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日本の編集者、文筆家、実業家、AV監督 ウィキペディアから
高杉 弾(たかすぎ だん、1954年4月23日[1] - )は、日本の編集者、文筆家、実業家、AV監督。伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長。日本大学芸術学部文芸学科中退。本名は佐内 順一郎(さない じゅんいちろう)。
高杉 弾 (たかすぎ だん) | |
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誕生 |
佐内 順一郎 (さない じゅんいちろう) 1954年4月23日(70歳) 日本・東京都品川区 |
職業 |
メディアマン(自称) 作文家(自称) 編集者 ライター AV監督 実業家 評論家 予想屋 エロ本モデル ステレオ写真家 ビデオ販売業者 旅行家(自称) 企画家(自称) 観光家(自称) 臨済禅研究家(自称) 蓮の花愛好家(自称) ラリ公(自称) 廃人(自称) 恐怖の空腹魔(自称) お笑い脳天狂(自称) 天才詐欺師(自称) 天災カルト仙人(自称) |
最終学歴 | 日本大学芸術学部文芸学科中退 |
文学活動 | ドラッグ、ギャンブル、バットテイスト、モンドカルチャー |
代表作 |
『Jam』『HEAVEN』 『メディアになりたい』 |
主な受賞歴 | 輝け!第1回全国ウスバカ的無価値的チリガミコーカン的ガリバン誌コピー誌熱血コンテスト優勝 |
デビュー作 |
同人:便所虫/BEE-BEE 商業:Xランド独立記念版 |
活動期間 | 1974年 - |
所属 | ジャム出版→HEAVEN EXPRESS→フリー |
公式サイト | 超逸脱的オンラインマガジン《JWEbB》 |
「作文家」を自称する文筆家で、1970年代後半から1990年代以降のアンダーグラウンド/サブカルチャー・シーンに与えた影響は大きい[2]。現在は定職を持たず「メディアマン」というコンセプトのもとに国際的な隠居生活を送りながら、編集者、企画家、観光家、ステレオ写真家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家として多方面で活躍(していない)[3]。
1954年4月23日、東京都品川区生まれ。その後、神奈川県に転居し1958年から1963年まで川崎市等々力の水郷地帯で蓮の実を食べて育つ[4]。またこの頃から万引きの常習犯となる[4]。父親は名の通った会社の社長で比較的裕福な家庭に育つが[5]、周囲の環境には常に不満があったようで「自分を拘束しているのは親と学校だけで、その二つから逃れることができれば、自分は自由になれる、なんて甘い考えを持っていた」と後年高杉は回想している[6]。
1969年10月21日、1594人もの逮捕者を出した国際反戦デー闘争に野次馬として参加[4]。その後も中核派の親戚から誘われたデモに野次馬として頻繁に参加する[7]。
中学3年以降はジャズと黒人音楽に加えてガンジャ(大麻を意味するジャマイカ語で語源はヒンディー語の「神の草」に由来)にハマり、この頃から植草甚一、筒井康隆、稲垣足穂、日高敏隆、平野威馬雄、フリオ・コルタサル、禅問答の本を読むようになる[6]。
1973年、日本大学芸術学部文芸学科に入学するも授業には出席せず、日芸文芸棟4階のロッカールームにあったロッカーを勝手に動かし囲いを作り、カーペットも敷いてサロン風のアジトに改造。ついでにレコードプレイヤーも持ち込んで、酒やマリファナをたしなむなどし、一日中ゴロゴロしていたという[7]。いつしかアジトは学校に居場所がない学生や女の子たちの溜まり場になり、のちに隅田川乱一[5]、近藤十四郎[9]、八木眞一郎、山崎春美、坂本ナポリ(本名)らが出入りするなど『Jam』編集部の原型となった[7]。なお当時の日芸文芸棟は人形劇サークルから武邑光裕の神秘学研究会まで入り乱れて混沌としており[5][9]、学園紛争後の余波で学内全体が精神的に荒廃していた背景もあってか[10]、ロッカールームからの立ち退きを命じられたことは特になかったとされる。
