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日本の漫画家 (1950-2019) ウィキペディアから
吾妻 ひでお(あづま ひでお、本名:吾妻 日出夫(読み同じ)[3]、1950年〈昭和25年〉[4]2月6日 - 2019年〈令和元年〉10月13日)は、日本の漫画家。
吾妻 ひでお | |
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本名 | 吾妻 日出夫(あづま ひでお) |
生誕 |
1950年2月6日 日本・北海道十勝郡浦幌町宝町 |
死没 |
2019年10月13日(69歳没) 日本・東京都 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1969年 - 2019年 |
ジャンル |
ギャグ漫画 SF漫画 不条理漫画 |
代表作 |
『ふたりと5人』 『やけくそ天使』 『オリンポスのポロン』 『不条理日記』 『スクラップ学園』 『純文学シリーズ』 『ななこSOS』 『夜の魚』 『失踪日記』 |
受賞 |
第10回星雲賞コミック部門 (『不条理日記』) 第34回日本漫画家協会賞大賞[1] 平成17年度(第9回)文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞[1] 第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞 第37回星雲賞ノンフィクション部門 アングレーム国際漫画祭公式セレクション(2008年)[2] グラン・グイニージ賞(2019年) (以上『失踪日記』) |
公式サイト | 吾妻ひでお official homepage |
1969年、『月刊まんが王』(秋田書店)12月号掲載の『リングサイド・クレイジー』(吾妻日出夫名義)でデビュー。『週刊少年チャンピオン』で連載した『ふたりと5人』(1972年 - 1976年)のヒットで地位を確立する。以後、『不条理日記』、『ななこSOS』などSF・ナンセンス色の強い作風で人気をえる。1979年、日本初のロリコン同人誌『シベール』に同人作家として作品を発表する。
1985年ごろから低迷期に入り、自殺未遂事件や失踪事件を起こし、アルコール依存症治療のため精神病院に入院する。2005年に同時期の体験を描いた『失踪日記』を出版し、日本漫画家協会賞大賞や文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、イタリア・グラン・グイニージ賞を受賞し、日本の漫画家の作品として初めてイグナッツ賞にノミネートした[5]。
幼少期は野山を元気に駆け回っていたが、5歳の頃に両親が離婚。父は後に再婚し、父と義母に育てられる。実母と引き離されたトラウマで後年まで閉所恐怖症に苦しむ[6]。十二指腸潰瘍で入退院を繰り返していた。中学時代まで浦幌町で過ごした[6]。本人曰く「あまり学校行ってないんでちょっと馬鹿です」とのこと[7]。
石ノ森章太郎の『マンガ家入門』に触発され漫画家を志す[8]。北海道浦幌高等学校在学中、『COM』主宰のマンガ愛好団体であるぐらこん北海道支部に参加。当時のぐらこん北海道支部には大和和紀や忠津陽子がいた[9]。
1968年に高校を卒業し、漫画家志望の仲間たちと共に上京して凸版印刷に就職するが、1か月で退職[9][注釈 1]。板井れんたろうのアシスタントに採用され[10][11]、仕事のかたわら『週刊少年サンデー』(小学館)[12]や『まんが王』(秋田書店)の読者欄などに無記名のカットやコママンガを描く。
1969年、『まんが王』12月号付録「プロレスなんでも百科」に「リングサイド・クレイジー」を発表[13]。これが漫画家としてのデビュー作である[12]。
1970年、『まんが王』で連載を獲得し独立(『二日酔いダンディー』)[14]。当時の作品は、軽いタッチのギャグ漫画にもかかわらず全体のノリは不条理で、ところどころにSFのエッセンスをちりばめ、アメリカン・ニューシネマの影響も感じさせるという作風であった。このころ、ページ内の1コマを1コママンガとして完結させるという試みを多く行っている。同年、『週刊少年サンデー』で、初の週刊誌連載となる『ざ・色っぷる』を連載するが、6回で連載終了[15]。
