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日本の雑誌 ウィキペディアから
『X-magazine Jam』(月刊ジャム)は、かつてエルシー企画内ジャム出版より1979年3月から1980年1月まで刊行されていたオルタナティヴ系の自販機本[1]。今日では伝説の自販機本と呼ばれている[注釈 1]。
X-magazine Jam | |
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ジャンル |
パンク ロック コミック ドラッグ ファック インディーズ オルタナティヴ ノー・ウェイヴ ニュー・ウェイヴ ブラックジョーク アバンギャルド サブカルチャー ユースカルチャー モンドカルチャー ドラッグカルチャー カウンターカルチャー コンセプチュアル・マガジン アンダーグラウンド・マガジン |
刊行頻度 | 月刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
定価 | 300円 |
出版社 |
エルシー企画 東京都豊島区西池袋1-44-10日東ビル3F |
編集部名 | ジャム出版[1] |
発行人 | 高杉弾 |
編集スタッフ |
山崎春美 隅田川乱一 八木眞一郎 佐内順一郎 |
装丁デザイン | 大賀匠津→羽良多平吉 |
刊行期間 | 1979年3月 - 1980年1月 |
発行部数 | 5万部(池田俊秀[2]調べ) |
姉妹誌 | HEAVEN |
編集長は高杉弾。創刊号の二大特集は「NO PUNK! NO WAVE!」「山口百恵のゴミ大公開!」。表紙はエロ本の体裁だが内容は雑駁としており、ドラッグ、パンク、臨済禅、オカルト、神秘主義、前衛芸術、ビートニク文学、オルタナティヴ・コミック、カルトムービー、ゴミ漁り、嘘などのテーマが取り扱われた。
末井昭の『ニューセルフ』『ウイークエンドスーパー』『写真時代』(白夜書房)と並ぶサブカル系エロ本の草分け的存在であり、そのゲリラ的な編集スタイルは当時の若者文化や雑誌文化に加え、1980年代以降のエロメディアや1990年代以降のバッドテイストなど国内のサブカル文化に多大なる影響を及ぼした[4][5]。
本項では『Jam』の前身誌『X-MAGAZINE』と後継誌『HEAVEN』についても解説する。
※この他にも山崎春美が寄稿した関係者リスト「X人名事典」では間章、明石賢生、赤田祐一、赤塚不二夫、阿木譲、浅羽通明、石井宏明、伊藤桂司、稲木紫織、上杉清文、遠藤道子、岡部佳枝、小野田重俊、角谷美知夫、後藤繁雄、桜木徹郎、末井昭、鈴木伊豫、園田佐登志、武邑光裕、天皇、中村直也、ニシャコフスキー、野々村文宏、橋本真人、浜野純、松岡正剛、松本助六、村松恒平、安田邦也、山口百恵らの名前が列挙されている[24][25][26]。
『X-magazine Jam』(以下『Jam』)は日大芸術学部を中退した高杉弾、山崎春美、隅田川乱一、八木眞一郎、佐内順一郎らヒッピー風の若者たち数人によって1979年3月に創刊され、わずか10か月で終刊した自販機本である。
『Jam』は自動販売機を介した特殊な形態で販売されたため、正規の取次ルートに乗って店頭に並ぶ通常の雑誌とは違って内容に制約がなく、独自の編集方針からナンセンスかつアナーキーな常軌を逸した誌面が徹頭徹尾にわたり展開された。その先鋭的な内容から本誌は「伝説の自販機本」と呼ばれるに至っている[注釈 1]。
なお本誌は流通上エロ本の体裁を取っているが、実際は表紙とグラビアだけエロで、中身は編集者が「面白い」と判断したことを「冗談」「悪ふざけ」「オナニー&メディテーション」という無意味なコンセプトのもと手当たり次第に詰め込んだ奇怪極まる内容となっており[29]、抜き目的のエロ本としては全く機能していない。また誌面ではドラッグから皇室、臨済禅、神秘主義、前衛芸術、幻想文学、カルトムービー、インディーズ、パンク、オカルト、プロレス、ヘタウマ、パロディ、サイケデリック、ニュー・ウェイヴ、ビートニク、スーフィズム、フリーミュージック[注釈 3] までカウンターカルチャーを縦横無尽に取り上げ、知性と諧謔と狂気と冗談と猥雑とポップ[要曖昧さ回避]とアナーキーが入り混じるパンクな誌面を展開し、ポルノグラフィとサブカルチャーが合体した唯一無二の世界観を築き上げた。
特に創刊号では「ドラッグ特集」「東京・関西のパンクシーン」「臨済と普化の対話」「女性器の拡大ポスター」「女体にジャムを塗りたくったヌード」などを取り上げたが、極めつきは当時人気絶頂だった山口百恵の自宅から出た使用済みナプキンほか約40点のゴミを大々的に公開した爆弾企画「芸能人ゴミあさりシリーズ」であった。この企画によって『Jam』は「伝説の自販機エロ本」として神格化された[29]。
ちなみに漫画コーナーでは「ガロ系」「ヘタウマ」「面白主義」を代表する漫画家の渡辺和博(青林堂『ガロ』3代目編集長。1984年発表の著書『金魂巻』において現代の代表的職業31種に属する人々のライフスタイル、服装、行動などを金持ちと貧乏人の両極端に分けて「○金・○ビ」とネーミングして1984年度の第1回流行語大賞を受賞)と、当時漫画家をやめていた蛭子能収(青林堂『ガロ』1973年8月号掲載の入選作「パチンコ」でデビュー後、わずか数年で断筆)を連載陣に起用し[30]、特に蛭子は編集長の高杉弾と山崎春美の依頼により『Jam』で実質的な商業デビューを果たしている[11][16][31][32]。
『Jam』『HEAVEN』の誌面には「架空の本の書評」「架空の企業の広告」「架空のヒットチャート」「架空のインタビュー」「架空のバンド紹介」「架空の学術論文」「なりすましの読者投稿」「嘘の次号予告」など虚実ないまぜに面白おかしく書かれたジョーク、パロディ、ガセネタ、フェイクが多数掲載されており、コンセプトそのものは実際にありそうで実は存在しないガセネタをニュースとして掲載しているウェブサイト『虚構新聞』のスタイルと通ずるものがある。
本誌に掲載された具体的な虚構記事の例としては『X-MAGAZINE』6号の「ヒデヨシ鏡は狂気の今日・カタストロフィ理論に於けるヒデヨシ効果の特異点」や『Jam』7号の「名物爆弾企画『音』で橋を壊せる!!」などの意味不明な学術論文、『HEAVEN』創刊号の白紙のページ、「天才少女ナオへの独占インタビュー」、「早大文化新聞/東北人は全人民の前に土下座せよ」などの冗談企画が挙げられる。
初代編集長の高杉弾はこれら禅的でシュールな虚構記事を誌面で展開した理由について
