京阪電気鉄道
日本の鉄道会社 ウィキペディアから
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京阪電気鉄道株式会社(けいはんでんきてつどう、英: Keihan Electric Railway Co.,Ltd.)は、大阪府北東部から京都府南部、滋賀県大津市にかけて路線網を持つ鉄道会社[6][7]。京阪ホールディングスの子会社で、日本の大手私鉄の一つである。通称は京阪電鉄または京阪電車で、略称は京阪。
ロゴ(左)と社章(右) | |
本社があるステーションヒル枚方 | |
種類 | 株式会社 |
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機関設計 | 監査役設置会社[2] |
略称 | 京阪、京阪電車、京阪電鉄 |
本社所在地 |
日本 〒573-0032 大阪府枚方市岡東町19-1 ステーションヒル枚方オフィスA[3] 北緯34度49分3.2秒 東経135度39分1.1秒 |
本店所在地 |
〒573-0032 大阪府枚方市岡東町173番地の1[1] 北緯34度48分57.8秒 東経135度38分55.3秒 |
設立 |
2015年(平成27年)4月1日 (京阪電気鉄道分割準備株式会社) |
業種 | 陸運業 |
法人番号 | 5120001189816 |
事業内容 |
鉄道事業(鉄軌道による旅客運輸)[1] レジャー事業(遊園地などの経営)[1] |
代表者 |
代表取締役会長 加藤好文 代表取締役社長 平川良浩[注釈 1] |
資本金 | 1億円(2023年3月31日現在)[4] |
売上高 |
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営業利益 |
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経常利益 |
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純利益 |
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純資産 |
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総資産 |
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決算期 | 3月31日 |
主要株主 |
京阪ホールディングス株式会社 100 % (2021年3月31日現在)[5] |
関係する人物 | |
外部リンク | https://www.keihan.co.jp/ |
特記事項:2016年4月1日、同日に純粋持株会社に移行した(2代)京阪電気鉄道株式会社(現商号は京阪ホールディングス株式会社)より吸収分割にて事業を継承、京阪電気鉄道分割準備株式会社より現商号に変更。 (2代)京阪電気鉄道の設立日は1949年(昭和24年)12月1日、(初代)京阪電気鉄道株式会社の創立日は1906年(明治39年)11月19日 [1]。 |
本社所在地は大阪府枚方市岡東町19-1(ステーションヒル枚方オフィスA)[3]。登記上の本店所在地は大阪府枚方市岡東町173番地の1(枚方市駅の所在地の地番表示)である。他に、天満橋事務所(大阪府大阪市中央区大手前一丁目7番31号 大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMMビル内)・中書島事務所(京都府京都市伏見区桃山町金井戸島10番)・大津事務所(滋賀県大津市錦織2丁目7番16号)があるほか、東京事務所が、東京都中央区築地三丁目5番4号 ホテル京阪築地銀座グランデ内304号室にある。運輸営業開始は1910年(明治43年)4月15日(京阪本線 大阪・天満橋駅 - 京都・五条駅間 46.57 km)[1]。営業キロ程は91.1 km(2021年3月31日現在)[5][6]。
京阪ホールディングスと、その子会社59社及び関連会社7社から構成[5]されている京阪グループの中核企業[注釈 2]である。
スローガンは「こころまち つくろう」である。2008年4月15日までの京阪グループ共通スローガンは「街をつなぐ、心をむすぶ KEIHAN GROUP」であった。新スローガン導入と同時にテレビCMではサウンドロゴも併せて導入した。
テレビCMではこれまで全国的に知名度の高いタレントを起用してきたが、2000年12月からは「京阪のる人、おけいはん。」をキャッチフレーズに各種キャンペーンを展開している(「歴代CM出演者・おけいはん」を参照)。
営業路線の京阪本線沿線に、グループ会社が運営する日本最古の遊園地である「ひらかたパーク(通称:ひらパー)」を持つ。
この会社の設立以来、大阪証券取引所第一部(2013年に現物株市場は東京証券取引所へ統合)に単独で株式を上場していたが、2006年3月22日には東京証券取引所第一部にも上場した。また、同年11月13日に開業100周年を迎える2010年を目処に純粋持株会社へ移行することが発表され、その傘下に置かれる運輸業・不動産業・流通業・レジャーサービス業の各事業会社を統括する形態になると説明していたものの[8]、経済情勢の変化により、設立予定としていた2010年5月に持株会社への移行を見送ることを明らかにしていた[9]。その後、経営の効率化により各事業の収支が改善したことから、2016年4月1日に「京阪ホールディングス株式会社」に社名変更した上で純粋持株会社移行を目指すことが2015年1月29日と4月30日に発表された[10][11][12]。4月30日の発表によると京阪ホールディングス傘下に鉄軌道事業などを継承する京阪電気鉄道株式会社、不動産販売業を継承する京阪電鉄不動産株式会社、その他の京阪グループ各社を置く体制で、2016年4月1日に純粋持株会社体制に移行した。
2011年、JICAの第3回「協力準備調査(PPPインフラ事業)」に対し、社団法人海外鉄道技術協力協会と株式会社野村総合研究所との三者共同で、「ベトナム ハノイ5号線整備事業準備調査」について応募提案[13] して8月末に本契約を締結したり、日本国外の鉄道プロジェクトに対してコンサルティング事業を行う新会社「日本コンサルタンツ」への出資[14] や、中華人民共和国瀋陽市での複合開発プロジェクトに東京建物と参画するなど、事業の日本国外展開を始めている[15]。
スルッとKANSAIでカードに印字される符号はKHである。
社章(社紋)は1906年12月21日に制定された。大阪市章の澪標を6つ円形に配置して「京」の形を表現し、合わせて「京阪」としたものである[16]。現在も正式な社章ではあるが、対外的には制帽以外にほとんど使用されておらず[注釈 3]、専らグループ共通の京阪グループシンボルマークが用いられる。
京阪グループシンボルマークはイニシャルの「K」を2つの三角形に図案化し、上はオレンジ色で「暖かさ、趣」を思わせる旗を、下はブルーグレー色で「安全安心、やさしさ、心のこもった」グループの基盤を表現し、風になびく旗と基盤が一体となって「人を思い、潤いのある“街と暮らし”を共に創る」というブランドコンセプトを表現している[17]。
現行の京阪グループシンボルマークは、2008年4月に制定され、その直後に、複数あった旧マークは全て使用を終了している。
大阪と京都の間には1876年(明治9年)、淀川右岸(西側)に官営鉄道(現・東海道本線〈JR京都線〉)が敷かれたが運賃が27銭と高く、上り12銭・下り10銭の淀川の蒸気船が貨客輸送の主力だった。そこで左岸(東側)の京街道沿いに大阪と京都を結ぶ電気鉄道を建設する計画として、東京の渋沢栄一、岡崎邦輔などの実業家グループの私設鉄道法による「京阪鉄道」と、村野山人や松本重太郎などの京阪神地区の財界人らの軌道条例による「畿内電気鉄道」の建設計画が同時期に立てられた。両派は競願のムダを避けて話し合いの末に一本化し、畿内電気鉄道株式会社として設立。1903年(明治36年)11月9日に改めて畿内電気鉄道として軌道条例による路線特許が申請された。その後、1905年(明治38年)8月30日の発起人会・設立委員会で京都 - 大阪を結ぶ鉄道ということを表す「京阪電気鉄道株式会社」に名称変更すること、運輸だけでなく電力供給事業・同関連事業を兼業することが決められた。1906年(明治39年)8月25日に軌道敷設の特許が下り、同年11月19日に東京商業会議所で創立総会を開催し京阪電気鉄道株式会社が設立された[18]。