1972年、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で、ハレンチコメディ路線で売ろうとした編集者の阿久津邦彦の熱心な介入のもとで『ふたりと5人』を連載し、大きな人気を得る。巨根が「ピカー」と光る東大生の先輩は読者に強烈な印象を残した。しかしこれは吾妻にとって不本意な作品であり、後年のインタビュー等で「あれは編集部主導のもので、あまり乗り気でなかった。出力20%程度で執筆していた。」「あーホント、描きなおしたいね、今からでも(笑)。」等の発言をしている。吾妻曰く[16]。編集者は「ハダカ」(エロ)ばかり要求し、ギャグとSFには無関心だった[17]。吾妻は自分本来の資質とのギャップに悩む[18]。吾妻は連載終了を編集部に再三申し入れたが、人気がなくなるまで受け入れられなかった[19][20]。
1973年に『プレイコミック』(秋田書店)、1974年には『月刊プリンセス』(同)で連載を開始、青年漫画誌や少女漫画誌へ活動の場を広げる[21]。この時期には週刊連載・月刊連載含め月産130ページの原稿を執筆していた[22][23]。
私生活では1973年に結婚し[9][24]、1980年に長女、1983年に長男をもうけている[25]。妻は『ふたりと5人』連載初期までと、失踪後の執筆再開後に吾妻のアシスタントをつとめており、『うつうつひでお日記』などでは「アシスタントA」として登場、「アシスタントB」は長女、「アシスタントC」は長男である。妻は漫画家夫人による4コマ漫画を掲載する「奥様漫画」という企画に4コマ漫画2本を寄稿、商業誌デビュー。吾妻作品に先駆けて長男を漫画デビューさせた。
1976年に『ふたりと5人』が連載終了。『プレイコミック』連載の『やけくそ天使』、『チャンピオン』連載の『みだれモコ』『チョッキン』などに不条理・SFテイストを復活させはじめる。
1978年には『月刊OUT』(みのり書房)で初の特集記事「吾妻ひでおのメロウな世界」が組まれ、同年に創刊した『Peke』(同)などの漫画マニア向け新興誌に執筆する機会が増える。同年12月『別冊奇想天外No.6 SFマンガ大全集Part2』(奇想天外社)に執筆した『不条理日記』はSF小説のパロディをふんだんに用い、翌1979年の第18回日本SF大会の星雲賞コミック部門を受賞した。同年には自販機本『劇画アリス』(アリス出版)に『不条理日記』の続編を連載して、「不条理漫画」というジャンルの開拓者とみなされている[注釈 2]。1979年から不条理・SF系の作品を収録した単行本が続々と刊行され、1980年には『ぱふ』『リュウ』で特集が組まれる。1981年には『奇想天外』臨時増刊として『吾妻ひでお大全集』が発売されるなどブームは最高潮に達した。その半面、1979年末までに一般少年・少女誌での連載がすべて終了、執筆の場は青年誌とマニア誌へ完全に移行した。この時期、大友克洋、いしかわじゅんとともに、SFマンガのニューウェーブ御三家と呼ばれた。
また1979年から沖由佳雄、蛭児神建らとともに日本初のロリコン同人誌『シベール』(無気力プロ)をコミックマーケットで販売。1980年からは川本耕次の依頼で自販機本『少女アリス』(アリス出版)に「純文学シリーズ」と題してロリコン漫画を発表する。これを嚆矢として、コミックマーケットではロリコン同人誌が大人気となる[26]。当時、メジャー誌出身の漫画家が同人誌やエロ本に描くことはきわめて異例であった。メジャー誌出身の漫画家がポルノ誌に進出したことは周囲に衝撃を与え、吾妻は商業誌・同人誌ともに1980年代のロリコンブームの立役者とみなされている。
1977年から1979年にかけて『月刊プリンセス』(秋田書店)に連載された『オリンポスのポロン』は1982年に『おちゃ女神物語 コロコロポロン』としてアニメ化され、テレビアニメ放映と並行してコミカライズ版が『100てんコミック』に連載された[27]。また1980年から1985年にかけて『ポップコーン』及び『ジャストコミック』に連載された『ななこSOS』も1983年にフジテレビ系列でアニメ化され、これが商業的には最も成功した作品となった[28]。
1983年4月、『SF大会本』(虎馬書房刊)に発表した「冷たい汗」は、それまでのアニメ絵とは違った劇画的な絵で、その年のSF大会の様子を描いている。自分のホームグランドにすら違和感を覚え、声をかけられただけでギクリとしてしまう疲れ果てた作者の姿が描かれている。
1984年、連作『夜の魚』『笑わない魚』を『少年少女SFマンガ競作大全集』(東京三世社)に発表。「冷たい汗」の絵とも異なる暗い絵で、自分の生活をシュールリアリスティックに描いている。
