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山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、安政4年12月23日(1858年2月6日) - 昭和2年(1927年)9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。妻は加藤弘之の娘の隆子。息子は有道、三郎と養子の有光。
長州藩藩士勝津兼亮と山縣有朋の姉・壽子の間に次男として生まれる。明治維新の立役者の一人であった有朋には三男四女があったが、次女以外夭折して山縣家を継ぐべき子供がいなかったため、甥である伊三郎を養子とした。
ドイツ留学後、内務官僚として徳島県知事、三重県知事、内務省地方局長、内務次官などを歴任した。明治39年(1906年)に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。しかし、鉄道建設に関する予算問題をめぐって大蔵大臣の阪谷芳郎と対立した末、明治41年(1908年)1月に逓相を辞任している。同年7月7日、貴族院議員に勅選された[1]。
明治43年(1910年)6月、韓国副統監となり、韓国併合後は朝鮮総督府政務総監となり、中枢院議長も務めた。原敬首相により三・一独立運動後の文官朝鮮総督に擬せられたこともある(実際には海軍大将の斎藤実が就任)。大正11年(1922年)、枢密顧問官に任命。同年、養父有朋の死により公爵を襲爵。大正14年(1925年)1月、仏領インドシナ総督の訪日に対する答礼使としてインドシナに派遣された。
山縣公爵家は息子の山縣有道が継いだ。有道は宮中に仕えて侍従や式部官を務めた。養子の山縣有光は分家として山縣男爵家をたてた。墓所は文京区護国寺。
1996年から2020年までJR九州・肥薩線を走っていた観光列車「いさぶろう」号は、伊三郎に由来する。伊三郎の逓相在任中に肥薩線が建設され、矢岳第一トンネルの扁額に伊三郎の揮毫が残っていることから命名された(当時鉄道は逓信省の管轄だった)。
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