立教大学
東京都豊島区にある私立大学 ウィキペディアから
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立教大学(りっきょうだいがく、英語: Rikkyo University/Saint Paul's(スクール・ニックネーム))は、東京都豊島区西池袋に本部を置く日本の私立大学。1874年創立、1883年大学設置。大学の略称は立大(りつだい)。
立教大学 | |
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大学設置 | 1883年 |
創立 | 1874年 |
創立者 | チャニング・ウィリアムズ |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人立教学院 |
本部所在地 |
東京都豊島区西池袋三丁目34番1号 北緯35度43分49.8秒 東経139度42分14.2秒 |
学生数 | 20,720 |
キャンパス |
池袋(東京都豊島区) 新座(埼玉県新座市) 陸前高田グローバルキャンパス(岩手県陸前高田市) |
学部 |
文学部 異文化コミュニケーション学部 経済学部 経営学部 理学部 社会学部 法学部 観光学部 コミュニティ福祉学部 現代心理学部 スポーツウエルネス学部 Global Liberal Arts Program (GLAP) |
研究科 |
文学研究科 経済学研究科 経営学研究科 理学研究科 社会学研究科 法学研究科 観光学研究科 コミュニティ福祉学研究科 現代心理学研究科 キリスト教学研究科 ビジネスデザイン研究科 社会デザイン研究科 異文化コミュニケーション研究科 法務研究科 人工知能科学研究科 スポーツウエルネス学研究科 |
ウェブサイト |
www |
英国国教会を始祖とする会派、米国聖公会(歴代米国大統領の1/4が信者)の宣教師チャニング・ウィリアムズ主教が、1874年(明治7年)に東京・築地に設立した聖書と英学を教育する私塾、立教学校[注釈 1][注釈 2]を前身の一つとする日本屈指の伝統校である。ローマから英国に派遣されたオーガスティンの初代カンタベリー大主教着座(西暦597年)からの流れを汲む[9][注釈 3]。設立起源は、米国聖公会信徒のマシュー・ペリーの黒船来航と初代米国総領事タウンゼント・ハリスの活動により日本への宣教勧告と学校開設の勧奨を得た米国聖公会が、1859年(安政6年)に伝道と教育、医療活動を成すプロテスタント初の日本ミッションを長崎・崇福寺に置き、ハリスの支援のもと江戸幕府の長崎奉行・岡部駿河守長常の要請で日本の嚆矢となる英学私塾を創設したことに始まり、高杉晋作、大隈重信(第8・17代内閣総理大臣)、副島種臣(第3代外務卿)、前島密(近代郵便制度創設者)、何礼之(大阪洋学校、現・京都大学創設者)など多くの志士を輩出した[注釈 4][注釈 5][注釈 6][20][21]。この塾は日本におけるミッションスクールの起りである[22]。幕末から明治にかけて日本と米国の外交の芽吹に生誕し、日米両国の友好の証として歴史を繋ぎ、日本の英学教育を牽引してきた[23][注釈 7][注釈 8][注釈 9][注釈 10]。
聖公会系の大学である名門オックスフォード大学クライスト・チャーチを始め、世界の聖公会系大学が120校以上加盟するCUAC(世界聖公会大学連合)に属する日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。1883年(明治16年)に、米国式カレッジとして東京大学とともに日本最高峰の教育機関である「立教大学校」を設立[注釈 11]。ミッションスクール第一号として認可を受けた[41]。これは後の帝国大学令と大学令より前に、教育令によって認可された日本の先駆けとなる大学であった(詳細は旧制大学参照)[42]。初代校長にハーバード大学出身のジェームズ・ガーディナーが就いた。1922年(大正11年)に大学令により再び大学となり、文学部、商学部、予科を設置[注釈 12]。第二次世界大戦前に英称をSt.Paul's Collegeと変更。現在は正式英称をRikkyo Universityとするが、今もスクール・ニックネームとして「St.Paul's」が使われる[48]。「SPU」の略称もある[注釈 13]。
戦間期以降、慶應義塾大学、東京大学、法政大学、明治大学、立教大学、早稲田大学で構成する東京六大学の一校である[注釈 14]。 2001年から、同じ聖公会に属する聖路加国際大学と単位互換制度を開始。近隣の大学で構成するF-Campus(5大学単位互換制度)も開始した。
創立以来、国際性やリーダーシップを育むリベラルアーツ教育を実践し、2023年時点で11学部・27学科・10専修・1コース Global Liberal Arts Program (GLAP)を設置。大学院は16研究科設置する。経営学部と異文化コミュニケーション学部は、入試難易度が高く、現在における看板学部である。経営学部と大学院経営学研究科は、世界的なビジネス教育の認証評価機関であるAACSBの国際認証を2024年に取得し、学部・研究科単位の取得では私立の総合大学で日本初となる世界トップクラスの教育機関認定を受けている[52]。質の高い先端的な研究を行う理学部も世界における評価で大学を牽引しており、JAXAと協同での宇宙関連の研究開発や、燃料電池、人工光合成等のクリーンエネルギー分野、バイオ医薬の分野などで高い成果を上げている[53][54]。(#理工学分野を参照)
蔦の絡まる煉瓦造りの歴史的建造物群とガラス張りの近代的な校舎が調和する池袋キャンパスは、都会にありながら緑豊かで、異国情緒ある洗練された美しいキャンパスとして知られる[55][56][57]。1918年(大正7年)竣工の第一食堂は、ハリーポッターの世界観があると言われる[58][59]。2012年に開館した池袋図書館は、収蔵可能冊数200万冊、閲覧席数1530席以上を有する、国内の大学でも屈指の規模を誇る図書館である[60][61][62]。多様なグループワークに対応する学習スペースと充実したICT環境に加え[63]、リフレッシュルーム、テラス席、ソファ席などが備わり、カフェ併設の滞在型図書館である[62]。ラーニングアドバイザーも常駐し、文献の調べ方はもとより、レポートの書き方や研究構想の纏め方を細かく指導できる体制を整え、「本気で勉強したくなる図書館」を目指して、学生を強力に支援する施設となっている[注釈 15][65]。芝生広場や中庭も広がる、穏やかで開放的な雰囲気の新座キャンパスは、近代的な校舎のほか、スタジオ棟、体育施設などが点在している。新座図書館は専門書が多く蔵書され、映像資料も充実する。
校友数は2023年時点で23万人を数え、全国および世界に「立教会」と呼ばれる校友組織が広がっている[66][67]。経済界を始め、出版、文学、メディアなど多くの分野で卒業生が活躍している。2016年に卒業生ネットワーク組織「GLCネットワーク[注釈 16]」が発足し、多様な業界で活躍する卒業生たちが立教生のキャリア形成支援を行っている[68]。「就職偏差値が上がった大学」ランキングでは全国1位[69]、イギリスの教育専門誌「タイムズ・ハイアー・エデュケーション (Times Higher Education)」による世界大学ランキング2025年版では、国際性において国内私大1位(5年連続)に認定されている[70]。
2007年に日本初のESD研究機関である「立教大学ESD研究センター」(現・ESD研究所)を設立し、SDGsの取り組みを推進する。2020年には、大学院に日本初となる、AIに特化した「人工知能科学研究科」を創設した[71]。同年、先端的な英語教育・研究を担う「立教大学外国語教育研究センター(FLER)」を開設。2022年には、学内の温室効果ガスの排出を2030年までに全体としてゼロにすることを目指し、「カーボンニュートラル宣言」を表明した[72][73]。
米国聖公会が設立した大学であり、歴史的に外国人教員が多く、国際的な学風である[注釈 17]。大学の源流である1859年(安政6年)に幕末の長崎で設立した私塾において、江戸幕府の長崎奉行の要請から公式通事(通訳)への英学教育を開始し、明治維新で活躍する外交官を多く輩出するなど、創設以来長きに渡る国際性の伝統を持つ[注釈 5][74][75][20]。その後も、朝日新聞社初代外報部長の米田實を始め、永井万助、岡本鶴松など同社外報部長を務めた20世紀前半の日本を代表するジャーナリストを輩出した[注釈 18]。1907年(明治40年)には清国留学生のための「志成学校」を築地に設立し、古くから留学生を受け入れた国際交流を行う。韓国初の英字新聞であるコリア・タイムス初代社長の金尙鎔も大学の卒業生であり、近年でも日本の女性記者で初めて南極観測隊に同行取材した中山由美(朝日新聞報道局記者)も卒業生である。ミッション系大学の特質もあり、語学教育に定評があるが、近年、国際化戦略である「Rikkyo Global 24」を推進し、教育プログラムも進化する。英語によるディスカッションやプレゼンテーションなど社会に資する実践的なスキルが身につくプログラムがあり、中でも経営学部・国際経営学科、異文化コミュニケーション学部、GLAPでは全員が海外留学研修を行う。2013年にはグローバル教育センターを設置し、立教GLP(グローバル・リーダーシップ・プログラム)を始め、国際協力人材育成プログラムや海外インターンシップ等の科目を設けている。
2014年に、文部科学省「スーパーグローバル大学創成支援事業」の指定校となる。グローバル化が進展し国際交流の隆盛に伴い、留学生も増え、学内における国際交流と留学情報発信の拠点として、「グローバルラウンジ」を池袋、新座の各キャンパスに開設。日本にいながら留学生と交流し、多様な文化に触れ、語学力を高められる施設で、国際交流イベントやワークショップも多く開かれる。専属の国際交流コーディネーターによる留学相談窓口もあり、留学プログラムの情報提供も行う。より幅広い国の学生に対応するためにイスラム圏の学生が主に利用できる、祈りの部屋を設置するなど、施設面でも充実を図っている。国際交流ボランティア制度もあり、来日した留学生の生活サポートを行い、積極的に国際交流を行うことができる環境が整う。
2015年からは、スタンフォード大学の学生と「陸前高田プロジェクト」に取り組んでいる。2016年に、全学部生が受講できる「グローバル教養副専攻」を開設。所属する学部学科で修得する専門性に加えて、もう一つの専門性を修得し、多面的に物事を捉え持続的に考える力を養成するプログラムで、大学が認定する海外学習も行う。3コース21テーマの中で興味・関心あるものを選択し、テーマに沿って体系的に学んでいく。中でも2018年には、データサイエンス副専攻が開設され、データ分析、IT技術、統計学、調査理論などを学び、グローバル人材に必要なデータ活用力を身に着けられる。こうした主専攻+副専攻(メジャー、マイナー)の学部履修形態は欧米の大学では一般的だが[注釈 19]、日本では、同じミッション系大学の国際基督教大学が採用している。グローバル教養副専攻の履修科目は所属学科の卒業単位にも算入でき、修了すると卒業時に修了証が授与され、300以上ある全学共通科目と合わせ、リベラルアーツ教育が充実化した。また、他学部が開講する専門科目も一部を除き履修可能で、大学全体を通して履修できるプログラムの自由度が高いのが特徴である。2017年には、国や地域を超えて、世界で活躍するグローバルリーダーを育成する国際教養学部相当のGlobal Liberal Arts Program (GLAP) を設置した。
2021年11月、文部科学省「大学の世界展開力強化事業」において、新規採択分として私立大学で唯一の採択校となった[79]。2014年に採択された「スーパーグローバル大学創成支援事業」を引き継ぐ大学の中核事業として位置づけ、ソウル大学校(韓国)、北京大学(中国)、シンガポール国立大学(シンガポール)のアジアトップクラスの大学との連携事業である「ACEプログラム(The Asian Consortium for Excellence in Liberal Arts and Interdisciplinary Education)」を開設し、4大学による国際共同副専攻 (ALIS) を設置した[注釈 20][80]。
海外協定校は、2024年5月現在、世界46か国・地域に及んでおり、米国のコロンビア大学、コーネル大学、シカゴ大学、バージニア大学、ワシントン大学、英国のケンブリッジ大学、マンチェスター大学、リヴァプール大学、シェフィールド大学、フランスのパリ大学、オーストラリアのシドニー大学、モナシュ大学、ニューサウスウェールズ大学、シンガポールのシンガポール国立大学、中国の北京大学、清華大学、南京大学、韓国のソウル大学校、高麗大学、延世大学など、世界255の大学と280の協定を結んでいる[81]。
リーダーシップ教育においては、経営学部では少人数の体験・実践的なコアカリキュラムであるBLP(ビジネス・リーダーシップ・プログラム)[82]があり、実際に企業と連携し、企業から提示される課題にチームで挑む中で、プロジェクトの進め方を学び、リーダーシップ力が養える環境となっている。インターンシップと同じく、社会体験型のアクティブ・ラーニングである。
BLPは、日本初の学部必修のプログラムとして2006年に開設された[注釈 21][84]。2011年には、先進的な教育方法を常に取り入れていることが評価され、文科省・日本学術振興会の「教育GP」(2008─10年度)の成果審査の結果「他(大学)に波及が見込まれるイノベーティブな取組」であるとして最高ランクの評価を受けている[85]。
BLPで培うリーダーシップ力は、これまでの組織内で権限を持つ一部の人が発揮するべきものとされた能力とは異なり、役職に関係なく全ての人が状況に応じて発揮することができるスキルである。質の高い授業と充実した施設環境の中で、能動的で主体性を持った学生が育ち、勉学に本気で取り組む風土となっている。上級生になるとSA(ステューデント・アシスタント)[注釈 22]としてプログラムの運営側に回り、下級生へのコーチングや議事進行、教授のサポートなどファシリテーターとして運営側の視点も身に付き、相乗効果が生まれている。卒業後に、いかなる企業や組織でも活躍していくことができる力を育成する環境となっている。企業側から見ても、学生(Z世代)の意見を取り込みながら、外部の会社に委託、発注することなく、市場調査を行うことができ、新規事業開発や戦略立案などで企業と社員を活性化させるインキュベーターとなり、産学連携や企業の社会貢献の有効なモデルとなっている。また、参加する社員のリーダーシップ研修の場にもなっている。
立教GLP(グローバル・リーダーシップ・プログラム)[86]は、内外で評価が高い経営学部のBLPのメソッドを全学で展開するために、2013年度に設置された。BLPと同じく、企業や団体の提示するプロジェクト課題に少人数のチームで取り組み、実践的、体系的にリーダーシップを修得できる全学部を対象としたプログラムで、日本語科目のほか英語科目も設けられており、国際性や語学力も高めることができる。英語科目には、グローバル教育センターが指定する海外学習プログラムに参加するリーダーシップ海外体験科目も用意されている。GLPは、今までの受け身の授業とは異なるプログラムで、本気で取り組んでいる人を応援する文化があり、仲間との真剣な取り組みの中で、主体的に考え行動していく力が身に付き、卒業後に様々な業界で活躍する人材を輩出している[87]。
2016年度からは立教サービスラーニング (RSL) が全学共通科目で始まり、NPO、行政、企業等の受け入れ先での体験学習を通じて、リーダーシップ力を磨くプログラムを用意している。延世大学・復旦大学・慶應義塾大学とは「リーダーシップフォーラム」を毎年開催している。
学生の経済的基盤を整え、学費負担を軽減し、学業継続の機会を保障するために、様々な奨学金制度が用意されている[88]。立教大学独自の奨学金はすべて返還不要の給与奨学金で、人物、学業ともに優秀な学生の修学を援助するものとなっている。入学前に申し込むタイプ(入学前予約型奨学金)と入学後に申し込むタイプとの2種類がある。入学前予約型奨学金には、親元を離れ、住居費・生活費で経済的負担が増す、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県を除く全国の高等学校出身者対象の「自由の学府奨学金[89]」と、Global Liberal Arts Program (GLAP) への入学希望者を対象とした「GLAP奨学金[90]」がある。「自由の学府奨学金」の支給額は年額50万円(理学部入学者は年額70万円)で、採用候補者数は約500名(2023年度現在)と、大きな枠となっており、4年間受給した場合、国公立大学の授業料とほぼ差がない制度となっている。入学後に申し込むタイプの奨学金の中には、経済的理由により修学が困難な学生を支援するための経済支援奨学金や国際化戦略の一環として、学生が積極的に留学プログラムに参加するよう設置された「グローバル奨学金」などがある。
「立教」の出典については諸説あるが、近年の研究により、かつて聖公会の祈祷書(礼拝時に用いる規則書)にあった「立教師」ということばに由来するのではないかとの説が浮上している。この「立教師」という言葉は、ウィリアムズ主教によって訳出されたとも考えられている[91][92]。その他の説として、朱子の『小学』立教篇から採ったとの説[93]、儒学者高愈が註をした「立教法以治人」から採ったとの説[94]、ヘンリー・セントジョージ・タッカーが「立教はセント=ポールズの日本名で、それは『教えの建設』を意味する」と記したとの説[93]がある。
応援歌や学園祭の名称などで使用されているスクール・ニックネームの、"St. Paul" についても確かな文献は見当たらないが、ウィリアムズ主教が1882年(明治15年)頃に英名として "St. Paul’s School" と命名したと考えられている[95]。米国聖公会系の学校には全て「守護聖人」が存在しており、St.Paul (SAINT PAUL) =聖パウロは、新約聖書の著者の一人。英国国教会(イングランド国教会)ロンドン教区の主教座聖堂は「セント・ポール大聖堂」と聖パウロを記念して名付けられている[注釈 23]。ウィリアムズ主教は自ら遠く東洋へ赴いた伝道者として、偉大な聖パウロを守護聖徒と仰ぎ、その名を本学の名に冠したものと思われる。
また、1878年(明治11年)には、英国聖公会宣教協会(CMS)のジョン・パイパー司祭が築地居留地52番に「聖保羅教会(セントポール教会)」を創設し、米国聖公会と英国聖公会福音宣布協会(SPG)とも連携しており、1882年以前に築地において既にセントポールの名称が用いられている。この聖保羅教会の名称は、SPGのアレクサンダー・クロフト・ショーが1876年(明治9年)に三田松本町に設立した教会(聖アンデレ教会の前身)の名称として既に使われていたが、三田では会堂を有していなかったこともあり、パイパーが築地で創設した教会の礼拝堂(会堂)が落成した際に教会の名称となった[31][98]。
校歌に謳われるように、立教学院は自らを「自由の学府」と呼び、基本理念を端的に示すものとして各所で使用している[注釈 24][注釈 25][100]。
建学の精神を表す言葉が「PRO DEO ET PATRIA(神と国とのために)」で、立教大学では、これを「普遍的なる真理を探究し、私たちの世界、社会、隣人のために」と捉えている。「PRO DEO ET PATRIA」は、立教学校設立から約半世紀を経た1918年(大正7年)、築地から池袋への移転を機に、当時総理であったチャールズ・ライフスナイダーが、建学の精神を具体的に表現するものとして定めた立教の「楯のマーク」(現在のオフィシャル・シンボル)の中に書かれている[101][102]。校友会館である「セントポールズ会館」の礎石には、校友会会長であった大川又三郎の自筆で「神と国との為に」と刻まれている[103]。