この時期の吾妻の生活は、脚色を加えた上で『失踪日記』として作品化されている。
1980年代半ばから約8年にわたる沈黙期に入る。その間に2度長い失踪をしている。吾妻は従来より鬱病または躁鬱の傾向があったが[29]、1990年代後半にはアルコール依存症となり入院している。
1990年代後半に再び漫画作品を発表し始める。ある出版社に持ち込みをしたとき、若い編集者は吾妻ひでおフォロワーの無名のマンガ家と思い、失礼な対応をしたという。
1989年11月 - 1990年2月[30][注釈 3]。一日中酒を飲んでは寝るという生活を繰り返しているうちにうつが重くなり、山で首つり自殺をしようとしたが失敗[31][32]。そのまま埼玉県入間市[31]の雑木林でホームレス生活を始める。初めは食糧にも困っていたが、やがて毎日大量の廃棄の食物が捨てられるスーパーのゴミ捨て場を知り、失踪前より太るほどの食事にありつけることとなった。深夜に駅前でシケモクを拾っていたとき、警官に発見・保護された。
1992年4月 - 1992年8月[30]ごろ、大塚英志に『夜の魚』(太田出版)のあとがき『夜を歩く』(『失踪日記』の最初のエピソード)を宅配便で送ったその足で再び失踪する(西東京市東伏見または小金井公園近辺[33]において)[34]。同年8月ごろ、アル中の上森さん(仮称)にスカウトされて東京ガスの孫受け会社で配管工として働きはじめる。肉体労働をしていると芸術活動がしたくなり、社内報に四コマ漫画を投稿し採用された。しかし仮名の「東」がメジャー誌で連載していたことがある漫画家だとは誰にも気付かれなかったという[35][36]。当時の東京ガスの広報誌では、「東英夫」という仮名で、本人のイラストと共に「雑誌や広告のさし絵など20年近くも描いてきたという」と紹介されている[37]。
翌年春、「上森さん」に譲られ乗っていた自転車が盗難車(譲られた時に上森さんに防犯登録のシールを削るように唆されたが、吾妻はその時酒に酔っていたため判断が付かず従ってしまった)だったため、警察の職務質問を受けた際に逮捕され、家族に連絡される。その後も半年間配管工の仕事を続けている。
1980年代半ばから盛んに飲酒し、「アル中」と自称していたが、吾妻の場合は2回の失踪を挟んだこともあって、一般的なアルコール依存症患者よりも症状の進行が遅かった。しかし1997年の暮れには手に震えが来るようになっており[38]、1998年春までには重症のアルコール依存症、すなわち眠っている時以外は酒が手離せなくなるという「連続飲酒」状態になっていた[39]。その状態が半年続き、しだいに奇行が多くなりまた自殺未遂なども行う様になり[40][41][42]、同年12月25日、家族によって三鷹市の某病院[注釈 4]に強制入院させられる[43]。入院中は患者による自治会の役員に選出され[44]、女性入院患者1人と共にレクレーション係を担当した[45]。退院間際に自作の鉛筆デッサン画を中野ブロードウェイのまんだらけに買取に出した際はその買取金額の安さに「俺も落ちる所まで落ちたって感じ?」と逆にすがすがしい気分になったという[46]。1999年春、3か月の治療プログラム[47]を終了して退院。以後、断酒を続けた。
2005年3月、『失踪日記』を出版。1度目の失踪を描いた「夜を歩く」、2度目の失踪を描いた「街を歩く」、アルコール依存と治療の時期を描いた「アル中病棟」を収録している。出版とともに各メディアで話題となり、第34回日本漫画家協会賞大賞、第9回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞、第37回日本SF大会で星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。なお、「漫画三賞」といわれる、日本漫画家協会賞大賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞を3賞とも受賞したのは、2007年時点で吾妻だけであった[48]。
テーマの暗さにもかかわらずあっけらかんと描かれているが、吾妻は「自分を第三者の視点で見るのは、お笑いの基本ですからね」と片づけている[49]。
