Loading AI tools
1930-1975, 小説家、ジャーナリスト。 ウィキペディアから
(かじやま としゆき、1930年1月2日 - 1975年5月11日)は、日本の小説家・ジャーナリスト[1][2][3][4][5]。ルポライターとして梶 季彦、少年少女向け推理・冒険小説(ジュブナイル作品)の著者として梶 謙介のペンネームがある[2]。
週刊誌創刊ブーム期に代表的なトップ屋として活躍[2][3]、その後『黒の試走車(テストカー)』『赤いダイヤ』などの産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となり[2]、推理小説、時代小説、風俗小説、社会小説、痛快小説、SF小説、時代小説、実録小説、少年少女向けの冒険小説等とあらゆる分野に作品を残した多才・多作の作家であった[1][2][3][5]。酒の飲み過ぎにより取材先の香港で45歳で客死[2][4][5]。昭和一桁生まれの最後の無頼派的な文士といわれ[5]、磯田光一は「戦後文壇の自爆者」と評した[2]。
土木技師の父が朝鮮総督府に勤務していたため、朝鮮の京城で生まれた[6][7][7]。五木寛之は南大門小学校の後輩である。子供の時から作家志望で、小学3年頃には科学冒険小説を書いて級友に読ませていた。1942年京城中学校入学。成田豊は当時からの親友[注 1]。敗戦後引き揚げ両親の郷里、広島県佐伯郡地御前村(現廿日市市)で育つ[1][7]。広島二中(現広島観音高)を経て広島高等師範学校国語科に入学[1][2][7]。在学中に同人誌『天邪鬼』を創刊、後に地元の同人誌を糾合し広島文学協会を設立、同人誌『広島文学』に参加するなど精力的に活動した。同人誌のメンバーだった美那江夫人と出会う[10]。また『中国新聞』学芸部の金井利博と知り合い、広島ペンクラブの設立、運営にも加わった[1]。『天邪鬼』に一文を寄せていた作家原民喜の自殺に衝撃を受け、金井とともに原を記念する詩碑の建立に奔走した。
卒業後の1953年、両肺に空洞があることを知るが[10]、家出同然にして上京[7]。後を追って上京した美那江と8月に結婚。横浜鶴見工業高校の国語教師を務める後、職を転々とするが、結核の前歴を隠しての就職のため、健康診断の時期が近づくとどこも辞めていた[7]。その後杉並区阿佐ヶ谷で喫茶店「阿佐ヶ谷茶廊」の経営をしながら[7]、『新早稲田文学』『希望』などの同人誌で活動。1955年に村上兵衛の紹介で三浦朱門らのいた『新思潮』(第15次)同人になり小説を書き[7]、1956年『新潮』に同人雑誌推薦作品として「合わぬ貝」が掲載され、これが初めての商業誌掲載となった。一方、1958年にフリーライター専業となって『文藝春秋』『週刊新潮』などに記事を書くようになり、阿佐ヶ谷で喫茶店のあと経営していたバーをたたみ文筆一本でいくことを決意する。
『週刊明星』の創刊から関わり[3]、また「大宅壮一ノンフィクションクラブ」にも参加。世紀のスクープと言われた「皇太子妃に正田美智子さん」をスクープしたのも梶山だった[7]。1950年代後半、時代は出版界でも急速に動き、時代小説中心の倶楽部雑誌が潰れ、高度経済成長期に見合うような新しいタイプの流行作家が求められたが[11]、梶山は1959年『週刊文春』創刊に際し、その社外スタッフとして入り[3]、トップ屋グループ「梶山軍団」と呼ばれる取材記者の一群を率いて、草創期の誌面に週刊誌特有の躍動的なジャーナリズムを作り上げる[1][3][5][7][11]。ルポライターとして週刊誌ジャーナリズムにおける取材と執筆を分業するシステムを最初に導入し、「文春砲」の基礎を築いた一人であった[1][3]。『新思潮』の同人だった有吉佐和子がすぐに売れたため、嫉妬していたとされる[7]。またこの時期「梶謙介」のペンネームで小学館の学年誌などに多くの冒険小説を書き、三谷晴美(瀬戸内寂聴)と双璧の人気と言われる。1958年には朝日放送にいた阪田寛夫の依頼でラジオドラマ脚本「ヒロシマの霧」「才女ブーム異変」「恋愛作法(吉行淳之介原作)」「外貨ブローカー(原作「振興外貨」)」を執筆し、「ヒロシマの霧」で1959年民放連盟賞優秀賞、同「蛸が茶碗を抱いていた」で1960年文部省芸術祭参加、1961年 - 1962年の連続ドラマ『愛の渦潮』など1964年頃まで執筆していた。
