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『国家』(こっか、古希: Πολιτεία、ポリテイア、羅: Politia / Res publica / Civitas、英: Republic)は、古代ギリシアの哲学者プラトンの中期対話篇であり、主著の1つ。副題は「正義[1]について」。
原題の「ポリテイア」とは、「国制/政体」の意味であり[2]、これは「国家(ポリス)のみならず、個人(アネール, ἀνήρ)の魂(プシュケー)の中にも、類比的に「国制/政体(ポリテイア)」の様なものが存在しており、その種類はどちらも大まかには、1つの「善い(正しい)国制/政体」と、4つの「悪い(不正な)国制/政体」に分けられる」(すなわち、個人の「修身」と、国家の「治国」には、「国制/政体(ポリテイア)」のごとき共通性がある(そして互いに連関・連動している))とする、本編の主内容に因んだものである。
(本編の中盤、第5巻17章〜第6巻14章において、直接的に言及されているように、ここで意識されているのは、(「(善の)イデア」と繋(つな)がれた知性を頂点として整えられた)哲学者(愛知者)の個人的な優れた内面のあり方(ポリテイア)と、社会・国家・政治のあり方(ポリテイア)を、(「哲人王・哲人統治者」という発想を通して)直接的に接合・統合・一体化することである。前作『パイドン』でも述べられたように、また本作でも度々言及されているように(第6巻10章、第7巻2-3章、第8巻5章)、ソクラテス自身も含め従来の哲学者(愛知者)たちは、基本的に世俗社会の雑事・栄達・贅沢・快楽などに背を向けて、個人的・私的・自己完結的(小乗的)な「知の探求」に終始する生き方をしていた。(『ソクラテスの弁明』や『ゴルギアス』等でも述べられているように、国家・国民善導の意識が強いソクラテスすらも、助言・忠告こそするものの、決して現実政治に踏み込む生き方をしてはいなかった。)そんな従来には分裂状態にあった「哲学者(愛知者)の精神」と「国家・政治」という両者が、上記のごとく結合・統合されることで、具体的に言えば、哲学者(愛知者)たちが「実務能力」や「国家公共救済(善導)意識」を兼ね備えた、世俗での労苦や自己犠牲を厭わない(大乗的な)国家指導者として養成されることで(第6巻1章12-13章、第7巻4章)、そして他の国家構成員たちが彼らの知的・倫理的な優秀性を認めて、彼らに国家統治を委ねて、それに服従することで(第5巻18章、第6巻1-4章12-13章)、はじめて人類は政治的な禍から解放されることになる(第6巻13章)、というプラトン特有の「理想国家」思想が、本作において「ポリテイア」概念を軸に、はじめて開陳・全面展開されることになる。)
ラテン語の訳名には、この原題を直訳した「Politia」のみならず、「Res publica」「Civitas」といった訳名も用いられて来ており、英訳の「Republic」や日本語訳の「国家」など、(本来であれば『Polity』『Constitution』『Regime』だとか、『国制』『政体 (政治体制)』等と訳題されるべきところを)原題から意味がズレた題名が慣習的に用いられて来てしまっているのも、こうしたラテン語訳の名残りである[3][4]。
なお、このようにしてラテン語訳における訳語混乱が生じてしまった原因・背景として、キケロによる翻訳や、彼による本篇の模倣作『国家について』(羅: De re publica)の存在がよく指摘される[4][5]。
(ちなみに、現在、日本語訳で定着している (ラテン語「Civitas」由来の)『国家』という訳名は、戦後に藤沢令夫や山本光雄の翻訳によって主流となったものであり、戦前には木村鷹太郎らの翻訳による (作品内容由来の)『理想国』という題名が最も普及していた[4]。中国語圏では、今でもこの『理想国』という訳名が一般的に使われている。)
『国家』は全10巻で構成され、プラトン中期の作品と考えられている。その構成・形式は、ソクラテスがアテナイの外港ペイライエウスにある、富裕居留民ケパロス(英: Cephalus)の家で行った議論を記録する対話篇の体裁を採っている。
本書は、後期の作品と考えられる『法律』(全12巻)と共に、他の対話篇と較べ際立って長く、「魂に配慮し、善く生きる」というソクラテス・プラトン的な道徳哲学(倫理学)・政治哲学(政治学)思想が、プラトン中期思想に特徴的なイデア論を中核に語られる。特に、善的・神的・宇宙的な自然(ピュシス)の秩序を、小宇宙としての人間(の魂(プシュケー))、その集合体としての国家(ポリス)やその秩序を司る法(ノモス)にまで、国制・政体(ポリテイア)論、正義論、哲学(者)・哲人統治(哲人政治)論などを通じて浸透・貫徹させようとする、壮大かつ創造性豊かな哲学体系が提示される。そのため、プラトンの政治哲学、神学、存在論、認識論を代表する著作の1つとされ、古代西洋哲学史において最も論議される作品の1つと位置づけできる。ゆえに本書で展開されている理想国家の発想は、後世のユートピア文学や共産主義にも多大な影響を与えた。
