福山市
広島県の市 ウィキペディアから
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福山市(ふくやまし)は、広島県の最東部、備後地域にある市。県内では広島市に次ぐ人口。1998年に中四国地方で2番目の中核市に指定された。
ふくやまし 福山市 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 中国地方(山陽地方) | ||||
都道府県 | 広島県 | ||||
市町村コード | 34207-6 | ||||
法人番号 | 7000020342076 | ||||
面積 |
517.72km2 | ||||
総人口 |
449,448人 [編集] (推計人口、2024年11月1日) | ||||
人口密度 | 868人/km2 | ||||
隣接自治体 |
尾道市、府中市、神石郡神石高原町 岡山県:笠岡市、井原市 (以下、海上で隣接) 香川県:三豊市、観音寺市 愛媛県越智郡上島町 | ||||
市の木 | センダン、モクセイ、クスノキ | ||||
市の花 | バラ、キク | ||||
福山市役所 | |||||
市長 | 枝廣直幹 | ||||
所在地 |
〒720-8501 広島県福山市東桜町3番5号 北緯34度29分09秒 東経133度21分44秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
広島市と岡山市の中間に位置している。中国地方では、岡山都市圏、広島都市圏に次ぎ、県庁所在地以外の都市圏としては、全国で5番目の規模の福山都市圏の中心都市である。
単一事業所として世界で初めて累計粗鉄生産量が4億トンに達した世界最大級の銑鋼一貫製鉄所(JFEスチール)を抱える重工業都市であり、瀬戸内工業地域を構成している[1]。また、高い国内シェアを持つ鉄工・金属加工関連産業、繊維、機械製造企業が集積する。市内の工業生産高は約2兆円、工業事業所数は1200と山陰地方を超え、高知県の4倍と日本有数の規模を誇る[2][3]。
沼隈半島の先端に位置する鞆の浦は、古代より「潮待ちの港」として知られる。戦国時代末期室町幕府第15代将軍の足利義昭が、京都を追われた1576年から1587年までの11年間を、征夷大将軍として地位を持ちながら拠点を構えた(鞆幕府)[4]。江戸時代には福山藩の初代藩主・水野勝成によって綿花栽培が奨励され、その後の備後絣やデニムの生産へと発展した[5]。市制施行は尾道市(1898年)、呉市(1902年)に遅れる1916年と戦前までは軽工業中心の小都市に過ぎなかったが、瀬戸内海の主要都市の一つとなった。都市圏は県境を跨ぎ、地理的・歴史的にも関係の深い岡山県井笠地方(井原市、笠岡市)にまで広がる。
市域は、中国山地(神石高原)、福山平野、芸予諸島(備後群島)などからなる。中心市街は、芦田川のデルタ地帯と福山藩が行った新田開発に基づく干拓平野に広がる[6]。山陽新幹線、山陽道、国道2号、山陽線と西日本の重要幹線が市内を横断し、国際港湾である福山港を擁するなど交通の要衝となっている[7]。中心駅の福山駅は、山陽新幹線の「のぞみ」が停車するほか、福塩線および多数の路線バス路線の起点であり、県庁所在地ながら10路線を超える高速バスが発着する広島県東部から岡山県西部の玄関口である[8]。
歴史的な経緯から、広島市や岡山県とも異なる独自の気質を持つとされる[9]。県庁所在地ではないにもかかわらず都市圏規模から、陸運局が設置されたり(福山ナンバー)、電話番号の市外局番084・郵便番号の720など(地方部は通常4桁なのが3桁)、県庁所在地並みの扱いを受けることがある[9]。世界規模の鉄鋼、造船企業をはじめ、人口に比して多くの大手企業を擁しており、中小企業や大企業の研究開発拠点も集積している[9]。かつては、市内に大きな商業集積を誇っていたが福山そごうが撤退するなど[10]、中心市街地の著しい衰退が問題となっていたが、のぞみ停車駅として至便な点や全国的な都心回帰現象もあり、福山駅周辺にはマンションも増えて活気が蘇りつつある。
福山市は、瀬戸内海の中央部で広島県の南東端に位置する。
三原市北部の大和町を源とする芦田川の河口に広がるデルタ地帯及び江戸時代以降干拓事業により築かれた福山平野に市の中心地がある。市の南端は瀬戸内海に面し、北部山岳地帯は概ね標高400 - 500メートルの吉備高原西南端部にある通称「神石高原」南端から形成される。ここは岡山県倉敷市へ注ぐ高梁川支流小田川流域である。
市街地は概ね、旧福山市街・東部(蔵王、春日)地区・南部(鞆、沼隈)地区・松永(旧松永市)地区・北部(神辺、駅家、加茂)地区に大別され市民性も地域により若干異なる。旧福山市は周辺の自治体を次々と編入したが東部は県境に、南部は海に阻まれているため市域は北部、西部へと拡大することとなった。結果として福山市の中心部は市域の南東に偏っている。一方で中心部から岡山県井原市、笠岡市までの距離は福山市の西端、北端より小さい。また福山都市圏の広がる井原市、笠岡市にかけては市街地の連続性が高く県境を越えた連携が政経民間で幅広く見られる。
福山市は地形と立地場所による影響により、典型的な瀬戸内海式気候[15]である。夏の季節風は四国山地に、冬の季節風は中国山地によって各々遮られる。このため年間を通じて天気や湿度が安定しており、降水月が5、6、7月(梅雨時)と9月(秋雨・台風時)の二峰性となっており、二峰の間の8月(盛夏)の降水量が著しく少なく、雨温図上大きく凹む。
冬から春にかけて、中国大陸から流入する黄砂が観測されることも多い。また、冬には氷点下まで下がる日もある。太平洋高気圧に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「凪」が発生し、日中の気温は35℃を超える猛暑・酷暑となる日もある[16]。降雪は少なく、平地部の積雪は稀である。
福山特別地域気象観測所(福山市松永町、標高2m)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 17.4 (63.3) |
23.6 (74.5) |
24.1 (75.4) |
28.6 (83.5) |
32.4 (90.3) |
34.7 (94.5) |
38.2 (100.8) |
38.5 (101.3) |
36.7 (98.1) |
32.2 (90) |
27.1 (80.8) |
21.4 (70.5) |
38.5 (101.3) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.8 (49.6) |
10.5 (50.9) |
13.9 (57) |
19.2 (66.6) |
24.0 (75.2) |
27.0 (80.6) |
30.9 (87.6) |
