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本荘 季彦(本庄 季彦、ほんじょう すえひこ、1865年〈慶應元年2月?[1]〉 - 没年不詳)は、日本の国文学者、漢学者、教育者。立教大学文学部教授、旧制立教中学校教頭、東京府立第三中学校教員、旧制水戸中学校教員[2]。号は掬水。
慶應元年2月[1]、福岡に生まれる[2]。久留米藩儒学者の本荘星川(本荘直太郎)は祖父[3]。
1899年(明治32年)、師範学校にて、中学校と女学校の漢文教員免許を取得し、1900年(明治33年)、旧制水戸中学校に教員として奉職[2]。
1904年(明治37年)、旧制立教中学校の教員に就き、1907年(明治40年)、立教大学(専門学校令による)が開設されると、同大学教授に就任し、国語、漢文を講じる[2]。
同年、久保田富次郎が立教中学校の教頭を辞任すると、後任として同校の教頭も務めた[4]。
1921年(大正10年)に立教大学体育会水泳部が創部されると初代部長を務めた[5][6]。
昭和7年度(昭和8年/1933年3月末)をもって、岡倉由三郎、坂口武之助の2教授とともに定年となったため、立教大学での職務を辞することとなったが、3教授の留任を求める声が高まり、協議の結果、これまでの前例を破って教授職を辞しても講師として、これまでの講義を講じることとなった[2]。
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