本田 宗一郎(、1906年〈明治39年〉11月17日 - 1991年〈平成3年〉8月5日)は、日本の実業家、技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。位階は正三位。
概要 本田(ほんだ) 宗一郎(そういちろう), 生誕 ...
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1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(後の二俣町→天竜市、現在の浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻・みかの長男として生まれる。光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)の在校中に自動車を初めて目にしたほか、アート・スミスの曲芸飛行を見学するため、遠く離れた浜松町和地山練兵場まで自転車を三角乗り[2][注釈 1]で訪れ、飛行機を初めて目にしている。
1991年(平成3年)8月5日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳没[1]。葬儀は宗一郎の遺言通り、家族で静かに送られた。同日正三位、勲一等旭日大綬章贈位。墓所は静岡県駿東郡小山町の富士スピードウェイに隣接する富士霊園にある。
本田の死から19年後の2010年(平成22年)4月1日、出生地である静岡県浜松市天竜区に本田宗一郎ものづくり伝承館がオープンした。建物は国の登録有形文化財(建造物)に登録されている旧二俣町役場を改装したものである。
人柄
- 本田技研創業後の唯一無二の相棒だった藤沢武夫の死の翌年の1989年に、本田が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たしたときに、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけた[7]。
- 従業員からは親しみをこめて「オヤジさん」と呼ばれていたが、一方でともに仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」とも述べている。作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴ったりしていた。しかし、殴られた者よりも殴った本田の方が泣いていたこともあったという。また怒る際、「人はよく、かわいいからこそ怒るなんて言うが、おれはそうじゃない。そのときはほんとに憎たらしくなる。なぜなら、おれたちのつくる商品は人命にかかわるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない」と言ったとされる[8]。
- 1952年(昭和27年)に藍綬褒章を皇居で授与されるにあたり、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとしたが、さすがに周囲に止められ、最終的には藤沢武夫が用意したモーニング(燕尾服)を借りて出席した。本人曰く燕尾服を持っていなかったためそのような発言をしたとのことである。
- 差別を「諸悪の根源」とし、差別を徹底して嫌っていた。子どものころに「家族の中でお風呂に入る順番が決まっている」ことに気づいてからだという。「人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった」。
- 松阪市で開かれたある会議に参加した本田は、管理職の1人が松阪牛の料理店・和田金での昼食を提案したところ、「(和田金に会議の参加者)50人も一緒に食事できる部屋はあるのか」と尋ね、一部管理職以外の参加者が弁当を食べることを知ると、「じゃあ、おれも弁当にする」と即答した[11][12][13]。
- 社長退職後、全国のHondaディーラー店を御礼参りする。その際、整備担当が握手を求めたが、自分の手が油だらけなことに気がつき、洗いに行こうとする。しかし、本田は自らも技術者であったため、油まみれの手での握手に喜んで応じた[14]。
- 死去の2日前、妻のさちに「自分を背負って歩いてくれ」と言い、さちは点滴の管をぶら下げた本田を背負い病室の中を歩いた。そして「満足だった」という言葉を遺した。弔問時に遺族からそのエピソードを聞いた親友の井深大は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したという[15]。
- その井深とは、ともに技術者出身でありシンパシーもあって、出会ってから自然と親友となった。そして、「互いの頼みごとは断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたという。また互いに手紙をやり取りしあうことも忘れず、あるときに井深が「ワープロで手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打っていたが、寸前に本田が帰らぬ人となり、その手紙を送ることは叶わなかった[15]。
- 三ない運動に関して、「高校生から教育の名のもとにバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と発言し、終始批判的なスタンスを取り続けた[16]。この考えはのちの本田首脳陣にも引き継がれ、徳島県の生光学園中学校・高等学校と共同実施する高校生への安全教習や、元会長の池忠彦による運動を推進する自治体への批判発言という形で具現化されている。
- 死の直前、「社葬はするな」と言い残した。その理由は、「車やオートバイのおかげで今まで生きてこられたのに、自分の葬式で渋滞を起こすような迷惑はかけられない」というものであった[17]。
経営者として
- 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作り米と交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、二輪車の研究が始まる[18][出典無効]。
- 1950年代前半、生来の機械好きが高じて資本金600万円の時代に総額4億円の外国製工作機械を購入。しかし1955年には100社を超えるオートバイメーカーが撤退する不況が訪れ、ダイヤモンド誌に「高い金を出して機械を買っても使い切れていない」と過剰な設備投資を批判されるが、後に「会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。国民の外貨は決してムダにはなるまい。」と当時の心境を語っている。会社は、シェア1位の東京発動機(トーハツ)が買収に乗り出すほどの苦境に陥るものの、三菱銀行京橋支店が社是「世界的視野に立て」に共感して融資を行い辛うじて踏みとどまった[19]。
