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優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、19世紀末から20世紀半ばにかけて多くの先進国で受け入れられてきた考え方で、進化論と遺伝学を人間に当てはめ、集団の遺伝的な質を向上させることを目的とした一連の信念と実践である[2][3]。学問としての優生学は19世紀後半にフランシス・ゴールトンが首唱し、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良な遺伝形質を保存することを目的とする[4]。優生学の実践には歴史的に、「生殖適性者」に生殖を促すという積極的なものと、「生殖に適さない人」への結婚禁止や強制不妊手術(断種)などの消極的なものがある[5]。「生殖に適さない」とされた人々には、障害者や犯罪者、少数民族が含まれることが多かった[6]。
優生学にもとづいた政策は特にアメリカ、ドイツ、北欧、スイス、カナダ、日本で広く実施された。日本では「国民優生法(1940 - 1948)」「優生保護法(1948 - 1996)」に基づき、精神疾患やハンセン病患者の断種手術や人工妊娠中絶が行われていた[7][2]。
1980年代から1990年代にかけて、体外受精・着床前診断・出生前診断など、新しい生殖補助医療が利用可能になり、優生学がより強力な形で復活する可能性がある[8][9][10]。近年、ゲノム編集や遺伝子検査などの新技術の利用をめぐる生命倫理的な議論において、これらの技術を優生学と呼ぶべきかどうか、激しい議論が行われている[11][12]。
“eugenics”の和訳は「優生学」の他に「優生思想」や「優生主義」がある[13]。
生殖管理により人種を改良する、という発想は、プラトンにまで遡ることができるが[14]、学問として成立したのは19世紀末から20世紀初頭にかけてであり、優生学(eugenics)という言葉は1883年にフランシス・ゴルトンが定義した造語である[14][15]。ゴルトンは、従兄弟のチャールズ・ダーウィンが1859年に著した『種の起源』から影響を受けた[16]。
優生学の目的は様々であるが、「知的に優秀な人間を創造すること」「社会的な人的資源を保護すること」「人間の苦しみや健康上の問題を軽減すること」が挙げられる。これらの目標を達成するための手段として、産児制限・人種改良・遺伝子操作などが提案された。優生学は20世紀前半に先進国の多くの有力者や知識人に支持され[17]、その中にはアレクサンダー・グラハム・ベルやジョン・メイナード・ケインズ、ジョージ・バーナード・ショー、セオドア・ルーズベルト、若かりし頃のウィンストン・チャーチルが含まれる[18]。
当時、精神障害は遺伝であると漠然と考えられ、それらの人々は一般の人よりも子供を多く作ると信じられていた。それゆえ精神障害者が増加して逆淘汰が起きると懸念され、それを回避するために優生学的な施策が求められた[19]。 優生学にもとづいた政策が初めて大規模に実施された国はアメリカであった。1907年にインディアナ州で精神障害者への強制不妊手術(断種)を可能にした世界初の法律が制定されたのを皮切りに、多くの州で断種法が制定され、また特定国からの移民制限が行われた[20]。障害者の断種は、カナダ、ヨーロッパ諸国、日本でも実施された。これらの政策は集団の遺伝的な質の向上を目指していた。
優生学は後世において、保守系極右の学問だったと誤解されるが、むしろ自由主義の左派に人気があり、社会変革を求めて多くの社会主義者やリベラル、進歩主義者が優生学を支持した[21][22]。優生学の支持者には、H・G・ウェルズ、マーガレット・サンガー、ハロルド・ラスキやシドニー・ウェッブらのフェビアン社会主義者、マルクス主義の遺伝学者であるJ・B・S・ホールデンとハーマン・マラーがいる[22]。初期のドイツの優生学者の多くは社会主義に共感をもっており、1929年に断種法を制定したデンマーク政府も社会民主主義政権であった[23]。
