとされている[注釈 19]。
消火活動では上水道が断水したため、わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。断水で水が出ないホースを持ったまま、炎の近くで立ち尽くす消防士の姿が報道映像として残されている。また風によって巻き上げられた火の粉により、消火活動が困難になった地域もある[63]。火の手が大きくなりすぎて消火困難と判断した場合は、火勢に任せるまま消防員の判断で罹災者らの安全誘導を優先する「放任火災」と呼ばれる消防活動に切り替えられた。被災地近辺で放任火災活動が行われたのは、戦時中の明石空襲以来となった。一方、周辺住民が主体となり機械に頼らないバケツリレーによる消火(延焼防止)活動も行われている[65]。
放任火災活動と併せて国道2号線・28号線などの大通りに消防隊を配備し、鎮火活動より延焼拡大を防ぐ活動が精一杯だった。17日午後からは各地から応援で駆けつけた消防隊員も加わってようやく鎮火活動に動き出した。消防隊は付近の新湊川、兵庫運河にホースを伸ばし、徹夜で放水活動を行った結果、完全に鎮火したのは2日後の19日であった。
震災後、兵庫県・神戸市では、防火貯水槽の整備、消防へのヘリコプターの活用が検討されている。なお、ヘリコプターによる空中消火を見送った理由として、神戸市消防局は火災の規模や建物の構造を考慮すると困難かつ効果が見込めず、飛行中のヘリコプターや地上にいる人々に危険が及びかねないことを挙げている[66]。
地震発生後、消防・警察・自衛隊などの各組織は救助活動に入っているが、いくつかの問題点も指摘された。
この災害で、一般にはあまり知られていなかった「挫滅症候群(クラッシュ症候群)」が広く知られることとなった。
消防庁や警察庁が調整を行って全国の消防・警察から応援が現地に送られていたが、交通渋滞に巻き込まれずに到着した人はほとんどいなかった。到着出来ても、大規模災害に対する技術・知識・装備・機材どれも満足とは言えない状況だったため、活動は難航した。
東京消防庁は、航空隊の消防ヘリコプターによりいち早く特別救助隊を被災地に派遣して成果を上げた。当日11時、八王子消防署特別救助隊に対し、ヘリコプターで直接神戸市に出動せよとの指示があり、大型ヘリ「ひばり」で現地に向かった。手持ち可能な器具のみの持ち込みであったが、孤軍奮闘した。
都市部の消防・警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助などの活動は円滑とは言えなかった。一方、淡路島においては「地元の消防団および近隣住民が中心となった救助活動」が行われた。特に北淡町においては、発生から約11時間で捜索救助活動および遺体収容が完了している[67]。建造物や人口の密度を勘案すれば、神戸市街地とは救助に要する時間を単純に比較はできないが、地震発生直後における近隣住民などの地域コミュニティーによる救助活動の重要性を示している。
瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、防災機関の(救急ヘリ)での搬送も少なかった(震災当日のヘリ搬送:西宮市にて1名のみ)。この搬送は大阪市消防局から緊急医薬品輸送に従事した機体が帰りに搬送したものである(62人/1週間(内、17人/3日間))[68]。ゆえに、負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。
消防・警察は、この地震を教訓に全国の応援体制として緊急消防援助隊(消防)と広域緊急援助隊(警察)をそれぞれ創設し、東京消防庁は消防救助機動部隊(通称:ハイパーレスキュー)を、横浜市消防局は機動救助隊(現在の特別高度救助部隊:スーパーレンジャー)を創設することになる。
自衛隊については、地震発生数分後には行動を始めたものの、阪急伊丹駅へ近傍派遣(災害派遣)を行った第36普通科連隊を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は、「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)によって出動しているが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)の待機状態になっていた。
発生から数か月の間の自衛隊報道については様々な内容のものが存在する。批判もあれば過度の期待をにじませた内容もあるが、一部については事実と異なるとして、防衛庁広報誌『セキュリタリアン』にて反論が行われている。下記に、同誌で否定された項目を列挙する。カッコ内は同誌が批判した報道(同誌は紙誌名の特定をしていないため、全て「某〜」といった表記になっている)。
なお、「指摘した事項はほんの一部」と記事は結ばれている[69]。
全国から様々な形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義援金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他地域の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。
復興事業では、ライフラインの復旧が最優先とされた。電気はほとんどの地域で3日から1週間程度で復旧が可能だったが、地下に埋まっている水道・ガスの復旧に長期間を要した。また神戸市では、当時水道局があった神戸市役所2号館6階が7・8階に押し潰されて被災したため、即時に資料が用意できず、水道管の経路情報の把握に時間を要するなど復旧に影響を及ぼしたとされる。その後、2号館は6階〜8階までを撤去し、5階建てとして修復されており、水道局も4号館に移転している。
復興支援物資の輸送も全国各地において受け付けられた。一方、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して被災地と大阪市を結んでいた。
神戸近郊の道路でも、「神戸市に行く」といえば交通整理などで最優先に通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面が見受けられた。
建造物の本格的な復興事業が開始されたのは、翌月に入ってからである。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートしていた[注釈 21][注釈 22]。
家が全・半壊した住民は学校や公共機関の建物に避難した。
被災地の学校の多くは休校を余儀なくされた。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また公園にテントを張ったり、自家用車において寝起きしたりする人もいた。震災当初は公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。
震災発生後1か月を経て、プレハブ工法による仮設住宅が建設されて入居が始まった。しかし、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始に合わせて解消するために都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置が取られたり、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。
その後、復興支援住宅(災害復興住宅)と呼ばれる高層の恒久住宅の建設が、兵庫県によって行われた。仮設住宅よりもプライバシーが守られる反面、近所付き合いのコミュニティが形成しづらいこともあり、孤独死の問題も増えた。水道が長時間使われない場合に自動で警告を知らせるシステムなどで防ごうと対応している所もある[70]。
これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数によって行われたこともあり、その精度の荒さが指摘されている。
政府側の対応が遅れる一方で、民間企業からの支援活動が目立った。
企業以外の団体による支援活動としては救世軍、神戸に総本部を置く日本最大の暴力団組織・山口組、阪神地域で強い影響力を有する宗教団体の崇教真光・PL教団・天理教・創価学会・金光教・ワールドメイト[73]・2か月後に地下鉄サリン事件を起こすオウム真理教といった組織・団体が、食料や飲用水の供給・便所・風呂・避難場所の提供などの積極的な支援を行った。