具体的な内容については、ケパロスとの会話が発端となって提起された正義が何なのかという問題から始まる。まずソクラテスは、トラシュマコスによって主張された「強者の利益」としての正義という説を論駁したが、正義それ自体の特定にまでは至らずアポリアに陥ってしまう。しかし、プラトンの2人の兄であるグラウコンとアデイマントスが、正義の議論を引き継ぎ、世間に蔓延する正義の存在を否定する立場(道徳否定論・正義否定論)を代理に主張しつつ、ソクラテスに対して正義の実在を証明するように求めたために、ソクラテスは個人の延長として国家を観察することで応答しようとする。国家を観察するためにソクラテスは理論的に理想国家を構築しており、その仕組みを明らかにした。そして理想国家を実現する条件として、ソクラテスは独自のイデア論に基づいて哲人統治者(哲人王)の必要を主張する。この哲人統治者(哲人王)にとって不可欠なものとして(善のイデアに到達するための数学諸学科と弁証術(ディアレクティケー)から成る)教育の理念が論じられており、そうして養われた知の徳性(知性)を頂点とする「善き政体」の獲得/確立/守護/保全という意味での正義が、(国家全体の水準でも、一個人の内面の水準でも)人間を幸福にするものと主張される。
(しかし、ここで注意すべきなのは、プラトンは本書で述べているような「何でも見通す知性を持った、善良で節制した哲人統治者(哲人王)が、頂点に立って支配し、皆がそれに服従する理想的政体(優秀者支配制)」について、少なくとも国家(理想国家)に関しては、最初からそれをあまり実現可能なものとしては考えておらず、「模範・手本・目標とすべきだが、人間には(ほぼ)実現不可能な理想」として考えており、そのことを本編の中でも、また政治論・法律論についての続編である後期対話篇『政治家』『法律』の中でも、明確に断っているという点である[6][7][8]。『政治家』『法律』では、「クロノスの黄金時代における、神やその配下の神霊(ダイモーン)による支配」に喩えられるその「理想的政体」は[9][10]、あくまでも「天上の神的・理想的なもの」として、個人の魂における「内なる政体」を整え維持したり、現実国家をなるべくそれに近い「次善の政体」へと導いていこうとする際に、参照・参考されるべきものとして、主張・提唱されている[11][12][8]。そして、最後の対話篇『法律』では、現実国家に関して、「混合政体」「法治主義」「共有を背景とした人口数管理と貧富格差防止」「投票選挙」「夜の会議」等の組み合わせによって、「次善の政体」を実現すべきであると主張されている[13]。このように、プラトンの政治論は、中期の対話篇『国家』で「実現不可能な理想国家 (最善国家)」を提示し、後期(最後)の対話篇『法律』で「(その理想になるべく近い) 実現可能な次善国家」を提示する、という2段構成になっている点に、注意を要する。)
ちなみに、哲人統治者(哲人王)を説明していく第6巻の途中で、ソクラテスが哲学の評判を貶める(「職業的技術」によって魂まで不具となりながらも、「哲学」に憧れてそれを自称している不適格な)「似非哲学者」の存在を、非難するくだりがあるが[14]、これはプラトンが『エウテュデモス』『パイドロス』『テアイテトス』でも非難を加えている、(プラトン・アカデメイア派とライバル関係にあり、その営みを「哲学」と自称することもあった)イソクラテスをはじめとする法廷弁論作家(ロゴグラポス)や彼の弁論術学校の生徒のことであると、一般的には考えられている[15]。
紀元前430年-紀元前421年頃[16]、もしくは紀元前412年頃[17]、アテナイの外港ペイライエウスにて。
ペイライエウスの居留民トラキア人たちによる、月神ベンディスの祝祭がはじめて催されるということで、参拝・見物に来たソクラテスとグラウコン。終わってアテナイに帰ろうとすると、ポレマルコス、アデイマントスらに呼び止められ、ポレマルコスの家へ。
ソクラテスは、家長のケパロスに挨拶し、「老い」や「富 (財産)」についての会話を交わす。そして、その過程で出てきた「正しさ (正義)」を巡り、ポレマルコス、トラシュマコスを巻き込んだ問答が展開されていく。
第2巻以降は、プラトンの兄たちであるグラウコン、アデイマントスがソクラテスの相手をし、表題通りの国家論、また様々な思想が披露されていく。
本篇は、全10巻から成る大長編であり、全12巻から成る最後の対話篇『法律』と並んで、プラトンの著作中では群を抜く圧倒的な文量を誇る。
第1巻は、これだけを単独で抜き出しても成立する完結した内容となっており、「正義」を題材とした、初期対話篇のようなアポリア的対話篇となっている。第2巻以降は、それに付け加えられた「長い延長戦」であり、ソクラテスがプラトンの兄たちであるグラウコン、アデイマントスを相手に、特定し損ねた「正義」を探求しつつ「国家論」を展開していく。
また、『カルミデス』や『リュシス』と同じく、かつての対話をソクラテスが読者に語るという体裁を採っており、純粋な対話篇(ダイアローグ)と異なり、解説(ナレーション)が交じる。『饗宴』や『パイドン』のように、対話者が回想するという形ではない。
『国家』の全10巻は、大別して以下の5部に分かれる。
導入である第1巻では、ケパロス、ポレマルコス、トラシュマコス等が次々と入れ替わって対話相手となるが、第1巻の末尾から第2巻以降は、最後の第10巻に至るまで、プラトンの兄たちであるグラウコンとアデイマントスのみが対話相手となる。
2人の内では、グラウコンがメインの対話者であり、アデイマントスが受け持つのは、第2巻の大部分、第3巻の前半、第4巻の前半、第6巻の大部分、第8巻初頭から第9巻初頭など。
第1巻では、まずソクラテスとケパロスとの導入的な会話で、「老い/財産」に続いて、本作の主題である「正義」が提示される。「正義」の議論を引き継いだポレマルコスやトラシュマコスは、「各人に相応しいものを返し与えること」「強者/支配者の利益」といった定義を提示するが、ソクラテスの検討によって、どちらも否定されることになる。そして、ソクラテス自身も、議論が結局「正義それ自体」の特定まで到達しなかったことを嘆くという、初期のアポリア的対話篇によく見られる、お決まりの締め括り方で終わる。
