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日本の商学者、教育者 ウィキペディアから
坂口 武之助(さかぐち たけのすけ、1867年9月21日(慶応3年8月24日) - 1937年(昭和12年)4月14日[1])は、大正時代から昭和初期の日本の商学者、教育者、税関鑑定官[2]、立教大学商学部教授、立教大学予科部長[3][4]。日本における商品学の泰斗[3]。
1867年(慶応3年)に壱岐国初山村初瀬浦(現・長崎県壱岐市)で生まれる。1882年(明治15年)長崎県立壱岐中学校に入学するが、廃校のため中退。その後柴田昌吉の柴田英語学校に入学し、1889年(明治22年)に卒業[1]。
その後長崎税関に入り、税関鑑定官を務める。1912年(大正元年)10月21日には、日本の関税制度と清国へ輸出する物品に及ぼす影響の研究と、清国における価格取引の状況や外国品との競争状態、清国の関税の影響を調査する目的ため、清国への出張費及び交際費が国から坂口武之助と齋藤甲万三(税関鑑定官)の2名に支給されている[5]。
1922年(大正11年)、立教大学に商学部が設置され、同学部教授に就任し、商品学と国税を担任した。この時、数学の大家である浅越金次郎(商船学校教授)も同学部教授に就き、商業数学を担った[3]。
1925年(大正14年)には立教大学予科部長も務めた[4]。
商品学、輸出入に関する著作が多く、日本における商品学の泰斗として活躍した[3]。
昭和7年度(昭和8年/1933年3月末)をもって、岡倉由三郎、本荘季彦の2教授とともに定年となったため、立教大学での職務を辞することとなったが、3教授の留任を求める声が高まり、協議の結果、これまでの前例を破って教授職を辞しても講師として、これまでの講義を講じることとなった[6]。
亡くなった2年後の1939年(昭和14年)には、市町村雑誌社から『坂口武之助君追悼録』が発刊されている[7]。
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