1974年、ミニコミ誌『便所虫』を佐内順一郎名義で創刊。過激な内容から教授や体育会系の学生に疎まれ、配布したそばから勝手に回収され焼却処分されるなど数々の妨害工作に遭いながら後に『BEE-BEE』と改題して月刊で25号まで続く[7][8]。ちなみに『便所虫』では同級生の女子を実名でブス順にランク付けする企画などが掲載され、末期には隅田川乱一(美沢真之助)や山崎春美(ガセネタ/TACO)も原稿を寄稿した[11]。
この頃、武邑光裕(のちにメディア美学者)、加藤芳一(のちに放送作家)、林真理子(のちに作家)、近藤十四郎(のちに『HEAVEN』2代目編集長)らと日芸で出会う[4]。同年、娯楽的頽廃グループ〈廃人同盟〉を結成[4]。
1975年、創刊時の『宝島』で責任編集を務めた日本サブカルチャーの父とも呼ぶべき人物・植草甚一によって高杉の「弾」というペンネームを「鉄砲玉みたいな人だから」という印象から命名される[7]。以来、植草を心の師とする[12]。
この頃、盟友の隅田川乱一、八木眞一郎、舞踊家の田中泯らと出会い、乱一の勧めで読んだ臨済の禅語録『臨済録』に感銘を受け、本がボロボロになるまで読みふける[11]。高杉曰くある時期から『臨済録』の現代語訳を始めたというが[8]、いまだ刊行されていない。
また漫画家に憧れて同年に娯楽的出版グループ〈冗談社〉を設立し、漫画同人誌『neu』を創刊するなど同人活動を本格化させる[4]。ちなみに漫画家ではつげ義春、永島慎二、鈴木翁二、川崎ゆきお、谷岡ヤスジ、山上たつひこらに傾倒し、後に山崎春美の推薦で当時は全く無名だった蛭子能収にも関心を寄せる[13]。また漫画雑誌では『ガロ』や『COM』を愛読していた[8]。
1977年、のちの『HEAVEN』3代目編集長で前衛的なロックバンド「ガセネタ」「TACO」のロックミュージシャン山崎春美と出会う[4]。同年、乱一が原稿を寄稿した『BEE-BEE』25号が月刊誌『本の雑誌』主催の「輝け!第1回全国ウスバカ的無価値的チリガミコーカン的ガリバン誌コピー誌熱血コンテスト」(1979年春号/通巻12号所載)で優勝し[5]、のちに作家となる椎名誠に出会う[4]。この頃から小鳥の餌(麻の実)から大麻の種を取り出して近所の畑に撒き、大麻の栽培に精を出す(現在は発芽しないよう加熱処理されている)[11]。
同年、大学8年間で卒業所要単位を習得できないほどの単位不足と2年分の学費滞納が原因で大学5年時に日本大学芸術学部文芸学科を中退[11]。同時に『BEE-BEE』も廃刊した。その後、八木眞一郎の依頼で幻のパロディ雑誌『冗談王』(日本文華社/1978年2月)の編集を手伝うが、創刊と同時に廃刊して失業する[4][8]。この頃、原宿でTシャツを売って日銭を稼ぎ、渡米してコカインとLSDにハマる[4][8]。
1978年秋、武蔵小山駅から深夜自宅に向かって歩いて帰る途中、電信柱の下に束になって捨ててあった自動販売機のエロ本を偶然拾い、何冊目かに掲載されていた接写ヌード写真に人生最大の衝撃を受ける[11]。後に高杉は著書『メディアになりたい』(JICC出版局)の中でその時の感動を次のように回想している。
僕が大学を途中でやめて、毎日脳天気に遊び呆けていた時のことだ。ある日、夜中に街を歩いていると、電信柱の下に大量のエロ本が捨ててあった。ゴミ捨て場から変な物を拾って来て、部屋に飾ったりするのは、僕の当り前の日常だったが、本を拾ってくることはめったになかった。ところがその時のエロ本は、本屋では見たこともないような、信じられない色使いとデザインで、狂ったような念波を出して僕を誘惑するのだった。そしてその晩、僕は徹夜をすることになってしまった。殆どのページが写真で埋められているそれら悪魔の化身のようなエロ本群はどうやら町角の自動販売機で売られている種類の物らしかった。一点一点の写真を検討してみると、それらは全てカメラマンの意志というものの感じられない、しかしそれでいてどこかクリアーに突き抜けた所のある、だがしかし脳みそをミミズに食い荒されたような、けれども天使の光に似て、なおかつ救い難く逸脱している写真ばかりであることに気がついた。そして何冊目かの本の中に、パンティ・ストッキングを直接はいた女の下半身大アップの写真を発見して目を釘づけにされたのだった。美しい光沢に色どられたその奇妙なフェティシズムあふれる一枚の写真は、さながらゴミための中にうち捨てられたファイン・アートの様に異彩を放っているのだった。