32.8 (91) |
28.8 (83.8) |
23.3 (73.9) |
17.5 (63.5) |
12.1 (53.8) |
20.8 (69.4) |
日平均気温 °C (°F) | 4.6 (40.3) |
5.2 (41.4) |
8.5 (47.3) |
13.7 (56.7) |
18.7 (65.7) |
22.5 (72.5) |
26.6 (79.9) |
27.9 (82.2) |
24.0 (75.2) |
18.0 (64.4) |
12.0 (53.6) |
6.8 (44.2) |
15.7 (60.3) |
平均最低気温 °C (°F) | 0.0 (32) |
0.4 (32.7) |
3.2 (37.8) |
8.1 (46.6) |
13.3 (55.9) |
18.5 (65.3) |
22.9 (73.2) |
23.9 (75) |
19.9 (67.8) |
13.3 (55.9) |
7.1 (44.8) |
2.1 (35.8) |
11.1 (52) |
最低気温記録 °C (°F) | −8.1 (17.4) |
−9.2 (15.4) |
−5.9 (21.4) |
−1.8 (28.8) |
2.8 (37) |
8.0 (46.4) |
13.2 (55.8) |
15.8 (60.4) |
8.0 (46.4) |
1.5 (34.7) |
−2.4 (27.7) |
−6.7 (19.9) |
−9.2 (15.4) |
降水量 mm (inch) | 38.5 (1.516) |
47.0 (1.85) |
83.7 (3.295) |
91.6 (3.606) |
117.7 (4.634) |
174.5 (6.87) |
198.0 (7.795) |
95.2 (3.748) |
136.0 (5.354) |
91.1 (3.587) |
55.1 (2.169) |
43.3 (1.705) |
1,171.7 (46.13) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 5.7 | 7.6 | 10.3 | 9.9 | 9.6 | 11.6 | 10.7 | 7.2 | 9.3 | 7.8 | 6.5 | 6.5 | 102.8 |
% 湿度 | 69 | 68 | 67 | 66 | 68 | 75 | 76 | 73 | 73 | 72 | 73 | 72 | 71 |
平均月間日照時間 | 139.8 | 138.6 | 174.8 | 191.4 | 211.5 | 162.4 | 193.5 | 221.8 | 165.6 | 174.3 | 150.7 | 145.6 | 2,069.8 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1942年-現在)[17][18] |
以前より中国・四国地方では広島市・岡山市・松山市・倉敷市に次ぐ5番目の人口規模である。平成の大合併で隣接のベッドタウン4町を編入した結果、人口は約46万人(推計人口)となった。
合計特殊出生率はこの規模の都市としては非常に高い。2012年は全1742自治体中208位の1.71であった。人口30万人以上の都市としては、1.63の沖縄県那覇市や愛知県岡崎市を大幅に上回って1位である。
福山市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 福山市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 福山市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
福山市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
福山市として統一した地域区分があるわけではない。例を示す。
通算代数 | 氏名 | 就任年月 | 退任年月 |
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初代 | 阿武信一 | 1916年10月 | 1926年12月 |
二代 | 中野有光 | 1927年9月 | 1938年12月 |
三代 | 小林壽夫 | 1938年12月 | 1944年8月 |
四代 | 三谷一二 | 1944年9月 | 1946年3月 |
五代 | 小林和一 | 1946年3月29日 | 1947年3月19日 |
六代 | 藤井正男 | 1947年4月 | 1955年4月 |
七代 | 徳永豊 | 1955年5月1日 | 1970年5月11日 |
八代 | 立石定夫 | 1970年5月12日 | 1979年7月28日 |
九代 | 中川弘 | 1979年8月26日 | 1983年8月25日 |
十代 | 牧本幹男 | 1983年8月26日 | 1991年8月25日 |
十一代 | 三好章 | 1991年8月26日 | 2004年8月9日 |
十二代 | 羽田皓 | 2004年9月5日 | 2016年9月4日 |
十三代 | 枝廣直幹 | 2016年9月5日 | 現職 |
古代における現在の福山市街の中心地はほぼ全域が干潟や海であった。近年までは現在の神辺平野も海となっていて「穴の海」と呼ばれたといわれていたが、これは遺跡の分布や地層の調査から現在では否定されている。この呼称があったとすれば江戸時代に干拓され陸地化された現在の福山市街を示していた可能性が高い。古代における備後地方の中心地は備後国国府の所在した現在の府中市一帯であった。これに至る旧山陽道が中国地方の重要な幹線道となっていた。その名残が市北部地区の駅家町の地名で文字通り山陽道の駅家(宿駅)であったことを示している。現在の福山市域に含まれる山陽道は神辺平野を横断するように通され、外港として設けられた深津市は賑わい、この周辺は瀬戸内で最も栄えた地域であった。(現在の福山東IC付近)また、この地方はヤマト王権と吉備との勢力争いの最前線であり、古くからヤマト王権の重要拠点ともなっていた。“二子塚古墳”のような大規模な前方後円墳や、畿内以外では珍しい横口式石槨を持つ古墳が残り全国でも有数の古墳集積地である。瀬戸内の中央部に位置する備後南部に港が多く点在する。深津、津之郷、吉津、奈良津、今津など港を意味する地名が今日も残されている。また中でも、鞆の浦は万葉集にも詠まれるように風待ち、潮待ちの港として古代より独自の地位を築いていた。
