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バラ科バラ属の植物 ウィキペディアから
バラ(薔薇)は、バラ科バラ属の総称である。あるいは、そのうち特に園芸種(園芸バラ・栽培バラ)を総称する(花が鑑賞用や食用とされる[1] )。本項では、後者の園芸バラ・栽培バラを扱うこととする。
バラ属の成形は、低木(灌木)、または木本性のつる植物で、葉や茎に棘を持つものが多い。葉は1回奇数羽状複葉。花は5枚の花びらと多数の雄蘂を持つ(ただし、園芸種では大部分が八重咲きである)。北半球の温帯域に広く自生しているが、チベット周辺、中国雲南省からミャンマーにかけてが主産地で、ここから中近東、ヨーロッパへ、また極東から北アメリカへと伝播した。南半球にはバラは自生しない。
「ばら」の名は和語で、「いばら」の転訛したものと言われる。漢語「薔薇」の字をあてるのが通常だが、この語はまた音読みで「そうび」「しょうび」とも読む。漢語には「玫瑰」(まいかい)や「月季」(げっき)の異称もある[注 1]。
ヨーロッパではラテン語の rosa に由来する名で呼ぶ言語が多く、また同じ語が別義として「薔薇色」として「ピンク色」の意味をもつことが多い。
バラの分類方法は定まったものがなく、以下に示すのは一例である。 また、バラにはしばしば略式記号が用いられるため、それもともに記述する。
主なもののみ。
後述の「ラ・フランス」より前の品種をいう。野生の原種であるワイルドローズを含めるが、含めない場合もある。主な系列としてガリカ、ダマスク、アルバ、ケンティフォリア(センティフォリア)などがある。優雅な花形に豊かな香りが特徴である。また一季咲きのものが多い。
後述の「ラ・フランス」以降に作出されたものを指す。
など
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その他、小型つる性 (ショートクライマー)、大型つる性 (ロングクライマー)、枝垂れ状 (ランブラー)、匍匐性 (グラウンドカバー)など細かく分類される場合がある。
花を鑑賞するため栽培されることが圧倒的に多いが、他にもダマスクローズ(Damask rose)の花弁から精油を抽出した「ローズオイル(Rose oil)」は、香水の原料やアロマセラピーに用いられる。
花弁を蒸留すると香水となるバラ油(ローズオイル)と副産物の液体「ローズウォーター(rose water)」が得られる。
またバラの実である「ローズヒップ」は、ビタミンCを多量に含み強い酸味がある。花弁と同様に、ローズヒップオイルやローズヒップティーとして利用される。
バラが人類の歴史に登場するのは古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』である。この詩の中には、バラの棘について触れた箇所がある[5]。
紀元前1500年頃の古代オリエントの地では約4種の野生バラがあり、ここから交雑によっていくつかの品種が誕生したといわれている[6]。バラはギリシャ時代を経て古代ローマへと伝播し、ヨーロッパの文化に定着することとなる[6]。
古代ギリシア・ローマでは、バラは愛の女神アプロディテもしくはウェヌス(ヴィーナス)と関係づけられた[5]。女神フローラ(クローリス)が、美しいニンフの亡骸に不死の花に変えようと考え、神々が恩恵を与えてバラに変えたという伝説が残っている[7][8]。また香りを愛好され、香油も作られた。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラはバラを愛好し[5]、ユリウス・カエサルを歓待したときもふんだんにバラの花や香油を使用したと伝えられている。
ローマにおいてもバラの香油は愛好され、北アフリカや中近東の属州で盛んにバラの栽培が行われた。クレオパトラと同様にバラを愛した人物に、暴君として知られる第5代ローマ皇帝ネロがいる[5]。彼がお気に入りの貴族たちを招いて開いた宴会では、庭園の池にバラが浮かべられ、バラ水が噴き出す噴水があり、部屋はバラで飾られ、皇帝が合図をすると天井からバラが降り注ぎ、料理にもバラの花が使われていたと伝えられる。
中世ヨーロッパではバラの美しさや芳香が「人々を惑わすもの」としてキリスト教会によってタブーとされ、修道院で薬草として栽培されるにとどまった[5]。
イスラム世界では、白バラはムハンマドを表し、赤バラが唯一神アッラーを表すとされた。また、香油などが生産され愛好された。『千夜一夜物語』などやウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』にもバラについての記述がある。