次の日、僕はその不思議な魅力を持った写真の撮影者に会うことができた。そして、彼の属する世界が昨晩見たエロ本群の最初の印象通り、恐ろしくいい加減で、素晴らしく突き抜けた、まるでオカルト結社かアングラ劇場の楽屋のような逸脱した光の中にあることを確認したのだった。以来僕は数年間をその世界で過ごし、フェティシズムと冗談の間に横たわる簡単な方程式をわざとややこしいものに置き換える作業を続けた。そしてその作業にとても重要な役割をはたしたのがテレビの画面やふく面プロレスラー、インチキ聖書やピンヘッド、それに女物の下着やハイヒールだったというわけだ。特にリビドーを刺激したのはパンティ・ストッキングとアイラッシュ・カーラーの取り合わせで、その奇妙な感触と方程式は今でも僕の頭の中に放置されている。
ともあれ、永久に使用されない女性下着の美しさは、それらを完璧に着用して深夜の路上にうずくまる僕自身の姿と微妙なバランスを保ち続けている。女性下着は、決して良質のオブジェにはならない点にこそ秘密がある。 — 高杉弾『メディアになりたい』JICC出版局 1984年 261-263頁。
翌日、高杉は最後のページに記載されていた発行元のエルシー企画に遊びに行き[11]、そこで社長の明石賢生[14]、編集局長の佐山哲郎[15]、安田邦也[16]、カメラマンの岡克己[17]、グラフィックデザイナーの大賀匠津[18]らと出会い、そのままフリーの編集者になる[19]。
高杉は後に当時を振り返って「あの一枚は一生忘れないと思うよ。これが運命の転換日だよね。あの一枚に出会わなかったら、おれは編集者にもライターにもAV監督にもなってないと思うよ」と回想している[11]。
そして、このわずか数年の間で蛭子能収、渡辺和博、湯村輝彦、大里俊晴、末井昭、南伸坊、永山薫、高取英、亀和田武、赤田祐一、青山正明、町山智浩、手塚能理子、羽良多平吉、上杉清文、荒木経惟、滝本淳助、岡留安則、高桑常寿、平岡正明、鈴木いづみ、佐藤重臣、中村直也、松岡正剛、荒俣宏、奥成達、巻上公一、山下洋輔、秋山道男、鈴木清順、荒戸源次郎、合田佐和子、長谷川明、安西水丸、野坂昭如、大瀧詠一、長嶺高文、朝倉喬司、畑中純、坂田明らと立て続けに出会う[4]。
1978年秋、道で拾った自販機本の住所を頼りにエルシー企画の編集部に遊びに行った高杉弾は、明石賢生と佐山哲郎に突如として8頁の原稿を任された。その後、わずか1週間で商業デビュー作「Xランド独立記念版」を隅田川乱一との共同作業で制作し、記事中で掲載誌『スキャンダル 悦楽超特急』の乗っ取りを宣言する。
1979年1月、エルシー企画の自販機雑誌『スキャンダル 悦楽超特急 X-MAGAZINE』6号「特集/ドラッグ─大麻取締法はナンセンスだ」で編集長を務める。同誌ではかたせ梨乃宅のゴミ漁りを実行し、ドラマ台本や腐ったミカン、使用済みタンポンなどを誌上のグラビアで暴露する企画を行った。
1979年3月からは隅田川乱一、八木眞一郎、山崎春美、近藤十四郎ら日芸時代の友人らを巻き込んで伝説的自販機本『X-magazine Jam』(エルシー企画)を創刊し、ドラッグ、プロレス、パンク、コミック、宗教、臨済禅、神秘主義、虚構記事、ゴミ漁り、エッセイ、コラージュ、フリーミュージックからなる誌面を展開する。とくに創刊号で「芸能人ゴミあさりシリーズ」と称して山口百恵宅のゴミを漁り、使用済み生理用品などを誌上で暴露したことから伝説化する[20]。
その後、ゴミ漁りの件で女性週刊誌『微笑』(祥伝社)1979年5月26日号のインタビュー取材に応じ、「こういう雑誌にはメジャー誌ができないような企画、スキャンダラスなものが必要ですから」「もし、山口百恵サイドから告訴なんかされた場合は、ぼく個人としては争ってもいい」「編集の基本姿勢としては、受けて立つということでやっています」など編集部の見解を表明する。しかし、実際に出来上がった記事内容はイエローペーパーレベルのもので、これに不快感を示した高杉は「少なくとも雑誌づくりに幻想(ビジョン)を持てないような脳なしの年寄連中には早々にご退場願いたいものだ」と『微笑』を痛烈に批判する声明を『Jam』4号の編集中記に発表した。