その他、渡哲也・渡瀬恒彦兄弟や河島英五、嘉門達夫、プロレスラーのジャイアント馬場、田中康夫[注釈 23]、当時阪神タイガースの現役選手だった南牟礼豊蔵、弓長起浩といった関西にゆかりがある芸能人・タレント・文化人も現地入りし、炊き出しや支援を個人単位で行っている。
NHKや民間放送各局は、震災発生1週間前後の時期から全国の視聴者に募金を呼びかけるようになった。NHKと在阪民放局の毎日放送などは、日本赤十字社の義援金受付口座を震災報道番組の中で連日紹介し募金を呼びかけた。そして、その集積を地元自治体に寄付するなどして被災者支援を側面から支えた。
3月7〜9日には、東京の日本武道館にて有志のミュージシャンによるチャリティーコンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催されて収益が全額寄附された。公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、自らのコンサートやラジオ番組での募金などの取り組みがなされた。復興と重なり合って日本のジャズ教育が活発化する拠点ともなっている(神戸はジャズが日本での第一歩を記した地として知られる)。
中央競馬では6月3日、4日の京都競馬(1月21日、22日中止分の代替開催。4日にはGI宝塚記念が行われた)、翌1996年(平成8年)7月7日の中山、阪神(前年同様宝塚記念が組み入れられた)、札幌競馬が復興支援開催として催されて馬券の売り上げの一部が寄付された。
1月29日に開催を予定した大阪国際女子マラソンが中止となり、発注していた選手用のゴールタオルが被災地の避難所へ寄贈された[74]。
日本国郵政省(現在の日本郵便)が、1995年(平成7年)4月20日に阪神・淡路大震災寄附金付切手を発売した。これは額面80円の切手を100円で販売し、差額の20円を震災支援の寄付金としたもので、額面は「80+20」と表記されていた。ただしデザインは準備が間に合わなかったため、例年発行されている「切手趣味週間」の切手に便乗する形になった。そのため、デザインは金島桂華の絵画『画室の客』[75] であり、被災地に全く関係ないものとなった。印刷数5000万枚のうち約4728万8000枚が販売され、諸経費を除いた9億4000万円が地元に配分された。その後、郵政省は2000年(平成12年)12月22日発行の「20世紀デザイン切手」の17集の中で、同震災のことを題材にした切手[76] を発行している。デザインは復興のシンボルとされた手塚治虫の「火の鳥」と阪神・淡路地区の地図と倒壊した高速高架道路をイメージしたものであった。
地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は1日平均2万人超、3か月間で延べ117万人ともいわれる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む。)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者のための献血・義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものとみられる。
このために、この年は日本における「ボランティア元年」ともいわれる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めた。
この震災で、ボランティアに関わった人々の中には精神的に大きなダメージを負ってしまった人も多かった。被災した人々のケアだけでなく、ボランティアの心のケアもとても重要なことであることが明らかになった初めてのケースになった。
関東大震災が起こった際の帝都復興院に相当する組織となる「阪神・淡路復興対策本部」(初代本部長は当時の村山富市首相)が、2000年(平成12年)までの5年間総理府に置かれた。また、「阪神・淡路復興委員会」(委員長は下河辺淳)も設置され、前述の対策本部への提言などで連携した。
戦災復興都市計画による土地区画整理事業が完了しようとしていた時期に震災が起こり、戦災を免れたことによって戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた[77]。復興に当たっては、1976年(昭和51年)10月29日に発生した酒田大火の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。
政府が「非常災害対策本部」の設置を決定したのは、午前10時(地震発生から4時間14分後)からの閣議中であった。村山首相は地震発生直後にテレビ(6時のNHKニュース)で大地震を知っていたが、国土庁(当時)からの初報は7時30分頃になった。村山首相も開会が迫っていた通常国会への対応や予定通りの公務をこなしながら、災害対応を行った。
当時、首相官邸をはじめとする政府および国の機関が、直接に被災地域の情報を収集する手段は整備されておらず、地方自治体や各省庁の地方支分部局、自衛隊の部隊などから本省等へ上げられた情報を迅速に集約する体制も収集した情報を内閣総理大臣等へ通報する体制も整っていなかった。そのため、テレビやラジオなどの報道機関が最大の情報源となり、集約整理されていない情報を基に、各機関が行動する体制となっていた。災害対策の所管官庁とされていた国土庁にも独自の情報収集手段はなく、関係省庁に上げられた情報を集約することも十分にはできなかった[注釈 24]。初動の被害情報収集に当たる警察も、警察庁と兵庫県警察を結ぶ通信網がほとんど機能せず、警察庁から兵庫県警本部長に連絡がついたのが地震発生から約3時間後になるなど、情報収集が遅れた[78]。
「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源であった。国土庁が独自に情報収集手段を持たず、また関係省庁からの情報の集約を十分に行えなかったことから情報が官邸に十分伝わらなかったという制度上の問題点が指摘された。」 — 阪神・淡路大震災教訓情報資料集[79]
内閣総理大臣であった村山富市首相には地震の一報がかなり早い時点で入ったものの、これは村山首相が地震発生直後にテレビでニュースをたまたま見ていたこと(6時のNHKニュース)によるもので、秘書官等から詳細な情報を上げることは遅くなった(首相への第一報は7時30分とされる)。村山首相は、首相公邸[注釈 25] におり、8時26分に首相官邸に歩いて様子を見に行き待機したが、誰もおらず特に情報も入らず、また公邸に戻った[80]。その後、不完全ながらも随時上げられる情報により未曾有の大災害であることが明らかになりつつある中でも、村山首相は開会が差し迫った通常国会への対応や懸案となっていた新党問題(山花貞夫グループ)、財界首脳との食事会など予定通りの公務をこなす傍ら災害対応を行ったため、十分な対応を行わなかったのではないかという疑念を生んだ。
兵庫県庁の屋上にある衛星通信設備[注釈 26] が十分に作動しなかったこと、最大震度(震度6、818ガル)を記録した神戸海洋気象台[注釈 27] の記録が送信されなかった[注釈 28] ということがあったが、この「震度空白域」への対応は十分なものではなかった[注釈 29]。震度6の情報が国土庁や消防庁に入ったのは6時19分であった。
気象庁のデータ回線が途絶し神戸海洋気象台と津名測候所の震度情報が自動的に送信されず、津名測候所の震度情報は機器が故障していたため職員の体感で震度6を判定用の無線回線を通じて大阪管区気象台へ通報され、神戸海洋気象台の情報は気象衛星を利用した衛星電話で通報された(気象衛星の中に気象庁専用の衛星通信回線が用意されている[81])。
二階俊博衆議院議員「(略)最初にお尋ねしますが、国家の最高責任者である村山総理は、17日の5時46分ごろ兵庫県南部で発生した震災を、いつごろ、どこで、だれから報告を受けられ、どのような対策を指示されたのかをお伺いいたします。なお、災害発生当日の総理御自身の御日程についても明らかにしていただきたいのであります。この際、この最初の総理への報告内容がいかなるものであったのかが重大な問題であります。当初これほど大きな災害に及ぶという認識に欠けていたのではないかとの疑問を抱くものであります(後略)。」 村山富市内閣総理大臣「(略)私は、この地震災害の発生直後の6時過ぎのテレビでまず第一に知りました。直ちに秘書官に連絡をいたしまして国土庁等からの情報収集を命じながら、7時30分ごろには第一回目の報告がございまして、甚大な被害に大きく発展をする可能性があるということを承りました。この報告を受けまして、さらにその被害状況の的確な把握をして連絡をしてほしいということを要請するとともに、何よりも人命救助を最優先に取り組んでくれ、同時に、火災も起こっておりますから、消火に全力を尽くせということも指示をいたしたところでございます。10時からの閣議におきまして非常災害対策本部を設置いたしまして、政府調査団の派遣を決めるなど、万全の対応をとってきたつもりでございます。(後略)」 — 1995年(平成7年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)
