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広島県賀茂郡下市村(現・竹原市)出身。終戦直後に外務次官を務めた河相達夫は実弟[1]。
1902年、東京帝国大学医科大学を卒業後、1903年よりドイツに留学。ゲッティンゲン大学で生理学者マックス・フェルヴォルン(Max Verworn)の薫陶を受け、冬眠動物の代謝生理の研究を行う。1906年に帰国、1915年には大沢謙二の後を継ぎ東京帝大医科大学生理学教室第2代教授となる。その前後から一般雑誌や婦人雑誌などに盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数発表している。1930年に日本民族衛生学会を設立、理事長として優生学研究の推進と国民優生法(1940年)の前身である民族優生保護法案の提出に大きな役割を果たした[2]。1934年東京帝大医学部長を務め、1937年に定年退官後、台北帝国大学医学部長、京城帝国大学医学院名誉教授として海外に赴任。台北帝大では総長三田定則らとの対立を背景として、1938年から国立北京大学医学院に移動し、主席教授として、横山正松らの他の教官の監督にあたった[3]。
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