実話誌として『X-magazine』はいろいろと遊んだわけ。例えば、書評のページ。全部架空の本でね、その紹介が。実在しない本の紹介っていうのは、すごく最初からあったアイディアで、いまだにやりたい気が残ってる。スタニスワフ・レムとか、ボルヘスがやってるでしょ、たしか。やってる時は知らなかったけど。そういう細かいアイディアはたくさんあって、架空のヒット・チャートとかさ。それからケネス・アンガーの紹介とかもやった。そういう前から持ってたアイディアをどんどん入れてやったわけ。基本的に嘘のつけるメディアだということもどんどん利用した。ちょっとなんていうのかな、儲かってる業界ってさ、自由がきくでしょう。何やっても文句言われないんだよね。それで図に乗って毎月出しまくった。結局『Jam』は十何冊か出たね。上いくとあんまり嘘つけないでしょ。 — 高杉弾『週刊本38 霊的衝動 100万人のポルノ』(朝日出版社)第1章「印刷ポルノの黄金時代」の中「『Jam』をつくっていた頃の話」
と解説している。実際、架空の本を書評するというアイデアは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスによる『ハーバート・クエインの作品の検討』(1944年)やスタニスワフ・レムによる『完全な真空』(1971年)などに先例が見られるように、決して本誌独自のものではないが、それを雑誌の書評コーナーの体裁を借りて行ったという点では極めて先駆的な事例であった[注釈 4]。 なお『HEAVEN』の編集に携わっていた精神科医の香山リカは医大生時代に「嘘の医学記事」を同誌に執筆していたことを後に打ち明けており、これについて香山は著書『ポケットは80年代がいっぱい』の中で
私は“ある島でだけ流行した謎の伝染病”の話を書いたが、もっともらしくウィルスの解説などもしながら、それはまったくのでっち上げだった。“医学生がでっち上げ医学記事”というのは今でなら社会問題にもなるかもしれないが、当時の私は、そのあたりの倫理観が完全に麻痺していた。言い訳めいて聞こえるかもしれないが、そもそも私は『遊』[注釈 5]のパロディ記事の完成度やバカバカしさに衝撃を受けたのがきっかけで、春美と仕事をすることになったのだ。ウソを本当っぽく書いたり事実を茶化したりすることは、私にとっての仕事の原点であったわけだ。いちばん楽しかったのは、なんといっても医学生という立場を悪用した“医学のウソ”だった。 — 香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』バジリコ、2008年2月、p.141-142
と弁解している。 ちなみに雑誌全体のブレーンであった美沢真之助(隅田川乱一)は『HEAVEN』に寄稿した、奴隷と主人の社会的地位の転倒と馬鹿騒ぎを特徴とする古代ローマの農神祭「サトゥルナリア」にまつわるエッセイで「嘘の持つ役割と可能性」について次のように述べている。
「四月バカ 」は「ALL FOOLS DAY」ともいわれるように、本来的には、すべての者がバカげたふるまいを行なう日であって、個人が恋意的に嘘をついて、それが大目に見てもらえるといった、暖昧な事柄ではなかった。この風習の基盤は、通常の秩序が引っくり返ってしまう古代の農耕儀礼的な躁宴(オルギア)にある。中でも、イタリアの、農耕と律法の神「サトゥルヌス」の祭である「サトゥルナリア」とは深い関係を持っている。この祭では、主人と奴隷の地位が転倒し、クジ引きで、サトゥルヌスに扮するニセの王が選ばれ、この王は、めちゃくちゃな命令か法令を公布した。社会を全的にまき込むバカ騒ぎを行なうには、このような、浴なる世界の拘束力を無化する仕掛けが必要である。 この仕掛けを生み出した衝動は、キリスト教が支配的になった後も生き延び、「愚者祭」として、教会内部にすら浸透していった。サトゥルナリアと同様に、この祭りでも教会内の階級が逆転し、副助祭(教会の下級職員)たちは、キリスト教の聖性を失わしめるふざけた説教やパロディを行った。
(中略)古代の農耕儀礼には、たしかに暗いものが内在しているが、人間が原罪として持っている黒い衝動に対して〈白〉で対応するのではなく〈黒〉で対応する知恵を、そこに見出すことができないだろうか? 日常生活を脅かす〈白に対する黒〉に対しては、〈白黒〉の世界の秩序を特異的に転倒させることによってそれを克服するというやり方は、古代人の間では常識であったし、これは対社会の関係だけにとどまらず、意識を発達させる、内的な、霊性の訓練としても行なわれた。
サトゥルナリアの儀礼は、イスラムのスーフィーたちに、発達的に継承された。霊性の発達に関する共同体の重要性を認識していたスーフィーたちは、月に一度、「嘘つきの日」を設けたのである。この日には、嘘をつくことが許されているのではなく、修業として、一日中嘘をつくことが強制された。「正直であれ」という倫理的な名分は、何が正直であるのかに関する個的な妄想によってすぐさま歪められてしまい、人々はこの個的な妄想のパターンについては無自覚である。だから、よき意図を持っても、肉体が意識が変化しないかぎり、その意図は実現されない。ところが、意識的に嘘をつくことによって、無意識に語っていた嘘が露呈して、自己の隠された心理的なパターンを自覚することができるのである。
スーフィーの「嘘つきの日」にこめられた秘教的な行為を、日常的な生活の中で体験したいのなら、「冗談」を観察するのがいちばんいい方法である。冗談の大半は内的な感情の表現である。人々は、冗談で本当のことを喋っている。 — 『HEAVEN』第12号(所収『ロック・マガジン』47号/1982年9月発行)「THE X-BOY'S EXPRESS NO.25」
『Jam』はその破天荒な編集方針と独自性から『ガロ』『遊』『宝島』といった日本を代表する超カルト的サブカルチャー雑誌と並び、後続のサブカル誌・アングラ誌のルーツとして黎明期のサブカルチャー文化に大きな爪痕を遺した[34]。
このように同誌は廃刊後も、日本のサブカル史やエロ本史において、今日まで語り継がれる伝説的存在となっているが、エロ本という性質上から国立国会図書館などの公共機関での所蔵は皆無に等しく、古書店では幻の雑誌として数万円の高値が付くこともあり、全体を目にすることは極めて困難となっている[45]。
本項では『Jam』の前身誌『X-MAGAZINE』(エルシー企画)と後継誌『HEAVEN』(アリス出版/群雄社出版)についても解説する。
すべての始まりは1974年に高杉弾が『X-MAGAZINE』『Jam』『HEAVEN』のルーツとなるミニコミ誌『便所虫』(冗談社)を日本大学芸術学部文芸学科内で創刊したことである[46]。
『便所虫』は過激な内容(同級生女子の実名をあげてブス順にランク付けする企画など)から教授や体育会系の学生に疎まれ、配布したそばから勝手に回収され焼却処分されるなど数々の妨害工作、弾圧、襲撃に遭いながら後に『BEE-BEE』と誌名を変更して月刊で25号まで続く[5][47][48]。
その後、友人の美沢真之助が『BEE-BEE』25号に隅田川乱一名義でプロレスとオカルトにまつわる原稿「オカルティズムとアフリカン格闘技と昨年度のマット界」を寄稿する[49]。これが決め手となり『BEE-BEE』は月刊誌『本の雑誌』主催の「輝け!第1回全国ウスバカ的無価値的チリガミコーカン的ガリバン誌コピー誌熱血コンテスト」で優勝し[50]、作家デビュー前の椎名誠からも高い評価を得る[48]。