1961年に結核を患い約3か月間の入院生活を余儀なくされるが、これを機にトップ屋をやめ本格的に小説の執筆に乗り出し、翌1962年、自動車企業間の熾烈な競争を背景にした経済小説『黒の試走車』がヒット。「企業情報小説」、「産業スパイ小説」という新分野を開拓した[1][4][5][12]。多くのベストセラー小説やルポを書き、高度成長期の潮流に乗った流行作家になった[5]。1966年、『週刊新潮』連載の小説「女の警察」により、刑法175条(猥褻物頒布)の容疑で略式起訴され、同誌編集長野平健一と共に罰金5万円の有罪判決を受ける。1969年には7786万円の収入を得て[12]、文壇長者番付第1位となった[1]。
ジャーナリストの世界において、記事執筆のためのデータ収集を専門とする「データマン」、そしてデータマンの集めた情報を元に記事を執筆する「アンカーマン」という分業体制を確立したのは、日本では梶山が最初であると言われている[1]。
1969年、夫人を社長として株式会社季節社を設立。作家がプロダクションを持つのは当時珍しく[13]、後に五木寛之、松本清張らがプロダクションを持った[13]。1971年、文壇・マスコミ界の埋もれた逸話を記録するため月刊『噂』を自費創刊するが、赤字により1974年終刊。
野坂昭如は『平凡パンチ』1972年2月28日号のインタビューで、梶山を評して「よくもま、この10年間小説ジャーナリズムの世界を支えてきたと思いますよ。出版社は彼の小説で上げた利益で、純文学を出して来たんだからね。純文の連中がエロがどうでこうで言うのを聞くと、ぶん殴りたくなる」と話した[14]。
1972年に結核が再発し、北里研究所付属病院に入院後、伊豆の別荘で療養。この時別荘に書斎を増築し、27日で完成したため「二十七日庵」と名付け、今東光に扁額と表札を書いてもらって掛けた。また土地を借りて畑仕事も行う。同年、国際会議の運営をめぐり日本ペンクラブを脱退。1973年、今東光の文壇野良犬会に参加。1974年には自民党から参議院全国区での立候補を要請されたが辞退している。
あらゆるジャンルの作品を手掛けたが、生涯のテーマは、朝鮮・移民・原爆とも言われ[5]、日韓併合期の朝鮮を題材にした「族譜」「李朝残影」などの作品も残している[5]。「李朝残影」は1964年に美空ひばり主演でテレビドラマ化され[15]、1967年に申相玉監督により日韓最初の合作映画として計画されたが頓挫し、韓国映画として製作された[15]。
1975年5月7日、ライフワークである長編小説『積乱雲』の取材のために訪れた香港のマンダリンホテルで突如吐血[7]。救急車で運び込まれたカノッサ病院に適切な設備がなく[7]、一時は容態が安定するもののその後急変、5月11日早朝、食道静脈瘤破裂と肝硬変で死去[7]。今東光が命名した戒名は「文麗院梶葉浄心大居士」[7]、棺には愛飲していたサントリーオールドを注がれ、缶入りピース、原稿用紙とモンブランの万年筆、『李朝残影』が納められて、大宅壮一と同じ鎌倉瑞泉寺に葬られた。戦後30年をペン一本で戦った"文壇の戦士"の壮絶な死に様だった[7]。人は評して「最後の行動派作家の特攻的戦死」といった[7]。毎年5月11日は梶葉忌として偲ばれている[1]。またこの直前に出席していたNHKテレビ市民大学講座「大衆文学をこう書く」の座談会の録画は、5月12、13日に放送された。
収集していた蔵書1万7千点のうち、朝鮮・原爆・移民関係の7千点は1977年ハワイ大学図書館に寄贈され、「梶山季之記念文庫」となった[1]。その他、雑誌類4千点と書籍2千点が大宅壮一文庫に寄贈された[1]。1977年12月には、生前描き溜めていた油絵やスケッチを展示する「梶山季之遺作展」を京橋東京近代美術クラブで開催。33回忌にあたる2007年、広島大学文書館に自筆原稿、蔵書などが寄贈された(梶山季之文庫)[1]。