また、この頃からエロ本の男役モデルとして「からみ」もこなすようになり、のちに高杉は「僕は十何誌かやったな。とにかくこの業界ってね、新人の男は全員“からみ役”をやらされるんだよね」と回想している[21]。
同年4月、ボブ・マーリーが来日して東京と大阪で「奇跡の来日公演」を行った。その日、高杉弾と隅田川乱一は東京厚生年金会館で行われたボブの公演を観に行っており、ライブ終了後に二手に分かれて舞台裏の楽屋に回った[11]。しかし、乱一はステージ前の鉄柵を乗り越える際に警備員に見つかって押し問答になった末に落下して骨折し、そのまま病院に運ばれてしまう(その後、乱一は入院先の春山記念病院に見舞いにやって来た工作舎の翻訳家・村田惠子と運命的な出会いを果たして結婚する)[11]。一方、高杉は乱一が病院送りになったことを知らないまま鉄柵を乗り越えて楽屋に潜り込み、ついにボブと運命的な邂逅を果たした[11]。
高杉はボブとの出逢いについて次のように回想している[6]。
二十五歳のときに、町で拾った自販機のエロ本がきっかけで『Jam』とか『HEAVEN』といった月刊誌をズブの素人の状態で作ることになり、やがてボブ・マーリーというジャマイカのミュージシャンに出会うことになった。場所は新宿厚生年金会館。一緒にコンサートを観に行った友人は会場の警備員に押されて足を骨折し、ぼくはバックステージでボブに会っていた。その日、ぼくはボブとは何の約束もないただの観客だったが、レゲエという音楽にかつてない霊的な共鳴感を感じていたぼくは、目の前で歌っている彼の姿に引き寄せられるようにしてバックステージに向かっていた。たぶん、ほんの五分か十分ぐらいの出来事だったと思う。勝手に楽屋へ入り込み、自分が作っている雑誌のこと、彼の曲の歌詞について、あと何を喋っただろう…。下手な英語をまくしたてるぼくに、彼は「お前は日本の本当の兄弟のように感じている」と言い、ぼくが渡したせんべいのお礼に、両手一杯のガンジャをくれた[6]。
同年8月頃、山崎春美が行方不明になっていた蛭子能収の所在について青林堂の渡辺和博に問い合わせたところ連絡先が判明し[22]、原稿を依頼するため池袋の喫茶店「白十字」で打ち合わせを行う。高杉によれば蛭子は当初「女の裸を描けないからエロは描けない」「こんな自販機で売ってるエロ本で本当に原稿料が出るんですか」といぶかしんでいたという[11][23]。そこで高杉と山崎は
と説得し、これに応じた蛭子は『Jam』4号(1979年6月号)に「不確実性の家族」を寄稿。これが再デビュー作となった[24]。
同年12月、山口百恵のゴミ漁りの件で栗本薫の小説『イミテーション・ゴールド』(初出は『小説現代』1980年1月号)のモデルとなる[4]。
1980年1月、エルシー企画とアリス出版が合併して『Jam』が終刊する。その後、豊島区西池袋にあった発行所兼編集部のジャム出版が「HEAVEN EXPRESS」に名前を変えて東池袋のアリス出版に移転する[26]。
同年4月から『Jam』の後継誌『HEAVEN』初代編集長に就任し、同年6月から自動販売機から撤退して直販体制に移行するが、同年8月に明石賢生がアリス出版から群雄社出版に移籍し、版元移籍の都合で『HEAVEN』も3ヶ月休刊する。
同年10月から高杉弾と近藤十四郎の2人でDJを担当した全国ネットのラジオ番組『ウルトラヘヴン放送局』(ラジオ関東)が放送開始、番組は翌年の『HEAVEN』廃刊まで続く[4]。
この頃、東京大学中退の田中一策(のちに日本初のスカトロ専門誌『スカトピア』編集長)と京都大学中退の山本土壺(=山本勝之。のちにオルタナティヴ・ロックバンド「TACO」メンバー)が編集部に加入する。しかし、高杉と編集部との間で軋轢が生じ、8号編集途中でクーデターが起きる。
1980年冬、雑誌『HEAVEN』の編集長を退き、編集者から作文家に転身する[4]。
