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鬼畜系(きちくけい、Demon style)は、悪趣味系サブカルチャーのサブジャンルであり[4]、1990年代の鬼畜・悪趣味ブームにおいて電波系やゴミ漁りで知られた鬼畜ライター・村崎百郎が自分自身を指すのに提唱した造語である[5]。ブームを代表する鬼畜系ムック『危ない1号』のキャッチコピーは「妄想にタブーなし」「この世に真実などない。だから、何をやっても許される」[6]。
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鬼畜系/悪趣味系 | |
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様式的起源 |
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文化的起源 |
日本・東京都 1920年代 - 1990年代 エログロナンセンス→カストリ雑誌→カウンターカルチャー→自販機本→サブカル→悪趣味系 アメリカ合衆国 MONDO/CHANカルチャー |
サブジャンル | |
関連項目 | |
なお、これは成人漫画などにおける反社会的行為、ないし残酷描写が含まれる作品、またその作家を指す言葉としても用いられている。
エロティシズム文化に詳しい伴田良輔は「悪趣味」の起源そのものは「キッチュ」「マニエリスム」「バロック」「グロテスク」といったヨーロッパ文化にあると指摘し、それが大量消費時代を迎えた1950年代以降のアメリカで「モンド」「スカム」「キャンプ」「ビザール」「ローファイ」「バッド・テイスト」に発展し、それが米国での流行の経緯とは無関係に日本で新しい意味や機能が付け加えられて蘇ったと解説している[7]。ただし、伴田の定義する「悪趣味」とは、ある範囲の事物に共通して見られる「けばけばしさ」「古臭さ」「安っぽさ」の類型的特徴を意味しており、最初から「悪趣味」とされるものを享楽的に消費する、あるいは露悪的なスタイルを積極的に志向するような「鬼畜系」は含まれていない。[要出典]
1995年の『ユリイカ』臨時増刊号「悪趣味大全」において、文学・音楽・漫画・映画などの芸術文化でも、ほとんど無視されてきたダークサイドな側面が一括りに特集され、同特集で鬼畜ライターの村崎百郎が本格デビューしたことが、ブームの直接的なはじまりとみなされている。同年7月には、鬼畜系ムック『危ない1号』が青山正明らによって創刊され、ゲスな文体で悪趣味を消費する、卑近なスタイルが若年層にも受け入れられたことで、ベストセラーとなる。
「鬼畜系」という言葉が活字出版物上に現れるようになったのは「鬼畜系カルチャー&アミューズメント入門講座」と銘打たれた『危ない1号』第2巻「特集/キ印良品」(データハウス/東京公司)や新宿ロフトプラスワンで開催されたトークイベント本『鬼畜ナイト』(同)が刊行された、1996年頃からとみられている(いずれも村崎百郎が企画立案を行った)[8]。
こうしたサブカルを統合するカテゴリーとして範囲「鬼畜系」「電波系」「悪趣味系」という用語が90年代に広まったが[要出典]、一部の読者が数々の事件を起こし、1997年までにブームは終焉を迎えた。[要出典]
この節の加筆が望まれています。 |
人類は社会的な動物であり、武力や暴力ではなく法や徳による社会制度・規範などによって個人の欲望を抑制し、社会秩序を保つ術を発展させてきた。そのような法や徳の下では、利己的な性衝動や暴力は反倫理的・反社会的とみなされる傾向があった(権威主義)。とは言え、性は生物にとって根本的なもの(繁殖)であり、差別や暴力もまた人類に刷り込まれている本能(自己防衛)である。そのため、社会規範による民衆の抑圧に対する抵抗が歴史上繰り広げられてきた(反権威主義)。また、宗教や学問による利他的道徳心および理性的啓蒙思想が枢軸時代に花開いてからも、現代の感覚では鬼畜(反倫理的)とみなされるような野蛮きわまりない習慣は世界中で普遍的に行われていた。具体的には少年愛や児童性的虐待、女性差別、人種差別、階級差別(奴隷制、身分制)、障害者差別、人肉食、生物種の大量絶滅、戦争による虐殺、拷問、残虐処刑などが挙げられる。これらはむしろ、社会や文化における倫理規範として、異なる集団を異端視・悪魔化して排除するために行われていた側面がある。近代以降は、人権に関する社会意識が高まり、芸術や思想の創作や発信活動においての急速な民主化や大衆化が進んだ。こうして、肉体的な権利の侵害は厳しく規制されたものの、思想的な個人の自由の追求はどこまでも進み、ポストモダン(≓価値相対主義)へと行き着くこととなった。結果、社会的価値における確定的な「善悪」「美醜」「真偽」などの二元論が崩れ、複雑に錯綜するようになっていき、現在に至る。
本節では、その時々の社会的権威による「真・善・美」の価値観に反する芸術・運動・事件の歴史を記す。
性に関する文化として、日本列島および世界の各地では生殖器崇拝が行われていた他、さまざまな性愛にまつわる絵画、文学、彫刻などが作成・消費されてきた。日本エロ文化の始祖的存在である春画は、唐から医学書と共に伝わった房中術の挿絵「偃息図」(えんそくず/おそくず)や明から伝わった春宮画に起源を持つとされる。平安時代からは、縁起物を象徴する男性器がグロいほどに誇張して描かれていたという見方もある[9]。海外でも「カーマ・スートラ(性愛経典)」や「イ・モーディ(性愛図)」のような性愛芸術がある。
また、暴力的で残酷な芸術としては、天国(平和と繁栄)と地獄(暴力と破壊)という、宗教的な善悪二元論を反映した地獄絵図がある。例えば、12世紀の「餓鬼草紙」「地獄草紙」や「快楽の園(16世紀版)」「快楽の園(12世紀版)」などがある。また、宗教的権威においては、神の神聖さを汚す冒涜は最大の罪の一つとみなされていた。
日本におけるエログロ文化は、大衆文化が花開いた江戸時代後期の艶本・春画においても見出すことができる。鳥居清信の春画の一つ(1700年頃)には性的倒錯の一種の裸の男と服を着た女のシチュエーションがある[10]。同性愛を描いた春画(枕絵)も多々知られている[11]。葛飾北斎の艶本『喜能会之故真通』(1814年頃)における「蛸と海女」は、獣姦アートの中でも蛸が相手というかなりのキワモノであった[12]。
西洋ではルネッサンス以降、医学書・解剖図[13] や解剖図を反映した等身大の人体蝋人形などが数々制作された。中でも、Marie Marguerite Bihéron (1719 - 1795) の作品が有名であり、妊婦の解剖人形などは非常に精巧だったとされる[14][15][16]。日本でも、蘭学の医学書の翻訳本『解体新書』(1774年)など、漢学や蘭学の医学書・解剖図に倣った書籍が幾らか発行された。中でも、渓斎英泉の艶本『閨中紀聞 枕文庫』(1822年)は、当時の性の医学書・百科事典にして性奥義の指南書であり、同時に、奇書の中の奇書として知られている(特に膣の内部に大きな関心が抱かれている)[17]。
幕末期には浮世絵師の月岡芳年や落合芳幾が「無惨絵」という歌舞伎の殺陣や鮮血などの残酷描写を主題にした扇情的な浮世絵を発表した。これは幕末という不穏当な時代世相を背景に制作されたともいわれる。なお、無残絵は江戸時代後期の廃仏毀釈の流れもあり、九相図など仏教絵画に見られる宗教色が一掃されている。つまり無残絵は宗教的文脈を逸脱し、純粋な娯楽として制作および鑑賞されていたことがわかる。以降、無残絵はエログロの古典的地位を確立し、責め絵の草分け的存在である伊藤晴雨は、芳年の無残絵を模した緊縛絵や緊縛写真を多数制作した。また芳年と芳幾が幕末に発表した競作無惨絵『英名二十八衆句』(1866年 - 1867年)は、非商業的な漫画雑誌『ガロ』(青林堂)などで活躍した丸尾末広と花輪和一によって昭和末期にリメイクされており、無残絵を原点とするエログロ文化の精神的な流れは、後々のサブカルチャーに脈々と受け継がれた。
また、幽霊画というホラージャンルも存在し、月岡芳年作の女性器が顔についている幽霊など、エログロセンスの絵画もあった[18][19]。ピーテル・パウル・ルーベンスのメドューサの頭部も古典的グロ画である。
拷問は世界各地で行われていた習慣であったため、さまざまな文化において拷問シーンやを描いた絵画が見られる[20][21]。また、放尿・脱糞などの排泄シーンを描いた絵画も、歴史上にいくらか残されている[22][23][24]。
1785年にはマルキ・ド・サドが鬼畜SM小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を著した(初版は1904年)。マゾ文学は1871年の『毛皮を着たヴィーナス』にて開花したと言われている。死や汚穢趣味[25]にエロティシズムを見出す文学は世界各地に見られる。また1812年にヨーロッパで刊行された『グリム童話』は、民衆文化の中から成立し、残酷・性的な描写も散見された。
16世紀半ばに始まったヨーロッパとの交流は、江戸時代(1603 - 1868年)には鎖国によって細まったが、黒船来航(1853年)および明治維新(1868年)後には再び強力に推進された。日本の幕末・明治時代に相当する欧米のビクトリア朝時代は、市民革命(イギリス革命、アメリカ革命、フランス革命)・産業革命がもたらした急速な社会変革(民主化や資本主義化)が進んだはけ口か、さまざまな悪趣味・不気味な習慣が知られていた[26][27][28]。文明開化の裏側では、これらの習慣も何らかの形で日本にも伝わった。
1839年に実用的な写真技術が発明されて以来、そのような奇怪な物の写真(髭の生えた女性、シャム双生児、小人症、4本足の人物など)や排便[29]、ヌード・ポルノ写真(児童ヌードも数多く制作されていた[30])も巷に出回り、人々の好奇を集めていた。19世紀終盤に映画が発明されると、すぐにポルノ映画が地下で制作されるようになったが、欧米や日本では公権力の下では非合法だった。
以前は絵画で表現されていた死の風景や残酷描写が写真記録としても残されるようになったことで、外科手術(癌で顔面が奇形化した写真も多々残されている)[31][32][33]、事故、殺人事件[34][35][36]、戦争(南北戦争ではすでにカメラが広く商用化されていたため、千切れた手足や損壊した顔面など多くの肉体損傷写真が残されている)[37][38][39][40][41]、果ては清朝時代の残酷極まりない拷問写真(特に凌遅刑)[42][43][44][45][46] や死体写真[47] が出回るようになった。その他にも、故人を生きているかのようにポーズを取らせて写真を取ることも流行した[48] が、これは葬儀の風習の一環である。1880年頃からから商用で使われ始めたハーフトーンという印刷法によって、白黒写真を雑誌に印刷できるようになったことでヌード写真が雑誌に掲載できるようになったが、同様にグロ写真が一般の出版物として写真集や雑誌の形で発行されていたかは、追加調査が必要で待たれる。
薬物(ドラッグ)が成分抽出・化学合成される以前は、向精神物質は自生植物から調合され世界中の文化で宗教的儀式において使用されていた。
19世紀にはドイツなどで化学が発展し、さまざまな向精神物質が植物より成分抽出・化学合成された。モルヒネ(1804年)、カフェイン(1820年)、ニコチン(1828年)、コカイン(1860年)など。1888年に長井長義がドイツ留学中に漢方薬の麻黄から抽出に成功したメタンフェタミン(商品名ヒロポン)は、第二次世界大戦中に兵士の疲労回復や士気向上に用いられ、戦後に多くの中毒者を出した。戦前は中毒性の強い薬物でも、エネルギー剤として市販されていたりした。戦後のアメリカでは、若者の間のドラッグ中毒が蔓延している。
1904年には、オカルティストのアレイスター・クロウリーが『法の書』を出版し、「汝の意志することを行え」というセレマ思想を提唱した。クロウリーは『法の書』(II,28) に対する「新しい注釈」の中でこう書いている。
「これが正しい」という基準などない。倫理とは戯言である。それぞれの星は独自の軌道を行くべきである。「道徳原理」などクソ食らえ。そんなものはどこにもないのだ[49]。
古代から存在する、自己の快楽(欲望)を追求する利己的快楽主義は、19世紀・20世紀初頭のオカルティズムにて再解釈され宗教・社会的道徳に反逆する悪魔崇拝カルトなども生まれ、20世紀後半のカウンターカルチャー運動によって再評価されるようになった[50][51][52]。例えば、快楽主義の一派キュレネ派のヘゲシアスは、人生は苦痛であり、自殺こそが快楽を追求する道だと説いた[53]。利己的快楽主義者では、極端なケースでは、自己の快楽のためならば姦淫、同性愛、児童性愛、近親相姦、快楽殺人[54]、自殺[55]、安楽死、などなんでも正当化され許されてしまうことが議論されてきた。また、悪魔崇拝では、自己の快楽が目的ではなくても、積極的に社会に対するあらゆる悪(破壊[56]、殺人[57]、強姦[58]、暴力、強奪、拷問、裏切り、虚言)を働くことが推奨される(自殺をすると悪を働けなくなるため自殺を推奨しない一派もあるし、より強力な悪に生まれ変わるため自殺を推奨する一派もある[59])。自殺予防の観点では、悪魔崇拝への傾倒は自殺の前兆の一つとも考えられている[60]。
19世紀のもう一つのトレンドは、ニーチェによって有名になった虚無主義(神の死)である。これは、人生に意味はない、世界に価値はない、客観的な真実や善悪(道徳)など存在せず全ては相対的である、全ては無に帰するため無意味である、すなわち「事実などない。あるのは解釈だけだ」などという態度である。たとえば1912年に刊行された『変身』は、ある男が目覚めるとグロテスクな虫になるという不条理なストーリーであったが、これはカフカなりのニヒリズムが反映された寓話と見る向きもある。
19世紀には様々な科学・技術が発達した一方で、副産物として疑似科学・境界科学も多く発生した。たとえば、脳を外科的にいじって精神障害を治療するロボトミー、受精のメカニズムの発見と聖母マリアの処女懐胎崇拝が融合した反中絶思想[61]、血液型の発見と欧米系にA型が多くアジアにB型が多いことからくるB型血液型差別[62]、ダーウィンの進化論の提唱から派生した社会進化論とメンデルの遺伝学から派生した優生学などからくる人種差別や障害者差別、女性医療における膣鏡の一般化からくる女性支配思想[63]などがある。日本でも19世紀以降に血液型差別やアイヌ[64]・韓国差別[65][66]、女性差別[67][68]などが明示的になり、これには西洋制度の影響がうかがわれる[69](もちろん、江戸時代にも穢多・非人などの身分差別や遊郭などの女性差別は存在した[70][71])。さらに、ユングによる「分析心理学」、フロイトによる「精神分析学」(鬼畜系の二本柱である死への衝動・デストルドー(タナトス)と性への衝動リビドー(エロス)の理論も含まれる)、フレデリック・マイヤーズによる「超心理学」(超能力)の研究も19世紀末から20世紀初頭に発表され、日本にもすぐさま伝わった。