建設に当たり用地買収と路線の実測を開始すると、大阪市の行政指導(市営モンロー主義)や淀川沿いの軟弱地盤、用地買収の遅れ、京都での琵琶湖疏水の堤防上への変更などで十数か所にわたりルートの変更を余儀なくされた。1908年(明治41年)9月にようやく全路線の青写真ができ上がり、同年10月より4工区に分割され建設工事が開始された。そして1910年3月に軌道の敷設は完了した。
1910年(明治43年)4月15日に最初の路線として大阪・天満橋駅 - 京都・五条駅(現・清水五条駅)間が開業した。阪神電気鉄道などと同様に軌道特許で開業したため、当初は併用軌道や急曲線が至る所にあり、「京阪電鉄“カーブ”式会社」とも揶揄されたほどであったが、それを克服するため様々な技術開発が行われた。また集客策として10月から12月にかけて香里園にあった香里遊園地で『菊人形展』を開催、1912年からは大阪府枚方市に隣接する1万m2を買収(後のひらかたパーク)して10月6日から11月25日にかけて菊人形展が開催された。
1911年10月(明治44年)には森小路駅(現在の千林駅に相当) - 香里駅(現・香里園駅)間の沿線で電灯電力供給事業を開始。翌1912年には摂津電気を買収して淀川右岸への電力供給事業を手に入れ、1921年(大正10年)7月に和歌山水力電気を、1926年(大正15年)12月に日高川水力電気を合併し、京阪沿線だけでなく和歌山県の電力供給の約75パーセントを京阪が供給することとなった(詳細は「関西私鉄の電力供給事業」参照)。
1922年頃より営業エリアの滋賀県琵琶湖周辺への拡大を狙い京津電気軌道との合併交渉を開始するが、京津電気軌道の一部役員が京都電燈との合併を望み、話し合いの結果、電力供給は京都電燈へ売却、軌道部門は京阪電鉄に合併されることが決まり、1925年2月に京津電気軌道を合併。続けて湖南汽船から増資を引き受けて1926年7月に湖南汽船を子会社化した。これに対抗して大津電車軌道・湖南鉄道・太湖汽船は合併して琵琶湖鉄道汽船を設立。しかしこうした争いは「双方にマイナスになる」と、湖南汽船の社長の仲介により琵琶湖鉄道汽船との合併交渉が進められ、鉄道部門の大津電車軌道部分を京阪へ、湖南鉄道部分は別会社の八日市鉄道(後に近江鉄道に合併)として独立、船舶部門は湖南汽船に譲渡して(新)太湖汽船(後の琵琶湖汽船)となった。これにより琵琶湖を自社の営業エリアに収めた(京阪の社史では「湖上制覇」と表現している)。
また、並行線を他社によって敷設されることを阻止する企業防衛のために新京阪鉄道(現・阪急京都本線)を建設。奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京都線)および阪和電気鉄道(現・西日本旅客鉄道〈JR西日本〉阪和線)への関与、さらには和歌山県(阪和電気鉄道と和歌山軌道線)への進出など積極的な拡張策を展開した。しかし、投資が回収できないうちに昭和恐慌に見舞われ、債務処理のため1930年(昭和5年)5月和歌山地区の電力供給部門・軌道部門は合同電気株式会社へ譲渡され、同年9月に新京阪鉄道を合併して債務の圧縮を図るなど逼塞を余儀なくされる。
この時期は節電に大規模な投資が行われ、1932年(昭和7年)12月、正雀、守口、伏見の3変電所に大容量の蓄電池を設置、深夜電力を充電して電力使用ピーク時に放電する「ピークカット用蓄電池」が設置された。投資額は60万円で、電力料金を年間20万円削減でき、1934年の室戸台風では電力会社からの送電回復前に一部区間で列車の運転が再開できた[19]。翌1933年(昭和8年)4月には日本初のコンパウンド(複巻)モーターによる回生ブレーキ付き電車50型4両が京津線に投入された[20]。
1941年8月発布の配電統制令により電力供給事業を関西配電(後の関西電力)に現物出資の形で失い、太平洋戦争中には陸上交通事業調整法に基づき阪神急行電鉄と合併し、京阪神急行電鉄(後の阪急電鉄、現在の阪急阪神ホールディングス)となる。
戦後、1947年にやはり戦時体制で合併した旧・南海鉄道が近畿日本鉄道から南海電気鉄道として分離すると、京阪出身者[注釈 4]からは京阪神急行電鉄からの再分離が強く唱えられるようになる[21]。背景には旧京阪線が阪急に比べて復興が遅れていたという事情もあった[21]。1949年12月、京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道株式会社として再発足した。この分離に際しては新京阪の路線は阪急側に残ることとなり、京阪本線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線の5路線と子会社の太湖汽船(現・琵琶湖汽船)、京阪自動車(現・京阪バス)での再発足となった[注釈 5]。京阪神急行電鉄社長の太田垣士郎は、分離を正式決定した1949年(昭和24年)9月27日の臨時株主総会後に「淀川西岸の各線(新京阪線と旧:阪急各線)は日本国有鉄道(国鉄)との競合が大きく、高速化や新車投入などを積極的に行う必要があるのに対し、東岸の各線(京阪線・大津線)は観光輸送面での特色を発揮する必要があり、双方のためにもこの地域ブロックによる分離を行うのが妥当」という旨をコメントしている[22]。京阪側は新京阪線も手許に残す形での分離を望んだが、既に戦争中に新京阪線から宝塚線経由で梅田駅乗り入れが行われていたのに対して京阪線とは直接線路がつながっていなかったこと、加えて役員構成で数にまさる阪急側に「押し切られる形」になったことが、この結果につながったとされる[21][注釈 6]。
また近畿日本鉄道(近鉄)との間で奈良電気鉄道をめぐって株式の争奪戦をしたが、1962年に当時の関西電力社長で京阪再発足時の京阪神急行社長であった太田垣士郎の仲介により、京阪の持つ奈良電気鉄道の株式を近鉄に譲渡、代わりに近鉄が持つ京福電気鉄道の株式を京阪に売却することになり、奈良電は近鉄に合併されて近鉄京都線に、京福電気鉄道は京阪の子会社になった。その前年(1961年)近鉄と西武鉄道が株式の買い集めをおこなっていた江若鉄道(現・江若交通)を子会社化している[23]。
これらの経験が、他の関西大手私鉄と比べて事業の多角化に慎重で、本線の淀屋橋延長、複々線区間の延長、鴨東線の開通と本業を重視し、京阪沿線の不動産開発や京阪百貨店の開業など地域密着する傾向につながった。再発足から25年間社長を務めた村岡四郎は、就任時に「大阪中心部への乗り入れ」「京阪線曲線部の改良」「鴨東線の建設」を公約に掲げ、「当社の事業はどこまでも電気鉄道中心だ」「不動産事業もそれからデパートにしても、あるいはその他の雑多な事業でも、やはり鉄道というのが一つの大きな骨格になっている」と語っていたという証言が残されている[24]。この時期には、南日本航空(現・かんこう)、宇治田原自動車(宇治京阪タクシー・京阪宇治交通の母体)などに出資し、子会社化した。
しかし、並行路線である大阪市営地下鉄谷町線の大日駅(大阪府守口市)への延長・京都市営地下鉄烏丸線の開業・JR東西線の開業と片町線の近代化などによる乗客数の減少、さらに少子高齢化により鉄道事業のみでは今後の発展は望めないとして、観光事業を強化することとした。1985年4月に福井県小浜市に「小浜フィッシャマンズ・ワーフ」を、1988年4月に瀬戸大橋のたもと与島に「瀬戸大橋京阪フィッシャマンズ・ワーフ」を開業した。だがバブル崩壊と瀬戸大橋の高額な通行料金により利用客が減少し、2003年3月末に若狭湾観光と京阪フィッシャマンズ・ワーフの全株式を売却して京阪グループから分離された。
その後、本業の鉄道事業では2001年に中之島新線の建設着手を決定し、建設主体となる第三セクター中之島高速鉄道を設立。2003年5月着工、2008年10月19日に中之島線として開業した。
開業100周年を2010年に迎えるにあたり、2006年には持株会社化の方針および関東地方を中心としたエリア外での事業多角化推進を表明し、京都への団体観光客誘致に関東・中部地方に進出した京阪交通社に続き、2003年に京阪電鉄不動産・ジューサーバーが関東に進出し、ホテル京阪や流通事業についても全国展開を進めている。2009年6月6日には北海道札幌市内にホテル京阪札幌が、同年11月21日には東京都台東区内にホテル京阪浅草も開業した。
京阪グループ全体の持株会社化に備えて、2007年6月より、社長/会長制度から、大手私鉄では初めてCEO/COO制度に移行している。2008年に中間持株会社の京阪タクシーシステムズを、2009年には京阪バスシステムズと不動産賃貸管理子会社の京阪ビルディングを京阪電鉄本体に吸収合併したほか、京阪建設を京阪エンジニアリングサービスへ合併し、京阪福井国際カントリーを売却した。2010年には京阪タクシーなど京阪タクシー関連7社を第一交通産業(福岡県北九州市)へ譲渡、2011年7月には旅行代理業務をJTBとの合弁会社であるJTB京阪トラベルへ移管(同時に関東・中部の営業所を閉鎖)した後、京阪交通社を解散するなど、子会社の整理統廃合も進められている。