中世には長年の芦田川の堆積作用により現在の福山市街は次第に陸地へと姿を変えていき、本庄、木之庄といった荘園が形成され現在の草戸町には草戸と呼ばれる港湾都市が栄えるようになった。しかし、この町は芦田川の堆積作用により港湾施設の使用が難くなり衰退したと考えられている(遺跡は芦田川の浚渫により消滅)。一方、現在の深津高地と呼ばれる深津島一帯は瀬戸内における金融拠点として発展し、その後の福山藩成立にも多大な貢献をしている。平安時代には鞆に最澄により静観寺、空海により医王寺が創建されるなどそれぞれの西日本の布教拠点となったが、南北朝時代には北朝と南朝の間で幾度も戦闘があり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われた。戦国時代になると備後地方は毛利氏勢と尼子氏勢との拠点争いの地となり銀山城や神辺城などの多くの城が築かれた。
安土桃山時代になると備後国は概ね毛利氏の所領となり、鞆には毛利氏の庇護の元、室町幕府15代将軍足利義昭が滞在した(備後国を参照のこと)。関ヶ原の戦い以後は福島氏の所領となり、神辺と鞆に支城が置かれた。1619年、福島氏の改易により徳川家康の従兄弟である水野勝成が西日本の有力外様大名への幕府方の楔として備後国東南部・備中国西南部の10万石を与えられ、福山藩が成立する。勝成は当時干潟であった臨海部の深津郡深津村と野上村に新たな城(福山城)と城下町を建設し、この町を福山と名づけた。このため、今日に至る福山の歴史は元和8年(1622年)から始まったといえる。なお、当初の構成領地は備後国の深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国の小田郡、後月郡のそれぞれ大半であった。水野氏は江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。このように現代の福山の発展の基盤は水野時代に築かれた。その後、1698年に5代藩主水野勝岑の死去で無嗣除封となり、一時的に福山藩領全域が天領(幕府直轄領)とされるが、1699年に松平忠雅が転封する。しかし、松平忠雅はわずか10年後の1710年に伊勢国桑名藩に移封して、替わりに1710年に阿部正邦が福山に転封した。以後、阿部氏が明治維新まで続くことになった(詳しくは備後福山藩を参照のこと)。
福山市神辺町に備後国分寺が発見されている[31]。国府は国分寺の近くに置かれる事から、備後国府が当地にあった可能性があり、発掘が続いているが確定に至っていない[32]。
1871年、明治維新の廃藩置県により備後国旧福山藩領と神石郡、甲奴郡の半分、備中国小田郡、後月郡の大半を持って福山県が設立し県庁所在地は福山町に定められた。しかし、これから行政区分はめまぐるしく変わり、1871年に福山県は深津県へ名称が変更され、翌年(1872年)には深津県と倉敷県が統合され小田県が設立、県庁は小田郡笠岡町に移転された。そして、1875年には小田県が岡山県へ編入され、この翌年(1876年)に岡山県から旧備後国である沼隈、深津、安那、品治、芦田、神石の6郡が広島県に移管される(福山町は深津郡に含まれる)。こうした中、1891年、9月11日に山陽鉄道笠岡-福山間が開業し、同年11月3日には福山-尾道までが開業すると福山町は工業都市へと姿を変えていった。1898年10月1日、芦田・品治両郡、深津・安那両郡はそれぞれ統合され、芦品郡、深安郡が成立する。その後、1908年に陸軍第41連隊が福山町(深安郡)に設置されると町の経済は発展を遂げ、1913年4月1日には福山町が野上・三吉両村を編入し、同年12月21日に鞆軽便鉄道(福山-鞆)が開業して、翌年(1914年)7月21日には両備軽便鉄道(両備福山(1935年廃止)-府中町)が開業するなど交通機関も整備されていき、1916年に福山町は廃され、福山市が誕生することになった。
福山市は大正5年(1916年)7月1日に全国で73番目、広島県では広島、尾道、呉に次ぐ市として誕生した。市制施行当時は旧城下町を中心とする地域で人口は32,356人であったとされる。しかし、発足後の道程は平坦ではなかった。市制施行間もなくの大正7年(1918年)には米騒動が市内にも波及、同年8月15日から16日にかけて抗議集会に1000名を超える参加者があり、警官隊や軍隊が出動して解散させる出来事があった[33]。また、その翌年の大正8年(1919年)には大水害に見舞われ、大正末期には軍縮の影響での陸軍歩兵第41連隊が廃止の計画が持ち上がった。41連隊の廃止は市の財政破綻にも繋がりかねなかったが、これは市の陳情により回避されることになった。その後、福山市は順調な発展や周囲の村を吸収合併して市域を広げたことなどから、平野部が少なく開発の余地がない尾道市に替わって広島県東部の中心都市となっていった。しかし、昭和20年(1945年)の福山大空襲により市街地は壊滅的な打撃を受けた。
市街のほとんどは焼き尽くされ、戦後の引揚者の帰国による人口増加などの要因も重なり、陸軍の撤退により財政難となった福山市は非常な混乱期を迎える。焼野原となった福山駅周辺などには闇市が開かれ治安の悪化も深刻となった。沼隈郡沼隈町では初代町長神原秀夫が「町ぐるみ移住」を打ち出し積極的な南米パラグアイへの移民を推進したことから、戦後期の移民団の主力となった[34]。1960年代に入ると高度経済成長の波に乗り復興を遂げていき、特に当時世界最大の規模の日本鋼管福山製鉄所(現・JFEスチール西日本製鉄所)の誘致により企業城下町として急激に開発が進み人口が増加していった。昭和後期になると高度経済成長時代の終焉や鉄鋼不況などにより人口は約37万人程度で頭打ちとなったが、この頃には製鉄所の町から県東部の中心地へと脱却していった。そして、平成の大合併により市域は更に拡大し、ほぼ旧福山藩領であった地区になり人口は約45万人に達するが、近年の実質的な人口増加率は微増にとどまっている。
旧 郡 |
明治以前 | 明治初年 - 明治22年 | 明治22年 4月1日 町村制施行 |
明治22年 - 大正15年 | 昭和元年 - 昭和28年 | 昭和29年 - 昭和40年 | 昭和29年 - 昭和40年 | 昭和40年 - 昭和64年 | 平成元年 - 現在 | 現在 | |
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沼 隈 郡 |
内常石村 | 明治8年 常石村 |
千年村 | 千年村 | 千年村 | 昭和30年3月31日 沼隈町 |
沼隈町 | 沼隈町 | 平成17年2月1日 福山市に編入 |
福山市 | |
外常石村 | |||||||||||
草深村 | 草深村 | ||||||||||
能登原村 | 能登原村 | ||||||||||
上山南村 | 上山南村 | 山南村 | 山南村 | 山南村 | |||||||
中山南村 | 中山南村 | ||||||||||
下山南村 | 下山南村 | ||||||||||
田島村 | 田島村 | 田島村 | 田島村 | 田島村 | 昭和30年3月31日 内海町 |
内海町 | 内海町 | 平成15年2月3日 福山市に編入 | |||
横島村 | 横島村 | 横島村 | 横島村 | 横島村 | |||||||