『失踪日記』出版当時のインタビュー(『芸術新潮』2005年5月号)などで「仕事は来ないし、限界だし、自分を苦しめるだけなので、ギャグ漫画をやめる」と宣言、公式サイトには「今後は暗い漫画を描くつもり」と書いた。しかしその後も、雑誌連載、単行本のあとがき、公式サイトなどでギャグ要素の強い作品を発表し続けており、結局のところ、やめようとしてもやめられないとのことであるが[50]、植田まさしのようなホームドラマを描いていきたいともしている[51]。
2011年には明治大学博物館で展覧会が[52]、2013年には西武百貨店池袋本店の西武ギャラリーで原画展が開かれた[53]。
2012年、KAWADE夢ムック(編集:穴沢優子)で刊行された『吾妻ひでお〈総特集〉―美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』(河出書房新社)が、第43回日本SF大会で星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。
2013年10月、アルコール依存症の入院経験を作品化した『失踪日記2 アル中病棟』を刊行。
2017年3月、食道癌が判明し、入院闘病中であることを、自らのツイッターで明かす[54]。同年5月、手術を終え退院し、自宅療養中であると公表。食道を切除し胃を吊り上げる手術だった。
2019年10月13日、都内の病院で死去。69歳だった[55][56]。
2019年11月30日、築地本願寺の第二伝道会館において「ファン葬」が行われ、長年にわたり吾妻と交友のあった人々が献花に訪れた[57]。弔辞は萩尾望都などが務めた。
吾妻ひでおが漫画界におけるロリコンブームの火付け役だったと主張する論客は、大塚英志をはじめ複数存在しており、吾妻が無視できない存在であることは間違いない。
エロ劇画誌の『劇画アリス』や自販機本の『少女アリス』(いずれもアリス出版刊)に作品を発表したことは、漫画の世界で表と裏の境界を低くする動きの始まりであり、また『少女アリス』に発表した「純文学シリーズ」は、後のロリコン漫画に直結する作品である。大塚英志は純文学シリーズを「最初の確信犯的な“ロリコンまんが”」と呼び、のちのロリコンまんがはこの再生産物にすぎないとまで述べている[34]。
1983年『ななこSOS』がアニメ化放映される一方、このような成人向け雑誌出版社との交流を前後して、1970年代末から始まった写真家清岡純子、近藤昌良などの少女ヌード写真集と専門誌の流行が重なり、吾妻はそこにイラスト作品などを寄稿している[59]。ロリコンブームの出版物大半は成人向け図書規制または自主規制を課していたが、尖鋭化する写真集や雑誌グラビアに対して1985年から1987年にかけて捜査当局からわいせつ判断が下され摘発と書類送検(ヘイ!バディーや清岡純子の項目参照)されるまで根本しのぶ[60]といった商業CMで活躍する子役モデルが起用されるほど社会的な禁忌意識は薄く[注釈 5]、またロリコンと児童ポルノに対する風当たりが強くなる以前で世論は寛容もしくは無関心だったこと、吾妻の投稿した成人出版物は発行部数が少なく、裏の活動が広く知れわたることなく表裏ある執筆活動に一般から批判を寄せられることはなかった。
ちなみに、ロリコンブームの一躍を担った美少女コミック誌『レモンピープル』や『漫画ブリッコ』においては、吾妻とアシスタントたちが作った同人誌『シベール』の同人たちが多数起用されている(ただし『漫画ブリッコ』の編集者であった大塚英志は、単行本『夜の魚』に吾妻と『ブリッコ』では仕事依頼はしていないと記述している)。
1979年冬には業界最大手の自販機本専門出版社・アリス出版の看板雑誌『少女アリス』の川本耕次編集長(三流劇画ブーム・ロリコンブームの仕掛け人)[注釈 6][61][62][63]から吾妻のもとに「ロリコン(美少女)ものを描いてください。純文学みたいなやつ」という依頼があり[64][65]、商業誌初のロリコン漫画「純文学シリーズ」を1980年1月頃から1980年9月[66]まで連載する(1981年7月に奇想天外社から『陽射し』として単行本化された)。
この連作は吾妻が得意とするギャグやSFを離れ、叙情的に描かれた美少女のエロティシズムを明確なテーマとしており、後のロリコン漫画〜美少女コミックに直結する最重要作品群とみなされている。大塚英志は著書において、
と評価している。
また大塚はメジャー少年誌で活動していた吾妻が突如としてアリス出版の自販機本にロリコン漫画を発表したことを「漫画の世界で表と裏の境界を低くする動きの始まりであった」と評価している[67]。そのため大塚は吾妻のことを
と日本の漫画史におけるエポックメイキングな存在として位置づけている。
