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1944-, 作家。政界、財界、芸能界などのルポルタージュや小説。 ウィキペディアから
父親を原爆で失い、自身も被爆者健康手帳を所持。中学卒業後、一旦は三菱造船所の養成工となり就職するが退職し、高卒資格を得るため広島県瀬戸内高等学校に通いながら予備校にも通学。大学卒業後は電波新聞社に就職するが、後に退職し[2]1968年に大宅マスコミ塾第7期生となる。同じく広島育ちの作家・梶山季之のスタッフライターであった時期もあり、その時の先輩には恩田貢や岩川隆などがいる。
1970年に週刊文春特派記者となって[2]以降、1982年まで13年間在籍。在籍中の1981年に『小説電通』(三一書房)により作家デビューする。次いで月刊『文藝春秋』に執筆した「三越の女帝・竹久みちの野望と金脈」が大反響を呼び、三越の岡田茂が社長退陣に追い込まれる三越事件のきっかけともなった。
1983年、週刊文春から独立し作家に転身。これ以降、政治経済、芸能など各界の著名人の他、政治家の人物伝執筆を多く手がける傍ら、政治関連のテレビ番組などにも並行して多数出演。また、美空ひばりの評伝を本人が亡くなる直前に「週刊新潮」に連載、新潮社で刊行したこともあり(2001年に廣済堂文庫で再刊)、ひばりの逝去後には追悼特集を組んだテレビ番組にも多数出演した。2009年に回顧録『トップ屋魂 週刊誌スクープはこうして生まれる!』(ベストセラーズ)を出版、仲間だった花田紀凱が推薦の文をよせた。
同じ2009年には『日本再生の切り札 与謝野馨』も著しているが、同書を本人の選挙区事務所(自民党当時)に売り込み、3000冊(合計450万円)を政治資金で買い取らせたと後に報じられた。支持者は1冊も購入しておらず(公職選挙法抵触の虞あり)、2011年現在でも事務所に積み上げられたままだという。これに対し大下は与謝野の秘書から「本にするなら買いましょう」という話があり、自分の側から売り込んだものではないと説明している[3]。
前出の梶山と同様に、大下も多数のスタッフを抱えており、自身だけでなく彼らの取材をもとに情報を仕入れている。大下のもとでスタッフとして活動していたうちの一人に、ノンフィクション作家の高山文彦がいる。
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