北欧では1920年代から、福祉国家の水準維持のために社会保障費の負担となる障害者を減らす優生政策が積極的に行われた[24][25]。障害がどの程度遺伝するのか不明だとしても、障害者は子供をきちんと育てられず、子供も親と同様に福祉の世話になるからという理由で、断種が支持された[26][25]。
1930年代、エルンスト・リューディンが優生学的な言説をナチス・ドイツの人種政策に融合させる試みを開始した。ナチス政権下で、優生学と安楽死と人種主義を結びつけた政策が実行され、多くの倫理的問題を引き起こした[27]。
第二次世界大戦の終結以降も、アメリカ、北欧、日本では、障害者に対する不妊手術や人工妊娠中絶が行われるなど、福祉政策の一環として優生学的施策が続いたが、1970年代以降に優生学は大きく批判されるようになり、「民族衛生」や「絶滅政策」といったナチスの政策と結びつけて認識されるようになり、廃れた[28]。集団に対する優生学・思想は廃れたが、個人の自己決定としてどのような子供を産むかという問題は「新しい優生学」として続いている[29]。
ゴルトンは1883年、『人間の能力とその発達の研究』の脚注において、初めて「優生学」という用語を使用している。
優生(eugenic)は、ギリシャ語で何と呼ばれるかというと、「eugenes」、すなわち良い素質を持つ、遺伝的に気高い素質を授けられている、という意味である。これと、様々な関連する用語(「eugeneia」など)は、等しくヒトや動物、植物に対して応用されている。我々は、種の改良の科学を表現するに簡潔な用語をことのほか好むものであり、それらは決して賢明な交配という問題に限られたものではない。しかし、取り分け人類に関して言及するならば、その語はあらゆる作用について我々に気付かせることになる。それは、程度の差こそあれ、より環境に適合した人種や血統に対し、そうでない存在に優先して、より十分な機会を即座に与える作用である。「優生学(eugenics)」という語はそのような概念を余すことなく表現するものであり、それはより洗練された用語であり、少なくとも、私が以前試みに使ってみた「viriculture」という語よりは違和感がないであろう。[30][注 1]
このように優生学(eugenics)の語源は、ギリシア語でeu(良い)、-genēs (誕生)を組み合わせたもので、「良い生まれについての学問」という意味である。 1904年、ゴルトンは優生学を次のように定義した。
優生政策は歴史的に次の2つのカテゴリーに分けられてきた。
積極的優生学は、優れた形質を持つと思われた人間を増やすことを目的に、複数の子供を持つ優れた素質を持つ両親を表彰したり、金銭的援助を与えるという手段を採る。消極的優生学は劣った形質を持つ人間に生殖を防ぐものである。
人種改良は、少なくともプラトンまで遡ることが可能である。彼は、人間の生殖活動は国家によって管理されるべきであると考え、次のように記している。
最も優れた男性は、意図して最も優れた女を妻に娶ったに違いない。そしてその反対に、最も劣った男性についても同じことが言える — 『国家』、プラトン
プラトンは、選択法則に気付いて人々の心が傷つけられるのを防ぐため、偽りのくじ引きで(人為的)選択が行われるべきであると提案している。その他の古代の事例としては、虚弱な新生児を都市の外れに遺棄したスパルタの伝説的な慣行が挙げられる。このスパルタの事例については、のちにエルンスト・ヘッケルも参照している[32]。
1860年代から1870年代にかけて、フランシス・ゴルトンは従兄弟のチャールズ・ダーウィンの『種の起源』におけるヒトと動物の進化に関する新たな理論と、アドルフ・ケトレーの「社会物理学」から影響を受け、統計学的アプローチに基づき、進化論を独自に解釈した[33]。ゴルトンは“自然選択のメカニズムはいかにして人間の文明によって潜在的に妨げられているか”という文脈において、ダーウィンの研究を解釈し、「多くの人間社会は経済的に恵まれない人々と弱者の保護に努めてきた。それゆえにそれらの社会は、弱者をこの世から廃絶するはずの自然選択と齟齬を来してきた」と論じた。