さらに、村山首相は、地震発生3日後に開かれた衆議院本会議の代表質問に対する答弁の中で、政府の情報収集の遅れと危機管理体制の不備を問われ、「何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われます」と答えたため、強く批判された。
二階俊博衆議院議員「(略)災害発生時の事態の掌握のおくれが自衛隊の出動に大きな影響を及ぼしていると考えますが、県からの要請があろうがなかろうが、国土と国民の安全を守る崇高な任務を持つ自衛隊の出動について、タイミングや規模等について判断に重大な誤りがなかったのか、大いに反省の必要があります。と申し上げるのは、生き埋めの人が200名ばかりおるので直ちに自衛隊の出動をという新進党の国会議員の要請に対し、地震当日の朝、…の段階においては防衛庁幹部はこの事態を承知していなかったという重大な事実があるからであります。自衛隊の最高指揮官としての村山総理は、救援の初動活動において、人命救助最優先の立場からもう少し積極的なしかも迅速な指揮がとれなかったのか、悔やまれてならないのであります。(拍手)政治責任もあわせて、この際、総理の御見解を伺いたいのであります。高秀横浜市長は、…大都市の首長の立場から政府の危機管理体制の不備を指摘しておられますが、国民のだれもが同じ思いであります。村山総理はこれらの声をどのように受けとめ、みずからの責任の重大さをいかに感じておられるか、重ねてお尋ねをいたします。(後略)」 村山富市内閣総理大臣「(略)次に、政府の危機管理体制についての御質問でありますが、災害発生時におきましては、関係機関に対する迅速かつ的確な指示が実施できるよう政府の防災体制をとっているところでございまして、自衛隊等の対応につきましても、発生後直ちに伊丹で第36普通科連隊が災害派遣を実施してきたところでございます。また、災害対策を円滑に実施するため、地方公共団体に対しましても必要な指示や要請を行ってきたところでございます。しかし、今から振り返って考えてみますると、何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまするけれども、いずれにいたしましても、防災上の危機管理体制の充実は極めて重要な課題であると認識をしておりまして、今回の経験にかんがみながら、今後見直すべき点は見直すこととして、危機管理体制の強化に努力をしてまいりたいと考えているところでございます。(後略)」 — 平成7年(1995年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)
その一方で、当時歴代在任日数最長の内閣官房副長官として官邸に重きをなしていた石原信雄は、「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外のだれが内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」[82] と述懐し、村山の言動を擁護している。一方で石原は「災害対策基本法など、その他の法令で内閣が直ちに行動を起こすようなシステムになっていなかったのは、これは残念ながら事実ですし、その原因は社会党なんです。社会党が内閣権限強化にずっと反対し続けたわけです。内閣が機敏に対応することを嫌ったわけです」と[83] と回顧している。一方、当時の警察庁長官だった國松孝次は「非常に悔いの残るのが情報収集についてです。担当部署を通じて被災地の情報を収集し、それを官邸や関係機関に共有する。いま、どこでどういった被害が発生しているのか、こうした初動での情報収集は警察の役割なんです。ところが、それに思いが至らなかった」と回顧し、「やはり私が官邸に被災地の情報を共有し、災害対策本部の設置を急ぐよう伝えるべきだった」と述べている[78]。
貝原俊民・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかった。これは「貝原知事が情報を座して待っていたこと」「(各所轄の警察署単位で調査した被害情報を取りまとめる立場の)兵庫県警察本部警備部から貝原知事への報告も少なかったこと」が原因だった。
例えば、東灘警察署だけでも8時に「死者100名以上、行方不明者数百名」という情報を把握していたにもかかわらず、本部警備部が知事への報告を地震発生後2回しか行わなかったため、10時の段階で知事に伝わっていた兵庫県全体の被害情報は「死者4名」というあまりに現実とかけ離れたものだった[84]。
貝原知事は「被害情報が正しく伝えられていれば、即座に自衛隊派遣要請を出来ていた」と答えている[84]。逆に、貝原知事が即座に派遣要請を出していれば、建物の下敷きとなり圧死した犠牲者の数はさらに減っていたという意見もある。また、知事以外の首長が要請を出すことは許されないという、当時の法制の不備も原因している。
一方で、貝原知事は後年、「自衛隊と交信ができなかった。8時の段階で、姫路の連隊からこちらの係員にやっと通じた。『大災害だから、準備を。すぐ要請するから』と言ったところで切れて、それ以降、連絡が取れなかった。いまだから言ってもいいと思うけど、出動要請が遅かったというのは、自衛隊の責任逃れですよ」と述べ、出動要請遅延の責任は自分ではなく自衛隊にあると発言した[85]。
こうした状況把握の混乱の中、派遣要請は、地震発生から4時間後に自衛隊との電話が偶然繋がった野口一行・兵庫県生活文化部消防交通安全課課長補佐兼防災係長(当時)の機転で行われ、知事へは事後承諾となった[注釈 30]。
これを教訓として、自衛隊への派遣要請を都道府県知事のほか市町村長または警察署長などからも行えるよう、後に制度が改められた。
兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であったことは前述の通りであるが、地元選出衆議院議員・高見裕一(新党さきがけ議員)も神戸市東灘区住吉山手にいて、JR住吉駅まで歩いて行き被災状況を直接目にしていた。県知事からの派遣要請がなされていないことを知った高見議員は、携帯電話で東京の議員会館にいる秘書を通じ、8時40分に防衛庁に緊急要請を行ったが、東京では「“大げさだ”」「非公式」「未確認情報」との認識しかされていなかった[87]。高見議員は、さきがけ代表・武村正義大蔵大臣、社会党の五島正規衆議院議員にも8時30分に電話で連絡し、社会党の土井たか子衆議院議長に連絡をとろうとしたが、不在で秘書に連絡した。折り返しの連絡はなかった。
初動対処が遅れた原因として左翼的思想の影響を指摘する論評もあった。批判で指摘されたのは、社会党の反自衛隊思想、被災地である兵庫県をはじめ京阪神地域が革新勢力の票田であること、社会党を支持している全日本自治団体労働組合(自治労)の影響などといった主張だが、憶測やこじつけも多い[88][89]。『産経新聞』は1月28日、1面コラムにて社会党が野党時代に自衛隊の廃止を誓ったことを挙げて批判した。国内の批判は日系資本の英字紙[90] や海外メディアでも伝えられた[91]。内容的には初動期を通り越して復旧に着手するまでの期間全体を対象としたもの[92] もあれば、自衛隊への出動命令や発生から数日間の首相のリーダーシップの問題に重きを置いた内容もある[93]。ただし地震発生当時の内閣は自社さ連立政権下にあり、日本社会党は自衛隊を合憲と認めていた。また小沢潔国土庁長官と後に震災対策担当相に任命された小里貞利もいずれも自由民主党所属の国会議員であった。当時運輸大臣だった亀井静香は「自衛隊出動が遅れたのが社会党政権だからだと批判されたが、それは当たらない。まず自衛隊を認めていたし、運用する大臣は自民党で固めていたからだ。すぐに自衛隊を出動させようとしたが、残念ながら、当時法的には自治体から要請がないと出ていけなかったため、待機させることになった。実際の出動は、要請が来てから、午前10時になってしまったのだ。当初、復興計画は、おおよそ4年、早くて3年は難しいと思われたが、村山さんは「ただちに復興だ。金に糸目はつけない。2年計画でやる」と言った。これにはみんなびっくりした。それだけではない。「復興にあたっては元の港にするのではない。新しい大型の港にする。」と村山さんは言った。壊れたものを元に戻すのではなくもっといいものに作り変えてしまおうというのだ。村山さんは、担当をすべて任せて、責任は自分が取るという覚悟を持っていた。その後の復興ぶりを見れば村山さんの功績は明らかだ」[94] としている。