以降『朝日新聞』からエロ本まで幅広く作文活動を行い、最盛期には14本にものぼる連載を同時にこなす[19]。
また1980年代から1990年代にかけて『ガロ』『宝島』『ヘイ!バディー』『フィリアック』『サバト』『写真時代』『写真時代Jr.』『スーパー写真塾』『ビデオ・ザ・ワールド』『月刊TVガイド ビデオコレクション』『ボディプレス』『アクションプレス』『週刊プレイボーイ』『週刊アサヒ芸能』『アサヒグラフ』『Boom』『Crash』『ON STAGE』『SALE2』『福娘』『噂の眞相』『夜想』『ルーシー』『スティック』『エキセントリック』『アリス・クラブ』『S&Mスナイパー』『流行通信』『おとなの特選街』『月刊スパイ』『RM』『アックス』『BURST HIGH』など多数の雑誌で連載を持ち[4]、エロ、性的逸脱、ドラッグ、ギャンブル、バットテイスト、モンドカルチャーなどアンダーグラウンドなサブカルチャーの分野にも多大な影響を与えるが、高杉弾名義での著書が4冊しかないため、その活動の全貌はつかみがたい。
1981年、日比谷野外音楽堂で行われた『HEAVEN』主催の伝説的音楽イベント「天国注射の昼」のコンセプト・ドクター役を務める。この年、ボブ・マーリーが36歳の若さで他界。
1982年、伊達一行の小説『沙耶のいる透視図』(のちに映画化)に登場するビニ本編集者(演・土屋昌巳)のモデルとなる[4]。同年9月、筒井康隆原作、内藤誠監督の映画『俗物図鑑』に端役として出演[4]。この頃からシーメールとステレオ写真に興味を持ちはじめる[4]。
1984年、JICC出版局(現・宝島社)より代表作にして初単行本の『メディアになりたい』を上梓。
1985年、輸入ビデオクラブ「セカンドハウス」を設立してビデオ版『メディアになりたい』『スーパー・カットアップ』を自主制作[4]。
この頃、劇作家の高取英が主宰するカルチャーセンターに講師として登壇し、自販機本からアダルトビデオまでのポルノ黄金期を3時間に渡って語り下ろす。講演の内容は同年7月に『霊的衝動 100万人のポルノ』(朝日出版社)として週刊本レーベルから刊行された[4]。同年、週刊漫画雑誌『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で手塚眞原作の立体写真漫画の撮影と監修を担当する[4]。
1986年頃から「MONDO」という不思議なアメリカ文化を「ひょっとこ」[27]と超訳して『宝島』などのサブカルチャー雑誌で日本に紹介しはじめる[4][8][28]。この頃、損害保険代理店資格(初級・普通)を取得し、有限会社S興産(資本金14億円)の代表取締役社長となる[4]。
1987年、にっかつ撮影所との共同企画で「MAGMAビデオ」を設立し、1920年代の実験映画5タイトルを発売する[4]。同年、元『HEAVEN』編集者の山本勝之とモデルの中村京子らと香港、マカオ、ロサンゼルスを旅行し、香港で大型トレーラーにはねられるも軽傷[4]。帰国後、目黒駅で駅員を暴行し、書類送検されるも不起訴となる[4]。
1987年、渋谷センター街にモンド系の輸入雑貨店「トライアングル」を開店[4]。ジョン・ウォーターズやラス・メイヤーなどのモンド映画・カルト映画を筆頭に、ビザール・コミック、ベティ・ペイジのハイヒールやボンデージ関係の書籍、リシャール・セルフやイリア・イオネスコなどのフェティッシュな官能写真集や死体写真集、自販機本『Jam』や大麻専門誌『ハイ・タイムズ』などの商品が並ぶカルト・ショップとなり、同店にはミュージシャンの大瀧詠一やハイパーメディアクリエイターの高城剛が度々訪れ、高城とは後に交友を結ぶ[4]。
また、この頃から香港・マカオ旅行にハマり、九龍城砦の売春宿でアヘンとセックスに耽溺し[29]、マカオではカジノ賭博という放蕩三昧の日々を送る[19]。
1988年、宗教学者の植島啓司と作家の筒井康隆に出会う[4]。同年、輸入ビデオクラブ「セカンドハウス」を「トライアングル」に改称する[4]。