さらに、長らく西洋世界の中心的宗教であったキリスト教では、各宗派の教主が神学解釈や異端審議を行なっていたが、宗教改革以降、権威が失われた。以後、万人司祭の潮流から様々な聖書解釈が花開き、怪しい新興キリスト教宗派が数多く誕生する(たとえば、非キリスト教者は終末戦争で皆殺しにされるというカルト的・差別的で悪名高いディスペンセーション主義などのクリスチャン・シオニズムや福音派[72]、エホバの証人、モルモン教など現代で言うキリスト教保守派)。19世紀には、東洋宗教の神秘思想が西洋にも持ち込まれ、東西宗教の融合した新興宗教も生まれた。19世紀アメリカの民衆宗教思想「ニューソート」は、引き寄せの法則やポジティブシンキング(積極思考)など、自己啓発の源流とも言われている[73][74]。これらの理論は、オカルトにて好まれて用いられている。また自らの魂・霊性を進化・向上させることを説く「神智学」の思想もこの時期に生まれた。
19世紀には反ユダヤ主義のプロパガンダとして、フリーメイソンやイルミナティが世界支配(新世界秩序、NWO)をもくろむ悪魔崇拝結社とする陰謀論も生まれた[75]。このプロパガンダはナチスにも利用され、ポグロムやホロコーストの一因ともなった(詳細は「シオン賢者の議定書」および「ナチズムにおけるオカルティズム」も参照)。1950年代にはウィリアム・ガイ・カーが同様の陰謀論「影の政府」を普及させた(後にディープステート/DSとも)。このスキームは、ユダヤ教、共産主義、合衆国政府、国際金融機関などを攻撃するプロパガンダとしても利用されることになる[76]。
反ユダヤ主義は、ヨーロッパの歴史において根深く、数々の陰謀論(ユダヤ教徒がキリスト教徒の子供を誘拐して、儀式殺人を行なっているという血の中傷陰謀論や、ユダヤ人が毒を撒いて黒死病などパンデミックの原因を作っているといった陰謀論)によって、歴史上多くのユダヤ人が攻撃・迫害されてきた(詳細は反ユダヤ主義を参照)。血の中傷陰謀論は、20世紀後半に生じた児童人身売買陰謀論やピザゲートと同様に、子供の人権侵害をでっち上げて、嫌悪感を煽る構造となっている。また、ユダヤ人がパンデミックを意図的に引き起こしているという陰謀論は、コロナ禍に流布されたグレートリセット陰謀論の原型とも言える。こうした差別の根底には、キリスト教によるユダヤ教への宗教差別のみではなく、ヨーロッパ白人の中東系人種に対する人種差別も起因しており、これは現代の白人至上主義につながるものである[77]。
イギリスでは風刺漫画雑誌『パンチ』が1841年に刊行され、社会を面白おかしく皮肉的に風刺した。またこの頃の日本でも、時には不謹慎とも見なされた社会風刺雑誌として、野村文夫の『團團珍聞』や宮武外骨の『滑稽新聞』のようなものがあった。特に「癇癪と色気。過激にして愛嬌あり」をキャッチコピーに足掛け8年で全173号を刊行した宮武外骨の『滑稽新聞』は1901年の創刊以来、政府や役人の汚職や醜聞、既成ジャーナリズムの腐敗などを容赦なく暴き出し、歯に衣着せぬ過激な社会風刺が人気を集め、当時としては驚異的な8万部を発行した[78][79]。同紙は発刊中だけでも、外骨本人の入獄2回、関係者の入獄3回、罰金刑16回、発禁印刷差押え処分20回以上という壮絶な筆禍を受けたが、外骨は全く懲りることなく「寧ろ悪を勧めよ」「法律廃止論」「検事には悪い奴が多い」などの過激な持論を紙面に掲げた[78][80][81]。当然、検事からは「無政府主義の社会主義を理想とする新聞であり、国家秩序を甚だしく害するものだから、この際、発行禁止処分にするのが適当」と弾劾されるも[82]、不当に高額な罰金刑を下した検事を紙上でさらに攻撃し、大阪地裁による発行禁止命令[81] に先手を打つ形で最終的に「自殺号」(1908年10月20日付)を出すに至る。これには「権力に殺されたのではなく、自らの意志で自殺廃刊を選んだ」という外骨なりの自負とユーモアが込められている(さらに翌月『大阪滑稽新聞』を創刊して戦いを継続)[79]。以後も外骨は権威に屈せず、反骨と諧謔のパロディストであることを生涯を通してつらぬいた[83]。
大正時代に入ると、明治維新による国内産業の近代化の恩恵もあり、中産階級層が厚くなり消費文化を形成するようになった(江戸時代の大衆文化は江戸や大坂などの大都市の庶民が中心であった)。特権階級が欧米から学んで社会制度を制定した明治時代からさらに発展し、民衆が政治参加によって社会制度を制定するための大正デモクラシーという運動が盛んになり、1925年にはアジアで初の男子普通選挙が法定されたことで、戦後民主主義の礎を築いた。この時代は、軍国主義が台頭した昭和初期とは対照的に、官憲や大衆は性にもおおらかだった時代であったとされる。
遡ること明治時代には、James Ashtonによる『The Book of Nature』(1865年)[84] の翻訳本『造化機論』が1875年に刊行され、近代の言葉と論理で性を解き明かした記念碑的な書物となった。当時の一般人にはなじみのなかった精子と卵子のことなども解説されていた。「造化機」とは、当時の用語で「生殖器・性器」のことを指した。この書物を皮切りに、「造化機」について論じた書物は明治期には大量に刊行され、類本・異本・二番煎じを含めれば、優に100種類以上の「造化機論」が存在していた[85]。しかし、明治期は道徳的には保守的で、科学書であったため発刊が許されたが、男女の性器の図解等もあり、現在のエロ本のような関心で見られた側面もあった。明治末から大正になると、その種の本も次第に娯楽的な彩りを持つようになった。
ドイツの精神医学者・クラフト=エビングが性的倒錯について書いた『性的精神病理』(1886年)は、日本における変態性欲ブームの火付け役ともされている[86]。この書物は、1894年に『色情狂編』として和訳されたが明治政府に発禁とされた後、大正時代の1913年に解禁され、大日本文明教会から『変態性欲心理』と題して刊行された。この書籍中では「ひとりエッチ(クリオナ)」「性欲減退」「ホモセクシュアル」といった、現在では普遍的な性のトピックも紹介されているが[87]、それだけでなく「折檻プレイ」「露出狂プレイ」「放置プレイ」「イメージプレイ」「コスプレ」などアブノーマルな性癖も取り上げられていた。本書を嚆矢として科学の分野では「性科学」と呼ばれる学問分野が確立することになり[87]、日本においても学術的そして通俗的な「変態」考察がすぐに盛んになった[88]。「変態」という語は、1909年に刊行された小説『ヰタ・セクスアリス』で有名になったとされる。
中村古峡によって創刊された研究雑誌『変態心理』(1917 - 1926年)では、変態性欲論が議論され、男性同性愛者の読者たちによってゲイ解放区構想も議論された[89][90]。また田中香涯(田中祐吉、医学博士)によって刊行された『変態性欲』(1922年)では、それまで狭義の心理学用語として使用されてきた変態の通俗化が行われ[91]、羽太鋭治や澤田順次郎といったセクソロジストたちによる性科学の通俗化も起こった[92] 。変態という言葉自体も広く社会に浸透した流行語となり、宮武外骨は『変態知識』(1924年)を、梅原北明は『変態十二史』『変態・資料』(1926 - 1928年)を刊行するに至った[93][94]。特に梅原北明が企画した叢書『変態十二史』(文藝資料研究会)は合計15巻(12巻+付録3巻)という破格のシリーズとなった。このシリーズは「性」に限定されてきた「変態」の範囲をさらに拡張し、全巻のタイトルに「変態」を冠するという徹底ぶりと珍奇ぶりが大いに受け、500部限定の会員誌にもかかわらず、申し込みは4000〜6000部を突破した[95][96]。あらゆる事象に「変態」を当てはめようとするスタイルは時に牽強付会ですらあり、第8巻『変態仇討史』を著した梅原北明も同書の序文で「普通の仇討から特に変態と云う奴を選ぶことに務めただけですから、多少こぢつけたものもあります。/尤も、こぢつければ仇討と云う存在は確かに変態です」と言い訳している[97]。この時点で「変態」という用語は実態を失い、普通ではないものに対する曖昧な印象を包括するイメージとして流用されることになる[96]。
こうした戦前の変態言説の多くは、北明一味の「趣味的研究」を除けば、生半可な性知識に振り回される人々を啓蒙するという至って真面目な学問であった[98][99]。あくまで変態は「客体的な研究対象」であり、そこにはLGBTQに代表される性のアイデンティティなど存在せず、変態性欲者や性的逸脱者は「矯正されるべき存在」として扱われた。これは1868年の明治維新後、西側の性規範が輸入される過程で「性の近代化」が進み、性に対する保守化・均質化・標準化・規格化、すなわち「正常志向」が強調された為である[98][99]。そこから逸脱する存在は、しばしば蔑みの対象となった。これに関して『変態十二史』の編集発行人である上森子鉄ですら「我々まで変態だと思われたら困る」と発言しているほどである[100]。変態性欲者が当事者として主体となった「変態による変態のためのマニア雑誌」が登場するのは、戦後の『奇譚クラブ』(1947-1975年)を待つことになる[101]。
こうして変態文化は広がりを見せたものの、それを理論的に支える学問領域は未成熟なままであった。人間の根源である性的欲望が自然科学の分野で明確に確立するのは、クラフト=エビングの『変態性欲心理』から1世紀近く経った1979年、自然人類学者のドナルド・サイモンズが発表した『The Evolution of Human Sexuality』(性的欲望の進化)からである[102]。本書は人間の性行動の形成過程、たとえばオーガズム、同性愛、性的乱交、レイプなどを進化論的な枠組みで史上初めて体系化したもので、あらゆる学問(進化生物学、人類学、生理学、心理学、文献学)を統合して分析した点でも画期的だった。本書は後続の研究にも大きな影響を与えており、たとえばレイプにまつわる性的衝動を進化生物学で分析し、フェミニストとの間で大論争にもなった問題作『人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす』(2000年)も本書の絶大な影響下にある。もっとも、自然科学の観点から性的逸脱の研究が本格化し始めたのは、つい最近のことであり、依然として追加調査が待たれる。
その間、日本発の変態文化は「おたく」の出現にともない、二次元のコンテンツに比重を置くことになる。またインターネットが急速に発達した1990年代には、米裁判所がオンライン上のわいせつ表現をゆるやかに解釈するようになり、日本のアダルトアニメは世界に開放された[103]。2000年代には、日本のアダルトアニメやキワモノAV、アダルトゲームのジャンル(ロリ、異種姦、ぶっかけ、ごっくんなど)を表す言葉として「Hentai」というキーワードが世界中に広まっている[104]。
19世紀のイギリスやアメリカでは、フリーク・ショウと呼ばれる見世物小屋にて世の中の奇怪なもの(奇形、部族の全身入れ墨や身体改造など)を、人間動物園では西洋文化以外の部族・人種や非健常者を見せ物にしていた。日本でも、欧米の植民地帝国主義の流儀に倣って、20世紀初頭に台湾人やアイヌ人など、弱小民族の人間動物園的展示を博覧会にて行っている。これらは現代の人権感覚に照らすと差別極まりないものであった。
また、19世紀は都市人口の増加と劣悪な環境に住まう労働者が増え、コレラなどの伝染病も蔓延した。これを背景として、欧米では「衛生知識普及」のための催事である衛生博覧会が19世紀半ばに始まった。大きなものでは、1883年のロンドン万国衛生博覧会、1883年にベルリンで「全ドイツ街生・救命覧会」が、1903年にはドレスデン都市博覧会の特別展として「国民病とその克服」が開催されている。アメリカでも同様に博覧会における衛生展示が行われ、人体解剖模型の鑑賞ブームが起こった[105]。19世紀後半のパリで開催された解剖蝋模型展覧会は大人気を博し、ヨーロッパを移動する展覧会になった。そこでは結合双生児と呼ばれた身体の一部が結合している双子の模型も展示されていた[106]。1911年のドレスデン国際衛生博覧会では、大衆向けアトラクションも数々設置され、中でも人体展示館の性病ブースなどの精巧な蝋人形は国際的な評判を呼んだ[107]。
日本でも1887年の「衛生参考品展覧会」(東京・築地)を皮切りに、昭和初期まで全国各地で衛生博覧会が開催された(戦後も再開されているが、現在では保健衛生思想が行きわたったことでこの展覧会の役割は終えている)。大正期になると、見せ物的エログロ要素が白熱し、ビール過飲心臓、子宮炸裂、コレラ小腸、天然痘皮膚、トラホーム模型、花柳病模型、淋病男局部のウミ、寄生虫模型、梅毒になった女性器、強姦殺人の現場再現のようなものが公然と展示され鑑賞されていた[108]。1914年の東京大正博覧会の衛生展示は、生身の人間から疾病・臓器・死体・ミイラにいたるまでなんでもありの企画となり、保存液につけた生首10級、刑死した高橋お伝の性器や刺青を入れた皮膚なども展示されたという。東京大正博覧会の展示物はその後更に充実し、「大阪衛生博覧会」(1915)、「戦捷記念全国衛生博覧会」(1919)、「児童衛生博覧会」(1920)、「大正衛生博覧会」(1921)、「平和記念東京博覧会」(1922)、「名古屋衛生博覧会」(1926)などへと引き継がれた[109]。
衛生博覧会は、1985年にも、本来純粋なはずの芸術を取り戻すために「制約やモラルなどの精神的な不衛生を排し、本能のおもむくままに創作に取り組もう」との趣旨で有志のアーティストたちによってリバイバルした[110]。好奇のための人体展示という意味では、人体の不思議展、目黒寄生虫館、温泉観光地にみられる秘宝館(性のミュージアム)、閉館した元祖国際秘宝館の展示物を引き継いだまぼろし博覧会は、衛生展覧会の系譜に連なるものと捉えることもできる[111]。
欧米における1920年代は、毒ガス兵器など非人道的兵器や大量破壊兵器も登場し破滅的だった第一次世界大戦(1914 - 1918年)からの反動で、既存の権威に対する不信感が高まり、冷笑主義や反権威主義が蔓延し、より自由な社会を望む風潮が世界的に高まった。アメリカでは婦人の参政権が成立し、女性の服装や髪型は動きやすいボーイッシュなものが流行した。狂騒の20年代を背景として登場したフラッパーなどのファッションスタイルは、モボ・モガとして日本にも伝わった。バーレスクもこの頃には、ストリップショーがメインの出し物に成り下がった。また、ティファナ・バイブルと呼ばれる、粗雑な画風のポルノ漫画誌もこの頃に出回るようになった。