ゴルトンは、これらの社会政策を変えることによってのみ、社会は「月並みな状態への逆戻り[注 2]」(統計学において彼が最初に作った造語である)から救出することが可能であると考えた。この語は、現在では一般に「平均への回帰[注 3]」という用語に置き換わっている。ゴルトンは、1865年の論文「遺伝・才能・性格」において、初めて自説を開陳し、1869年の『遺伝的天才』において、「天才」と「才能」は人間において遺伝するとした。また、「人間は動物に対して様々な形質を際立たせるために人為選択の手段を用いることが可能であり、そのようなモデルを人間に対して応用するなら、同様の結果を期待することが出来る」として、次のように述べた。
ゴルトンは、社会は既に知的に劣った者の出生率が知性に優れた者に勝る状態(すなわちダーウィンの用語で言うところの「カタストロフィー」の状態)にあるとして、逆淘汰の状況に進んでいると主張した。ゴルトン自身は如何なる形での選別方法も提示することはなかったが、もし人々が子孫を残すことの重大性を認識することで社会的規範が多少なりとも変わるならば、いつの日にか解決方法が見つかるであろう、と願った。
英国の統計学者カール・ピアソンは、学問分野としての優生学を打ち建てることに尽力した[34]。ゴルトンと彼の統計学的方法を継承したピアソンは、「優生学」に対して生物測定学的アプローチと呼んだものを発展させた。それは種の遺伝を記述するために新たな複雑な統計モデルを発達させたものである。
しかし、グレゴール・メンデルの遺伝法則の再発見に伴って、優生学を唱道する2つの学派が現れることになった。その1つは統計学者から、他方は生物学者から構成された。統計学者たちは、生物学者たちは粗雑な数学モデルしか用いないと考え、一方、生物学者たちは、統計学者たちは生物学についてほとんど知識を持たないと考えた。
優生学は、最終的には、出生率に直接影響を及ぼす研究手法を通じて、望ましい形質を持った子供を作り出すために、意図的な選択的生殖に関わっていった。
「社会進化論」は、優生学とは分岐していった。両者は知性は遺伝するという点では主張は一致するが、優生学者たちは新しい諸政策は、より「優生学的な」状況へ現状を変える必要があると主張した。他方、社会進化論者たちは、社会そのものは、もし社会福祉政策が機能しなければ(例えば、貧困者は多産であるが、乳幼児死亡率も高いといった具合に)、ゴルトンが危惧した「逆淘汰」の問題を自然に食い止めることが出来たと主張した。
ロナルド・フィッシャーは優生学の熱心な推進者でもあり、1930年に出版された『自然選択の遺伝学的理論』では、「集団数(個体群)の増大が多様性を生み、それによって生存の機会の数も増大していく」と述べて後の集団遺伝学の基礎となった。さらにフィッシャーはこの考えはヒトに関しても適用できると述べ、「文明の衰退と凋落は、上流階級の生殖力の低下に帰することが出来る」とした。例証として、1911年のイギリスの国勢調査結果を基に、生殖力と社会階級とに逆関係があると述べた。そして子供の少ない家庭への補助を撤廃する一方、子沢山の家庭に対して父親の収入に比例した補助金を出すことを提案している。これに関してはフィッシャー自身が8人の子供の父親であり、その養育の負担が、彼の遺伝学・進化論的確信を深める原因の一つとする家族や友人達の証言もある。
フィッシャーの理論は、チャールズ・ゴールトン・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの孫)を初め、ウィリアム・ドナルド・ハミルトンの血縁選択説の形成にも影響を与えた。また優生学会は、1929年から1934年にかけて、優生的観点から断種法(結果的には否決されたが)の制定を求めるキャンペーンを、フィッシャーらを中心として行っている。
集団遺伝学者には、J・B・S・ホールデン、ハーマン・J・マラーなどがおり、「改革派優生学」として知られる。
1905年にはドイツ優生学教育協会が設立され、優生学は、急速に世界的な潮流となった[34]。英国では、優生学教育協会(1908年)、スウェーデン優生学教育協会(1909年)、そして国際優生学会議(1912年)が続いて設立された[34]。
ゴルトンの資金援助により、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに優生学の研究部門(1907年)と講座(1911年)が設けられた[35]。