村山元首相は、1997年(平成9年)8月に行われたインタビューにて次のように述べた。
山川「たとえばアメリカの市会議員や神戸市の市会議員の場合、私たちの調査によると、かれらが選挙のことをかなり強く意識して行動したことが明らかになっています。それは政治家としては当然だと言えようかと思いますが、先生の場合は、いかがでしたか?」村山元首相「私は選挙のことを全く考えなかった。また考えるべきではないと考えていた。首相としての仕事に全力を投入するべきだと信じていました」
山川「(中略)たしかに危機管理の目的は、第一義的には、たしかに住民・市民を救済することで、政治的な目的とは区別されなければならないでしょう。しかし、言葉は熟しませんが、シンボリック・ユース・オブ・パワーといったようなことがあるのではないでしょうか。つまり、首相のような、権力を持った高い地位の人の行動が、国民に印象深い、象徴的で暗示的な作用をおよぼすということ。その行動から、被災者のことを親身に心配してくれているのだな、と国民が直感的に理解するような行動。そこから生まれる首相と政府への信頼感。その信頼感が首相をささえる与党の選挙における支持につながり、得票数を増やす、ということがあっても構わない、と思うのですが……」
村山元首相「まあ、そういうこともあったかも知れません……。被災地での両陛下のお見舞いの態度のご立派なことに本当に感服しましたが、私の場合は、現地に行って被災者をお見舞いしたとき、どうもマスコミ関係者たちの雰囲気がよくなくて、なんだか苛々した感じを味わったことを思い出します……。訪れた避難所が板敷きで、被災者の皆さんが椅子に腰をかけておられたので、中腰でお見舞いの言葉をかけたところが、新聞などで『高い姿勢だった』と報道されたりして、難しいものだと感じた、というようなこともありました……」 — 山川雄巳「阪神・淡路大震災における村山首相の危機管理リーダーシップ」『関西大学法学論集』47巻5号 1997年12月
2006年(平成18年)に『大分合同新聞』が大分大学と共同で行った連載企画「明日を守る―防災立県めざして―」では、責任について次のように語っている。
被災地との通信網が途絶え、誰も情報をつかめなかった。当時、官邸には二十四時間体制で、災害や事故に対応する機能もシステムもなかった。アメリカのように、人口や地形、産業の分布などからコンピューターで地震被害を想定し、対応する仕組みもなかった。
国の行政としては人命の救助が第一。官邸がいち早く被害を把握し、手を打っていかねばならないが、あのような大地震が起きることは想定してもいなかった。突発的な大災害に、緊急対応できる行政の仕組みそのものがなかった。初動対応が遅れた、と責められても弁明の余地がない — 「明日を守る-防災立県めざして- 第5部 行政の役割 当時首相 村山氏に聞く」『大分合同新聞』[95]
村山元首相は2012年に出版した回顧録で次のように述べた。
あの地震があった時、僕は公邸にいて朝六時のNHKのニュースを見た。トップニュースは山花氏が国会の会派を出るというニュースだった。神戸の映像は映ってなくて、地震のあった京都など二~三か所が報道されていた。震度は5とか6とかいっていた。神戸の方が被害は大きかったのだが、通信機器が壊れて連絡ができなくなっていたためか、ぜんぜん情報が入ってなかった。僕はすぐに京都の知人に電話したんだが、「震度は大変大きかったけど、幸い被害はなかった」と言うのでそれはよかったと言って安心した。そしたら、しばらくして災害を担当する秘書官から電話があった。(中略)「神戸の方で地震がありました。大変大きいようです。まだはっきりとした情報がないのですが、大きな被害が出たそうです」と報告してくれた。
(中略)
当時はこうした災害時の政府の対応がきちんと整備されてなかった。首相官邸には二四時間対応するシステムはなかったし、担当の国土庁には当直制度もなかったんだ。神戸との連絡もお昼近くになって初めてとれた。対応が遅れたと言われると弁解の余地はない[96]。
厚生省(当時)は、2月上旬から国立病院の医師、看護師、ケースワーカーなどを現地に派遣し、災害地の医療を側面から支援する対策を行った。ただし、これについては、各地の国立病院職員(医師、看護師、他)たちが、震災直後からボランティアとして現地に急行する希望を出していたにもかかわらず、厚生省が直ちにはこれを認めず、派遣が大幅に遅れたことへの批判がある。
日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったことや、危機管理体制の欠如・縦割り行政といった行政上の様々な弊害が現れた。
最も、政府の初動が実際よりも早かったとしても震災の被害規模は大差が無かったのではないかとの指摘もある。防災科学技術研究所の理事長を務めた岡田義光によると、死者の90%は木造家屋の倒壊によるもので、うち80%は午前6時までに亡くなっており、ほぼ即死の状態だった。昭和30年代以前の建物に倒壊が多く、昭和40年代後半ごろまでの建物は大破、昭和50年以降の建物は被害が少なかったことから、すべての建物が1981年の新耐震設計法に適合してつくられていたら、死者は200 - 500人ほどだったとの予測もある[97]。
出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者が犇めく中で部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、現地に到着したLO(Liaison Officer、連絡幹部)が状況を把握してから大規模な災害派遣部隊が現地に展開されて救助活動を開始するまでに3日間を要した(政治判断に3日を要したわけではない)。
最も早く救援体制を敷いたアメリカ海軍第7艦隊(横須賀)が、「艦艇を神戸港に入港させてのヘリコプターによる負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸市の受け入れ体制の未整備・政治的理由・接岸施設の被災による危険性などの要因により、拒否する事態を発生することとなった。しかしこの対応が特別であったわけではなく、当初から各国からの支援の申し出にも政府として対応できていなかった。アメリカ政府は空母インディペンデンスの提供を申し出たが、「あの時点では毛布であり水であり、そういうものが緊急である」との判断から日本政府はこの申し出を拒否した[98]。
震災の情報は報道に大きく取り扱われ、発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼすべてのチャンネルが全日にわたって震災関連の特別番組となり、CM もほとんど放送されなかった。ただし地震発生後2-3時間は各社とも全容がなかなかつかめず、行政の初動の遅れの一因となった。近畿広域圏以外のテレビにおいては、顕著な被害が明らかになった17日午後以降になってより大きく扱われた傾向が見られ、報道特別番組が放送された。
神戸新聞社は地震により本社社屋が全壊。新聞編集用コンピュータシステム(CTS、社では「ホストコンピュータ」と呼んでいた)の機器および専用高圧電源が損傷し、新聞編集が不可能になったものの、前年に京都新聞社と締結していた災害時相互援助協定を発動。8時半にようやくつながった電話(同日夕方に途絶)で情報を送ったほか社員を京都へ派遣[105] し、同社社員とともに見開き4ページの夕刊を編集し制作した。印刷用原版のフィルムは京都新聞の下請け運送会社の社員がオートバイで6時間かけて神戸市西区の印刷工場まで輸送し、当日19時31分、夕刊発行に成功した(20時頃に刷了[105])。その後、しばらくは京都へ社員を派遣しての制作が続いたが、全国の新聞社からの機材支援や取引先の全面協力により、10日後に一部のシステム再稼働に成功している。