リベラルアーツ教育に基づき、グローバルな課題と社会的要請に対応し、広い視野に立って課題を発見・解決できる能力を持った「新しい」グローバルリーダーの育成を教育の中心に据えている。「新しい」グローバルリーダーに不可欠な要素として「柔らかなリーダーシップ」と「グローバルな力」を掲げ、教育プログラムを構成している。「柔らかなリーダーシップ」とは、権限やカリスマ性がなくても、チームをまとめ、活性化させ、仲間の力を引き出すことができる誰もがトレーニングによって持つことができ活躍できる能力と捉えている。「グローバルな力」とは単に英語が話せるということではなく、あらゆる国や人種の多様な文化や価値観を受け入れ、認め、社会全体のために行動できる力としている[104]。これらの力は、遠い異国の地から日本に渡来し、幾多の壁を乗り越え道を開き活動した創立者や宣教師たちの行動力(#沿革を参照)そのものを表しており、建学以来流れる教育指針といえる。
米国ニューヨークにある名門コロンビア大学は、ジョージ2世の勅許によって英国国教会(イングランド国教会)により設立された立教大学と同じ聖公会系の大学である。構内にはセントポールズ・チャペルも持つ。創立当初「キングス・カレッジ」としての大学の方針を確立する際に、全ての構成員は、宗教の自由の原則にコミットすることに同意している。立教大学の教育方針は、キリスト教精神に基づくリベラルアーツ教育であり、多様性を認め、受け入れる「真の国際人」を育てるグローバル教育を特長とし[105]、 「自由の学府」として、コロンビア大学と同じく、宗教の自由の原則にコミットされている[注釈 26][注釈 24][注釈 27][注釈 28]。ウィリアムズ主教(立教大学創設者)の名前の由来である米国聖公会ヴァージニア教区第2代主教のリチャード・チャニング・ムーア、ウィリアムズ主教のヴァージニア神学校時代の恩師であるウィリアム・スパロウもコロンビア大学の出身であり、嚆矢濫觴から繋がっている[注釈 29]。ウィリアムズ主教は、1867年(慶応3年)に、コロンビア大学より神学博士号を授与されている。
立教大学におけるキリスト教学は他のキリスト教系大学にあるような聖職者養成を目的とした神学ではなく、純粋に学問としてキリスト教を研究する宗教学である。したがって信仰の有無は問われない。文学部キリスト教学科はハーバード大学神学大学院で神学を修めた菅円吉(文学部長)によって創設された[注釈 30]。同学科では聖書学からキリスト教芸術や倫理学までキリスト教の広範な領域をカバーしており、キリスト教が世界の歴史や文化にどのような影響を与え、受けてきたのかを学び、世界の文化・思想・芸術など、多様な視点から探求することを目的としている。世界人口の約3分の1が信徒とも言われるキリスト教を広く学ぶことができる国際的な学科である。また、全学部生が履修できる全学共通科目では、仏教の世界やイスラームの世界についても学ぶことができる。歴史的にも1894年(明治27年)には、仏教学者で後に京都大学文学部を創設し、インド哲学の泰斗である松本文三郎(京都大学元学長、京都大学名誉教授)が立教学校の教授に就任し、教鞭を執っており[44]、1925年(大正14年)に文学部に史学科が創設されると、実証的な日本仏教史を確立した辻善之助(東京大学名誉教授)が教授に就いた[13]。大学創設者のウィリアムズも仏教研究を行っていたが、アーサー・ロイド(立教学院総理)も仏教研究者としても活躍し、第2次大戦後もロイドが著した仏教研究書は必読書とされた[114]。
文学部は大学設立当初に設置された文科をルーツとし、商科から続く経済学部と経営学部[注釈 31]とともに立教大学で最も古い。1922年(大正11年)に文学部が設置されると、英文学科、哲学科、宗教学科の3学科を置き、史学科も開設された1925年(大正14年)に日本の英語教育の第一人者である岡倉由三郎(岡倉天心の実弟)が教授に就き、英文学科長となり、岡倉の推薦で言語学の権威である金田一京助も教授として言語学講座を担当した[115]。
文学部文学科には、英米文学、フランス文学、ドイツ文学といった伝統と歴史ある国際系学問の専修もあり、外国の文学に加え、映画、音楽、芸術、思想など様々な観点から文化を幅広く学べ、国際的な知性と語学力を高めることができる。英米文学における歴史は、文学部の開設より古く、1883年(明治16年)に立教学校卒業生で大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)教授の河島敬蔵が日本初となるシェイクスピア劇の翻訳(『ジュリアス・シーザー』の逐語訳)を発表し、1886年(明治19年)には、日本で初めて『ロミオとジュリエット』の翻訳書を出版し、日本の英米文学史に名を残す功績を上げている[116][117]。また、1889年(明治22年)にシェイクスピア劇の翻訳を在学中に掲載した水田南陽は、1899年(明治32年)に日本へ『シャーロック・ホームズ』を紹介した先駆者である[118]。立教学校出身でスタンフォード大学に留学した長沢別天は、1893年(明治26年)にエドガー・アラン・ポーの詩を日本に初めて紹介し、翌年にはジョン・ミルトンの評論を著すなど、明治期に英文学の普及に務めた。1890年(明治23年)頃には、日本の英文学の権威で坪内逍遥と双璧をなした増田藤之助(早稲田大学名誉教授)が立教学校の教授を務め、その後多年に渡り、東京英語専修学校、文学部英文学科で英文学を教えた[119]。
1903年(明治36年)には、ハリー・ポッターシリーズに影響を与えたトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』の訳書を立教生の岡本鶴松が『英国学校生活』として出版した。発行は鶴松の号から名付けた九皐社で、印刷は築地・明石町にあった立教学院活版部(Rikkyo Gakuin Press)で行われ、本訳書の序文を立教学院総理であったヘンリー・タッカーが寄稿した[120]。この作品はヒューズが在学した聖公会のラグビースクールを舞台としており、イギリスとアメリカで大人気の作品であったが、日本でも明治時代の高校生に最も人気のある英語圏生まれの教科書となった[121]。この活版部は、1900年(明治33年)にアーサー・ロイドが私費を投じて苦学生の自活のために設立した印刷所であった[122]。
上述に加えて、ホームズの著者、コナン・ドイルに影響を受けた江戸川乱歩だが[123]、長男の平井隆太郎は社会学部教授を務め、立教ミステリクラブ顧問も務めた[注釈 32]。大学に隣接する乱歩邸は、2002年に立教大学に寄贈され、江戸川乱歩記念大衆文化研究センターでは、日本内外の大衆文化研究の拠点として研究成果の公開と社会還元を行っている[126]。
1920年(大正9年)3月には、デンマークの童話作家のH.C.アンデルセンに惚れ込んで、その童話の元に抒情画を描いて一世風靡した英文学科に在学中の加藤まさを(大正期の代表的な抒情画家で「月の沙漠」の作詞家)が中心となり立教大学の文芸雑誌『塔』が創刊された。1922年(大正11年)には、日本のアメリカ文学研究の第一人者である高垣松雄が教授に就き、1926年(大正15年)には同分野の先駆者である富田彬(立教大学名誉教授)も教授となり、アメリカ文学研究の基盤を築いた。高垣の教え子に、杉木喬(立教大学名誉教授)や細入藤太郎(立教大学教授)がいる。1927年(昭和2年)に英文学科を卒業した金尙鎔(梨花女子大学教授)は朝鮮に帰国後、1930年頃から『東亜日報』などに詩を掲載し、ポーの「アナベル・リー」(『新生』27、1931年1月)、キーツの「希臘古甕賦(ギリシャの古壺のオード)」(『新生』31、1931年5月)などの英米文学を翻訳・紹介した[127]。
日本における『ピーターラビット』とビアトリクス・ポター研究の第一人者である吉田新一(立教大学名誉教授)は、出身である英米文学科(現・英米文学専修)で講じ、多くの海外児童文学作品の翻訳を手掛け、桂宥子(岡山県立大学名誉教授)や北野佐久子(児童文学研究家)らを育てた。
文学部史学科は、立教大学教授を務めた小林秀雄(史学科長、文学部長を歴任)が1925年(大正14年)に立ち上げた学科で[128][129]、史学科の最初の教授陣として、西洋史に小林秀雄、東洋史に原田淑人(日本近代東洋考古学の父)、白鳥清(白鳥庫吉の嗣子)、日本史に竹岡勝也、辻善之助(東京帝国大学史料編纂所初代所長)、藤本了泰、中村勝麻呂という陣容で始まり、1年後には、西洋史に野々村戒三、東洋史には東洋史学の開拓者である市村瓚次郎(國學院大學学長、東京帝国大学名誉教授)が教授陣に加わった[13]。
1959年には大久保利通の孫である大久保利謙が教授に就任し、日本近代史研究を学問分野として確立した[注釈 33]。当時の大久保の教え子に、佐々木克(京都大学名誉教授)がいる[131]。大久保の1万2千冊を超える蔵書は「大久保利謙文庫」として大学図書館に所蔵されているが[132][133]、貴重な資料が多く、学内外からの利用が絶えない第一級の文庫である[130]。大久保は大学史の編纂でも先駆者として知られるが、近年では寺崎昌男(立教大学名誉教授)も日本の大学史研究の進展に大きく貢献した。キリスト教史学では海老沢有道が活躍し、多くの関連書籍を著すとともに、キリスト教史学会の創設にも尽力して理事長も務めた。大学図書館には日本キリスト教史関連資料からなる6千冊を超える蔵書が「海老澤有道文庫」として所蔵されている[134]。
また、立教大学の史学研究の歴史は古く、明治期の立教学校(第2次)では、岩倉使節団の一人として『米欧回覧実記』を著し、歴史学の先駆者として知られる久米邦武が1894年(明治27年)から教授として教鞭を執っている[135]。考古学においては、1957年から博物館学の第一人者である中川成夫が講じ、長く研究に従事し、学芸員の養成にも尽力した。中川は、近世考古学の開拓者としても知られ、立教大学博物館学研究室の加藤晋平(後の筑波大学教授、モンゴル国考古研究所名誉教授)とともに、近世における考古学的研究に道を開いた。中川の教えを受けた森川昌和は、後に鳥浜貝塚において「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる遺物を発掘するなど、考古学界に新見地を開く功績を上げた。
経営学の分野では、経営学部に前述のBLP(ビジネス・リーダーシップ・プログラム)[82]があり、企業連携プロジェクトを通じてリーダーシップとコミュニケーション力を磨き、それぞれが自分の強みを発揮し、チームの成果を最大化させることを学ぶ。大学院には、「経営学研究科」にリーダーシップ開発に特化した日本初となる「経営学専攻リーダーシップ開発コース(LDC)」(2020年開設)があり[136][137]、人材開発と組織開発を推進する人材を育成する。金曜夜と土曜日開講で、社会人も受講しやすい。また、リーダーシップ理論と教育技法を研究する「リーダーシップ研究所」(2006年開設)も設置されている。経営学部は社会学部長であった白石典義が創設に尽力して2006年に設置された学部である[注釈 31][138]。経営学部のコアカリキュラムであるBLPの立ち上げは、日向野幹也が担当し、経営学部教授兼BLP主査としてプログラムの指揮を執り、学生の資質を向上させ、社会的にも高く評価されるリーダーシップ教育プログラムへと育て上げた[139][140]。
2022年には経営学部特任教授に、コロンビア大学ビジネススクールで教え、一橋大学でグローバルリーダーを育成する渋沢スカラープログラムを立ち上げたクリスティーナ・アメ―ジャンが就任した[141]。大学院の国際経営学専攻国際経営学コース(MIB)は、国際経営分野の高度な専門性、グローバルな視野と能力、リーダーシップ力を備える人材育成を目的としている[142]。企業経営の幅広い知識を提供し多角的な視野を養うMBAビジネススクール型の大学院としては、「ビジネスデザイン研究科」[143]があり、ビジネスシミュレーションを通じて戦略的意思決定をチームで探究し、論理的な分析力と事業構想を実現する創造的能力を育成する。社会人が受講できる昼夜開講制である。
現在のBLPで育成する新しいリーダシップとは異なり、従来型の経営トップや組織管理者などを主な対象としたリーダーシップ論においては、松井賚夫が社会学部産業関係学科(現・経営学部)で教授を務めた。松井が1958年に出版した『リーダーシップ』は、初版以来長くロングセラーとなり、日本における組織論の名著として知られる[144][145]。松井や労働経済学を教えた武澤信一が所属した立教大学産業関係研究所をベースとして改組し、現在のリーダーシップ研究所が設置されており、組織研究の歴史を今日まで長く繋いでいる[85][146]。
非営利・公共分野を研究の主対象とするビジネススクールである「社会デザイン研究科」[147]は、社会の課題をNPO/NGOなどの公益法人や非営利団体で解決する人材を育成する2002年に創設された日本初の大学院専攻である。晩年、非営利組織研究に注力したピーター・ドラッカーが伝える「非営利組織とは、一人ひとりの人と社会を変える存在である。」を体現する人材を育成するためのプログラムといえる。ドラッカーを日本に紹介したのは、立教大学教授を務め、多くの経営者が師と仰ぐ野田一夫である[148][149]。2006年には、継続的な研究の場として21世紀社会デザイン研究学会(現・社会デザイン学会)が設立され、2008年には「社会デザイン研究所」が設置された[150]。
2007年から2011年まで、ジャーナリストで「知の巨人」として知られる立花隆が特任教授を務めた[注釈 34][注釈 35]。
また、本研究科は、日経ビジネススクールと共同で社会人であれば誰でも受講できる「ソーシャルデザイン集中講座」も開講しており、幅広い学習環境を提供している。
異文化コミュニケーション学部は文化や言語の多様性を理解し、グローバル社会の新しい姿を追究する学部である。外国語で会話する (conversation) だけでなく、他者の行動や心情、文化的背景まで理解し、意思疎通 (communication) する力を身に着け、価値観や意見が異なる中で生じる問題や課題を論理的に把握し、解決していくことができる人材を育成する[153]。ここで培われたコミュニケーション力、論理的思考力、問題解決能力は、国家間、民族間、宗教間などの国際舞台や多文化コミュニティで生じる問題に対処し解決していくだけでなく、実社会のあらゆる場面でも役立つ力となる。企業でもダイバーシティが広がり、多様性を理解し合いながら業務を進めていく重要性が高まる中、異国の宣教師たちが異文化を乗り越えて作り上げてきた立教大学であるからこそ、生まれた学部プログラムといえる。同学部では、同じ聖公会の米国コロンビア大学大学院ティーチャーズ・カレッジ修士課程で英語教授法を修めた鳥飼玖美子(立教大学名誉教授)が教授を務め、日本の英語教育の最前線を担う第一人者として英語教育の進展と拡充に尽力した[154]。
立教大学の英語教育は、淵源である幕末の長崎の私塾から続く長きに渡る伝統と歴史を持ち、明治維新で活躍した外交官や通訳を始め多くの人材を輩出してきたが、ジョン・リギンズは、1860年(万延元年)に長崎で日本の先駆けとなる英学会話書の『英和日用句集』を執筆し、現行のローマ字綴りを編み出すなど、その後の日本の英語教育に大きな影響を与えた[16][5][17][18]。1883年(明治16年)に設立された立教大学校では、米国式カレッジ制を採用し、日本人が教えた訳読と数学を除いて教員は外国人で、授業のほとんどが英語で開講された[注釈 11][155]。数学を教えた工藤精一も英語に通じ、1885年(明治18年)に英語学習書の『英語訓蒙』を出版するなど、明治期の英語教育の発展に寄与した。1925年(大正14年)には、英語発音練習カードを考案した岡倉由三郎(岡倉天心の実弟)が教授・英文学科長に着任し、翌年には日本初のラジオ英語講座(現・NHKラジオ英語講座)を担当するなど、英語教育の開拓者による先進的な英語教育が実施された[156]。近年では2006年に開設された経営学部においてNHK・EテレやNHKラジオでも活躍する松本茂(立教大学名誉教授)が教授を務め、グローバル教育センター長も歴任した。
アメリカ研究の機関として1939年に日本で最初に設立された「アメリカ研究所」[35]は、立教大学の最初の研究所でもある。日本のアメリカ文学研究の基礎を築いた高垣松雄の尽力により開設された。設立以来、定期刊行物の発行、研究会や講演会の開催に加え、図書の収集・公開を通して日本におけるアメリカ研究を支援している。近年ではアメリカ先住民研究の第一人者である阿部珠理(立教大学名誉教授)が所長を務めた。また、1963年設立の「ラテンアメリカ研究所」[157]は、ラテンアメリカに関する総合的な研究と、研究者、関連分野で活躍する人材の育成を行う。特に「ラテンアメリカ講座」[158]は日本の大学教育に欠けていた社会教育の場を提供し始めた日本における市民講座および公開講座の草分け的な存在で、1964年4月から半世紀以上に渡り開講されている。これは「開かれた大学」として大学教育を広く社会に提供することを早くから目指してきた立教大学の姿勢を示すもので、通年で12科目を開講している。中でも多岐の分野を扱う「ラテンアメリカ論」や語学科目の「ラテンアメリカスペイン語」は毎年多くの受講生を集めている。
上記に加え、社会に開かれた大学として、「科目等履修生制度」を設けており、多くの学部で開講されている科目を履修することができる[159]。1978年には受験生向けのオープンキャンパスを日本の大学で初めて開始した[注釈 36]。生涯学習としては、50歳以上のシニアのための「立教セカンドステージ大学 (RSSC)」[161]が設置されている。
法学部は、日本国憲法の制定に深く関わり、憲法学の権威である宮澤俊義が、末延三次、尾形典男らと創設に尽力し、初代学部長を務めた学部である。『平和と秩序への叡智』の探究を教育と研究の基本姿勢とし、法学部創設時の宮澤の思いを受け継いでいる[162]。1973年には、丸山眞男と柳田國男の門下生で、学部創設時から教授を務める神島二郎(立教大学名誉教授、日本政治学会理事長)が学部長となった。
法学科、政治学科、国際ビジネス法学科の3つの学科で構成され、1978年には昼間部総合大学で日本初となる社会人入試を開始した。学科間の垣根が低いことが特徴で、法学と政治学を一つの学部で学ぶことができる。法学科には、法曹を目指す学生をサポートする法曹コースがある。また、公務員を目指す学生をサポートするために、公務員の職務内容や職業としての魅力を知ることができる講義や、行政が抱える課題に学生自らが解決案を企画、提案するなどの正課科目プログラムが用意されている。OB・OGをはじめとする現職の公務員との交流の場を設けるなどキャリア支援も行っている。2022年4月には、国際ビジネス法学科内にグローバルコースを開設した。
宮澤俊義の蔵書は「宮澤俊義文庫」として立教大学に寄贈され、約9,000冊の旧蔵書は複本として学生たちにも利用されている。図書と共に保管されてきた日本国憲法起草に関する原稿・草案・メモ・ノートなどは、学外も含めた研究者に利用されており、憲法制定にいたる経緯が分かる貴重な資料となっている[162]。神島二郎の蔵書も大学に寄贈され、「故神島二郎教授旧蔵書」として1,731冊から構成される。コレクションとしてのまとまりで保管されておらず、一般図書は他の蔵書とともに配架されているが、所蔵リストは図書館閲覧課で確認できる[163]。
法学部が創設される前の昭和初期にも、既に法学の教授陣が経済学部を主として多数在籍するなど法学部に伍する充実した陣容を擁しており、中村進午(一橋大学名誉教授)が憲法、国際法、法学通論、中野登美雄(早稲田大学第5代総長)が行政法、竹田音治郎と内山良男が民法、三橋久美が商法、江利喜四郎が刑法、中根不覊雄が信託法、手形法、破産法、法学通論、渋沢栄一の子である星野辰雄が労働法制を講じている[164]。
経済学においては、経済学部経済学科では基礎理論を学び、経済の本質を見極める力と、事象を定量的に把握する統計分析力を身に着け、時代の動きを読み、問題解決していくことができる人材を育成する。経済政策学科は、理論に加え、金融政策や都市政策、産業政策、環境政策など、社会を動かす政策を専門的に学び、社会問題を解決する政策立案力を培う。卒業後、公務員に加え、民間企業やNPOなどの立場でも活かせる公的視点も得ることができる。会計ファイナンス学科には、公認会計士、税理士、証券アナリスト、ファイナンシャル・プランナーなどを目指す学生のために、資格取得を支援するカリキュラムが用意されている。多くの顕学が教鞭を執ってきたが、経済史では開拓者の滝本誠一、財政学では地方財政学の権威である藤田武夫が講じ[165][166]、能率の父として知られる上野陽一(日本初の経営コンサルタント)も学部長を務めた。社会学部産業関係学科(現・経営学部の前身の一つ)では、日本を代表する自由主義経済学者である西山千明が1962年から教授を務め、日本におけるマネタリズムの樹立や自由主義経済の拡充につくした[167][168]。(#新自由主義、マネタリズムを参照)