初期対話篇なら、このまま話が終わるが、この中期対話篇『国家』では、ここからプラトンの2人の兄であるグラウコンとアデイマントスが「正義」の議論を引き継ぎ、ソクラテスを支援する形で、第2巻〜第10巻に渡る長い議論が継続/展開されることになる。(※第2巻〜第10巻は、下述していくように、内容的に「第2巻〜第4巻」「第5巻〜第7巻」「第8巻〜第9巻」「第10巻」に、4分割できる。)
とは言え、「正義/不正それ自体」と、その「善 (利)/悪 (害)」が何であるかを特定する、という議論の主目的は、最初の「第2巻〜第4巻」で、早くも概ね達成されることになる。
まずグラウコンとアデイマントスによって、「正義」が世間一般では「内実を伴わない、ただの欺瞞的な綺麗事」として扱われてしまっている嘆かわしい現状(すなわち、「正義それ自体」には大した「由来/正当性/威力/魅力」があるわけでもなく、慣習的に付随する「評判/利益」があるだけであり、自分を「正義」に「見せかけ」てそれらを獲得することに長けた小狡い「不正な人間」の方が実際には得をしている、と皆に思われている現状)が指摘され、そうした現状を打破するために、「正義それ自体/不正それ自体」と、それがなぜ「善 (利)/悪 (害)」であるのかの理由の解明を要請されたソクラテスは、「個人の正義」よりも「国家の正義」の方が大きくて分かり易いとして、「言論上で国家を構築した上で、その中に正義を探す」という奇策に出る。
そして、「国家」「国の守護者」についての議論を終えた上で、「国家における「政務(立法)/軍事/商業」の関係性/役割分担」によって、「国家の「知恵/勇気/節制/正義」(枢要徳)」を特定/定義し、それを「個人」へと類比的 (アナロジカル) に適用しながら、「個人の魂における「理知/気概/欲望」(魂の三部分) の関係性/役割分担」によって、「個人の「知恵/勇気/節制/正義」」を特定/定義することにも成功する。(そして、この後者 (魂) の内的な規定/定義の方が、前者 (職業) のような外的な規定/定義よりも、より本質的であるとする。)
こうして得られた「正義/不正」の定義から、それらの「利/害」も容易に想像がつくため、これで議論が終わったかと思いきや、ソクラテスは、「正義/不正 (それ自体) の利/害」を、「できるだけはっきり確認」したいとして議論を継続し、上記してきたような「理知/気概/欲望」の「正しい関係性/役割分担」としての「知恵/勇気/節制/正義」といった「徳」が保たれた、「善い国制」としての「優秀者支配制」に対して、「理知/気概/欲望」の「不正な関係性/役割分担」によって生じる無数の「悪徳」の内、4つの主要な「悪徳」(勝利-名誉欲/金銭欲/放縦欲/支配欲 (の最優先化/至上目的化)) に対応した、4つの「悪い国制」を挙げた上で、その「善い国制」と「悪い国制」を比較して、「正義/不正 (それ自体) の利/害」を「はっきり確認」することを目論む。
しかし、続く第5巻以降において、その「悪い国制」の説明を行なっていこうとした矢先、アデイマントスの横槍 (「善い国制」としての「優秀者支配制」に関して、まだ「妻子の扱い」という重大事が明確に説明されていない) が入り、続く「第5巻〜第7巻」では、当初予定していた「悪い国制」の説明ではなく、「善い国制」としての「優秀者支配制」の説明の続き、それもソクラテスが (議論の進行の妨げになると考えて) 当初は隠していた「男女の同一待遇」「妻子の共有」「哲学者による国家統治 (哲人王思想)」という、彼自身が持っている3つの「非常識なアイデア(提案)」の説明を、詳細にさせられることになる。
この「構成上の捻(ひね)り」が入る「第5巻〜第7巻」のセクションにおいては、「国家の船の比喩」「善のイデア (太陽の比喩・線分の比喩・洞窟の比喩)」「哲人統治者の教育 (数学諸学科・弁証術(ディアレクティケー))」等といったプラトン独自の思想/発想が、存分に盛り込まれつつ、その「哲学者/哲人統治者」観が詳細に説明されることになる。
こうして「善い国制」としての「優秀者支配制」の詳細な説明の続きを終えた後、続く「第8巻〜第9巻」にて、ようやく本筋に戻り、ソクラテスは、4つの「悪い国制 (名誉支配制・寡頭制・民主制・僭主制)」(的な国家と個人) の (変転/転落/頽落的な) 成立過程と性格の説明を行う。
そして、「善い国制」としての「優秀者支配制」(的な国家/個人) と、4つの「悪い国制」、中でもとりわけ「最悪な国制」としての「僭主制」(的な国家/個人) を比較しながら、「正義」は (それ自体として)「幸福/利」を、「不正」は (それ自体として)「不幸/害」をもたらすことを確認し、更に、(現実国家がどうであろうと) 個人において、「魂」における「内なる国制」を (「天上の理想国家」を見据えながら「優秀者支配制」的に)「善く保つ」ことの重要性も確認しつつ、本筋の議論/論証は成功裡に終わる。
