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北海道札幌市にある歴史的建造物 ウィキペディアから
札幌市時計台(さっぽろしとけいだい)は、北海道札幌市中央区北1条西2丁目にある歴史的建造物である。重要文化財(1970年6月17日指定)[1]。
正式名称を「旧札幌農学校演武場」(きゅう-さっぽろのうがっこう-えんぶじょう)と称する。現在の通称は「札幌時計台」、もしくは単に「時計台」と呼ばれ、多くの観光客が訪れる名所になった。
三角屋根の上に大時計を載せた特徴的な外観の建築物であり、時計台としては日本最古である[2]。
札幌農学校(現在の北海道大学)の演武場として1878年に建設され[3]、完成後の1881年に時計塔が設置された[4]。1階は研究室や講義室等に使われた。2階が演武場として、訓練や体育の授業のほか、入学式・卒業式・祝賀会など催事にも用いられ、新渡戸稲造や内村鑑三(ともに第2期生)といった著名な卒業生もここで卒業し学士の学位を授与されている[5]。札幌農学校が北1条〜北2条から現在の北海道大学の位置に移転したことで演武場は札幌市に移管された。1906年の道路整備に伴い、元の北2条通の位置にあった演武場は、北1条の寄宿舎のあった場所へと100mほど移動した[5]が、現在も札幌農学校の当初の敷地内で往時の面影をとどめている。
札幌農学校初代教頭クラークが、彼自身が学長を勤めたマサチューセッツ農科大学の教育に倣い、そのための施設として演武場の必要性を提言した[5]。計画者は2代目教頭であった工学者ウィリアム・ホイーラーであり、北辺警備に備えた訓練を目的として[6]、安達喜幸をはじめとする北海道開拓使工業局による設計・監督の下建造された、バルーンフレーム構造の木造2階建(時計部分の塔屋を除く)である。屋根は鉄板葺き、高さは19.825m、延面積は約760m2である。
北海道大学の発祥の地であるため、同大学とは密接な関係にあり、1階の展示室では北海道大学附属図書館に所蔵されている資料が多く展示されている。この他、同大学のイベント会場としても使用されることが多く、現在でも「時計台サロン[7]」などの市民公開セミナーなどが開催されている。また、1階売店では北大関連グッズも販売されている。
2階は貸ホールとしての機能も有しており、札幌で毎年開催される国際教育音楽祭PMFを含め、コンサートなどのイベントが頻繁に開催されている。
かつては札幌市の図書館として使われていたこともある。2008年(平成20年)から指定管理者制度を導入[8]。
北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)と並び、札幌市中心部の有名観光スポットであり、札幌市のカントリーサインのデザインとしても使用される札幌市の象徴的建物である。また道外では札幌ラーメンの店の看板や北海道観光のポスターに多用されるなど、札幌のみならず北海道の象徴とされる例も多いほか、北海道日本ハムファイターズの応援歌の歌詞にも使われている。
壁面は白く塗られているが、1995年(平成7年)から実施された保存修理時の調査で、創建当初は壁が灰色、柱や窓枠が茶色に塗られていたことが判明した。壁は緑色に塗られていた時期もあり、白の塗装となったのは1953年(昭和28年)からである。上述の保存修理に際して、壁の色は創建時の灰色に戻すことはせず、長年親しまれた白色としている[9][10]。
建設当初は大時計を設置せず、鐘楼に工部省東京工場製の鐘が吊るされていた。綱を引いて鐘を鳴らす仕組みだったが、時報の正確性に欠くことや振動により実験に支障をきたすことから、開拓長官であった黒田清隆のもと、1881年(明治14年)6月に塔部分を新築し、ハワード製の時打重錘振子式四面時計(製造番号738)が設置された[6]。