松永村 | 松永村 | 松永村 | 明治33年3月3日 町制 松永町 |
昭和28年4月1日 松永町 |
昭和29年3月31日 松永市 |
松永市 | 昭和41年5月1日 合併 福山市 |
福山市 | |||
今津村 | 今津村 | 今津村 | 今津村 | 大正15年11月1日 町制 今津町 | |||||||
神村 | 神村 | 神村 | 神村 | 神村 | |||||||
藁江村 | 藁江村 | 金江村 | 金江村 | 金江村 | |||||||
金見村 | 金見村 | ||||||||||
東村 | 東村 | 東村 | 東村 | 東村 | |||||||
藤江村 | 藤江村 | 藤江村 | 藤江村 | 藤江村 | |||||||
本郷村 | 本郷村 | 本郷村 | 本郷村 | 本郷村 | |||||||
柳津村 | 柳津村 | 柳津村 | 柳津村 | 柳津村 | |||||||
鞆町 | 鞆町 | 鞆町 | 鞆町 | 昭和17年7月1日 鞆町 |
昭和31年9月30日 福山市に編入 |
福山市 | |||||
後地村 | 後地村 | ||||||||||
田尻村 | 田尻村 | 田尻村 | 田尻村 | ||||||||
走島村 | 走島村 | 走島村 | 走島村 | ||||||||
水呑村 | 水呑村 | 水呑村 | 水呑村 | 昭和22年8月1日 町制 水呑町 | |||||||
早戸村 | 早戸村 | 赤坂村 | 赤坂村 | 赤坂村 | |||||||
赤坂村 | 赤坂村 | ||||||||||
下山田村 | 明治8年 熊野村 |
熊野村 | 熊野村 | 熊野村 | |||||||
上山田村 | |||||||||||
中山田村 | |||||||||||
長和村 | 長和村 | 瀬戸村 | 瀬戸村 | 瀬戸村 | |||||||
地頭分村 | 地頭分村 | ||||||||||
山北村 | 山北村 | ||||||||||
津之郷村 | 津之郷村 | 津之郷村 | 津之郷村 | 津之郷村 | |||||||
加屋村 | 加屋村 | ||||||||||
郷分村 | 郷分村 | 郷分村 | 郷分村 | 昭和17年7月1日 福山市に編入 |
福山市 | ||||||
山手村 | 山手村 | 山手村 | 山手村 | ||||||||
神島村 | 神島村 | 神島村 | 神島村 | 昭和8年1月1日 福山市に編入 | |||||||
草戸村 | 草戸村 | 草戸村 | 草戸村 | ||||||||
佐波村 | 佐波村 | 佐波村 | 佐波村 | ||||||||
深 津 郡 |
多治米村 | 多治米村 | 川口村 | 川口村 | |||||||
川口村 | 川口村 | ||||||||||
一番新涯村 | 明治7年 新涯村 | ||||||||||
二番新涯村 | |||||||||||
三番新涯村 | |||||||||||
木之庄村 | 木之庄村 | 木之庄村 | 木之庄村 | ||||||||
手城村 | 手城村 | 手城村 | 手城村 | ||||||||
奈良津村 | 奈良津村 | 奈良津村 | 奈良津村 | ||||||||
深津村 | 明治7年 深津村 |
深津村 | 深津村 | ||||||||
木之端村 | |||||||||||
本庄村 | 本庄村 | 本庄村 | 本庄村 | ||||||||
吉津村 | 吉津村 | 吉津村 | 吉津村 | ||||||||
福山城下 | 福山城下 | 福山町 | 福山町 | 大正5年7月1日 市制 福山市 |
福山市 | ||||||
野上村 | 野上村 | 野上村 | 大正2年4月1日 福山町に編入 | ||||||||
三吉村 | 三吉村 | 三吉村 | |||||||||
市村 | 市村 | 市村 | 市村 | 市村 | 昭和31年9月30日 福山市に編入 | ||||||
藪路村 | 藪路村 | 千田村 | 千田村 | 千田村 | |||||||
千田村 | 千田村 | ||||||||||
坂田村 | 坂田村 | ||||||||||
引野村 | 引野村 | 引野村 | 引野村 | 引野村 | |||||||
上岩成村 | 上岩成村 | 上岩成村 | 上岩成村 | 昭和13年10月1日 御幸村 | |||||||
下岩成村 | 下岩成村 | 下岩成村 | 下岩成村 | ||||||||
中津原村 | 中津原村 | 中津原村 | 中津原村 | ||||||||
森脇村 | 森脇村 | 森脇村 | 森脇村 | ||||||||
津之下村 | 津之下村 | 大津野村 | 大津野村 | 大津野村 | 昭和30年3月31日 深安町 |
昭和37年1月1日 福山市に編入 | |||||
大門村 | 大門村 | ||||||||||
野々浜村 | 野々浜村 | ||||||||||
浦上村 | 浦上村 | 春日村 | 春日村 | 春日村 | |||||||
能島村 | 能島村 | ||||||||||
吉田村 | 吉田村 | ||||||||||
宇山村 | 宇山村 | ||||||||||
坪生村 | 坪生村 | 坪生村 | 坪生村 | 坪生村 | |||||||
芦 田 郡 |
柞磨村 | 柞磨村 | 有磨村 | 有磨村 | 有磨村 | 昭和30年4月1日 芦田町 |
芦田町 | 昭和49年4月1日 福山市に編入 | |||
上有地村 | 上有地村 | ||||||||||
下有地村 | 下有地村 | ||||||||||
福田村 | 福田村 | 福相村 | 福相村 | 福相村 | |||||||
相方村 | 相方村 | 昭和24年7月1日 新市町に編入 |
昭和30年2月1日 新市町 |
新市町 | 新市町 | 平成15年2月3日 福山市に編入 | |||||
品 治 郡 |
新市村 | 新市村 | 新市村 | 明治40年1月1日 町制 新市町 |
新市町 | ||||||
宮内村 | 宮内村 | 網引村 | 網引村 | 網引村 | |||||||
上安井村 | 上安井村 | ||||||||||
下安井村 | 下安井村 | ||||||||||
芦 田 郡 |
金丸村 | 金丸村 | 常金丸村 | 常金丸村 | 常金丸村 | ||||||
常村 | 常村 | ||||||||||
藤尾村[注 1] | 藤尾村 | 藤尾村 | 藤尾村 | 藤尾村 | 昭和34年7月1日 新市町に編入 | ||||||
品 治 郡 |
戸手村 | 戸手村 | 戸田村 | 明治28年9月21日 戸手村 |
戸手村 | 昭和30年2月1日 新市町 | |||||
近田村 | 近田村 | 明治28年9月21日 近田村 |
近田村 | 昭和30年1月1日 駅家町 |
駅家町 | 昭和50年2月1日 福山市に編入 |
福山市 | ||||
江良村 | 江良村 | 江良村 | 大正2年7月1日 駅家村 |
昭和22年11月3日 町制 駅家町 | |||||||