そうした矢先、高杉弾が大学8年間で卒業所要単位を習得できないほどの単位不足と2年分の学費滞納が原因で大学を中退することになり[51]、自然消滅する形で『BEE-BEE』は1977年頃に廃刊した。
1978年秋、日大芸術学部を中退した高杉弾は好きなことだけをしてフラフラ暮らしていた[52]。ある日の深夜、高杉は武蔵小山駅から自宅に向かって歩いている途中、電柱の下に束になって捨てられていたエロ本群から『スノッブ』という一冊の自販機本を発見する[51][52][53]。
高杉はそれに掲載されていた「見開き裁ち落としの接写でパンティストッキングを履いた女性の尻を大胆に写したフェティッシュなヌード写真」と裏表紙の裏面(表3)にあった「もう書店では文化は買えない」[注釈 7] というキャッチコピーに大いなるショックを受ける[53]。居ても立ってもいられなくなった高杉はカメラマンに会って写真の感想を伝えるため、夜が明けるとすぐに編集部に電話してアポイントメントを取り、その日のうちにエルシー企画という出版社を訪れた[5][54][55]。
この時、高杉が顔を合わせたカメラマンの武蔵野大門こそエルシー企画社長の明石賢生その人であった。その場で明石は編集局長の“S”こと佐山哲郎と相談して同社の自販機本『スキャンダル』8頁分の原稿を高杉に自由に任せることを思いつく[56]。これに応じた高杉は友人の美沢真之助(=隅田川乱一。後に『Jam』『HEAVEN』『X-MAGAZINE』編集者)を誘い、誌名を『X-MAGAZINE』と改めた上で「Xランド独立記念版」と題したゲリラ記事を一週間で制作した[56][57]。この原稿は『スキャンダル 悦楽超特急 X-MAGAZINE』5号(1978年12月発行)に掲載され、これが高杉の実質的な商業デビュー作となった。扉のキャッチコピーには「自動販売機で国家が買えることだってある」と記されている。
なお「もう書店では文化は買えない」というキャッチコピーを考案した佐山哲郎(自販機本『スキャンダル』初代編集長)は竹熊健太郎のインタビューで高杉弾が「Xランド」発表に至るまでの状況と同コピーが生まれた背景を次のように回想している。
当時アリス出版にいた亀和田武がね、自分が編集してた『劇画アリス』って雑誌で、表3(裏表紙のひとつ前)に自分の上半身ハダカの写真載っけて“エロ劇画界のジュリー”なんて言ってたりね(笑)、遊んでて面白かったよね。どこまでかっこよく滅茶苦茶やるか、競争があった。そのへんで俺の「もう書店では文化は買えない!」ってのも出たわけだけど、別に思想的にどうこうっていうんじゃないんだよね。とにかく面白いことがやりたかった。このへんから妙な連中が出入りするようになったんだな。プールの監視員をやってた安田邦也とかさ、当時明大を出たばかりで、どこからみても快活な好青年でね。それがエロ本屋になって。あとブルースのミュージシャンやってた宇佐美とかね。いろんなのが来たけど、やはり驚いたのは日芸で『BEE-BEE』ってミニコミを作っていた高杉一派だね。
高杉の編集センスはなかなかのものでさ。でも特に、隅田川乱一の文章力には驚いた。刺激的だったよ。その後『BEE-BEE』は確か『本の雑誌』のミニコンテストで優勝するんだな。そういえばこの間『週刊朝日』で椎名誠が『本の雑誌』の思い出話を書いてたけど、出てきたね隅田川の名前が。椎名と、当時『本の雑誌』で編集してた群ようこがさ、争うようにして読んでたっていうからね、隅田川の投書を。
高杉は確か俺がエルシーで仕事中にやってきたんだ。「お前のファンが来てるぞ」って誰かが呼びに来てさ。「可愛い女の子だ」ってかつがれて行ったら、それが高杉(笑)。どこが可愛い少女だって。それでミニコミ見せてもらって。横で明石が「どうだ、こいつ使えるか?」って聞くから、「使えるもなにも、一冊すぐに作らせる」って言ったんですよ。そしたら明石は「お前はすぐそんなこと言うからダメなんだ」って怒ったの。じゃあってんで、とりあえず俺がやってた雑誌の八ページだけまかせることにしたんだよ。そしたら……連中、いきなり、“乗っ取り宣言”するんだよ。「この雑誌は俺たちが乗っ取った!」って。なんなんだ(笑)…… — 竹熊健太郎「天国桟敷の人々─自動販売機本の黎明期と『JAM』の出現⑵」『Quick Japan』14号 153頁 1997年 太田出版
この「Xランド」が好評だったことから明石は『X-MAGAZINE』6号の編集を高杉に一冊丸ごと自由に任せることにし[58]、高杉と美沢は雑誌のジャックに成功する。後に高杉は「その8頁が当時エロ本の世界では考えられないような、すっごい『変』だったらしいんだよ。『面白いじゃん、なにこれ?』みたいに。半分はあきれているんだよね(笑)」と回想している[57]。
雑誌の編集にあたって美沢は友人の八木眞一郎(後に『Jam』編集者。1978年2月に日本文華社から創刊され、わずか1号で廃刊した幻のパロディ雑誌『冗談王』編集長。同誌は日本出版史上初めて表1から表4の広告まで全頁すべて冗談という異色の内容で、八木の呼びかけで高杉弾、美沢真之助、近藤十四郎も編集・執筆に参加している)を誘い[59]、大麻取締法への批判やアメリカの薬物事情などエロとは一切関係のないドラッグの特集記事を執筆する。
更には笑いガス実験、男性器の紙工作、変態SF小説、下層サラリーマンのオピニオンエッセイ、実在しない架空の本や『電話帳』の書評などを取り上げ、極めつきは「スターダスト 芸能人探訪!! ゴミあさりシリーズ」と銘打ち、かたせ梨乃宅のゴミ漁りを実行。ドラマ台本や腐ったミカン、使用済みタンポンなどを誌上のグラビアで無断公開する暴露企画を行った[1][注釈 8]。
このように『X-MAGAZINE』は現在では到底考えられないほど過激な企画や読物が目白押しであり、表向きはエロ本だが中身はヌードの露出が極端に乏しく無茶苦茶で過激な企画や読み物が満載という『Jam』のスタイルを創刊前から完全に確立する。これに関して『Jam』ブレーンの一人だった八木眞一郎は「『Jam』はエロを冗談によっていかに無効化するかが、今考えれば、唯一のテーマだったのかもしれない」と後に回想している[42]。
ちなみに漫画家の蛭子能収は連載前の打ち合わせで高杉から「一応表紙はエロな感じに見えるんですけど、中身は自分たちが好きに作ってるんですよ。自分たちはこれを“ゲリラ”だと思ってるんです」と熱烈にアピールされたと回想しており[11]、元々高杉自身「もっと突き抜けて、ほとんど無意味の方向へ行くまで過激なことをやってみたらどうか」という徹底的に意味を排除したダダ的な誌面作りを標榜していた節があったという[60]。
雑誌コードの関係で『X-MAGAZINE』は1979年3月から『Jam』として正式に新創刊。B5版/88頁で定価は300円だった。メインスタッフには日本大学芸術学部文芸学科の中退メンバーが集い、新創刊に際してガセネタの山崎春美が同人として参加する。キャッチコピーは「SEXと革命、両方とりたい君のために!」「オナニー&メディテーション!」「SUPER CONCEPTUAL MAGAZNE」。