社会学部は、社会学科、現代文化学科、メディア社会学科の3学科からなる。1947年に文学部社会科が設置され、1949年には文学部社会学科となる。1958年に淡路円治郎(立教大学名誉教授、労務管理学の権威)によって社会学部が設置され、初代学部長を務めた。日本で世論調査を初めて行った第一人者で、日本の新聞学とマスコミュニケーション研究の基礎を築いた小山栄三も教鞭を執り、1960年には学部長を務めた[169]。2016年には、国際社会コースが設置され、本コースは学部英語科目を中心に3学科横断で専門科目を履修するカリキュラムとなっている[170]。
心理学の分野も歴史が古く、1894年(明治27年)には日本の心理学の基礎を築いた松本亦太郎(日本心理学会創設者・初代会長)が教授として講じた[44]。1927年(昭和2年)に心理学の権威である淡路円治郎が教授となり[171]、1930年(昭和5年)から、教育心理学の分野で活躍し、幼少教育の先駆者である岡部弥太郎が教授として、教育学や教育史を講じ、心理学演習を担当した[172]。1933年(昭和8年)には、米山梅吉が次男の母校であった立教大学に寄贈して、心理学実験室が建設されている[173]。1949年に新制大学が発足した際に、文学部心理教育学科が設置され、1962年には文学部心理学科となり、2006年に現代心理学部心理学科となった。
芸術分野では、現代心理学部に映像身体学科があり、映像制作(映画・写真・広告など)やダンス、演劇などが学べる。シアター型教室や撮影スタジオなどの設備も充実している。映画監督を多く輩出しているのも特色である。(#立教と映画を参照)
観光分野では、日本の大学でさきがけとなる1946年の「ホテル講座」開設から始まる70年以上の観光教育の歴史を有するが[174][注釈 37]、ルーツは立教大学の前身の一つである立教学校に遡り、明治期の学校創生期から続く教育の伝統を受け継いでいる[注釈 38]。1967年に、社会学部観光学科を設置。この観光学科は、立教大学教授であった野田一夫が設立に尽力し、初代学科長を務めた。1998年には観光学科を改組し、日本初の観光学部と大学院に観光学研究科を開設した。2000年代には、JTB会長の舩山龍二やホテルニューオータニ総支配人であった甲田浩らが教授陣を務めるなど、観光業界の第一人者たちが教鞭を執っている[179][注釈 39]。2022年と2023年には、星野リゾート代表の星野佳路が「宿泊産業演習」のゲスト講師として講義を行った[182][183]。観光学部は観光ビジネスや地域振興を創出する人材の育成を目的とするが、全米で名門として知られるコーネル大学のホテル経営学部と同様に、卒業生には老舗ホテルや旅館の経営者も多い。特に、日本を代表するクラシックホテルの多くで立教卒業生が経営に携わっている。(#立教とクラシックホテルを参照)
観光学部では学部独自のインターンシッププログラムも充実しており、国内プログラムのほか、台湾の高級ホテルでの6か月間の長期インターンシッププログラムや、アメリカフロリダ州のディズニーワールドでインターンシップ(半年間)を経験しながら、週1日セントラルフロリダ大学ホスピタリティ経営学部で学ぶ海外プログラムもある[注釈 40][185]。
2021年には金沢大学と観光産業分野の中核人材育成のため、連携・協力に関する協定を締結した。また、地域活性化の一環で、まち歩きマップの制作なども行っている。(#まち歩きマッププロジェクトを参照)
理工学分野では、理学部の研究グループがJAXAのプロジェクトに参画し、小惑星探査機「はやぶさ2」に搭載した光学航法カメラの開発・運用や、2023年9月に打ち上げられたX線分光撮像衛星(XRISM)の観測装置を開発するなど宇宙関連の研究開発を進めている[186][187]。理学部物理学科には宇宙物理学を専門にしている教員が多く在籍し、「素粒子・原子核」分野と「宇宙物理」の分野では、世界トップレベルの研究を行っている。論文の被引用数も多く、質の高い研究力によって世界における立教大学のプレゼンス向上に大きく貢献している[53]。理学部の別の研究グループでは、2020年に日本曹達株式会社との共同研究で、温室効果ガスとして知られる二酸化炭素を選択的に吸着する新規の多孔性物質(MOF:Metal-organic Frameworks)の開発に成功した。燃料電池車などに搭載する水素貯蔵ボンベにも応用が可能で、世界的に高い評価を受ける研究を行っている[188]。同年には、理化学研究所や物質・材料研究機構などとの共同研究により「偽造不可能なマイクロ光認証デバイス」を開発した[189]ほか、生命理学科教授の末次正幸が2017年に開発した、細胞を使わずに長いDNAを効率的に合成する世界初の技術「セルフリー長鎖DNA合成技術」が、バイオ医薬の分野で革新的変化をもたらす研究として、「バイオインダストリー奨励賞」を受賞した[190][191]。本技術を実用化する目的で大学発バイオベンチャー企業が設立された。(#大学発ベンチャーを参照)
2021年には「金属クラスターを用いた近赤外-可視光変換」に世界で初めて成功し[192]、太陽電池や光触媒の効率を向上させる実用的な光アップコンバージョン材料としての利用が想定されるなど、産業界への貢献が大きく期待される成果を上げている。2023年には、神戸大学との共同研究で、人工光合成技術において希少金属を使用しないCO2変換法を開発し、カーボンニュートラル実現に向けてブレイクスルーとなる技術革新の成果を上げた[193]。
また、新型コロナウイルスの変異株の感染メカニズムを解明するため、理化学研究所のスーパーコンピュータ「富岳」を用いたシミュレーションに、理学部の研究グループが取り組んでいる。2020年度には「富岳」の優先的な試行的利用として「新型コロナウイルス関連タンパク質に対するフラグメント分子軌道 (FMO) 計算」を行い、研究成果を公開するなど活躍している[194]。
理学部全体としても、理化学研究所や産業技術総合研究所といった国内トップクラスの研究機関と密に連携を図る「連携大学院制度」を導入している。産官学連携により研究を高度化・多様化させながら、次代の研究者である学生を育成している[53]。理学部生命理学科では、日本の鳥類研究の権威で日本野鳥の会会長を務める上田恵介が教えた。2016年に山階芳麿賞を受賞し、2020年には日本動物行動学会「日高賞」を受賞した[195][196]。大学院理学研究科生命理学専攻博士後期課程では、世界で初めて動物が言葉を話すことを解き明かした、動物言語学の第一人者である鈴木俊貴を輩出している[197]。
大学院理学研究科では、順天堂大学大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻を設置している。
立教大学の理系教育の淵源は、1859年(安政6年)に来日したジョン・リギンズとウィリアムズが、初代米国総領事タウンゼント・ハリスの支援のもと長崎奉行の要請から開設した聖公会の長崎私塾に遡り、数学を含む英学を教えた[5][4][注釈 41]。リギンズは英学教育を行いながら、ベンジャミン・ホブソンの『物理学』や『医学』、アレキサンダー・ウィリアムソンの『植物学』、ウィリアム・ミュアヘッドの『地文学』などを始めとする科学書を、歴史書や地理書とともに多数流通させ[200][14]、ウィリアムズもこれらを日本人に頒布した形跡が認められている[13]。1883年(明治16年)に築地で開いた立教大学校では、代数幾何学、動物学、理科学、地質学、植物学、化学、天文学など多彩な理系・自然科学科目を教え、文系・人文科学、社会科学科目とともにヨーロッパ中世以来のリベラル・アーツの伝統を色濃く引き継ぐ、アーツ・サイエンス教育を実施した[45]。札幌農学校(現・北海道大学)で教授を務め、演武場(現・札幌市時計台)の時計運用を開始した工藤精一も数学を講じた[201]。こうした学校創設以来の長い伝統を有し、現在の理学部へと続いている。1891年(明治24年)には、日露戦争でバルチック艦隊の発見を通報し勝利に貢献した三六式無線電信機を開発した木村駿吉(木村芥舟の三男)が教頭として教えた[202]。立教大学の前身の一つである大阪・英和学舎では、1884年(明治17年)に、日本の近代昆虫学の基礎を築いた先覚者で「日本昆虫学の祖」と称される松村松年(北海道帝国大学名誉教授)が学んだ[203][2]。松村は昭和に入り立教学院校友会及び立教学院後援会で顧問を務めた[204]。
大学には現在、工学部は設置されていないが、戦時期に文部省の方針もあり、1944年に理工系教育強化のため「立教理科専門学校」を開設。この理科専門学校は、曾禰武(立教大学教授、後の開成中学校・高等学校校長)が主幹となって創設され、数学科に藤原松三郎、化学科に久保田勉之助、地質学科に矢部長克と、各学界の泰斗を招聘し、曾禰は物理学科を担当し同校の教頭を務め、理学部の礎を築く[205]。翌年には「立教工業理科専門学校」と改組し、工科も合わせた教育機関となった。戦後の1948年には、医学部創設のための前段として設置された理学部へと改組し受け継がれた。理学部の創設には、理化学研究所の仁科芳雄と並び「日本の現代物理学の父」といわれる杉浦義勝が中心メンバーとして尽力し、初代学部長となり、同年には理論物理学研究室も発足した。ほどなくして湯川秀樹と坂田昌一の共同研究者であった武谷三男も着任し、日本の素粒子物理学界をリードしていく[206]。武谷は1957年には、総長であった松下正寿が誘致した原子力研究所(2001年原子炉運転停止、廃止措置中)の設立にも尽力し[207]、研究所長には中川重雄が就いた。武谷、中川とともに、原子力に関する日本最初の教科書である『原子力―教養の科学』を執筆し、長きに渡って原子力と平和利用の研究に従事した田島英三(立教大学名誉教授)は、1956年に教授職と兼務で原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)初代科学担当官に就き、日本人として初の国連職員を務めている[208]。
また、大学には農学部も設置されていないが、明治期の第2次立教学校(1890年10月-、現・立教大学)では、創立から聖公会と関わりが深い札幌農学校(現・北海道大学)出身の農学者である河村九淵が教えた。その後、河村は立教学校の姉妹校である聖公会系の奈良英和学校で校長を務めたのち、熊本農業学校(現・熊本県立熊本農業高等学校)初代校長に就任するが、後に農聖と称される松田喜一を育てている[209][210]。奈良英和学校では札幌農学校(現・北海道大学)第1期生でクラーク博士の「Boys, be ambitious (青年よ、大志を抱け)」の言葉を後世に残す上で大きな役割を担った大島正健も校長を務めた。また、前述の立教理科専門学校(1944年開設)の設立構想を提出した際には、農学部の設立構想も提出されている[211]。
2020年4月に開設された人工知能科学研究科では、人工知能・データサイエンスを、人文・社会科学を含む全ての学術分野と掛け合わせることで、社会課題の解決やビジネスチャンスを生み出す力を育成する。これまでの技術ではなしえなかった新しい方法で未来を切り拓き、誰もが快適で活力に満ちた社会の実現に貢献することを使命としている。昼夜開講制で社会人が学びやすい。文系、理系、学部4年生、社会人を問わず、学生が集まり、1期生では社会人が約7割を占め、会計士や弁護士、医師、シンクタンク、マスコミ業、金融業、中学校の教員など多様な人材が集まった[212]。
2022年2月から4月にかけて、NTTPCコミュニケーションズと東京電機大学の協力のもと、未来のAI業界を担う大学生・大学院生に向けて、AIの社会・ビジネス実装に関する実践的な「学びの場」を提供するための産学共創イベントである「AIイノベーションアワード2022」を開催した。業界をリードするAI企業による「学生向けAI企業セッション」プログラムに加え、AI企業各社および大学から出題されるテーマに学生が取り組む「ビジネスアイデア&プログラミングコンテスト」が行われ、最優秀賞受賞チームに賞金100万円、優秀賞受賞チームに賞金30万円が贈られた[213]。
5年で修士号が取得できる制度として、経済学部、法学部、観光学部には「大学院特別進学制度」があり、経営学部と異文化コミュニケーション学部には「5年一貫プログラム」が設置されている。それぞれ、大学院の講義を4年次から1年間受講してから、学部卒業後に大学院の前期課程(修士)を1年で修了する制度となっている。多くの場合、学部入学後に実施される選抜試験を通過することでプログラムを履修することが可能だが、異文化コミュニケーション学部の「5年一貫プログラム」の場合は、学部入学前の入試によって選抜する方式も実施している[214]。
2017年に開設されたGLAPは、人文科学、社会科学、自然科学など、リベラルアーツを英語で学習し、世界で活躍するグローバルリーダーを育成する国際教養学部相当のプログラム[215]。原則英語のみの授業で学位取得が可能となっている。これらは明治期に開設した立教大学校[注釈 11]のカレッジ構想とカリキュラムの復活と見て取れる。GLAPの1学年の人数は、30名の少人数制であり、希望入寮制により、国際交流寮で留学生と生活を共にすることもできる。2年次秋学期から1年間は、世界的に評価の高いリベラルアーツ大学などへ留学する。現在のところ学部という名称は採用しておらず、他大学が称しているように英名に対する和名(学部名)が付けられていないが、学習内容から実質的に国際教養学部といってよい。
2020年4月に先進的な外国語教育・研究活動を担う機関として、立教大学外国語教育研究センター(Center for Foreign Language Education and Research:FLER)を開設し、全学部の学生を対象とする外国語教育を行っている。グローバル化が進展し、変化する時代の中で、心理学、社会学、生物学、脳科学など「多様な分野間の交流」、英語と英語圏文化に加えて複数言語と各言語が内包する文化、価値観、歴史も対象とした「多様な言語間の交流」、研究者と教育者を繋ぐ「理論と実践の交流」の3つを軸として、既存の方法論を超えた新たな言語教育を創出する取り組みを推進している。2024年度には新カリキュラムを導入し、新たな時代を牽引するグローバル・リーダーを育成する外国語教育プログラムを開始する[216]。
経営学部[注釈 31]の前身の一つである社会学部産業関係学科が属した社会学部では、日本の経営学の開祖の一人で[217]、多くの起業型経営者が師と仰ぐ野田一夫が経営概論を教え、ゼミでは現代産業企業論としてベンチャー企業の育成を教えた。ゼミの授業では、毎週当時のベンチャー企業経営者を呼んで、ケーススタディを行っていたが、その経営者の中には、ソフトバンクの孫正義、パソナの南部靖之、ぴあの矢内廣などがいた[218][219]。
野田は、当時の大学教授としては珍しく、コンサルタント業を営み、ニュービジネス協議会の初代会長も務めるなど、学生だけでなく当時のベンチャー企業経営者の多くが野田の指導を受けていたのである。授業で行っていたケーススタディもMBAビジネススクールでは一般的な教育プログラムであるが、当時の日本の大学の学部教育においては画期的なものであった。こうしたアントレプレナーシップ(起業家精神)教育は、1980年代初頭当時の日本ではどこも行っておらず、野田の授業は、日本のアントレプレナーシップ教育のさきがけであった[注釈 42]。
また、野田は、ピーター・ドラッカーを日本へ紹介した人物としても知られ、立教大学に赴任した翌年の1956年にドラッカーの『The Practice of Management 』を翻訳し、『現代の経営』を出版し、日本の経営者たちに大きな影響を与えることとなった。その後も野田はドラッカーと深い親交を持ち続けた[148][221][149]。
1980年には、ドラッカーを日本に招き、ダイヤモンド社主催で特別シンポジウムを開催し、京セラ社長の稲盛和夫、セゾングループ総帥で西武百貨店会長の堤清二など日本を代表する経営者らとともに日本企業のあるべき経営について討議し、司会進行を務めた[222]。
野田はドラッカー学会の顧問を務めたが、同会で学術顧問を務める一橋大学名誉教授の野中郁次郎は、ドラッカーの功績の一つとして「マネジメントとはリベラル・アーツなのだ」と提唱したことを挙げ、マネジメントを教養と捉えている[注釈 43]。立教大学の教育の根本はリベラルアーツ教育であるが[224]、ドラッカーのいうマネジメントを学ぶことはリベラルアーツを学ぶことに他ならないといえる[225][注釈 44]。経営学部国際経営学科では、野中郁次郎の下で学んだ西原文乃が2016年から教鞭を執り、野中が提唱した組織的知識創造理論を継承・発展させ、新たな価値を創造するプロセスや仕組みと価値創造を駆動するリーダーシップやアントレプレナーシップに関する研究を行っている[227][228]。
野田が創った立教大学のアントレプレナーシップ教育は、現在の経営学部を中心とする経営学教育にも受け継がれ、若手の起業家やベンチャーキャピタリストを生んでいる[229][230]。野田は教授を務めた社会学部産業関係学科の後身となる経営学部において、リーダーシップ論などの授業で度々ゲストスピーカーとして講じた[231][232]。
2000年には米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツに名誉博士号を授与し、大学のタッカーホールでゲイツによる立教学院創立125周年記念特別講演が開催されている[注釈 45]。2024年にはデロイト トーマツ ベンチャーサポート株式会社と「小中高大大学院一貫アントレプレナーシップ教育の研究と実践」についての契約を締結し、立教大学ビジネスデザイン研究所において起業家育成に向けて経営一貫教育の研究と実践の取り組みを開始した[233]。
ピーター・ドラッカー研究では、立教大学経済学部教授であった三戸公が1971年に『ドラッカー 自由・社会・管理』を出版し、ドラッカー理論体系を包括的な理論として再構成する画期をなす研究を行った。三戸は、藻利重隆(一橋大学教授)による企業管理論としての最初の体系的なドラッカー研究と、岡本康雄(東大教授)が行った初期のドラッカーにまで遡って探究する産業社会論アプローチに、規範論としての自由論を加えることで、ドラッカー理論は規範・理論・政策という統合的・包括的理論体系の「グローバルな理論」へと展開されていくこととなった。また、三戸は1970年代には、院生たちとドラッカー著作の外書輪読を行い、その成果を1979年に『ドラッカー 新しい時代の予言者』として出版し、近年2011年には『ドラッカー、その思想』を出版するなど、永きに渡り真摯に研究を進めた[234][235][236]。
社会学部産業関係学科(現・経営学部の前身の一つ)では、シカゴ大学大学院でフリードリヒ・ハイエク(ノーベル経済学賞受賞:1974年)に学んだ西山千明(経済学者)が、1962年から母校である立教大学の教授を務めた。西山はハイエクの著作群を監修・監訳し、日本へ紹介した人物として知られ、友人であるミルトン・フリードマン(ノーベル経済学賞受賞:1976年)[注釈 46]
の『選択の自由』の翻訳を手掛けるなど「シカゴ学派」や「マネタリズム」を日本に紹介し、日本における「新自由主義」の思想の普及と自由主義経済の拡大に大きな貢献を行った[167][168]。西山は、立教大学教授と兼務で、モンペルラン・ソサイエティーの会長(1980年‐1983年)も務めている[238]。
西山は1962年に米国から帰国してまもなく、自身が中心となって運営する立教大学近代経済学研究会の主催で、1962年11月から1963年6月まで立教大学の学生を主な対象として初心者のために近代経済学全般を解説する「第一期理論経済学セミナー」を開催したが、フリードマンも講師として特別講演を行った。フリードマンが講演した「貨幣理論の現状」は彼自身の講演による「マネタリズム」の日本初上陸であり[注釈 47]、このセミナーの成果は講義の速記録が加筆、編集され、1964年に『近代経済学講義』として出版され、近代経済学を体系的に解説する日本語による教科書のさきがけとなった[239]。
