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日本の編集者、プロデューサー ウィキペディアから
秋山 道男(あきやま みちお、1948年9月29日 - 2018年9月19日)は、日本の編集者、プロデューサー、クリエィティブディレクター、装丁家、俳優、作詞家、作曲家。千葉県松戸市生まれ。スコブルコンプレックス會社・主宰。資生堂文化デザイン部編集委員。
本人いわく「都市・空間・商品・宣伝・編集・芸能・芸術・食・身体・生活・ファッションなど多領域の仕事群を『魅力づくり』として遂行」する仕事を行っている。
1960年代には「秋山未知汚」「秋山未痴汚」名義を、1970年代には「秋山ミチヲ」名義を用いていた。
東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。同級生には南伸坊がいた。高校時代はバンドを組んでいて、おしゃれだった[1]。子供の頃から吃音があった[2][3]。
高校卒業後、しばらくフーテン生活を送り「原宿の万引き王」と呼ばれたが、19歳で若松孝二の若松プロダクションに入社。脚本、音楽、ポスター制作、助監督を担当。秋山未知汚名義で俳優として映画にも出演した。1970年の『性賊 セックス・ジャック』では少年テロリストを演じ、大和屋竺から絶賛された。
若松プロでは「オバケ」の渾名で呼ばれており、1969年の足立正生監督作品『性遊戯』では、「オバケ」という役名で出演している。撮影場所も秋山の実家が使われた[4]。この映画には、若松プロで「ガイラ」と呼ばれていた小水一男も「ガイラ」という役名で出演した。
作曲したサンバ「ここは静かな最前線」(作詞:足立正生)は、山下洋輔トリオの演奏で、映画『天使の恍惚』(1972年)の主題歌となった(後に渚ようこがカバーしている)。作品中にもギターを弾く男として出演し、この曲を演奏、主演の横山リエが歌っている。「状況劇場」、暗黒舞踏関係、「発見の会」など、アングラ系の人々とも知り合うが、政治色の強くなった若松プロから距離を置くことを考える。
「発見の会」の黒内直の依頼で、印刷会社の屋根裏に住み込み「無限會社・面白商会」と個人で名乗り、アングラ関係の印刷物・着ぐるみの中身担当・引越しの手伝いなどの便利屋業を行いつつ、放送作家としても活動。テレビ番組『ベルトクイズQ&Q』のクイズを担当。また、「クイズを歌で出せば面白いのでは」と、担当ディレクターの河内紀と探し歩いて、1972年に荒戸源次郎が創設していた劇団「天象儀館」の女性コーラス達を起用したことから、秋山も天象儀館に入団。他のメンバーには上杉清文、櫻木徹郎らがいた。美術、デザイン、俳優をこなす。
1973年には、天象儀館のメンバーの出演による、大和屋竺監督による映画『愛欲の罠(別名:朝日のようにさわやかに)』が製作され、腹話術師の殺し屋役を演じたが、生計は筋子、数の子、タラコなどを路上で売るテキヤで立てていた。この時期、糸井重里、ペーター佐藤らと出会っている。
1976年から荒俣宏監修で月刊ペン社から刊行された「妖精文庫」等、本の装丁も行う。また、伊集院彩名義で雑誌『JUNE』の表紙デザインも行った。また、ペーター佐藤の紹介で、カネボウ化粧品の広報誌「BELL」の編集長から、「産休を取るから編集長になってくれ」と依頼され、突如、編集長となる。雑誌はすぐにつぶれたが、編集についてのノウハウを学ぶ。
1978年、30歳で事務所「秋山計画」を設立。のちに「スコブルコンプレックス」に改名。なお、「スコブル」は宮武外骨が刊行していた雑誌から取った名前である。
1979年 - 1980年には西友の広報誌の編集長を務め、「こども向けのパンク雑誌」とのアイディアで『熱中なんでもブック』(のちに『青春評判ブック』)と題して刊行。スタッフに林真理子、中野翠、松川邦生[注 1] 等がいた。
1980年、青春出版社の新雑誌『BIG tomorrow』に創刊ブレインとして参加。「『困っているサラリーマン』を救う、ダサイ雑誌がいい」と助言して、ヒット雑誌となる。
1983年には無印良品の青山店の開店を手伝ったことがきっかけで、無印良品全般のプロデュースを行い、人気商品とする。同じく1983年からチェッカーズの総合プロデュースを行い、髪型、ファッションなどのバンド・コンセプト、タレント本の企画編集、映画のシノプシスなどを考え、人気バンドに育てた。この頃は「すべての自分の仕事は『編集』である」と、「スーパー・エディター」を名乗っていた[注 2]。その他、小泉今日子、日本新党、六本木ヒルズ内のいくつかの店などのプロデュースも行った。なお本人は「魅力化」と呼んでいる。
1984年、細野晴臣のお墨付きで、「YMO散開」後に2ヶ月間だけ「二代目YMO」を襲名する。
1985年には、高岡一弥、後藤繁雄との共同編集で雑誌『活人』(毎日新聞社)を創刊。創刊号の表紙を、裸の小泉今日子の全身黒塗り写真(イブ・クラインの写真の真似)で飾り、読者の度肝を抜くが、雑誌は2号で廃刊。1986年には小泉今日子の写真集『小泉記念艦』を企画・編集。「人体測定KYON2ver.」と題して、さまざまな色での「小泉の魚拓」(これもイブ・クラインの真似)を収録した。また、資生堂イプサの広報誌「Cawaii Click!」や「イプサ文庫」なども手がけた。
1982年頃、デビュー前で喫茶店のウェイトレスをやっていた内田春菊に声をかけられ、「面白い子だ」と認めて彼女のペンネーム「春菊」を命名したが、その縁で、1995年に内田の自伝的小説『ファザーファッカー』の映画化の際、プロデューサーを務め、監督に初監督となる荒戸源次郎を指名。逆に荒戸から「主人公の義父」役で出演を依頼され、約20年ぶりの映画出演でまたも怪優ぶりを発揮。
以降は、多くの映画、テレビドラマに俳優として出演し、リリー・フランキー原作のアニメ『おでんくん』では声優も務めた。
癌により死去[3]。
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