元々『Jam』は当時「出せば出すだけ売れる」と言われたほど売り上げが好調だった自販機本の税金対策用に作られた雑誌であり、「どうせ儲かっても税金に持って行かれるのなら無意味で面白い雑誌を作った方が良い」というエルシー企画の方針から全くボツが出なかったという[59][61][62]。ちなみに明石賢生社長が出した唯一の制作条件は「カラーページだけはエロにしておけ」だった[61]。
創刊号では「雑誌でパンクをやる。伝統を断ち切る、常識を破壊する、そういう革命を雑誌によって起こす」[63]ために、冒頭の特集から女性器と肛門の拡大ポスターを掲載するなど『X-MAGAZINE』以上にパンクな記事が目立っていたが[64]、特に山口百恵宅から出たゴミ約40点を写真付きで無断公開した爆弾企画「芸能人ゴミあさりシリーズ」が最も有名で、これについて取材に訪れた祥伝社発行の女性誌『微笑』が1979年5月26日号において4頁にわたる批判記事を掲載し『Jam』の存在が一躍世に知れ渡る切っ掛けとなった[1][65]。
しかし『微笑』の日和見的な取材姿勢や記事内容に嫌悪感を示した高杉弾は『Jam』の巻末に以下の文章を寄稿して雑誌づくりに対する独自の持論を展開した。
いま俺はこの号の編集中なのだ。したがって編集後記というものはまだ書けない。俺のようなシロートにとって、本を一冊作るということはナルトを金魚ばちに入れて飼うよりもむずかしいことであり、山口百恵に肛門オナニーを教えるよりはやさしいことなのだ。山口百恵と言えば、こないだ雑誌「微笑」の記者という男が、馬鹿面をして三人も俺のところへ取材にやって来た。例の「山口百恵ゴミあさり」についての記事を書くと言う。他人のフンドシで相撲をとるというのはアノテの雑誌では当り前のことだが、発売になった「微笑」を見てあきれてしまった。
知らない人がいると思うので一応書いておくと、「百恵ゴミあさり」というのは本誌創刊号に載った、百恵の家から出たストッキング、ファンレター、答案用紙、使用済ナプキン、タンポン説明書など約40点を写真で公開した企画のことだ。
これに関する「微笑」での紹介記事は、4ページも使っておきながら、俺の強気の姿勢を適当に強張〔ママ〕し、読者の「どのようにゴミを取って来たのかを知りたい」という欲望を十分に満足させ、山口百恵に同情して見せ、最終的には「やりすぎなのではないか」というレベルを一歩も出ない姑息かつ低級なものだった。
ホリプロやCBSソニーの人間がイカるのは、まあ判る。しかしなぜ相方の事態を面白がれる立場にあるはずの雑誌記者が、あんなくだらない記事しか書けないんだ。「自分の家のゴミをあさられて、いい気持ちのする人間なんているわけない」だと、そんなことは当り前だろ、バカ。「やっていいことと悪いことが……」だと、笑わせるな!こういうものは公開しないことがセオリーだと、礼儀の問題だと、どこまでバカなんだお前ら。Jamを批判したいなら、もっとハッキリ書いたらどうだ。
この記事を書いたのが誰なのかは知らないがよく聞いておけ。エセ・ヒューマニズムや見せかけだけの正論、やっていいことと悪いこと、社会的一般常識、そんなレベルを突破しないで面白い記事が書けるとでも思っているのか。セオリーや礼儀を守っていて今の読者を引っぱれると思っているなら、お前ら脳なしだぜ。
取材に来た三人の男の話しぶりのイヤラシさで「微笑」という超下等物件の実態を直感していたが、結果は予想以上のひどさだった。これは何も「微笑」に限ったことではない。現在、本当に俺たちの頭 をキックしうるような雑誌があるだろうか。少なくとも雑誌づくりに幻想 を持てないような脳なしの年寄連中には早々にご退場願いたいものだ[66]。 — 『Jam』第4号「編集中記──佐内順一郎」
何かやりたい?遊びたい?女の子といいことしたい?休みが欲しい?お金が欲しい?マリファナが欲しい?いい音楽が聴きたい?南の島でのんびりしたい?結婚したい?オマンコが見たい?興奮したい?刺激が欲しい?欲求不満を解消したい?抜け出したい?乗り越えたい?解放されたい?───俺たちは読者のそういう欲望を、何ひとつとして満たしてやることなんてできやしない。それらはみんなあなたの問題だ。Jamにはサービス精神が足りない、ポルノが少なすぎる、わけが判らない、思想がない……そんな声を聞く。知ったことか!ハッキリ言ってJamはポルノ雑誌じゃない。どこやらの雑誌のように、くそ面白くもないサービスを連発するのは読者をバカにしてることじゃないのか。わけが判らないことのどこが悪い!思想がハッキリ出ている雑誌が欲しければよそへ行ってくれ。Jamがスーパー・コンセプチュアル・マガジンであることを了解して欲しい。“Jamのような雑誌”というのが他にあったら見せて欲しい。今このどうしようもなくメチャクチャな時代に、Jamというのはピッタリの雑誌だと俺は思っている。
───俺は今、〈自分〉と〈あそこ〉の中間地点で世界を見ることを始めた。その場所から見た「俺」は、天才で、馬鹿で、軽薄で、頭がよじれていて、変態で、キチガイだ。それぞれの人間がそれぞれの内宇宙を持っている。あなたがどのように世界を見ているのか、それは知らない。───ルー・リード、イナガキ・タルホ、ツツイ・ヤスタカ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マルセル・デュシャン、ハイゼンベルク、ヤマガミ・タツヒコ、ジミ・ヘンドリックス、マツオカ・セイゴオ、フブキ・ジュン、ルドルフ・シュタイナー───オマンコ、金、ドラッグ、機械、星[要曖昧さ回避]、光、重力、エクスタシー、自我、禅、オナニー、マンダラ
佐内順一郎[67] — 『Jam』第2号「元・読者だった編集長の好き勝手なページ」
山口百恵宅のゴミ漁りは1979年1月下旬から2月上旬にかけて複数回に分けて行われ、その中から選りすぐりのゴミを選んで誌面に掲載している[65]。ちなみに採集されたゴミは申し込んできた読者にプレゼントされたのち[1]、翌1980年に開催された『HEAVEN』創刊記念イベント「天国注射の夜」(1980年6月6日/新宿ACB会館)でオークションにかけられた。なお、誌面に掲載されたゴミは以下の通りである[65]。
拝啓 百恵ちゃん、手紙が、あて先の近代映画プレセット・カセットに漢字の文句は、少×な、文字は書いた、失礼に在じます。百恵ちゃんじゃない、大人の成長する万一、“反省深い”一番大切のに破壊身絶滅する命ない。!百恵ちゃん、世界へ夢はなく、飛躍する一×に一人も、不運する。飛行機の中、機体と体の破壊するバラバラげつつきするだろう!死と命の一命。
百恵ちゃんへ、御守り、ご用心にして下さい。 ね。!また、落難事故を防ぐて─!御気をつけて下さいませ、三蒲友和クンも、よろしく執念を×ります。 私も、万全の運命か×一人も、あります。百恵さんも!