十数年の作家活動であったが作品数は多く、死後も人気は衰えずに12年後までに120冊の文庫が出版され、1300万部の売り上げをあげた[16]。サービス精神の旺盛な作家という評に加え、編集者や周囲の人々への気配りについてもしばしば語られている[1]。17回忌となる1991年5月、広島市の中区加古町5・アステールプラザ裏に6百数十名の出資による梶山季之文学碑が建立された。碑文には直筆の「花不語(花は語らず)」が刻まれている。これは本人がよく揮毫に用いた言葉である。1992年には夫人の拠出による「梶山季之文学碑建立記念基金」が設立され、研究振興に充てられている。近年は雑誌などの特集により、その膨大な作品群を再評価する動きが出ている[1][3]。
小説の分野としては、生地である朝鮮をテーマにしたもの、トップ屋としての視点と情報収集力を活かした企業小説、推理小説、風俗小説、時代小説などがある[3]。在学中の1952年に『広島文学』に日本統治時代の朝鮮の創氏改名を扱った「族譜」を発表、同年本作を収めた短編集で、友人の坂田稔との共著『買っちくんねえ』を自費出版、「族譜」は後に加筆されて1961年に『文学界』に発表される。1958年『新思潮』に終戦の日を描いた「性欲のある風景」を掲載、1963年には提岩里事件を取り上げた「李朝残影」を『別冊文藝春秋』に発表し、直木賞候補となる。
1958年、『新潮』に「地面師」発表。1960年『週刊文春』で推理小説『朝は死んでいた』を連載。1961年に北里研究所付属病院に入院中に、『スポーツニッポン』の連載小説の作家が急病のため新連載を依頼され、あずき相場を扱った『赤いダイヤ』を載開始し大いに好評となった。続いて酒場で見知っていた当時光文社の種村季弘に後藤明生から紹介されて書き始めた、書き下し長編『黒の試走車』を1962年にカッパ・ノベルスで出版。同年には『青いサファイヤ』『影の凶器』『夜の配当』『男の階段』『女の斜塔』と連載を開始、月産1000枚と言われる執筆量となり、数年後には1300枚を記録した。ルポライターとしての視点、情報収集力を活かした『黒の船渠』『夢の超特急』『小説GHQ』などを発表。1967年から翌年に『中間小説誌や娯楽雑誌の発刊が相次いだ際には、その創刊号の多くに小説、エッセイ、ノンフィクションを執筆、「創刊号男」「突破口」と称された。執筆誌は『月刊現代』『月刊タウン』『別冊アサヒ芸能』『ビッグコミック』『PocketパンチOh!』『プレイコミック』『小説セブン』『マイウェイ』『別冊サンデー毎日 読物専科』『小説エース』『小説宝石』。1971年には休筆を宣言し、1972年1年間は月刊誌への小説を休んだが他の執筆は続け、仕事量が減るにとどまり、翌年は元に戻った。
またルポライター時代の1960年、金井利博の依頼で「中国新聞」に頼山陽の青春時代を描いた「雲耶山耶」(くもかやまか)を連載。また時代小説として、1970年以降『彫辰捕物帖』シリーズ全6巻、「辻斬り秘帖」などを発表。
「鉄道弘済会のベストセラー作家」とも呼ばれ、作品は常に新鮮な時代感覚に溢れ読者サービスに徹した。サービス精神の赴くまま材料の仕込みには惜しげもなく金を注ぎ込んだ。天性のストーリー・テラーで筆力抜群、しかも稀代の速筆家であった。印刷屋への発注ミスで8万枚のネーム入り原稿用紙を購入する羽目になったが10年足らずでほとんど書き損じもなく使い切ってしまった[17]、三日二晩で300枚の長編を書き上げる(『ミスターエロチスト』)、短編小説を電話で頼めばすぐに取りに行っても原稿が出来上がっている、原稿を取るために出版社がヘリを飛ばす[注 2]、といった伝説まで生まれた。一文ごとに改行するスタイルは、時に原稿料目当ての枚数稼ぎとも揶揄された。
後年はエロティシズムへの傾斜を深め、ポルノ小説を書きまくったため、世間から「ポルノ作家」「性豪作家」のレッテルを貼られた[4]。1968年に『別冊文藝春秋』に『ミスターエロチスト』252枚を一挙掲載。当時は「なにもあそこまで書かなくても」「サービス精神のいきすぎ」などと言われ、1972年まで単行本化もされなかったが、後に「先駆的作品」「現在の、性を扱った小説の、あらゆる原型がここにある」などと評される。これは元々有馬頼義に原稿を依頼していたのが締切一週間前に病に倒れたため、急遽梶山に依頼され二日半で書き上げたものだが、以前から構想を温めていことがその後取材ノートから伺われている[19]。また女性の名器を指す「ミミズ千匹」を一般に知らしめたのは『女の警察』と言われる[20]。