デイリースポーツは、日本経済新聞社および関連会社の全面協力を受けて東京で紙面を作成し発行を継続した。
当時、日本のインターネットにおいて商用・個人利用はまだ始まったばかりであった[106][注釈 39]。また前述のとおり、電話回線も他のインフラ設備と同様甚大な被害を受けており、接続の切れたネットワークもあった[108]。
被害を受けた関西ネットワーク相互接続協会(WINC)やSINETのネットワークは、経路設定の変更[注釈 40]などにより、地震発生翌日には一部が復旧した。その後神戸市外国語大学のサーバーから積極的な情報発信がおこなわれ、日本国内外のマスコミにも報道された[108]。またこれに先立って奈良先端科学技術大学院大学では、地震発生当日から情報発信をおこなっている[109][注釈 41]。
大手パソコン通信ネットワーク(「ニフティサーブやPC-VANなど)は無料の「地震情報」コーナーを臨時開設し、当日中に数千件の安否情報が寄せられた[108]ほか、パソコン通信は大学の休講状況などの情報交換に役立った[要出典]。これはアクセスポイントの変更により、接続状況が悪い地域でも情報にアクセスできるパソコン通信の利点が活かされたものである[108]。
その後もNTTが日本文字放送提供の死亡者名簿をウェブ上で公開するなど、様々な企業・団体がウェブやニュースグループを通じて情報の交換・発信をおこなった[109][注釈 42]。これ以降、コンピュータネットワークの商用・利用に、マニア以外からも目が向けられるようになっていくこととなった[要出典]。
震災から26年経過した2021年現在では、広く一般的に普及している[110]と言える携帯電話も、平成7年当時の兵庫県における人口普及率では4.0%[111]と、十分に普及しているとは言えない状況であった。発災当初は上記の通り利用者の少なさから一般電話よりは繋がりやすかったものの、一部の基地局が震災による被害を受けた事に加え、被災地外から大量に持ち込まれたことを原因とする輻輳状態も発生したほか、携帯電話に内蔵されるバッテリーも現在のものに比べはるかに性能が低く、充電切れによる利用不能も発生した[112]。取材するマスコミ関連企業・団体などの記者も所有している者はほとんどおらず、現場でメモし取材拠点に戻ってファクシミリにより送っていた[72]。
i-mode、EZweb、J-SKY(現:Yahoo!ケータイ)といった各携帯電話キャリアにおける携帯電話IP接続サービスは1999年から、ショートメッセージサービスもPHSで1996年、携帯電話で1997年からといずれもサービス提供開始前であり、通話以外における情報収集、交換手段はほぼ不可能といえる状況であった。
行政による救援、救助活動が後手に回った一方、前述の組織・団体、特に宗教団体や暴力団などによる現場での救助・支援活動は、日本のマスメディアで報道されることは少なかった。諸団体の宣伝につながりかねないとの懸念からであった。その中で、JNN(TBS)系が、地震から3日目の1月19日に放送したJNNニュースの中で、神戸市内に本拠を置く日本最大の広域指定暴力団である山口組の総本部が備蓄していた大量の食料を地元住民に供出する様子を、「住民の苦渋の選択」として報道した。このとき山口組は石油暖房機を積んだトラックを用意し毎日手際よく食事を提供するなどの援助を行っていたため、多くの被災者が集まっていた。
報道機関としては、山口組の宣伝にならないよう決して与しない慎重な扱いであった。(大谷昭宏が『こちら大阪社会部 阪神大震災編』の中で触れ、大谷とデスクが採り上げるべきか否かで議論する様子を描写している)
また、一般民衆が列をなし無数のヤクザ達に食料を貰うその様は、震災が如何に非現実的かつ異常な事態でありそれにより深刻な現実が引き起こされているかを、如実に明示していた。
イギリス・アメリカなど日本国外のマスメディアも追随し、BBCは「政府の救助活動は遅々として進まないのに、現地のマフィア(ここでは山口組を指す)が救助活動を行っている」と報道した。なお、一部雑誌に掲載された「外国メディアの方が日本のメディアに先んじて報じた」という指摘[113] は、誤報ないしは虚報である。
宝塚歌劇団の本拠地・宝塚市の宝塚大劇場も大きな被害を受けた。1992年に竣工して数年であったが壁に亀裂が入ったほか、大劇場内の消火用スプリンクラーが誤作動し座席が濡れるなどした。およそ2か月半の間公演不能の状態になり、安寿ミラの退団公演「哀しみのコルドバ/メガ・ヴィジョン」を上演していたが公演中止を余儀なくされた。3月、『国境のない地図』において公演を再開した。同月、前述の安寿の公演が劇場・飛天(現:梅田芸術劇場)で再開された。
神戸国際会館も全壊し、予定されていた公演を中止したり会場を移しての公演になった。1995年(平成7年)12月に神戸ハーバーランドの空き地を借用して建設した仮設公演施設「神戸国際会館ハーバーランドプラザホール」が完成し、神戸での公演が本格的に再開された。
阪神競馬場や阪神甲子園球場の一部が損壊。桜花賞や宝塚記念は京都競馬場で開催されるなど代替競馬が開催された。この年の「大阪国際女子マラソン」や「泉州国際市民マラソン」も中止を余儀なくされた。4月には、TIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で開催予定だったF1パシフィックグランプリも10月に延期された。この年に予定されていたゆうあいピック兵庫・神戸大会も中止になった。
プロレスの全日本プロレスは、発生当日からわずか2日後の1月19日に大阪府立体育会館大会を予定していたが、慎重を期しながらも決行した[114]。震災の影響で来場できなかったファンには未使用チケットと引き換えにこの大会を収録したビデオを送付した[114]。その一方で、予定していた日本テレビによる収録は中止となった[115]。
六甲アイランドで1月21日に開催予定だった日本陸上競技選手権大会男子20キロ 女子20キロ競歩が中止され、翌2月に千葉市で代替開催された。その12年後の2007年(平成19年)4月、このときの恩返しとして同年3月の能登半島地震で被災した石川県輪島市で行われる予定だった別の競歩大会を六甲アイランドにて代替開催した。
第67回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)については、「中止すべき」という意見があったものの、吹奏楽などによる鳴り物演奏を自粛して予定通りに実施された。
プロ野球のオリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ)も、『がんばろうKOBE』をスローガンに1995年(平成7年)、1996年(平成8年)とパ・リーグ連覇(1996年(平成8年)は日本一)を成し遂げ、被災者を勇気付けた。毎年恒例だった正月映画・男はつらいよシリーズの12月に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』では、神戸市側から松竹へロケの要請があったことや、山田洋次監督の元、復興に努めていた夫妻からファンレターが届いたことがきっかけで当時市民による復興が行われていた神戸市長田区が舞台となり、神戸の復興とボランティアがテーマとなった。なお、渥美清が翌1996年に逝去したため同作が遺作となった。
JFL(当時)のヴィッセル神戸は1995年(平成7年)1月1日、正式にヴィッセル神戸として始動した。Jリーグ昇格を目指し、1月17日に初練習をする予定だった。だが、震災により岡山県倉敷市での練習開始を余儀なくされ、神戸では練習場の確保が困難であるため練習場を転々とせざるを得なかった。このように、震災の日にチームが生まれたことを祈念するため、ホームスタジアムでの試合ではサポーター達により、試合前に「神戸讃歌」(「愛の讃歌」の替え歌)が歌われ続けている。また、震災の影響で、活動開始直後にもかかわらず、当時メインスポンサーだったダイエーが3月に撤退する事態となった。
サントリーでは、この年のサントリーレディスオープンを中止しその開催費用を原資として神戸市消防団に対して手引き消防ポンプ・可搬動力ポンプ積載車を全分団に配置可能な数量を寄贈し、その後も毎年4台程度を寄贈している。