さようなら。M・Nより。
中古エリザベス2世女王銀貨パルコ記念マジカル7大冒険ぺンダント付より、岩手テレビ( l )6番チャンネル・贈品祈念御中
(原文のまま、×は解読不能) — 『Jam』創刊号「芸能人ゴミあさりシリーズ」
元々この芸能人ゴミ漁り企画はアメリカ西海岸のアンダーグラウンド・マガジン『WET』[注釈 10] が先行してボブ・ディラン邸のゴミ漁りを行ったのが元になっており、これにヒントを得た美沢真之助(隅田川乱一)が「それを日本でやったらどうなるか」と提案し、編集長の高杉弾が実行に移したという[60](ただし高杉は『WET』誌を特別意識していた訳でもなかった[64])。なお美沢はこの企画を立案した理由について「ゴミから始まった雑誌だから、という当然の発想なんですよ」と晩年のインタビューで語っており、ゴミを通じた大衆文化への社会学的アプローチからインドの乞食における秘密売買に至るまでゴミ漁りの持つ多面的な側面についても指摘していた[68]。
ちなみに山口百恵側からのクレームは一切なかったようで、高杉曰く「黙殺したほうが良いと思ったんでしょう。正しい判断だよ」[64]、美沢曰く「まあ、売れてる雑誌じゃなかったし、変にことを荒立てて、他の雑誌に関連記事が載った方がイメージ的に損だと判断したんでしょう。結構、頭いいと思いますよ。百恵のプロダクションの社長は」[68]、佐山曰く「とにかくあの頃の芸能界はいろんなスキャンダルに揺れてたからね。本屋にも置いてない自販機本には手が回らなかったんだろう。なんでも聞くところによると百恵の事務所の社長が『Jam』を見てさ、論外だ!と叫んだきり、絶句したらしいよ。で、それっきり(笑)。訴えるにも値しないってやつじゃないの」[69]とのことである。
高杉弾の編集技法はコラージュとカットアップ[注釈 11] を多用した極めて特殊なもので[70]、誌面からは高杉の個性が色濃く反映されたサイケデリックなレイアウトが全体的に見受けられる。一方で雑誌の構成面においては高杉以外の功績も大きく、特に高杉は雑誌の思想的バックボーンとして美沢真之助(隅田川乱一)の才能を高く評価していた[71]。後に高杉は「真之助がいなかったら『HEAVEN』はともかく『Jam』は出来なかったと思いますね」とも語っている[71]。また臨済禅、グルジェフ、シュタイナーなどの神秘主義やカルトムービー、現代美術などの記事はオカルト雑誌『迷宮』の編集にも携わっていた八木眞一郎が関与している可能性が高い[47]。一方で山崎春美はパンクや音楽関連の記事を中心に担当し、本誌にも執筆していた元ガセネタの大里俊晴や吉祥寺マイナー店主の佐藤隆史は山崎経由での参加とみられている[47]。
ちなみに本誌では海外雑誌の記事を無断で翻訳して勝手に転載するなど完全に著作権を無視した編集方針を取っており、違法な企画や図版の無断転載などを平然と誌面で展開していた。これについて高杉はインタビューで「あんなもの著作権もクソもなくて、どこの雑誌に載ってようと勝手にこっちに載せたって良いと思ってた。実際問題、それにクレームつけるやつなんか一人もいないんだから。自動販売機のエロ本に文句を言ってどうするの?」[71]と当時を振り返っている[注釈 12]。
1980年4月にはエルシー企画が自販機本最大手のアリス出版と合併[72]。同時にジャム出版も新編集部「HEAVEN EXPRESS」の発足に伴い発展的解消を遂げ、新雑誌『HEAVEN』創刊の運びとなる。
HEAVEN | |
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ジャンル | ニュー・ウェイヴ |
刊行頻度 | 月刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
定価 | 300円→400円→480円 |
出版社 | アリス出版→群雄社出版 |
編集部名 |
HEAVEN EXPRESS 東京都豊島区東池袋1-22-5サンケエビル2F→東京都新宿区西早稲田2-17-19-108 |
発行人 | 高杉弾→明石賢生 |
編集長 | 高杉弾→近藤十四郎→山崎春美 |
編集スタッフ |
編集部員 芝敦子/金田トメ 山本土壺/田中一策 編集協力 美沢真之助/小野田重俊 藤田昌子 デザイン&レイアウト 羽良多平吉/祖父江慎 伊藤桂司/橋本真人 小野田重俊 翻訳 水本咲子/細野由美子 隅田川乱一 写真 鋤田正義/坂口卓也 伊達利晴/石井宏明 佐内順一郎 副編集長 野々村文宏 編集長代理 香山リカ |
刊行期間 | 1980年4月23日 - 1981年3月1日 |
発行部数 | 3万部(近藤十四郎調べ) |
ウェブサイト | 幻の自販機本『HEAVEN』にUGルーツを追え! |
特記事項 | 休刊後は雑誌内雑誌として1983年10月まで各誌で継続 |
『Jam』は月刊で全10号と別冊1号(特別ゲリラ号)を刊行したのち1980年1月をもって終刊[注釈 13]。同年4月から『HEAVEN』(ヘヴン)と誌名を改め新創刊する。キャッチコピーは「空中楼閣的天眼通」「アンダーグラウンド・インテリ・マガジン」「ハイ・ディメンション・幻覚マガジン」。ちなみに創刊号には吉祥寺マイナーのオムニバスカセットテープが付録で付いており、灰野敬二の不失者の演奏のほか、歌手の小柳ルミ子と作曲家の宮川泰とのSEXテープ(と噂された音源)が収録されている[73][74]。
『HEAVEN』では『Jam』にあったエロ要素や煽情的なヌードグラビアが完全に排され、サイズはAB版のグラフ誌となる[75]。装丁デザインについてはグラフィックデザイナーの羽良多平吉が担当し『Jam』以上にビジュアルに特化したニュー・ウェーブマガジンへとその姿を変えた[注釈 14]。3号からは一般書店でも販売を開始[76]。5号より版元がアリス出版から群雄社出版に移り自動販売機での販売から完全撤退する。
版元移籍の経緯について近藤十四郎の証言では、当時アリス出版は自販機本出版取次大手業者の東京雑誌販売(東雑)の傘下にあり、エロ本ではない『HEAVEN』はわずか3号で配本の取り扱いを拒否されてしまったという[77]。しかし、アリス出版副社長に就任した明石賢生は元々自販機だけでなく書店取次での出版も目論んでいたようで『HEAVEN』が東雑体制を離脱して存続の危機に陥ってからも高田馬場に編集部兼発行所の「HEAVEN EXPRESS」を自費による全額出資で新設し、編集者が自ら書店を回って営業と配本も行う書店直販の体制を取って雑誌を存続させた[77]。ちなみに近藤によれば書店での販売は極めて好調で、紀伊國屋書店では毎号100冊も同誌を入荷してくれたという[77]。
だが、こうした明石の動きに不信感を抱いた東雑の幹部が「明石、お前内部でクーデターでも企てているんじゃないのか」と詰め寄ったことから明石はアリス出版を依願退職し東雑の傘下から同年8月に独立する[77]。これに同調する形でアリス出版内の旧エルシー派および明石派編集陣が一斉に集団退社し、明石を筆頭としたアリス退社組によって新出版社「群雄社出版」が高田馬場で旗揚げされる[77]。