1989年、糖尿病が判明する[4]。この年、パソコン(PC-98互換機)を導入し、パソコン通信サービス『NIFTY-Serve』にて「高杉弾通信」の連載を開始。この頃からモダン・プリミティブ関係の原稿依頼が増える[4]。また青山正明と吉永嘉明が編集した特殊海外旅行誌『エキセントリック』(全英出版/中央法科研究所)で「マインド・リンク」の連載を開始。同年、S興産代表取締役を解任される[4]。
1990年、AV監督の伊勢鱗太朗と村西とおると出会う。その後、AV監督として『高杉弾のイカすSEX天国』(ダイヤモンド映像系・裸の王様レーベル)を皮切りに1年間で11本のアダルトビデオを発売する[4]。
1991年、AV監督を引退[4]。同年、前衛芸術家の赤瀬川原平らとステレオ写真の愛好団体「脳内リゾート開発事業団/ステレオオタク学会」を結成[4]。同時期にカルチャー雑誌『月刊スパイ』で「倶楽部イレギュラーズ」の連載を開始するが、高杉が企画したSEX特集をめぐって雑誌が回収騒ぎとなる[4]。その後、同誌休刊のため連載を『月刊漫画ガロ』(青林堂)に移し11月号から連載を再開[4]。この年、友人のデザイナー丸山浩伸が他界[4]。
1993年3月1日、結核で国立療養所中野病院に79日間隔離入院[4]。入院中は食事を1日1500kcal以下に制限されていた為、退院後は体重が40kgを切る[30]。この頃、東陽片岡と会う[4]。同年、雑誌『ガロ』9月号の特集「三流エロ雑誌の黄金時代」に協力し[4]、元青林堂の南伸坊と白夜書房編集局長の末井昭と鼎談する。
同年、国際ステレオ写真会議に出席のため赤瀬川原平や南伸坊らとイギリスへ旅行[4]。帰国後、視神経障害による視力悪化のため『ガロ』の連載を休載[4]。その後、眼孔注射で右眼の視力が回復し、CD-ROM写真集『美麗死体写真集 Lilly』『極楽蓮』創刊号を自主制作してトライアングルで販売する[4]。なお『美麗死体写真集 Lilly』は1930年代を中心とした幼児から老人まで90枚の死体写真をピックアップしたものでマイナーレーベルの作品としては異例の1500枚を売り上げた[31]。
この年、香港の九龍城砦が消滅。借金返済不能の危機が迫る[4]。
1994年12月、バリ島へ長期旅行[4]。ギャニャール県ウブド郡でウブドの王族に会う[4]。この年「メディアマン」というコンセプトを強化する[4]。
1995年1月、バリ島からサムイ島に移動し、ハンモックの上で阪神・淡路大震災を知る[4]。2月末にシンガポール経由で帰国[4]。
同年12月、現状最後の単行本となる私小説『香港夢幻』(大栄出版)を上梓。高杉は同書で「エロ本編集者をリタイアして15年、雑誌に短い原稿を書いて受け取る報酬だけではとても生活できないぼくは、今日まで借金とギャンブルで食いつないできたと言ってもいい。思えば大学を中退して以来、先のことなど何も考えず、自分自身の快楽を最優先してその日その日を生きてきた。経済的な困窮に陥ったとき、借金とギャンブルだけがぼくに手を差し伸べてくれた。そして、金を貸してくれる相手と博打さえあれば自分は生きていけるのではないかと錯覚し、そういう自堕落な生活の中で、ぼくは次第に経済観念を失っていったのだった」と述懐する[32]。同年、連載「高杉弾通信」が72号で終刊[4]。
1996年、伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』の発行人であった元群雄社出版の明石賢生社長が他界[4]。同年、荒木経惟のドキュメンタリー番組の製作に協力したほか『アサヒグラフ』のパロディCD-ROM写真集『アラキグラフ』(光文社)の編集に参加[4]。
1997年、月刊漫画『ガロ』1997年3月号で特集「僕と私の脳内リゾート―ブレイン・リゾーター高杉弾とメディアマンのすべて」が組まれ、高杉の幼年期から学生時代、自販機本時代、作文家時代、トライアングル時代、AV監督時代、そしてメディアマンへと至るまでの自筆年譜と主要な仕事を120点以上の図版を交えて16頁にわたり紹介[8]。