倉光村 | 倉光村 | 倉光村 | |||||||||
中島村 | 中島村 | 中島村 | |||||||||
坊寺村 | 坊寺村 | 坊寺村 | |||||||||
万能倉村 | 万能倉村 | 万能倉村 | |||||||||
雨木村 | 雨木村 | 服部村 | 服部村 | 服部村 | |||||||
服部本郷村 | 服部本郷村 | ||||||||||
助元村 | 助元村 | ||||||||||
新山村 | 新山村 | ||||||||||
服部永谷村 | 服部永谷村 | ||||||||||
向永谷村 | 向永谷村 | 宜山村 | 宜山村 | 宜山村 | |||||||
大橋村 | 大橋村 | ||||||||||
今岡村 | 今岡村 | ||||||||||
上山守村 | 上山守村 | ||||||||||
下山守村 | 下山守村 | ||||||||||
安 那 郡 |
東法成寺村 | 明治7年 法成寺村 |
法成寺村 | 法成寺村 | 昭和16年10月1日 加法村 |
昭和31年9月30日 駅家町に編入 | |||||
西法成寺村 | |||||||||||
下加茂村 | 下加茂村 | 下加茂村 | 下加茂村 | 昭和31年9月30日 加茂町に編入 |
加茂町 | ||||||
粟根村 | 粟根村 | 加茂村 | 加茂村 | 加茂村 | 昭和30年3月31日 加茂町 | ||||||
芦原村 | 芦原村 | ||||||||||
中野村 | 中野村 | ||||||||||
上加茂村 | 上加茂村 | ||||||||||
八軒屋村 | 八軒屋村 | ||||||||||
北山村 | 北山村 | 広瀬村 | 広瀬村 | 広瀬村 | |||||||
百谷村 | 百谷村 | ||||||||||
山野村 | 山野村 | 山野村 | 山野村 | 山野村 | |||||||
矢川村 | 矢川村 | ||||||||||
川北村 | 川北村 | 川北村 | 川北村 | 昭和4年3月1日 神辺町 |
昭和29年3月31日 神辺町 |
神辺町 | 神辺町 | 平成18年3月1日 福山市に編入 | |||
川南村 | 川南村 | 川南村 | 川南村 | ||||||||
上竹田村 | 上竹田村 | 上竹田村 | 上竹田村 | 昭和16年2月11日 竹尋村 | |||||||
下竹田村 | 下竹田村 | 下竹田村 | 下竹田村 | ||||||||
八尋村 | 八尋村 | 八尋村 | 八尋村 | ||||||||
西中条村 | 西中条村 | 中条村 | 中条村 | 中条村 | |||||||
東中条村 | 東中条村 | ||||||||||
三谷村 | 三谷村 | ||||||||||
十九軒屋村 | 十九軒屋村 | 道上村 | 道上村 | 道上村 | |||||||
十三軒屋村 | 十三軒屋村 | ||||||||||
道上村 | 道上村 | ||||||||||
平野村 | 平野村 | 御野村 | 御野村 | 御野村 | |||||||
下御領村 | 下御領村 | ||||||||||
上御領村 | 上御領村 | ||||||||||
湯野村 | 湯野村 | 湯田村 | 湯田村 | 湯田村 | |||||||
箱田村 | 箱田村 | ||||||||||
徳田村 | 徳田村 |
1963年(昭和38年)岡山県笠岡市旧茂平村地区(3.4平方キロ160戸802人)が岡山県より分離、福山市への編入(越県合併)を模索した騒動。江戸期福山藩領であった旧茂平村地区は廃藩置県後、福山との間に県境が引かれた後も境界に河川などの天然障壁はなく、福山市域との結びつきは途絶えることがなかった。戦後の岡山県は岡山市、倉敷市など県中央部を重視する政策をとってきたが対象ともされなかった県境の縁辺都市笠岡市のさらに外縁にある茂平村地区住民には福山市への編入による地位向上や生活改善への希望[37]が広がっていた。また福山地区は備後工業整備特別地区に指定され鉄鋼業や造船業を核に経済発展が加速度的に進むが笠岡市を含む岡山県側市町村は行政区画が異なることなどを理由に当初は指定を見送られ福山市との間に大きな温度差が生じていた。
1961年(昭和36年)日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)の世界最大規模の新工場が福山市沖へ進出することが決定。当時、福山市は経済面、人口面の規模が急拡大しており大規模な住宅開発が行われ地価が急激に上昇、松永市との合併による大規模な市の誕生も見込まれていた。1963年岡山県の東端和気郡日生町福浦が強い住民運動の末岡山県から分離、兵庫県赤穂市に編入。このような状況に地区住民のほとんどが福山市との合併に賛成し福山市合併協議会(高田六次会長)を1963年8月4日に結成[38]、1.広島県特に福山市と血縁関係が濃く地区民の80%以上が関係している、2.官庁関係を除く大部分の労働者が福山市内に職業を持っている、3.商店の仕入れ住民の買物遊び場は福山市に求められている、4.福山市は鉄鋼コンビナートの建設が進み経済発展が進むが笠岡市はのんびり構えている、5.福山市の上水道は隣の大津野まできており合併すれば茂平地区まで給水可能などの理由から合併を求める大々的な運動を起こした。[39]広島県議会議員中川弘(のち福山市長に就任)賛同のもと、福山市議会議員の推薦も得て合併運動は周辺の地域へも広がった。そして合併協議会は福浦の問題を受け署名を見送った漁協関係者32名と家族などを除く有権者の9割を超える494人の署名を集め1963年9月13日笠岡市小野博市長[40]、黒田照太市議会議長に、10月8日福山市徳永豊市長、福山市議会に陳情書(合併請願書)を提出した。[41]
合併運動は主要メディアに取り上げられ、合併請願書が提出されると岡山県、笠岡市などから大々的な反対運動が起こる。茂平地区が第2の福浦となり単に生活圏や目先の利益を理由に県の区域が次々に他県に奪われる事態となる事を懸念していた岡山県は特に激しく抵抗した。住民の賛否が拮抗した福浦地区以上に茂平村地区では合併賛成住民が多いことから町村合併促進法(法律258号・昭和28年改正)11条の2「当該市町村や都道府県に地域・部落の分離の意見が採用されない場合も内閣総理大臣の勧告により住民投票が請求できる[42]」による住民投票が行われると合併派有利の結果となる公算が大きく[43]、住民による合併運動を阻止するため岡山県からの干渉が続いた。翌年(1964年)11月12日笠岡市出身の加藤武徳が県知事に就任すると反対運動はさらに大きくなり茂平村地区など県地方部のさらなる開発の推進を約束したこともあり騒動は収束する。また加藤県政の下1965年3月12日には長年の懸案であった備後地区工業整備特別地域への笠岡市の追加指定が実現した。
特に井原市・笠岡市は県境を挟んで接しており、福山市中心部からも福山市の北端西端よりも近い距離にある。両市は県を越えているが非常に密接な関係があり都市計画上も一体的に扱われる機会が少なくない。