近代において優生学的な考え方を提唱した最初の一人に電話を発明したことで知られるアレクサンダー・グラハム・ベルがいる。1881年にベルはマサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島における聾者の人口比率を調査した結果、聴覚障害は自然に遺伝すると結論付け、聴覚障害を遺伝しない結婚を奨励した[36]。ベルは1921年に第2回国際優生学会議の名誉議長を務めた[37]。
優生学と人種研究の科学的地位は、ナチス・ドイツの時代に最も高まったが、その後は急速に失墜した[35]。
優生学は今では、「人間遺伝学」や「社会生物学」と呼ばれている[35]。1954年に『優生学年報』(Annals of Eugenics)は『人間遺伝学年報』(Annals of Human Genetics)と改名された[35]。また、1969年に『季刊優生学』(Eugenics Quarterly)は『社会生物学』(Social Biology)となった[35]。講座や研究所も同様の改名が行われた[35]。
人種優生政策で有名なドイツよりも、アメリカの方が優生学的な政策を開始した時期が早く、また実施していた期間も長い。アメリカの優生政策がむしろドイツに影響を与えた[38]。しかし、ナチスのようないわゆる「積極的駆逐」(=組織的殺害)は行っていない。
1896年のコネチカット州を皮切りに、多くの州で精神障害者の結婚を制限する法律が可決された。これは必ずしも優生学的な目的だけではなかったが、断種の法制化については優生主義者が決定的な役割を果たした[39]。
1907年、インディアナ州で世界初の断種法が制定された。これは精神障害者の強制不妊手術(断種手術)を法的に認めたものである[40]。これをきっかけに他の州でも断種法が成立し、1924年までに約3,000件の断種手術が行われ、そのうちカリフォルニア州が2,500件と大多数だった[41]。カリフォルニア州では梅毒患者、性犯罪者も断種の対象となった[40]。また、連邦最高裁判所は1927年、「不適格者」と見做された人間に断種を行うことを可能としたバージニア州の法律に対して、アメリカ合衆国憲法に対する合憲判決を下した(バック対ベル裁判)。
アメリカ合衆国ではその後も、知的障害者に対する断種が行われ、1970年代まで続いた。1970年代までに、全米33州で6万人が強制的に断種手術を受けさせられた[41]。そのうち3分の1がカリフォルニア州である。障害者差別が社会問題としてはっきり確立されるようになったのは、1960年代前半の公民権運動がきっかけである[42]。
1898年、米国の著名な生物学者であるチャールズ・B・ダベンポートはコールド・スプリング・ハーバー生物学研究所所長として植物と動物の進化に関する研究を開始した。
1904年、ダベンポートは実験的進化を目的とした研究所の創設のためにカーネギー財団から資金援助を受け、カーネギー研究所のなかに実験進化研究所を設立した。1910年に同研究所の付属施設として優生記録所が開設され、ダベンポートとハリー・H・ラフリンは優生学の普及を開始した。翌1911年のダベンポートの著作『人種改良学』[43]はアメリカ優生学史上に残る仕事であり、大学教科書として使用された[注 5]。翌年ダベンポートは米国科学アカデミーの会員に選出された。
「優生記録所」は数年間に渡って膨大な量の家系図を収集し、不適者達の存在は経済的かつ社会的に劣悪な背景が遠因となっていると結論付けた。ダベンポートや心理学者のヘンリー・H・ゴダード、自然保護論者のマディソン・グラントなどの優生学の信奉者達は、「不適格者」の問題への解決について様々なロビー活動の展開を開始した。ダベンポートは最優先事項として移民制限と断種に賛意を表した。ゴダードは自著『カリカック家』(1912年)において人種隔離を主張し、グラントはこれら全てのアイデアに賛意を表し、かつ絶滅計画も示唆していた。