同年8月12日、正式に鐘を鳴らし始めたこの時計は、重りの力を利用した振り子式で、4日に一度は運用針と打鐘用の2つの重りを吊るしたワイヤーを、ハンドルを使い人力で巻き上げねばならないが、豊平川の小石を詰めた木箱の重りの重さはそれぞれ50kgと150kgにもなる上[6]、機械に負担が掛からないよう2時間ほど掛けてゆっくりと巻き上げる必要があり、かなりの労力を要する。文字盤の直径は1.67m、分針の長さは85cm、時針の長さは63cmで杉材を用いている[6]。鐘は銅・錫・亜鉛の合金による青銅製で、高さ73cm、底面直径71cm、重さは約226kg[6]。
今でこそ大切に管理されているが、かつては時計台の価値が十分に理解されず故障しても放置されていた時代があった。1933年(昭和8年)、時計台の近くで時計店を営んでいた井上清は、長期間止まったままになっている時計のことが気になり、市に修理を申し出たが予算不足を理由に断られた[22]。そのため井上はボランティアで保守整備を行うことを決意し、作業を始めた[22]。1か月の時間を要し、錆(さび)を取り、部品を丁寧に分解修理し、時計の機能を回復させた。井上はほぼ毎日時計台に通い、長年に渡り重りの巻上げを含む時計の保守管理を続けたが、1982年(昭和57年)に息子の和雄(1947年〈昭和22年〉から父の時計店で働いていた)が市の非常勤職員に採用され、清の仕事を引き継いだ[6]。2009年(平成21年)からは和雄の指導を受けた札幌市友会(市職員OBによる一般社団法人)の専任職員が保守管理を行っている[23]。なお、2014年(平成26年)度からエムエムエスマンションマネージメントサービスが指定管理者となっている[8][17]。
現在は、高層ビル群に囲まれている。
鐘の音も高層ビルに阻まれて、現在は時計台周辺でしか聞こえないが、市内の小学校などでは、時刻によって録音された鐘の音を鳴らしている。
周囲をビルに囲まれており、その景観などの理由から「日本三大がっかりスポット」と称されることもあり[24][25][26]、過去に中島公園や円山公園への移転案が具体化されたことがあったが、市民からは「時計台は立ちはだかるビルの間にあってこそ生きた歴史である」等の反対意見が多数を占め、結局札幌市議会の可決により、1966年に永久保存が決定された[27]。
時計台を擬人化したデザインの非公式キャラクターとして札幌市の土産品企業・小六による2004年制定の「とっけ」と、2005年に時計台とさっぽろテレビ塔の共通入場券発売を機に制定された「時計大臣」があり[28]、後者はさっぽろテレビ塔の非公式キャラクター「テレビ父さん」と同じく工房アルティスタが製作している。
STVラジオでは、平日の6時[29]・7時・8時と16時[30] に正時の時報音に代わって、札幌時計台の鐘の音を生で放送している[31][32]。
スポンサーがつく場合は、ライブ音声に入る前にCMを流し、59分50秒から「○時の札幌時計台の鐘。( スポンサー名 )がお送りします。」のあとに正時の鐘の音。終了後、「○時の札幌時計台の鐘。( スポンサー名 )がお送りしました。」のあとに番組に戻る。
ノンスポンサーの場合は、番組を締めたあとにライブ音声を開始。59分50秒から「札幌時計台の鐘が○時をお知らせします。」のあとに正時の鐘の音。終了後、「札幌時計台の鐘が○時をお知らせしました。」のあとに番組に戻る。
生で放送しているが、6時と7時は『北海道ライブ あさミミ!』の女性パーソナリティ(渋谷奈々子/上田あや)が生で担当、8時は番組切り替えであるため音声のみ事前収録となっているが、正時跨ぎであった時代は変わらず生で担当していた。16時は番組切り替えではあるが、『吉川のりお スーパーLIVE』の吉川のりおがそのまま生で担当している。
1963年(昭和38年)に制定された札幌市民憲章には、前文に当たる前章で「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です」と詠われている。市民憲章の成文化にあたり「市民の願いを土台にわかりやすく格調高くまちの個性を生かしたもの」という条件のもと、当時の市教育委員長である宇野親美が提案して盛り込まれた[33]。
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