なお大塚が言うように、メジャー少年誌・少女誌で活動するプロの漫画家が、同人誌のみならず「最底辺のエロメディア」[71]と呼ばれた自販機本に成人向け漫画を発表することは前代未聞のことであった(吾妻によれば、古巣の秋田書店から警告を受けていたが無視したという[72]。このような経緯から吾妻ひでおは商業誌・同人誌ともにロリコン漫画の開拓者とみなされている。
『純文学シリーズ』は、吾妻ひでおが1980年1月頃から1980年9月まで自販機本『少女アリス』(アリス出版)に連載した一連の成人向け漫画作品の通称[注釈 7]。いわゆるロリコン漫画のルーツとされる記念碑的作品群であり[74][75][76]、おおこしたかのぶは「ロリコン漫画を文学的表現にまで高めた作品」「それはペダンチックなロリコンファンの趣向に合致し、ロリコンであることの後ろめたさへの免罪符の役割を果たした」と評している[77]。
発表の場が自販機本になったのは、吾妻が海外SF小説を元ネタにしたマニアックなパロディ漫画『どーでもいんなーすぺーす』[61][78]を連載していたニューウェーブ漫画雑誌『Peke』(みのり書房)[79]の担当編集者であった川本耕次が自販機本出版専門のアリス出版に移籍したからで、自販機本に発表することに何らかの意図や目的があった訳ではないが、当時はメジャー少年誌出身の漫画家が成人向けの自販機本に、それも写真・文芸中心の非漫画誌『少女アリス』に執筆することは、それだけで「事件」であった[70][80]。連載はアリス出版の分裂にともなう川本の退職(同社から派生した群雄社に移籍)とともに打ち切りとなるが[80]、翌年7月の『少女アリス』廃刊にともない、吾妻は全8頁からなる短編『海から来た機械』を終刊号に寄稿している。
単行本はアリス出版から発行されず、1981年7月に奇想天外社から『陽射し』のタイトルで表題作含む「純文学シリーズ」8作品のほか『マンガ奇想天外 SFマンガ大全集』No.4(1981年1月)に掲載された「帰り道」と描き下ろしのイラスト集「妄想画廊」を加えて、漫画単行本としては大変珍しいB5判ハードカバーの装幀で単行本化された[注釈 8]。
その後、同年7月26日に紀伊國屋書店新宿本店で行われた『陽差し』の刊行記念サイン会[81]には多数のファンが集まり、時間内でサインが終わらず、会場を倉庫に変えて夜まで続行する事態となった[82][83]。
作品名 | 作品を収録している単行本 | 初出[84] | 発表年月[85] | 担当編集者 | 発行所 |
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ゴタゴタブラザース「我ら、少女を愛す」[63] | 人間失格(1980年 奇想天外社) ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド2 (2016年 復刊ドットコム) | プレイコミック 1974年 少女アリス Vol.7 1980年1月号(再録) | 1974年 | 川本耕次[86] | アリス出版 |
午後の淫荒[注釈 9] | 陽射し(1981年 奇想天外社) 十月の空(1984年 双葉社) 夜の魚(1992年 太田出版) COMIC新現実 Vol.3(2005年 角川書店) 夜の帳の中で(2006年 チクマ秀版社) 陽射し -reissue-(2018年 復刊ドットコム) | 増刊少女アリス | 1980年1月? | ||
水仙 | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) | 少女アリス Vol.8 1980年3月号 | 1980年2月 | ||
さまよえる魂[注釈 10] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) | 少女アリス Vol.9 1980年4月号 | 1980年3月 | ||
不思議ななんきん豆 | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) | 少女アリス Vol.11 1980年6月号 | 1980年5月6日[87] | ||
夜のざわめき | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の帳の中で(2006年) さまよえる成年のための吾妻ひでお (2013年 河出書房新社) 陽射し -reissue-(2018年) | 少女アリス Vol.12 1980年7月号 | 1980年6月 | ||