そごう神戸店も、本館が半壊した部分の解体撤去(この撤去した部分が現在のサンファーレ広場となっている)を含めた復旧工事の末、1996年(平成8年)4月28日に全館オープンした(新館と本館地階はそれ以前から再開していた)。大丸神戸店は、本館の3階部分が倒壊したために取り壊して新館として再建。西館についても全面改装を施して1997年(平成9年)3月に復興グランドオープンした。
三宮阪急は、入居していた神戸阪急ビル東館の上層階が崩落する全壊のため解体撤去することとなり震災5日後に閉店した。これと別に震災前の1992年(平成4年)に神戸ハーバーランドに開店していた神戸阪急は上記2店舗より被害が少なく、一足先に再開した(2012年閉店、現在の神戸阪急は上記そごう神戸店の場所で2019年より営業)。そごう・大丸・阪急や以下の三越と異なり、個人商店が入居する形態の神戸デパートも、被災をきっかけに閉店した。
やや離れた大阪市でも、北浜にあった三越大阪店の本館が被災して解体され、売場面積を大きく減らした。これが10年後の2005年(平成17年)に閉店する一因となった[116]。
神戸市は震災直前の1995年(平成7年)1月1日の推計人口が152万0365人だった[117]。同年10月1日に実施された震災後初の国勢調査では142万3792人となり、震災による市内の死亡者数4571人を大幅に超える約10万人もの人口が減少し[117]、京都市の人口を下回った。2004年(平成16年)11月1日に推計人口が152万0581人となり、震災前の人口を9年10か月ぶりに超えた[117]。しかし、区ごとに見ると震災前より人口が増えたのは六甲山地2区(北区・西区)と沿岸東部3区(東灘区・灘区・中央区)だけであり、沿岸西部4区(兵庫区・長田区・須磨区・垂水区)では現在でも震災前の人口に戻っていない[117][118]。特に長田区は3万人近く少ないままであり[118]、地域によって復興に格差が生じていることが見受けられる。
また、加古川市などの東播磨地域に転居した人も多い。
震災で被害を受けた建物に使用されていたアスベスト(中皮腫の原因となる)を住民や作業員、ボランティアなど救援・復興活動に当たった多数の人が吸い込んでいるため、影響が懸念されている[119]。
解体を要した損壊建物は約11.6万棟、生じたがれきの量は約1450万トン(1995年(平成7年)12月31日時点)となった[120]。
1987年から「大阪湾フェニックス計画」(海面埋め立て)が始まっており、その海面に造成していた広域処分場では、約262万トン分の災害廃棄物を受け入れた[121]。
暴力団が救援活動に当たっていた一方で、震災に乗じて災害援護資金を不正に受けたり、建設会社に対し工事の受注を要求したりするなどの触法行為を犯していたことも事実である。警察は暴力団のこういった問題行為を見越して、移動暴力相談車を利用した「巡回暴力相談所」を開設するなどの臨時対策を採っていた[122]。また、暴力団関係者による手抜き工事も存在もしたという[123]。
「性犯罪が増加した」という情報も流れたが、それをデマだとする動きがあった。確かに兵庫県内の強姦の事件数自体は前年と変わらず、逆に強制わいせつ事件は減少していた。また、窃盗・強盗の件数も同様に減っていた。ただ、性犯罪は申告すること自体がはばかられ、申告したとしても「なぜ自衛しなかったのか」「我慢すればよい」などの被害を軽視するに等しい二次加害にあいやすく、被害者は口を閉ざしてしまう傾向が強い。そのため、事件数だけでは一概に語れない部分も大きい。また、避難所での強姦、痴漢、覗き等の大なり小なりの性犯罪情報は表沙汰にこそされていないものの、実際に多数寄せられている[124]。また、震災発生直後の1月19日前後および1か月半後の2月26日、関西で京都府亀岡市の亀岡断層を震源地とする震度7の余震が起こるとのデマが流布し、2度目については亀岡市周辺の企業で、臨時休業や食品スーパーで商品の買い占めが発生するなど混乱が見られた。
2003年には、大学生らが「希望の灯」のガラスケースを壊す事件があった。また2013年1月17日開催の慰霊行事でライトアップする目的で灘区の六甲道南公園の慰霊碑に設置された照明器具が破壊されたと兵庫県警に届けられ、器物損壊事件として扱われた[125]。2017年12月22日には、東遊園地にある震災犠牲者の氏名などを刻んだ「慰霊と復興のモニュメント」に落書きがされているのが見つかった[126]。六甲山の山頂付近にて同震災と東日本大震災の犠牲者の鎮魂のための兵庫県勤労者山岳連盟が設置した木柱に、黒ペンキがかけられているのが2017年6月に見つかった[127]。さらに、そのモニュメントが、2019年に盗難に遭っているのが発見された[128]。
震災で被災した地蔵などを盗み、質店に持ち込み換金していた人物が、兵庫県警から窃盗容疑で書類送検されている[129]。
問題発言としては、井戸敏三兵庫県知事が2008年(平成20年)11月11日に行われた近畿ブロックの知事会議において「東京一極集中を打破するための旗を揚げなければならない。関東で震災が起きれば東京は相当なダメージを受ける。これはチャンスですね」と発言したものがある。当初は謝罪を渋ったものの、猛抗議を受けた後謝罪した。
この震災での報道の在り方が、後の災害報道の在り方に対して議論の俎上に上がった。在阪準キー局の放送人は阪神圏在住が多く、自身も被災した一住民である為、被災者に対しての取材の際に取材対象者のプライベートに踏み込んだ取材が正しいのか自問自答するケースが多発し、放送人生活に置いて忘れる事は無かった出来事であると回想する人間が多い。なお、発災当時も淀川を隔てて、大阪府と兵庫県で事の重大さを認知する時間も要した。
「被害報道か、安心報道か」という論点がメディア研究者の中からも発信され、発災後、民放キー局制作の報道番組において、現在進行形で被害が拡大している最中、キー局の報道姿勢は「もし、このクラスの地震が東京で起こったら、どれだけの被害が出るか」、「東京でなくて良かった」というという仮説報道が横行し、一般視聴者は元より様々な立場の人間から批判の対象となった。元NHKの記者でジャーナリストの木村太郎は、「「テレビでは映しきれない出来事が起きており、早く救援の手を」との声を伝えるにはテレビが一番強い。解説も、テレビを見ている人はほとんど自分の地域と二重写しにしていますが、いきなり解説は論外としても避けては通れない。特に報道者は初日から東京に置き換える意識が必要ではあるが、出す時期の問題はある」と自身の見解を説いている[130]。
報道倫理に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。地震発生直後、マスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、地震直後から始まった航空映像によって首相官邸など被災地外の人々が地震の被害状況を素早くつかむことができた反面、このヘリコプターの騒音によって、家屋の下敷きとなった被災者の声を聞き取れずに救助隊の初期活動の大きな妨げとなったとする指摘があり、月刊Wedge編集長の大江紀洋は高校時に神戸市東灘区に在住していた際、自身の体験として「放送局各社が映像を競ってだらだら流して何の役に立つのか? 1地区1社に調整し、撮れたら去って欲しいし、住宅崩壊現場でレスキュー隊にブルーシートや毛布で目隠しさせるのも人手が余計にかかる」と批判していた[131]。
1995年2月7日、衆議院地方行政委員会において、伝聞情報をもとにこの問題が取り上げられている。その後、関西の放送局間では大災害発生時にはヘリコプターの飛行数を相互制限し、映像を各社で共有する方法(一種の代表取材)などが検討されている。ただし、震災で具体的にどの程度の騒音被害があったのかは明確でない。騒音の元が自衛隊や消防のヘリでないのか(どうやって上空のヘリを見分けたのか)、自衛隊や消防、警察、海上保安庁のヘリならば音は問題ないのかなど、主張に曖昧な点も多い。
大阪府に本社を置く読売テレビが震災から20年を記念して制作した特集番組において、震災当時現地の取材に当たったアナウンサーが、発災後民放キー局制作の報道番組のアナウンサー、リポーターが率いる取材クルーが、前述の被災者の生活テリトリーに平然と土足で入り取材する光景を目の当たりにして慚愧に堪えられなかった、と当時の心境を振り返り語っており、取材しないことで被災者に寄り添う配慮もすべきであるとしている。そのため、在阪準キー局の場合、2015年時点でも、局によってはアナウンス部に当時の被災状況写真と震災当時の報道部長が書いた「現地取材クルーへのお願い」文書[注釈 43] を壁面に掲示し、当時の被害状況を忘れることなく、新たな災害現場の取材において同じ過ちを繰り返さないよう、常に心がけているということである[132]。