世界では、ダダイズムなどの反芸術の流れが起き、マルセル・デュシャンは小便器を芸術作品(1917年)として発表し、マン・レイは性交中の結合部のアップの写真を芸術作品として1920年代に発表した。この流れは、シュールレアリズムやアバンギャルドなどの前衛芸術に連なる伝統的な系譜でもある。また1929年には実験映画の『これがロシヤだ』と『アンダルシアの犬』が公開され、前者では出産シーンが映されたほか、後者では女性が剃刀で眼球を切り裂かれるという衝撃的なイメージが描写された。
1929年の世界恐慌によって社会・政治が保守化したことで、解放的なムードは戦後まで抑圧されることになった。その後、不謹慎とみなされる文化の多くは地下へ潜ることになり、ドイツではナチスによって前衛芸術は退廃芸術という烙印を押され、徹底的に弾圧された。
世界恐慌が起こった1929年から1936にかけてエログロナンセンスと呼ばれる退廃文化が日本でブームとなった。時代的背景として関東大震災(1923年)による帝都壊滅、官憲のファシズム台頭、プロレタリア文化運動の弾圧、恐慌による倒産や失業の増加、凶作による娘の身売りや一家心中などで社会不安が深刻化しており、出口のない暗い絶望感とニヒリズムが世相に充満していた[114]。大衆は刹那的享楽に走り、共産主義革命を翼賛する“反体制的反骨”のプロレタリア文化運動も行き詰まりの果てに、常識を逸脱するエログロナンセンスへと流れていった[115][116]。
このブームの中心人物こそ「エログロナンセンスの帝王」「地下出版の帝王」「猥本出版の王」「発禁王」「罰金王」「猥褻研究王」などと謳われたエログロナンセンスのオルガナイザー・梅原北明である。北明は『デカメロン』『エプタメロン』の翻訳で知られる出版人で、1925年11月にはプロレタリア文芸誌の体裁を取った特殊風俗誌『文藝市場』(文藝市場社)を既成文壇へのカウンターとして創刊。創刊号では「文壇全部嘘新聞」と題して田山花袋、岡本一平、辻潤が春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸が全焼し、上司小剣が惨殺されるという過激な虚構新聞を見開き一頁を割いて掲載した。それら内容はいずれも冗談と諧謔の精神に満ち溢れており、既成権威に対してイデオロギーを持たず[117][118][119] 無意味なまでに反抗するような姿勢は、当時の同人からも「焼糞の決死的道楽出版」と評された[120][121][122]。
1926年12月、北明が出版した会員誌『変態・資料』(文藝資料編輯部)4号では、月岡芳年画『奥州安達がはらひとつ家の図』と共に、伊藤晴雨が撮影した「逆さ吊りの妊婦」(1921年)が本人に無断で掲載された。その上「この寫眞は画壇の變態性慾者として有名な伊藤晴雨畫伯が、臨月の夫人を寒中逆様に吊るして虐待してゐる光景」「恐らく本人の伊藤畫伯もこれを見たら、寫眞の出處に驚くだらう」という事実無根の解説文を載せ、大いに物議を醸した[注 1]。なお、北明と晴雨は留置場で同室した仲であり、互いの性格をよく知っていたことから、晴雨は写真の無断転載について「北明という男は罪のない男で腹も立たない」と述べている[123]。以降も同誌には過激なグラビアが掲載され、9号(27年6月)には反戦写真集『戦争に対する戦争』(1924年)から負傷兵のえぐれた顔写真を無断転載し、チューブで食事する写真に「何と芸術的な食べかただろう!」「手数はかかるが彼の生活は王侯のそれと匹敵している」など本来の文脈から完全に逸脱した不謹慎なキャプションを添えた。この他にもミイラや手足のホルマリン漬けなどグロ写真が終刊まで無意味に掲載され続けた。
この間にも北明の出版物は、立て続けに発禁・摘発・押収を喰らうようになる[注 2]。次第に北明の目的は、変態雑誌を世に送り出すことなのか、それとも「変態」を用いて官憲への抵抗を周囲に見せびらかすことなのか、いまいち判然としなくなっていった。これについて竹内瑞穂は「彼が〈変態〉を用いて行ったのは、“〈普通〉であれ”と高圧的に命じてくる公権力への抵抗であった」と指摘している[125]。しかし「変態」を用いた抵抗もむなしく、1928年までに『変態・資料』および『文藝市場』とその後継誌『カーマシャストラ』は徹底的な発禁処分により廃刊に追い込まれ、北明本人も出版法19条「風俗壊乱」の疑いで市ヶ谷刑務所に投獄され前科一犯となる。
限界を感じた北明は「エロ」から「グロ」に転向し、仮出獄後すぐに猟奇雑誌『グロテスク』(1928-1931年、グロテスク社→文藝市場社→談奇館書局)を創刊する。
さっそく新年号が発禁になると、北明はそれを逆手にとって読売新聞に「急性發禁病の爲め、昭和三年十二月廿八日を以て『長兄グロテスク十二月號』の後を追い永眠仕り候」というユニークな死亡広告を出し、世人の注目を集めた。また北明は度重なる発禁を「金鵄勲章ならぬ禁止勲章授与、数十回」と声高らかに喧伝し[127]、警察からは「正気だか気ちがいだか、わけのわからぬ猥本の出版狂」と見なされた[122]。発禁本研究家の斎藤昌三は「軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明と宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関である」と評価している[128]。結果、北明は生涯で家宅捜索数十回、刑法適用25回、出版法適用12回、罰金刑十数回、体刑5年以下の筆禍を受けることになった[129]。
与太雑誌『グロテスク』自体は度重なる発禁と罰金で、ほとんど採算無視の放漫経営状態にあったが、発行部数だけは伸び続け、1929年4月号で部数は遂に1万部を突破した。同誌は『変態・資料』と違って一般に市販されたこともあってか、文献研究雑誌の趣が強く、北明自身も「文献趣味雑誌」と自認していたため、後の視点で見ると決してグロテスクなわけではないが、戦前の抑圧社会で「グロ」を主題にした軟派雑誌が公刊で1万部を売ったという事実は、それだけで驚異的だった[130]。結果的に『グロテスク』は出版界にグロ旋風を巻き起こし、数多くの亜流本を生みだした(後述)。
1931年に北明は、菊判2100頁にも及ぶ古新聞漁りの集大成『近世社会大驚異全史』[131]を刊行する。しかし今度検挙されたら保釈がきかないと弁護士から宣告された北明は当局から逃れるため上海や大阪に逃がれ、ほどなく艶本出版から完全に手を引き、靖国神社の職員となった[122][132]。また二・二六事件以降は国内での検閲・発禁が激化していき、一連のムーブメントは1936年頃を境に終息していった。この年、日本三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』を著した夢野久作も急逝する。
出版界は1929年から1931年頃にかけて「変態ブーム」に代わり、拷問刑罰や犯罪科学にまつわる学術書籍が相次いで刊行されるなど「猟奇ブーム」で沸いた。これは「エロ」が露骨な弾圧を食らうようになってきた背景があり、エロが駄目なら「グロ」を主軸に展開しようということだった[注 3]。
当時流行した「刑罰もの」のモチーフは、刑罰史から姦淫刑罰、宗教刑罰、歌舞伎の残酷演劇、伊藤晴雨の責め絵まで幅広く、変態風俗本と同様に各ジャンルを横断的に網羅していた。また、刑罰ものは単に猟奇趣味の好奇を煽るだけでなく、歴史風俗史料という言い訳が可能で、図版に修正を入れなくても当局の監視下で堂々と出版できるという抜け道があった(性科学系の文献雑誌は、学術誌であると同時に性的欲望を満たすエロ本としても機能していた)。
日本の近代司法における第一号の犯罪心理学者は寺田精一と言われており、1910年代から22年まで研究成果を発表している[133]。変態心理学や精神病理学では1910年代に民間学者による「変態性欲」の通俗的研究が行われた[134] ように、犯罪心理学も猟奇犯罪心理の通俗的研究の対象となった。1930年には犯罪心理学を建前とした猟奇雑誌『犯罪科学』(武侠社)が創刊され、1932年まで続刊した。主幹の田中直樹はその後も後継誌『犯罪公論』(文化公論社)を発刊し、エログロ雑誌界を風靡した[135]。
特に有名なものが、各界の権威を招いて1929年から全16巻を刊行した犯罪科学全集『近代犯罪科学全集』(武俠社)である。秋田昌美は著書『性の猟奇モダン』で「この全集が出たこと自体、日本の出版界においての大事件だったというべきだろう。それを可能にしたこの時代がエロ・グロ・ナンセンスに沸き立った熱い戦前の一時代だったのである」と評価している[136]。
1930年頃には、エログロナンセンスが頂点に達し、死体写真集に相当する奇書が出回った。同年3月、武侠社の柳沼澤介[137] は『近代犯罪科学全集』の別巻として、図版中心の非公開資料集『刑罰変態性欲図譜』(刑罰及変態性欲写真集/DIE BILDER UBER DIE STRAFE UND ABNORMER GESCHLECHTS TRIEB)を少数頒布した(1996年6月に皓星社から復刊)。本書は「刑罰」「性犯罪」「文身」「責め」の4章から構成され、豊富な写真と図版が300点あまり掲載された。序文には「犯罪科学の研究の資料として世の真摯なる研究家の参考に…」とあるが、実態は今で言うところのSM本であった。刑罰の章では、1868年に発禁となった『徳川刑罰図譜』からの転写、幕末の刑罰/処刑写真、宗教的迫害を描いた拷問絵巻、世界各地の刑罰図譜などが掲載された。また性犯罪の章では、1917年に起こった下谷サドマゾ事件(日本初のSM怪死事件)[注 4]で無残な死体となったマゾヒストの人妻・ヨネの裸体写真が掲載された。さらに文身の章では責め絵、無残絵、伊藤晴雨の緊縛写真が多数紹介された(晴雨自身も「責めの研究」と題したSM論を寄稿している)。
1930年8月には『刑罰変態性欲図譜』と同じ発行元(正確には武俠社内犯罪科学同好研究会)から『犯罪現場写真集』(BILD DES VERBRECHENS IN ELAGRANTI)が発行された[注 5]。これは日本初の本格的な死体写真集とされている[138]。本書の序文には「主として強盗殺人、強姦致死並びにその疑ある犯行等の現場写真を収載した」とあり、実に100枚もの死体写真を掲載した。また扱われた61件の事件中15件が日本のもので、書籍の後半では日本人の死体写真も扱われており、これは海外の死体写真を差し置いて抜きん出た臨場感を放っていた。小田光雄は「無残な写真のオンパレードで、まさに『グロ』そのもの」と評している[137]。
しかし、グロには寛容であった官憲とはいえ、やはり本書の内容は目に余る代物だったようで、刊行翌月には「風俗禁止」で発禁となった[138][137]。結果的に『犯罪現場写真集』の前後が犯罪・猟奇ブームのピークとなり、1935年に中央公論社が出した『防犯科学全集』では性犯罪がわずかに扱われるだけで、基本的には防犯教育を説く内容であり、猟奇的なムードは一掃された。
1936年には社会を震撼させた二・二六事件が起こり、日本社会は暗い雰囲気に包まれるが、そのわずか3か月後に大島渚監督『愛のコリーダ』のモチーフとなった阿部定事件が起こる[139]。「性愛の極北」としか表現しようのない猟奇的犯行と、阿部定の妖艶な魅力に人々は熱狂した[140][141]。この事件は結果的に、エログロナンセンス時代最末期の掉尾を飾ることになる。
第二次世界大戦では、世界は有史以来の残忍な状況に突入し、人類史上最悪の犠牲者を出した世界大戦は1945年に終結した。
枢軸国の打倒が達成された後も、資本主義陣営と共産主義陣営との冷戦時代に突入した。そのため日米もまだ保守性が強く残り、既存の社会規範を打ち破ろうとする運動が社会全体に広がるのは、1960年代のカウンターカルチャー・ムーブメントを待つことになる。とはいえ、戦時中と比べると、前衛芸術の復興や、反抗音楽(ロックやフォークソング)の勃興、局地的カウンターカルチャー(ビートジェネレーション)、若者文化(ビート族や太陽族)の台頭などが起こり始める。また、ロカビリーミュージシャンのエルヴィス・プレスリーは、女性の髪型であった煌びやかなポンパドールスタイルと、ストリッパーのような性的腰振りダンスパフォーマンスで、これまでのタブーを破り、一躍若者の人気を博した。日本においても、ロックとリーゼントを愛好する後のヤンキー文化に大きな影響を与えた。
終戦後は言論統制が解放され、出版自由化に同調する形で、大衆の好奇心・覗き見趣味を煽る娯楽雑誌が大量に濫造された。これらの多くはエロ(性・性風俗)やグロ(猟奇・犯罪)に特化した低俗な内容で、たいてい3号で廃刊したことから、3合飲むと酔い潰れる粗悪なカストリ酒にかけて「カストリ雑誌」と総称された。発行されたタイトル数は2000とも4000とも推測されている[143]。また雑誌の内容には、快楽殺人や強姦、近親相姦、阿部定に代表される死体損壊など、非常に多くの倒錯性が含まれていた。凄惨な戦争から解放されたにもかかわらず、大衆がエログロを求めた理由については諸説があるものの、いまだに明らかではない[144]。
周囲からは「これからが梅原北明の真の出番だ」と期待されたが、すでに北明にその意志はなく、1946年に発疹チフスであっけなく逝去する[145]。終戦でエロ産業は一挙に解放され、巷は第二の桃色風俗出版ブームの華々しい黄金時代を迎えようとしていた[146]。
1946年1月には菊池寛の命名で『りべらる』(太虚堂書房)が発刊され、創刊号は1万部を売った[147]。同年10月にはカストリ雑誌ブームの火付け役となる『獵奇』(茜書房)が創刊され、発売から2時間で2万部を売り尽くした[142][148]。創刊の辞は「平和国家建設のために心身共に、疲れ切った、午睡の一刻に、興味本位に読捨て下されば幸いです」と、至って低姿勢なものであった[142]。
『獵奇』は、編集発行人の加藤幸雄いわく「梅原北明のような出版活動が戦後も堂々と出来るのか」という意図で創刊された[149]。実際、本誌には北明周辺の作家も積極的に起用されており、2号からは北明の盟友だった花房四郎、明治大学教授で『変態十二史』シリーズを3冊も執筆した藤沢衛彦(本誌の顧問も兼任)[150]、同じく本誌の顧問で北明とは深い交流があった古書研究家の斎藤昌三[151]が編集者兼作家として参加した[152][153][154]。それ以外の執筆陣としては、SM界の巨匠と名高い伊藤晴雨[155]、生殖器崇拝研究の大家である久保盛丸[156]、北明の雑誌『文藝市場』同人の青山倭文二[157]ら錚々たるメンバーが名を連ねた。『猟奇』が出版史に名を残したのは、カストリ雑誌のスタイルを確立し、数万部を売ったこともあるが、注目すべきは第2号(1946年12月)に北明の遺作『ぺてん商法』と彼の訃報が掲載されたこと[152][158]、そして北川千代三の官能小説『H大佐夫人』が問題視され、戦後はじめてわいせつ物頒布等の罪(刑法175条)による摘発・発禁を受けたことである[159][160]。これは結果として『獵奇』の名声を高め[142]、ここから戦前の性文献によく見られた考証や研究によらない「エロ読物を中心としたカストリ雑誌」への胎動が始まったとされる[161]。亜流誌としては『新獵奇』『オール獵奇』『獵奇読物』『獵奇実話』『獵奇世界』『獵奇倶楽部』『獵奇ゼミナール』『獵奇雑誌・人魚』など「獵奇」を冠したカストリ雑誌がとにかく雨後の筍のように創刊された[162]。