十字軍以降、中近東のバラがヨーロッパに紹介され、ルネサンスの頃には再び人々の愛好の対象になった。イタリアのボッティチェッリの傑作「ヴィーナスの誕生」においてもバラが描かれ、美の象徴とされているほか、ダンテの『神曲』天国篇にも天上に聖人や天使の集う純白の「天上の薔薇」として登場する。またカトリック教会は聖母マリアの雅称として「奇しきばらの花」(Rosa Mystica)と呼ぶようになる。イギリス、オランダでは、16世末にオーストリアから輸入されたことから、ブライアー・ローズと呼ばれる[9]。
ナポレオン・ボナパルトの皇后ジョゼフィーヌはバラを愛好し、夫が戦争をしている間も、敵国とバラに関する情報交換や原種の蒐集をしていた。ヨーロッパのみならず日本や中国など、世界中からバラを取り寄せマルメゾン城に植栽させる一方、ルドゥーテに「バラ図譜」を描かせた[5]。
このころにはアンドレ・デュポンによる人為交配(人工授粉)による育種の技術が確立された[5]。ナポレオン失脚後、またジョゼフィーヌ没後も彼女の造営したバラ園では原種の蒐集、品種改良が行われ、19世紀半ばにはバラの品種数は3千種を超え、これが観賞植物としての現在のバラの基礎となった。
1867年にフランスのギョーがハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトル・ベルディエ」を母にティー系の「マダム・ブラビー」を交配して「ラ・フランス」を作出し、これがモダンローズの第1号となり、品種改良が一層進むことになった。「ラ・フランス」が冬を除けば一年中花を咲かせる性質は「四季咲き性」といわれ、画期的なものであった。
英国のベネットはこれに追随し、ティー系「デボニエンシス」とハイブリッド・パーペチュアル系「ビクトール・ベルディエ」を交配し、「レディ・マリー・フィッツウィリアム」を1882年に作り出し、これを新しいバラの系統として「ハイブリッド・ティー」系と命名した。ベネットの新品種は整った花容から、交配の親として広く利用されていった。
当時のハイブリッド・ティー系には純粋な黄色の花はなかった。そこで、黄色のハイブリッド・ティー系の品種を作り出すことが課題とされた。1900年にフランスのジョセフ・ペルネ=デュシェ (Joseph Pernet-Ducher) が「アントワーヌ・デュシェ」の実生に原種の「ロサ・フェティダ(オーストリアン・イエロー)」をかけあわせて「ソレイユ・ドール」を作出、黄バラ第1号となった。しかし「ソレイユ・ドール」は「四季咲き性」がないので、一層の改良が加えられ、1907年には四季咲き性の「リヨン・ローズ」、さらに1920年には完全な黄色のバラ「スブニール・ド・クロージュ」を完成させた。ドイツのコルデスは「スブニール・ド・クロージュ」の子の「ジュリアン・ポタン」から1933年に「ゲハイムラート・ドイスゲルヒ(ゴールデン・ラピチュア)」を作出した。これが今の黄色のバラの親である。
コルデスは黄色のみならず、赤バラの改良にも尽力した。1935年に「クリムゾン・グローリー」を作り出し、これが後世の赤バラの品種改良に広く利用されることになる。英国では1912年に「オフェリア」を発表、花容、芳香に優れるだけでなく実をつけ易いことから、多くの品種の親になる。このようなヨーロッパでの品種改良は、第二次世界大戦で中断する。品種改良の中心は、戦火に見舞われないアメリカ合衆国に移る。1940年にラマーツが「クリムゾン・グローリー」から「シャーロット・アームストロング」を作り出し、フランスのメイアンの「マダム・アントワーヌ・メイアン」がアメリカで「ピース」と名づけられ、1945年に売り出された。「ピース」は大きな花をつけることから「巨大輪」と呼ばれ、品種改良に利用されるとともに、戦後のバラの流行を作り出すことになる。
デンマークのポールセン兄弟が従来ある「ドワーフ・ポリアンサ系」の花を大きくし、北ヨーロッパの寒さに耐えられる品種を作出しようとしていた。1911年にポリアンサ系の「マダム・ノババード・レババースル」とランブラー系の「ドロシー・パーキンス」をかけ合わせ「エレン・ポールセン」を作り出し、続く1924年にはポリアンサ系の「オルレアンローズ」とハイブリッド・ティー系「レッドスター」の交配で「エルゼポールセン」「キルステンポールセン」などを出し、「ハイブリッド・ポリアンサ系」と命名された。