また、西山が所長を務める立教大学近代経済学研究機構には、「明治以降本邦貨幣基礎統計資料整備委員会」があり、フリードマンが顧問を務めた。貨幣委員会の作業報告会にはフリードマンも参加しゼミ生の指導を行った[239]。フリードマンは研究のため夫妻で日本へ多く訪れたが、休暇を兼ねて日本各地への案内役を務めたのは西山だった[240]。
1963年には、ノーベル経済学賞受賞(1976年)でフリードマンの業績が世界的に評価されるのに先駆け、フリードマンに立教大学から名誉博士号が授与され、翌1964年にはハイエクに名誉博士号を授与されている[241][242]。
西山が日本で普及した新自由主義の思想は、中曽根政権の「民活プロジェクト」や、三公社(専売公社、国鉄、電電公社)民営化、橋本政権の「金融ビッグバン」、小泉政権の「聖域なき構造改革」による規制緩和、郵政・道路四公団民営化が進められた経済政策の背骨となり、長らく日本政府の経済政策を支える理論として、大きな影響を与えた。また、「ケインズが20世紀前半の最も影響のある経済学者だったとすれば、フリードマンは20世紀後半の最も影響のある経済学者である」と言われるなど、今日も世界の経済学者から高い評価を得る[240]。しかし、新自由主義的政策は評価が分かれ、他の経済政策と同様、景気の変動や国内外の経済状況によっても施策の結果が変わるため、現在も多くの論争的議論が存在する[243][244]。
日本初のESD(Education for Sustainable Development)研究機関として、2007年に「立教大学ESD研究センター」として設立され、国内およびアジア太平洋地域におけるESD、即ち「持続可能な開発のための教育」の普及に努め、国内外におけるハブとしての役割を担ってきた。2012年には「立教大学ESD研究所」と名称を変え、日本におけるESDの第一人者である所長の阿部治のもとで実践的な調査・研究を展開し、多くの成果を上げてきた。2015年には文部科学省私立大学戦略的研究拠点形成事業にESDによる地域創生研究拠点として採択され、持続可能な地域創生を果たす人材育成の研究に取り組んでいる[246]。2021年度からは、上田信が所長に就任し、SDGs(Sustainable Development Goals)への取り組みに研究所としても一翼を担うべく、地域連携を強化し、新たな事業展開を推進する[247]。2022年8月には、対馬市、羅臼町、飯田市、檜枝岐村に加え、新たに松崎町と覚書を交わし、地域創生を学ぶ学生たちとともにフィールドワークを行い、研究活動を進めている[248]。
地域活性化では、観光学部で地域のまち歩きマップ「ぶらってシリーズ」を制作し、学生が地元民への調査で発掘した穴場スポットを学生ならではの目線で紹介し、街の魅力を発信している。"まち歩きマップ"プロジェクトは、武蔵野銀行との産学連携で進められ、これまでに幸手市、羽生市、行田市、加須市、氷川参道、新座市、小鹿野町、秩父市、川越市、草加市、朝霞市の11作の地域版(2024年10月現在)が作られている[249][250][251]。
西暦597年、ローマから英国(イングランド)に派遣されたオーガスティンが、初代カンタベリー大司教(大主教)に着座したことを淵源の一つとする英国国教会(イングランド国教会)の流れを汲む大学である[9][注釈 50][注釈 3]。
大航海時代が成熟期を迎えていた1600年(慶長5年)に、英国国教会の信徒であるウィリアム・アダムス(三浦按針/日本に初めて来たイギリス人)がリーフデ号で日本に渡来し、徳川家康の外交顧問と通訳を務めて英学を教え、西洋式帆船(ガレオン船)のサン・ブエナ・ベントゥーラの建造や平戸のオランダ商館の創設に尽力したほか、クローブ号(日本に初めて来航したイギリスの商船)で来日した英国国教会信徒のジョン・セーリスとリチャード・コックスを支え、家康から朱印状を得て平戸のイギリス商館の創設に貢献するなど、日蘭、日英外交の懸け橋となった[253][254][255]。
その後、永らく鎖国政策が採られた日本であったが、米国聖公会(英国国教会起源の会派)の信徒であるマシュー・ペリーの来航(黒船来航)と、初代米国総領事でニューヨーク市立大学シティカレッジの創設者でもあるタウンゼント・ハリスの活動により開国に幕が開き、ハリスによって本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えた日米修好通商条約が調印されたことで、宣教師の来日が可能となった[256]。熱心な聖公会会員であったハリスは、エドワード・サイルら米国聖公会の遣清宣教師に、聖公会による学校開設と医療活動を提言した[257]。こうしてハリスとサイルら遣清宣教師による宣教勧告と学校開設の勧奨を受けた米国聖公会は、1859年(安政6年)2月に日本での伝道、学校開設、医療活動を目的とする日本ミッションの開設を決定する。この決定を受けて中国(当時、清)で活動していた米国聖公会宣教師のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズが任命され、プロテスタント最初の宣教師[注釈 51]として、1859年(安政6年)の5月と6月にそれぞれ長崎に来日した。彼らが開港地となった長崎でミッションを開設し、ハリスの支援のもと江戸幕府の長崎奉行・岡部駿河守長常の要請で立教大学の源流となる私塾を崇福寺に設け英学教育を創始したことを起源とする[注釈 4][注釈 5][注釈 6][22]。この塾は日本におけるミッションスクールの起りであった[22]。ウィリアムズは私塾に加え、グイド・フルベッキとともに幕府の長崎洋学所でも教鞭を執る。私塾の教え子として高杉晋作(奇兵隊創設者)、後に早稲田大学を創設する大隈重信(第8代・17代内閣総理大臣)、外務大臣を務めた副島種臣(第4代内務大臣、第3代外務卿)、近代郵便制度創設者の前島密(早稲田大学第2代校長)、坂本龍馬と肥後藩を薩長同盟に入れようと画策した荘村助右衛門[注釈 52]、近代教育の礎となる学制起草者で大阪理学校(現・京都大学)校長を務めた瓜生寅(海援隊士・瓜生震の兄)など多くの志士を輩出した[46][258][20][21]。また、私塾の最初の生徒として昌平坂学問所(東京大学の源流)教授で吉田松陰も学んだ鄭幹輔を始め、岩倉使節団の一員で大阪洋学校(現・京都大学)創設者の何礼之、幕府の済美館学頭を務めた平井希昌(外交官、太政官大書記官)など、後に日本の外交の嚆矢で活躍する名士たちが学んだ[74][75][259]。
ウィリアムズは、一旦アメリカに帰国後、米国聖公会第2代中国・日本伝道主教に任命され、帰国中に合衆国大統領アンドリュー・ジョンソンと国務長官ウィリアム・スワードに日本の禁教撤廃を要請した。その後、日本での活動を再開し、1870年(明治3年)に大阪・川口の外国人居留地近くの与力町に英学講義所「後の英和学舎(1887年立教大学校に合併)」を設立する。1873年(明治6年)に、キリスト教禁制の高札が撤去されると、 欧米の宣教師が公然と相次ぎ来日することになり、米国聖公会では同年9月にチャールズ・H・ニューマンが来日し、東京での米国聖公会初のミッション拠点として赤坂の陽泉寺に寓居して在京英米人のための主日礼拝を開始し、同年11月にクレメント・T・ブランシェとウィリアム・B・クーパーも来日して加勢すると、ウィリアムズも東京に活動拠点を移した[31][32][33]。1874年(明治7年)2月には東京・築地の外国人居留地に聖書と英学の教育を目的とした私塾「立教学校」を設立する[注釈 53]。英学を主とする学校ではあったが、創立当初から和漢学の教授にも比重を置いた[注釈 2]。長崎の私塾とともに、これらの学校が立教大学へと繋がっている。
1883年(明治16年)には米国式カレッジとして日本最高峰の教育機関である立教大学校を設立[注釈 11]。明治政府によりミッションスクール第一号として認可された学校であり[41]、後に公布される帝国大学令と大学令より前に、教育令によって認可された日本の先駆けとなる大学であった(詳しくは旧制大学参照)[42]。初代校長にはハーバード大学出身のジェームズ・ガーディナーが就いた。
1887年(明治20年)には、ウィリアムズと英国聖公会のエドワード・ビカステスの尽力により、日本における英国国教会と米国聖公会が合同し、日本聖公会が設立された。1888年(明治21年)には、校友の大隈重信が築地キャンパスの形成に尽力し[注釈 54]、用地の取得に伴いキャンパス規模が拡大していく。しかし、欧化主義への反動に伴い、条約改正問題を絡めて国粋主義が広がり始め、さらにはこれまで学校を支えてきたウィリアムズと教頭・幹事などの要職を務めた貫元介が退任したこともあり、立教大学校は生徒数が減り、1890年(明治23年)10月には校名を立教学校(第2次)へ戻し、米国式カレッジから日本化が進められることとなった[20][12]。また、同月末には教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布し、翌1891年(明治24年)6月には文部省訓令第4号により、全国の各学校で御真影礼拝、教育勅語奉読が強制されるようになり、欧米型のキリスト教主義学校への圧力が強まっていった。しかし、そうした状況化においても、木村駿吉を始め、久米邦武、高橋五郎、松本文三郎、内村達三郎(内村鑑三の弟)など、渦中の人物達が教授として講じ、権力に屈せず、在野的精神、反骨精神による自由な立場に立脚する運営が行われた[44]。この明治期を始め、後述の第2次大戦に到るまで、日本ではアメリカ人の経営する学校は度々厳しい状況に置かれた一方、同じく米国聖公会によって中国・上海に置かれた立教大学の姉妹校である聖ヨハネ大学(セント・ジョンズ大学)は、東洋のハーバードと呼ばれるまでに成長を遂げた[注釈 55]。
1896年(明治29年)には、立教学校(第2次)を廃し、立教専修学校(3年制)と立教尋常中学校(5年制)を設置し、1899年(明治32年)1月には同年7月の改正条約の発効を見据えて立教尋常中学校の認可申請を行うが、許可が容易に得られず、島田三郎(早稲田大学創設メンバー、のち第19代衆議院議長)らの尽力でようやく認可を得られた[262]。同1899年(明治32年)にはジョン・マキム、アーサー・ロイド、元田作之進のもとミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処し、学校を存続させる[263][264]。1901年(明治34年)2月には、築地キャンパスの聖三一大聖堂(立教教会)で、日本政府により英国ヴィクトリア女王の遥葬式が執り行われ、皇族に加えて、伊藤博文内閣総理大臣以下、政府主要閣僚、各国要人、名士たちが参列した[265]。同年9月には同聖堂にて米国マッキンリー大統領の遥葬式があり、この時も皇族に加えて、桂太郎内閣総理大臣以下、主要閣僚と各国要人、名士らが参列するなど、日本の国家行事が執り行われた[266]。1907年(明治40年)に、タッカーの尽力により再び立教大学(専門学校令による旧制専門学校)を設立。1918年(大正7年)には校地を池袋に移し、池袋キャンパスを開設する。
1940年(昭和15年)、日米関係の悪化により、創立から続く米国聖公会の経営から邦人による経営となる。同年、総長であったチャールズ・ライフスナイダーは退任し、翌年には本国政府の指示により米英人教員が帰国し、理事も全員邦人となった。戦時下では、寄付行為を「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」に変更し、チャペルは閉鎖し、校歌も『自由の学府』の文言が問題視され斉唱禁止となるなど、当時の軍国主義、国家主義が反映された運営となり、米国を象徴する自由[注釈 56]を掲げ、モデルとする『自由の学府』から自由が奪われていった[268]。さらに、文部省が理工系の教育を拡充して戦時体制に即応しようと、文科系の大学に対して理工系への転換、移転整理等を進める方針を出した。そのため、1943年(昭和18年)12月に文学部を閉鎖することとなり、文学部の学生は慶應義塾大学へ編入し[269]、1944年(昭和19年)4月には立教理科専門学校(翌年、立教工業理科専門学校へ改組)を開設するに至った[268]。前述の戦時下の国の方針の中、文科系中心の立教大学は閉鎖される可能性があったが、校友の佐伯松三郎らが学校存続のために尽力し、上野陽一(産業能率大学創設者、後の立教大学経済学部長)らとともに支援者を増やし、短期間のうちに理工系学科を創設したものであった。立教大学の父兄であった大村一蔵(帝国石油副総裁、日本地質学会会長)らも多額の寄付を取り付け、専門家を派遣するなど大きく支援した。これにより文学部の閉鎖はあったものの、立教の閉鎖を防ぎ、立教大学の名を今日まで残すこととなった。立教理科専門学校(現・理学部)の開設主幹には曾禰武(立教大学予科長、後の開成中学校・高等学校校長)が就き、各学会の泰斗を招聘し開設された[270][205]。
戦時中の1943年(昭和18年)3月には、学内で幅をきかせて威張りちらしていた軍事教官(配属将校)を、学生有志6人が呼び出して殴打する痛快な出来事(軍事教員を殴打した事件)もあり、戦時下における学生たちの勇気ある果敢な行動として、立教の歴史に刻まれている[271]。
終戦を迎え、1945年(昭和20年)10月15日に、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官(米国聖公会信徒)の命で「文部省訓令第8号」が発布し、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法とともに「信教の自由」が保障される。これにより、国内においてキリスト教精神に基づくリベラルアーツ教育が正式に認められることとなる。GHQにより、第二次世界大戦中にキリスト教主義学校としての特色を一掃し、職員の追放、教課の改廃を行い、戦後も回復の手段を講じなかったとして、当時の総長、中学部校長、学生監ほか8人が即時解職、公職追放処分を受けた[272]。理事会は新体制となり、寄付行為も「基督教主義ニヨル教育」に復帰することを可決し、チャペルも再開される。同時にポール・ラッシュにより大学の再生が進められ、拡張計画が作られた[268]。こうして、奪われた自由を取り戻し、再び発展に向けて『自由の学府』として歩み出していくこととなった[268]。
1955年(昭和30年)に総長となった松下正寿の尽力より、法学部や社会学部を新設し、文学部などにも学科を増設するなど、立教大学は発展を遂げていく。1990年(平成2年)には新座キャンパスを開設。大学創立者であるウィリアムズ主教が先導的な役割を果たし、1887年(明治20年)に日本において英国国教会と米国聖公会が合同して設立された日本聖公会で洗礼を受けた信徒たちは、立教大学において学びたいと動機づけられ、実際に彼らが立大生になることも少なくない。
1859年(安政6年)、初代米国総領事タウンゼント・ハリスの支援により、江戸幕府の長崎奉行・岡部駿河守長常の要請で、ジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズが、立教大学の源流となる私塾を長崎に創設し、最初の生徒である幕府の8人の公式通事に英学を教えた[74][4]。この塾が日本におけるミッションスクールの起りであり、立教大学及び立教学院の濫觴であった[22]。
リギンズが来日した同年5月2日と、ウィリアムズが来日した同年6月25日は日米修好通商条約の発効前(発効は同年7月4日)であり、外国人の中には来日したものの住居を手に入れることができずに日本を離れるものいたが、米国聖公会の学校開設を推進していたハリスと彼によって初代米国長崎領事に選任されたジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)がサポートし、リギンズは長崎奉行の長常から、高台の良好な場所にある住居として崇福寺広徳院を手に入れることに成功し、遅れて到着したウィリアムズと英学教育を創始するに至ったのであった[4]。この崇福寺は、1629年(寛永6年)に創建された中国様式として日本最古の寺院であるが、長崎への来日前に中国上海で3年間過ごしてきたリギンズとウィリアムズにとって、生活のしやすさに加えて、中国語と漢字を修得していた両名にとって好都合でもあった[4]。昭和初期に前島生が発見したアメリカに送られたリギンズとウィリアムズが寓居した崇福寺広徳院が描かれた写真銅版絵では、建物は2階家であったという[288][18]。リギンズは滞在期間中、中国から持参したり、取り寄せた漢訳の聖書や歴史書、科学書等を日本の知識階級に積極的に販売、頒布するが、アメリカ独立宣言を含む合衆国の政治、行政、文化、教育等が具体的に書かれている『聯邦志略』など、日本の志士たちに大きく影響を与えることとなる書物を流通した[13]。ウィリアムズも来日後、短期間で日本人から日本の宗教、文化、生活習慣、時事情報を吸収し、日本語も習得して、来日から2年半で主祷文、使徒信教、十戒の三要文を翻訳した[477]。日本の文化や思想をより深く理解しようと儒学者の谷口藍田らとも交流し、英学を教えながら、漢学の学びを得ていた。また、ウィリアムズは仏教についての研究も行っており、ウィリアムズが記した研究ノートや仏教図が残されている[20][478]。
1859年に9月19日に来日したトーマス・グラバーは、英国聖公会の信徒で、リギンズやウィリアムズの両宣教師などによって崇福寺広徳院の私邸や長崎英国領事館(当時、大浦の妙行寺内)を使って始められた長崎在住の外国人のための礼拝にも参加した[479]。
1859年(安政6年)11月に長崎に来日したグイド・フルベッキもリギンズとウィリアムズ両名に迎えられ、住居が見つかるまでの間、この崇福寺広徳院に同居している[293][282]。フルベッキは、その後寺院の近くに住居が見つかり転居するが、妻マリアが住居の湿気から神経痛となり、ハインリッヒ・シュミット医師の勧めで、同じ崇福寺の境内にあった広福庵に転居している[296]。1860年(万延元年)4月7日に英国聖公会のジョージ・スミス主教が長崎に来日した際には、ウィリアムズの住む崇福寺に同年5月15日まで滞在した[288]。この来日したスミス主教からの寄金を元に後に日本で最初のプロテスタント教会である英国聖公会会堂が建てられている。その後、長崎では、外国人居留地の宅地造成の整備が進み、1861年(文久元年)7月にウィリアムズ、フルベッキ、シュミットは、当初暮らした崇福寺から幕府によって整備された東山手居留地に居を移すこととなった[111][注釈 123]。
1862年(文久2年)11月には、リギンズとウィリアムズの私塾の最初の生徒であった何礼之、平井義十郎らの唐通事たちが長崎奉行の許可を得て、この崇福寺境内の空地に子弟のための訳家学校を設置し、中国語と英語の学習教授が行われた[75][307]。また、1864年(文久4年、元治元年)9月には、崇福寺広福庵に同じくウィリアムズ門下の瓜生寅と前島密が、何礼之の許可を得て苦学生のために私塾「培社」を開いた[307]。
明治に入って、崇福寺第一峯門前に、通事たちの英語教育を推進し、教育体制を整えて指導を行った鄭幹輔を讃える顕彰碑が建てられるなど、幕末から明治維新後にかけて活躍した通訳者、外交官を育んだ場所としての歴史を伝えている[481][75]。その顕彰碑の傍らには、門下の頴川重寛(東京外国語学校教授、後の東京外国語大学)の顕彰碑もある。また、長崎遊学中の吉田松陰が鄭幹輔を幾度も訪ねて学んだが、崇福寺にも訪れている[482]。さらに、崇福寺の末寺である西山郷(現・長崎市上西山町)にあった大悲庵は、1848年(嘉永元年)に聖公会会員であったラナルド・マクドナルドが英会話教室を開き、日本初のネイティブの英語教師として幕府の公式通詞(蘭通詞)14名に教えた場所であり、日本の英語教育史において重要な位置を占めている。庵が所在した付近には、ラナルド・マクドナルド顕彰碑が建てられている[17]。隣にはマクドナルドに学び、ペリー艦隊来航時の日本側通訳を務めた森山栄之助の顕彰碑もあり、日本の対外交渉に大きな貢献をした両名の功績を讃えている[483]。