また戦後は阿部定リバイバルとも言うべきブームが起き、1947年3月に織田作之助が発表した『妖婦』を皮切りに阿部定事件を興味本位で扱ったカストリ本(お定もの)が相次いで出版される。木村一郎著『昭和好色一代女 お定色ざんげ』(石神書店・同年6月)は、地下出版された定の供述調書『予審訊問調書』[141] を告白文体で官能的に脚色したもので、発行2か月で公称10万部以上を売った[163]。しかし、再び好奇の視線に晒された定は憤慨し、版元を名誉棄損で告訴する[164]。その後、開き直った定は変名での生活を捨て、坂口安吾と対談したり、阿部定劇の主演女優となって全国を巡業したり、浅草の料亭で看板仲居を勤めたりするなど、波瀾万丈の生涯を送った[139][163]。一人の男との愛と情欲に生きた阿部定の消息は現在も不明で、その最期を知るものは誰もいない。
このカストリ雑誌ブームは1947年にピークを迎えた。ほどなく露悪的でも猟奇的でもなく「夫婦間の性生活」という大衆的な目線でエロ(性)を打ち出した『夫婦生活』が大ヒットし、摘発と隣り合わせのアンダーグラウンドなカストリ雑誌は時代遅れになっていく[165][166][167]。結局、ブームは1950年頃までに終息し[166]、カストリ雑誌に関わったライター、編集者、デザイナーたちは無名のまま忘れ去られ、ほとんどの雑誌は公共図書館に所蔵されることなく散逸した[143]。わずか数年で幻のように消えたカストリ雑誌は、現在もなお戦後出版史のミッシングリンクとみなされている[143]。その後、カストリ雑誌を構成する「読物」「風俗」「実話」などの要素は、その後の週刊誌に吸収されていった[166]。
なお、夫婦雑誌と前後してブームとなったのが、高橋鐵の性科学解説書『あるす・あまとりあ』の大ヒットを契機に創刊された『あまとりあ』『人間探求』『風俗科学』などの性科学研究誌である[168]。これら雑誌は官憲の摘発を逃れるため、知的・高踏趣味のスタイルをとっており、娯楽要素は極力排除されていたが、わずかに残存していたカストリ雑誌も含め、1955年の悪書追放運動と官憲による弾圧でほぼ壊滅に追いやられた[169][170][171]。また1960年代末にはカウンターカルチャー・ムーブメントの流れで、澁澤龍彥編集の耽美雑誌『血と薔薇』(天声出版)、ブラックユーモアやドラッグ・カルチャーを紹介した『黒の手帖』(檸檬社)、元『あまとりあ』編集長がプランニングした『えろちか』(三崎書房)などのインテリ向けエロ本が相次いで創刊されるが、売上不振により1970年代前半までに姿を消した。その後、元『えろちか』編集部の明石賢生と佐山哲郎は、従来のエロ本に対するオルタナティブとして伝説的自販機本『Jam』(1979)を創刊する[172]。
一方、欧米では1930年代から活動しているフェティッシュ・アーティストのジョン・ウィリーによるSM雑誌『Bizarre』(1946 - 1959)やGene Bilbrewによる『ENEG』、『Exotique』(1956 - 1959)などが出版されている。中でも有名なSM雑誌は、イギリスの『AtomAge』(1957年刊)である。SM雑誌以外にも、アメリカでは「パルプ・マガジン」と呼ばれる安価で低俗な娯楽雑誌が大衆の人気を集めた。
1960年代には特殊効果を用いた実写の猟奇映画が多数登場したが、それ以前の1940年 - 1950年代はECコミックなどのホラー漫画が残酷描写を担っており、これらの作品では「拷問」「猟奇殺人」「四肢切断」「眼球・内臓摘出」などの猟奇的テーマをはじめ、アメリカで根強い人気があるゾンビなど、数々のグロモンスターがアメコミタッチで描写された。日本では、日野日出志や楳図かずお、古賀新一、丸尾末広が猟奇ホラーの重鎮である。猟奇やホラーに特化したイラストレーションは、1980年 - 1990年代のメタルやパンク・ロックバンドのジャケットでも数多く制作されている。
SMマニア専門誌の第1号は、1947年にカストリ雑誌として大阪で創刊された『奇譚クラブ』(曙書房→天星社→暁出版)である。創刊当初は単なる大衆向け娯楽誌であったが、1950年頃を境にカストリ雑誌ブーム自体が下火になり、さらには性交描写への厳しい取り締まりの影響もあって、ほとんどのカストリ雑誌は姿を消していった。そこで同誌は須磨利之の提案で1952年5・6月合併号から変態路線に転向する。転向の背景には、同性愛・SM・女斗美・切腹・屍体愛好といった変態性欲は「特殊な趣味」として官憲側に過小評価されていたという事情もあった[168]。だが、エロを売り物にしている大衆雑誌でも「変態」に対しては客観的立場から嘲笑、あるいは差別・罵倒するニュアンスが含まれており、マニアからは大変不評であった[173]。
『奇譚クラブ』が画期的だったのは、編集者自身がSMや変態性欲に造詣が深かったことにある。特に編集部に在籍していた須磨利之は、ライター・イラストレーター・編集者として1人3役をこなし、マニア向けSM専門誌のスタイルをほぼ1人で築き上げた[174][175]。また須磨は「喜多玲子」という筆名で「責め絵」「縛り絵」も大量に手がけており、責め絵の第一人者である伊藤晴雨に才能をほれ込まれるほどの人気作家となった[176][177]。須磨は自身の性的嗜好について次のように語っている。「ぼくは女色男色すべて好き。正常異常みんな好き。人が人を好きになってセックスを楽しむことみんな好き。ぼくが体験していないのは、レズのセックスだけだ。ぼくは男だから、彼女たちの心はわかっても、あれだけは経験できない。あとは何でもやってるよ」[178]。須磨と交流があった濡木痴夢男は、喜多玲子の登場を「アブノーマル雑誌における驚嘆すべき出来事だった」と語っている[177]。
その後、須磨利之は『奇譚クラブ』から『裏窓』(久保書店)へ移籍し[179]、1970年代以降は『S&Mコレクター』(サン出版)に緊縛師や責め絵師として携わるなど、名実ともに戦後SM文化の立役者となった。『裏窓』2代目編集長の濡木痴夢男は「日本にただ一人、あるいは世界に一人の存在」「須磨のように異常性欲に関して万感の理解力と、表現能力をもつ画家はめったにいるものでない」と評している[180]。
須磨の敷いた「誤解なし」「手抜きなし」「曖昧さなし」という誠実な編集体制は、レベルの高い誌面を形成し、文化人からの注目も集めた。『奇譚クラブ』の愛読者には川端康成や三島由紀夫、澁澤龍彥、寺山修司らがいる[181]。同誌は1953年頃までに10万部を突破し、東京では便乗誌『風俗草紙』が創刊され、性風俗誌は黄金時代を迎えた[168]。
『奇譚クラブ』は須磨が去った後も、日本中の変態読者から小説の寄稿が相次いだ。また滝麗子や秋吉巒、四馬孝、中川彩子、古庄英生、畔亭数久などの優秀なSM画家が登場したこともあり[176]、ハイレベルなアブノーマル路線は維持された。途中、発禁による影響でビジュアル面の大幅な縮小があったものの[176]、沼正三の鬼畜SM小説『家畜人ヤプー』や団鬼六『花と蛇』など歴史上に残るSM文学を輩出し、発行人の急逝によって1975年に休刊するまで同誌は日本のSM文化を支え続けた。
1950年代から盛んになった社会の構造的差別に抵抗する公民権運動の流れに続き、1960年代には世界的にカウンターカルチャームーブメントが広がり、既存の社会規範から解放されようという動きが一般にも浸透した。以降は、平等主義・個人主義(自己中心主義)、個人の権利と自由・快楽を追求する志向性が社会に到来し、社会や家庭よりも個人の利益を追求するライフスタイルが定着した[182][183]。この時代には、それまでアンダーグラウンドだったエロやグロの表現も徐々に表立つようになり、後にはさらに過激化させる方向に進んでいくことになる。そうして、さまざまなサブカルチャーが生まれた。
一方で、カウンターカルチャー運動によって否定された伝統的な家庭観、性道徳、キリスト教的倫理観を重視する保守派は、これまでの反共に加えて、反カウンターカルチャーや反リベラルの草の根運動、そしてキリスト教原理主義運動などを活発化させることとなった[61]。またリベラル層の自壊も進み、たとえばカウンターカルチャーの流れで登場したフェミニズムや環境主義などを絶対視する急進派は、偏狭で反知性主義的という指摘[184]もあるポリコレの押し付け、ないしキャンセル・カルチャーに陥ることにもなった。一方、差別的表現やヘイトスピーチなども許容する表現の自由派・貧富の差や環境破壊など経済活動の自由派は、リバタリアンとして、反リベラルの社会保守派と政治共闘することになった(文化・政治戦争)。
1960年代には反戦フォークなどカウンターカルチャー性を強く持ったコンテンツが多かったが、1970年代以降の学生運動の過激化(特に日本の学生運動に特徴的な内ゲバ闘争)によって支持を失った。そのため日本において「サブカルチャー」と名乗る文化は政治性やカウンターカルチャー性、「何か大義を掲げて運動することそのもの」の否定から生まれ、反政治的でラジカルなニヒリズムがそこに君臨した[185][186]。
ザ・スターリン、じゃがたら、非常階段、ハナタラシ、TACO、ガガーリン、ゲロゲリゲゲゲ、ハイテクノロジー・スーサイドなどがいる。たとえば遠藤ミチロウは観客に豚の臓物や汚物などを投げ込み、江戸アケミは流血・放尿のほかニワトリやシマヘビの首を生きたまま食いちぎり、山塚アイはユンボでライヴハウスの壁を壊し、非常階段の女性メンバーはステージで放尿し、田口トモロヲは炊飯器に脱糞し、山崎春美は自殺未遂ギグを決行した。
1976年頃、それまでの出版文化とは全く異なる出自をもつ自販機本が、旧来のエロ本へのアンチテーゼとして突如登場した[187]。自販機本は、街角に設置された自動販売機のみで販売されていたアンダーグラウンドなエロ本で、出版業界の最底辺に属する存在であり[188]、出版取次を介さず自主規制とは全く無縁という自由なメディアでもあった。主力ジャンルは写真誌・実話誌・劇画誌だが、編集者には全共闘世代も多く、既存の枠に収まらない作家や表現が積極的に採用された結果、ニューウェーブ系のサブカル誌が次々に登場した。たとえば『劇画アリス』(アリス出版/迷宮)は、三流劇画ブームの一角を担ったほか、メジャー誌から自販機本に進出した吾妻ひでおは『少女アリス』(アリス出版)に画期的なロリコン漫画を連載する[189]。
このように1970年代末には、既成の出版文化から逸脱したサブカル・アングラ誌が続々と登場し、独自の文化を形成していた。そんな端境期に出現したのが、伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』(エルシー企画→アリス出版→群雄社出版)である。メディアマンの高杉弾(『Jam』『HEAVEN』初代編集長)と山崎春美(ガセネタ/TACO)らによって1979年3月に創刊された『Jam』は、20世紀末の日本で花開いた「鬼畜系」の元祖的存在とされた[190][191][192]。特に『Jam』創刊号の爆弾企画「芸能人ゴミあさりシリーズ」では、山口百恵の自宅から出たゴミを回収し、電波系ファンレターから使用済み生理用品まで、誌面のグラビアで大々的に公開したことから物議を醸した(雑誌上のゴミ漁り企画は、アメリカ合衆国のアンダーグラウンド・マガジン『WET』〈1976-81〉のゴミ漁り企画が元祖である)。また同誌では、ドラッグ、パンク・ロック、神秘主義、臨済禅、シュルレアリスム、フリーミュージック、ヘタウマ(蛭子能収・渡辺和博)などオルタナティブ・カルチャーを縦横無尽に取り上げ、知性と諧謔と狂気が交錯するパンクな誌面を展開した。
1980年代に特異なサブカル誌がエロ本などから出現した背景について大塚英志は「全共闘世代が〈おたく〉第一世代に活動の場を提供する、という形で起きた」と指摘しており[193]、これに関して高杉弾も「あの頃は自販機本の黄金期で出せば売れるという時代だったから、僕らみたいなわけの分からない奴にも作らせる余裕があったんだね。それに編集者は全共闘世代の人が多かったから、僕らみたいな下の世代に興味を持ってくれたんだと思うよ。それで『Jam』や『HEAVEN』を作ったんだよね」と述懐している[194]。その後、自販機本より過激なビニ本の台頭、全国に飛び火したPTAや警察による弾圧運動などで、自販機本は急速に姿を消す。しかしながら『Jam』『HEAVEN』のアナーキーな精神は、アリス出版から分派した群雄社を経て、白夜書房〜コアマガジン系のアダルト雑誌に引き継がれていった[187]。今日『Jam』『HEAVEN』は、伝説の自販機本として神話化されている[195]。
鬼畜系文筆家の草分け的存在である青山正明と村崎百郎も『Jam』の影響を強く受けた。青山は、キャンパスマガジン『突然変異』(慶応大学ジャーナリズム研究会→突然変異社)を創刊[注 6]。村崎百郎は『Jam』からヒントを得て「鬼畜のゴミ漁り」というスタイルを後に確立する[196]。
1980年代前半には“都市環境が美化された結果、死体が見えなくなったことに対する反逆”として局所的な死体ブームが起こった[201]。写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)に創刊号から連載され、わずか6回で打ち切られた藤原新也の『東京漂流』では、ガンジス川の水葬死体に野犬が喰らいつく写真に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というキャプションが添えられた。これはコマーシャリズムによって異物を排除する志向が広く浸透した、現代社会に対する痛烈なアンチテーゼである。
1982年にはインディペンデント出版社のペヨトル工房が刊行する耽美系サブカルチャー雑誌『夜想』5号で死体を通した文明論や異常心理に関する考察をまとめた「屍体─幻想へのテロル」特集が組まれる。1984年にはビー・セラーズ[202] から死体写真集『SCENE』(中川徳章・小向一實・芝田洋一選)が出版された[注 7]。これは法医学書や学術書の形を借りずに出版された日本初の死体写真集である。その後、同写真集に触発されたアリス出版編集部は『SCENE』の写真を転載し、自販機本『EVE』に根本敬の死体写真漫画『極楽劇場』を連載する(1991年に青林堂から刊行された根本敬初期作品集『豚小屋発犬小屋行き』に収録された)[204]。
その他にも大手出版社の写真週刊誌では、自殺した三島由紀夫や岡田有希子の死体写真、また日航機墜落事故や山岳ベース事件の遺体写真が大写しで掲載された[205]。1985年6月18日には豊田商事会長の永野一男が、約30名の報道陣の前で自称右翼の男に日本刀で刺殺され、その様子が全国の茶の間に生中継された[206]。