2016年4月1日に京阪ホールディングスとして純粋持株会社体制に移行した。引き続き子会社の整理統廃合が行われ、2017年から2018年にかけて京阪ライフサポートと文化財サービスの株式を他社に譲渡しグループから分離、2022年1月1日を効力発生日として京阪レストランの飲食事業を京阪グループの新系列リテール会社のカフェに譲渡し解散した。京阪ザ・ストアにおいては、2022年度から2023年度にかけ「アンスリー」32店舗のうち19店舗を新業態店舗「もより市」へ転換し、残りを賃貸店舗とする予定となっている。
本年表で「客車」とあるのは電車(電動客車)のことである。
\ | 企業 | |||||||||||||||||||||
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時系列 | ||||||||||||||||||||||
箕面有馬電気鉄道 明治40年10月19日 創立 |
日高電灯 明治44年2月27日 設立 |
田辺電灯 明治43年4月7日 設立 |
高野山電灯 明治44年12月4日 設立 |
和歌山電灯 明治29年5月 設立 |
粉河電灯 明治43年7月 設立 |
大川水力電気 明治39年9月 設立 |
摂津電気 明治43年12月 設立 |
京阪電気鉄道 明治39年11月19日 創立 |
京津電気軌道 明治43年3月28日 創立 |
大津電車軌道 明治44年1月8日 創立 |
太湖汽船 明治15年5月1日 創立 |
湖南鉄道 明治45年4月18日 創立 |
湖南汽船 明治19年12月23日 創立 | |||||||||
日高川水力電気 大正5年8月25日 設立 |
和歌山水力電気 明治38年5月25日 設立 |
安威川水力電気 明治44年10月 創立 |
京阪電気鉄道 大正2年10月1日 合併 | |||||||||||||||||||
生駒電気鉄道 大正10年7月15日 創立 |
信貴生駒電気鉄道 大正8年12月6日 創立 |
阪神急行電鉄 大正7年2月4日 社名変更 |
大阪住宅経営 大正9年3月10日 創立 |
北大阪電気鉄道 大正7年11月24日 創立 |
日高川水力電気 大正5年11月15日 合併 |
和歌山水力電気 明治44年5月20日 合併 |
京阪電気鉄道 大正8年4月1日 合併 | |||||||||||||||
新京阪鉄道 大正11年6月28日 創立 |
高野山電灯 大正10年2月 合併 |
京阪電気鉄道 大正11年7月1日 合併 | ||||||||||||||||||||
信貴生駒電気鉄道 大正13年7月6日 合併 |
日高川水力電気 大正11年8月 合併 |
京阪電気鉄道 大正14年2月1日 合併 | ||||||||||||||||||||
信貴生駒電鉄 大正14年11月5日 創立 |
新京阪鉄道 大正12年4月1日 事業譲受 |
京阪土地 大正12年4月1日 社名変更 |
京阪電気鉄道 大正15年3月1日 合併 | |||||||||||||||||||
京阪電気鉄道 | 9月1日 京津線管内の電気供給事業を京都電灯へ譲渡 |
琵琶湖鉄道汽船 昭和2年1月21日 合併により設立 | ||||||||||||||||||||
新京阪鉄道 昭和3年11月 合併 |
京阪電気鉄道 昭和3年3月1日 合併 |
琵琶湖鉄道汽船 昭和2年5月28日 合併 |
太湖汽船 昭和4年3月30日 社名変更 | |||||||||||||||||||
琵琶湖鉄道汽船 | 八日市鉄道 昭和4年3月29日 設立 |
琵琶湖鉄道汽船 | ||||||||||||||||||||
京阪電気鉄道 昭和4年4月11日 軌道事業(螢谷 - 坂本)譲受 |
八日市鉄道 昭和4年4月11日 新八日市 -近江八幡間鉄道事業譲受 |
太湖汽船 昭和4年4月11日 船舶事業譲受 | ||||||||||||||||||||
京阪電気鉄道 | 5月10日 和歌山支店の事業を合同電気へ譲渡 | |||||||||||||||||||||
京阪電気鉄道 昭和5年9月15日 合併 |
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信貴生駒電鉄 昭和39年10月1日 近畿日本鉄道と合併 |
交野電気鉄道 昭和14年4月24日 創立 |
京阪電気鉄道 | 4月1日 電気供給事業を関西配電へ譲渡 | |||||||||||||||||||
京阪神急行電鉄 昭和18年10月1日 合併・社名変更 |
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京阪神急行電鉄 昭和20年5月1日 事業譲受 |
八日市鉄道 昭和19年3月1日 近江鉄道と合併 | |||||||||||||||||||||
京阪神急行電鉄 | 京阪電気鉄道 昭和24年12月1日 分離・設立 |
太湖汽船 | ||||||||||||||||||||
阪急電鉄 | 鴨川電気鉄道 昭和47年7月1日 設立 |
琵琶湖汽船 | ||||||||||||||||||||
京阪電気鉄道 平成元年4月1日 合併 |
京阪本線・鴨東線・中之島線・交野線・宇治線を京阪線、京津線・石山坂本線を大津線と総称している。京阪線、大津線のほかに鋼索線(通称、石清水八幡宮参道ケーブル)がある。決算資料などによると、京阪線の運輸収入が500億円弱、大津線が17億円前後と、大きな開きがある。関西大手私鉄の中で唯一、キタ(梅田)やミナミ(難波)に拠点を持たない。
1997年9月30日に石山坂本線の穴太駅 - 坂本駅(現在の坂本比叡山口駅)間が複線化されたことで、鋼索線を除いて保有路線はすべて複線(一部複々線)となった。大手私鉄では東京地下鉄とともに保有路線が全線複線である[注釈 10]。
このほか、1952年11月に大和田駅から分岐して森ノ宮駅との間を結ぶ10.8 kmの新線の特許を申請している。これは大阪市営地下鉄4号線との間での需要を見込んだもので、相互乗り入れも画策された[59][60]。また1971年には京都市伏見区三栖(中書島 - 淀間)から分岐する「第2京阪線」の構想を表明したり[注釈 11]、寝屋川信号所 - 交野市(約7 km)の新線計画[62]、など京阪本線のバイパスとなる路線を立案したことがあったが、いずれも具体化せずに終わっている。
また、次節に述べる和歌山水力電気を合併していた当初は、同社が保有していた高野下駅 - 高野山駅の免許をそのまま保持したが、1925年8月1日付で、同年3月に新設された高野山電気鉄道に譲渡している[63]。この区間は同社が開通させた後、南海高野線の一部となった。
京阪子会社の新京阪鉄道が経営していた路線を1930年に同社の合併で直営としたものである。戦中の1943年に京阪が阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)と合併して、京阪神急行電鉄の路線となり、戦後京阪が再分離する際に阪急側に残存した。
1922年に和歌山水力電気を買収したことで直営路線(京阪和歌山支社)となったものである。すなわち京阪が本来の営業エリアではなく飛地(和歌山県)で路線を持っていた。事業整理の一環で1930年には合同電気へ譲渡された。なお、この路線はその後も変遷を遂げ、南海電気鉄道の路線(和歌山軌道線)となった後、1971年までに廃止された。
京阪電鉄自身は京都市営地下鉄東西線に直通運転しているが、関西大手5私鉄の中で唯一他社局からの直通運転がない[注釈 12]。ただし、過去には京阪線で近鉄京都線(旧奈良電気鉄道)と相互直通運転を行っていた。
開業区間 | キロ程 | 特許年月日 | 開業年月日 | 備考 |
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天満橋 - 五条間 | 46.2 km | 1906年8月25日 | 1910年4月15日 | 1931年10月13日まで蒲生(現在の京橋付近) - 守口(現・守口市)間は併用軌道区間 五条は現在の清水五条 |
五条 - 三条間 | 1.5 km | 1913年5月29日 | 1915年10月27日 | 京都市が所有する特許線を借用 五条は現在の清水五条 |
中書島 - 宇治間 | 7.8 km | 1907年1月26日 | 1913年6月1日 | |