朝鮮、内地に帰って育った広島の原爆、母の経験したハワイ移民という三つのテーマをライフワークとしようとしており、それぞれで3本の長篇小説を書くと山口瞳に言ったところ、「三つのテーマがあるなら、それを一つにして大河小説を書くべき」の言われ、1974年に題を『積乱雲』として資料収集、取材を進めながら執筆を開始していた。
原爆に関わるテーマの作品としては、1970年「憑かれた女」、1971年「ケロイド心中」がある。「ケロイド心中」を『小説現代』に発表した時には、広島県原水協、同被団協、原爆文献を読む会などから、被爆者差別を助長するとの抗議が寄せられた。これに対して梶山は、被爆者の立場で、実話をモデルにして書いたというコメントを『中国新聞』に掲載。何度か抗議の手紙が届いたが、それ以上のことにはならなかった。1969年に金井利博が原爆被災資料研究会から『原爆被災資料総目録』を刊行していたのに資金援助をしていたことが、死後明かされた。
文学論として残されている言葉に、「文学といえばすぐに愛だの恋だのを書く。(略)金の動きにもロマンはある」(1966年広島大学懇談会)、「私の小説は、文章はカサカサに乾いていて、手垢がついているけれども、材料にだけは自信がある−−と自慢しておく」(「私の小説作法」)などがある。徹底した調査を元にした作品は「調べた小説」などとも言われ、自身ではジャーナリズムとして報道できる限界があるため、事実を小説に仮託して書くという方法としても考えていたという。
現代の女岩窟王というべき復讐譚『罪の夜想曲』を1973年から『週刊明星』に連載していたが、急死によって72回で絶筆となり、残されたメモを頼りに夫人が結末を加筆して完結された。書きかけていた長編『積乱雲』は、10年間に1万2千枚の予定で新潮社から書き下ろしで出版の予定だったが、書き出し部分の遺稿30数枚分が『別冊新評 梶山季之の世界』(1975年)に掲載された。
1958年に『文藝春秋』の編集長田川博一に自薦の手紙を出し、ルポライターとして採用。最初の記名記事は『文藝春秋』一九五八年五月号の「丸ビル物語——サラリーマンの故郷」。それより以前には嵯峨浩の自伝『流転の王妃』にゴーストライターとして携わっていた[21]。続いて同年創刊の『週刊明星』にも起用され、無署名で書いた警職法改正案に関する「またコワくなる警察官-デートも邪魔する警職法!」と題した記事は、自民党幹事長の田中角栄が編集部に抗議に来るほどの大きな反響を呼んで法案は撤回に追い込まれた。また同年の皇太子妃決定に際しては梶謙介名義で話題小説「皇太子の恋」を掲載、新聞社間のスクープ禁止の協定を破り、他社に先駆けてすっぱ抜いた。
1959年の『週刊文春』創刊では、岩川隆、中田建夫、有馬將祠、加藤憲作、恩田貢の5人で梶山グループを作り、「週刊文春特派員」として特集記事作りに2年間参加。東京都知事選挙立候補者の有田八郎を落選に追い込んだ怪文書「般若苑マダム物語」の作者を突き止めるスクープなどを書いた。
1961年に『週刊文春』から撤退して小説に専念するが、その後もノンフィクションの依頼を受け、1963年には『小説現代』で「実力経営者伝」として、本田宗一郎、小佐野賢治ら8人の評伝を掲載。1965年に創刊した『宝石』で「日本の内幕」連載、創刊号での防衛庁の日米共同実戦計画などをルポ、翌年に猥褻物頒布容疑で摘発されたのはこれらが目障りになったために梶山の信用失墜を狙ってのこととも言われた。1968年にも『かんぷらちんき』『スリラーの街』で同容疑の取り調べを受け、これも「小説防衛庁」での内幕暴露のしっぺ返しと言われた。
1965年に「小説・創価学会」を『婦人生活』誌に連載すると抗議が殺到、その後大規模な言論出版妨害事件に発展し、1970年には連名で創価学会系雑誌への執筆拒否宣言をする。
1967年に大宅壮一マスコミ塾が開講した際には、実践教育編の講師も務めた。
