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飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996年1月5日)は、日本の映画評論家・詩人。旧姓:吉田[1]。
東京府生まれ。父の吉田平太郎は豊後国出身で日露戦争で活躍した陸軍中将だったが[2][3]、退役後に毛皮商として一旗揚げるべくモンゴルに渡り、そこで部下に騙されて零落し日本に帰国、持ち家を手放し、都内を転々とした[4]。のち茨城県の愛人の元に移り、釣りに明け暮れ、肝臓病で亡くなった[4]。母方の祖父の池上正路は銀座の大手広告代理店「正路喜社」(しょうじきしゃ)の創立者[4]。平太郎には離婚した先妻との間に子がいたため、正の実母ヤス(安子)は先妻の子に気を遣い、正を自分の兄(正の母方の伯父)の養子に入れ、飯島姓とした[5][6]。
中学時代から映画館通いを始める。純映画劇運動を信奉する文学青年であった。1919年、東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)を卒業し第三高等学校に入学。同窓に梶井基次郎、中谷孝雄らがいた。1922年、東京帝国大学仏蘭西文学科に入学。同窓に渡辺一夫、伊吹武彦らがおり、辰野隆に師事した。卒業論文の題目は「アルフレッド・ド・ミュッセの戯曲における心理的一展開」。
大学入学と同年、『キネマ旬報』同人となる。1928年、初の映画評論集『シネマのABC』を刊行。以後、映画評論の分野で旺盛な活動を展開した。また同年、春山行夫の誘いで詩誌『詩と詩論』の同人となり、詩の創作、評論、翻訳などを寄稿した。その後も『詩・現実』などの詩誌に同人として関わり、モダニズムの詩人として活躍した。
戦後は早稲田大学文学部演劇学教授。1972年定年、名誉教授。教え子に脚本家の長田紀生、大原清秀[7]、映画研究者の志賀信夫、山本喜久男、岩本憲児、文化人類学者の西江雅之らがいる。
指導の傍ら評論、研究にも注力した。1970年に上梓した『前衛映画理論と前衛芸術』は飯島の主著であるが、早大の同僚の勧めでこれを博士論文として提出し、博士号を取得した。また、同書の功績により、翌1971年には芸術選奨文部大臣賞を受賞している。1993年、川喜多賞受賞[8]。1996年に死去した後、毎日映画コンクール特別賞を贈られた。
派手な修辞ではなく簡素な文体による的確な批評のスタイルを持つ。梶井基次郎は飯島のスタイルについて次のように述べている。「飯島ははっきりした人だ。たくらまない表現がそれを語っているように、正直な淡白な人だ。そのなかに自からの含蓄を持っている」[9]。
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