この災害によって消防・レスキューの得た経験は、消防無線における全国共通波の増波や、東京消防庁の消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)と横浜市消防局の救助機動中隊(現在の特別高度救助部隊)の創設、全国の応援体制として緊急消防援助隊(消防)と広域緊急援助隊(警察)の整備につながる。
消防組織はもともと市町村単位であり、この震災によって消防の広域動員における指揮・通信・装備などで多くの問題が露呈し、改善が進められている。
しかし2009年時点、地域ブロック・レベルの広域大災害の消防・救命活動指揮組織がようやく作られつつあるものの、これはあくまでも事が起こってから臨時で設置される組織であって、常設組織を設けて平時から大規模災害対処計画を研究立案する段階にはなっていない。
一方、1995年(平成7年)3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の危機管理における機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が震災以前と比べて格段に高まり、自衛隊が必要であるという世論も大きくなった。
しかし防衛庁(現・防衛省)はもともと、平時にあって有事に備える広域危機管理官庁である。震災対処計画機能はあるものの、地域ブロック・レベルでの協議における消防側の対応相手が消防庁しか存在しないのが実情であるなど、災害援助においては装備や組織の問題によって充分に機能し得ないので、「大規模災害に十分対応するためには、装備のほとんどが武器・兵器で占められる自衛隊を用いるのではなく、充実した専門装備を持つ災害救助隊を別に設立すべきだ」とする意見がある。これについては「蓋然性の低い大災害に対応する官僚組織を戦争と別建てで設立するのは予算の無駄であり、自衛隊の災害救助に関する装備・機能をもっと充実させて当たるべきだ」という意見も出されている。
道路が寸断されている場合、消防車両が現地に容易に近づけない場合も多いのでヘリによる瓦礫除去車・消防車の吊下空輸が手法としては有効である。また、消火水道断裂に備え数億円する防火水槽を全国各自治体に数千基整備することは予算面から進んでいないが、既にある自衛隊の大型輸送ヘリ約40機で水コンテナを校庭に吊下空輸すれば大幅に補完する事ができる。
だが、CH-47などの大型輸送ヘリは1機で数十億円と高価なため、自衛隊のCH-47が大型輸送ヘリを購入できない途上国の震災等の災害救援にも派遣されて役立っている一方、市町村消防局で重複購入するのは財政難のため困難である。消防側は、自衛隊にヘリ空輸を依頼せず、瓦礫除去車/重機で進路の瓦礫/土砂を除去しながら数時間かけて現場に到着する計画である(2009年時点)。
報道陣に(関東大震災等の前例があるのに)震災を杞憂扱いして危機管理計画を定めていなかった怠慢を指摘された自治体[注釈 45]等が、「まさか、関西で大地震が起こるとは思わなかった」という(「まさかの大災害」への平時からの準備が重要という危機管理の初歩を理解していない)釈明を行ったため、マスコミによって激しく批判された。
これは、災害対策基本法の制定された1961年(昭和36年)が日米安保条約更新の直後であり、反自衛隊感情を刺激しないように立法されたからだとされる[150]。そうした背景もあり当時の自治省の指導にも不備があり、現在においても自治体の防災規定に対する総務省の指導は不徹底で、同様の事態が別の自治体でも起こりうるとの指摘もある。
村山首相は上述のように、自衛隊出動命令の遅れを責められて「なにぶん初めての事ですので」と釈明したため、一部から「前例ある有事を杞憂扱いして備えを怠り、危機管理官庁の自衛隊を感情的に毛嫌いして有効活用せず国民被害を拡大した」といった批判も受けたが、竹下内閣から村山内閣まで7人の首相に仕えた石原信雄元内閣官房副長官の「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山首相以外の誰が内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった」[151]という証言に代表されるように行政機構全般の危機管理の不備が明らかになった。その後も村山首相は首相職を担うこととなったが、1995年7月の参議院選挙で社会党の議席は激減した。
震災から12年経過した2007年(平成19年)の政府・官房長官の記者会見においても「多くの犠牲になられた方々に改めてご冥福をお祈りしたい。防災体制はあれ以来、強化を図っているが、改善に改善を重ねていかなければならない」と述べた。当時、大きな問題点として指摘された政府の危機管理体制については一定の改善が行われたとの認識を示した上で「十分ということはないのでいつも反省をしながら改善していく」と語った。
政府による支援が遅れた一方で、前述の通り民間による支援活動は積極的に行われた。
この地震が大惨事となった最大の理由は、老朽木造瓦屋根の住宅が多かったことであるが、その他の理由の一つに、近畿地方の瀬戸内海岸では他の地方に比べて地震の発生が少なかったことが挙げられる。地震の専門家の一部は、小さい規模の地震すら起こらないことで、エネルギー(ひずみ)の蓄積が起こっており、ひとたび地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性をはらんでいることを述べていた。 コンクリートの陸橋の柱から木材が発見され問題になった。元職人から話を聞き彼は「当時は、高度経済成長で鋼材が足りなくなり工期が迫っていたため仕方がない」と思っていた。
しかし、1916年(大正5年)の明石海峡地震(M6.1)以降、約80年間顕著な地震活動が無かったことから[152]「近畿地方は地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった“実体験”による過信から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤解の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。歴史的には近畿地方は幾度も大地震に襲われている(日本の地震年表を参照のこと)[153]。歌舞伎『地震加藤』は、豊臣秀吉の不興を買っていた加藤清正が慶長元年(1596年)9月の慶長伏見地震で、伏見城から秀吉をおぶって逃げる話となっている。神戸は地震予知連絡会による特定観測地域にも指定されていた[154]。
それまでの大地震の発生する構造については、太平洋プレートやフィリピン海プレートが日本海溝や南海トラフにおいてユーラシアプレートの下に滑り込み、そのプレートの跳ね返りによって発生するもの(海溝型地震)ばかりが注目されて内陸の活断層のずれによる直下型地震の発生はさほど注目されていなかった。実際に、これらのプレートの境界の近くに位置する関東地方と東海地方と紀伊半島においては、大地震(関東地震・東海地震・東南海地震・南海地震など)の発生する可能性が最も高い地域として防災訓練や建造物の補強など徹底した対策が実施されて来た。ところが、近畿地方(紀伊半島)でも、太平洋岸である三重県と和歌山県とは対照的に、瀬戸内海岸である大阪府と兵庫県は無警戒に近い状態であった。
北海道・東北地方・北陸地方などの豪雪地帯であれば、地震の多発地帯以外でも「雪」という重量物が屋根の上に積み重なる前提に家屋が建てられるために縦方向からの力に強くなるので、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることが指摘されている。ただし、2004年(平成16年)の新潟県中越地震において豪雪地帯の建物が少なからず倒壊・損壊したことで、耐雪構造と耐震構造を分けて考える必要性が指摘されるようになっている。
その後のビルディングも含めた物件を建築や補修する際には、阪神・淡路大震災における被害を教訓とした上に最低限度の耐震性を考慮した構造に変わっていっている。前述の「高架構造」になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘され、行政主導のもとで補強工事[注釈 46] が施工されていった。