最後の「第10巻」では、追加的/補足的な話題が述べられることになり、まず、先の「悪い国制」の説明で出てきた、「名誉/金銭/権力」といった誘惑に加えて、「詩 (創作/ポイエーシス)」の誘惑によっても堕落させられることが無いように、「詩 (創作/ポイエーシス)」の「虚偽性」と「有害性」が強調的に説明される。(すなわち、叙事詩/悲劇/喜劇の詩人 (作家) 達が、画家が描く絵画と同じように、「無知な観客の多数/大衆の、感覚/感情に訴えかけて、彼らを惹きつける/騙す」ために、(描写対象人物が持っている「知識/技術」を、自分が持ち合わせない (無知な) まま)「直情的/誇張的に模倣/描写」しただけの、(「洞窟の比喩」における「影絵」のごとき)「虚偽的/劣悪な人物 (英雄/神/変人) 像」を、見聞き共感したり模倣/真似する習慣を身に付けてしまうことは、自分の「魂」の中の「理知」「分別」や「内なる国制」を崩壊させてしまう(そしてひいては、そうした人間を増殖させて「国家の国制」をも崩壊させてしまう)ことにつながると。なお、これに類似した批判は、後期末 (最後) の対話篇『法律』第3巻第15章においても、「観客支配制(テアトロクラティア)」という表現と共に行われている。)
そして末尾では、これまでの議論では封印されていた、「正義の (付随的な) 報酬」についての説明が行われ、「正義」の人には生前も死後も様々な報酬が与えられることになるし、逆に「不正」な人は生前も死後も様々な罰を受けることになることを、冥府の話である「エルの物語」を交えつつ説明し、最後にソクラテスが「向上の道」「正義/思慮」への勤しみを勧奨しつつ、話は締め括られる。
グラウコンと共に、ペイライエウスの居留民トラキア人達による月神ベンディスの祝祭を見学に来たソクラテス。見終わって帰ろうとすると、ポレマルコスとアデイマントスに出くわし、夕・夜にも催しがあるとのことで、それまでポレマルコスの家に滞在することになる。
ソクラテスは、家長のケパロスに挨拶し、「老い」について尋ねる。
ケパロスは、他の老人たちは (「若い頃の快楽」(を味わう気力/体力や機会) が失われてしまっただとか、中には身内の者から虐待されているなどと) 自らの境遇を悲嘆するが、自分は若い頃の様々な情念・欲望から解放されて平和・自由を得れたし、「端正で自足することを知る人間」であるならば、「老い」はそれほど苦にはならないと答える。
ソクラテスは、それはケパロスが財産家だからなのではないかと指摘すると、ケパロスはそれを半ば認めつつ、「財産」は自足の条件の1つに過ぎず、「人格」を兼備する重要性も説く。
ソクラテスは、ケパロスが「財産」があって良かったと最も思うことは何か問う。ケパロスは、死後の冥府での裁きに備えて、「正しく敬虔に生涯を送る」(欺いたり嘘を言ったりしない、神への供物を欠かさない、借りた金銭を返す) のに、役立つ点だと答える。
そこでソクラテスは、「正しさ (正義)」というものが、常に無条件に、そういった「正直であること/預かったものを返すこと」であると言えるのか問う。例えば、「武器を預かっていた友人が狂人になってしまった場合に、彼に武器を返すこと」は、「正しさ (正義)」とは言えないのではないかと。ケパロスも同意する。
(ここでポレマルコスが議論に割り込み、ケパロスは議論を譲って、神への供物の仕度のために席を立つ。)
ポレマルコスは、詩人シモニデスの言葉を引用しつつ、「正しさ (正義)」とは、「各人にふさわしいものを返し与えること」であり、つまりは「友に対しては善を為し、敵に対しては悪を為すこと」であると主張する。
そこでソクラテスは、「正義」の能力/技術の優れた点を、他の様々な技術との優劣を比較しながら絞り込んでいき、「正義」とは「平和時の契約(協働)、特に金銭の保管」に関して有用な能力/技術であり、また「盗む能力/技術」と「守る能力/技術」は表裏一体なのだから、「正義」とは一種の「盗み(盗人)の能力/技術」ということになると、指摘する。ポレマルコスは反発/否定する。
ポレマルコスは改めて、「正義」とは「友を利して、敵を害すること」だと主張する。ソクラテスは、「友/敵」とは、各人に「善い人間/悪い人間」であると「思われている者」なのか、「実際にそうである者」なのか問う。
ポレマルコスが「思われている者」の方だと答えると、ソクラテスは、それだと判断を誤り、「善い人間」を「悪い人間(敵)」として害したり、「悪い人間」を「善い人間(友)」として利したりと、正反対になってしまうこともあり得ると指摘する。
そこでポレマルコスが、「実際にそうである者」の方へと主張を変更すると、ソクラテスは、たとえ「悪い人間(敵)」であったとしても、「人間を害して、より劣悪にしてしまうこと」は、徳(善さ)の1つである「正義」にはふさわしくないと指摘する。ポレマルコスも同意する。
(するとここで、トラシュマコスが議論に割り込み、ソクラテスを「質問ばかりして、自らは答えず空とぼけばかりする」と、その姿勢を非難しつつ、自分は「正義」についてもっと優れた答えを提示できると主張する。)
トラシュマコスは、「正義」とは「強い者の利益」だと主張する。諸々の国家では、僭主制であれ、貴族制であれ、民主制であれ、「支配者の利益」に合わせて法律が制定され、「正しいこと」とされていると。
ソクラテスは、支配者たちが判断を誤り、自分たちの「不利益」になることを命じてしまうことも、あり得ると指摘する。
そこでトラシュマコスは、各専門家・知者の場合と同様に、「その呼び名にふさわしい振る舞いをした場合のみ、その呼び名の者とみなす」という「厳密論」を導入し、「支配者」とは「自分にとって「最善の事柄」を法として課す者」のことなので、それにふさわしい者である限りは、自分に「不利益」なことはしないと主張する。
ソクラテスは、「医者」「船長」「馬丁」などを例に、「支配 (世話)-被支配 (被世話)」の関係を持つ「支配者の知識/技術」というものは、「対象 (被支配者) を善くすること」「対象 (被支配者) の利益」のために存在しているのであり、(厳密な意味での)「支配者」とは、「被支配者の利益」のために考察・命令する者であると指摘する。