ほどなく『HEAVEN』は世界的なニュー・ウェイヴの波に乗り、最盛期には3万部を発行[78]。海外の二大ニュー・ウェイヴマガジンである『FACADE』(伊)と『THE FACE』(英)からは編集部宛に毎月献本が行われ、『HEAVEN』もその2誌に毎号献本を行っていた[79]。また青林堂、白夜書房、JICC出版局、本の雑誌社、工作舎の雑誌とは相互の誌面に広告を出し合っており[80]、同誌との関係も深かった。
1980年の6月からは『HEAVEN』主催という形で「天国注射の夜」というコンサートが新宿ACB会館で行われる[81]。なお当時の「事件」として、このイベントに乱入してきた江戸アケミがステージ上で自分の額をナイフで切りつけるパフォーマンスを行い、救急車で運ばれるという出来事があった[82]。
また、ラジオ関東からは週1回での番組出演依頼が編集部に届き、同年10月より高杉弾と近藤十四郎の2人がDJを担当した全国ネットのラジオ番組『ウルトラヘヴン放送局』の放送が開始となる[46]。
さらに巷(中央線沿線)では『HEAVEN』の新刊を求める読者が自動販売機の前で発売日に行列を作るという現象も発生するなど[1][42][83]、徐々に『HEAVEN』はその人気と知名度を獲得しつつあった[81]。
順風満帆に見えた『HEAVEN』だったが内部で軋轢が生じ[84]、初代編集長の高杉弾が7号を最後に降板する。ただし、高杉本人の弁によれば降板の理由は編集方針の違いではなく、ギャラの配分を巡っての見解の相違と、単純に高杉自身が雑誌の編集に「飽きたから」であったという(後に高杉は「雑誌なんて10冊ぐらい出せば、やりたいこと全部できるじゃん。あとはもうマンネリになるし」ともコメントしている)[85]。
編集長交代の真相について山崎春美の語るところによれば、『HEAVEN』から参加した山本土壺と田中一策[注釈 15] が高杉の編集姿勢に不満を持ち出し、その突き上げを食らう形で山崎と近藤が編集長降板を高杉に直訴する矢面に立たされてしまったという[86]。これについて山崎は「結局、僕とオム(近藤オム=近藤十四郎)が首謀者ってことになっちゃったんですよ。後の二人(山本・田中)は何もしていないのに。それで高杉さんに(編集長を降りてくれないかと)言ったら『ああ、そう』みたいな感じで」と当時の編集長交代劇を振り返っている[86]。
高杉の脱退直後には外部で本誌のデザインを手掛けていた羽良多平吉の元に編集部から「ヘンシュウチョウ・コウタイ・スグ・カエ」という電報が届き、これは8号のコピーにそのまま使われることになる[87]。
その後、2代目編集長に近藤十四郎が就任するが、近藤曰く「2代目編集長といいながら、結局は編集雑務だったから。要するに高杉氏が抜けたあと、実質的には春美が編集長なんだよね。ただ、俺の方が“上の方”に通りがよかったから編集長になっただけで。まあホラ、春美はああいう人だから(笑)」と述べており、名目上の編集長に過ぎなかったとしている[88]。
一方、高杉弾は編集長を引退した当時の心境について「そのあと近藤君と春美が何したか、おれは知ったこっちゃないね。未練も何もない。『どうもありがとうございましたー、サワディ・カップ(引用者注:タイ語で「さようなら」の意)』のひと言。それで帰っちゃうよ」とあっけらかんと語っている[89]。しかしながら近藤は「僕と春美が丸々2冊編集をやった号も含めて『Jam』も『HEAVEN』も高杉弾の個人誌だと思います。高杉弾がいなければ『Jam』『HEAVEN』は雑誌というかたちで世の中に存在することはなかったと思いますね」と語っており、高杉の仕事を非常に高く評価する姿勢を見せていた[78]。ただし、近藤はこの評価について「彼を(『HEAVEN』編集長の座から)追い出した側に立ってる自分としては、ちょっと忸怩たるものがあるので、それを含めての評価かもしれないけど…」と言葉を濁している[78]。
また高杉と対立し、途中で編集部を降りた金田トメも後年の回想で高杉弾を高く評価しており、「『Jam』にも『HEAVEN』にも、今の言葉で語れば、テクノ調のクールなイメージが雑誌全体に流れているが、これはすべて高杉弾のセンスだ。ぼくたち編集者やまわりからの影響ではない。高杉さんのオリジナルである」[81]「良くも悪くも、『Jam』と『HEAVEN』は、山口百恵という当時の歌謡曲の大スターを相手にスキャンダラスな行動力を売り物に創りあげてきた高杉弾の雑誌だったのだと思う。いまから思えばバンドのようなもので、売れてきたらモメて解散というようなパターンと同じとも思える」[79]と述懐している。
高杉弾の脱退によって編集長が近藤十四郎に代わり、近藤はコンテンツ面を考えて山崎春美の企画に大きく負うようになる。だが、それも続かず『HEAVEN』は雑誌としても終わっていく[79]。もとより月刊ペースでの定期刊行が難しくなってきたことに加え[84]、1981年2月に群雄社出版の明石賢生社長が猥褻図画販売の疑いで家宅捜索を受け逮捕されたことが決定打となり[90][91]、同年3月刊行の9号目で『HEAVEN』は何のお知らせもないまま休刊に追い込まれた。編集途中のまま未刊行に終わった幻の『HEAVEN』10号は「肥満」と「ナチス」のカップリング特集で[92]、同号では既に病床にいた寺山修司が山崎春美の才能に目を付けてインタビューにも応じていたという[93][94]。お蔵入りとなった幻の10号は後に『ロック・マガジン』内の山崎春美編集の雑誌内雑誌『HEAVEN』や[95]、元『HEAVEN』の山本土壺編集の自動販売機本『フォトジェニカ』(海鳴書房)8号に一部が再録された[96]。
群雄社家宅捜索事件の顛末について近藤十四郎は「会社行ったら、午前中にガサ入れがあって、フジテレビのカメラも来てたっていう。もう明らかなスケープ・ゴート。“最近のビニ本は目にあまる”ってことで見せしめにされたんだね。でもね、ガサ入れでも『ヘヴン』の部屋は警察も素通りなんだよ。ケッ、どうせチンポも立たん本やって感じで(笑)」と後年回想している[90]。
後に明石は「猥褻がなぜ悪い」として裁判闘争を始めたが、当時の東京地裁は一連のビニ本摘発で猥褻裁判のラッシュにあり、裁判では謝っても逆らっても一律で懲役二年、執行猶予三年の量刑が下されていたことから、むやみに裁判を長引かせて量刑がそれ以上重くなったら意味がないとして明石は途中で闘争を退け、自らの非を認める形となった[91]。
しかし、明石は最後の抵抗として裁判の質疑応答の場で「美は乱調にあり、諧調は偽りである」というアナキストの大杉栄の言葉を借りた意見陳述を行い、裁判官を面食らわせたという逸話がある[91]。この意見陳述用の原稿は元エルシー企画・群雄社出版編集局長の佐山哲郎(スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』漫画原作者)が代筆したもので、後に佐山は「明石がさ、あの通る声で朗々と読むじゃない。俺も傍聴席で聞いてて自分の原稿に涙が出ちゃったもんな。どうせ結果は決まってるんだから、なら裁判で遊んじゃえ、っていうか。当時の明石には、そんなところもあったね」と回想している[91]。