- 会社のハンコを藤沢に預け、経営もすべて任せていた。本田は社印も実印も見たことがなく、技術部門に集中し、のちに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている[20]。互いに「西落合」(本田の自宅のある地)、「六本木」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており身内を入社させなかった[注釈 5]。本田は社名に個人の姓を付したことも後悔していた[要出典]。
- 経営難に陥ったときに藤沢の助言でマン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた。
- 邱永漢・渡部昇一『アジア共円圏の時代』によると、作家・経済評論家の邱永漢に、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを問われた本田は「いいほうを『台湾』、悪いほうを『韓国』」と答えたという。韓国について、「『どうしてですか?』と尋ねると、『向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、金を返してもらった。その翌日に朴正煕が殺されたんだ』とおっしゃった」という[22]。なお、本田がオートバイを作るのを教えたとされる台湾および韓国のメーカーは本書では明らかにされていない。ちなみに朴正煕が殺された1979年当時、ホンダが韓国で提携していたのは起亜技研(起亜グループの二輪車部門)であり、実際にホンダは1975年より続いた起亜技研との合弁事業を1979年に解消して資本撤退している[23]が、一方で技術供与は継続しており、起亜のバイクが「KIA Honda」ブランドで販売されていた。また、1981年に起亜技研が大林グループ入りして大林自動車となった際には大林自動車にも技術供与を行い、大林のバイクが「DAELIM Honda」ブランドで販売されていた[24][出典無効][25]。
技術者として
- エンジンを水冷か空冷かのどちらにするかという論争がホンダの社内で巻き起こったころ、若い技術者が公害規制をクリアする意味で水冷だと主張したのに対し、本田は「砂漠の真ん中でエンストしたときに水なんかあるか!空冷だ」と主張したという。実際に一時は本田の意見が通りホンダ・1300の発売に至っているが、同時にこれは久米是志の出社拒否騒動に代表される若手エンジニアの反発を招いた(ホンダ・RA302およびホンダ・1300#本田宗一郎と空冷も参照のこと)。しかしさまざまなテストの結果、最終的に水冷の方が優れていることが分かり、ホンダは水冷エンジン路線に転換する。また、若手エンジニアの訴えを聞いた藤沢武夫が、「あなたは社長なのか、技術者なのか」と詰め寄り、社長業に徹するように説得した。その後本田は「自分には技術が分からなくなったのかもしれない」と思い、社長を退いたという[26]。ホンダF1チーム監督であった中村良夫は、「結局、本田社長はもっとも基本的な熱力学の物理法則を理解していないので、いくらいっても論争がかみ合わないのです」「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と語っている。
- 2ストロークエンジンを「水鉄砲の竹筒と同じだ」などと言って忌避していたことが伝えられる[27]。ホンダ・スーパーカブの開発時、当時は50 ccエンジンであれば2ストロークが一般的だったところ、あえて4ストロークエンジンを開発し採用した[28]。同様にF1とWGPでも4ストロークエンジンで成功を収めた。現在2ストロークは一部例外を除いて絶滅し、4ストロークエンジンが主流となっていることから、この分野では先見の明があると言える。ただし1960年代のモトクロスでは2ストロークが猛威を振るう環境だったため、社内の有志たちが密かに開発の上で本田に直訴し、「やる以上は世界一になれ」と言われて、やっと開発を認めてもらったこともあった(1979年にモトクロス世界選手権500ccクラスを制覇)[29]。
- 上述の褒章授与のエピソードにもあるように、技術者の服装として「白いツナギ」に強いこだわりを持っていたことで知られる。これは「汚れが目立てば汚さないように努め、機械本体もきれいに使うようになる」という考えに起因するもので[30]、本田の死後もホンダ社内では、技術系の社員は(社長も含め)基本的に全員白いツナギを着用する慣習が続いている[31]。
注釈
現在の「本田財団」が行っている事業「YES奨励賞」の原点。
ただし、本田の弟・弁二郎の「本田金属技術」や息子・博俊の「無限」など、親族経営の関連会社は存在する。
出典
他社の車も乗せて ホンダN360欠陥テスト場へ『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月10日朝刊 12版 22面
山本祐輔『藤沢武夫の研究』かのう書房、1993年、236頁。
NHK あの人からのメッセージ番組内で、本田宗一郎が自ら経緯を語る
『本田技研、韓国での二輪車合弁事業を解消、起亜産業から資本撤退』 - 日経産業新聞 1979年9月24日
『本田、韓国で起亜技研に続き大林工業に二輪車技術供与~鈴木自・暁星機械組と激突』 - 日経産業新聞 1981年12月12日。『帰ってくれ』と言われたはずの1979年以降もホンダから起亜技研への技術供与が継続していたことを示す。
- 『Mr.HONDA Forever』(1991年・本田技研工業、社内報『ポールポジション』の追悼特別版)
- 『HONDA 50years ホンダ50年史』(1998年・八重洲出版)
- 井出耕也『ホンダ伝』(2002年・ワック)
- 中部博『定本 ホンダ宗一郎伝 飽くなき挑戦 大いなる勇気』(2001年・三樹書房)
- 藤沢, 武夫『経営に終わりはない』〈文春文庫〉1998年。
- 佐藤正明『ホンダ神話 教祖のなき後で』(1995年・文藝春秋/新版:2008年・文春文庫 全2巻)
- 城山三郎『本田宗一郎との100時間 人間紀行』(1984年・講談社/新版:2010年・PHPパブリッシング)
- 海老沢泰久『F1地上の夢』(1987年・朝日新聞社、のち朝日文庫)
- 富樫ヨーコ『いつか勝てる ホンダが二輪の世界チャンピオンに復帰した日』(1988年・徳間書店)
- 井深大『わが友本田宗一郎』(1991年・ごま書房/新版:2010年・ごま書房新社)
- 梶原一明『本田宗一郎 思うままに生きろ』(1992年・講談社、のち講談社文庫)
- 『本田宗一郎の見方・考え方』(2007年・PHP研究所)
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