トラシュマコスは、「羊飼い」「牛飼い」を例に、「支配者」が「被支配者のためになること」を考えて行うのは、あくまでも「自分自身の利益」のためだということ、そして、「正しいこと (正義)」も「その「支配者の利益」のために、被支配者に対して課されるもの」であり、被支配者にとってそれは「自分よりも強い者 (支配者) の利益」「他人にとって善いこと」でしかないこと、逆に「不正なこと (不正)」は、そうしたお人好しの「正しい人々」を支配する力となり、支配者にとっての「自分自身の利益」となることを主張する。そして、「不正な人間」が常に「正しい人間」よりも「大きな利益」を得ることを、様々な事例を挙げて説明し、その最たるものが「国全体を簒奪/国民全体から収奪」して国内外から「幸せな人/祝福された人」と呼ばれる「独裁僭主」であると指摘する。
ソクラテスは、「羊飼い」の話には「羊の世話」と「売って儲ける」という異なる技術の話が混在しており、「純粋/厳密な話」ではなくなっていることを指摘しつつ、各々の「技術」には、それがもたらす「固有の利益」があり、それらと (技術者自身が「自分の利益/報酬」を得るための)「報酬獲得の技術」は別ものであり、(先に述べた通り)「技術」や「支配」それ自体は、「支配者自身の利益」ではなく、「被支配者の利益」のためのものであること、そしてそうであるが故に、一般的には自発的に「支配者」の地位につく者などおらず、金銭・名誉などの「報酬」が、別に与えられることで初めて人は「支配者」の地位につくのだと指摘する。更に、金銭・名誉などでは説得されない「優れた人々」を「支配者」にするには、強制・罰など (広義の「報酬」) が必要になるが、中でも最大の罰は、「自分が支配することを拒んだ場合、自分より劣った者に支配されることになる」ことだと指摘する。
こうしてソクラテスは、トラシュマコスの「正義とは強者の利益だ」とする主張に関しては、否定する形で一応の決着を付けるが、他方で議論の途中でトラシュマコスが提示した「不正な人間の生活は、正しい人間の生活に勝る」という意見はもっと重大で看過できないと、その点に関しての議論を継続する。
ソクラテスが、「正義」「不正」のどちらが「徳」「悪徳」なのか尋ねたのに対して、トラシュマコスは、「正義」は「気高い人の良さ」(エウエーテイア, εὐήθεια)、「不正」は「計らい上手」(エウブーリア, εὐβουλία) だと揶揄しつつ、「不正」が「徳 (優秀性)/知恵」の側で、「正義」が「悪徳 (劣悪性)/無知」の側だと答え、(『ゴルギアス』のポロスのように)「不正」を「醜いもの」と見做すことすら拒絶する。
そこでソクラテスは、
といったことを指摘しつつ、「正義」が「徳 (優秀性)/知恵」の側で、「不正」が「悪徳 (劣悪性)/無知」の側であることを、論証する。トラシュマコスも、しぶしぶ同意する。
続いてソクラテスは、国家・軍隊といった集団・組織であれ、個人であれ、「正義」はそれらの「内部」に協調・友愛を作り出し、「不正」は不和・憎しみ・戦いを作り出すこと、また、「正しい者」には「神々」も含まれるので、「正しい人」は「神々に愛される者」にもなるし、逆に「不正な人」は「神々に対しても敵」になると指摘しつつ、これまでの話をまとめ、
と主張する。
(なお、「かつて何事かを共同して成し遂げた」とされる「不正な人々」は、「正義」と「不正」を併せ持った人々であり、共同できる程度には「正義」がありながら、内部に併せ持っていた「不正」に促されて、悪事へと向かうことになったと説明される。)
更にソクラテスは、「目」にとっての「見る」、「耳」にとっての「聞く」、「刈り込み用の鎌」にとっての「葡萄の蔓の刈り取り」のように、それぞれの事物には、「それが唯一もしくは最善に果たし得る、(徳(優秀)-悪徳(劣悪)の差異がある) 仕事/働き/機能」があり、「魂」の場合にはそれが「配慮/支配/思案/生きる」などであること、また先の合意事項から、「正義」とは「魂」の「徳 (優秀性)」であり、「不正」とは「魂」の「悪徳 (劣悪性)」なので、
と指摘する。トラシュマコスも、不貞腐れて皮肉を言いつつも、それに同意する。
こうしてトラシュマコスとの議論は決着が付くが、ソクラテスは、「正義」が「何であるか」を考察するはずが、それが「悪徳/無知か、徳/知恵か」だとか、「不正と正義の優劣」だとかいった脇道の議論に逸れてしまったため、不満の残る結果になってしまったし、「正義」について「何も知っていない」ことが分かっただけであり、結局は「正義それ自体」が分からなければ、何も判然としないままであると述べる。
グラウコンがソクラテスに、「正義」についての議論の継続を要望する。そして、「善いもの」には、
の3種類があり、「正義」は(ソクラテスは2番目のものと答えたが)一般的には3番目のものとして捉えられていると指摘する。ソクラテスも同意する。
そしてグラウコンは、「正義」についての議論を継続していくに当たり、再度「正義」が一般的にどう思われているかを確認しておくことにする。
まずグラウコンは、「正義の起源」として人々によく主張されていることとして、「社会契約」の話を持ち出しながら、
といった話を披露する。
続いてグラウコンは、「正義」が、「不正をはたらくだけの能力の無い者達」によって、「仕方なく守られているもの」に過ぎないことを、露わにするために主張されていることとして、「思考実験」としての「ギュゲスの指輪」(透明人間) の話を持ち出しながら、
といった話を披露する。
更にグラウコンは、「正しい人」と「不正な人」のどちらが「幸せ」であるかを、明瞭に判定するには、極端な例で考えるのがいいとして、「完全に正しい人間」と「完全に不正な人間」を対置させ、
