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松田 恒次(まつだ つねじ、1895年11月24日 - 1970年11月15日)は、大阪府大阪市出身の実業家。
東洋工業(現マツダ)3代目社長。実父は東洋工業創始者の松田重次郎、息子にマツダ4代目社長の松田耕平。自身から孫の松田元と3代続けて広島東洋カープオーナーである。
1895年、大阪市の天満橋筋で鉄工所を営んでいた父松田重次郎、母千代の長男として生まれる。重次郎が造船技術者として呉や佐世保など各地の海軍工廠で勤務したため、幼少期は大阪で祖母に育てられていた。
重次郎と同様に機械好きで、学校から帰ると重次郎の経営する鉄工所で手伝いをしていた。1911年、大阪市立工業学校に入学、野球部に入った。卒業後1915年、旧陸軍宇治火薬製造所に就職。1921年に重次郎は大阪から故郷の広島に帰っている。1927年、父・重次郎が広島で経営する東洋コルク工業に入社、工務係に配属。同年、社名は東洋工業に変更された。1951年12月、東洋工業社長に就任。
それまで三輪自動車メーカーだった東洋工業を四輪自動車メーカーに育て上げた。ファミリア、ルーチェが大ヒット、R360クーペ、キャロル、ボンゴ、カペラを投入し、大きくシェアを伸ばし、一時はトヨタ自動車・日産自動車に次ぐ国内第3位の自動車メーカーにまでなった。1966年、仁保島南側が大規模に干拓され、東洋工業の乗用車専門工場が完成。以降、東洋工業はトラック・乗用車双方を生産する世界有数の総合自動車メーカーの地位を固めた。
恒次は世界の誰もが成し遂げられなかったロータリーエンジンの開発・量産化に、山本健一とともに心血を注ぎ込んだ。1965年、乗用車輸入自由化に向け、通商産業省主導による自動車業界再編が噂されていた。後発メーカーである東洋工業はその波に飲み込まれ、統合・合併の危機が迫っていた。「技術は永遠に革新である」をモットーとする恒次は事態打開を目指し、「独自技術を保つためにロータリーエンジンをやる。通産行政に抵抗する」とぶち上げた(ロータリーエンジン#マツダを参照)。そして、ロータリーエンジンの開発に成功し、コスモスポーツ発売にこぎつけた。
以上のように、今日のマツダの原形は松田恒次によって創られたと言っても過言ではない。 1970年11月15日、肺感染症のため広島市の自宅にて死去、享年74歳[1]。 息子の耕平が後を継いだ。1961年藍綬褒章、1968年勲二等瑞宝章、1970年勲二等旭日重光章。2003年には日本自動車殿堂入り。
「シリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち 第2回『走れ、三輪トラック』(2015年 NHK総合 ドキュメンタリードラマ 松田重次郎役:伊武雅刀 恒次役:高橋和也 脚本・監督:坂田能成)
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