ダベンポートは、1929年の著作『ジャマイカにおける混血』[注 6]において、黒人と白人の間で生まれた混血の子供は生物学的にも文化的にも劣っているという統計学的な証拠が示されたとした。これは今日では科学的人種差別と見なされ、また当時もトーマス・ハント・モーガンなどから批判された。さらにダベンポートは、ナチス・ドイツの研究所とつながりがあり、ドイツの2つの学術誌(1935年創刊)の編集委員や、1939年には劣等人種の隔離政策にかかわったオットー・レーヒェに対する記念論文集に寄稿している[44]。
群を抜いて多数の強制的な断種手術が実施されたカリフォルニア州の断種手術に対し、生物学者ポール・ポパノウが好意的な報告書を出版した。この報告はナチスドイツにも影響を与えた[注 7]。第二次世界大戦後、ニュルンベルク戦犯法廷に引き出されたナチスの行政官達は、米国の事例を引用することで、ナチス政権による大規模な断種計画(10年に満たない期間に40万人が手術を受けさせられた)は異常なことではなく、国際的には一般的であったとして、正当性を主張した。
1924年、アメリカで移民法(いわゆる排日移民法[注 8])が議会を通過した。このことは優生学者たちにとっては、東ヨーロッパと南ヨーロッパからやって来る「劣った血統」の脅威に関する議会の討論において専門職顧問として中心的な役割を果たす最初の機会であった。この新法は遺伝子プールを維持するための試みであり、既存の人種間の交配を禁ずる様々な法を強化したものであった。優生学的な考え方は米国の多くの州で導入されている近親姦を禁ずる様々な法律の背後に基礎を置くものであり、そしてそれは多くの白人と有色人種間の混血を禁ずる法律を正当化するために用いられた。
スティーヴン・ジェイ・グールドらは、米国において1920年代に成立し1960年に大幅な改正を受けた移民制限が、自然の遺伝子プールから「劣った」人種を排除することを意図した優生学的目標によって動機付けられたものであったと主張している[45]。20世紀初頭、米国とカナダは、南欧と東欧から膨大な量の移民を受け入れるようになった。ロスロップ・スタッダードやヘンリー・ラフリン[注 9]の様な影響力を持った優生学者たちは、もしこの先移民が制限されないとするならば、国の遺伝子プールを汚染することになる劣等人種が国中に満ち溢れることになる、とする議論を立ち上げた。これらの議論によってカナダと米国は民族間の序列化を行う様々な法の立法化へと向かうことになった。
これらの法律では最上位にアングロ・サクソンとスカンジナビア人が位置付けられ、下に向かって事実上移民から完全に閉め出された日本人と中国人に至る格付けが行われた。
他方、移民制限政策は多量の外国人の流入に対する国の文化的健全さを維持する欲求に動機付けられたものであるとする見解もある[46]。
1926年にはハリー・クランプトン、ハリー・H・ローリン、マディソン・グラント、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンなどによって、アメリカ優生学協会が創設された[47]。1926年から1994年までの20世紀後半期の著名な会員には状況倫理の創始者のジョーゼフ・フレッチャー、P&G財団のクラレンス・ギャンブル博士、産児制限の提唱者で『共有地の悲劇』の著者のギャレット・ハーディンらが含まれる。アメリカ優生学協会は1972年に社会生物学会へと改名された。
一般的に優生学の概念に同意しない立場においても優生学的立法は依然として公益性を有すると主張している人々が存在した一例として、米国産児制限協会創立者のマーガレット・サンガーは優生学に基づいて、産児制限(バース・コントロール)運動を展開した[47]。当時優生学は科学的かつ進歩的な思想であり、人間の生命の領域に、産児に関して科学的な知見を応用するものであると多くの人々から理解されていた。第二次世界大戦の強制絶滅収容所以前、優生学がジェノサイドに繋がる恐れがあるとする考え方は真剣には受け取られなかった。
1971年、女性の人工妊娠中絶の権利を認めた『ロー対ウェイド判決』において、優生学はそれを支持する役割を果たした[48]。この事は、反中絶派の批判の論拠の一つとなっている。