立教大学の源流である最初の私塾が置かれた崇福寺広徳院は、現在は建物が存在せず、跡地は個人のお墓となっている[484]。崇福寺は、1862年(文久2年)に高杉晋作がウィリアムズから政治制度や国際情勢を学んだ場所であり、潜伏していた場所とされるが[注釈 78][301]、2010年に放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」でロケ地となり、伊勢谷友介演じる高杉晋作が、福山雅治演じる坂本龍馬と対面するシーンとして登場している[485][486]。坂本龍馬も実際に崇福寺を訪れていたことが分かっており[486]、ウィリアムズ門下で培社塾長を務めた瓜生寅の弟・瓜生震は、崇福寺にあった培社で学び、龍馬とともに海援隊士としても活躍している[296]。また、培社では龍馬の友人である林謙三(のちの安保清康)も学んでいる[15]。
高杉晋作は、崇福寺に潜伏していた際に英語も学んでいるが、1865年(元治2年3月)に伊藤博文(俊輔)と下関に寄港した英国商船ユニオン号に便乗して来崎した際にも、ウィリアムズがチャプレンを務める英国聖公会会堂の管理人であった英国商人のトーマス・グラバーと邸宅で接触してイギリス渡航を頼み、準備が整うまで間に長崎英国領事でウィリアムズとも親交の深いジョン・F・ラウダーに英語を学んだ。当時の長州の状況からラウダ―の説得で渡航を断念したが、下関の開港を勧められ、ラウダ―から貿易関連の書類を受け取り、下関に戻っている[301][487]。1865年(慶應元年7月末)に、伊藤博文(俊輔)と井上馨(聞多)が長崎に赴いた際には、海援隊の周旋により薩摩藩蔵屋敷に潜伏し、夜になるとグラバー邸を訪ね、「薩摩の留守居役」として小銃と蒸気船の購入交渉を行い、長州藩は薩摩藩の名義によりグラバーから銃器や艦船を買い入れた[488]。この時、伊藤は吉村荘蔵、井上は山田新助と変名し薩摩藩士と称した[307]。1865年(慶應元年7月27日)に伊藤博文が木戸孝允(桂小五郎)に送った書簡では、ウィリアムズ門下の瓜生寅(三寅)と荘村省三(助右衛門)が長崎で連携して活動していること伝えている[308]。その後、伊藤博文は、1867年(慶応3年10月)にも長崎でグラバー商会と汽船一隻借入の契約を結び、同様に薩摩藩士吉村荘蔵という仮名を使って旧暦11月下旬までフルベッキが居住した大徳寺の別坊に寓居し潜伏した。この際、近くの養生所(小島養生所、日本最初の西洋式近代病院)にいた芳川顕正(旧姓高橋、何礼之門下生、培社塾生)に依頼して同宿させ英語を学んでいるが[注釈 124]、養生所と大徳寺は崇福寺と丸山を挟んで近隣にあり、東山手居留地とも程近い場所にあった[490][488]。この養成所は精得館となった後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部、および長崎大学病院)の源流となり、精得館の理化学部門は、大阪舎密局となった後、理学校などを経て、第三高等学校(京都大学の前身校)の源流となっている[491]。
フルベッキが寓居した大徳寺は、後述のウィリアムズの私塾で学んだ大隈重信がフルベッキからも学んだ場所の一つでもあり、現在大徳寺跡地(大徳寺公園、梅香崎神社)には、「大隈重信公揺籃の地」と「フルベッキ博士寓居の地」の案内碑が立っている[492]。また、大徳寺の程近くには、薩摩藩蔵屋敷と屋敷に隣接して浜崎太平次のヤマキ長崎店があり、同屋敷は西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、五代友厚、寺島宗則らの薩摩藩士の活動に加えて、上述の薩摩藩名義で物資購入を行う長州の伊藤博文、井上馨と、亀山社中の坂本龍馬も屋敷に匿われて活動したとされる[注釈 125][494][495][496]。
アメリカ史学者の立教大学名誉教授の富田虎男は、ラナルド・マクドナルドの研究を行い、その成果を1979年に『マクドナルド「日本回想記」―インディアンの見た幕末の日本―』として発刊している。富田は、研究組織である「日本マクドナルド友の会」の会長も務め、マクドナルドが上陸した利尻島野塚岬にあるマクドナルド顕彰碑と彼を描いた小説「海の祭礼」の作者・吉村昭文学碑の建立除幕式(1996年10月23日開催)で祝文を捧げた[497][498]。
立教大学の前身の一つである立教学校は、1874年(明治7年)2月3日に築地居留地に開設された。1878年(明治11年)10月には、前年10月にウィリアムズが東京・入船町の邸内で家塾のかたちで始めた東京三一神学校を母体に、英国聖公会福音宣布協会(SPG)と米国聖公会の共同神学校として形容が整い、新たな「東京三一神学校」(聖公会神学院の前身の一つ)が開設されたほか[499]、同1878年(明治11年)には、英国聖公会宣教協会(CMS)のジョン・パイパーが築地居留地52番に「聖保羅教会(セントポール教会)」を創設して、同年5月5日に献堂式を迎えると、翌1879年(明治12年)12月には教会の隣に「明教学校」が開校した[31]。湯島で設立された立教女学校も1879年(明治12年)12月に築地に移転した。こうした築地居留地への拠点の集積には、これまで居留地以外への外国人の居住にわりと寛大であった明治政府が、1877年(明治10年)に、外国人に対する居留地外居住の許可を取り消し、外国人はすべて居留地内に住むよう厳密に求めるようになり、市内に居住していたほぼすべての宣教師たちが居留地に引き揚げることとなったことも影響した[31]。
1880年(明治13年)になると、米国聖公会から新大学校舎の建設費を支出するとの連絡があり、ウィリアムズは築地居留地に学校、教会、病院からなるアメリカのカレッジ型のキャンパス施設群を計画した[46]。その後、拡張計画を踏まえ施設を構築するため、居留地の区画競売で新規に土地を入手し、立教大学校[注釈 11]、聖三一大聖堂などを建設し、築地居留地に聖公会の拠点が拡大していく。明治中期には、大隈重信の尽力もあり、総計約2万1476平方メートル、築地居留地全体の約22.2%を聖公会の土地とし、立教と聖路加の聖公会関連の建物が立ち並ぶ築地キャンパスを構成することとなった[注釈 54]。
築地居留地37番~40番の「立教大学校校舎、主教館、聖三一大聖堂、ガーディナー邸」(現在の聖路加国際病院の敷地内)は、岡見彦三が開設していた慶應義塾の起源となる蘭学塾「一小家塾」の講師として招かれた福澤諭吉が、1858年(安政5年)に講師に着任した場所(中津藩中屋敷跡地)であり、立教大学と慶應義塾大学は同じ地で創生期が形づくられた[500][501]。慶應義塾大学はこの福澤が講師に着任した1858年(安政5年)を創立の年としている。福澤諭吉が講師に着任する前には、岡見彦三に招かれた杉亨二や松木弘庵(のちの寺島宗則)が福澤の前任の講師として、この一小家塾で教えた[502]。杉亨二は1853年(嘉永6年)に塾講師に着任し[503]、松木弘庵は1855年(安政2年)に塾講師に着任している[504]。1866年(慶應2年)には、この中津藩中屋敷内に紀州藩が費用を負担して開設した「紀州塾」も置かれている[505]。
また福澤は、この鉄砲洲の中津藩中屋敷に居住し、その一小家塾で蘭学の講師をしていた時に、日米修好通商条約によって新たな外国人居留地となった横浜へと出かけ、以前から学んできたオランダ語が外国人に通じないことに衝撃を受けて、英語の必要性を痛感している。そこで、福澤は、前述のラナルド・マクドナルドの教え子で、ペリー来航時の日本側通訳を務めた森山栄之助が江戸小石川で開いていた英語塾で学ぶために、この鉄砲洲の屋敷から日参で通うなど、その後英語学習をしていくこととなった[506][507]。さらに福澤は、後に、この築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で預かっていた「一小家塾」[508]を芝新銭座(現・港区浜松町)へ移転し、1868年(慶應4年)4月に新しい近代学塾として「慶應義塾」を創設することになるが、塾の創設に際し、1862年5月(文久2年4月)に文久遣欧使節としてイギリス滞在中の福澤が、医師のトーマス・チェンバースの案内で訪問した英国国教会のパブリックスクールであるキングス・カレッジ・スクールをモデルとした[509][510]。
築地の当地にある「慶應義塾発祥の地記念碑」は、1958年(昭和33年)に聖路加国際病院敷地内に建立されたが、1982年(昭和57年)に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の交差点ロータリー(現在の場所)に移転されている[500][511]。またこの地は、1774年(安永3年)に中津藩医で蘭学者でもあった前野良沢が、杉田玄白らと共にオランダ解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著した場所でもある[512][513]。慶應義塾発祥の地記念碑の隣には、近代医学発祥の基礎を築いた解体新書を記念した「蘭学事始の地」の石碑も建てられている[512]。
上記絵図は、ジェームズ・ガーディナー立教学校初代校長が描いたもので、1894年(明治27年)のSpirit of Missionsに掲載され、当時の立教築地キャンパスと築地居留地の全体像がよく分かる貴重な資料となっている。中央部に立教大学校校舎(築地居留地37番)、主教館(築地居留地38番)、聖三一大聖堂(築地居留地39番)、三一神学校(築地居留地53番)、三一会館(築地居留地54番)などが確認できる。1894年(明治27年)以前に描かれた絵図のため、それ以後(1895年以後)に竣工した立教中学校寄宿舎(築地居留地59番、60番)、立教中学校校舎「六角塔」(築地居留地57番、58番)などは完成予想図として実際に建てられた建物とは異なる構造物として描かれている。また、聖三一大聖堂の横に描かれている居留地内でもひと際高い尖塔は、その他の写真資料でも確認できず、実際には建築されなかったものと考えられる。
1894年(明治27年)6月の明治東京地震で、立教大学校校舎などの初期のガーディナー設計の作品が被害にあった。そのため、以後ガーディナーは耐震性に配慮した設計を行うことになるが、絵図中に完成予想図として描かれた立教中学校寄宿舎、立教中学校校舎「六角塔」は、実際には、当初の設計・構造を変更し、建物上部に軽量の木材を利用し、絵図とは異なる形状の建物として建築されることとなったと考えられる。ガーディナーの当時の設計変更が汲み取れる資料ともいえる。1896年(明治29年)には、聖公会の愛恵病院[注釈 126]が立教大学校校舎があった築地居留地37番に移転し、築地病院と改称して開設され、その後1899年(明治32年)に一度は閉院するが、1901年(明治34年)には、ジョン・マキムの要請により来日したルドルフ・トイスラーが、同じ築地居留地37番に築地病院を前身とする聖路加病院(現在の聖路加国際病院)を開設し、病院を再建した[514]。こうして当初のウィリアムズの計画通り、学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス施設が整備されていったのである。
1910年(明治43年)には、学生数の増加に伴いさらなる設備拡充が求められたことから、北豊島郡巣鴨村大字池袋(現在の池袋)に大学移転用地を購入。1919年(大正8年)に池袋キャンパスを開設し、大学施設は築地から池袋へ移転することになるが、その後も築地キャンパスには立教中学校や立教女学校、清国留学生のための志成学校、聖路加の病院施設等は所在しつづけていた。1920年(大正9年)には築地に聖路加国際病院付属高等看護婦学校が設立された。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により築地の校舎群が損壊、焼失したことから、中学校と女学校は築地から移転、志成学校は閉校し、築地キャンパスには看護学校以外の学校施設は姿を消すこととなった。聖路加の病院施設も倒壊するが、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。また、震災後も築地には立教幼稚園があった[407]。
現在、築地の立教の関連施設があった場所には聖路加国際病院と聖路加国際大学に加え、隣接して建っていた米国公使館跡には聖路加タワーなどが所在している。聖路加国際病院礼拝堂、トイスラー記念館、聖路加国際病院旧病棟の建物は、池袋の立教学院公宅(旧宣教師館、解体材が倉庫保存)や立教女学院高等学校校舎、聖マーガレット礼拝堂等も設計したJ・V・W・バーガミニーの作品である。
築地キャンパスにあった1889年(明治22年)12月1日竣工のガーディナー設計の築地・聖三一大聖堂(築地居留地39番)は、建物はゴシック様式で、身廊の長さは78フィート(約26メートル)、塔の高さは地上から51フィート(約17メートル)あり、フランス製のステンドグラスが設けられていた[注釈 109]。1893年(明治26年)に内部装飾をガーディナーの親友のジョサイア・コンドルが手掛けた[515][516]。コンドルは、1899年(明治32年)に立教女学校の新校舎・寄宿舎(築地居留地38番)も設計している。
1901年(明治34年)2月2日には、日本政府により英国ヴィクトリア女王の遥葬式が執り行われた。参列者には皇族に加えて、伊藤博文内閣総理大臣、加藤高明外務大臣、末松謙澄内務大臣、渡邊國武大蔵大臣、山本権兵衛海軍大臣、金子堅太郎司法大臣、松田正久文部大臣、林有造農商務大臣、原敬逓信大臣、鮫島武之助内閣書記官長など日本政府の閣僚(第4次伊藤内閣)と大隈重信、青木周蔵、岩倉公、近衛公を始めとする名士たちが各国公使らとともに一同に列席した[265]。
また、1901年(明治34年)9月26日には、米国マッキンリー大統領の遥葬式があり、米国特命全権公使アルフレッド・バックを喪主として、この時も皇族に加え、桂太郎内閣総理大臣を始めとする主要閣僚と名士たちが参集した。米国の要人の護衛としてハッチ大佐率いる米国水兵二小隊がつき、日本側からも近衛騎兵半小隊が要人の護衛の任務についた。参列者は各国公使や領事を含め400名を超えたという[266]。このように、築地キャンパスと聖三一大聖堂は、英米両国と日本の友好関係を象徴する場所であり、日本の国家行事にも使われた。
聖三一大聖堂(現在に続く東京聖三一教会)は、1883年(明治16年)に創設された立教大学校の学生と、同じ校舎に併設された東京三一神学校(現・聖公会神学院)の学生、および築地を中心とする周辺の信徒、求道者が当初は教室で、翌年からは講堂で立教教会の名称で集会を開いたことに始まる。先述した1889年(明治22年)12月には、立教大学校に隣接する築地居留地39番に大聖堂が竣工し、築地の各集会所の会衆と深川聖三一教会(後の真光教会)から分かれた会衆により教会が発足すると、従前どおり、立教教会と呼ばれた[41][517]。
1933年(昭和8年)に、明石町19番地(前・築地居留地19番)に聖路加国際病院の宣教師館(後のトイスラー記念館)建てられた。設計はJ・V・W・バーガミニーで、施工は清水組(現・清水建設)が行った[518]。この築地居留地19番は、フランス人のハアボール・ブラントが所有した後に米国聖公会の手に渡り、ウィリアムズ関連の建物があったと思われ、そこに新しく宣教師館が建てられたものであった[519]。また、築地居留地19番は、立教学校の開校地とされる詩人ロングフェローの子息C・A・ロングフェロー(Charles A. Longfellow)の居宅があった場所とする説もある[注釈 53]。
その後、トイスラー記念館は1989年(平成元年)に解体され、1998年(平成10年)2月に現在地へ移築復元された[518]。
さらに、この築地居留地19番地の北側に隣接する築地居留地18番地は、ウィリアムズと親交のあったスコットランド一致長老教会の医療宣教師で築地病院(健康社)の創設者であるヘンリー・フォールズが居住した宣教師館があった場所である[520]。フォールズが1886年(明治19年)に帰国して、築地病院(健康社)も1888年(明治21年)に閉院したのち、この築地居留地18番地は築地病院(健康社)で働いていたイギリス人薬剤師トンプソン(Arthur W. Thompson)の所有地となっていたが、1890年(明治23年)3月11日に米国聖公会の宣教医師のジョン・セルウッドが来日すると、この地で医療宣教に従事し、同年5月5日からトンプソンとともに診療活動を開始した[211]。現在この地には「ヘンリー・フォールズ住居の跡」の碑が建てられている[521]。
大隈重信は、幕末に長崎でチャニング・ウィリアムズから英語、数学など英学を学び、致遠館督学となる副島種臣(第4代内務大臣、第3代外務卿)や、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)の2代目校長となる前島密らとともに立教大学創設者ウィリアムズに師事した最初の弟子の一人であった[注釈 80][46][258][20]。
大隈はウィリアムズの盟友のグイド・フルベッキにも師事し英学を学んだ。ウィリアムズとフルベッキは私塾での教授に加えて共に長崎洋学所で教鞭を執った[522][523]。当時の教材は新約聖書や合衆国憲法に加え、アメリカ独立宣言であった。独立宣言の「人は平等に生れ、生命と自由と幸福の追求は天与不抜の権利である。」との声明は、近世封建社会下にあった日本の青年の心に火をつける。かくして、大隈は日本の政治上の近代化のために大志を抱くこととなり、生涯に渡って大きな影響を受けることとなった[524]。アメリカ独立宣言起草者のトーマス・ジェファーソンはアメリカでハーバード大学に次いで2番目に古い歴史を持つ、ウィリアムズが卒業したウィリアム&メアリー大学の卒業生でもあり、ウィリアムズにとっても同郷バージニア出身の立志伝中の英雄であった。
大隈は、「ジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じてバージニア大学を設立した。ジェファーソンと同じ考えで、早稲田大学を創設した。」と語っている[524]。ジェファーソンの「人間精神の無限の自由」は、立教大学では『自由の学府』に受け継がれ、早稲田大学では建学的基本精神なる『学問の独立』に受け継がれている[524][注釈 127]。
また、大隈は、浦上四番崩れについてのイギリス公使パークスとの交渉で、一時的に問題を解決し、新政府内で頭角を現し政治家として大成していく契機となったが、交渉が成功を収めたのはウィリアムズとフルベッキから英学とともに、キリスト教の知識を学び会得していたからであった。大隈は、キリスト教の教義から知りえた、等しく社会の人心に向かって道徳を保持する目的があると心得ていたことにより、日本の外交官の中にも無学無智ではなく、一通りキリスト教の教義を勉強したものがいるものだと親しみを持たれ交渉が進められたのは、全てその時に学んだ経験の恩恵であったと述懐している[21]。
立教大学も早稲田大学も、ともに長崎に源流を持つ。大隈は、聖公会が設立した私塾や長崎洋学所でウィリアムズとフルベッキから英学を学んだ後、1867年(慶応3年)、同じく長崎で早稲田大学の源流となる佐賀藩の英学校「蕃学稽古所(翌1868年に致遠館と改称)」をフルベッキを教師に迎えて副島種臣とともに開設のために尽力したのち、教頭格として指導にあたったが[317]、立教大学の源流も1859年(安政6年)にジョン・リギンズとウィリアムズが、プロテスタント初のミッションとして長崎で初代米国総領事タウンゼント・ハリスの支援のもとに開設した私塾にあり、両大学ともに幕末の長崎からの歴史をこれまで繋いできたのである[525]。ウィリアムズもフルベッキも来日後、同じ崇福寺に住み[293][282]、その後、外国人のために整備された長崎・東山手外国人居留地でも、それぞれ五番館と三番館と近所に居を構えた[111][注釈 128]。1862年(文久2年)に、東山手居留地内(11番地)に設立された日本で最初のプロテスタントの教会である英国聖公会会堂の初代チャプレンをウィリアムズが務め、2代目チャプレンはフルベッキが務めた[284][290]。坂本龍馬が中心となって結成した亀山社中や、長州藩の伊藤博文や井上馨とも取引を行ったグラバー商会も隣接する大浦居留地の2番にあり[526]、トーマス・グラバーは英国聖公会会堂の管理人の一人であった[305]。大隈も他の志士と同じようにウィリアムズとフルベッキの私塾に通い、教えを乞うたのである[21]。大隈はウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と親しくなり、盟友になっていくこととなった[314]。ウィリアムズを訪れる日本の志士は、公式な訪問を避けるために夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をすることもあった[4]。その中には、肥後藩の海軍司令官で、坂本龍馬と肥後藩を薩長同盟に加えようと画策した荘村省三(助右衛門)も含まれていた[注釈 52]。