1981年には白夜書房がスーパー変態マガジン『Billy』を創刊。当初は芸能人インタビュー雑誌だったが全く売れず路線変更し、死体や奇形、女装にスカトロ、果ては獣姦・切腹・幼児マニアまで何でもありの最低路線を突き進んだ。その後も一貫して悪趣味の限りを尽くし、日本を代表する変態総合雑誌として、その立ち位置を不動のものにしたが、度重なる条例違反や有害図書指定を受け、誌名を変更するなどしたが全く内容が変わっておらず、1985年8月号をもって廃刊に追い込まれた[207]。
全盛期(1990年代)
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1989年、MONDOを日本に紹介したメディアマンの高杉弾はMONDOについて「アメリカのアングラでもサブカルでもない、政治性を持たないマヌケな文化」または「けっして新しくもカッコ良くもオシャレでもないけど、なんだか人間の普遍的なラリパッパ状態を表現する暗号的な感覚」と定義し「ポップでありながら繊細ではなく、間抜けでありながら冗談ではなく、人を馬鹿にしつつも自らがそれ以上の馬鹿となり、ときにはぜーんぜん面白くなかったりもしながら、しかし着実に生き延びていった」と評している[208]。 高杉弾は、MONDOの条件として「間が抜けている」「あまり面白くない」「安っぽい」「組み合わせの妙」「ややスケベ」「脳天気」などを掲げている[208]。高杉弾は、MONDOを取り巻く関連用語には「無意識過剰」「奇想天外」「天然」「不思議」「電波系」「へんてこ」「まぬけ」「ディープ」「B級」「Z級」「ポップ」「チープ」「トラッシュ」「ローファイ」「スカム」「キッチュ」「ビザール」「キャンプ」「フリーク」「ウィアード」「ストレンジ」「クィア」「エキゾチカ」「バッド・テイスト」などがあるとした(いずれも世紀末に再注目された)[208]。
また1993年に朝日新聞は「キワモノともジャンク(廃品)とも称される作品」「どういうつもりで作ったんだと、思わず製作意図を問いただしくなるような、音楽や映画」「懸命に作って、結局とんでもないものができてしまった、そんな間抜けさが受けている」とMONDOを要約した[209]。
バブル景気が崩壊した1993年頃から自殺や死体など「危ない書籍」に大衆的な注目が集まるようになっていった[210][211]。
1992年に青山正明が上梓した日本初の実用的なドラッグマニュアル『危ない薬』(データハウス)は10万部を超えるヒットとなった[212]。
1993年に鶴見済が発表した単行本『完全自殺マニュアル』(太田出版)はミリオンセラーを記録する[210]。
BD - 1993年1月創刊のミニコミ誌。『突然変異』の影響を色濃く受けており、結果的に1990年代の悪趣味ブームを先取りした。編集長はデザイナーのこじままさき。吉田豪、早川いくを、枡野浩一、リリーフランキー、根本敬らが寄稿し、全15号を発行(1・3・4号は欠番[213])。
宝島30 - 宝島社発行の月刊オピニオン雑誌。初代編集長は町山智浩。1993年6月創刊。政治からサブカルチャーまでテーマは広く、オウム特集や『SPA!』決別時の小林よしのりインタビュー、根本敬の連載『人生解毒波止場』など攻めた内容が多い。爆笑問題が連載していたコラム『爆笑問題の日本原論』は30万部を超えるベストセラーにもなった。1993年8月号では宮内庁守旧派による皇室内幕の告白手記を掲載し、右翼による銃撃事件に発展した[214]。1996年6月休刊。
1994年には『Billy』元編集長の小林小太郎が奇形&死体雑誌『TOO NEGATIVE』(吐夢書房)を創刊。隔月刊雑誌。初代編集長は元『Billy』編集長の小林小太郎。本誌では1990年代の『Billy』を標榜し、SM・ボンデージを主軸にしつつ撮り下ろしの死体写真も多数掲載して死体写真家の釣崎清隆を輩出した。1994年10月から2000年1月まで発禁による中断を挟みながら全13冊を刊行したが、新創刊した7号(1997年1月)以降、小林は編集に関わっていない[215]。キャッチコピーは「禁じられた絵本」。同誌では死体写真家の釣崎清隆を輩出し、画家のトレヴァー・ブラウンが起用された。
1994年、初代『SCENE』編集者の芝田洋一によってアルバロ・フェルナンデスの写真集『SCENE―屍体写真集 戦慄の虐殺現場百態』(桜桃書房)が発刊され[203]、定価1万5千円で2千部を売り上げた[216]。
1994年4月、海外タブロイド誌『Wilkly World News』をモチーフとした世紀末B級ニュースマガジン『GON!』が創刊(1996年6月にはコンビニ向けに月刊化された)。
1995年には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などの重大事件が立て続けに発生しており、それらに起因する一連の社会現象が悪趣味ブームと深く関わっているとされる[217]。特に1995年は「インターネット元年」[218] と呼ばれるように社会環境が大きく移り変わっていった激動の年でもあり[217]、宮沢章夫はこれらの事象による社会の混乱や不安定な情勢が、ある種の世紀末的世界観や終末的空気感を醸し出している悪趣味ブームの土壌になったことを指摘している[217][219]。また宮沢は自身が講師を務めるNHK教育テレビの教養番組『ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅲ』の最終回(2016年6月19日放送)において1995年を「サブカル」のターニングポイントと定義し、根本敬や村崎百郎をはじめとする90年代の鬼畜系サブカルを取り上げている[217]。
1990年代中頃になると鬼畜系サブカルチャーが鬼畜ブーム・悪趣味ブームとして爛熟を迎え、不道徳な文脈で裏社会やタブーを娯楽感覚で覗き見ようとする露悪的なサブカル・アングラ文化が「鬼畜系」または「悪趣味系」と称されるようになった[220]。
青土社発行の芸術総合誌『ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「総特集=悪趣味大全」では文学や映画、アートにファッションなどあらゆるカルチャーにキッチュで俗悪な「悪趣味」という文化潮流が存在することが提示され、これを境に露悪趣味(バッド・テイスト)を全面に押し出した雑誌やムックが相次いで創刊され一大ブームとなる。
「鬼畜系」という言葉自体は、1995年7月に創刊され「鬼畜ブーム」の直接的な引き金となった『危ない1号』(東京公司編集/データハウス発行)周辺から生まれた1990年代の特徴的なキーワードおよびムーブメントである。
このブームを代表する1995年7月創刊の鬼畜系ムック『危ない1号』(東京公司/データハウス)ではカルトグル、ハッサン・イ・サバーの「真実などない。すべては許されている」という言葉が引用された。『危ない1号』では「妄想にタブーなし」を謳い文句に「鬼畜系」を標榜し、ドラッグ・強姦・死体・ロリコン・スカトロ・電波系・障害者・痴呆・変態・畸形・獣姦・殺人・風俗・読書・盗聴・テクノ・カニバリズム・フリークス・身体改造・動物虐待・ゲテモノ・アングラサイト・カルト映画・カルト漫画・ゴミ漁り・アナルセックス・新左翼の内ゲバ・V&Rプランニング・青山正明全仕事まで、ありとあらゆる悪趣味を徹頭徹尾にわたり特集した。鬼畜・変態・悪趣味が詰め込まれた同誌はシリーズ累計で25万部を超える大ヒットとなり[注 8]、初代編集長の青山正明は鬼畜ブームの立役者とみなされた[220][223]。
結果として『危ない1号』は鬼畜本ブームの先駆けとなり、次に掲げるような後発誌も続々と現れた。
この時期の悪趣味ガイド本としては次のようなものがある。
MONDOとはイタリア語で「世界」を表し[要出典]、未開地域の奇妙で野蛮な風習を虚実ないまぜに記録したモンド映画『世界残酷物語』(1962年)のヒットにより世界中で定着した(原題の「MONDO CANE」は、イタリア語の定句で「ひどい世界」の意)。モンド映画とは世界中の奇習・奇祭などをテーマにした映画で、エログロ満載のショッキングな映像で観客の好奇心を惹きつけておきながら「狂っているのは文明人のほうだ」と、取ってつけたような文明批判や社会批判を盛り込んだ、社会派きどりのモキュメンタリー・猟奇趣味的なドキュメンタリーである。その後、MONDOという概念はアメリカで独自の発展を遂げ、単なる世界から「奇妙な世界」「覗き見る世界」「マヌケな世界」へと語義が変化し[208]、奇妙な大衆文化を包括するサブカルチャーの総称、ないし世間的に無価値と思われている対象をポップな文脈で再評価するムーブメントとして扱われるようになった。
このように鬼畜/悪趣味を前面に押し出した雑誌・週刊誌・月刊誌・隔月刊誌・ムック・単行本が相次いで出版されるようになり、ますますブームの過熱を煽っていった[215]。
ばるぼらは鬼畜ブームについて「95年に創刊した『危ない1号』(データハウス)を中心に流行した、死体や畸形写真を見て楽しんだり、ドラッグを嗜んだりと、人の道を外れた悪趣味なモノゴトを楽しむ文化」と定義し、「元々『完全自殺マニュアル』のベストセラー化をきっかけに『死ぬこと』への関心が高まり、死体写真集などの出版で『死体ブーム』とでも言うべき状況があったが、同じ頃『悪趣味ブーム』も並行して起こり、それらの総称として現れたキーワードが『鬼畜』だった。『危ない1号』の編集長、青山正明氏の出所記念イベント『鬼畜ナイト』(96年1月10日)が“鬼畜”のはじまりかと思う」と解説している[215]。
1996年1月10日には『危ない1号』関係者が総決起した、7時間にも及ぶ伝説的トークライブ『鬼畜ナイト』が新宿ロフトプラスワンで開催された。これを鬼畜ブームの出発点と見る向きも多い[225][215]。以後、一般的には嫌悪・憐憫の対象になるものをモンド視点で消費する風潮が加速する。例えば『GON!』『BUBKA』『世紀末倶楽部』『TOO NEGATIVE』『週刊マーダー・ケースブック』『別冊宝島』『危ない28号』など、見世物的好奇心や、覗き見趣味を煽ったサブカル雑誌が人気となった。コミック方面でも、読み物ページが格段に増え、総合サブカル誌としての傾向が強くなっていった『ガロ』(青林堂)が再注目されたほか、因果者(ダメ人間)を徹底的に観察した根本敬の人間紀行『因果鉄道の旅』『人生解毒波止場』『ディープ・コリア』が聖書的存在となる。
週刊SPA!編集部は、鬼畜ブーム特集「鬼畜たちの倫理観──死体写真を楽しみ、ドラッグ、幼児買春を嬉々として語る人たちの欲望の最終ラインとは?」(1996年12月11日号所収)で「鬼畜系」について「モラルや法にとらわれず、欲望に忠実になって、徹底的に下品で、残酷なものを楽しんじゃおうというスタンス」と定義した上で「死体写真ブームから発展した悪趣味本ブームの流れとモンド・カルチャー[2] の脱力感が合流。そこに過激な企画モノAVの変態性が吸収され、さらにドラッグ、レイプ、幼児買春などの犯罪情報が合体した」ことを踏まえながら「インターネットの大ブームにより、過激なアンダーグラウンド情報が容易に入手できるようになったのも、この流れを加速させた要因だろう」と大まかな流れを概説している[226]。
1997年には『危ない1号』『週刊マーダー・ケースブック』愛読者の酒鬼薔薇聖斗が神戸連続児童殺傷事件を起こし[227]、悪趣味系のサブカルチャー書籍を棚から撤去する書店が続々と現れた[228]。1999年5月には「ハッキングから今晩のおかずまで」を手広くカバーする日本最大級の匿名掲示板「2ちゃんねる」が西村博之によって開設され、鬼畜系のシーンは出版文化からインターネットに移行・拡散する形で消滅した。時期を同じくして鬼畜系/悪趣味系に属するサブカルチャー雑誌の廃刊や路線変更が相次ぎ、1999年の『危ない28号』廃刊をもって悪趣味ブームは完全に衰退を迎えた。
青山正明の自殺 (2001年)
2001年6月17日、青山正明は自宅で首を吊って自殺した[229]。青山の没後、村崎百郎が明かしたのは、実際に『危ない1号』に関わった人間で本当に「鬼畜」な人間は、村崎本人以外に誰もいなかったという解釈である[210]。これについてばるぼらは「実際に『危ない1号』に関わった人間は、青山も含め鬼畜のポーズを取っていただけであって、つまり鬼畜ブームは実質、村崎一人によって作られたといえるだろう。ただ当時は『危ない1号』は鬼畜な人間が集まって作った、サイテーでゲスな雑誌であるというイメージ戦略によって売り出され、そして結果的に成功した」と解説している[210]。
その後、カウンターカルチャーあるいはムーブメントとしての実体を失った「鬼畜系」は、負の側面も含めて村崎が単独で引き受ける形となった。しかし、インターネットの加速的な普及に伴う出版不況によって、70年代末の自販機本から胚胎した「鬼畜系」は自然淘汰されていく。
2010年7月23日、村崎百郎は読者を名乗る男に東京都練馬区の自宅で48ヶ所を滅多刺しにされて殺害された。当初犯人は特殊漫画家の根本敬を殺害する予定であったが、根本が不在だったため『電波系』(太田出版)の共同執筆者であった村崎の自宅に向かったという[230]。
男は犯行動機について「村崎の書いた本にだまされた」と供述し、住所は2ちゃんねるで調べたとした[231]。その後、犯人は精神鑑定の結果、統合失調症と診断され不起訴となり、精神病院に措置入院となった[232]。
2010年11月、村崎本人が遺した文章や関係者の証言などから綴った鬼畜系総括の書『村崎百郎の本』がアスペクトから刊行された。
レイシストをしばき隊の野間易通から鬼畜系批判が提起された。野間は、『危ない1号』などで青山正明が提唱した「すべての物語は等価」という社会構造の非対称性を無視する試みについて、ポストモダン以降の「大きな物語(戦後民主主義と高度経済成長に支えられた、社会全体で共有される統一的な価値観)の終焉」を可視化する目的があったと分析し、このような価値相対主義が“正義”をも相対化した結果、あらゆる道徳が価値を持たなくなり、それが現在のヘイト文化に継承されてしまった可能性を指摘した[3]。
野間と対立しているファシストの外山恒一も『危ない1号』が冷笑主義の系譜であることには同意見であり、「“宝島”系よりコアなサブカルの潮流があって、それは『ガロ』的なものと親和性があると思う。」「そういう“趣味”の連中って、本人は少数派でマニアックなセンスの持ち主だと思い込んでるんだろうけど、そんなもん典型的な多数派のメンタリティでしょ。反撃してこないと分かってる相手をからかって楽しむっていう、単なる“いじめ”のノリにすぎない。まさに“堕落したサブカル”だよ。」「野間さんが批判的なレッテルとしてよく“冷笑主義的相対主義”って云うじゃん。野間さんが批判すべきなのは相対主義ではなく冷笑主義のほうだと思うんだ。冷笑主義はたしかにヘイトスピーチの蔓延と関係ある。」と批判的見解を述べている[233][234]。