最も重要な問題、すなわち古い住宅の耐震性がなくても違法とならない(既存不適格)問題は変更されなかった。さしあたり、1995年建築物の耐震改修の促進に関する法律(耐震改修促進法)を制定し耐震改修を促進した[155]。また、消防庁では公共施設の耐震改修を指導している。しかし、「阪神・淡路大震災」の起こった兵庫県でさえ、公共施設の耐震化率は48.3%にとどまっている。東京78.1%(消防庁 2003、各都道府県耐震改修状況)に比べて耐震化は遅れている。特に、民間の会社施設・マンションにおいての耐震化率はきわめて低い。さらに、ほとんど犠牲者が出なかった公共施設の耐震化は進んでいるが、犠牲者の80%以上を出した民間の耐震性のない木造住宅の耐震補強はほとんどなされていない。
貿易の技術的障害に関する協定の第二条に強制規格は必要である以上に貿易制限的であってはならないと繰り返し強調されており、建築審議会は同調した内容の答申書を提出している。結果として、1998年の法改正以来、技術基準の「性能規定化」が進められている[156]。地震国として構造力学に基づいて建材の質や形などを制限した従来のいわゆる仕様規定から、定型的な仕様または国際的な検証方法によって実質的な耐震性を測ろうとする性能規定に変わってきている。規制緩和が目的であって、必ずしも耐震化を主眼とする改正ではない[157]。
なお、震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大学・大田教授のグループ)があったことから、震災発生後しばらくは「家具転倒防止金具」を購入する人が多く見られたが、今では普及が鈍化している。
建築基準法は改正されたが、倒壊の多かった戸建住宅や低層鉄筋構造物が実際にどの程度の耐震性を有しているのかを試験する方法がなかった。このため、鉄筋コンクリート6階建までの実際の建物に震動を加え試験が行える施設として、大規模実験施設(実大三次元震動破壊実験施設)E-ディフェンスが兵庫県三木市の兵庫県立三木総合防災公園に建設された。また、耐震設計の際のシミュレーションデータとして、神戸海洋気象台で実際に観測された波形が使用されるようになった。
1995年当時、東海地震の前兆現象の観測を目的とし地域を限定した観測網(関東・東海地殻活動観測網)は整備されていたが、阪神・淡路地域だけでなく全国を網羅するような地震観測網は整備されていなかった。したがって、兵庫県南部地震の予測および発生メカニズムを解明するために十分な基礎データの蓄積が無かった。このことを教訓とし、1995年6月16日地震に関する調査研究を推進するための法律『地震防災対策特別措置法』が制定され、「地震に関する基盤的調査観測計画[158]」の一環として、日本全国を約20kmメッシュの地震計で網羅し観測を行う高感度地震観測網と基盤強震観測網の整備が開始された。
同震災で、被災者らが避難生活中にどこでも使えるカセット式のガスコンロを調理などに利用していたが、当時のカセットコンロ・ガスボンベの規格は1991年(平成3年)7月1日にJIS規格 (JIS S 2147 / JIS S 2148) によって制定[159] されていたもので、ボンベのサイズや構成部品が厳密には規定されていなかった。メーカーの異なるカセットコンロ・ボンベの互換性は完全ではなく、数種類あった。
そのため、被災者間においてカセットボンベの貸し借りができない場合があり、メーカー側に疑問が呈されたり、規格統一の必要性が認識されたりした[160]。
これを教訓として、1998年(平成10年)2月20日に日本工業規格「カセットこんろ (JIS S 2147)」「カセットこんろ用燃料容器 (JIS S 2148)」の改正が行われ[159]、ボンベの形状が一種類に規定され、メーカーを選ばずカセットコンロとボンベを装着することができるようになった[160]。
震災前のシングル湯水混合水栓の蛇口は、レバーを上げて止める「上げ止め式」が普及していたが、震災後はレバーを下げて止める「下げ止め式」が普及した[161]。日本バルブ工業会によると、理由は欧米で「下げ止め式」が圧倒的に普及していることに合わせたことによるものだと説明している[162]。また日本工業標準調査会は、震災対策を含めたグローバルな観点から下げ止め式に統一したと説明している[162]。
前述・後述の諸問題も含めて、この大震災は日本の災害対策上、重要な位置を占めている。
震災の記録・記憶を残すため、以下の施設が作られた。
毎年1月17日は、各地で追悼式典が行われている。
また、1995年(平成7年)より毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して「神戸ルミナリエ」が開催されているが、近年は開催当初の意義から乖離する傾向にあり、その開催目的に疑問を抱く市民も増えつつある。中には「形だけの心の通わない“鎮魂”は死者に対しても恥ずかしいし、この際、ルミナリエは廃止してほしい」といった声も上がっている。
被災地が即急に復興できたのは多くの支援者・ボランティアのおかげであったため、被災者は今も支援者に感謝の気持ちを声明や催し物によって示している。また、神戸市はこの支援活動の教訓や当時の恩返しの意味を込めて新潟県中越地震やスマトラ島沖地震の時はどこよりも早く、多くの人材、資材などの援助を行ってきている。また、防災事業では、現在においてもこの震災を例に挙げられることが多く防災事業の原点となりつつある。
神戸市立小学校の音楽教諭である臼井真作曲・作詞の『しあわせはこべるように』という歌が復興の歌として取り上げられることが多く、各種学校団体をはじめ多くの追悼行事で歌われている(今では『しあわせ運べるように』として、Cooley High Harmonyや川嶋あいが歌っている)。
2011年に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では「神戸」という歌詞の一部を各地域の名称に変えて歌われる動きがある。7月25日には作詞作曲者である臼井自身がCDブックを刊行。このCDには「しあわせ運べるように〜ふるさとver.〜」が収録される。「神戸」を「ふるさと」に変えて、一部編曲をしたものである。臼井曰く、「『ふるさと』とは被災地の地名の総称」とのことである[167]。このヴァージョンは2011年7月8日にニッポン放送「上柳昌彦・山瀬まみ ごごばん!フライデースペシャル」で流された[168]。
2024年は直前の1日に令和6年能登半島地震(こちらも震度7を観測)が発生した事から、東遊園地(神戸市中央区三宮)では、灯籠で『ともに』の文字が作られたほか、通常の5時46分・17時46分(午後5時46分)以外に、能登半島地震が発生した16時10分にも黙祷を行う[169]。
また、期間を限った震災関連の展示会が開かれることもある(消防博物館など)[170]。
第46回NHK紅白歌合戦(1995年12月31日)では、由紀さおり・安田祥子、前川清、田村直美、南こうせつの4組が、被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画枠で出場した(審査の対象外)。
2014年(平成26年)12月9日、震災から20年の節目を迎えるのを機に震災の経験や教訓を継承するため、神戸市は震災当時の様子を撮影した写真を掲載する「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」を開設した[174][175]。地震直後や復旧・復興中の写真など主に神戸市広報課の職員によって撮影された約1万4700点から選ばれた約1000点の写真を公開している[176]。防災教育などにも活用してもらえるように、住宅や火災などのカテゴリーを地域別に検索できるようにしている。神戸交通センタービルなどといった市内の箇所の復興過程をたどれる「定点観測写真」も設けられている[177]。写真は一部を除きクリエイティブ・コモンズ (CC BY 2.1 JP) の下に公開されており二次利用可能。
震災直後から1年間に亘り、神戸市職員が撮り続けた記録動画を20年目を機に公開する計画で進めている[178]。これまで公開を差し控えてきた理由として市民感情を挙げている[178]。20年目に当たり後世に語り継ぐために公開に踏み切ることになった[178]。動画の収録時間は約48時間で、復興の道のりをまとめた短縮版を製作する予定にしている[178]。
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