空路は広島県三原市にある広島空港まで福山駅前より空港リムジンバスで約65分、岡山空港へは車で1時間半弱である。かつては岡山空港への福山駅からリムジンバスが就航していたが、利用者が少なかったため廃止されている。また新幹線経由でより規模の大きい大阪国際空港、関西国際空港、福岡空港までいずれも120分程度であり路線や価格により利用される。
山陽新幹線は毎時3 - 4本停車。みずほやのぞみでは岡山まで最短15分、広島まで最短23分、新大阪へは58分、博多へも86分で到達する事から山陽地方主要都市や関西圏、九州北部へのアクセスも良く、また東京駅へものぞみで最速210分で到着する。
JR西日本については、中心駅の福山駅からは朝夕ラッシュ時は山陽線の岡山方面・広島方面とも3〜4本、日中は在来線各駅停車が岡山方面は毎時2〜3本、広島方面は1〜2本運行。岡山方面へは笠岡駅まで13分、新倉敷駅まで31分、倉敷駅まで約41分、岡山駅まで60分。広島方面へは尾道駅まで18分、三原駅までは33分、西条駅までは80分、広島駅までは120分程度の所要時間で到達する。広島方面の列車は全て糸崎駅または三原駅までの運行であり、本郷駅以西へは全て糸崎或いは三原での乗り換えが必要である(19年3月改正以前は直通列車が存在した。)。このため、西条・広島までの所要時間は糸崎・三原での接続次第で前後することがあるに留意。福山駅を起点とし、内陸の府中市や三次市を結ぶ福塩線や、井原市や総社市とを結ぶ井原鉄道井原線も一日の3本のみ神辺駅を経由し福山駅に直通乗り入れしている。
なお、鞆鉄道の運営する鞆鉄道線も1913年から1954年まで存在していた。またJR福塩線の福山 - 府中間は両備鉄道が前身であるが、両備鉄道時代は現在の福塩線と一部異なるルートを通っていた。
山陽自動車道や国道2号線といった基幹交通網も市内を東西に走っており、広島都市圏、岡山都市圏などと結ばれている。また四国を結ぶ2つの本州四国連絡橋(瀬戸中央自動車道・しまなみ海道)の本州側起点の中間に位置しているため、香川県・愛媛県といった四国北部方面へのアクセスも良好。
街の規模としては異例の3社の民間バス会社が市中心部に乗り入れている。北振バス、おのみちバスは市内に路線を持つが市中心部への乗り入れはない。
井笠バスカンパニーは岡山県笠岡市に本社を置くが、歴史的な経緯から福山市を主要運行エリアとしている。福山駅は同社最大のターミナルとなっている。これにより同社は、全国的にも稀な越県路線を複数持つ路線バス会社である。
福山市は非県庁所在地でありながら多くの県外路線を抱える。これらの路線のうち、愛媛県今治市へは所要時間約1時間20 - 30分で、かつ頻繁に(1 - 2時間に1本程度)運行されている。しまなみ海道開通後は沿線の島嶼部から新幹線へのアクセスとしても用いられる。
ローズライナーは新幹線との競合のため、1日36往復と高頻度で運行されている。
以下の4航路が存在する。かつては福山港 - 香川県多度津町間に福山・多度津フェリーが就航していたが、2008年8月31日をもって廃止された。
福山地区消防組合消防局(福山市・府中市・神石高原町の2市1町で組織され、消防・救急業務を運用中。) 8署、1分署、6出張所
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市外局番は以下のように区分されている。
郵便物の集配は、以下の郵便局が行っている。
以前は広島エフエム放送も支社を設置していたが、合理化により廃止された。
福山市の製造品出荷額は約1兆7049億円[48]で中四国地方でも岡山県倉敷市に次ぐ2番目の規模。特に1961年に完成したJFEスチール西日本製鉄所福山地区(旧日本鋼管福山製鉄所)は、同社最大の製造拠点であるのみならず世界最大規模の製鉄所でもあり、造船、機械産業の大工場も複数抱える。
地場産業では繊維・電子機器・ポンプ・クレーン・機械検査機器・食品トレー・ゴム製造業などの一大製造拠点になっている。繊維産業は江戸時代から綿花栽培が盛んであった名残であり、特にデニム(ジーンズ)は児島地区を有する倉敷市とともに有名である。
また上場企業やその業種のオンリーワン企業が都市規模の割合に比較しても非常に多く、国内地方都市では静岡県浜松地区に次ぐ上場・トップシェア企業の多い地域である。[要出典]
かつて以下のような鉱山が存在したが、すべて閉山している。
市内随一の商業集積を持つ地域で、福山駅南口周辺を中心として形成される。
昭和30年代ごろまでは駅から少し離れた本通りや霞銀座、大黒町といった古くからの商店街が小売の中心であった。戦後間もなくの1948年(昭和23年)に天満屋が福山駅前に出店し、昭和40年代にダイエーやニチイ(後に福山ビブレとなる)、イズミ(後に複合専門店ビルCASPAとなる)などが相次いで出店すると小売の主軸は駅前へと移っていった。
1984年(昭和59年)に元町市街地再開発事業で建替えられた天満屋福山店が大幅増床オープンし駅前地区の商業は全盛期を迎える。しかし、1990年代までに商業の中心は蔵王・春日(東部)を始めとする郊外型の店舗へと移行していき、1992年(平成4年)に当時中国地方最大級の規模を持つ百貨店「福山そごう」が駅南西の工場跡地に開店。バブル経済崩壊や駅から若干離れる立地などから売り上げは伸び悩み、経営母体の破綻による煽りを受け、わずか8年後の2000年(平成12年)には閉鎖された。また、その前年には福山ビブレが営業不振により閉店、2005年(平成17年)にはダイエー福山店が閉店した。
福山そごう跡は福山市が買い取り2003年(平成15年)に天満屋系列の複合専門店ビルが入居して“福山ロッツ”としてオープンし、2013年 (平成25年) に天満屋が撤退後に大和情報サービスの運営に切り替わり"RiM-f"となった。福山ビブレ跡地にはホテルや貸しオフィスや飲食店、岩盤浴施設などの複合多目的ビルが開店し、ダイエー東館跡には2002年(平成14年)からフタバ図書GIGAが入居したが2009年(平成21年)に閉店し、これをトモテツセブンが取得して専門店ビルとして再生させた。ダイエー西館跡は解体され高層分譲マンションが建設された。また2018年にはダイエー東館の解体に着手、跡地にはダイワロイネットホテル福山が2020年に完成予定。また、ビブレ跡のビルも部分解体を受けて「ホテル1・2・3」が入る14階建てホテルに改築。その隣接地のNHK福山放送局跡地にも20階建て分譲マンションの計画がある。キャスパ跡地も2019年4月に再開発計画が発表され、低層階に商業施設を併設した22階建てマンションや13階建ホテルを中核とするビルが2023年までに完成予定[51]。