トップ屋の呼称は、扇谷正造に新宿の飲み屋で「おいトップ屋」と肩を叩かれたことから付いた[7]。この言葉がテレビドラマなどで使われて広く知られるようになり、梶山自身は後に『週刊公論』で「トップ屋自身が語る」を書いた。
梶山と講演会で一緒になった伊藤整と、作家の裏話を集めて活字にしようという相談をし、梶山の担当編集者が毎月第三土曜に集まる「三土会」を編集母体、その中で高橋呉郎を編集長として1971年8月『月刊噂』を創刊した[1][3][4]。創刊号記事は特集「知られざる大宅壮一」、「内田百閒を偲ぶ座談会」、「阿部定と坂口安吾対談」(再録)など。発行当初は政財界人の購読申し込みが多かったともいう[22]。1974年3月まで全32冊を出して、5000万円の赤字を出して終刊。
また噂賞を制定し、受賞者は以下:
第1回の賞金は10万円で、贈呈者は今東光が務めた。
1972年には噂発行所から第15次新思潮同人の自選作品集『愛と死と青春と』を刊行。
毎月1000枚以上の原稿を書き、何人もの女性たちと付き合いながら、13年間で書いた作品数は300冊を優に超える[4]。
同人誌時代から行動力旺盛だった梶山は、『新思潮』でも営業部長を自任して広告取りなど金策に奔走し、輸出振興外貨資金制度やあずき相場も利用しようと情報を集めた。この過程で小説化の思いが浮かび、1956年に「振興外貨(リテンション)」を『新思潮』に発表、1958年『新潮』に企業乗っ取りを扱った「地面師」を発表。続いてルポライター時代を経て小説に専念しようとした1961年に「赤いダイヤ」連載。同年に書き貯めた、自動車業界の産業スパイを扱った『黒の試走車』を1962年に書き下ろしで出版し、産業スパイという題材の新しさや、従来の小説とは異なった情報の詰まった小説として注目されてベストセラーとなり、産業界にも大きな反響をもたらして「産業スパイ」は流行語になった[4]。また映画化もされて、大映の「黒シリーズ」の元となった。これで一躍人気作家となり、引き続き高度成長期の産業界を描いた経済小説を続々と発表する。
産業スパイものとして、家電業界もの『影の凶器』(講談社、1964年)、造船業界を舞台にした『海の薔薇は紅くない』、女性の産業スパイの登場する『SEXスパイ』などがある。また企業から仕事を請け負う腕利きの産業調査員の津村公と、経済界の裏事情に通じて企業からの相談事を津村に回す春野団蔵が活躍する連作短編集『虚栄の館』をはじめとする「調査資料(秘)」シリーズもある。
また企業の裏側を描く経済小説として、『赤いダイヤ』の続編『青いサファイヤ』、新幹線汚職を扱った『夢の超特急』、1964年東京オリンピックを巡る土地開発を描く『のるかそるか』、広告業界を舞台にした『罠のある季節』、黒の試走車の続編にあたるサスペンスタッチの『傷だらけの競走車』及び自動車販売合戦を描く中編「黒の燃焼室」(1965年)、株相場を扱った『見切り千両』『みんな黙れ』、中東紛争による石油危機を扱った『血と油と運河』、化粧品業界を扱った『狂った脂粉』などがある。『てやんでぇ』では『赤いダイヤ』の主人公木塚慶太がアメリカに乗り出す。
企業や経済を舞台した作品の中でも、実在の人物をモデルにしたものも含め、高度成長期を背景に活躍する人物の生き様に焦点を当てたものも多い。特に戦後の混乱期を生き抜いて企業経営に成功するまで、その後の挫折や私生活までを包括的に描いている。国会の爆弾男の異名を取った代議士をモデルにした長編『色魔』、短編「"火消し"新八」、またルポライター時代から東急グループ創設者五島慶太や西武グループ創設者堤康次郎に注目しており、堤をモデルにした『悪人志願』や、電力業界の松永安左エ門を題材にした「小説 松永安左衛門」がある。『どないしたろか』は義弟をモデルにした薬品業界での「ど根性出世譚」だが、夜の部分はまったくの脚色という。『虹を掴む』は素人百姓から立身出世した男が主人公で、モデルは三好興産社長の三好淳之。
経済や企業もの以外の分野(法律・政治・社会問題など)を扱った作品を本項目で別記する。