後年、大隈は1919年(大正8年)に開催された立教大学池袋校舎落成式に来賓として出席する。そこで長崎時代から続く大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く演説を行った[23]。演説の中で大隈は、「我輩が青年時代、ウィリアムズ師が長崎在住時代に同師から親しく教えを受けたことがある。この意味で私も立教大学同窓生の一人である。」と述べ、かっさいを博した[180][527]。
大隈が立教築地キャンパスの形成に尽力したことは立教大学との縁故の一つである[注釈 54]。アメリカ合衆国式のカレッジを日本に建設するとの計画のもと、新たな施設建築のため、土地を必要としていたウィリアムズの要請を受け、大隈は、1888年(明治21年)から枯渇状態であった築地居留地の予備地の造成に尽力し、ウィリアムズが計画した学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス拡張に大きく貢献したのである。大隈は早稲田大学を創設した人物であるが、立教大学にとっても同窓生の一人であり、創成期の発展に貢献した功労者で重要な人物であった。
また、大隈重信は聖路加病院の国際病院化と新病院建設計画を支援するため、1914年(大正3年)に聖路加国際病院設立評議会を設立し会長に就任した。評議会の実行委員として立教大学校出身の阪井徳太郎も活躍し、政財界の有力者たちによる支援の輪が広がっていく。こうしてウィリアムズの元で学んだ大隈と阪井の尽力により、聖路加病院はトイスラーのもとで新病院を建設し、聖路加国際病院へと発展していくこととなった[528][529]。
立教大学は、開設以来、幾度と医学部の開設を構想してきた[430]。立教大学を創設した米国聖公会のミッションは、教会を設立して伝道を行うとともに、教育活動と医療活動を展開していくことが活動の本質であった(#年表を参照)。ミッションにおいて教育活動の中心となるのが学校や寄宿舎で、医療活動の中心となるのが病院や診療所であり、米国聖公会は1859年(安政6年)、幕末の長崎で日本ミッションを開設した当初から、これらの開設と運営を進めてきた[4][530][注釈 129]。米国初代総領事で熱心な聖公会員であったタウンゼント・ハリスが、米国全権代表として締結した日米修好通商条約に本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えることで宣教師の来日が可能になったが、ハリスも米国聖公会の遣清宣教師であったエドワード・サイルに対し、英語を教える学校の開設と医師による医療事業の開始を伝道上の良策として提言し、聖公会の教育と医療を軸とする伝道施策展開の基本姿勢として活かされ、現在に続く教育事業と医療事業として実を結んでいる[257]。
「 | 日本人は条約上の義務を極めて慎重に遵守するであろう。将来の伝道の成功は一に最初に派遣される宣教師の行為にかかっており、もし彼が慎重堅忍よく慮って、熱心に駆られて行き過ぎることのない様に自制して働くならば、必ずや最後の栄冠を受けるだろう。英語を教える学校を開き、あるいは医師が診療事業を開始するなどは伝道上の良策であろう。読み書きが日本ほど普及しているところは世界のどこにもないであろう。 | 」 |
—タウンゼント・ハリス(日本聖公会百年史より) |
ハリスやサイルらの活動の結果、米国聖公会伝道本部から宣教師に任命されたジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズは、日本でプロテスタント初となるミッションを開設し、早速二人は私塾を設けるなど教育活動を始めるが、リギンズは多くの医学書を日本に流通させた[200]。同時に医療宣教師(宣教医)であるハインリッヒ・シュミット医師が任命され、日本で医療活動と医療従事者向けに教育活動を始めた。シュミットは長崎に診療所と私塾を開設し、治療活動を行うとともに、地元の医師に西洋医学と英語を教え、近世日本の布教史における最初の宣教医となったのである[285][111]。その後、米国聖公会の活動の中心は、のちに初代日本伝道専任主教となるウィリアムズの動きに伴い、長崎から、大都市の大阪、東京へと移っていく。
大阪では、1869年(明治2年)にウィリアムズが、川口居留地近くの与力町の自室に小礼拝堂(ミッション・チャペル)、翌1870年(明治3年)に礼拝堂(ストリート・チャペル)と英学講義所を開設したことを足掛かりにミッション拠点を構築していくと[318][320][46]、1873年(明治6年)に、米国聖公会伝道本部から宣教医に任命されたヘンリー・ラニング医師が診療所を開設し、医療活動を始めた。1883年(明治16年)には、大阪・川口居留地8番に木造2階建ての病院が新築され、ラニング医師が院長を務めたが、この病院が現在の聖バルナバ病院となった[327]。
東京では、1874年(明治7年)に、築地居留地にウィリアムズが私塾(立教学校)を開設し拠点を築いていくと、1883年(明治16年)に、フランク・ハレル医師が宣教医に任命され、翌1884年(明治17年)に来日し、同年5月に築地居留地38番館の自宅に診療所(のちに、築地診療所と呼ばれた)を開院し、翌6月には深川聖三一教会の裏に「大橋診療所」を開設する[331][327][211]。ハレル医師の医療活動は進展し、患者数も増えていくが、1887年(明治20年)にハレルは日本政府へ赴任し第二高等中学校(現・東北大学)の英語教師になることが決まり、宣教医を辞職しミッションから退くこととなった[327][211]。しかし、1890年(明治23年)になるとウィリアムズの要請により、医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を新たに開設して院長となり、医療活動を再開する。その後、前項「#築地キャンパス(立教と聖路加)」の記述の通り、愛恵病院は、立教大学校校舎(現・立教大学)があった築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称して開設。一旦閉鎖した後、ジョン・マキムの要請により来日したルドルフ・トイスラーが1901年(明治34年)、同地に「聖路加病院」(英語名は同じくSt. Luke's Hospital)を設立して、閉鎖していた病院を再興し、現在の聖路加国際病院へ繋がっていくこととなった[514]。
このように聖公会のミッションの教育事業と医療事業はセットであり、学校の開設とともに医師を育成する医学部開設構想の流れはミッションにおいて自然なことであった。ウィリアムズが、伝道の働きのために学校と医療事業の両方が協力しあうことによって日本の人々に働きかけていこうとしたヴィジョンそのものでもあった[530]。
1905年(明治38年)には、米国人医師ウィリス・ホイットニー(ウィリアムズや勝海舟と親交が深かったウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの長男)の『Notes on the History of Medical Progress in Japan』の単行本を出版するなど、医学関連書籍の流通も進めた。同書の巻頭には、前述の築地の同地で「解体新書」を著した杉田玄白の姿が描かれ、日本医学の進歩の歴史が綴られている[注釈 112]。
近年では2024年5月の立教学院創立150周年記念式典に招かれたヴァージニア神学校の学長イアン・マーカムは、チャペルでの感謝礼拝で教育機関の重要性を強調し、イエスの弟子たちが奉仕することで教会が生まれ、その教会から教育や医療など、さまざまな機関が生まれてきた歴史を語り、ウィリアムズが立教学院だけでなく、日本聖公会や聖路加国際病院、神学校、各種学校、そして数多くの教会の創立にも携わったことを話した[476][注釈 130]。
1917年(大正6年)に、築地にあった立教大学に医学部の開設が計画される。当時、聖公会の築地キャンパスには、大学に隣接して、聖路加病院(現:聖路加国際病院)が設置されており、連携を取りながら運営が可能であった。学校を管轄する文部省内でも立教大学医学部創立論があり、文部省から立教大学へ設立の申し入れを行い、設立に向かって計画が進み出した。文部省は、大学令制定構想に則って米国からの寄付金を主体として池袋に大学を集約する立教大学の計画を知り、日本医学専門学校より総退学した学生達と、同校に残る学生達とを立教大学医学部に収容し、日本医学専門学校紛擾問題を一気に解決しようとしていた。
しかし、当時欧州での第一次世界大戦の影響から、聖路加病院院長であるトイスラーの尽力にもかかわらず医学部開設のための募金が集まらず、1918年(大正7年)2月12日に計画を断念し、設置に至らなかった[386][387][388]。
その後も、立教学院の理事でもあったトイスラーとともに医学部設置構想を進めるなど、大正から昭和に至るまで度々計画が具現化される問題であった[430]。
1941年(昭和16年)には、理事会において立教学院総長兼大学学長であった遠山郁三より「多年ノ懸案タル」医学部設置の提案がなされた。聖路加国際病院(当時・財団法人聖路加国際メディカルセンター)との協力のもとで実現しようとする計画であった。理事会において、聖路加国際病院院長の橋本寛敏も出席し、必要性などについての発言を行った。その結果、医学部を聖路加国際病院と協力して設置することに一致決定したのであった。この立教側の決定を受けて、聖路加側でも理事会によって、協同により立教大学に医学部を新設することを決定した。認可申請の手続きは、立教大学側に一任するととともに、認可の際には、聖路加を立教学院に合併することとされた。申請の構想によると、予科(三年制)を1942年(昭和17年)4月から池袋に開設し、その卒業生が出る1945年(昭和20年)4月から、聖路加国際病院がある京橋区明石町に学部(四年制)を開設する予定であった。学生定員は予科が100名、学部が80名という規模であった。1942年(昭和17年)2月19日に、文部省に対して医学部設置の認可申請が行なわれ、同年5月30日に、厚生省に対しても申請が行われた。同月には、医学部校舎鳥瞰図・校舎図面も作成され着工の準備が進んだ[532]。しかし、文部省の了承は取り付けたものの[注釈 131]、聖路加国際病院が戦時下の医療拠点として期待されていたことなどの阻害要因があったと考えられ、省庁間の縄張り争いから厚生省において了承が得られず、開設には要らなかった[注釈 132]。医学部設置のために精力を傾けてきた遠山は、学院総長・理事、大学学長というすべての職を辞し、立教を去ることになった[430]。(戦後になって、遠山は聖路加国際病院顧問として皮膚科診療に従事している。)
戦後の学制改革による新制大学の設置(1949年)に際しても、医学部の開設が決定され、理学部がその前段階教育を担うものとされた。しかし、肝心の聖路加の病院施設が、GHQによる接収(1956年まで)を受けていたこともあり、実現に至らなかった[438]。
2024年 (令和6年)現在、医学部は開設されていないが、スポーツ医学の分野では2019年(令和元年)から聖路加国際大学と協定を締結し、聖路加国際病院スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。また、大学院理学研究科では、順天堂大学大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻を設置している。2017年(平成29年)には、聖路加国際大学に日本で5番目となる公衆衛生大学院(専門職大学院公衆衛生学研究科)が開設されている[533]。2024年5月7日には、立教大学メディカル&コンディショニング・センターが、アジアサッカー連盟(AFC)からAFCメディカルセンター(AFC Medical Centre/CLINIC of Excellence)に認定された[474]。
1924年(大正13年)12月11日に立教大学に国際連盟の支部が設立され、支部長には杉浦貞二郎が就いた。発会式講演会は豊島師範講堂で行われ、国際連盟事務次長の新渡戸稲造(札幌農学校2期生)、青木節一(国連ジュネーヴ本部事務員、リットン調査団一員、後のヤナセ常務)、米田実(立教大学教授、朝日新聞社初代外報部長)、大学雄弁会に所属する今村忠助(後の衆議院議員)らが演説を行った。会場は満席で立錐の余地なく、聴衆約600名で満たされた。演説の中で新渡戸は、「国際連盟の使命は戦争を全く根絶することではなく、戦いの方法を更えることにあり、すなわち武器を用いず国際マインドを以って戦わせようとすることにあり、連盟の将来は青年に俟つものが多し」と熱弁し満場の拍手と共鳴を呼んだ[403]。
東京六大学野球連盟に所属する野球部をはじめ、オリンピックや日本選手権など数々の大会で活躍したことから「水泳立教」と呼ばれ、日本水泳界をリードした水泳部。日本サッカーの父、デットマール・クラマーに学び、多くの日本代表と日本代表監督を輩出してきたサッカー部[534]。全日本選手権優勝7回、全日本大学選手権優勝6回のバスケットボール部、日本の先駆けとして創部され、全日本学生バドミントン選手権で7連覇したバドミントン部など、立教のスポーツは輝かしい歴史と伝統を持つ[535]。山岳部は日本で初めてヒマラヤに遠征し初登頂を果たした[536]。ボクシング部も歴史が古く、1923年に日本ボクシングの母、荻野貞行(帝拳ジム創設者)らにより創部された[537][538]。アメリカンフットボール部も日本のアメフトの歴史そのものといえる由緒あるクラブであり、アメリカンフットボールの普及と1934年の東京学生アメリカンフットボール連盟設立に尽力し、「フットボールの父」と呼ばれるポール・ラッシュ博士によって創部された[注釈 133][535]。
ラッシュはアメリカンフットボール以外にも、多くのスポーツ振興を行うとともに、戦後の日本の復興に大きく貢献した。立教大学野球部が1931年に六大学野球リーグで初優勝した際には、野球部の米国遠征を大学体育主事であったジョージ・マーシャル教授と企画し、現地アメリカの大学との試合に加えてベーブ・ルースやルー・ゲーリックらによる歓迎会も催し、スポーツを通じた日本とアメリカの友好の架橋となった[415]。1933年には、サッカー部の2代目部長として、チームを関東リーグ1部へ昇格に導いた[534]。戦後まもなく、再来日したラッシュは、日本の復興には若者たちに夢や希望と生きる活力を与えるスポーツを復活させることが喫緊課題であるとし、終戦翌年の1946年に高校野球夏の甲子園大会を復活開催させている[415]。ラッシュに学んだ小川徳治(立教大学経済学部元教授)も、学生部長、就職部長、総務部長など大学運営の要職を歴任する傍ら、アメリカンフットボール部、野球部、空手部、スキー部の各部長を歴任し、学生スポーツの振興に尽力した。小川は日本アメリカンフットボール協会理事長も務めた。2013年には、ラッシュを記念して池袋キャンパスにポール・ラッシュ・アスレティックセンターが完成した。
明治期に旧制立教中学に入学した浅沼誉夫(後の早稲田大学野球部第9代主将、東京六大学野球リーグ初代首位打者)が同校に野球部を創設し、かつてバージニア大学の野球選手であったハーバート・ロイド(聖公会の司祭、立教大学教授)の下で立教の野球が活発化する。1907年(明治40年)には立教大学(旧制専門学校)が設立され、翌年、岡野正司(校友会元会長)らが野球部を再興すると、青年教授のハーバート・ロイドが旧制立教中学のチームに続いてコーチを務めた。ロイドはバッティングケージを考案して自費で設け、築地にあった狭い校庭でも打撃練習できる環境を整備した。また、ロイドの指導により、野球部は他校よりもインサイド・ワークが進化したベースボールを展開した[注釈 134]。1918年(大正7年)に立教大学が池袋に移転すると専用グラウンドができ、コーチとして野球部を指導した飛田穂洲(早稲田大学野球部監督)の尽力で、1921年(大正10年)4月に四大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)に加入した。
古くは上述の野球以外でも、海外の大学との交流戦が行われ、バスケットボール部は1924年に、上海にあった姉妹校の聖ヨハネ大学(セント・ジョンズ大学)と遠征試合を行い[注釈 135]、帰国後の翌年2月1日には、上野精養軒で各新聞記者も招待し遠征報告会も開催された[119][注釈 136]。1926年には同大学を日本に迎えて試合を行った。戦後も韓国の延世大学と定期戦を設けるなど国際交流を進めた[542]。延世大学(当時・延禧専門学校)を経て、立教大学を卒業したバスケットボール選手の張利鎮は、1936年ベルリンオリンピックでは日本代表選手として出場し、1948年ロンドンオリンピックでは韓国代表として出場するなど国際舞台で活躍した。こうした戦前の時期も全国の名門中学(旧制)から強い選手が集まり、野球、バスケットボール、ラグビー、サッカーなど全日本クラスが大勢在籍した[543]。
1965年には、初代法学部長で、憲法学の権威である宮澤俊義が、教授職と兼務で日本野球機構(プロ野球)コミッショナーを務めた[544]。
立教のスポーツは長い期間、低迷する時代が続いたが、近年になってスポーツ施設が生まれ変わり、アスリート選抜入試など受け入れる制度も整い、有望な選手たちが入学し、立教大学を胸に世界と戦うための環境ができつつある。ボート部は、2016年の全日本選手権において男子フォアで初優勝。2019年には女子エイト、2021年には男子フォアが2度目の優勝を果たした。野球部は、2017年全日本大学野球選手権で1958年以来59年ぶりに4回目の優勝を飾った。同年ラグビー部は、1961年以来56年ぶりに定期戦で早稲田大学に40‐20で勝利した。陸上競技では、2018年から「箱根駅伝2024事業」が開始し、立教大学の誇りと伝統校復活のため強化を進め、2022年第99回箱根駅伝予選会で6位となり、55年ぶりに箱根駅伝本選出場を決めた。2019年には、剣道部が、第38回全日本女子学生剣道優勝大会で全国優勝し、女子ラクロス部は、第11回ラクロス全日本大学選手権大会で全国優勝し、それぞれ創部初の快挙となった。第69回全日本学生賞典障害馬術競技大会では、馬術部の杉本瑞生が創部以来初の個人優勝を果たした[545]。ラグビー部は、51年ぶりに定期戦で明治大学に38‐24で勝利した[546]。2021年、プロボクシング日本女子ミニマム級で、鈴木なな子が日本チャンピオンに輝いた[547]。日本学生自転車競技連盟主催の「全日本学生ロードレース・カップ・シリーズ2021」では、自転車競技部の中島渉が総合優勝し、同部史上初の快挙となった[548]。2022年、レスリング部が東日本学生リーグ二部リーグで優勝し、1962年大会から61年ぶりに一部リーグ復帰を果たした[549]。世界ジュニアカーリング選手権大会2022では、荻原詠理が所属する日本代表チームが日本カーリング界で初の世界一に輝いた[550]。2023年、陸上部女子長距離パートが、富士山女子駅伝(2023全日本大学女子選抜駅伝)に初出場した[551]。(#スポーツを参照。)
2008年には、スポーツ科学を総合的に学べるコミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科(現・スポーツウエルネス学部)を開設。2019年からは、同じ聖公会に属する聖路加国際大学と協定を締結し、プロ選手や日本を代表するトップアスリートの健康維持管理を医学的側面からサポートしてきた聖路加国際病院スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。2023年4月には、スポーツウエルネス学科を改組し、スポーツウエルネス学部を設置した。同学部では、FIFAワールドカップカタール2022を始め、SAMURAI BLUE(サッカー日本代表)のチームドクターとしてこれまでチームを支えている加藤晴康が教授を務めている[552][553]。