1933年、ドイツにおいて、遺伝的かつ矯正不能のアルコール依存症患者、性犯罪者、精神障害者、そして子孫に遺伝する治療不能の疾病に苦しむ患者に対する強制断種を可能とする法律が立法化された。これはナチス政権において議会の承認なしに制定されたものだが、障害者に対する強制不妊措置の導入をやむを得ないと考える者は社民党内部にも相当数いた[49]。ナチス政権に特徴的だったのは下部組織の自律性や決定権を奪い、政府の管理下に置いたことである[50]。遺伝病や重度のアルコール障害に対する不妊手術を裁判所に申請しなかった場合、医療活動の永久停止を含む処罰が科された[50]。ナチス政権下で実施された不妊手術の件数は36万件から40万件にのぼり、他国に比べてかなり多い[50]。
第二次世界大戦が始まった1939年9月に不妊手術は原則として中止され、同時にT4作戦と呼ばれる、精神的または肉体的に「不適格」と判断された人々に対する強制的安楽死政策が開始され、1945年までに少なくとも7万人、多ければ十数万人が死亡した[51]。
ただドイツの優生学者(民族衛生学者)のほとんどは安楽死には反対の立場をとっていた。その理由は、次世代への遺伝子継承を阻止するという優生学の目的のためには断種で十分であり、安楽死には人道的な問題があること、そもそも安楽死の対象となるような重度の患者は子供を作らないこと、などであった[52][53]。安楽死の法制化準備に加わった唯一の優生学者であるフリッツ・レンツは、不治の患者の苦痛を取り除くという、優生学とは別の観点から安楽死を支持した[注 10][52]。
なお不妊手術の数は1939年以降、大幅に減少したが、終戦まで継続している[53]。
1930年代、エルンスト・リューディンが優生学的な言説をナチスドイツの人種政策に融合させる試みを開始した。アドルフ・ヒトラーが指揮するナチスドイツは、民族衛生の名のもとに、純粋ゲルマン民族を維持するため様々な優生計画を実施した。
ナチス政府による優生学と安楽死と人種主義の結合は、ホロコーストを通してユダヤ人・ロマ・同性愛者を含む数百万の「不適格」なヨーロッパ人を組織的・大量に殺戮する形となって現れた。そして、絶滅収容所において、殺害に使われた多数の装置や殺害の方法は、安楽死計画においてまず最初に開発されたものであった。ナチス政府の下で、優生学といわゆる「民族科学」のレトリックが多用されたのと併せて、優生学と人種主義に関連した広範な政策が強制力をもって実行されたことで、第二次世界大戦後に優生学とナチスドイツとの間の、消せない文化的つながりが生まれたのである。
1859年、チャールズ・ダーウィンが、『種の起源』を出版したが、これを統計学的に研究したのが、ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンであった。
ゴルトンは1869年に出版した『遺伝的天才』という著書で、人の才能はほぼ遺伝によって受け継がれるものだと主張した。1883年に優生学という言葉を初めて用いたのも彼である[55]。1907年には、優生学教育協会が設立された。
このようにイギリスは優生学を生み育てた国であるが、法制化はさほど進まなかった。1913年に知的障害者の強制収容を可能とする精神薄弱者法が可決されたが、断種についての法案はその後も可決されず、精神障害者の結婚を制限する包括的な法律も制定されなかった[56]。
優生法は、ほとんど全ての非カトリックの西ヨーロッパ諸国によっても採用された。
戦後も優生学の動きは残り、戦後の混乱期の人口抑制を目的として優生保護法が1948年(昭和23年)に全会一致で成立した[68]。
日本社会党は福田昌子、加藤シヅエ、太田典礼を中心に1947年(昭和22年)「優生保護考案」を第2回国会に上程したが、GHQとの折衝に時間をとられ、国会で十分な審議がなされないまま廃案となった。
ついで後に日本医師会会長になる民主党の谷口弥三郎参議院議員を中心とした超党派による議員立法で1948年に優生保護法が提案・採択された。
優生保護法は優生学的見地からの強制断種が強化される原因になったことでも特筆される。当時必須とされた日本の人口抑制による民族の逆淘汰を回避することを提案理由として、子孫を残すことが不適切とされる者に対する強制性を増加させたものとなった。