といった話を披露しつつ、このように「不正な人間」には、「正しい人間」よりも、神々からも人間からも「より善い生活」がもたらされることになる (「不正な人間」の方が「得をする」し、「正しくある」ことは「損になる/割に合わない」(「正直者が馬鹿を見る」)) と、主張されていると述べる。
そこで更にアデイマントスが、補足的に、
といった話を付け加えつつ、こうした事態の「根本原因」は、
を、誰一人として説明してこれなかったことにあるのであり、ソクラテスには、まさにこれこそを説明してもらいたいと要請する。
ソクラテスは、「文字」と同じように、「正義」もまた「大きい」方が把握しやすくなるのではないかと指摘し、まずは「個人の正義」ではなく、「国家全体の正義」を検討することにする。
そして、言論で以て「国家の生成」を観察していけば、その中に「国家の正義/不正の生成」も見ることができるのではないかと指摘し、アデイマントスを相手に、言論上の「国家の構築」を開始する。
ソクラテスは、「国家」にはまず「食・住・衣」(「農夫・大工・織物工」) が必要であり、次にそれらの道具を作る「職人」、更に牛飼い・羊飼いなどの「牧人」、貿易のための「貿易商」「海事専門家」、市場における「小売商人」、力仕事のための「肉体労働者」などを挙げる。
加えて、質素・菜食的な「食事」や「寝床」を挙げていったところで、グラウコンがそれは「豚の国/豚の飼料」のようにみすぼらしいと指摘したため、ソクラテスは、それまでの「真実の国家/健康な国家」としての「最小限国家」から、「熱で膨れ上がった国家」としての「贅沢国家」の考察に切り替えることにする。
ソクラテスは、「贅沢国家」としてそこに、「寝椅子」「御馳走/菓子」「香料/香/妓(ぎ/あそびめ)」「絵画/刺繍」「金/象牙」を付け加え、更に「猟師」や、真似(模倣)の仕事・音楽文芸に関わる「詩人/吟誦家/俳優/舞踏家/興行師」たち、さらに「装飾品職人」「乳母/子守/教育係」「着付け侍女/理髪師」「料理人」「肉屋/屠殺屋/豚飼い」など、そして「医者」を付け加える。
更にソクラテスは、そうして「贅沢国家」が、「贅沢のための牧畜・農耕に、充分なだけの土地を確保しようとする」「財貨を無制限に獲得することに、夢中になる」と、「隣国の土地を切り取って、自分のものにする」ことを考えるようになり、「戦争」が発生するのであり、これ (財貨の獲得[23]) こそが、「戦争の起源」であると指摘する。グラウコンも同意する。
そしてソクラテスは、こうして「国家」には、「戦争」のための「戦争の技術」を備えた「軍人/軍隊」も必要になるのであり、そうした「国の守護者」(ピュラクス, φύλαξ) の果たす役割は何よりも重要であり、彼らは、「他の仕事から、完全に解放されている」必要があるし、「最大限の技術・能力」と「任務に適した自然的素質」を必要とすると、指摘する。グラウコンも同意する。
そしてソクラテスは、その「国の守護者」の考察へと移行する。
ソクラテスは、「国の守護者」に求められる「自然的素質」として、「鋭敏」「勇気/気概」「身体頑強」などを挙げつつ、加えて「敵に対して厳しく、味方に対して穏やか」「気概と穏健を兼備する者」であるためには、(「味方/知」を愛する) 「犬」「愛知者 (哲学者)」のような素質も、求められると指摘する。グラウコンも同意する。
続いてソクラテスは、「国の守護者」の「教育」に話題を移し、「身体のための体育 (ギュムナスティケー)」と「魂のための音楽・文芸 (ムーシケー)」では、後者を先に教えること、そして後者に含まれる「話 (ロゴス)」には、「真実のもの」と「作りごと/偽もの/物語 (ミュートス)」が含まれるが、後者を先に教えることを主張しつつ、更に、その「内容」に関しては、「幼少期の人格形成」にふさわしいもの、すなわち、
といった内容であるべきこと、また、その「叙述形式」に関しても、
と主張する。アデイマントスも同意する。
更にソクラテスは、「音楽」へと話題を移し、
といったことを主張し、加えて、
なども主張する。グラウコンも、同意する。
続いてソクラテスは、「体育」の方へと話題を移すが、幼少から生涯を通じての「身体」に関する細かな事柄は、「魂/知性」を育んだ上でそれに任せればいいとして、「身体/健康管理」に関する「大体の規範」だけを示すことにし、
といったことを主張する。グラウコンも、同意する。
更にソクラテスは、「国の守護者」に関して、
と主張する。
こうして「国の守護者」に関する部分を述べ終え、ソクラテスは最後に、言論上での「国家の構築」の締め括りとして、
といったことを述べる。こうして「国家の構築」は完了した。
ソクラテス等は、自分たちが構築した「国家」の中に、当初の目的である「正義」を探すことにする。
ソクラテスは、自分たちが構築した「国家」が、正しく構築された優れたものであるならば、その中に、(「国家」としての)「知恵」「勇気」「節制」「正義」を備えているはずなので、それを1つずつ特定していけばいいと指摘する。グラウコンも同意する。
そうして特定作業を行なっていった結果、
であると、特定/規定されることになる。
次にソクラテスは、「個人」へと考察を移していくに当たり、先程話題に出てきた「3つの種族」に相当するものが、「個人の魂」の中にもあるのか検討することにする。
そしてその結果、ソクラテス等は、「個人の魂」の中にも、
という「3つの区分」があることを認める。
そしてソクラテスは、以上の議論を踏まえた上で、
と主張する。グラウコンも同意する。