これを受けて、アメリカのブーナーなどが改良を続け、この系統は「フロリバンダ系」と命名された。さらにドイツのコルデスが1940年に「ピノキオ」を発表した。ブーナーがこれに追随して「レッド・ピノキオ」「ラベンダー・ピノキオ」を発表し、これがフロリバンダ系の完成と言われる。
その後、フロリバンダ系の改良は色の多様性を求めることに重点がおかれ、1944年にはドイツのタンタウが「フロラドラ」、1949年ブーナーが「マスケラード」を、1951年にコルデスが「インデペンデンス」を作出した。「フロリバンダ系」は新しい系統であるが、切り花ではスプレーバラとして利用されるため、多くの品種が作り出されることとなった、またハイブリッド・ティーとの交配も試みられ、ますます多様性を強めている。
青い色素を持つ原種バラは発見されておらず、交配育種法では完全に青いバラの作出は不可能とされてきた。いくつかの品種は「青バラ」と呼ばれるが、それらは主に赤バラから赤い色素を抜くことで紫や藤色といった青系色にしたものである。
しかし、純粋な青さを湛えたバラを作り出すことは、青いチューリップと同様に世界中の育種家の夢であり、各国で品種改良競争が行われた。オールド・ローズでは「カーディナル・ド・リシュリュー」が青バラとして知られていた。1957年、アメリカのフィッシャーが「スターリング・シルバー」を出し青バラの決定版とされた。しかし、その後も品種改良がなされ、1957年にはタンタウが一層青い「ブルームーン」を、コルデスが1964年に「ケルナーカーニバル」、1974年にフランスのメイアンが「シャルル・ド・ゴール」を発表した。日本でも青いバラに対する挑戦は盛んで、今日までに数多くの品種が生み出され、世界でも注目を浴びている。2008年現在、一般的な交配による品種改良では、岐阜県の河本バラ園が2002年に発表した「ブルーヘブン」、アマチュア育成家である小林森治が1992年に発表した「青龍」や2006年に発表した「ターンブルー」等が、青に近い品種として知られている。
一方、サントリーの福井祐子らの研究により、バラ独自の青い色素が発見され[10]、「ロザシアニン」(Rosacyanin) と命名された。しかし、この色素を持つ「青龍」は花粉をほとんど出さないために、交配親としては不向きとされており、遺伝子操作に頼らない青バラへの道は依然険しく長いままではある。
中国の唐の末期の詩人高駢(821年-887年)の七言絶句『山亭夏日』には薔薇(しょうび)としてバラが詠まれている[11][要文献特定詳細情報][12][13]。『和漢古典植物名精解』によると「牆薇 (墻薇・薔薇)」という表記の起源について考察がある[14]。
中国の庭園で伝統的に栽培されたバラは8種である[6]。18世紀に中国を旅したヨーロッパ人が中国庭園で見たバラは、灌木性で四季咲き、多くは重弁の品種群であった[6]。特に華中地域では優れたバラ類が庭園に栽培されており、ヨーロッパにも持ち込まれた[15]。
カール・フォン・リンネは1753年、ロサ・インディカ(R. indica) について年報『植物の種』Species Plantarum に掲載した[16]。またジャカンは1768年、ロサ・キネンシス(R. chinensis) について植物誌『Observationum Botanicarum Pars III』に記載した[16][注 2]。これらは赤花の園芸品種であったが、近縁の品種であったと考えられている[16]。中国のバラはヨーロッパに先んじて日本へも伝来した[16]。
この節の加筆が望まれています。 |
日本はバラの自生地として世界的に知られており、品種改良に使用された原種のうち3種類(ノイバラ[17]、テリハノイバラ、ハマナス)は日本原産である。ノイバラの果実は利尿作用があるなど薬用として利用された[注 3]。
古くバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ[14]、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌がある[19]。『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。常陸国にはこの故事にちなむ茨城(うばらき)という地名があり、茨城県の県名の由来ともなっている[20]。
また、中国で栽培されていたバラもその多くは江戸時代までに日本に渡来している[6]。江戸時代には身分・職業を問わず園芸が流行したが、中国原産のバラであるモッコウバラ、コウシンバラなどが園芸品種として栽培されていた。江戸時代に日本を訪れたドイツ人ケンペルも「日本でバラが栽培されている」ことを記録している。また与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残している。