同年、サブカルチャー雑誌『Quick Japan』(太田出版)が12~19号(18号を除く)にかけて「天国桟敷の人々」という題で『Jam』『HEAVEN』を主軸にした自販機本特集を組む。この特集では群雄社に出入りしていた竹熊健太郎と但馬オサムが佐山哲郎、小向一實、近藤十四郎、隅田川乱一、安田邦也、山崎春美ら当時の関係者にインタビューを敢行し、高杉弾は『Jam』『HEAVEN』初代編集長として連載最終回でトリを務め、竹熊のインタビューで直近の月収が2万円を記録したことなどを述べる[7]。
同年7月、青林堂の内紛で『ガロ』が休刊。他にも掲載誌の休廃刊が相次ぎ、積年の借金苦に加えて原稿依頼も無くなったことから隠居生活に入る[7]。
作文家以外には、アダルトビデオ監督、競馬の予想屋、商品先物取引、雑貨屋経営、違法賭博、借金などで生計を立てることもあったが、結局生涯にわたって定職を持つことはなかった[32]。
1998年5月25日、日芸時代からの盟友で『Jam』『HEAVEN』のブレーン役だった隅田川乱一(美沢真之助)が他界。この年、青林堂から分裂した青林工藝舎が新たに漫画雑誌『アックス』を創刊、同誌の手塚能理子編集長からの依頼で創刊号よりコラム「日常の神々」を連載し1999年末まで続く。この連載を最後に自販機本時代から数えて約20年間途切れ目なく続けてきた何らかの定期刊行雑誌への連載仕事がゼロとなる[33]。
2000年、雑誌『創的戯言雑誌』のインタビューに応じ、1年の半分近くを海外で過ごす隠居生活を送っていることや、日本の友人とさえ音信不通の日々が続いていることを明かす[34]。また高杉は同誌のインタビュー内で〈メディア〉について以下の持論を展開している。
さて、20年も前に『メディアになりたい』という本を出してしまっているぼくにとって、すでに〈メディア〉になどあまり興味がなく、ひたすら気になるのは〈メディアマン〉の消息だけです。ぼくは20年前からプロの編集者であったことなどなかったし、むしろ、編集者に変装した変質者でした。『Jam』も『HEAVEN』も、過去の自分が戯れに作っていた物で、変質者が一時的な退屈しのぎに好き勝手な紙の切り張りをしていた。要するに、ゴミをカットアップしたスクラップブックですね。それに程々のお金を払い、それなりに楽しんでくれた人たちがいた、というだけのことでしょう。
外から日本を見ると、日本という国は完全に気が狂っていて、もはやどこの国からも相手にされていない「終わってしまった国」のように感じます。世界が興味を持っているのは、日本ではなく日本円です。しかし世界は常に激動している。日本人の田舎臭いマインド・レベルは、もうどこの国に行っても通用しないでしょう。人間のクズと自覚しているぼくとしても、もう日本という国にはあまり興味が持てなくなっています。興味のあるメディアといえば、「人間の脳味噌またはマインド」としか答えようがありません。
そして、「媒体」などにかかわらず、人間は生きているだけで〈メディア〉です。アナログからデジタルに移行し、「発行」が「発信」に変わったからといって、それがいったい何だというのか。完全に文字化けした日本語を「世界に発信」して、いったい何の意味があるのか。
日本の雑誌界にニューウェイブはもう永遠にこないでしょうし、逆に、コンドームのように使い捨てられる雑誌ほど売れるでしょう。ぼくには、もうどうでもいいことです。ただ、日本の80年代でもっとも重要なのは、日本が企業社会主義国になった、ということだけでしょう。
ぼくはもう雑誌にもインターネットにも何の期待感も抱いていません。そんなものはもう古い。過剰に管理されるメディアなんて、もううんざりだ。数年前に「脳内リゾート開発」という概念を提供しましたが、できることならもっと多くの人々に、人間がもともと持っている優秀なアナログ機関である脳味噌の、未開の部分に注目していただきたい。気楽に、柔軟にね。
それから、〈メディアマン〉というのは特定の個人を指す名ではなく、「高杉弾という個人に内臓されるメディアとしての脳味噌」を経由して表現されるすべての事象に因んで公案された〈概念〉であると理解していただきたい。 — 高杉弾インタビュー「ぼくはプロの編集者であったことなどなかったし、むしろ編集者に変装した変質者でした」