『HEAVEN』突然の廃刊から約1年後、東京の群雄社から離脱した『HEAVEN』は京都のサブカルチャー情報誌『PELICAN CLUB』1982年8月号に4頁の雑誌内雑誌として突如復活し[注釈 16]、のちに8頁に増量されて1983年4月まで続く。また、ほぼ同時期に大阪の『ロック・マガジン』45号(1982年7月発行)でも16頁の雑誌内雑誌がスタートする。この雑誌内雑誌は1982年9月発行の47号で打ち切りとなるが、その後『FOOL'S MATE』に移籍して25号(1983年2月発行)から8頁の雑誌内雑誌として本格的に再スタートする。
3代目編集長にはガセネタ/TACOの山崎春美が就任し、当時「新人類」というくくりで注目されていた野々村文宏(のちに和光大学表現学部表現文化学科准教授)を副編集長とした。また山崎は工作舎を通して面識があった精神科医の香山リカ(のちに立教大学現代心理学部映像身体学科教授)を『HEAVEN』でライターデビューさせ、他にも篠崎順子、美沢真之助、祖父江慎、蛭子能収、町田町蔵、鯖沢銀次、成田宗弘、竹田賢一、白石民夫、後飯塚僚らが執筆に参加した。
1982年9月1日、東京都中野区弥生町のplan-Bで山崎春美が「自殺未遂ギグ」と称して手首などを出刃包丁で切り、救急車で運ばれるショーを行う[99]。この会場でのドクターストップ役は精神科医の香山リカが務めた[97][100]。伴奏者はTACOの篠田昌已、細川周平、菅波ゆり子[注釈 17] の3人で、血まみれになって痙攣する山崎に全く動じることなく、葬送曲のような重苦しいメロディを最後まで淡々と演奏しきったという[101]。またショーではTACOのボーカリストで山崎とは公私ともにパートナー的存在であったロリータ順子(篠崎順子)[注釈 18] が「ハッピーバースデートゥーユー」[注釈 19] を歌いながらパイプ椅子やヒール靴で無抵抗の山崎に殴りかかる一幕もあり[102]、ライブはさながら地獄絵図の様相を呈した。ちなみにギグで山崎が着用していた血染めのTシャツは『宝島』の応募企画で限定1名にプレゼントされている[103]。
なお1990年代になってギグの模様を収めた約1時間にも及ぶビデオテープが奇跡的に現存していることが判明し[104]、1997年頃に映画監督の福居ショウジンが主宰するイベント「東京サロン化計画」の一環で何度か上映されたことがある[105]。ソフト化は2018年現在一切実現していないが、マスターテープ[注釈 20] からダビングされたコピーがコレクターの間で密かに流通していたようで、個人所蔵のVHSテープが複数本現存しているのが確認されている[106]。
地下音楽界に自殺未遂ギグが与えた影響として、新宿ロフト創立者の平野悠は「ハードコア・パンクで一番恐怖を感じさせ、最も破壊的だったのは、非常階段でもスターリンでもじゃがたらでもなく、タコの山崎春美と香山リカによる『自殺未遂ギグ』だろう」[107] と評しているほか、筋肉少女帯の大槻ケンヂは「山崎春美のタコってバンドが、自殺(未遂)ギグというのをやったりとかね。ステージで手首を切っちゃうんだよ! すごいの。YAMAHAの中高生バンド合戦に筋肉少女帯が出たときに、そういうのに影響されたバンドと対バンになったのね。そうしたら、そのバンドのヴォーカルが、手首をステージで切っちゃってね。血だらけになっちゃって。でもね、TPOってもんがあるだろうっていう。『中高生バンド合戦』のステージで、手首切ってもしょうがないでしょって。そのあとみんなで反省会とか開いてた(笑)」と回想している[108]。
ちなみに最前列の観客には当時のいとうせいこうが居た。
自殺未遂ギグの詳細および当事者の証言については『Quick Japan』11号「特集/山崎春美という伝説─“自殺未遂ギグ”の本音」(太田出版, 1996年)や実際の現場に立ち会った香山リカの回想録『ポケットは80年代がいっぱい』(バジリコ, 2008年)、あるいは吉祥寺マイナー周辺を取り上げた『地下音楽への招待』(ロフトブックス, 2016年)第13章の山崎春美ロングインタビュー「わたしはこの本を認めない」などに詳しい。
1983年夏、日比谷野外音楽堂で『HEAVEN』主催のロックフェスティバル「天国注射の昼」が開催される。このイベントでは当時のオルタナティヴ・ミュージックシーンを風靡した伝説的なロックバンド(TACO、じゃがたら、ヒカシュー、TOMATOS、GAUZE、THE FOOLS、コクシネル、ガガーリン、突然段ボール)やミュージシャンたち(山崎春美、江戸アケミ、町田町蔵、工藤冬里、ロリータ順子、田口トモロヲ、野方攝、あがた森魚、友部正人、篠田昌已、千野秀一、巻上公一ら)が一堂に会した、日本のロック史に残る伝説の音楽イベントとなった。
なお過去には8月21日と9月17日の公演を収録したビデオ『回転禁止の青春シリーズ 天国注射の昼 ライブ・イン・日比谷野音 1983.8.21/9.17』が東映ビデオから発売されていたが、現在は廃盤となっている。
その後、山崎春美は常用していた覚醒剤やLSDなどの違法薬物を体から抜くため精神病院の閉鎖病棟に自主入院し[109]、ほどなくして「家業を継ぐ」として大阪に帰郷した[110]。同時に『HEAVEN』の編集長も勝手に降板し[111]、山崎主宰の不定形即興音楽集団「TACO」も事実上の解散状態となった。
山崎の失踪後、副編集長の野々村文宏、デザイナーの祖父江慎、アシスタントの藤田昌子、医大生の香山リカの4人が編集長不在のなか『HEAVEN』の編集作業にあたることになるが[112]、編集部にしていた渋谷の山崎宅が使えなくなり、やむなく三軒茶屋にあった香山リカの自宅が『HEAVEN』の臨時編集室になる[113]。この頃になると編集者のバイト代はもとより原稿料すらろくに作家に支払えなくなっており[114]、1983年10月発行の『HEAVEN』19号を最後に同誌は自然消滅に近い形で廃刊する。終刊号の頁数はわずか2頁で、X-BOYと山崎春美の対話「KITARUBEKI SONOHINOTAMENI HEAVEN EXPRESS」をもって『HEAVEN』は完結した(この記事は隅田川乱一著『穴が開いちゃったりして』に収録されている)。
2017年6月、赤田祐一と青野利光が雑誌『Spectator』(エディトリアル・デパートメント/幻冬舎)39号で「パンクマガジン『Jam』の神話」と題した200頁にも及ぶ特集を組む。同誌では初代編集長の高杉弾、近藤十四郎、八木眞一郎、羽良多平吉、村田惠子(美沢真之助の妻)ら当時の関係者を取材したインタビュー記事が掲載されたほか、神崎夢現、金田トメ、赤田祐一、ばるぼら、小田光雄、山崎春美らが原稿を寄稿。また廃刊から30数余年の歳月を経て『Jam』と『HEAVEN』のアンソロジー本が山崎春美と近藤十四郎の共同編集でアートディレクションに羽良多平吉を招き、ディスクユニオンより2巻に分けて近日刊行予定であることが同誌で告知されていたが、いまだ刊行されていない。
赤田祐一によるインタビューで初代編集長の高杉弾は「『Jam』と『HEAVEN』が自分にとって何かって考えたら、あんまり興味ないね。どっちも一冊も持ってないし、いらないものだよ。だけど真之助(隅田川乱一)の本と『臨済録』は大事なものだよね。ちゃんと持ってるから。仕事机のいつでも開ける場所に」と語った[115]。
一部の内容は高杉弾著『メディアになりたい』(JICC出版局)、隅田川乱一著『穴が開いちゃったりして』(石風社)、山崎春美著『天國のをりものが』(河出書房新社)に収録されたほか、雑誌『スペクテイター』39号「パンクマガジン『Jam』の神話」に再録された。