2010年代以降はSNSを中心に鬼畜系の功罪が論じられるようになったが、その強烈な語感からイメージのみが先行し、当時を知らない層には政治的な正しさの観点から必要以上に悪く思われ、否定的に扱われる節もある[235][236]。
90年代サブカルについて無責任な放言が跋扈することに強い危惧を持ったロマン優光は「90年代サブカルという特殊な文化を今の価値観で振り返り、怒り狂っているヤバい単細胞が昨今目立ちます。彼らによる考察ならびに反省は、一見まともでも的を射ていないものが実に多く、世間に間違った解釈を広めてしまう害悪でしかないのです」[237]と述べ、2019年に著書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)を上梓した。この中でロマンは鬼畜系サブカルの出自と存在意義、および文脈が失われた過程と、語義上の留意点を次のように総括した。
90年代というのは不思議な時代です。〔……〕建前が道徳的な機能を失っているのに、それはなかったことにして表面上だけ建前を優先する世界。綺麗事が蔓延し、綺麗なものしかメディアに出すことを許さない一方で、本音の部分では差別意識と搾取精神に溢れている。そんな時代です。当時はネットがそこまで発達していない状況で、一般の人が汚い本音を世間に撒き散らせる環境はなかったため、表面上は建前でコーティングされてました。〔……〕わかりやすく言うと、こういった社会に対して「そんな風に建前を言っているけど、本当は汚い欲望でいっぱいじゃないか。世界はこんなに汚いもので溢れている。お前らが覆い隠そうとしているような人間だって自分の人生を生きている」という風な異議申し立ての側面があったのが、「鬼畜系」だったのです。
「鬼畜系」というものは90年代社会に対するカウンターであり、それは当時の状況の中で一定の意義があったものでした。しかし、同時に当時の人権意識の低さから自由ではなかったし、本人たちの意図してない受け入れられ方を多くされていくことで、瓦解していったのです[注 9]。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、30-31頁。
ここで忘れてはいけないのは、「鬼畜系」はあくまで反道徳性、犯罪性の強いものを考察してたり、語ってたりするものを消費する文化であって、表面上に見られる読者へのあおりも基本ポーズであり、犯罪を犯すこと、反道徳的行為を実行すること自体を指していたり、それをみだりに推奨していたわけではないということです。そこは注意するべきところだと思います。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、12-13頁。
また「鬼畜系」の派生元となった「悪趣味系」についてロマンは次のように定義した。
90年代サブカルにおける悪趣味系というのは「価値のないもの、取り上げるに値しないものと見なされているものを、俎上にのせ再評価していくこと」をポップな文脈で楽しむという行為と、薬物、死体、殺人者などの情報を即物的に楽しむという行為の二つが混合されたムーブメントです。〔……〕視点の位置を変えることで対象に新しい意味を付加していき、それをポップなものとして提示するのが通例であり、「世間的に悪趣味な存在と見なされているもの」、「それを好むと世間的に悪趣味だとみなされるものを好むこと自体」をその対象に選んだのが悪趣味系ということです。悪趣味なことを実践していくことが目的ではなく、世間では悪趣味とされているようなものや行為を取り上げることに主眼がおかれているムーブメントだと考えれば、そう間違ってないのではないでしょうかね。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、20-21頁。
ロマン優光は『危ない1号』とそれ以前の悪趣味の違いについて次のように述べている。
『危ない1号』第2巻が刊行される一年前である95年にユリイカ臨時増刊『総特集・悪趣味大全』(青土社)が刊行されており、現在よりはるかに硬めでハイカルチャー寄りの性質だった『ユリイカ』が特集を組んでしまうくらい、悪趣味系自体が当時のサブカルチャーの中の一つの大きなムーブメントであったわけですが、そこの中での差別化を図るために使われたフレーズが鬼畜だったということだと思います。『危ない1号』第2巻のテイストは非常に露悪的なものであり、その意図された露悪的でゲスい視点にオリジナリティがあったことで、それ以前の悪趣味文化との差別化に成功していました。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、11-13頁。
またロマン優光はオウム真理教事件や阪神・淡路大震災などの影響で「たいした根はないけど変な終末『気分』になっていた人が増えていた」という状況にも触れ、「金銭や名誉、勉強やスポーツ、地道に文化を身につけるといったことから落ちこぼれたり、回避したりしながらも、他人との差異をつけたがるような自意識をこじらせた人たちが他人と違う自分を演出するためのアイテムとして、死体写真を使うようになった」と分析し、こうした潮流は自販機本に出自を持つアングラなサブカルチャーを踏まえた界隈にも流れこんでいったとしている[239]。
青山正明の「すべての物語は等価」という試みについてロマン優光は「失敗に終わった」として次のように総括している。
概念としては素晴らしいですよ。優劣をかってに決める社会に対して、優劣など存在しないということを言っているわけですから。この文章には感銘を受けた覚えはあります。しかし、全てが等価値だからといって、何をやってもいいということとは違うわけです。筒井康隆氏はフィクションとして、それをやっていたのですが、青山正明氏は現実をストレートに素材にしており、フィクションであるというワンクッションが置かれていないためにストレートに取られやすく、はるかに毒性に関しては強かったわけで。
彼は無邪気でした。そして、内面には良識というものがしっかり存在していました。無邪気にその良識に逆らって反語的に遊ぶゲームに興じていただけなのだと思います。しかし、その無邪気さと良識ゆえに、世の中には良識が備わっていない人間が存在すること、そういう人間が自分の悪ふざけを本気にして真似しだしたらどうなるかということが想像できていなかったのです。それは悲劇でもあり、失敗でもあります。その結果起こった出来事は、繊細なインテリであった氏にとっては、大きなストレスになったでしょう。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、38-39頁。
青山正明の死後もなお、村崎はサイバースペースにおける「言語ウイルス」[注 10]に抵抗を続け[201]、ネット文化とは全く無縁の位置で「鬼畜系」を名乗り続けた。だが、村崎は同じギミックを芸風として使い続けた結果、自己模倣を繰り返して迷走する。これについてロマン優光は著書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)で次のように推察した[243]。「それでも村崎氏が鬼畜の看板をおろさなかったのは、青山氏の死に対する思いからかもしれません」[244]。
雑誌『宝島30』で根本敬の連載『人生解毒波止場』を担当した町山智浩は、90年代の鬼畜系について「80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りがあった」「オシャレでバブルで偽善的で反吐が出るようなクソ文化[注 11]へのカウンターだった」という見解を示しており[245][246]、根本敬と村崎百郎が「すかしきった日本の文化を下品のどん底に突き堕としてやりたい」と心の底から叫ばねばならないほど、当時の日本文化は「健全で明るい抑圧的なオシャレ」ないし「偽善のファシズム」に支配されていたと述懐している[235][247]。
1970年代後半よりパーソナルコンピュータとダイアルアップ接続通信の普及が始まった。IBM DOSがさらにPCの規格統一と一般化を促進し、1980年代以降はハッカー・カルチャーも生まれた。1985年には『The Hacker's Handbook』が発売されている。日本でもクラッキングのハウツーを解説した『危ない28号』『コンピュータ悪のマニュアル』(ともにデータハウス)がインターネット黎明期の1990年代末に出版された[248]。
インターネット(ネットワーク同士をインターネットプロトコルで繋いだグローバルネットワーク)普及以前は、特定のホスト局(サーバ)にユーザのクライアント端末からダイアルアップ接続する通信を利用したパソコン通信による電子掲示板(草の根BBS)やネットニュース、ネットフォーラムコミュニティが1970年代に誕生し、1980年代に発達した。1980年代後半よりエロ画像を共有するグループが現れ、1989年頃にはSMトピックについて匿名で投稿するグループ (alt.sex.bondage) が現れ、以降エロ(特殊性癖や出会い系など)のようなセンシティブなトピックに関して匿名投稿が行われるようになった。1990年代前半には、匿名サーバや匿名メール転送サーバを利用した匿名投稿が普及し、匿名文化を誇るサイバーパンク文化も誕生した[249]。有名な匿名サーバには、Kleinpaste, Clunie and Helsingiu (Anon.penet.fri) があった。匿名サーバAnon.penet.friのように、1990年代前半にはすでにAnonymousを略してAnonと称したり、Anonimityを誇る言説が見られる[250]。1996年には、サイバースペース独立宣言が行われた[251]。こうして、カリフォルニア・イデオロギー (en) と呼ばれるIT革命による楽観的な未来予想図が生まれた。テックユートピアの思想は、後にオルタナ右翼の土壌となる[252]。
しかし、この初期の匿名文化は1990年代半ばまでには、ネット市民やシステム管理者の厳しい批判にさらされ、匿名投稿は削除されたり匿名サーバは閉鎖に追い込まれたりして、匿名文化はなかなか根付かなかった。1993年には、カルト宗教団体サイエントロジーのコンピュータからデータが盗み出され、匿名投稿者によってニュースグループに投稿され、サイエントロジーが運営者や通信事業者を訴えた。また、同年にはLifeStylesという掲示板で"Poo Bear"と"Wild One"という匿名投稿者によって児童ポルノが多数投稿され、警察による捜査によって投稿者が逮捕される事件も発生した[253]。同年には、PLAYBOY誌のエロ画像を集めた有名エロ系BBS「Rusty n Edie's BBS」が著作権侵害でFBIの家宅捜査を受けた。1996年にもBBS上で大量の児童ポルノを流通させた人物が逮捕されている[254]。
日本では1995年頃より、匿名掲示板の元祖といわれる草の根BBS「センターネット」やインターネットBBS「あやしいわーるど」などのアングラBBSが隆盛した。とくに大きなきっかけとなったのが、地下鉄サリン事件を題材にした不謹慎ゲーム『霞ヶ関』である。このゲームが1995年夏にパソコン通信上で出回り、これを朝日新聞と毎日新聞が同年10月26日夕刊で取り上げたことで、多くのメディアの注目を集めた[255]。こうした残酷ゲームは、1999年のコロンバイン高校銃乱射事件にも繋がったとの分析もある。当時、このゲームを所有していた「しば」は、このソフトを配布する目的で「あやしいわーるど」という掲示板を起ち上げ、90年代末において日本最大の規模を誇るアンダーグラウンドサイトとなる[215]。これらの匿名ニュースグループやBBS文化は、2ちゃんねる(あめぞうがルーツ)や4chanなどの巨大匿名掲示板文化につながっていく。
ジャーナリストの清義明は、リバタリアン的な自由至上主義とポストモダン的な価値相対主義をベースとする、インターネットの反体制的匿名文化が、後のポスト・トゥルース時代において、オルタナ右翼やトランプ現象などのカウンターカルチャーを生み出したと指摘している。
もともと90年代のネットでは「真実などない。すべてが許されている」という世界に、「アイロニカルな没入」をすることが、ひとつの思考実験的なものだった。職業と生活の分離からなる「市民社会」的常識から、さらにメタで分離した匿名のネット空間は、そんな混沌魔術の実験場だったわけだな。ところが、その実験は成功してしまうものも出来てきた。あたかもオウム真理教が、誰もがフィクションとおもっていたものが現実化したように。真実はなにもないというのは、なんであっても真実であるということと同じというレトリックが、現実として定着化したということ。この混沌魔術のメカニズムだと、ネットは仮想空間で現実ではないという言い分けは成立しない。仮想が現実化するのだから。アーリーアダプターがネタとして消費していたものが、繰り返されていくうちに現実となっていく流れだ。言霊の世界である。こういう流れはネットの混沌魔術は、世界中で起きていることであって、特に4chanからオルタナ右翼が生み出され、それがトランプ現象を駆動させた一連の光景は、むしろ日本から10年程度遅れているものと見てもよいと思われる。おそらくネットの匿名のコミュニケーションの形態と密接な関係がある。〔……〕もちろん、だから匿名から顕名にするべきとか、ネットの議論は必ずモデレーションされるべきとか、単純なバックミラー的な結論に集約できないところに、ネットの絶望的な未来の難易度がある。能天気に匿名は権威への反抗というようなロマンスを語る輩もまた絶望的である。 — 清義明のツイート(2021年11月24日)
1990年代には、ポルノ、スカトロ、暴力場面、侮辱、苦痛、卑語など扱うショックサイトなるものも誕生した[215]。こうして、インターネットポルノ(アダルトサイト)、アダルトゲームとともにアングラネットが隆盛する。その極みであるダークウェブでは、ドラッグや児童ポルノなど様々な犯罪コンテンツが販売されている[256]。
1996年には事故死体・検死・殺人シーンなどを集めたRotten.comが立ち上がり、同年4月には日本初と推定されるグロサイト「Guilty」が開設され[215]、同年5月には高杉弾のWEBマガジン《JWEbB》が創刊される[257]。同年11月には北のりゆき(現代版『腹腹時計』の異名をとる危険図書『魔法使いサリン』〈冥土出版・1994年12月〉で一躍有名になった『危ない1号』と『危ない28号』のライター。別名義に死売狂生・行方未知など)主宰の危険文書サイトの最左翼「遊撃インターネット」がスタートした。
昭和20年ごろに生まれた団塊の世代と呼ばれる人たちは、学生になると大学の校舎を占拠して機動隊に投石したり、ドロップアウトして女の子と下宿で同棲をはじめたりと自堕落な生活を送っていました。今から30年ほど前、1970年前後のことです。結婚前にセックスをしてもよいことになったり、LSDやマリファナが有名になったり、バクダンがポピュラーになったのもこの世代の人たちの功績(?)なのです。