2003年からコアマガジン社のマリファナ季刊情報誌『BURST HIGH』(当局より相当な圧力があり現在廃刊)にコラム「OUT OF HIGH TIMES」を連載する。これが高杉弾最後の雑誌連載となった(連載記事は高杉弾の公式サイトで無料公開されており誰でも閲覧可能となっている)。
2017年、雑誌『スペクテイター』が39号で「パンクマガジン『Jam』の神話」と題して約200頁にわたる『Jam』の特集を組む。高杉は同誌の赤田祐一によるインタビューで「『Jam』も『HEAVEN』も一冊も持ってないし、いらないものだよ。だけど真之助(隅田川乱一)の本と『臨済録』は大事なものだよね。ちゃんと持ってるから。仕事机のいつでも開ける場所に」と語る[11]。また赤田によれば、現在の高杉弾は都心のマンションで引きこもり生活を送っており、病院、居酒屋、散歩以外は持病の糖尿病もあり殆ど外出せず、世間と交流を持たない半隠遁生活を送っているという[11]。
現在は青林工藝舎の漫画雑誌『アックス』に不定期で寄稿する以外は、超逸脱的オンラインマガジン《JWEbB》のみで活動しており、くも膜下嚢胞、糖尿病、結核、手足の痺れ、関節炎、睡眠障害、勃起不全、難聴、認知障害、健忘症、心配性、失語症、貧乏症、便秘、痔、歯槽膿漏、ニコチン中毒、五十肩、老眼、ノイローゼ、対人恐怖症など多くの病を得て隠居療養中[12]。
(大麻を)吸いたければ勝手に吸えばいい。これは基本だ。それが合法であろうと違法であろうと、そんなことは知ったことか。もちろん、法的に問題ない方がいいに決まっている。だけど、大麻より先に法律を求めてどうする。戦後数十年間、日本国民を洗脳してきた日本の政府や国家に対して、「大麻解禁運動」などというあまりにも短絡的な「直訴」をすることがどんなに不毛なことか、考えてみて欲しい。そんなことより、「おれたちに足りないのは智恵とガンジャだ」と認めたらいいのに、とつくづく思う。日本は江戸時代から変わらぬ鎖国国家である、というのがぼくの認識だし、この国に民主主義なんてない、というのがぼくの主張だ。そんな国に「大麻解禁」などあり得るだろうか。必要なことは、精神的な国境あるいは国家国民意識を捨てることだと思う。反国家的精神文化のない日本という切なくなるほど渇き切った国。だけどやはり日本は日本、自分の国だ。いい加減なんとかならないものだろうか。タイから帰国して湯豆腐を食べた瞬間に、ぼくはいつもアホで単純な普通の日本人に戻るのだった。アホで単純な普通の日本人に、大麻なんかいらない。 — 高杉弾「OUT OF HIGH TIMES」
佐内順一郎名義
高杉弾名義
高杉弾名義
佐内順一郎名義
単行本化されていない企画集[36]
実現されていない雑誌企画[36]
高杉弾は1990年から1991年にかけて全11本のアダルトビデオを製作している[4]。すべて村西とおるのダイヤモンド映像系レーベル「裸の王様」から発売されたもので、伊勢鱗太朗がプロデュースした[37]。
その他
高杉弾は「メディアマン」誕生の経緯について次のように述べている[8]。
僕はいろんな仕事をしてるんで、自分のことを他人に説明する時に、自分と他人の間にもう一人の自分を置くと便利だな、って思ってそれで気がついたのがメディアマン。例えばAさんが思ってる高杉弾とBさんが思ってる高杉弾って違うヤツだろうし、その両方の高杉弾は、僕から見たら高杉弾ではないわけですよ。それは僕にとってはどうでもいい事なんだけれど、あちこちに僕の知らない高杉弾がいると分かりにくくなるんで、それで自分と他人の間にメディアマンというのを作って、そのメディアマンからいろんなことを他人に発信してみようと思ったの。だから、ヘンなこと書いてるって思われても、それはメディアマンが書いたことで僕には関係ない(笑)。 — 青林堂『月刊漫画ガロ』1997年3月号「特集・僕と私の脳内リゾート―ブレイン・リゾーター高杉弾とメディアマンのすべて」
高杉曰く「メディアマンは〈高杉弾〉と〈誰か〉を結ぶ不可視のリンク・メソッドである。メディアマンは〈私〉であり、同時に〈私以外の誰か〉である。メディアマンはどこにでも存在し、同時にどこにも存在しない」[42]。
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