1883年(明治16年)に築地で創設された米国式カレッジの立教大学校には野球チームがあり、立教は日本の野球の率先者であった。その頃、ベースボールチームがあったのは立教と東京英和学校(現・青山学院)と鉄道局(新橋アスレチック倶楽部)だけであり、東京六大学野球連盟に所属するチームの中で最も古い歴史を持つ。当時の試合は新橋停車場内の広場で行われた。対抗戦で優勝し、山縣雄杜三(後の立教大学教授、チャプレン)も優勝チームの選手として活躍した[43]。
立教の授業科目としてのスポーツの歴史は、中世ヨーロッパ以来のリベラル・アーツの伝統を受け継いで1883年に開設された、前述の野球チームもつくられた立教大学校において、既に体操が教育プログラムとして設けられており、英国国教会(聖公会)のパブリックスクールやカレッジで行われてきたスポーツを通じた人間育成が実施されている[45]。2023年開設のスポーツウエルネス学部にも聖公会のスポーツの理念とスポーツマンシップ教育が活かされている[554]。
文武両道は立教の誇りとされ、アスリート選抜入試では競技成績だけでなく学業成績も一定以上の成績が求められる。このハードルの高さは文武両道を重んじる立教大学らしさが根底にあるからであるが[555]、戦前においても立教大学教授の曾禰武(後の開成中学校・高等学校校長)は、文武両道による校風の向上について以下を語っている[556]。
大学にはどこの学校にも特有の校風があるが、英国のケンブリッジ、オックスフォード両大学を始めイートン、ラグビー等の高等学校、米国のエール、ハーバードなど各大学には伝統的に優れた校風が数百年に亘って継承されて居り、青年はこれらの学校の校風の慕い、競ってそこに学び、美しい校風の下に幾年のカレッジ生活を送る間に、何時しか立派な人格の基礎を作り上げるのである。(中略)校風とは人間に例えれば人柄と云うべきもの、花であれば香りである。香りが花の美を一段と増す様に麗しい校風はその学校の教育に一段の美を添へる。(中略)立教は一高、早稲田よりも古い歴史を持って居り、自然に立教の学風といふものが出来上がっている。(中略)校風の母体は何んと云っても学生生徒諸子でなければならぬ。校風の発達には歳月を要するが、寄宿舎制度の存在はその為に非常に役立つことは勿論、その他外国の大学・高等学校に於て実際多く見られることは運動競技の団体的訓練と有力なる教授から教室以外で智育徳育両方面の指導感化を享けることが校風の必須の条件とされて居ることである。我立教は学校の規模と学生数の点に於て都下の各大学に劣って居るに拘らず幸にして運動競技の方面に於ては他の大学に伍して堂々覇を争って少しも遜色がない。運動の盛なることは一校盛なる印として非常に喜ぶべき現象であり、我が麗しき校風の運動団体の眞剣なる猛特訓によって養成されたところ尠なからざる事を思ふのである。立教の校風が運動競技の上に於ける紳士的なスポーツマンシップの代表的なものとして認められて居るのは愉快なことであるが、今一段とファイトを旺盛にして進取の気魂を之に加へる事が望ましい。(中略)智徳両方面の有力な訓練が實行されるならば、必ずや期年ならずして、我校風の向上眞に見るべきものがあろうことを信じて疑わぬ。 — 曾禰武/校風に就て(立教学院学報 第6巻第3号、1940年6月25日)
立教大学とオリンピックのつながりは古く、1924年パリ大会で、水泳部の学生が100メートル背泳ぎで6位入賞したことに始まり、1936年ベルリン大会では、水泳部の学生2名が競泳男子800m自由形リレーで世界新での金メダルを獲得した。サッカーでは、1964年東京オリンピックにサッカー部から3名の日本代表選手が出場し、次の1968年メキシコ大会でも3名の選手が活躍し、銅メダルを獲得した。その他競技も含め、立教大学からこれまで60名以上の選手を送り出し、コーチや監督といった選手を支えるスタッフとしても多くの関係者が出場している。競技以外でも、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの選手村食堂運営に、立教大学の「ホテル研究会」の学生が携わった[557]。
2016年11月には、東京オリンピック・パラリンピックプロジェクトを発足させた。オリンピック・パラリンピックの開催を契機に、スポーツを通じて多様性を尊重する社会の実現を目指し、スポーツから得られる感動体験とともに活力をもって生きる環境と機会を生み出す教育・研究活動を推進するプロジェクトで、具体的な活動に、立教スポーツの活性化、通訳・ボランティア派遣等大会支援活動、しょうがい者スポーツボランティアの育成、競技への科学的サポートなどがある。ブラジルオリンピックチームとは大学の施設をトレーニングキャンプで利用する覚書を締結した[557]。
2020東京オリンピックで、池袋キャンパスに設置されたスピードクライミング壁で練習を行っていた野中生萌が、新競技となるスポーツクライミング女子複合で銀メダルを獲得した。
その後、1926年(大正15年)になり、諸星が作った歌詞の各節末尾に杉浦学長の発案で「自由の学府」の文句を付け加えて、多年の懸案であった大学歌が完成した。歌詞の中には、当初の三等の草案にあった語彙も含まれており、諸星が草案に配慮して作詞したと思われる。当時の立教大学新聞にも、歌詞は学内より募集したものを改定、修正したとあることから、草案から修正を加え作詞したものと考えられる[561]。作曲は、東京音楽学校(現:東京芸術大学)教授の島崎赤太郎[注釈 137]が行い、1926年(大正15年)2月27日、大学歌発表会が開催され、校歌『栄光の立教』が披露された[561]。その年の卒業式で初めて公に歌われた。校歌は、スマートフォンや携帯電話の着信メロディとしてもダウンロードできる。
1925年(大正14年)3月に、立教大学が1922年(大正11年)に大学令により再び大学となった後の第一期卒業式が予定された際、そこで合唱する大学留別歌(別離歌、卒業式歌)が必要とされ、前月の1925年2月5日付の立教大学新聞第11号にて中村恭二郎の試作による別離歌(卒業式歌)『…踏花共惜少年春…』が掲載された[119]。そうした中、1925年(大正14年)3月21日に第一期卒業式が行われたが、式の終わりに、作られた大学留別歌『懐かしの立教』が合唱され閉会した。式では、先ず君が代が歌われ、杉浦貞二郎学長による式辞と卒業証書授与、ライフスナイダー総長と岡田良平文部大臣の祝辞、前学長元田作之進博士の来賓演説、在校生総代による英語による送別の辞、在校生の謝辞があり、最後に留別歌が歌われた。その後、夜には上野精養軒にて晩餐会が開催された[573]。
1930年(昭和5年)3月25日に行われた卒業式でも、ウッド博士らの祝辞のほか、井上準之助蔵相、ウィリアム・リチャーズ・キャッスル駐日米国大使、ジョン・ティリー駐日英国大使の来賓演説等のあと、最後に大学留別歌で式が閉会している[注釈 139]。現在、留別歌は存在が忘れられて歌われていない。
また、蔵相の井上準之助は、仙台の第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)時代に、同級の高山樗牛らと米国聖公会の宣教医であった英学教師のフランク・ハレル(仙台の野球開拓者)に野球を1期生として教わるなど、学生の時から立教大学の聖公会と繋がりを持っていた[575]。
立教学院は創立記念日を5月5日としているが、いつから、なぜその日を創立記念日としたか分かっていなかった[581]。米国聖公会のジョン・リギンズが1859年(安政6年)5月2日に長崎に来日し、まもなく崇福寺広徳院に設立した立教の源流となる私塾や、チャニング・ウィリアムズが1870年(明治3年)に大阪・川口の与力町に設立した英学講義所(のちの大阪・英和学舎)の設立日は分かっておらず、ウィリアムズが1874年(明治7年)に東京・築地に開設した立教学校の設立は2月3日である[291][4]。
明治の頃には1月末から2月にかけて、創立記念式を挙げていたようだが、その後いつの頃からか5月5日を創立記念日とするにようなったと考えられている。立教学院百年史では、この日の由来として「男子の学校だから(創立当時は“Boys school”と称していた) 男子の節句に祝うことにしたもののようである。」との推測を記載している[581]。
そうした中で1930年(昭和5年)4月15日発行の立教大学新聞(第87号)に、もともとグッド・フライデーをもって創立記念日として定められていたが、この日が年によって毎年異なってくるため、一般に5月5日を記念日として決定されたとあり、記念日設定の理由が記載されている。しかし、これも丁度金曜日に巡り合わない年は無意味な休校となることから、この1930年(昭和5年)は、4月18日金曜日をグッド・フライデーとして臨時休校としている[574]。
そのほか、1878年(明治11年)5月5日には、英国聖公会宣教協会(CMS)のジョン・パイパーが築地居留地52番に創設した「聖保羅教会(セントポール教会)」の献堂式が盛大に開催されている[31]。
オフィシャル・シンボルである楯のマークは、建学の精神を具体的に表現するものとして、1918年(大正7年)にライフスナイダー総理が定めたものといわれている。楯のマークには「立」の文字の下に十字架と聖書がデザインされている。現在のマークは紫と白の2色が基本デザインで、紫は「王の色」、白は「清純の象徴」、白色の十字架は「キリストの純潔」を意味している[注釈 140]。楯の中に書かれている「PRO DEO ET PATRIA」という言葉は「神と国とのために」というラテン語で、「普遍的なる真理を探究し、私たちの世界、社会、隣人のために」ととらえ、立教学院の目的として位置づけている[583][584]。
立教の学生や生徒、児童、各校の卒業生に広く愛用されている百合紋章(フルール・ド・リス)は、1932年(昭和7年)、学生キリスト教団体「立教大学ローバース」によって使用され始めた。立教ローバースは、2021年で創設97周年を迎えた歴史ある団体で、学内では学生キリスト教団体、山岳関係団体にも所属し、日本ボーイスカウト東京連盟城北地区豊島第8団に所属する、ボーイスカウト団体である。世界各国のスカウト章にはフルール・ド・リスが用いられている[585]。
野球部でも昭和初期には野球帽にフルール・ド・リスのマークが加えられた[586]。
ユリは純潔の象徴とされ、キリスト教と深いつながりを持つ。元来、ユリの紋章は神の三位一体性を象徴したもので、キリスト教国では勝利の記号に用いられるが、立教大学では知・徳・善あるいは、愛・正義・誠を象徴するものとして使用されてきた。ユリの紋章は、イタリアのフィレンツェやアメリカのセントルイスをはじめ、都市のシンボルマークとしても使われているが、教育機関でも英国のパブリックスクールの名門校で、立教大学と同じ英国国教会系のイートン・カレッジの紋章などにも使用されている[587]。
学校法人立教学院では2009年4月にフルール・ド・リス(セントポールズ・リリー)を楯のマークに次ぐセカンダリ・シンボルとして採用し、デザインを精緻化するとともに、St.Paul’sの文字を加えた[588]。
スクールカラーは紫色。楯のマークの色に由来する[583]。紫色は「王の色(ロイヤル・パープル)」を意味する[584]。また紫は、校歌の歌詞に「紫匂える武蔵野原」とあり、武蔵野の代表的植物「ムラサキ」としても歌われる[注釈 141]。カラーコードは紫紺「DIC226」が採用されている[589]。
箱根駅伝の襷の色は、「江戸紫」であるが、これは立教大学体育会陸上競技部のカラーであり、スクールカラーではない[590]。
紫紺地に白色の十字架と左肩に金色の「立」が描かれている。楯のマークに由来し、楯と同じく、紫色は「王の色」、白色は「純潔・正義」を象徴し、十字架は「イエス・キリストとその愛」を、「立」の金色は研究・教育を通して追究すべき「真の価値」を象徴している。1924年(大正13年)にライフスナイダー総理と杉浦貞二郎学長とによって立案、制定された[584]。
1912年(明治45年、大正元年)に行われた立教大学卒業式の写真の向かって右上に、桜花が入った旗が配置されており、当時の校旗であったと思われる[36]。桜花のデザインは学習院でも1877年(明治10年)の創立当初から徽章に採用され、学校法人学習院の院章・校章となっており、学習院大学の校旗にも用いられている[591]。
また、1883年(明治16年)に大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で、制帽、制服とともに徽章が規定された際に、徽章のデザインとして桜を形どった模様が用いられている[注釈 103]。
1918年(大正7年)、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリスが遺した寄付によって建てられた本館(1号館)は「モリス館」と呼ばれている。ニューヨークのマーフィー&ダナ建築事務所によって設計され、現場監督はコロンビア大学出身の建築家のウィリアム・ウィルソンが務めた[注釈 142]。かつて米国で流行っていたカレッジ・ゴシック様式であり、米国のイェール大学やプリンストン大学を始め、セントルイス・ワシントン大学、聖公会が設立に携わったペンシルベニア大学やトリニティ・カレッジ(コネチカット州)など多くの大学で見ることができる。これらは英国の伝統的なカレッジの建築様式の流れを組んでおり、オックスフォード大学やケンブリッジ大学にルーツを見ることができ、同じく古代の大学であるエディンバラ大学などでも様式が見られる。立教大学と同じルーツを持つ英国国教会に属する英国のパブリックスクールの名門イートン・カレッジの建物「ラプトンの塔」も同様式である。また、立教大学の国際協定校である韓国の名門、延世大学のメインビルディングの「アンダーウッド館」(1924年・大正13年竣工)も同じマーフィー&ダナ建築事務所によって設計された建物で、隣接する左右にある建物の配置を含めて、立教大学とよく似た雰囲気を持ち合わせている[596][597]。立教大学卒業生の岡見如雪が理事長を務めた頌栄女子学院の校舎も、モリス館をモデルに設計されている。岡見は同じ聖公会系のウィンチェスター大学との協同により、世界で初めての合弁大学であるウィンチェスター頌栄カレッジも創設している。
創建当初のモリス館は、中央の時計塔が現在よりも荘厳な3層構造の建物で、周囲よりも高層なシンポリックな「塔」であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で塔の上層が被害を受けたため、その後、修復する際に1層低い現在の2層構造に減築されることとなった。また、時計塔の四囲の小塔も3基は減築されたが、南西部(第一食堂側)の1基は煙突としての機能を兼ねていたため、本来の高さで修復された[598][599]。屋根も再建時にチューダー様式の特徴の一つであった切妻から寄棟に変更された[600][601]。
創建当時の姿である3層構造の建物で比較すると、アーサー・ロイドやウォルター・アンデレスも学んだ英国ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジや、ジョージ・エンソルが学んだクイーンズ・カレッジの建物に酷似しており、マーフィー・アンド・ダナ建築事務所が設計の際に参考にしたものと思われる。時計塔の時計は、建物の竣工当初には取り付けられていなかったが、後に設置された。時計は南北の文字盤を親時計が動かしているが、動力には分銅(重り)が使われており、現在も担当者が分銅を引き上げる作業を行っている。当初は1週間に1度程度行っていたものが、3層構造から2層構造への減築時に塔の高さが短くなったことから、現在の3~4日に1度の作業となった。親時計は、イギリスの国会議事堂に付属するビッグ・ベンと同じ、E・デント社製である。製作から100年を超える古時計のために図面がなく、今後の保存やメンテナンスのためにも、専門家である世界古時計協会の日本支部に時計の図面化を依頼したことがあったが、分解して図面化して組み立てなおすのに1年かかるとのことで、図面化を断念した経緯がある。そのため、時計の造りは単純ではあるが、2022年現在もどういう仕組みで時計が動いているか完全には解明されていない。また、屋上テラスには、時計と連動して定時の時刻を知らせるため池袋キャンパスに鳴り響いていたと思われる鐘が残っているが、今は動いておらず鐘の音を聴くことはできない[602]。大正期において、創建当時に存在していた3層の時計塔は立教の誇りであり、「自由の塔」と呼ばれていた[603]。1920年(大正9年)3月には、英文学科に在学中の加藤まさを(大正期の代表的な抒情画家で「月の沙漠」の作詞家)が中心となり立教大学の文芸雑誌が創刊されたが、雑誌名は『塔』と命名され、装紙にはアーチ型の星空に聳え立つ立教の塔(震災で崩れる前の自由の塔)と、その頂上に高く翻る校旗が、シルエット風にペン画で印象的に描かれ、創建当初に存在した自由の塔は立教生たちの誇りであった[604]。また、このモリス館に加え、寄宿舎、食堂等を完備しているカレッジ・ゴシック様式の校舎群は、「東京に在りて、心は遠く牛津(オックスフォード)、剣橋(ケンブリッジ)にある感あり」と言われた[119]。
モリス館は2012年に耐震補強と内装改修が行われたが、3層の時計塔「自由の塔」の再建はなされなかった。モリス館は東京都選定歴史的建造物に選定されている建物であるが、選定基準にある保存状態について、「外観・敷地の状況が建設当時の状態で保存されているもの」とされていることに加え、近年、三菱一号館や東京駅丸の内駅舎[注釈 143]など明治期や大正期の建物を創建当時の姿に蘇らせる復元プロジェクトが全国的に進んでいることから、今後立教大学のシンボルとして鐘の音とともに復元される可能性がある[606]。また、明治期には、築地の立教大学校校舎に、学生の大きな誇りとなる美しい尖塔が建っていた。(詳細は立教大学校校舎と尖塔)
大学の起源は中世ヨーロッパに見いだすことができ、英国国教会(聖公会)系であるオックスフォード大学は11世紀から12世紀、ケンブリッジ大学は13世紀に創立されたが、それ以前の学問研究はキリスト教修道院で行われ、そこから派生してカレッジが生まれた。そのため、オックスフォード大学のカレッジを始め、初期のカレッジはほぼ例外なく、修道院としての様式を備えていた。これらの古いカレッジには、チャペル、寄宿舎(学生寮と職員寮)、教室、図書館、クロイスター(回廊)があり、立教池袋キャンパスも、これらが配置されたキャンパス設計がなされている。クロイスターは、もともと修道士たちが瞑想するために四角い中庭に設けられ、四つの側面に沿って作られた通路であるが、池袋キャンパスにも、このクロイスターの様式を見ることができる[607][608]。
新座キャンパスにもチャペルとチャペル会館で囲われた空間にクロイスターが設けられているが、こちらはアントニン・レーモンドが設計したチャペルに合わせてデザインされ、上空から見ると「立」の文字となるよう、五角形のクロイスター(回廊)となっており、一般的な様式とは異なる独特な様式を見ることができる[609]。
前項のモリス館を始め、立教大学には学校の発展に貢献した人物の名前のついた建物が多く、タッカーホール、ウィリアムズホール、マキムホール、ロイドホールなどがある。大学への寄付者を記念するメーザーライブラリー記念館や、太刀川記念館も存在する。
こうした貢献者の名を冠するメモリアルホールは欧米の大学でも多く見られ、立教大学創設者であるウィリアムズが学んだアメリカのウィリアムズ&メアリー大学においても、同大学で学んだ初代アメリカ大統領を記念するワシントンホールを始め、ジェファーソンホール、モンローホール、タイラーホールなど、建物の多くに卒業生など偉人の名がつけられている[610]。アメリカで現存する最古のロースクールであるマーシャル-ワイス法科大学院(ウィリアム・アンド・メアリー大学ロースクール)もアメリカ独立宣言の署名者で、ジェファーソン(第3代アメリカ大統領)も学んだバージニア州最高裁判所判事のジョージ・ワイス(アメリカ法律学の父、アメリカ最初の法律学教授)と、彼に同大学で学んだ第4代連邦最高裁判所長官のジョン・マーシャルを記念した名である。大学構内には立教大学にある建物と同じ名称のタッカーホールもあるが、これは立教学院総理であるヘンリー・セントジョージ・タッカーの曽祖父で、ワイスの後継者として法学教授を務めたSt. George Tuckerを記念した建物である[611]。
