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フランスの作家 ウィキペディアから
アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant、1850年8月5日 – 1893年7月6日)、通称ギ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant)は、フランスの自然主義の小説家、劇作家、詩人。『女の一生』などの長編6篇、『脂肪の塊』などの短篇約260篇を遺した。
エミール・ゾラの主宰した短編集『メダンの夕』に入れた『脂肪の塊』の評判が高く、作家としての地位を確実にした。ゾラと異なり、厭世的な傾向が強く、人間の愚かさ、みじめさを描いた短編に秀作が多い。
1850年8月5日、セーヌ=マリティーム県トゥルヴィル=シュル=アルクのシャトー・ド・ミロメニルで生まれた[1]。父はパリの株式仲買人で、母の名前はロール・ル・ポワトヴァン(Laure Le Poittevin)である[1]。
1862年、12歳のときに不仲の父母が別居し、エトルタの別荘で母と暮らすようになった。1863年、イヴトー(Yvetot)の神学校の寄宿舎に入ったがなじめず、1868年ルーアンに移り、1869年、そこのコルネイユ高等中学(Lycée Corneille)でバカロレア資格を得た。1870年パリ大学法学部へ進んだ直後に普仏戦争の遊撃隊(Garde-mobile)として召集されるも敗走した。
1872年、22歳のとき、パリに出て海軍省の小役人になった。伯父の親友で、母の知り合いでもあったギュスターヴ・フローベールの指導を受けるようになる。フロベールの家で、イワン・ツルゲーネフ、ゴンクール兄弟、エミール・ゾラ、ドーデーらに出会い、1875年に短篇『剥製の手』を、1876年に詩『水辺にて』が雑誌に掲載された。翌1877年から先天的梅毒による神経系の異常を自覚するようになった。1878年、文部省へ転じた。
1880年、30歳のとき、ゾラを中心として普仏戦争を扱った同人作品集『メダンの夕』に『脂肪の塊』が掲載され、文豪としての地位を確立した。鋭い筆致で庶民を描いた「ゴロワ」(Le Gaulois)、「ジル・ブラス」(Gil Blas)、フィガロの3紙にも作品を載せ、のち単行本として編纂された。この年、『水辺にて』と短篇『壁』が風俗紊乱の追及を受けた。この頃から神経系の眼疾が悪化し、文部省を休職、1882年に退職した。
1883年、33歳のときの『女の一生』は、ロシアの文豪レフ・トルストイにも評価され、3万部を売り上げた。同年エトルタに別荘を構え、1885年には南仏アンティーブに別荘を買った。1886年、ヨットを持った。活発な執筆出版活動のかたわら、旅も頻繁に出掛け、海浜での水の遊びを好いた。婦人との交友はあったが、生涯結婚はしなかった。この頃になると目は更に悪化していった。
1888年、38歳、不眠症を患い奇行が目立つようになり、1889年には麻酔薬を乱用した。この年のパリ万博に合わせて建ったエッフェル塔を嫌い、眺めずに済むからと、塔1階のレストランで食事した[2]。1891年夏にエクス=レ=バンで休養したのち、カンヌで冬を過ごしたが、精神疾患の病状は悪化の一途をたどり、1892年1月6日には自殺未遂を起こしてしまった[1]。
モーパッサン作品は、20世紀初頭(明治30年代)より訳・刊行され、詳細は、書誌学サイト『モーパッサンを巡って』に網羅されている。
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