同法は、らい予防法でハンセン病を新たに断種対象としたほか、1952年の改正の際、新たに遺伝性疾患以外に、精神病(精神障害)、精神薄弱(知的障害)も断種対象とした。1948年から1996年の間に、手続き上本人の同意を必要としない強制不妊手術(第4条、12条)が1万6500件実施された[69]。強制不妊手術の実施数は1950年代末に年1000件以上に達したが、その後、次第に減少し、1980年代にはほとんど行われなくなった[2]。1996年に優生条項を削除する法改正がなされ、名称も母体保護法と変更された。
集団に対する優生政策は、1980年代以降ほぼ行われなくなり、個人の自己決定に基いて子供の病気を予防するリベラル優生学が実践されるようになった[70]。出生前診断の結果をもとに、個人の自己選択に基づく人工妊娠中絶を行うか、あるいは着床前診断により病気をもたない胚を選択するという形で行われる。
2000年代にヒトゲノムが解明された事によって、再び優生学的なヒト遺伝子の選抜が論じられるようになった。これて新たな優生学が誕生しつつあるとの意見がある。例えば、デオキシリボ核酸を用いた遺伝子診断サービスなどが商業化され、自己責任においてそれを利用するなど、個人レベルでの優生思想が、現実問題として現れてきた。今後は、この様な新しい優生学の、倫理問題について考えていく時代となっている。
2000年に採択された国連ミレニアム宣言は、こうしたヒトゲノムや生物工学の倫理的配慮を要請し、同年に欧州連合が採択した欧州連合基本権憲章では、人の選別を目的とした優生学的措置を禁止している[84]。また障害者権利条約も、第10条に障害者差別のない生存権[85]、第15条に医学的実験の禁止、第17条に不可侵性の権利を掲げ[86]、障害者に対する優生学的措置を否定している。
カール・セーガンは、人類がヌクレオチドを自由に並べ替えられるようになり、望み通りの特質をもった人間を作り出せるようになるだろうが、そのような未来は不安なものだと述べている[87]。
映画『ガタカ』(1997年)は、優生学により人々の能力と地位を決定するディストピア社会を、社会派SFで表現している[88][89]。『ガタカ』は興行的には成功しなかったが批評家には高く評価され、ヒトの遺伝子操作という論争の的となる議論を具体化させたと言われている[88][89]。この映画の「遺伝子差別」のディストピア的描写は、優生学や遺伝子決定論的イデオロギーの社会的受容に対して躊躇や反対をする多くの生命倫理学者や一般人によって引用されてきた[90]。行動遺伝学者のロバート・プロミンは、著書『ブループリント』(2018年)の中で、ガタカは全体主義国家に遺伝子情報が利用される危険性を警告する一方で、民主主義社会では教育や雇用のために人を選ぶ心理テストがすでに実施されており、遺伝子検査が能力主義を促進させるために、バイアスのない方法でテストを補完する可能性を示唆している[91]。
優生思想という言葉は、もともと優生学と同じ意味で用いられていた。すなわち「不良な子孫の出生防止」や「優れた子孫の出生促進」という意味である。当時の新聞などからも裏付けられており、1949年の国会決議でこの言葉が使われた際も、子の出生に限定された意味である[92]。しかし1970年代以降、優生思想は一部で「障害者や病者に対する差別一般」という、本来とは異なる意味で用いられるようになる[92]。これは障害者団体の青い芝の会が、障害者差別を批判するために優生思想をこのような意味で用いたことに由来する[93]。「優生(eugenic)」に対するこのような用法は、日本以外ではあまり見られない独特のものである[92]。
さらに優生思想は、より漠然と「(遺伝や生殖とは関係のない)弱者差別・排除」「人間を序列化する価値観」[93]のような意味で用いられることもあり、いずれも日本独自の用法である[92]。
このような用法は、英語だとエイブリズム(ableism、健常者中心主義)に近く[94]、特に2016年の相模原障害者殺傷事件の後に爆発的に広まった[95]。
横山尊は、優生学史研究において日本の言論がガラパゴス化する可能性があると指摘し、改めて国際的研究の標準が学ばれるべきだと主張している[95]。
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