政界、経済界における成功者の他に、一匹狼的な立場で金と女を獲得する人物や、任侠界の人物を描く、サラリーマンにとってのファンタジー的作品も多い。『夜の配当』と続編『非常階段』では一流企業を退職してトラブルコンサルタント業を開いて違法合法すれすれのアイデアで成功する人物、『野望の青春』は観光業界で活躍する若者3人組、『濡れた銭』では「脱税の鬼」と呼ばれる男が主人公。『銀座遊侠伝』ではヤクザの異端児、祐天のテルを描いた。『うぶい奴ら』は浮世絵ブーム、『お待ちなせえ』も絵画業界が舞台。『と金紳士』は文庫版では最も売れて、4巻で85万5千部、次いで『野望の青春』(2巻)が40万4千部。『と金紳士』『色魔』などは後に漫画化されてアダルト漫画の先駆となった。
戦後の混乱期、高度成長に翻弄され、多様化するモラルの中に色と欲に生きた男女の有り様を描いた作品群。 『男を飼う』は、SM、女装、様々なフェティシズムを扱っている。『苦い旋律』はレズビアン、ニューハーフ物の実質的嚆矢で、女性誌『女性セブン』に連載されて大反響を呼び、続いてエッセイ「浮世さまざま」、小説『青い旋律』を連載。他にも『薔薇の咲く道』など、女性を主人公にした風俗小説も多く書いた。
風俗小説のうち、直接的な性描写を用いた作品は官能小説(ポルノ小説)とも呼ばれ、梶山は、「かならず新しいセックスの知識とか性行為における技術などを紹介してある」と述べていた。また猥褻罪で3度検挙され、自身も「どこまで書いたらワイセツ文書になるか実験中だ」と話したとも言われる。時代的に性(セックス)解放期にあたり[7]、梶山特有のサービス精神もあり[7]、それが色濃く出た[7]。
1960年に『週刊文春』の「新鋭作家五人による競作推理小説シリーズ」第三弾として『朝は死んでいた』を連載、当時の実際の梶山グループを彷彿とさせる記者チームによる犯人調査を描いた。 現実に起きた事件を題材にした作品集『知能犯』、山陽新幹線の用地買収に絡む疑獄事件を扱った『女の警察』、架空の国での経済成長の影にある陰謀を描く『大統領の殺し屋』、下山事件を題材にした「俺が殺した」、防衛庁の不祥事を題材にした「小説 防衛庁」、建築学会を舞台にした復讐物語『女の斜塔』などがある。返還直後の沖縄を舞台にした「那覇心中」、GHQ報道統制化の「スワッピング心中事件」など、世情に深く関わる作品もある。 『女の斜塔』を『女性明星』に連載するにあたっては、全国の貸本屋でどういうメロドラマが受けているかを調査し、さらい若い女性を集めてマーケッティング・リサーチしてストーリー、登場人物を決めた。
歴史もののうち、作者が創造したキャラクターや架空の人物を主人公にしたものや、主として江戸が舞台の時代劇の作品群。
海外を舞台にした作品として、アメリカを舞台にした「カポネ大いに泣く」「ルーズベルト大いに笑う」「めりけん無宿」の三部作、メキシコを舞台にした「甘い廃坑」、アメリカでビジネスを成功する男を描いた『日本人ここにあり』、南米開墾を題材にした『稲妻よ、奔れ』がある。これらの執筆のために、当時は珍しかった海外への取材旅行もしばしば行った。
当時の事件や世相、話題の人物などをモデルにした小説を多く発表。ただし内容は虚実入り交ぜたものもあった。 『小説GHQ』は戦後の占領政策、財閥解体の内実を大衆小説として書いたもので、『週刊朝日』連載中には河盛好蔵から「大デュマ」にも喩えられた。連載終了後に改稿しようとしていたが果たせず、単行本化はされたのは死後の1976年だった[27]。
『わが鎮魂歌』は自伝的長編小説で、高等師範時代から『新思潮』の時期が舞台。ただし死後に夫人により、多くの"換骨奪胎"があったことが明かされている。これと同じ中山俊吉を主人公にした自伝的作品に「髪結いの亭主」(1970年)、「負け犬」(1975年)、「人生至る所に」(1975年)、「小説・梶山交友録 孟宗竹」(1975年)がある。
酒を通じた交友範囲も広く[1]、心友と呼んだ山口瞳はルポライター時代(山口はサントリー宣伝部)からの付き合いで、講演旅行でもしばしば同行した[注 19]。自民党の出馬要請を止めたのは結城昌治で、『噂』編集顧問に結城への依頼を考えていた。また義兄弟の契りを結んだという黒岩重吾、ソウル中学の同学年で後に電通最高顧問成田豊、田辺茂一、大宅壮一、清水一行ら交友が広く[1][4][7][8]、遺言に従い盛大なお通夜を企画したが、柴田錬三郎が「おそらく、2~3000人を越える会合になるからまとまりはつくまい」と言ったといわれる[7]。