このように日本人にゆかりのある植物であるが、バラが日本でも愛好されるようになるのは明治以降である。
明治維新を迎えると、明治政府は「ラ・フランス(和名:天地開) 」を農業試験用の植物として取り寄せ、青山官制農園(現:東京大学農学部)で栽培させた。香りを嗅ごうと見物客がしばしば訪れたので、株には金網の柵がかけられたという。
その後、バラが接ぎ木で増やせることから、優秀な接ぎ木職人のいる東京郊外の埼玉県川口市安行や、京阪神郊外の兵庫県宝塚市山本で栽培が行われるようになった。バラは皇族、華族、高級官僚といったパトロンを得て、日本でも徐々に愛好され始め、生産量も増え始めた。
大正から昭和の頃に普及し、宮沢賢治が「グリュース・アン・テプリッツ(和名:日光) 」を愛し、北原白秋の詩にもバラが登場するなど、日本文学においてバラが題材とされることも増えた。
戦後すぐの1948年には東京・銀座でバラの展示会が開かれた。さらに1949年には神奈川県横浜市でバラの展示会が開かれ、そのときにはアメリカから花を空輸して展示用の花が揃えられた。鳩山一郎や吉田茂などのバラ愛好家は戦後日本でのバラの普及に貢献した。高度経済成長の波に乗って日本でもバラは普及し、農業試験場を中心に品種改良が行われるようになった。また戦後進められたインフラ整備の一環として、公立・私立の植物園や公園等が全国各地に設置され、その中にはバラ園で知られる施設もある。
戦後個人栽培家が増えると、ハイブリッドティーの花の出来栄えを競うコンテストが盛んに行われた。これは菊の品評会と同様に栽培技術を競うもので、栽培技術の向上につながった。バラは切り花としても普及し、日本においても花卉としてバラはキク、カーネーションと並ぶ生産高があり、ハウス栽培で年中市場に供給されている。近年は一般家庭でもガーデニングが流行し、オールドローズなどが植栽素材として再び注目を集め、多くの人に愛好されるようになった。
1950年代には、大手私鉄各社が沿線開発の一環としてバラ園の造営を行うようになり、各地にバラ園が開園された。
京阪電気鉄道は戦前から大阪府枚方市で菊人形の展示などを行っていたが、秋の風物である菊に対し、春の風物としてバラ園を開園し集客を図ることとした。同社は「東洋一のバラ園」の造園を企画し、当時は日本人でただ一人の英国園芸協会会員で、バラの導入や品種改良で実績のあった岡本勘治郎をバラ園造営の監督に迎えた[21]。1955年に京阪ひらかた園芸企画(現:京阪園芸)を設立、同年12月23日にひらかたパーク内に「ひらかた大バラ園」を開園した[22]。現在は「ひらかたパーク・ローズガーデン[23]」の名称で営業している。
関東でも同時期に、京成電鉄が戦前から千葉県習志野市で直営していた遊園地「谷津遊園」内に、1957年にバラ園を開園。谷津遊園でも秋には菊人形展が行われていた。1959年には京成バラ園芸を設立するとともに、千葉県八千代市に「京成バラ園」を開園した[24]。谷津遊園の閉鎖後もバラ園は習志野市営「谷津バラ園」として残されている。
続いて小田急電鉄の直営遊園地「向ヶ丘遊園」にも1958年に「ばら苑」が開園。向ヶ丘遊園の閉鎖後は川崎市により「生田緑地ばら苑」として保全されている。また東京都調布市にあった京王帝都電鉄の直営遊園地「京王遊園」に1952年に開園した東京菖蒲園(のち京王百花苑)は1997年に「京王フローラルガーデンANGE」としてリニューアルされ「ローズガーデン」が設置された(2021年閉鎖)。
大手私鉄系園芸・造園会社の中でも、とりわけ京阪園芸と京成バラ園芸の2社は、沿線観光施設としてバラ園を運営するだけでなく、バラの育種も手がけ新品種を多数作出している。このように農業試験場や種苗会社だけでなく、鉄道事業者がバラの育種を牽引している点は日本の特徴である。
バラ園はバラを育てて展示鑑賞するための庭園。
日本のバラ園は以下を参照。
イギリスのNCCPGが推進する全国の園芸種の保存庫では、#オースティンと#ビールズがそれぞれ専門の分野を維持してきた。王立ローズ・ソサエティ(RNRS=1876年-2017年)は両分野を「ヨーロッパのバラの歴史遺産」に指定し、1900年以前のシュラブローズを維持したモティスフォント修道院、コレクションを維持したバーミンガム大学付属ウィンターボーン植物園とともに讃えている。
以下、バラをシンボルとする国・地域・自治体名を明確にするため、太字で表記。
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