京阪神急行電鉄と改称 | … | … | 1943年10月1日 | 阪神急行電鉄との合併による社名変更(書類上京阪電気鉄道は一旦消滅) |
京阪神急行電鉄から分離 | … | … | 1949年12月1日 | (2代目)京阪電気鉄道設立(現在の京阪ホールディングス) |
地方鉄道線への変更 天満橋 - 東福寺間、中書島 - 宇治間 |
… | … | 1978年3月10日 | 東福寺 - 三条間は除く |
鉄道線への変更 東福寺 - 三条間 |
… | … | 2013年12月20日[64] | 京阪本線の全線が鉄道線となる |
開業区間 | キロ程 | 特許年月日 | 開業年月日 | 備考 |
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古川町 - 札ノ辻間 | 10.0 km | 1907年1月24日 | 1912年8月15日 | 古川町は後の東山三条 札ノ辻は現在の上栄町 - びわ湖浜大津間にあった駅 |
古川町 - 三条大橋間 | 0.6 km | 1912年12月13日 | 1923年2月20日 | 三条大橋は後の京津三条 |
札ノ辻 - 浜大津間 | 0.4 km | 1924年5月8日 | 1925年5月5日 | 浜大津は現在のびわ湖浜大津 |
浜大津 - 湊町間 | … | … | 1928年9月11日 | |
京阪電気鉄道に吸収合併 | … | … | 1924年2月1日 |
開業区間 | キロ程 | 特許年月日 | 開業年月日 | 備考 |
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大津 - 膳所間 | 3.0 km | 1907年9月21日 | 1913年3月1日 | 大津は現在のびわ湖浜大津。膳所は現在の膳所本町 1965年までは国鉄東海道本線貨物支線との二重線籍 |
石山駅 - 粟津間 | 0.9 km | 1907年9月21日 | 1914年1月12日 | 石山駅は現在の京阪石山 |
石山駅 - 唐橋前間 | 0.7 km | 1907年9月21日 | 1914年1月17日 | |
唐橋前 - 蛍谷間 | 0.8 km | 1907年9月21日 | 1914年2月15日 | 蛍谷は現在の石山寺 |
1914年6月4日 | ||||
膳所 - 粟津間 | 1.4 km | 1907年9月21日 | 1914年5月1日 | |
浜大津 - 三井寺間 | 0.4 km | 1907年9月21日 | 1922年5月7日 | 浜大津は現在のびわ湖浜大津 |
三井寺 - 兵営前間 | 0.6 km | 1907年9月21日 | 1927年5月15日 | 兵営前は現在の別所 |
兵営前 - 山上間 | 0.4 km | 1907年9月21日 | 1927年9月10日 | |
山上 - 松ノ馬場間 | 5.3 km | 1907年9月21日 | 1927年5月15日 | |
松ノ馬場 - 坂本間 | 0.6 km | 1907年9月21日 | 1927年8月13日 | 坂本は現在の坂本比叡山口 |
琵琶湖鉄道汽船に改称 | … | … | 1927年1月21日 | |
京阪電気鉄道に吸収合併 | … | … | 1927年4月11日 |
開業区間 | キロ程 | 特許年月日 | 開業年月日 | 備考 |
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淀屋橋 - 天満橋間 | 1.3 km | 1959年2月23日 | 1963年4月16日 | 全区間地下線 |
地方鉄道線への変更 | … | … | 1978年3月10日 |
開業区間 | キロ程 | 免許年月日 | 開業年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
八幡町 - 男山山上間 | 0.4 km | 1955年4月8日 | 1955年12月3日 | (旧)男山鉄道の路盤を転用 |
開業区間 | キロ程 | 特許年月日 | 開業年月日 | 備考 |
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和歌山 - 県庁前間 | 4.7 km | 1904年12月14日 | 1909年1月23日 | |
県庁前 - 和歌山市間 | 2.0 km | 1904年12月14日 | 1909年2月12日 | |
和歌浦 - 紀三井寺間 | 1.5 km | 1904年12月14日 | 1909年11月25日 | |
紀三井寺 - 琴ノ浦間 | 3.0 km | 1904年12月14日 | 1911年11月3日 | |
琴ノ浦 - 黒江間 | 0.6 km | 1904年12月14日 | 1912年4月17日 | |
和歌浦 - 新和歌浦間 | 1.2 km | 1904年12月14日 | 1913年9月30日 | |
黒江 - 日方口間 | 0.9 km | 1904年12月14日 | 1918年6月21日 | |
日方 - 海南駅前間 | 0.7 km | 1916年10月7日 | 1929年6月1日 | |
京阪電気鉄道に吸収合併 | … | … | 1922年7月1日 | |
合同電気に譲渡 | … | … | 1930年5月10日 | 東邦電力、和歌山電気軌道を経て南海電気鉄道和歌山軌道線となり、1971年4月1日に全線廃止。 |
開業区間 | キロ程 | 免許年月日 | 開業年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
十三 - 淡路間 | 4.2 km | 1919年9月12日 | 1921年4月1日 | 路盤の一部は官営鉄道東海道本線の旧線跡を転用 |
淡路 - 千里山間 | 5.1 km | 1916年9月1日 | 1921年10月26日 | 路盤の一部は官営鉄道東海道本線の旧線跡を転用 |
天神橋 - 淡路間 | 3.3 km | 1916年9月1日 | 1915年10月15日 | 免許は北大阪電気鉄道が取得 |
淡路 - 上新庄間 | 1.9 km | 1923年6月18日 | 1928年1月16日 | |
上新庄 - 高槻町間 | 14.4 km | 1922年4月24日 | 1928年1月16日 | 免許は京阪電気鉄道が取得 高槻町は現在の高槻市 |
高槻 - 京都西院間 | 21.4 km | 1922年4月24日 | 1928年11月1日 | 京都西院は現在の西院 |
桂 - 嵐山間 | 4.1 km | 1924年5月13日 | 1928年11月9日 | 免許(松尾 - 桂 - 海印寺間)は京都電燈(京福電気鉄道の前身)が取得 |
京都西院 - 京阪京都間 | 1.4 km | 1922年4月24日 | 1931年3月31日 | 全線地下線で関西初の地下鉄道線 京阪京都は現在の大宮 |
新京阪鉄道に譲渡 | … | … | 1923年4月1日 | |
京阪電気鉄道に吸収合併 | … | … | 1930年9月15日 | |
京阪神急行電鉄に吸収合併 | … | … | 1943年10月1日 | 1949年12月1日の(現)京阪電気鉄道設立後も京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に残留 |
開業区間 | キロ程 | 許可年月日 | 廃止年月日 | 備考 |
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京津三条 - 御陵間 | 3.9 km | 1997年9月10日 | 1997年10月12日 |
経由地の地名は免特許取得時のもの。郡は省略。
区間 | キロ程 | 特許年月日 | 失効年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
大阪市北区空心町 - 同市東野田町間 | 1.5 km | 1910年9月15日 | 1919年1月21日 | 京阪電気鉄道の大阪市域延長線 |
大阪府清水村 - 城北村赤川 - 城北村友淵間 | 2.9 km | 1919年5月16日 | 1942年9月26日 | 京阪電気鉄道の城北支線 |
大阪府城北村友淵 - 豊崎村北長柄間 | 0.8 km | 1919年12月20日 | 1942年9月26日 | 京阪電気鉄道の城北支線延長線 |
豊崎村北長柄 - 大阪市北区川崎町間 | 0.4 km | 1919年12月20日 | 1926年10月27日 | 京阪電気鉄道の城北支線延長線 |