「飲む打つ買うは男の証」が口ぐせで、夫人は「良くも悪くも男らしい男だった」と評した。煙草は缶入りピース専門で1日二つ(100本)。日本酒なら軽く一升の酒豪[7]。朝のビールに始まって、来客があれば時を選ばずウィスキー。晴れても降っても銀座へ出陣が日課。出陣は平均月に30回といわれた。今東光は「先日もなァ、『酒を無茶飲みするな、自殺行為だぞ』と注意したんだが、梶山はゲラゲラ笑ってな。よぼよぼのろくな作品も書けない芸術院の奴らが10匹死ぬより、梶山一人を亡くしたことが、どんなに日本の小説に打撃か、考えてみてくれよ。今日出海、平岩弓枝、黒岩重吾らと四国松山に文化講演に出かけたとき、梶山は前の日から飲みっぱなしで、仲間に出番だと促されて演壇に立ったんだが、何を言っていいのか分からんくらいに酔ってる。そこで梶山は『人生はオ××であります、おわりッ』とやったんだぞ」などと述べている[7]。
これには異説があり[7]、柴田錬三郎の『大将』のモデルになった坪内寿夫が奥道後温泉に建てたホテルの開業記念式典に来賓として招かれたが、前夜柴田にドボンで負け続けて多額の借金を作ってしまい、挨拶で「××××(女性器の卑語)と言ったら借金を帳消しにしてやる」と言われ、「私はポルノ作家の梶山季之であります。人生は、××××であります」と挨拶した」といわれる[35][36]。
「物書きが出世払いで飲める店をやらないか」と銀座の若いママに話を持ち掛け1962年4月、銀座にバー「魔里」を開店[4][37][38]。以来幾多の作家たちが集い、営業を続けていたが[39]、2021年1月、ママの大久保マリ子が亡くなり、60年近い歴史に幕を下ろした[4]。大久保は「梶山が死んでからセックスはしていない」と話していた[37]。
同じ広島出身で同年生れの、雑誌『酒』編集者佐々木久子は公私ともに親しく、また毎年同誌の恒例企画だった正月号での「文壇酒徒番附」では西の横綱を張り続けた[7][40][41]。佐々木は「本当に酒は強かった。広島までの新幹線で食堂車の酒をカラにしたことがあります」と述べている[7]。「文壇酒徒番附」では1965年版から1974年版まで10年間西の横綱を張り続け[40]、"永遠の横綱"との称号を授かっていたが、1974年頃から酒量が目立って落ち、ウイスキーを嗜む程度で、いつも眠ったような顔になったといわれる[40]、「文壇酒徒番附」は1975年版で最後となり[40]、この年前頭に転落し、有終の美を飾れなかった[40]。代わりに1975年版の「文壇酒徒番附」で梶山に代わり、西の横綱に番付を上げたのが黒岩重吾[40]。東の横綱は二年連続で野坂昭如[注 20]。
梶山を恩師として挙げる広島大学の後輩・大下英治は梶山の十三回忌の頃に梶山の評伝の執筆に取りかかり[5]、「無頼派作家の華やかな女性関係にも触れざるを得ない」ことから梶山の妻に許可を得て取材に入ったが、やはり証言が生々し過ぎ、評伝としては刊行できなかった[5]。その後妻美那江をはじめ当時取材した関係者の多くが亡くなったことから、あらためて活字化する意義を感じ、2023年に加筆し、『最後の無頼派作家 梶山季之』を刊行した[5][42]。
金離れがよく、誰と飲んでも相手に払わせない。仕事を抱えているときはスーッとトイレに行くように立ってそのまま消えるが、勘定は済んでいる。客の数に合わせてクルマまで呼んでおくという気配りで、長身で優しくきれいな遊びをするので女性によくもてた。夫人との間に「素人の女性に手を出さない。同一女性とは3回以上関係しない。女性の部屋に行かない」の『三ヵ条の御誓文』があったといわれる。
女性の名器の例え"ミミズ千匹"を一般に知らしめたといわれる[20]『女の警察』執筆は、中国地方で400万円のマンションを建てた温泉芸者に会いに行ったことがきっかけ。某有名人が毎月30万を送ってくれ、他にもいろいろ旦那がいて、その訳は「私のはミミズ千匹らしいのです」と答えた。さらに「30秒我慢できたら、私のマンションを差し上げます」とまで言われたが梶山は17秒フラットでダウンし、「お強い方ですわ」と言われた。女に対してもバイタリティー旺盛で、講演旅行4日間のうち3晩は女を変え、一晩に2人相手にすることもあったという。その体験は読者への情報とサービスになった。しかし律儀型浮気と言われ、生活の乱れも人に恨まれることもなかったという[20]。
