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日本の映画製作会社 ウィキペディアから
小笠原プロダクション(おがさわらプロダクション、1923年 設立 - 1926年 活動停止)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、京都の映画製作会社である。子爵小笠原氏の「第七代当主」になるはずだった同家の長男・小笠原明峰が設立し、自ら、および弟(次男)小笠原章二郎の監督作品を製作した。片岡千恵蔵、古川ロッパといったのちのスター俳優を無名時代に起用し、初めて映画に主演させたプロダクションである。
1923年、小笠原明峰が23歳で設立した。当時21歳だったすぐ下の弟も「三善英芳」名義で監督として加わった。
「小笠原映画研究所」名義で製作した設立第一作は、明峰が脚本を書き監督した『三色すみれ Love in Idleness』であった。同作の主演には、1912年に片岡仁左衛門が設立した「片岡少年俳優養成所」に9歳で参加した[1]当時20歳の植木正義(「植木進」名義、のちの片岡千恵蔵)を起用した。また当時学生だった古川ロッパ(「古川緑波」名義)を初めて映画に出演させた。
前年1922年に松竹に吸収された大正活映(大活)で栗原トーマスの監督作を撮っていた撮影技師稲見興美が入社、この同社第一作を皮切りに即戦力となって6本を担当した。翌1924年には、栗原トーマスが「栗原喜三郎」名義で1作監督しているが、これが栗原の映画監督としての遺作となった(1926年死去)。
稲見、栗原のように大活から流れてきた者に、装置部の尾崎章太郎、俳優部の鈴木すみ子がいた。俳優部の大辻四郎は「映画芸術協会」から同社に入社したが、その後PCL、日活、東宝、松竹大船撮影所などの名脇役となっていった。天然色活動写真(天活)、国際活映(国活)にいたが、兵役から復員して同社の撮影助手となった円谷英二は、のちにJ.O.スタヂオや東宝を経て円谷プロダクションを創始した。
多くは同社からそのキャリアを始めた。「日本初の女流映画脚本家」として名高い水島あやめに最初に脚本を書かせたのは同社である。のちに妹の入江たか子と「入江ぷろだくしょん」を設立した東坊城恭長、のちに東宝で黒澤明の師匠となる名監督山本嘉次郎や、のちに監督に転向して戦後『血槍富士』(東映、1955年)を撮った巨匠内田吐夢といったのちの映画監督たちは、いずれもその最初のキャリアは同社で、しかも「俳優」としてであった。
1926年には同社は活動を停止した。小笠原明峰26歳のときだった。製作作品は14本、すべてまだ無声映画だった。
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