野江 - 京都府大山崎村 - 淀間 | 30.4 km | 1919年7月21日 | … | 新京阪線の原型 1922年4月24日 鉄道免許へ変更 |
京都府大山崎村 - 四条大宮間 | 15.1 km | 1919年7月21日 | … | 新京阪線の原型 1922年4月24日 鉄道免許へ変更 |
京都府堀内村(六地蔵) - 滋賀県大津市馬場町間 | 12.5 km | 1927年10月28日 | 1937年2月26日 | 六地蔵線[28] |
滋賀県大津市地内 | 1.7 km | 1922年5月25日 | 1930年6月25日 | 大津電車軌道が取得 石山坂本線三井寺付近から大津駅前への支線 |
滋賀県大津市地内 | 0.4 km | 1926年5月5日 | 1930年6月25日 | 大津電車軌道が取得 石山坂本線坂本駅からの延長線 |
区間 | キロ程 | 免許年月日 | 失効年月日 | 備考 |
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連絡線 | 0.6 km | … | 1942年9月25日 | 城北支線と梅田支線の赤川付近での接続線 |
城北村赤川(赤川町) - 大阪市北区中野町間 | 2.4 km | 1922年4月24日 | 1942年9月25日 | 京阪電気鉄道、新京阪鉄道の梅田支線[注釈 13] |
大阪市北区中野町 - 同区葉村町間 | 1.5 km | 1922年4月24日 | 1942年9月25日 | 京阪電気鉄道、新京阪鉄道の梅田支線 |
大阪市北区葉村町 - 同区角田町間 | 0.8 km | 1928年8月7日 | 1942年9月25日 | 葉村町からの大阪駅付近延長線 |
千里山 - 大阪府山田村間 | 2.3 km | 1931年12月23日 | 1936年12月2日 | 千里山線の延長[注釈 14] |
区間 | キロ程 | 免許年月日 | 失効年月日 | 備考 |
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上新庄 - 城北村赤川(赤川町)間 | 3.2 km | 1922年4月24日 | 1942年9月25日 | 新京阪線 城北京都線の未成区間 |
東長岡 - 奥海印寺間 | 2.1 km | 1924年5月13日 | 1930年2月27日 | 京都電燈が取得 |
京阪京都 - 河原町間 | 2.0 km | 1927年10月18日 | … | 全区間地下線 京阪京都は現在の大宮 1949年12月1日の(現)京阪電気鉄道設立以降も京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に所属 1963年6月17日に京阪神急行電鉄によって開業 |
西向日町 - 山科間 | 12.1 km | 1928年11月6日 | 1937年9月28日 | 深草谷口町から山科大宅付近の計画線は省線東海道本線の旧線跡とほぼ一致[28] |
日本でも希少なダブルデッカーや、座席指定特別車両「プレミアムカー」を連結した京阪特急専用車をはじめ、日本初の多扉車となった5000系、ホームドア付き地下鉄区間から急勾配急カーブの連続の山岳区間に大津市内の併用軌道といった極端に性格の異なる区間の直通運転に対応して設計された800系(2代)など、個性的な車両が多い関西私鉄の象徴的存在として知られる。1954年、大阪でのテレビ放送開始と同時に特急専用車両に設置された関西初の「テレビカー」は、当時「走る街頭テレビ」としてもてはやされ、京阪特急の代名詞ともなり、2013年の廃止まで約60年にわたり親しまれた。「プレミアムカー」は平成末期から令和にかけて設定例が増加した有料座席サービスで、自由席のみであった列車での新たな設定例となった。
京阪電鉄においては、以前は単一車両の形式呼称に「型」を使用していたが、鉄道事業法の施行の際に監督官庁への届出様式に従って「形」に変更している[65][注釈 15]。また、車両竣工図表などの社内の公式文書では創業時に「号型」という呼称も使用され、京阪1000型電車 (2代)まで(「型」との併用が)確認できるという[66]。形式は京阪線が4桁または5桁、大津線が3桁の数字のみで、「モハ」「クハ」「サハ」といった記号は使われていない。
京阪線用車両においては、車体製造後35年以上を経過した車両が全体の約半数を数える状態であるが、高水準の車両の保守技術をもって大きなトラブルもなく運用されている。1959年から製造された2000系の車体および一部機器を流用した2600系0番台(書類上の製造初年は1978年)は今なお少数が現役であり、製造から50年またはそれ以上が経過した2200系(製造初年は1964年)や2400系(製造初年は1969年)、旧700系の車体流用車である1000系(製造初年は1977年)は今でも幅広く運用されている。近年でも廃車された車両から部品を流用することも多く、パンタグラフやコンプレッサーなどが新造車の10000系・13000系やグループ会社の叡山電鉄で再利用されている。
京阪線用車両の塗装は2008年の3000系(2代)投入を皮切りに、2013年6月までに全車の新塗装化が施行された。「車両カラー」の節を参照のこと。
ラッピング車両は石山坂本線で盛んに運行されている。2006年からは不定期に交野線(年によっては京阪本線・石山坂本線)で、「きかんしゃトーマス」のラッピング列車が運行されている。主に支線用の10000系にラッピングが施されており、2020年までに9回にわたり運行されている[注釈 16]。
自社で廃車後に他社へ転出した車両は極めて少なく、近年では初代3000系の車体が富山地方鉄道・大井川鐵道に譲渡されたのが数少ない事例である。
車体は2200系以降の新系列車は川崎重工業(川崎車輌→川崎重工業車両カンパニー→川崎車両)製である。以前は日本車輌、ナニワ工機(1970年にアルナ工機に改称、後のアルナ車両)、帝國車輛工業(後の東急車輛製造、現在の総合車両製作所)、田中車両(およびその後身の近畿車輛、戦後は大津線区のみ)、日立製作所(初代鋼索客車・大津線の260形の一部)製もあった。6000系以降の車体は8000系ダブルデッカー車や800系(2代)を除いてアルミニウム合金製となっており、大手私鉄では阪急電鉄と共にステンレス車の導入実績が無い。
電装品は一部の例外(350形では日立製作所の電装品も使用)を除き東洋電機製造製が一貫して用いられているが、これは同社が京阪出身者などによって創設されたという経緯によるものである(戦後高性能車の一部には三菱電機製WNカルダンを使用した時期もあり、1900系の一部において使用されていた。なお同社は現在はクーラーと換気扇で採用している)。加えて、阪急京都線の車両が東洋電機製造の電装品を用いているのもこれに由来する。なお京阪や阪急京都線以外で電装品をほぼ東洋電機としているのは京成電鉄(モーターは三菱製も多い)程度しかない。
台車は川崎重工業と日本製鉄(旧・住友金属工業)から供給を受けている。川崎重工業とは吸収合併された汽車製造会社の時代から共同で台車の研究をおこなった時期があり、日本最初の空気ばね台車もそこから誕生した。ボルスタレス台車については、試用は行われたが曲線の多い同社線では性能が満足いくものではないとされ、採用は見送られた。
VVVFインバータ制御車は全704両中270両(2020年時点)に留まるものの、抵抗制御車の界磁位相制御や界磁添加励磁制御への改造を進め、抵抗制御車は2200系で少数が残るのみとなっている。なお、関西の大手私鉄では唯一、チョッパ制御車の導入実績がない。また、IGBTインバータ制御機器の導入は大津線では1997年に導入の800系で初採用されたものの京阪線は2002年の10000系で初導入とかなり遅めだった。
パンタグラフは京阪線・大津線ともに東洋電機製造製で、3000系(2代)と13000系の5次車にシングルアーム型の「PT-7163A」、それ以外は下枠交差形の「PT-4805A」と、その改良型[注釈 17] が使われている。大津線系統では、京都市営地下鉄に乗り入れる800系に「PT-7201」シングルアーム型を、それ以外は菱形の「PT-4303A」を採用している。シングルアーム型に関しては、1971年に2000系の2000型にフランス・フェブレ社製のシングルアーム型を日本で初めて試験的に装着したが、採用には至らなかった[67]。
2014年より、8000系を皮切りに京阪線・大津線の在来車各系列の前照灯が順次シールドビームからLEDに換装され[68]、2018年9月の2600系のLED化により、京阪線の営業車両全編成のLED化が完了した[注釈 18]。