更にソクラテスは、こうして得られた「正義」の規定/定義の正確性を検証/確認するために、こうした「正しい個人」が、「そうでない人々」よりも、
といったことを、行い易いかどうか問う。グラウコンは否定しながら、得られた「正義」の規定/定義の正確性に同意する。
するとソクラテスは、
と指摘する。グラウコンも同意する。
更にソクラテスは、
という対比的な喩えを挙げながら、それになぞらえるように、
であると指摘しつつ、加えて、
であると主張する。グラウコンも同意する。
こうしてソクラテス等は、無事に「正義」「不正」の特定を終え、その規定/定義(と性質/機能)を獲得/把握することができたが、ソクラテスは続いて、(元々の問題提起/要請の通り) 残る課題である、
といった事柄の検証に取り組むことにする。
グラウコンが、「正義」「不正」がこれまでの議論の通りならば、
のだから、そうした事柄は、検証/確認するまでもなく既に明らかなのではないか、といった趣旨の意見を差し挟むが、ソクラテスはそれに同意しつつも、
として、議論を進める。
そして、ソクラテスは、
と述べる。(次巻へつづく)
続いてソクラテスが、4種類の「悪徳」に対応 (相応) する、4種類の「悪しき国制」を述べていこうとする。
しかしそこで、アデイマントスが、以前の議論において「友のものは皆のもの」という諺と共に軽く言及される程度で、詳細な説明が省かれてきた「妻子の扱い」に関して、これは「国家のあり方を左右する重大事」なので、先に十分説明してほしいと要請する。
ソクラテスは、その説明を省いてきたのは、「そうした事柄に関して自分が持っている考え」が、「実現可能か」「最善の方法か」を疑われる程の「非常識なもの」であり、その考えを披露することで議論の進行が妨げられるのを懸念したからだと、後ろ向きな姿勢を見せるが、グラウコンにも促され、予定を変更して、まずは先にそうした事柄に関する、自分の考えの説明を行っていくことにする。
ソクラテスは、「妻子の扱い」の話題に入る前に、まず第1の「非常識な提案」として、「男女の同一待遇」に言及する。
同じ目的 (国の守護) に向かって活動する以上、女にも男と同じ養育・教育を行い、「音楽・文芸」と「体育」を課し、「戦争術」も教え、「相撲場で共に裸で鍛錬」したり、「騎兵の訓練」もさせたりするべきだと。
そしてソクラテスは、「男と女では自然的素質が異なる」という想定し得る異議に対しては、「女と男では、子供を生む/生ませる、力が比較的弱い/強い、という差があるくらいのもので、男女どちらも同じく各人によって仕事の適性は分かれるし、「国を守護する任務」に関する自然的素質に関して、「男でないと/女でないと」という程の性差は認められない」と反論する。
またソクラテスは、「国の守護者の教育」は当然、男だけでなく女もまた「最も優れた者たち」へと育成するのであり、したがって、この「男女の同一待遇」という考えは、「実現可能」であると同時に「最善」でもあると主張する。グラウコンも同意する。
次にソクラテスは、本題の「妻子の扱い」に話題を移し、これに関して、第2の「非常識な提案」として、「国の守護者」たちにおける「妻子の共有」を主張する。
ただし、「無秩序な交わり」は良くないし、「優秀な血統」を残さなければならないので、
といった措置が必要であると、主張する。
そしてソクラテスは、この「妻子の共有」は、「国の守護者たちの間の苦楽の共有」「国の一致団結」に資するし、彼らは (集団内における「敵/味方」「利/害」の関係が抹消されるため)「「金銭/子供/親族」「暴行/危害」にまつわる争い/裁判/訴訟」「貧乏人の家族扶養にまつわる各種の苦労」などから解放され、「国家全体の保全」に専念でき、その見返りとして彼らには、国家から「生活の糧」のみならず、生前/死後を通して「名誉ある待遇」が与えられるという、「最も幸福な生活」が保障されることになる (彼らが分を侵して「より多く/国家の全て」を手に入れようとすると、国家も彼ら自身も台無しになってしまうので、これが「国の守護者」がその能力/適性/仕事に応じて得られる「最も幸福な生活」となる) と指摘する。
その後ソクラテスは、話を脱線させて、そんな「国の守護者」たちの「戦争関連の事柄への取り組み方/向き合い方」について様々に述べていくが、グラウコンに話を戻され、「妻子の共有」が「最善」であることは分かったので、それが「実現可能」であるかについても述べてもらいたいと促される。
そこでソクラテスは、そもそも自分たちは、
ために探求を行ってきたのであって、決してそうした「模範」が「現実に存在する」ことを証明するためではなかったのであり、例えば画家の描いた「模範となる美しい人間像」の画が、そのような人間が「現実に存在する」ことを証明できなかったとしても価値を失うことが無いのと同じように、今自分たちが論じている「優れた国家の模範」も、それが「実現可能」であると証明できないとしても、価値を失うことは無いということ、また「言論」より「実践」の方が困難であることを前置きした上で、自分たちが、
を発見したならば、それを「実現可能性」を見出したことと看做してもらいたいと求める。グラウコンも同意する。
そしてソクラテスは、次に自分たちは、
を探求しなければならないと指摘する。
そしてソクラテスは、「優れた国家の統治」へと移行するための「最小限の変革」として、第3にして最大の「非常識な提案」である、「哲学者による国家統治」を挙げる。
ソクラテスは、哲学者が国家を統治するか、統治者が十分に哲学するか、そのようにして「政治的権力」と「哲学的精神」が一体化され、両者が分裂することがないようにしない限り、国々/人類の不幸は止むことが無いし、自分たちが述べてきた「優れた国家/国制」も、実現される可能性が無いと指摘する。