オレはこの時代が大好きですっかりあこがれてしまい、バブル景気のころは時代遅れのヘルメットと覆面スタイルでデモに参加して機動隊とこぜりあいを繰り返したものでした。そうして危険文書に出会い、収集をはじめたのです。将来の武装闘争の参考になる(笑)などと理屈をつけていましたが、今から考えると単にあやしげで、いかがわしくて、青臭くて、キケンで、ドロドロと臭ってくるような危険文書が、好きだっただけなのかもしれません。[258]
翌1997年にはスーパー変態マガジン『Billy』『TOO NEGATIVE』元編集長の小林小太郎が運営していた死体写真ギャラリー「NG Gallery」の WEBサイト や漫画誌『ガロ』の裏サイト「裏ガロ」が本格始動する[215]。
1998年には、10万部以上[248] を売り上げたハッキング本『コンピュータ悪のマニュアル』の著者・KuRaReを編集長に『危ない1号』の事実上後継誌『危ない28号』がデータハウスの鵜野義嗣によって創刊される(これについてばるぼらは「90年代雑誌文化のサブカルの流れをコンピューター文化が引き継いだ」と指摘している[259])。同誌はハッキング、ドラッグ、兵器、安楽死など様々な違法・非合法行為のハウツーが記載された危険情報満載のムック本で『危ない1号』に次ぐヒットを飛ばしたが、発売前の段階にもかかわらず有害図書指定を受けるなど自治体からの風当たりも強く、KuRaReは「どんだけ何も見てない連中なんだよ。そうやって仮想の敵をやっつけて良いことをしたと思う自慰的行為」「28号は意識的に有害図書指定になろうとしてたので、別にいいのですが」等と述懐している[260]。そして2000年1月に浦和駅、東海村、大阪府で発生した一連の連続爆発事件で、犯人が同誌を参考に爆発物を製造したと供述[261] した結果、『危ない28号』は全国18都道府県で有害図書指定され[262][263]、発行済みの第5巻(1999年11月発行)を最後に廃刊を余儀なくされた。
初期インターネットのアングラカルチャーは1996年のアダルトサイト摘発、1999年の通信傍受法成立と悪趣味ブームの終焉、そして2000年の不正アクセス禁止法が決定打となり、一旦は衰退した[215][264]。
またインターネット上でも死体や畸形画像が、いつのまにか『ありふれたもの』になってしまい、1999年以降はテイストレスに興味を持つ人口も減少したようで、死体や奇形など悪趣味に特化したグロサイトは殆ど作られなくなった(テイストレスサイトの総本山だった「下水道入口」も1999年6月17日付で閉鎖している)[215]。
しかし、インターネットの特性故に海外からの情報を防ぐことはできなかった。2004年にはイラク日本人青年殺害事件映像が出回り[215]、2008年12月には、殺人行為を記録した『ウクライナ21』(Dnepropetrovsk maniacs)と呼ばれるホームビデオがショックサイトに流出し、誰でも閲覧が可能となった。報道では、ドニプロペトロウシクに住む19歳の若者2人組が、2007年夏の約1ヶ月間で21人を快楽目的で殺害したとされている[265]。また「殺害映像は販売する予定であった」との証言もあることから、これは有史初のスナッフフィルムであるとされている[266][267]。
時期を同じくして閲覧者にトラウマを与えかねない有害なWEBサイト/精神的ブラクラの総称として「検索してはいけない言葉」が日本で定着した。『POSO』『ウクライナ21』『生きたメキシコ』などのグロ動画はその代表格である。現在、まとめWikiに登録されている言葉は2100以上にのぼる。
SNSや動画サイトの普及により、迷惑行為の現場を投稿するバイトテロやバカッター、迷惑系YouTuberも登場した。
また以下も悪趣味動画の一例として挙げられる。
村崎百郎の師匠筋にあたるペヨトル工房主宰者の今野裕一も村崎百郎の存在意義が2ちゃんねるの台頭により喪失したことを次のように指摘した。
あの頃、ああいう悪意というものの存在を世の中にリードするような位置に彼(村崎百郎:引用者注)はいたんだと思う。彼が出てきてから数年後に2ちゃんねるのような剥き出しの悪意がそのまま出てくるメディアが現れる。この現状は、彼をものすごく書きにくくさせてたんじゃないかと思う。その意味で、もう村崎百郎の仕事は一旦区切りをつけて、新しい仕事に移行しなきゃいけなかった……違う形で脱皮して、あいつの書く姿勢が変わってくればよかったんだけど。あと、あいつはどちらかというとライターよりは編集者の資質が勝っていた気がするんだよね。電波にしろ鬼畜にしろ「これからはこの辺のものがくるぜ」ってセッティングして、その果てに『危ない1号』とかあったわけでしょう。あれが2ちゃんねるの登場によって、雑誌としてやることではない、普通の人間がやるものに変わってしまった。みんながやってしまうものを黒田(一郎。村崎百郎の本名:引用者注)がやってもしょうがないので。 — 今野裕一インタビュー「村崎百郎が唯一、言うことを聞く、怖がる人間が僕でした」『村崎百郎の本』アスペクト、118-119頁、2010年。
青山と交友があったデザイナーのこじままさきも鬼畜系コンテンツが飽きられた理由に関して同様の理由を次のように述べている。
昔はネットがなかったから、すべての情報には希少価値があって、ゲスなもの、社会から隠されてるものは人気が出た。でも本人(青山正明:引用者注)がそういうのが本心から好きだったとは思えないんです。比喩に出すんですが、人前で「てのひら」って言っても反応しないけど、「チンコ」「ケツの穴」っていうと反応するじゃないですか。それだけだと思うんですよね。僕はそれだけなんです。社会が隠そうとしてるものを表に出すから面白かっただけで、そのものに対する興味が、ってなるとそんなでもない。グロ画像をネットで自由に見られるような時代になったら、もう何の興味もないってことだと。〔……〕でも彼についての評価は、あの時代だったからってことはないと思いますよ、今読んでもクオリティはあるし、時代で消費されるようなものは作ってない。時代のあだ花と言われるのは心外です。でも説明は難しいですね、知らない若者に。 — ばるぼら「ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第84回 こじままさきインタビュー part3」(2010年6月13日配信/大洋図書Web事業部・WEBスナイパー)
一方で石丸元章は「神田の三省堂書店の二階の便所の個室が伝言板になっていた時代もある」として当時の「便所の落書き」2ちゃんねるを好意的に評価し、アングラが廃れたのは、堀江貴文のようなインターネットビジネスマンが路地裏だったインターネットを表通りにしてしまったことが大きいと考えている。
石丸:00年代以降はホリエモンを筆頭に、ネット発の起業家がたくさん登場して、「ネットでお金を稼ぐ」ということに世間の関心が集まっていきました。そしてそれこそが価値であるということになった。今に至ってもそうです。しかし、ホリエモンにしても、自分はまったく面白いと思わないんです。〔……〕
石丸:それでいうと、自分はひろゆきは意外でしたね。彼はビジネスの人じゃなくて、松永さんとかと同じ類の人間だと思ってましたから。それが、いまや立派な金儲けの人になってる。
松永:どうでしょう。あめぞうがピンチに陥ったときにまったく同じようなシステムを作ってできたのが2ちゃんねるですからね。ある意味では最初からマネタイズの人だったようにも思います[268]。
エロマンガやアダルトゲームにおいて、強制的な性行為(強姦)を強調した作品は「鬼畜系」(または陵辱系)と呼ばれ、これは度が過ぎるサディストを指した用語でもある。それに対して恋愛や合意の上での性行為を重視した作品は「純愛系」と呼ばれ[269]、いずれもオタク系の媒体で用いられることが多い[270]。
評論家の本田透は「鬼畜系」について二次元世界に理想的な恋愛を見出そうとする「萌え」とは対極をなす概念と指摘し[271]、監禁や調教といったジャンルは90年代半ばまでがピークとして、ゼロ年代半ばでは一部のマニアにだけに支えられているとしている[272]。
エロマンガ統計屋の牧田翠[273]が行った定量分析によると、2010年代以降のエロマンガは、約6~8割が合意を得た和姦であり、強姦率は2割程度に過ぎない[274]。また最後まで読んで初めて和姦とわかる作品も多く、凌辱をテーマとして絞り込んだ作品は決して多くない[275]。鬼畜ものが縮小した背景として、コンビニ各社の自主規制が強化され、コンビニ誌では過度な暴力・薬物描写が敬遠されるようになったこと、あるいはスマホやSNSの普及で、読者の可処分時間と可処分所得が別の娯楽に割かれるようになり、腰を据えてエロマンガを読む人口が減ったことで興奮や刺激よりも「癒し」「気楽さ」を求める読者が増えたのではないかとする説がある[274]。また近年は雑誌ごとに「和姦のみ」「強姦のみ」と住み分けされる傾向も強く、牧田は「好みの先鋭化が行われている」「エロの分断が進んでいる」と憂慮している[274][276]。
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ロリコン・カルチャー
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1970年代後半から1980年代前半までのエロマンガは劇画タッチで、ハードなレイプ描写に主眼を置いた「エロ劇画」「三流劇画」が主流であった。またキャラクターも骨や筋肉の隆起が多く、決して可愛い絵柄でなかった。そんなバイオレンス劇画が幅をきかせてきたエロマンガが大転換を迎えるのは1979年、吾妻ひでおや蛭児神建らが日本初の男性向け同人誌『シベール』を創刊したことで、コミックマーケットはロリコン漫画の震源地となり、アニメ調の美少女キャラをモチーフにした、牧歌的なエロマンガが増え、表現の裾野は大きく広がった。その一方、ハードなレイプ物は相対的に減少した。
しかし80年代後半になると、アニメ絵タッチの美少女系エロ漫画から、ハード/SM路線が目立ち始める。それまでも洋森しのぶ(みやすのんき)や牧村みき(エル・ボンテージ)によるエログロ系アニパロ漫画もあったが、それが「抜き」志向の創作ジャンルとして本格的に確立したのがこの頃からである。
90年代前半には、有害コミック騒動の影響で「成年コミックマーク」が登場する。このマークが付いていると18歳未満への販売が禁止されるため、大手出版社は過激な性表現を抑えたが、裏を返せば多少修正が甘くても許されたため、中小零細系は差別化の意味も込めてマークを積極的に導入した。よって、この頃の美少女コミックはマイナー系ほど過激な描写が目立っている[277]。その中でも早見純、玉置勉強、町野変丸、ゴブリン、戸崎まことなどモンド・スプラッタ系の異色漫画家たちは、多田在良[278]編集のエロ漫画誌『COMICアットーテキ』『激しくて変』(ともに光彩書房)や一水社の単行本レーベル「いずみコミックス」を中心に活動した。
1990年代に入ると、鬼畜と変態に特化した、おたく系の美少女コミック誌『月刊コミックフラミンゴ』『コミックMate』が登場する。また、中堅エロマンガ出版社からはSM/陵辱系アンソロジーが多数刊行された。この過程で自然発生的に成立したジャンルが「鬼畜系」「陵辱系」である。現在、鬼畜系・リョナ系の専門誌の多くは電子雑誌に移行している。
一方で特殊漫画[279][注 12]の総本山である『月刊漫画ガロ』からは蛭子能収、山田花子、根本敬、山野一、平口広美ら特殊漫画家が登場する。彼らはアニメ絵とは縁遠い絵柄・作風であり、自販機本・SM雑誌・エロ劇画誌などのサブカル雑誌で活動した。特に滑稽さの入り混じる入念な表現で、人間のダークサイドを徹底的に描いた山野一[281][282][283]が『ガロ』に連載した『四丁目の夕日』と『ねこぢるうどん』(画:ねこぢる)は、鬼畜系サブカルコミックを象徴する作品となっている。
鬼畜系は「NTR」「催眠」「時間停止」などソフト系から「輪姦」「孕ませ」「スカトロ」などハード系まで幅広い。下記に構成要素を列挙する。
成人向け漫画の世界で自分の世界を築き上げる作家も多く、もちろん、性的描写を避けては描けない世界というものでもある。また一つには性的描写が必須であることを除けば、それ以外の表現はむしろ一般の雑誌より制約の少ない舞台であり、その自由度の高さから作家独自の嗜好によって特異ともいえる表現が追及され、一般誌では掲載不可能な作風を実現する作家も存在する。
エロマンガ統計屋の牧田翠[273]は、鬼畜系(強姦傾向の作品)の判断基準を次のように定義している。
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号数 | 著者 | タイトル | 発行年月 |
---|---|---|---|
第1巻 | 武藤直治 | 変態社会史 | 1926年7月 |
第2巻 | 村山知義 | 変態芸術史 | 1926年10月 |
第3巻 | 藤沢衛彦 | 変態見世物史 | 1927年7月 |
第4巻 | 井東憲 | 変態人情史 | 1926年9月 |
第5巻 | 伊藤竹酔 | 変態広告史 | 1927年3月 |
第6巻 | 澤田撫松 | 変態刑罰史 | 1926年7月 |
第7巻 | 宮本良 | 変態商売往来史 | 1927年7月 |
第8巻 | 梅原北明 | 変態仇討史 | 1927年5月 |
第9巻 | 斎藤昌三 | 変態崇拝史(発禁) | 1927年1月 |
第10巻 | 青山倭文二 | 変態遊里史 | 1927年6月 |
第11巻 | 藤沢衛彦 | 変態交婚史(発禁押収) →変態浴場史 | 1927年2月 1927年9月 |
第12巻 | 藤沢衛彦 | 変態伝説史 | 1926年11月 |
付録1 | 内藤弘蔵 | 変態妙文集 | 1927年10月 |
付録2 | 井東憲 | 変態作家史 | 1926年12月 |
付録3 | 斎藤昌三 | 変態蒐癖志 | 1928年1月 |
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高杉弾、青山正明、蛭児神建[285]らが連載していたロリコン系サブカル雑誌『Hey!Buddy』(白夜書房)の増刊号『ロリコンランド8』が「少女のワレメはわいせつ」として発禁・回収処分となった(読者投稿の犯罪写真や無修正のワレメが当局に問題視された)。本誌『Hey!Buddy』も“ワレメが出せないロリコン雑誌は、もはやロリコン雑誌ではない”として1985年11月号をもって自主廃刊する[309]。(その後はバブル時代の到来と共に、鬼畜系は約10年にも及ぶ長い冬の時代を迎えることになった。)