駅前地区の衰退に歯止めをかけるため、福山市は福山そごう跡買い取りに続いて2009年(平成21年)に循環バス路線「まわローズ」の運行を開始、更に駅前周辺の整備事業として2011年には駅南口に地下送迎場を設置、同時に駐輪場設置や道路整備を行なうなど、様々な振興策を打ち出した。同年、民間主導による再開発事業により商業・住居複合ビルアイネスフクヤマが完成したものの、テナントがアイネスフクヤマに移動してしまったキャスパが2012年閉店となる。駅南東側の伏見町にも複合ビルを中心とした再開発計画があったが頓挫、再開発準備組合は2016年に解散した[52]。
一方、駅ナカでは「福山サントーク」が、中国四国地方初の7店を含む91店集積の下、2007年(平成19年)11月1日に「さんすて福山(サンステーションテラス福山)」としてリニューアルオープン。2008年7月1日に今まで駅北東側の三吉町にあった市立図書館が福山市生涯学習プラザ(愛称:まなびの館ローズコム)として中心部から南に進んだ霞町、中央公園内(福山市民会館跡地)に移転した。
なお、居住環境としての福山駅前は2000年代後半ごろから都市部への回帰や新幹線が停車する利便性の高さなどにより、分譲マンションの建設が進んだ。また、福山駅北口は分譲・賃貸マンションやビジネスホテル、飲食店・小売店などが点在するほかは空地や駐車場が目立つなど比較的開発が進んでいなかったが、ここにも2000年代後半ごろから新たなビジネスホテルや高層マンションが相次いで建設され、2008年(平成20年)には福山大学のサテライトスクールが設置された。地方都市でありながら都心回帰の動きが強く周辺自治体に本社を構える会社の本社移転や居住が増えJR福山駅近隣は高所得者層が集まっている。[要出典]
福山駅前から南東へ約1.5キロ辺りに広がる地区である。実質、福山市中心部を管轄する福山東警察署があり松浜町や入船町は歓楽街が主体であるが市中心部の国道2号線と県道との交差点にあった日本化薬福山工場(市内箕沖町に移転)跡地を中心に大規模な再開発がなされ、イトーヨーカドー福山店(2019年2月に閉店。同年6月29日にゆめタウン福山としてオープン)と天満屋、天満屋ハピータウンを中核とする大規模駐車場を備えたポートプラザ日化が建設された。市も周辺を大規模な区画整理を行い、隣接の松浜町の工場跡地に福山芸術文化ホール(リーデンローズ)がオープン。入船町と隣接した港町の入江を埋め立てた場所に福山市立大学が開校。また入船町にエディオン福山本店、松浜町にケーズデンキ福山店などの大規模な小売業の進出した。当該地区を取り囲むように分譲・賃貸マンションが多く立地している。王子町は主に国道2号沿いに当地に本社を構える洋服の青山本店を中心に郊外型店が密集している。
福山駅前から南へ約2キロ辺りに広がる地区で旧国立病院(現在の国立福山医療センター)付近を中心に大・中規模の医療施設の集積が多く、分譲・賃貸マンションも多い。ある程度の商業集積があるが駅前地区との連続性は乏しい。近隣の緑町には大規模な都市公園である緑町公園とかつて天満屋ハピータウン緑町店やサンピアがあった場所に郊外型の商業施設のココローズやみどり町モールがオープン。また沖野上地区にはルートイン Spa Resortホテルグランティア福山、複合宴会場のアルセがある。
福山駅前から南東へ約700メートル辺りに広がる地区で分譲・賃貸マンションが多数存在する。
寺町から旭町にかけては、水野勝成公の城下町建設に従って集められた寺院が集積している。
福山駅前から東へ約3-5キロ辺りに広がる福山駅前に次ぐ集積を持つ地区である。かつては広大な干拓農地が一面に広がるエリアであったが、平野部は国道182号線バイパスの設置や昭和40年代の大規模区画整理により整備され、山間部も昭和50年代に日本鋼管(現JFE)の住宅団地として伊勢ヶ丘・春日台が開発された。こうした中、市は東部副都心構想を策定してJR東福山駅や福山市民病院(蔵王町)東深津町には当時の日本鋼管が寄贈したプールや小規模な遊園地を併設したメモリアルパークを設置するなどインフラを整備する。そして、蔵王・春日地区の平野部を東西に貫く県道沿いに「イズミ蔵王店(現在のゆめタウン蔵王)」がオープンしたことを皮切りに昭和60年頃から周辺に数多くの郊外型店舗が立地していき、後背地に幕山・伊勢ケ丘・大谷台といった大規模住宅地を抱える地理的条件もあいまり大発展を遂げた。また、昭和63年には山陽自動車道の福山東ICが蔵王町に開通するなど交通の利便性も更に高まり、現在では高層の分譲・賃貸マンション、戸建住宅・オフィスなどの立地も盛んで単なる郊外型商業地ではない高度な集積が形成されている。この他、JR山陽新幹線を隔てた明神町の国道2号線沿いにはヤマダデンキやニトリ・ラウンドワン・フタバ図書・ドン・キホーテなど新たな商業集積ができつつあり、伊勢ケ丘地域ではJFE西日本製鉄所社宅跡地を利用した食品スーパーのハローズやホームセンターのユーホー、TSUTAYA・マクドナルドなどを中核とするショッピングモールがある。
福山駅前から西へ約10キロ辺りにあり、かつては松永市だったが昭和41年に福山市に合併された。江戸時代に水野家家臣の本庄重政の指揮の下、遠浅の海岸地形を干拓して以来製塩業が盛んで、その薪燃料を別利用した下駄製造が二次的に栄えたが、今ではほとんど見られない。昭和35年の国策での塩田廃止後は駅南部の塩田跡地は徐々に埋め立てられ、住宅地や商業地へと変貌している(ロイヤルドライビングスクールは塩田跡地をそのまま利用したもので地表面が周りから比べると明らかに低い。)。
旧松永市時代には中世より宿場町として栄え江戸時代には本陣も置かれた今津地区とを結ぶJR松永駅北部が中心地であったが、駅南側もゆめタウン松永店のオープンを皮切りに郊外型店舗を中心とする集積が進んでいった。また、小規模ではあるが駅南口には歓楽街もある。駅周辺は福山大学の開設の契機に中高層の主に学生向け賃貸マンションが多く立ち並ぶようになった。西側の尾道市との境である高西町は南松永と高西町を繋ぐ架橋が完成したり土地区画整理やヤマダデンキテックランド福山西店の出店などにより市町村合併前は同じ旧高須村地域であった過去を物語るように連続的な集積が出来ている。東側の福山市中心部と松永地区の中間点である津之郷、赤坂、瀬戸地区にも郊外型パワーセンターのサファ福山やライフステージ太陽福山店などが立地している。
福山駅前から北へ約6-7キロ辺りに広がる地区で駅家地区は昭和50年代に福山市に編入された地域である。長らくJR福塩線の北側の県道沿いにのみ小規模な商店街が形成されるのみであったが、昭和50年代にニチイ駅家店(後にサティになるが現在は撤退し食品スーパーのハローズ主体の駅家モールとなっている)がオープンし、この地区の郊外型店舗のさきがけとなった。そして、これを軸に商業集積が出来ていったが、幾分道路事情が悪かったことなどから商業的中心は国道486号線沿いへと移っていった。