自動放送装置は1900系特急車で初搭載され、鋼索線・大津線にも拡大した。京阪線通勤車では開扉時のみの自動放送(閉扉時の発車ブザーを含む)が6000系で初搭載され、2600系を除く全車両に装備された。また、交野線・宇治線のワンマン化や6000系のリニューアルなどにより車載型自動放送装置搭載車両が大幅に増えたほか、車掌のタブレット操作による簡易型の多言語自動放送が京阪線全車両に導入されている。
車掌スイッチは、3000系・10000系と13000系は乗務員ドア横の胸の位置あたりに、それ以外は乗務員ドア上部に設置されている。スイッチは握った手が滑り落ちないよう「逆T字型」になっており、客用扉を開扉するときはスイッチを上から下へ引き出し、閉扉するときはスイッチを下から上へ押し戻す。ただし、ワンマン化改造された大津線の600形、700形はスイッチの形・設置場所が異なる。
また安全装置としてデッドマンブレーキを標準装備、京阪線では自動列車停止装置 (ATS) も京阪型速度照査ATSと2015年度から順次使用しているK-ATSの両方を搭載、列車防護無線の設置が進み、ホームの無い場所で誤開扉を防止する「ホーム検知装置」の搭載が大津線では2017年3月に完了、京阪線でも3000系・10000系・13000系に搭載が完了し、6000系・8000系に順次搭載が進んでいる。また、旅客乗降時に列車が動かないようにする「転動防止ブレーキ」の搭載が大津線では完了、2021年度中に京阪線の全車両にも搭載される。その他、すべての編成にドライブレコーダーが搭載されている[69]。
京阪本線香里園駅から南東1 kmの場所に京阪が勧請した成田山大阪別院明王院があり、全車両に成田山の御守札が飾られている。京阪本線の車両の先頭と後方を北と南にすると、御守札は北東と南西の方向に設置されている。これは鬼門と裏鬼門から遮断するために設置されたという一説もある。鋼索線(石清水八幡宮参道ケーブル)には石清水八幡宮の御守札が飾られている。
一部の車両では「ばねで跳ね上がるタイプの吊り手[注釈 19]」をドアスペースに設置している(「つり革#ドアスペース上のつり革」を参照)。
編成両数は、京阪本線・中之島線・鴨東線では8両・7両・6両が混在する。宇治線・交野線・京津線は4両、石山坂本線は2両に統一されている。京阪本線の中書島駅 - 七条駅間には、ホーム有効長が7両分しかなく8両編成の旅客扱いが不可能な駅があり、一般車の8両編成車には識別のため運転台窓の進行方向右側に緑地に白文字の「8」ステッカーが貼られている[注釈 20]。
需要に応じて車両または編成を増解結する運用の減少・廃止に伴い、6000系から10000系までの京阪線一般車両は車体前面にオフセットした大型非常扉を採用し、5000系以前の車両では改修工事により前面の貫通扉は外開きの非常扉となった。
列車運用面から省エネを図るため電力回生率の高い車両を高効率で運用すべく、かつては2200系回生ブレーキ車を8連から7連に、近年では7連で運用された6000系を8連に戻して、回生ブレーキの電力回生効率の高い7200系・9000系の一部を8連から7連に減車し、両系から減車された車両を同じく電力回生効率の高い10000系に編入させ、同系の一部を4連から7連に増車させて京阪線全線で運用している。2003年の2600系の編成替えにより、6両編成の運行を休止していたが[注釈 21]、2021年の13000系5次車の導入により再開された[70]。
特記なければ、主に京阪本線・中之島線・鴨東線(本線系統)で運用、車体塗装(カラーリング)は2008年から採用の新塗装。
系列 | 画像 | 摘要 |
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8000系 | 特急専用車両。1989年(平成元年)登場。1998年より4号車に2階建て車両(ダブルデッカー)を連結。2008年の中之島線開業を機にカラーリングを一新、「エレガント・サルーン」の愛称が付けられる。2017年より6号車に有料座席指定特別車両「プレミアムカー」を導入。 | |
3000系(2代) | 2008年(平成20年)、中之島線開業のシンボルとして新造。2009年「ローレル賞」受賞。初代3000系特急車の形式を受け継いだ優等列車用車両で、「コンフォート・サルーン」の愛称を持つ。車両デザインコンセプトは「風流の今様」。2021年1月に8000系に続いて「プレミアムカー」を新造のうえ導入。 | |
13000系 | 2012年(平成24年)に登場。4両編成を宇治線・交野線で、6・7・8両編成を京阪本線・中之島線・鴨東線で運用。先頭部の半月のモチーフ(スラッシュ・ムーン)が特徴的。以下、通勤車「シティ・コミューター」。 | |
10000系 | 2002年(平成14年)登場。4両編成で主に交野線・宇治線で運用。バリアフリー化のため床面高さを20mm下げている。登場時の車体カラーはターコイズグリーン。一部は2016年から7200系・9000系を編入した7両編成で京阪本線ほかで運用。 | |
9000系 | 1997年(平成9年)登場。7200系ベースの特急から普通までこなせる汎用車両で、登場時は2人掛け固定クロスシートを備えていた。 | |
7200系 | 1995年(平成7年)登場。7000系をベースにブラッシュアップした車両で、車内カラーリングを一新。京阪で初めて車内案内表示器を設けた。京阪線では最少の21両が在籍。 | |
7000系 | 1989年(平成元年)登場。6000系をベースにVVVFインバータ制御を本採用した車両。6000系VVVF試作車は本系列に編入されている。 | |
6000系 | 1983年(昭和58年)に同年の架線電圧昇圧に対応できない車両を置き換える目的で登場。「21世紀にも通ずる電車」として京阪スタイルを一新、1984年「ローレル賞」受賞。 | |
2600系 | モノコック構造のいわゆる卵型電車系列群の一つ。0番台は1959年(昭和34年)登場の2000系[注釈 22]を界磁位相制御により昇圧対応、冷房改造した車両(書類上の製造初年は1978年)。1981年(昭和56年)登場の30番台は純新造車(写真の車両)。 | |
2400系 | 1969年(昭和44年)登場。モノコック構造のいわゆる卵型電車系列群の一つで2200系の改良型。関西地区初の通勤冷房車。当初から複電圧仕様の電装品を装備し、京阪で初めて中間に運転台のない7両固定編成となった。 | |
2200系 | モノコック構造のいわゆる卵型電車系列群の一つで1964年(昭和39年)登場。2000系を急行仕様とした車両で、付随車を組み込み経済性にも優れたオールマイティーの高性能車。 | |
1000系 | 吊り掛け駆動方式だった旧700系を昇圧対応、カルダン駆動化、冷房改造した車両(書類上の製造初年は1977年)。箱型車体・窓配置などに旧700系時代の特徴を残す。 |
以下の車両は、かつて営業用として運用されていたが、現在は寝屋川車庫内で「機械扱い」で使用されている。
系列 | 画像 | 摘要 |
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70型 | かつて京津線で使用された70型のうち72号車が、車籍はないが寝屋川車庫内で「構内入換車」として使用されている。2014年9月には「ワガヤネヤガワ号」の愛称が付けられ、外観の復元がなされた。 |
京阪では、1913年(大正2年)7月4日から1955年(昭和30年)6月25日まで、約42年間貨物輸送を行っていた。
1970年11月末[注釈 23]時点では、大津線に122形1両が配備され、バラストの輸送などに使用された。京阪線では無蓋貨車の101-151-111 102-152-112 103-153-113 と固定編成化され運用されたほか、事故発生時の補修機材を搭載した有蓋貨車の121、移動変電所の181-182が配属されていた。しかし、マルチプルタイタンパー、バラストクリーナー・軌道モーターカー・ダンプトロリーなどの保線機器導入に伴い、1979年3月に 101F・102F が廃車となった。103Fはバキュームカーを搭載して大阪地下線内での汚水処理に運用された後、1983年12月の架線電圧1500 V昇圧に伴い121号、移動変電所181-182とともに廃車となった。