また同号では小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』が特別篇として収録されている(皇室を取り上げたことにより『SPA!』で掲載拒否された)。真夜中のコンビニエンスストアーで立ち読みをした『大快楽』や『ピラニア』(それにしても凄い名前!)に掲載されていた、平口広美さんや、蛭子能収さん、根本敬さんの作品は、特に鮮烈に憶えている。暴力的で残酷なセックスを執拗に繰り返す平口さんの『白熱』や、チョン切られた女の首から、一すじにひかれた墨の色が、真っ白な空間に映えて、鮮血よりも生々しく赤かった蛭子さんの作品。そして、妊婦の腹をかっさばいた強盗が、取り出した胎児を別の女の腹を割いて中に入れ、御丁寧にも縫合までするという、空恐ろしい根本敬さんの作品に出会った時には、ただもう呆然として、コンビニエンスストアーのブックスタンドの前に立ち尽くしてしまったのを憶えている。〔……〕ズリネタにならないエロ劇画は何なのだ、と思いながらも、何かエロ劇画誌はとんでもないことになっているのかも知れないと興奮したものだ。〔……〕そうした作品には圧倒的なまでの個性があった。エロなんてなんぼのもんじゃいという、声が聞こえた。叫び、犯し、ヤリまくる者も、笑いながら女を殺し屍姦する者も、田舎者も労働者も、都市生活者も、ともかく日常から逸脱せずにはいられない超個性的な性の世界を生きていた。彼達はきっと肉体を越えたセックスを目指していたのだと思う。あるいは、セックスの向こうにある欲望に突き動かされていたのだと思う。 — 緒方大啓「すぐれたエロ劇画はすぐれたひとりSMに似ている」青林堂『月刊漫画ガロ』1993年9月号「特集/三流エロ雑誌の黄金時代」79頁。
悟りや覚醒に至る道は無数にあり、我々はどんな道を選んでも自由なんだ。観念の中に閉じこもるな。現実としっかり向かい合え。覚醒も堕落も、創造も破壊も、あらゆる可能性は常に我々の内にあり、いずれを選ぶかは、常に我々自身の意志に委ねられている。その権利と自由を決して手放すな。
実際に死んだり病んだりするところまで行ってしまうってのはね、昔はなかったですよ。少なくとも黒田(一郎。村崎百郎の本名:引用者注)がいた90年代前半ぐらいまでは、ブラックなものを笑い飛ばすような楽しさがあったし、実際にうつ病っぽい子でも、まぁ何とかやっていけてたんだよね。それがネットが出てくるようになってから、なんだか現実の死まで行っちゃうような、本当の意味でのヤバさみたいなものが現れるようになってきた。今まで僕や黒田がやってきたようなのとは全く違う、単にネガティブな思いがだだ漏れになってきたブラック。九五年以降、本当にそういうのに触れる機会が多くなった。で、黒田もそういう新手のブラックは処理し切れなかったのかもしれない。
今の2ちゃんねる的な、言葉が勝手に走っていってしまうようなのはまったく新しい現象で……ものすごいスピードで言葉が流れていく中で、真意が見えないまま、言葉に書かれている別の意味を勝手に読み取り、物語を作ってしまう。〔……〕ネットで走っている言葉の裏にある悪意って、身体的につかめない。これは新しい時代の新しいブラックの誕生だろうけど……。
黒田に実はデジタルな悪意はなかった。ひどいことを言いながら、ダメな奴を励ます。「お前もダメだけど、俺なんかもっとダメ、だけどこんな人間でも立派に生きてるんだぜ」って。生きて生き抜いて他人に肉体を擦り付けながらイヤミを言うのがあいつのやり方なんだけど、それって結局「生きろ」ってことでしょ。 — 今野裕一インタビュー「村崎百郎が唯一、言うことを聞く、怖がる人間が僕でした」『村崎百郎の本』アスペクト、126-127頁、2010年。
「嫌韓ムード」が高まるきっかけとなったのは2002年、サッカーワールドカップ日韓大会であろう。
日本は単独開催を目指していたが、結果として日韓共催となったことで、一部の日本人は韓国に対して被害者意識を抱くことになった。加えて、試合中の韓国に有利な判定や、韓国サポーターによる日本への中傷をマスコミが取り上げなかったことにより、韓国のみならず日本のマスコミに対する不信感や嫌悪感が、ネット上で徐々に強まっていった。
このように2000年代前半、「親韓ムード(韓流ブーム)」と「嫌韓ムード」に加えて「マスコミ不信」が同時に生じたのである。
このうち、コインの裏表のような関係にある「嫌韓ムード」&「マスコミ不信」は、シリーズ累計100万部を売った『マンガ嫌韓流』が2005年に発売されたことで、増幅される。この漫画では、戦後補償や日韓共催ワールドカップの問題のほか、日本文化を剽窃する韓国人の実態などを描くことで韓国を批判するとともに、それを報道しないマスコミも「反日」と糾弾したのだ。[334] — 吉野嘉高 元フジテレビプロデューサー
私が在特会を多少は評価するのは、その行動の根底に、私自身が現代社会において他の大半の問題よりも圧倒的に重要だと考えているPC(ポリティカル・コレクトネス)的風潮への反発のメンタリティが存在しているには違いないからである。PCは簡単に反論しがたい“正義”なので、“善良な市民”的“お行儀の良さ”から逸脱しなければ刃を向けることは難しく、PC的風潮への異議申し立てはどうしてもこういう在特会のような“野蛮”な連中が先陣を切っちゃうことになるよなあと、もどかしさを伴いつつ思うし、その意味では在特会の“ヒドすぎ”ぶりを肯定せざるをえないと感じてもいる。〔……〕サブカルチャーが反政治的であったのに対し、サブカルは単に没政治的なのだ。サブカルには、サブカルチャーが抱え込んでいたラジカルなニヒリズムがない。[185]
もっともぼくの認識では、日本のネット文化は最初からまあ、〝右傾してた〟とまでは云わんけど、〝監視社会化のツール〟でしかなかったよ。それは理由もはっきりしてて、ネットが普及したのは世界的にも日本国内的にも90年代後半でしょ。要するに、監視社会化が進んだのは世界的には9・11以後つまりネットの普及が進んだ後だったけど、日本国内ではそうではないんだ。日本版の〝9・11〟である95年の〝オウム事件以後〟に、つまり急速な監視社会化が先に始まって、その後でネット社会化が始まった。そんなもん、最初から監視社会化のツールとしてしか機能しませんよ。〔……〕
137ページ下段の東発言はすごく腑に落ちた。「出版はリベラル知識人が圧倒的に強い。そうなると右派は、小林よしのりのようにマンガに行くか、在特会のようにネットに行くか、いずれにせよ周縁から出発するしかない。その結果、リベラル層はネットに対して親和性が低くなり、出版が強いうちはよかったものの、時代が進むにつれて後手に回らざるをえなくなった」っていう。
さっきも云ったように80年代の粉川哲夫とか以来、左翼のネットというかIT方面への進出は右派より圧倒的に早かったはずなんだけど、いつのまにか逆転してて、それはたしかに東がここで云ってるようなメカニズムでそうなったのかもしれない。[337]
90年代の悪趣味ブームを支えていた人たちっていうのは教養があって知的な人が多かったし、読んでいる方も「行間を読む」術は自ずと持っていたと思うんですよ。それに「影響受けました!」っていう第二世代、第三世代が出てくるにつれどんどん崩れて、次第に単に悪質なことを書いてりゃいいや、みたいな“悪い悪趣味”が台頭してくるようになる。だいたい趣味がいい人じゃないと、悪趣味ってわからないからね。村崎さんにしろ、オレの漫画にしろ、結局世の中がちゃんとしていてくれないと、立つ瀬がないわけですよ。でも、世の中がどんどん弛緩していっちゃって、もう誰もがいつ犯罪者になるのか、わからないような状況になっちゃったのが鬼畜ブームの終わり以降。とりわけ90年代終わりからここ数年、特に激しいじゃない? — 根本敬インタビュー「村崎さんには“頑張れ”という言葉が相応しい、というか、これしかない」(上掲書・334頁)
2012年
言論の自由の社会実験は失敗しました。言論の自由を進めすぎると良いことにはならない。無制限の言論の自由の結果が、現在起きていることなのです。当時、私は若かった。もし時間を巻き戻せるならば、決して8chanをつくることはないでしょう[359]。
ペペは惨めさや悲しさを表現しているキャラクターで、だから匿名掲示板に来る「負け犬」たちの自画像として機能していたと映画は分析する。明るい女性たちがペペを使って「童貞」を罵ったり、ヒラリーがペペを攻撃したりしたことで、いわゆる「リベラル」「リア充」たちへの彼らの鬱屈が爆発した。トランプには破壊者として支持が集まり、ヒラリー陣営に対しては、児童買春などのデマや陰謀論がたくさんまかれた。これはインターネット・ミームの力である。インターネットで流通しやすいミームは、人々が高速で即座に反応するメディアの性質を反映し、思考を要さず感情を駆動させるものになりやすい。理性的で批判的な思考は、ネットのゲーム的なやり取りの中では働きにくい。だから、屈辱や惨めさに理由を与え、「あいつらが悪い」と示してくれる思想に飛びつきやすくなる。そして、デマや陰謀論が流通する。匿名掲示板の文化や、新しいメディア・テクノロジーによって、これまでにない政治的な感性が形成されている。生きる上での苦悩、絶望、羨望、怒り。それらとテクノロジーが複合したうねりは、注目に値する。めちゃくちゃにしてやりたい衝動が、ネットから現実に出てトランプ現象が起きたと映画は分析する。その衝動は世界の破滅すら望む。そんな悲しい姿を映画は捉えていた。〔……〕
自販機エロ本というのは、それまであったエロ本のタブーをブチ壊し、アナーキーな性欲を街頭に開放することから始まった。既成の出版業界から見れば、鬼畜そのものだ。ロリコンに限らず、性欲に関するあらゆるタブーを打破し、マトモな性欲の持ち主だったら眉をひそめるようなネタを続々と登場させた。それはビニ本に引き継がれ、タブーは次々に破られて行く。それが70年代終わりから80年代前半までのトレンドで、90年代の鬼畜ブームというのは、そんな連中、まぁ、おいらもその典型なんだが、そんな連中を「カッコイイ」と思って憧れていたネクラ少年たちが作り上げたブームなんだろうが、基本は文学少年だったり音楽オタクだったりする文系のお坊ちゃまなので、鬼畜ごっこ[注 13]と呼ぶのが正しい(笑) — オマエが元祖鬼畜系だろうが - ネットゲリラ(2021年7月22日配信)
東京五輪のキーワードとしては「ウンコ」「いじめ」「殺人」などいろいろ上がっていましたが、最終的には「鬼畜系」というのが一番しっくりくるのかと思います。そもそも新型コロナ感染拡大下における東京五輪の強行自体が国民に「ウンコを喰わせる」ような鬼畜の所業。テレビメディアや広告代理店をはじめとする「電波系」の小遣い稼ぎであり、悪質な政治家による「トリコじかけの明け暮れ」である。嘘とデマによる誘致に始まり、開催費用の計算もデタラメ。エンブレムは盗作騒動で変更。森喜朗の女性蔑視発言から、タレントの女性を「豚」として扱う演出まで、下品のどん底に転落した東京五輪の音楽は、小山田こそがやるべきだった。
鬼畜系にハマる私たちは「幸せそうな」人々を勝手に敵視していて、世を呪う言葉を存分に交わすことができた。そうやって発散することで、自分という犯罪者予備軍を犯罪者にせず社会に軟着陸させているような感覚は確実にあった。当時、なぜあれほど鬼畜系カルチャーにハマっていたのかと言えば、「表」の健全できれいな社会には、自分の居場所なんてないと感じていたからだった。〔……〕あの時期、ある意味で私は鬼畜系カルチャーに命を救われていた[377]。
(前略)80年代から90年代にかけてのサブカルとは、私の理解では「すべての表象から文脈や歴史をはぎ取って相対化し、権威や規範にとらわれず、自分はどこにもコミットしないまま、“ひとつの主義主張と距離を置けなくなる人”には冷笑的な態度を取り、ひたすら心地よさやおもしろさを追い求め、それ以上、何かを問われそうになったら、『そんなの何もわからないよ』と未成熟な子どものように逃げ出す」という性質を帯びたものだ。それは、いま思えばどう考えても、間違っていたのである。 — 香山リカ (2021年8月20日). “かつてのサブカル・キッズたちへ〜時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう”. 情報・知識&オピニオン imidas. 凸版印刷/集英社. 2021年11月20日閲覧。
また、香山リカは、ヘイトデモへの参加者やかつて80年代90年代サブカル意識を持つもの達に、謝罪を促した。
(前略)
2000年代の終わりになって、ネットの中で、さらには路上でも在日コリアンへのおぞましい罵詈雑言どころか虐殺をほのめかすようなヘイトスピーチが目につくようになってきた。
私は、2010年代になってはじめて街頭のヘイトデモをこの目で見たとき、強い衝撃を覚えた。それは単に「彼らの言葉がひどいから」だけではなく、それが80年代、90年代を通して私がかかわってきたポストモダン文化やサブカルの延長線上にあるものに見えたからだ。
――ヘイトデモに参加している人たちは、80年代から90年代にかけて、「おもしろいから、センスのよい笑いだから」とか「もちろん人権は大切だとわかった上で、世の中の正論を嘲笑しているから」という大義名分のもとに私たちが作ってきたサブカル的、悪趣味・鬼畜的な表現を、現実の世界で真剣に実行に移しているのだ……。
ここで参加者たちに、サブカルやそこから派生した「悪趣味」に浸かっていた人たちが、「われわれはあくまで欺瞞に満ちた当時のおとなを嘲笑していただけで、本気に差別しようとしていたわけではない」「リアル世界での差別煽動をしたいだなんて想像もしてなかった。やめてくれ」などとあわてて止めようとしたところで、通用しないことは目に見えている。
(中略)
もし、それを行わないとどうなるか。かつてのサブカル・キッズたちもすでに50代から還暦にさしかかっている。いま人権や正義について語らないと、もう間に合わなくなり、「昔はよかった」と懐古的に自慢話をしながらどんどん世界から取り残され、みじめな晩節を送ることにもなりかねない。
世界は変わったのだ。差別やハラスメント、虐待はいかなる理由があろうとも許されない。人種的マイノリティ、先住民、その社会で生きる外国人、女性、子ども、障害や病気のある人、なんらかの事情で貧困な状態にある人などの社会的弱者に対してならばなおさらだ。もし差別、ハラスメント、虐待がまだ社会に残っているなら、あらゆる努力をして是正していくべきなのである。
サブカル・キッズもそれを受け止め、「オレたちの時代は終わった」などと腐ることなく、持ち前の知識や経験、才能などを十分にいまの社会、これからの社会のために発揮してほしいと思う。いまならまだ間に合う。私はそう思い、自分にも言い聞かせているのだ。 — 香山リカ (2021年8月20日). “かつてのサブカル・キッズたちへ〜時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう”. 情報・知識&オピニオン imidas. 凸版印刷/集英社. 2021年11月20日閲覧。
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