『X-MAGAZINE』は大学中退後ぶらぶらしていた高杉弾がゴミ捨て場にまとめて捨ててあった自販機本を拾い、そこに掲載されていた一枚のパンスト写真に妙なフェティッシュさを感じて、撮影者であるエルシー企画社長の明石賢生に会いに行ったことから始まった。その場で高杉は同社発行の自販機本『スキャンダル』8ページの穴埋め記事を編集局長の佐山哲郎に任され、わずか一週間で旧友の隅田川乱一と雑誌内雑誌「Xランド独立記念版」を共作、次号一冊をまるごと担当した。その後『X-MAGAZINE』は『Jam』に改題し、山口百恵宅のゴミ漁り記事で一躍注目を集めることになる。
自販機本『スキャンダル』の1コーナーだった「X-LAND」がついに本誌の“乗っ取り”に成功。“キンキーでオカルトでラリパッパ”な雑誌としてリニューアルされた。『X-MAGAZINE』はこれ一冊で使命を終え『Jam』へと生まれ変わる[154]。
「山口百恵宅のゴミ漁り」で伝説化した自動販売機発のパンク・マガジン創刊号。この号では「東京パンク・シーン」「関西パンクをもっと!」と題してガセネタ、不失者、AUNT SALLY、ULTRA BIDE、INUなどの先鋭的なパンク・バンドも紹介されている。
諸事情というより単にネタ切れのためか「芸能人ゴミあさりシリーズ」は終了。この頃の『Jam』はまだ活字の密度が濃い。ちなみに表紙にある「なんと女の立小便!!」はどこを探しても見当たらない[155]。
この号を境に『Jam』独自の即興的なコラージュ感覚がより顕著になる[155]。なお編集後記は本誌と全く関係がないセルフ出版(現・白夜書房)の末井昭(当時『ウイークエンド・スーパー』編集長)が書いている。
漫画家をやめて田舎に帰ろうとしていた蛭子能収の復活記念号。蛭子にギャラの発生する仕事を最初に発注したのは『Jam』である。
鯖沢銀次主筆の「早大文化新聞」連載開始。いわゆる学生運動のセクト新聞やアジビラのパロディというスタイルでバカバカしいまでに凝った作りが秀逸と評された[156]。この連載に感心した青山正明は『突然変異』『Hey!Buddy』に「六年四組学級新聞」「Flesh Paper/肉新聞」を連載する[157][158][159]。
本号から羽良多平吉がビジュアル・ディレクターとして参加。『HEAVEN』のキャッチコピーでもある「空中楼閣的天眼通」の文字がすでに表紙に登場しており、両雑誌の橋渡し的存在といえる号[156]。
本号から自動販売機だけでなく一部の書店でも入手が可能になった[76]。
「触ると手に銀粉がつく」と書店からの苦情が相次いだ銀色表紙。巻頭ではイラストレーターのロマン・スロコンブを取り上げている(スロコンブによれば「日本で最初に僕の作品を取り上げてくれたのが『HEAVEN』だった」とのこと)。なおセーラー服で松葉杖ついた少女のイラストはビニ本モデルの寺山久美と推測される[162]。
この号をもって初代編集長の高杉弾が降板。二代目編集長に近藤十四郎が就任する。
「いよいよ16ページ増!」と表紙にあるのも空しく休刊号となる。しかしながら内容の飛ばしっぷりは『HEAVEN』の中でも随一と評された[162]。
近藤十四郎に次いで三代目編集長に山崎春美が就任。
高杉弾、山崎春美、美沢真之助、八木眞一郎、佐内順一郎の編集グループは『HEAVEN』(アリス出版→群雄社出版, 1980年 - 1981年)以外にもパロディ雑誌『冗談王』(日本文華社, 1978年2月)、『遊』別冊『組本は組「冗談:冗弾」』(工作舎, 1979年12月)、ムック『別冊宝島20 センス・パワー!』(JICC出版局, 1980年10月)の編集を手掛けている[163]。
別冊宝島20『センス・パワー!』(JICC出版局, 1980年10月)は、5つの編集グループが完全版下まで制作して、それぞれ5種類の雑誌を作り、それを1冊にまとめた構成になっている。このうち『HEAVEN』編集部は「ポップ[要曖昧さ回避]・アヴァンギャルド」の分類のもと、全261頁中50頁にわたって『HEAVEN』の誌面をほぼ完全再現した[166]。
奥付の著者紹介では「『HEAVEN』の前身、月刊『Jam』は、知る人ぞ知る自販機雑誌の傑作。パンク・ニューウェーブのねじくれた感覚を雑誌編集に持ち込んで偏執狂的なエディター・シップぶりを発揮している。熱狂的なファンが少なくない」と紹介されている[167]。
『Jam』が創刊された1979年は世界初のノイズバンド・非常階段が結成された「ノイズ元年」にあたり[168]、山崎春美はガセネタを同年解散させ、翌1980年に不定形バンドのタコ(初期は「イヤミ」「しびれくらげ」と名乗った)を結成することになる。
高杉弾 | 山崎春美 | 隅田川乱一 | 八木眞一郎 |
佐内順一郎 | 美沢真之助 | 野々村文宏 | ロリータ順子 |
近藤十四郎 | 味之本真一 | 山本土壺 | 田中一策 |
X-BOY | 末井昭 | 岡克己 | 金田トメ |
明石賢生 | 佐山哲郎 | 安田クニヤ | 大賀匠津 |
蛭子能収 | 渡辺和博 | 奥平衣良 | 宮西計三 |
大里俊晴 | 白石民夫 | 佐藤隆史 | 鳥井ガク |
細川周平 | 武邑光裕 | 成田宗弘 | 戸田ツトム |
伊藤桂司 | 鈴木伊豫 | 坂口卓也 | 松本助六 |
稲垣足穂 | 稲木紫織 | 中村直也 | 鈴木いづみ |
上杉清文 | 竹田賢一 | 丸山浩伸 | 武蔵野大門 |
杉浦茂 | 鈴木翁二 | 坂本哲也 | 坂本ナポリ |
科伏 | 臨済と普化 | 小嶋さちほ[172] | ニシャコフスキー |
山本勝之 | 寺山久美 | 鯖沢銀次 | 塩見正一 |
香山リカ | 篠崎順子 | 栗沢いずみ | キザ山みるく |
天皇陛下 | 羽良多平吉 | 後飯塚僚 | 角谷美知夫 |
※同一人物が複数のペンネームを用いている可能性あり。
氏名 | 雑誌 | 在任期間 | |
---|---|---|---|
0代目 | 佐山哲郎[注釈 25] | 『X-MAGAZINE』1号 - 5号 | 1978年5月? - 12月 |
初代 | 佐内順一郎(現・高杉弾) | 『X-MAGAZINE』6号~『Jam』~『HEAVEN』7号 | 1979年1月 - 1981年1月 |
2代目 | 近藤十四郎 | 『HEAVEN』7号 - 9号 | 1981年2月 - 3月 |
3代目 | 山崎春美→不在 | 『HEAVEN』10号 - 19号 | 1982年7月 - 1983年10月 |
副編集長 | 野々村文宏 | 『HEAVEN』10号 - 19号 | 1982年7月 - 1983年10月 |
編集長代理 | 香山リカ | 『HEAVEN』末期 | 1983年 |
ブレーン | 隅田川乱一 | 『X-MAGAZINE』6号~『Jam』~『HEAVEN』19号 | 1979年1月 - 1983年10月 |
※『HEAVEN』編集長交代号にクレジットされている関係者一覧などを列記する(どこまでが雑誌の正式メンバーなのかは不明)。
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