本館正門から見て右側のツタは、1924年に聖公会神学院のチャペルから移植されたキヅタで、一年中緑色をしている。左側は、フランク・ロイド・ライトが設計した目白・自由学園明日館から1925年に移植された。本館全体に這っているのはナツヅタで、秋には葉を落とす。池袋キャンパスを象徴するレンガ建造物は、「フランス積み」と呼ばれる、一段に長手面と小口面が交互に並ぶ組積法で構築されている。非常に手間がかかる施工方法で明治中期以降はほとんど用いられていないが、大正期になってあえてこの方法を採用したのは、装飾面でより優れている点を見越してのことだったと言われている[612]。
本館前の2本のヒマラヤ杉は、1920年ごろ植林された。高さは約25メートルで、現在も成長を続けている。このヒマラヤ杉を用いたクリスマスイルミネーションはクリスマスの時期、池袋のランドマークとなる。イルミネーションの始まりは、戦後間もない1949年ごろ。当時、400個余り取り付けられていた色電球は、現在は1,000個以上である[612]。
本館(モリス館)と同じく1918年(大正7年)に竣工した第一食堂は、英国の寄宿舎を思わせるクラシカルな雰囲気で、ハリーポッターの世界観があると言われ、学外からの訪問者も多い食堂である[613][58][59]。立教大学と同じルーツを持つ英国国教会(聖公会)系大学であるオックスフォード大学クライストチャーチにある「Christ Church Hall(食堂)」は、実際に映画・ハリーポッターのモデルとなった食堂で、階段などはロケで利用されている。第一食堂とは窓の構造や配置が類似しており、天井の梁の造りは同一構造となっている[614]。
第一食堂入口の扉の上にはラテン語で「APPETITVS RATIONI OBEDIANT」とあり「食欲は理性に従うべし」と書かれている。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」という言葉をもじったものである[613]。
1919年(大正8年)に米国聖公会のサミュエル・メーザーの寄付により竣工した旧図書館本館も、第一食堂と同様に、その伝統的な様相からハリーポッターの映画のシーンのようと言われた趣のある図書館であった[615]。
2012年11月に新しく池袋図書館(新中央図書館)が開館すると、旧図書館本館旧館は図書館としての役割を終えた[616]。その後、2013年に立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパスチャペル)のパイプオルガン設置工事に伴い、一時的に旧館の2階がチャペルとして利用されたのち[617]、2014年に立教の歴史と伝統、教育と研究の取り組みを発信する『メーザーライブラリー記念館』(立教学院展示館)になっている[618]。2階の展示スペースは、当時と比べて図書館時代の書架などは取り払われており、図書が陳列した往時の図書館の雰囲気とは異なっている[619]。
また、前項の食堂と同じく、英国国教会(聖公会)系大学であるオックスフォード大学のボドリアン図書館を構成するハンフリー公図書館は映画・ハリーポッターのロケ地となっている[620]。
1916年に定礎式が行われ、1920年1月25日に聖別式が挙行された[621]。東京都選定歴史的建造物に選定されている。1923年の関東大震災後に改修され、1998年に免振工事が施された。日々の礼拝をはじめ、創立記念やクリスマスなどさまざまな礼拝が行われている。また、パイプオルガンやハンドベルなどのコンサートや、結婚式も行われている。
チェコ出身の建築家アントニン・レーモンドの設計により1963年に建てられた。礼拝のほか、コンサートなども開かれている。1967年にチャペル会館、回廊、ベルタワーなどが完成。チャペルとチャペル会館は五角形の回廊でつながれ、上空から見ると「立」の字のロゴの形となるように配置されている。ベルタワーは高さ31m。大・中・小3種類の鐘が礼拝前に鳴り響く。
池袋キャンパスにあるチャペル「立教学院諸聖徒礼拝堂」には、2013年にイギリスのティッケル社が製作したイギリス・ロマン派様式の新パイプオルガンが導入されている。導入に伴い、それまで設置されていたドイツ・バロック様式のベッケラート社製のパイプオルガンは2013年に竣工した池袋キャンパス・チャペル会館2階にあるマグノリア・ルームに2014年6月末に移設された。新座キャンパスにあるチャペル「立教学院聖パウロ礼拝堂」には、2014年にアメリカのフィスク社が製作したフランス・ロマン派様式の新パイプオルガンが導入されており、立教大学には3つの異なるタイプのパイプオルガンが設置されている。また、大学には教会音楽の研究・教育活動を行う「教会音楽研究所」[622]があり、日本における教会音楽の充実と発展のため、研究に加え資料収集や教会音楽に携わる方との交流や研修を行い、一般の方向けにもオープンなプログラムを提供している。
歴史的には、池袋キャンパスが落成式を迎えた1919年から、日本のオルガン界に大きな功績を残したエドワード・ガントレットが教えた。ガントレットは、池袋キャンパスのチャペルにアメリカのエスティ社(Estey)製のパイプオルガンを設置した。設置には学生も手伝わせている。また、築地キャンパスの聖三一大聖堂には既にパイプオルガンが設置されており、立教では複数のオルガンを所有していた。ガントレットは、立教大学最初の聖歌隊長も務めた。当時生徒であった山鹿博によると、ガントレットはパート楽譜を自分で印刷してきて生徒に配り、練習した後でパイプオルガンを弾きながら指揮したという。1900年に滝廉太郎の堅信式を行い、音楽にも知見のあったジョン・マキムもガントレットの指揮する教会音楽(英国のアンセム)に感激したと言われている。東京府立第一高等女学校(現・都立白鵬高等学校)の4、5年生全員が、音楽教師に引率されて池袋キャンパスのチャペルを訪れ、ガントレットの演奏を鑑賞したこともあったという[623]。加えて、ガントレットは経済学部教授としてタイプライティングも教えている[334]。
1923年の関東大震災では、東京と横浜のパイプオルガンはほぼ壊滅してしまったが、池袋キャンパスのパイプオルガンは生き残り、1926年には、日本のオルガン奏者の泰斗である木岡英三郎が、欧州から帰国して最初の演奏会を池袋のチャペルで開催した[412]。後に、カール・ブランスタッドが、ガントレットの後任としてオルガニストとなり、立教大学聖歌隊を指導し、日本トップクラスの聖歌隊に育て上げた[624]。
立教学校初代校長のジェームズ・ガーディナーが設計した東京・本郷の聖テモテ教会聖堂に設置されていたパイプオルガンは、1932年に設置された日本楽器(現:ヤマハ)製の国産第1号のパイプオルガンであったが、1945年の戦災で聖堂とともに焼失。パイプオルガンの音色を再び響かせたいという想いの下、2002年に新パイプオルガンが設置された。聖堂は1950年に再建されている。
築地にあった米国式カレッジである立教大学校の学生が、角帽(モルタルボード型)を日本で最初に着用して都内を闊歩したと言われる。この米国式の大学帽は、頂に赤と黒の絹の房があり、学生たちはそれをたらして意気揚々と都大路を闊歩していたという。当時の学生たちは西洋の大学に入学したような心持であった。制服は金ボタンがついた制服であった[40][625][527][43]。
1883年(明治16年)1月に築地で設立された立教大学校の校舎(1882年12月竣工、ガーディナー設計、築地居留地37番)は、ゴシック風の煉瓦造りの3階建てで、外容は煉瓦の朱色に対し、帯青色の石材をもって窓および棟の装飾に用い、中央には20メートル近い大尖塔がそびえ立っていた。その頂には金色の十字架が輝き、東京見物の人々も訪れる観光名所となっていた[40][625][527]。尖塔は銀座からも見え、当時の学生の大きな誇りになっていた。また、これまで電気やガスがなく、初めてアセチリン瓦斯燈が輸入された当時であったが、講堂のランプは全て瓦斯燈を扱う商店の寄付により設置され、講堂に集う聴衆は明るく煌々たる光景に肝をつぶしたという[43]。校舎の1階を教室とし、2階・3階を寄宿舎としていた[334]。傍らには築地1丁目にあった旧校舎も移設して、舎監室および食堂とした[155]。
立教のロゴが入ったグッズやアパレルなどのオリジナルグッズが池袋キャンパスにある『池袋セントポールプラザ』や『立教オンラインショップ』などで販売されている。「立教水」の愛称で親しまれるオリジナルのミネラルウォーターも人気商品となっている。グッズの中には体育会応援グッズもあり、硬式野球部のレプリカユニフォームや立教箱根駅伝応援のポロシャツやタオルマフラーなども扱っている[626]。オンラインの『Rikkyo Alumni Shop』では、校友会オフィシャルグッズも販売されている。これら以外にもラグビー部やアメリカンフットボールチームであるRushers(ラッシャーズ)などは、チーム独自のサイトでグッズ販売を行っている。
また、経営学部のゼミでは、株式会社ZOZOやアパレルブランド「nano・universe」などと連携して、大学とアパレルブランドのコラボレーション企画としてパーカーを製作している[627]。2022年10月にはZOZOTOWNとのコラボレーションで「Rikkyo University」の頭文字のロゴを施したスウェットを製作した[51]。
こうしたグッズ販売や取り組みは、アメリカの大学では伝統的に盛んに行われており、大学スポーツの人気とともに、大学のブランド力向上や収益に繋がっている。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)においては、1919年にロサンゼルスのウエストウッドにキャンパスを設立して以来、グッズを販売している。UCLAのキャンパス内には街中のアパレルショップさながらの『UCLAストア』などの大型ショップが複数展開して豊富な商品を扱っており、在校生のみならず多くの観光客が購入している。UCLAの学生スポーツチームであるUCLAブルーインズの名称が入ったグッズも多くある。また、オンラインの『UCLAstore.com』の収益はすべて、UCLAコミュニティのための商品やサービス、最先端のキャンパス施設、学生活動のための資金など、さまざまな方法で再投資されており、大学の運営に寄与している[628]。
1997年から始まった全学共通カリキュラムは一般教養科目の新しい展開方法として導入された仕組みであり、このカリキュラムに含まれている「立教科目」と呼ばれる科目群は「特色ある大学教育支援プログラム」に採択されている。
立教大学の学園祭は池袋キャンパスではSt.Paul's Festival (SPF)、新座キャンパスではIVY Festaと呼ばれ、毎年秋に両キャンパスで開催される。
St.Paul’s Festivalは学園祭のNo.1を決定する「学園祭グランプリ」で2019年にMVPを獲得。「ベストオブ学園祭」でも2017年に大賞に選ばれるなど、注目度が高い学園祭で、来場者数は毎年5万人を超える。立教大学広告研究会が主催するミス立教コンテストが同時開催され、ミスキャンパスのグランプリを選出する。ミス立教出身者の多くは、アナウンサーやモデル、タレントなどで活躍している。同時に、ミスターキャンパスのミスター立教コンテストも開催されている。
St.Paul's Festivalは東京六大学学園祭連盟に加盟している。
立教大学の学園祭であった『立教祭』は学生運動の影響により、1976年から1983年まで廃止されていたが、のちにリクルートホールディングスの役員となった冨塚優を始めとする学生有志たちの尽力により、1984年にSPF(セントポールズフェスティバル)として復活することとなった。この活動は現在のSPF運営委員会の母体となっている[633][634]。また、立教祭として開催されていた頃、当時の大学新聞(1962年)の写真によると、英称としてSPF(セントポールズフェスティバル)も併記されていた[180]。
学術・文化・スポーツの分野にわたり、様々なクラブ・サークル活動団体がある。そのうち大学の公認団体としては、約200余りの団体があり、学生の自主的な運営によって学内外で活発に活動している。
体育会
立教大学体育会は、立教大学における最大の自治組織である。学生によって組織された体育会本部によって運営がなされている。
体育会の各種目において同志社大学との定期戦が古くから行われているほか、明治大学との定期戦明立戦(立明戦)も歴史がある。また、六大学による対抗戦が野球以外の種目でも行われているのに加え、水泳部の日本大学、立教大学、明治大学による日立明三大学水泳対抗戦、法政大学・明治大学・立教大学による三大学定期戦、ボート部の日本大学、立教大学、明治大学による日立明三大学レガッタなど、各種目によって多くの大学と定期戦を行っている。
8月には各部の1年生全員に向けたフレッシャーズキャンプ、12月には各部の幹部に向けたリーダースキャンプ、2月には各部の2年生に向けたステップアップキャンプが開催される。
より充実した学生生活を支援するために学生寮を設けている。学生寮には専用寮(立教大学国際交流寮)と推薦寮がある。専用寮は、立教大学の学生と交換留学生とが入居する国際交流も目的とした寮で、「RIR椎名町」(2013年度開設)、「RUID朝霞台」(2008年度開設)、「RUID志木」(2010年度開設)および「立教グローバルハウス」(2017年度開設)の4棟が設置されている。立教グローバルハウスは交換留学生とGlobal Liberal Arts Program(GLAP)の学生のみ入居可能。推薦寮は他大学の学生も入居する寮で、様々な学生と交流することができる。
1925年(大正14年)秋に竣工した野球部グラウンド。それまでのグラウンドは、現在の池袋キャンパスの4号館付近にあったが、関東大震災で校舎を焼失した築地の立教中学校がそこに移転することとなり、野球部グラウンドは東京府北豊島郡長崎村(現・豊島区千早)に移転することとなった。この校地は、もともと1924年(大正13年)7月に、中学校の建設用地として購入されたものであったが、計画変更により、野球部グラウンドとして活用されることとなった。その後、1966年に埼玉県新座市に球場が移転するまでの間、幾多の名選手を世に送り出した歴史的なグラウンドであった[662]。現在は東京都立千早高等学校の校地となっている。
1956年11月13日に、上板橋から練馬にわたる緑地帯に竣工した総合グラウンドで、35,000坪もの広大な面積を擁した。それ以前には、大学には野球部が持つ東長崎グラウンド以外にグラウンドは一つしかなく、面積も約2,000坪と狭く、陸上競技、ラグビー、ホッケー、サッカー部など各部が共用し混雑する状況であった。他の部は、民間会社のグラウンドを借りて練習していた[広報 1]。 セントポール・グリーンハイツは、1968年1月に東京都へ土地と工作物を返還し、その役目を1969年に埼玉県入間郡富士見町(現:富士見市)に竣工した現在の富士見総合グラウンドへ受け渡すこととなった[663]。
拠点の名前 | 所在地 |
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上海事務所 | 上海市楊浦区国賓路18号 五角場万達広場A座20階 (株)GES 上海事務所内 |
香港事務所 | c/o Find Asia Limited,Suite 305, 3/F, Far East Finance Centre, 16 Harcourt Road, Admiralty, Hong Kong |
ASEAN事務所(ジャカルタ) | Jl. Sawo Kecik I, Eramas 2000, Jakarta, 13950 |
ロサンゼルス事務所 | c/o Takuyo Corporation (Lighthouse), 2958 Columbia Street, Torrance, CA 90503, USA |
ニューヨーク事務所 | Colleges and Universities of the Anglican Communion, 815 Second Avenue New York, NY 10017-4503, USA |
自治体 | 協定内容 |
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学校法人立教学院では、設置している教育機関を全て同格に扱っており、大学を頂点とする附属学校は設置していない。そのため、本節にてまとめている。
学校法人立教女学院とは、創立者が同じであることから基本的な信条を同じにしている。
立教大学はキリスト教の一派である日本聖公会に所属している。
英国聖公会の宣教師ウォルター・ウェストンは、日本の山々や上高地を世界中に紹介した登山家でもあり、「日本アルプスの父」、「日本近代登山の父」と称されている[673][674]。ウェストンは、まだ登山という概念がなかった明治時代に日本人に先駆けて各地の山に登り、その体験を1896年(明治29年)に「日本アルプスの登山と探検」という本にまとめ、ロンドンで刊行し世界に紹介した。ウェストンは、英国の歴史あるパブリックスクールの名門ダービー校の卒業生で、スポーツを通じた人間教育を受けており、スポーツとしての登山の醍醐味を日本人に教えた[675][676]。また、日本山岳会の設立を提唱し、ロック・クライミングを日本で初めて行った人物でもある。上高地にある彼のレリーフの前で毎年「ウェストン祭」が開かれている[677]。
立教学院総理のヘンリー・タッカーと立教学院理事で聖路加病院院長のルドルフ・トイスラーも登山を好み、明治時代に日本アルプスの踏破を幾たびも試みた日本アルプスの開拓者として名を連ねている。1903年(明治36年)8月には、タッカーとトイスラーは槍ヶ岳に登山している[180][678]。
現存する日本最古のリゾートホテルである日光金谷ホテルや箱根のランドマークでもある富士屋ホテルを始め、以下のとおり、日本を代表するクラシックホテルの多くで立教大学の卒業生が経営に携わり、歴史を創ってきた。2017年には、これらのホテルを含む日本のホテル黎明期に創業し、戦前・戦後を通して西洋のホテルのライフスタイルを具現化してきた9つのホテルで「日本クラシックホテルの会」が設立された。人材交流や訪日外国人へ向けた共同PRなどの連携を通じて、先人たちから創り上げてきたホテル文化を次世代へと繋ぐ取り組みを進めている[679][680]。
建物の維持状況など文化財や産業遺産指定外のため、上記の会には所属していないが、帝国ホテル(古田直称・元支配人)や、日光南間ホテル(南間栄・元経営者)[注釈 157]、鬼怒川温泉ホテル(金谷鮮治・元社長)などの創業が古い老舗ホテルや、伊香保温泉で創業から400年以上続く「福一」や、「ホテル木暮」などの老舗旅館・ホテルも卒業生が経営に携わっている[683]。
一橋大学大学院経営管理研究科が運営するイノベーションによって独自性ある戦略を実行し、高い収益性を達成している企業を表彰する「ポーター賞」を立教大学の卒業生が経営する企業が受賞している[684]。ポーター賞は、ハーバード大学教授のマイケル・ポーターの名前に由来し、2001年7月に創設された[685]。
理学部生命理学科の末次正幸教授が2017年に発明した、細胞を使わずに長いDNAを効率的に合成する技術(セルフリー長鎖DNA合成技術)を実用化する目的で2018年12月に設立。大学での研究段階で既に技術開発のフェーズまで進んでおり、事業開始から1年半足らずで最初の製品がリリースされた。科学技術振興機構(JST)と新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)による「大学発ベンチャー表彰2021」では科学技術振興機構理事長賞を受賞した[688][689]。2023年1月、同社をCOVID-19ワクチンを扱うバイオ医薬企業世界トップの米Moderna社が評価し、買収すると発表。買収金額は8500万ドル(約110億円)となった[690][691]。
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