陽射し[注釈 11] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) さまよえる成年のための吾妻ひでお(2013年) 陽射し -reissue-(2018年) | 少女アリス Vol.13 1980年8月号 | 1980年7月 | ||
水底[注釈 12] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) | 少女アリス Vol.14 1980年9月号 | 1980年8月 | ||
夕顔[注釈 13] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) | 少女アリス Vol.15 1980年10月号 | 1980年9月 | ||
海から来た機械[注釈 14] | 海から来た機械(1982年 奇想天外社) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) コミックスクライマックス エッチ編 (1995年 竹書房) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) | 少女アリス Vol.25 1981年8月号 | 1981年7月 | 草間緑[85] | |
妄想画廊 | 陽射し(1981年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) | 単行本『陽射し』用 描き下ろし | 1981年7月 | 千頭俊吉[88] | 奇想天外社 |
作品名 | 作品を収録している単行本 | 初出 |
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九月怪談 | 海から来た機械(1982年) 十月の空(1984年) 夜の帳の中で(2006年) | 1981年10月号 |
愛玩儀式 | 海から来た機械(1982年) 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年 筑摩書房) さまよえる成年のための吾妻ひでお(2013年) | 1982年1月号 |
ラブ・ミー・テンダー | 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年) | 1982年5月号 |
ストレンジ・フルーツ | 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年) 陽射し -reissue-(2018年) | 1982年9月号 |
ジャアクダブラー | 十月の空(1984年) 贋作ひでお八犬伝(1985年) | 1983年1月号 |
MAIDO ONAJIMI | ミニティー夜夢(1984年 双葉社) | 1983年5月号 |
野獣の檻 | 1983年9月号 | |
ガデム | 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年) 陽射し -reissue-(2018年) | 1984年1月号 |
横穴式 | 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 吾妻ひでお童話集(1996年) | 1984年5月号 |
ひでお童話集 | ひでお童話集(1984年 双葉社) 吾妻ひでお童話集(1996年) | 1984年9月号 |
KOTATU | 贋作ひでお八犬伝(1985年) | 1985年3月号 |
吾妻ひでおは手塚治虫的なスター・システムを使ったことでも知られている。ただし、彼の使うスター的キャラクターは変態的、あるいは病的であり、それが特徴でもある。以下に代表的なものを挙げる。
なお、三蔵、不気味、ナハハは吾妻ひでおの三大変態キャラとも言われる。これが総出演したのが「ひでお童話集」の「3人の王子」で、そこではこの順に「上の王子は変態性欲、次の王子は変態の上に変な顔、下の王子はなんだかわからないもの」と称されている。
ほかにも、吾妻ファンであることを公言したことのある人物は、安彦良和、亀和田武、川又千秋、柴門ふみ、高橋留美子、山本直樹、諸星大二郎、まつもと泉、和田慎二などと、枚挙にいとまがない。
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