三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日[1])- 1965年昭和40年)10月26日[1])は、日本政治家銀行員実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。

概要 生年月日, 出生地 ...
三谷 一二
みたに いちじ
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生年月日 1871年12月4日
明治4年10月22日
出生地 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)
没年月日 (1965-10-26) 1965年10月26日(93歳没)
出身校 高等商業学校(現・一橋大学
所属政党 無所属

当選回数 1回
在任期間 1944年9月26日 - 1946年3月7日
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人物

福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社[2]

1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。

1918年(大正7年)4月10日三菱鉱業株式会社が設立され、三菱合資会社より炭鉱部、鉱山部、研究所を継承[3]。同年5月3日、三菱鉱業の常務取締役に任ぜられ、三菱財閥の中核にあって、手腕をふるった。1924年(大正13年)5月から1936年(昭和11年)まで同社の取締役会長を務めた[2]。また、如水会理事なども務めた[4]

1944年(昭和19年)9月26日、第4代福山市長に就任。1945年(昭和20年)8月8日福山大空襲による戦災、敗戦による生活難と混乱の中で市政の重責を果たした。1946年(昭和21年)3月7日、高齢を理由に辞任[2]。その後、「翼賛支部長」のため公職追放となる[5]

1965年(昭和40年)10月26日没。

エピソード

  • ボート競技にも造詣が深く、1940年(昭和15年)、戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションに選ばれて出漕している[6]

親族

長男雄一郞の妻萩枝は元海軍中将宮原二郎男爵の娘[7]

脚注

参考文献

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