京阪線1500 V化に併せて2代目101-151 111の3両が1300系・1800系の車体と1700系の床下機器を利用して製造された。101-151は寝屋川車庫に配置され、大阪地下線での事故発生時の救援車とされたほか、151の荷台にバキュームカーを搭載し、大阪地下線内での汚水処理を引き継いだ[72]。111は京都地下線での救援車として淀車庫で待機しており、定期点検のために淀車庫 - 寝屋川工場間を2600系に引かれて走ることがまれに見られた[73] が、保線機器の充実で運用が見直され、3両とも2001年末で廃車となった。大津線に残った122も1997年10月の大津線1500 V昇圧に伴い廃車となった。現在、保線車両などは機器扱いで車籍はない。
列車種別は種別表示器(方向幕)のほか、先頭車両前面の前部下部標識灯で識別できる。点灯パターンは以下のとおり。
京阪電車の車両カラーは、特急車両が黄色と赤色(京阪特急色)、一般車両が若草色と青緑色のツートンカラーに定まって以来、約半世紀にわたり大きな変更はなかったが、2008年4月、大津線・鋼索線を除く既存の京阪線全車両の塗装変更を行うことが発表された[74]。
新塗装化第1号は7200系7201編成で、2008年5月23日から運行を開始した[75]。また同年6月30日には、特急車初の新塗装車として8000系8008編成が運行開始している。なお、初代3000系(8000系30番台に改番)も新塗装化の予定であったが実現せず、予定(2012年)より若干遅れた2013年6月に全車両の塗装変更完了が発表された[44]。
新塗装化にあわせ、車両番号の書体が変更された。また、新たに制定されたCIロゴの貼付が行われ、塗装未変更車(大津線および鋼索線車両を含む)にも波及した。京阪線の6000系から10000系までの車両と、2400系・1000系・5000系・初代3000系の車体更新車、大津線の600系以降の車両前面には、京阪の「K」をデザイン化し、京阪電車の限りない前進を表したシンボルマーク「Kマーク」が取り付けられていたが、新CIロゴに置き換えられた。
大津線車両についても、2017年4月から全車が京阪線一般車に準じた新塗装への変更が行われており、2021年3月までに完了した[76]。
なお、寝屋川車庫の教材車であった2615号と2820号の2両に関しては2022年8月に解体されるまでは旧塗装のままであった[77]。
初代3000系引退後[注釈 24]、京阪で唯一「京阪特急色」を纏っていた[注釈 25]鋼索線の2代目1・2号は、リニューアル工事にあわせて同色をモチーフとしたメタリックフィルムラッピングによる新デザインとなり、「あかね」「こがね」の愛称が与えられ、2019年6月19日から運行開始している。
特急車両 | 一般車両 | |
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上部 | 黄色(マンダリン・オレンジ) | 若草色(ライト・グリーン) |
下部 | 赤色(カーマイン・レッド) | 青緑色(ダーク・グリーン) |
その他に
がある。
定期券の遺失など、通常の保管ルートに拠らない場合もある。また、傘と食品類は、管轄が警察へ移ることなく廃棄処分の対象となる。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。京阪線は2023年4月1日改定[78][79]、大津線は2019年10月1日改定[80]。2023年4月1日より、京阪線(大津線・鋼索線は対象外)の普通運賃・通勤定期運賃に鉄道駅バリアフリー料金が加算される[78]。下表の京阪線の運賃額は同料金を含む。
京阪線(京阪本線・中之島線・鴨東線・交野線・宇治線)と大津線(京津線・石山坂本線)を京都市営地下鉄東西線を経由して乗車する場合でも、運賃は通算しない。また、京阪線・大津線の各駅相互間を京都市営地下鉄東西線を経由して乗車する場合はICOCA連絡定期券を除き1枚の乗車券では利用できず、三条駅および京都市営地下鉄東西線の三条京阪駅[注釈 26]でそれぞれ乗車券を別途購入しなければならない。
有料座席指定特別車両「プレミアムカー」への乗車には、乗車券の他にプレミアムカー券が、全車両座席指定「ライナー」への乗車には、乗車券の他にライナー券(一部区間を除く)またはプレミアムカー券が必要となる。詳細は「京阪特急#有料座席指定サービス」を参照。
キロ程 | 普通運賃(円) | |
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京阪線 | 大津線 | |
1 - 3 | 170 | 170 |
4 - 5 | 220 | |
6 - 7 | 240 | |
8 - 10 | 280 | |
11 - 12 | 330 | |
13 - 15 | 320 | |
16 - 17 | - | |
18 - 22 | 350 | |
23 - 28 | 370 | |
29 - 34 | 390 | |
35 - 40 | 410 | |
41 - 46 | 420 | |
47 - 52 | 430 | |
53 - 54 | 440 |
接続駅 | 割引対象区間 | 大人割引額(円) | |||
---|---|---|---|---|---|
東西線 | 大津線 | 東西線 | 大津線 | 計 | |
御陵 | 東山・蹴上 | 京阪山科 - 大谷 | 60 | 30 | 90 |
東山・蹴上 | 上栄町・びわ湖浜大津 | 50 | 20 | 70 | |
三条京阪 | 京阪山科 - びわ湖浜大津 | 50 | 20 | 70 | |
三条京阪 - 蹴上 | 三井寺 - 坂本比叡山口・島ノ関 - 石山寺 | 0 | 20 | 20 |
中之島線では以下のような特例が適用される[83]。
以下の種類の京阪線・鋼索線の回数券を発売していたが、利用率減少と、交通系ICカードの利用増加に伴い2020年12月30日をもって発売を終了し、2021年3月31日をもって利用を終了した[84]。
2011年4月1日より、京阪線では回数券がカード式からきっぷ式に変更された(大津線についてはカード式のままであった)ほか、有効期限が「発売日から3か月」から「購入月の翌月から数えて第3月の末日まで」に延長された(男山ケーブル線を除く)[85]。また、休日には年末年始などの土休日ダイヤや特別ダイヤ(大みそかダイヤ・正月ダイヤ)実施日[注釈 27]を含むが、お盆期間中の平日は、京阪線については2016年より土休日ダイヤから平日ダイヤに変更されたため、休日のみ利用できる回数券は使用不可となった(大津線は土休日ダイヤのため2016年は使用可能だった。)[86][87][88]。
また、大津線の回数券は2017年1月1日のPiTaPa利用額割引サービス導入に伴い2016年12月31日をもって販売を、2017年3月31日をもって利用を終了した[89]。
以下の各項目を参照。
一般の鉄道事業者は、年末年始において「土曜・休日ダイヤ」もしくは「日曜・祝日ダイヤ」を適用しているが、大津線を除く京阪線全体では正月三が日の初詣需要を考慮して通常ダイヤは適用せず、終日に渡り通常ダイヤとは異なる「正月ダイヤ」を適用する。また、大晦日の夜間以降は終夜運転への移行のために、こちらは「大晦日ダイヤ」を適用している。ただし2020年の大晦日については、終夜運転を行わないため大晦日ダイヤは実施しない[92]。大津線は1998年から2005年までの大晦日に深夜2時ごろまでの延長運転を行っていたが、2006年以降は行われていない。
京阪線では1980年のダイヤ改正時に土曜ダイヤが設定され(それまでは土曜は平日ダイヤでの運転)、大手私鉄では先駆けとなるものであった。以後長らく平日(月曜 - 金曜)、土曜、休日の3本立てダイヤが実施され、しかも土曜ダイヤは平日ダイヤの一部列車の運休などの形を取らず完全に独立したものであった(1980年 - 1981年のみ土曜ダイヤのうち一部列車を運休することにより休日ダイヤを作成する形を取っていた)。しかし、2003年のダイヤ改正で他の多くの路線と同様に平日と休日(土曜を含む)の2本立てとなり、現在に至っている。大津線は1997年の京津三条 - 御陵間の廃止までは土曜を平日ダイヤで運行し、その後土曜は休日ダイヤをベースに石山坂本線で朝に一部列車を増発する形態を取った後、2000年以降は土曜と休日を同一ダイヤとしている。
1980年の守口市駅 - 寝屋川信号所間複々線化以降、ダイヤ改正(改定・変更)毎に『京阪時刻表』を発行していた。2008年改定[93] 版以降の同時刻表は編集協力がJTBパブリッシングとなり、JTB時刻表の書式とほぼ同一となった。なお2011年一部変更[94] 版以降は京阪線のみWeb上での配信(PDFファイル)になった[95]。これについて京阪は「インターネットの普及により、列車ダイヤはパソコンや携帯電話等で検索される方が多くなり、冊子時刻表の販売数は年々減少傾向にあるため、今回は販売を見合わせた」としていた[96]。そのPDFファイルの時刻表も、2020年春に公開を終了した[97]。
