日本の出版社 ウィキペディアから
株式会社本の雑誌社(ほんのざっししゃ)は、目黒考二、椎名誠、沢野ひとし、木村晋介によって設立された出版社。
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本の雑誌社 | |
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正式名称 | 株式会社 本の雑誌社 |
種類 | 株式会社 |
法人番号 | 2011201005033 |
設立日 | 1976年4月(株式会社化は1980年7月) |
本社郵便番号 | 〒101-0051 |
本社所在地 |
東京都千代田区神田神保町1-37 友田三和ビル5F |
外部リンク | http://www.webdoku.jp |
https://twitter.com/Hon_no_Zasshi |
事務所(会社)所在地は東京都新宿区四谷(1979年〜)、新宿区信濃町(1980年3月〜、7月に株式会社化)[1]、新宿区新宿五丁目(1983年〜)、新宿区新宿御苑前(1989年〜)、渋谷区笹塚(1993年〜)、東京都千代田区神田神保町(2012年6月〜)[2]。
書評を中心に本と活字にまつわる様々な話題を扱った月刊『本の雑誌』(書籍扱い。当初は季刊。隔月刊をへて月刊化した)を1976年4月より発行している。1980年7月に株式会社となる(発起人は椎名誠、目黒考二、沢野ひとし、社長は目黒考二、会計監査が木村晋介[3])。また、『本の雑誌』の連載コラムの書籍化や、執筆者の書き下ろし本、本に関する独自企画本を刊行している。すべての出版物において、特例を除き書店からの返品を受けない、完全売切制をとっている。
1976年4月、「書評とブックガイド」を標榜するミニコミ誌(初号印刷部数は500)としてスタートする。椎名のコラムの独特の文体や、従来の書評誌にはなかったエンタテインメント志向、独自視点の特集、新しい連載執筆者の発掘などで好評を得る。1984年に「活字のコラムマガジン」に転針する。
当初は「季刊」と称する不定期刊だったが、1979年5月に隔月刊化、1987年に「特小号」発行、1988年5月号から月刊化した。
創刊号の編集兼発行人は目黒考二。2号より編集人・椎名誠/発行人・目黒考二体制となる。実質的に編集発行人を務めた目黒考二が2001年に退任、二代目発行人に浜本茂が就任した。
2008年12月発売の『本の雑誌』2009年1月号において、経営危機にあることが公表された(椎名誠のコラム『今月のお話』及び浜本茂の編集後記)。
椎名は2011年1月号をもって編集人から退き、浜本が名実ともに編集発行人となった。顧問だった目黒も退任した。
各号の特集記事以外の連載(2020年現在)
本の雑誌に掲載された文章をまとめたものや、独自の企画など。
『本の雑誌』の創刊は、椎名、目黒の他に、当時『漫画アクション』編集者の本多健治(のちに双葉社取締役)もかかわっていた。また、最初に採用された社員は木原ひろみ(のちの群ようこ)一人だった。
初期の『本の雑誌』は、契約書店への直接持ち込みにより配本されていた。目黒によって組織された学生たちの配本部隊は、アルバイトではなく「助っ人」と呼ばれた。
のちのマガジンハウス編集者で、女優本上まなみの夫である沢田康彦も助っ人出身。また、お笑い演芸専門誌『カジノフォーリー』の編集長を務めた、竹本幹男も助っ人出身。
助っ人出身者は他に、白夜書房営業部藤脇邦夫、写真家の上原ゼンジ、翻訳家の那波かおり、岩本正恵、絵本作家の本下いづみ、ジャズ評論家の富澤えいち、書評家の吉田伸子、イラストレーターの福井若恵、小学館の編集者の徳山雅記(ステレオグラム本を多数刊行。現「ドラえもんルーム」担当)、編集者・ライターの河上進(南陀楼綾繁)、落語家の柳家喬之助などがいる。上原と吉田はのち、本の雑誌社の社員になった。
当時の助っ人にアルバイト代は出ず、見返りは、出前をとって空腹を満たすことであった[1]。
椎名誠と目黒考二が中心となって『本の雑誌』を立ち上げる経緯を描く漫画『黒と誠』(カミムラ晋作著)が、2022年7月から双葉社のWeb文芸マガジン「カラフル」で連載開始された。 双葉社には、『漫画アクション』編集部の本多健治が、かつて『本の雑誌』の創刊に関わっていたこと、『黒と誠』の企画を担当した編集者が、学生時代に本の雑誌社の助っ人だったという縁がある。[5]。
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