御幸地区は南部の県道沿いに小規模な集積があったのみであったが、北部に国道486号線が開通したことや、福山平成大学や中国中央病院、広島県立ふくやま産業交流館(ビッグローズ)が完成すると神辺平野の中核的な地域となり、現在では国道沿いに駅家地区、神辺地区と連続した商業集積を持っている。
神辺地区は国道313号線沿いや国道182号線沿いの川南・道上地区、旧山陽道(西国街道)沿いに古くからの小規模な商業集積があるのみであったが、JR神辺駅周辺に昭和50年代に郊外型商業施設である天満屋ハピータウン神辺店(現在は撤退して食品スーパーのハートが入店)やニチイ神辺店(サティに衣替えするが撤退しユーホーが出店するが隣接地に移転する)がオープンする。しかし、神辺駅周辺は道路事情が悪いことや御幸地区の発展などから現在は衰退気味である。一方、国道486号線沿いは国道313号線との交差点付近(湯野区画整理事業地内)にパワーセンターであるMrMax(現在はフレスポ神辺モールへ移転)やアクト神辺がオープンし、平成に入り国道486号線が全通して国道182号線と結ばれたことを契機に駅家・御幸地区との連続的集積が形成されていった。そして、平成17年(2005年)に486号線と182号線の交差点付近(道上土地区画整理事業地内)にフジグラン神辺を中心とする大規模商業エリアが完成した。
福山駅前から南へ約4-5キロ辺りに広がる地区であり、川口と多治米は江戸時代初期、新涯(曙、一文字を含む)は幕末に干拓された地域。1970年代の大規模土地区画整理事業以前はバス通り沿いに小規模な商業集積があるのみの田園地帯であった。昭和47年(1972年)に手城町とを隔てる運河に入江大橋が架けられ国道182号線とを結ぶ県道380号線が開通したことを契機にこの通り沿いを中心に郊外型商業施設が建ち始めた。しかし、周辺人口の少なさや海に囲まれた閉鎖的な地理環境などから現在も大規模な集積は生まれていなかった。平成6年(1994年)に駅前大通りから続く道路(福山駅箕島線)が開通し、平成15年(2003年)の芦田川大橋開通により芦田川対岸の水呑町と結ばれ、交通事情が大きく改善している。商業的中心は川口地区から新涯地区へと移っていった。また、芦田川大橋を渡った水呑町も区画整理事業が完了するに伴い商業集積が高まってきている。
ビックボール有する、ボウリング、ビリヤード、漫画店等に隣接するイオン系列のショップモールの撤退後、(2007年)以降からは大規模な総合アミューズメント施設(コロナワールド)が建つ他、観覧車の設置、福山夏祭りの恒例イベントである花火大会を芦田川大橋付近で行うなど近年、賑わいを集めている。人口の増加では駅前周辺に次ぐ増加率である。
各場所にはじじんさんと呼ばれる石造の神様が江戸期に行われた大新涯干拓事業により設置されている。
この区域ではクワイ(芋類の一種)の生産が盛んであり、福山は生産高日本1位(また2010年現在)も記録されている。
箕島は元々は福山湾内に浮かぶ離島であったが、江戸時代から明治初年に行われた大新涯の干拓により陸続きになった。作物に恵まれた地域である。また近くの茶山には古墳が存在する。
新涯・箕島から2 - 3キロに続く埋立地を箕沖と言い、中国電力の太陽光発電所やエフピコ・日本化薬、各種製造会社、港湾施設などが立ち並ぶ。
福山駅前から北西へ約15キロ辺りに広がる地区で古代から繁栄した地域で備後一宮(吉備津神社)も鎮座する。県道沿いのJR新市駅付近に小規模な商業集積があったが国道486号沿いの駅家町や府中市との境界付近に一定規模の連続的な商業集積がある。繊維業が盛んで日本三大絣の備後絣発祥の地としても有名。自重堂、コーコスなどのワーキング大手やブルーウェイやカイハラなどジーンズ系大手が本社を構える繊維の街である。
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指定金融機関は中国銀行(西暦の偶数年度)と広島銀行(西暦の奇数年度)の輪番制。
1970年代より、同和団体による教育への過剰な干渉が広島県で問題となった。福山市は府中市や芦品郡、世羅郡などとともに、それらの問題が激しかった地区である。国会で問題視され文部省による是正措置が行われた後は解消しつつある。
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以下にはロケ地も含まれる
市章は、こうもりを「山」の字にデザイン化したもの。また市章旗は黄地に黒で描かれている。これは1917年に市制施行時に福山出身の有名建築家の武田五一に依頼され彼がかかわったもの。由来については福山城のある付近はかつて蝙蝠山と称しており、こうもりは本来、中国思想の影響から縁起の良い動物とされ、「蝠」は福に通じることと初代藩主水野勝成が「福山」と名づけたとする地名由来説があることからモチーフに選ばれた。事実、明治時代初期の箱館戦争時に新政府軍側として参戦した福山藩の部隊はこのこうもりの旗印を掲げて参戦している。
「市の花」としてばら(1985年制定)とキク(2003年制定)があり、2000年代の一時期はばらを模したマークが市の出版物に描かれていたり市の施設などばらに因んだ名称が使用されたりと、ばらが「市章」に準じた扱いを受けていた事もあったが、2013年以降は正式なこうもり山の市章を中心に、用途によりばらのシンボルマークを使い分ける形となっている。
自動車や軽自動車、二輪車などは福山市高西町に中国運輸局広島運輸支局福山自動車検査登録事務所や軽自動車検査協会広島主管事務所福山支所があり、広島県東部をエリアとする福山ナンバーを統括している。福山市と尾道市による激しい誘致合戦の結果、両市役所の中間地点である当地に同支所が置かれることとなったという逸話が残されている。なお、福山ナンバーは中四国9県で唯一の県名以外の地名の入ったナンバープレートである(2006年10月よりご当地ナンバーとして倉敷ナンバーと下関ナンバーが加わったが、これらの地区には陸運事務所などは設置されない)。
平成の大合併により広島ナンバーのエリアに区域移管される地域が多く、旧豊田郡(安浦・川尻・豊浜・豊・安芸津)旧甲奴郡(甲奴・総領)旧比婆郡(西城・東城・口和・高野・比和)が広島ナンバーへ、逆に広島ナンバーから福山ナンバーに移行されたのは新設合併された新・三原市のうち、旧賀茂郡大和町の区域のみである。
広島東洋カープの「カープ坊や」が描かれたナンバーが交付されており、福山市役所企画政策課によると、このカープ坊やの図柄入りナンバーは2021年度末時点で申し込み件数が1万7509件で全国2位である[59]。
福山市内には指定暴力団の本部はないが、東の笠岡に五代目浅野組、西の尾道に三代目俠道会の本部がある。福山市内に、五代目浅野組の二次団体である二代目中岡組が昭和町に本部を置き、三代目俠道会の二次団体である三代目下森組(したもりぐみ)が柳津町に本部を置く。[要出典]
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