梶山はボクシングを除いて、スポーツに興味を示さなかったが、可愛がられていた松田恒次の影響もあり広島カープを熱心に応援するようになった[43]。1957年に広島県出身者の阿川弘之、藤原弘達、木村功、桂芳久、杉村春子で「7の会」を結成(または毎年故郷の銘酒「賀茂鶴」を呑む「カモツル会」)[7]。また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し(中心になって動いたのは前出の佐々木久子[44])、毎年激励会を開いた。1973年7月にホテルニューオータニで開かれたカープを励ますパーティでは、選手を鼓舞しようと「もし優勝できたら、カープ全員に、芸者を揚げて一晩遊ばせてあげる」と不穏当な発言をした[7][43]。広島カープは梶山の没した1975年秋に初優勝を果たす。優勝を決めた後楽園球場のスタンドには夫の遺影を持った夫人の姿があった。
1962年から都市センターホテルの一室を借り切って仕事場にし、死去まで続いていた。当時そこでフロントクラークとして勤めていたのが森村誠一で、原稿を預かって編集者に渡す時に盗み読みしていたという[45]。「俺の方が面白い」と思えて自信を持ったのが作家になった切っ掛けで、森村は「私は梶山さんのもぐりの弟子」と話している[46][47]。
1974年の秋に欧州旅行へ出掛ける前に「万一のことがあったら」と遺書を書いていたが[7]、翌年急逝し開かれた遺書には当時14歳の長女へ、「美季、父親がポルノ作家などと呼ばれたために、ずいぶん辛いこともあっただろうが、気にしないでほしい。ここ数年の自分の性描写は言論の自由についての闘いだった。自分では筋を通したつもりだ。いずれ、父の志は高きにあったことをわかってくれると信じている」と書かれていた。梶山は娘が学校で「ポルノちゃん」というあだ名をつけられているのを知ったとき酷く落ち込んでいたといわれる[7][10][48]。
『漫画サンデー』に『非常階段』など4本を連載した縁で、実業之日本社で編集長だった峯島正行が1972年に『週刊小説』を創刊する際にも『日本人ここにあり』を連載するとともに、先輩の柴田錬三郎、黒岩重吾も紹介し、また広告面で京城中学からの友人である電通の成田豊を紹介した。1975年に『週刊小説』に連載中だった「渡り鳥のジョー・北投の椿事」が最後の発表原稿となり、死後発売された掲載号では柴田、黒岩の対談も掲載された。
青地晨がある猥褻本出版の裁判で学識経験者として証人として出廷した際に、勉強にと地下出版の春本十数冊を貸した。返却された時、本は2冊多かった。[49]
生年について当時の資料には、大正生まれ、昭和2年、3年、4年など諸説が記載されており、これは当人が曖昧にしていたためでだが、その理由は明かさないままだった。
1963年に直木賞候補となって落選した夜、銀座で飲んでいると、選考委員の一人が近づいて来て「あんたと瀬戸内には、賞はやらんよ」と言われ、直木賞には縁が無いと振っきれたと語っている[50]。
1971年に渋谷税務署の一日署長を務めた。1974年6-8月にはクイズ番組「ほんものは誰だ!」(日本テレビ)のレギュラー回答者として出演した。
死後30年が経ち、『赤いダイヤ』(2004年)『見切り千両』(2005年)がパンローリングから再刊。2007年には広島で、シンポジウム「時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す」開催。続いて同年、岩波現代文庫で『黒の試走車』『族譜・李朝残影』『ルポ・戦後縦断』が相次いで刊行、2008年には論創社から『彫辰捕物帖』が再刊された。
梶山自身が「脚本」も書いた作品については、「2.15 ラジオドラマ脚本」から「2.17 映画脚本」の項目に別記。
横山まさみちによるマンガ化作品は電子書籍で購入可能。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.