京阪線系統は関西大手私鉄の中では数少ない、他社線との乗り入れや線路共用がない路線であるため、他社の状況にとらわれないダイヤの柔軟な運用が可能である。例えばお盆期間中の平日については、京阪線系統では1990年代初めごろから適用されてきた土休日ダイヤ(土曜日が土曜ダイヤで運行されていた頃は土曜ダイヤ)[98] に代わり、2016年 - 2019年は平日ダイヤに変更されていたが[86][87][88][99][100]、2020年以降は再び土休日ダイヤとなった[101][102]。
2023年8月26日以降、快速特急「洛楽」、特急、ライナー、通勤快急、快速急行、急行、通勤準急、準急、区間急行、普通の10種別が設定されている。これは西武鉄道と並んで日本国内大手私鉄最多の列車種別数である。
10種別全てが運行される区間は京阪本線の淀屋橋駅 - 樟葉駅間で、下りは全種別、上りは通勤快急・通勤準急を除く8種別が運行される。京阪公式サイト等の京阪線の停車駅路線図では快速急行と通勤快急、急行と深夜急行(2021年9月25日のダイヤ改正で休止し、2023年8月26日のダイヤ改正で廃止)、準急と通勤準急を同じ種別にまとめ、ライナーを特急と同じ停車駅の旨のみ記載して省き、7種別として扱っている。
2008年10月19日改正で列車種別数が大手私鉄最多(当時)であった西武と阪急の9種別を抜き、10種別となった[103]。2011年5月28日のダイヤ改正で快速特急が廃止され種別数が9に減り、種別数では当時の西武と並び最多ではなくなった[注釈 28]。ただし、その後に臨時列車として快速特急が再度設定され、2016年3月19日のダイヤ改正で休日の快速特急「洛楽」が定期運転化されたために10種別に戻り、再び大手私鉄で最多の列車種別数になった。2017年8月20日からは平日のライナーが設定され、11種別体制となり、自社が持つ大手私鉄での最多列車種別数を更新した。2023年8月26日のダイヤ改正で公式時刻表から深夜急行が削除されて正式に廃止されたため10種別体制に戻り、大手私鉄においては西武と同じ列車種別数になった。
列車種別案内に使用されている色は、快速急行を除き南海電気鉄道と同様であるが、京阪では準急よりも区間急行の方が停車駅が多い。英語表記は京阪の準急と南海の区間急行が"Sub-exp. (Sub Express)"、京阪の区間急行と南海の準急が"Semi-exp. (Semi Express)"となっている。
かつては「淀快速」「宇治快速」「きさいち快速」など「快速」種別を持つ臨時列車が運転されていた。いずれも京阪本線内では急行よりも停車駅が少ない種別であった[注釈 29]。実際に運転されていた種別の中で「快速」は唯一、正式種別とならなかった。
中之島線対応の種別幕には、2003年9月改正時の種別に加え、快速特急・快速急行・深夜急行・通勤快急・通勤急行・通勤準急が追加されている(同時に区間急行の表記を「区急」から「区間急行」に変更)。一方、「快速」や「臨急」(臨時急行)の幕は廃止された。なお、用意された種別幕のうち、「通勤急行」は実際に設定された事はなく、他社でみられる「通勤特急」は用意されておらず設定されたこともない。8000系特急車については、2017年8月20日改定を前に、「快速特急」幕を「洛楽」の愛称入りのものに、「K特急」幕を「ライナー」に、それぞれ変更している。
2013年3月16日のダイヤ改定を機に、回送列車の室内灯を消灯しての運転に変更した。回送列車で室内灯を点灯する大手私鉄は東武のみとなった。
以下において行き先の駅名は一例。
京阪の駅中店舗の歴史は古く、1951年(昭和26年)に三条駅に駅中店舗が開業している。以後、三条駅では1961年(昭和36年)3月1日に御土産物店街の「のれん街」ができ、1963年4月には飲食店街「味のれん」も造られた[106]。しかし「のれん街」は三条駅と四条駅に造られた以外はなく、いくつかの駅中に琵琶湖汽船食堂の立ち食いそば・うどん店「比叡」が造られた程度だった。
平成になってからは駅ナカ店舗の展開を本格化し、1997年(平成9年)6月門真市駅構内にベーカリーショップ、同年8月丹波橋駅に書店が開業、京橋駅にはショットバー、ベルギーワッフル専門店、コンビニエンスストアのアンスリーなどが開業した。2000年(平成12年)8月淀屋橋駅コンコースに「けいはん・ジューサーバー」淀屋橋店が出店、改札内店舗も京橋駅・寝屋川市駅・丹波橋駅に開店、枚方市駅では改札内外両方から買うことができた。2003年(平成15年)12月駅構内売店は「セカンドポシェ (SECOND POCHE) 」としてリニューアルされた。2004年(平成16年)には京都銀行との共同事業として主要駅構内にATMの設置運用を開始し、2006年(平成18年)3月守口市駅構内にユニクロ京阪守口店」がオープン、2008年(平成20年)2月京橋駅に週替りテイクアウトスイーツショップ「SWEETS BOX」が開業した。このように多くの駅に多種多様な店舗が造られている[107]。
その一方で駅構内のプラットホームに設置されている売店「セカンドポシェ」のほとんどが閉店して自動販売機だけになっている。
京阪ではイメージキャラクターを起用している。2000年12月からは「おけいはん」シリーズが定着している。
中央競馬では三大都市圏にある5場で観客輸送を担う大手私鉄が賞を出している。京阪は京都競馬場の観客輸送を担っており、京阪杯 (GIII) で優勝杯を提供している。このほかにも日本中央競馬会と連携して各種イベントを行ったりもしている。最寄り駅は淀駅で「淀」は京都競馬場の代名詞になっている。
「京阪電気鉄道」であった時代においては、関西地方の大手私鉄で唯一プロ野球球団を持ったことがない。
かつては廃止された豊野駅付近に野球場も備えたスポーツ施設「京阪グラウンド」を1922年から1942年まで保有(自社の野球部も使用していた)しており、阪神急行電鉄社長の小林一三がこれも含めた私鉄各社の球場を使用した「電鉄リーグ構想」を、現在のプロ野球が発足する以前に持っていたことがわかっている。しかし、この構想は宝塚運動協会を短期間実現させたにとどまり、具体化しなかった。
1936年に現在のプロ野球が発足した当時、京阪は昭和恐慌から立ち直って間がなく、折しも「従来の多角的な営業方針から運輸一本に主力を置く堅実な営業方針に転換した」時期で、プロ野球に進出する動きはなかった[111]。
戦後に再発足した1949年当時は近鉄をはじめとしてプロ野球への参入企業が相次いだが、当時の今田英作専務が「これから新しい事業をやらねばならぬとき、新発足の京阪としてプロ野球のような道楽商売に力を割くべきではない」という見地から「球団は持つべきではない」と社長の村岡四郎に進言し、村岡もこれを取り上げて、やはりプロ野球には進出しなかった[112]。
しかし京阪はプロ野球と全く関係がなかった訳ではなく、後の日本プロ野球史に名を残した人物が在籍していたこともあった。その人物とは、審判時代に「俺がルールブックだ!!」と報道されて一躍有名となり、また1970年に競技者表彰として野球殿堂入りした二出川延明である。二出川は1925年の明治大学卒業と同時に京阪に入社し、旧制中学校の監督に転身するため退社した1929年まで4年間在籍していた。京阪在籍中は同社野球部に所属していた記録がある。二出川は旧制中学校野球部監督の退任後は日米野球のメンバーに選ばれ、1934年から1936年まで読売ジャイアンツなどでプロ野球選手としてプレーしていた。引退後は日本プロ野球を代表する審判となり、1960年より1963年までパシフィック・リーグの2代目審判部長を務めた。
2005年9月から2006年6月までの村上ファンドによる阪神電気鉄道に対するM&Aとそれへの対抗措置の中で阪神が京阪との統合を検討していたことが判明した。両社はそれ以前に業務提携の接触も持っており、阪神・村上ファンドともに統合先としては阪急よりも京阪の方が比較的良いという考えを持っていたとされる。しかし、TOB価格で折り合いがつかず、この計画は実現しなかった。詳細は「阪急・阪神経営統合」を参照。
京阪グループに属する全企業の一覧および事業については「京阪グループ」を参照。
提供クレジットは京阪グループ共通ロゴを使用している。提供読みは長らく京阪電車名義であったが、2020年7月より京阪ホールディングス名義となった。ただし、いずれの場合もグループ各社のCMを流していることがある。
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