そしてソクラテスは、この考えに対する様々な非難者たちから、自分たちの立場を防衛するためには、
と指摘する。グラウコンも同意する。
こうして議論は、「哲学者」を規定/定義する作業に移行する。
まずソクラテスが、「哲学者」とは、
であると主張すると、グラウコンが、それでは同じように欲求対象全体について勉強熱心な、「演芸の見物好き/勉強家」「細々とした技芸の愛好家/実践家」などと、何が違うのか問う。
そこでソクラテスは、「哲学者」とは「「真実を観る」ことを愛する者」だとして、イデア論を交えた説明を行う。すなわち、
と主張する。更に、
と主張する。グラウコンも同意する。
更にソクラテスは、「「思わく」しているだけの人々が、我々の主張に腹を立てて反論してきた際に、彼らをなだめて説得するため」として、「両者のあり方の違い」を、より明確に説明できるようになるための議論を (パルメニデス的な「有/非有/有かつ非有」の区分/図式を持ち出しつつ) 行い、
と主張する。グラウコンも同意する。
続いてソクラテスは、
として、そのような (「国の守護者」となるべき)「哲学者」が持ち合わせているべき「自然的素質」を、考察していくことにし、
などを挙げた上で、こうした素質が求められる「愛知 (哲学)」の仕事にはケチのつけようが無いし、そのような人間が教育を積んで年齢が長じたならば、「国の守護者」も任せられると主張する。
すると、そこでアデイマントスが口を挟み、ソクラテスの問答によって、「将棋/囲碁 (ペッテイア(ペティア), πεττεία)」のように、うまく結論へと誘導されてしまったように感じると、違和感を表明しつつ、実際には世間では、
といった (『ゴルギアス』においても、カリクレスによって述べられているような) 非難が、人々によって口にされているのだと、指摘する。
ソクラテスは、その「哲学(者)」に向けられた非難の内容は、「本当のこと」だと認めつつも、「国家の船」の比喩を持ち出して、「哲学(者)」の擁護を行う。すなわち、
といった実態からすれば、「哲学者」たちが、政治家/一般大衆から「役立たず」呼ばわりされるのは、当然であること、だがしかし、その「役に立たない」ことの責任は、「哲学者」たち側にあるのではなく、彼らを重用して「役立てようとしない」者たち (政治家/大衆) の側にこそあるのだということ、などを主張する。
(「知者と学習者」「医者と患者」のように、元来「被支配者」側が「支配者」側に対して「支配」を要請/お願いするのが当然であり、「舵取り人 (哲学者)」が自ら「水夫 (政治家)」たちに支配させて欲しいと要請/お願いするのは、おかしなことだからと。)
ソクラテスは、このように、「哲学(者)」が非難される原因の1つは、非難する側が、最も立派な仕事である「哲学」とは正反対の仕事に携わっている者たちであるという点を指摘しつつも、他方でもう1つの、最大最強な非難/中傷の原因として、「哲学(者)」の名を貶める「自称哲学者」「似非哲学者」の存在を指摘し、そうした者が生み出される仕組みの説明に移る。
ソクラテスは、「哲学(者)」の名を貶める「自称哲学者」「似非哲学者」が生み出される仕組みを、
という2つの事態の組み合わせとして、説明する。
まず前者に関しては、素質のある若者たちが、
などの影響によって堕落させられ、「哲学」の道から脱落していくことになる事態を指摘し、続いて後者に関しては、「哲学」を「女性」に喩えながら、
といった具合に説明する。
そして他方で、例外的に、「哲学者としての自然的素質」を持ち合わせながらも、
などによって、「政治」や「職業的技術」に巻き込まれる/陥ることを避けることができ、「哲学」に留まることができた、ごく少数の人々 (真正な哲学者) もいるが、彼らは、
を目の当たりにして、「政治」には関わらず、静かに「自分の仕事 (哲学)」だけをしていく道を選ぶことになるし、「壁のかげに隠れて、嵐の暴風雨を耐え凌ぐ」ように、他者の目に余る不法行為を見ながらも、
といった生き方に甘んじることになり、
という、「最大の仕事」を成し遂げられないまま終わってしまうことになると、指摘する。
こうしてソクラテスは、世間における「哲学(者)に対する非難・中傷」の「原因・事情」を説明し終え、その非難・中傷が不当なものであること (そして、直前までの議論のように、「哲学者としての自然的素質」を持ち、「哲学」によって教育された「真正な哲学者」に、「国の守護者」の任を与えることは、正当であること) を確認する。
そしてソクラテスは、そうした「哲学 (の素質) に適合する最善の国制」は、現行の国制の中には存在せず、「自分たちが議論で構築してきた国家」が、一応はそう (「最善の国制」) であると言えるが、以前の議論における、「国の守護者の教育/養育」や、「守護者の中の支配者の選出」といった話題に関して、(その時はまだ、「哲学者による国家統治」という考えを、隠していたこともあって) まだ十分明確に説明/論証し切れてないと吐露する。
そして、今や「哲学(者)による統治」の話が解禁になったので、再度そうした話題を仕切り直して完成させるために、ソクラテスはまず、
について言及し、ソクラテスはこれについて、「現実国家における「現状の扱われ方」と、「反対」にしなくてはいけない」と主張する。
すなわち、現状では、「哲学」は、
といった扱いを受けていると指摘し、これを正反対に、すなわち、
といった扱いに、しなくてはならないと主張する。
しかしソクラテスは、「弁論術」や「論争術」といった、「擬似/思わく」に囚われた営みにばかり慣れ親しみ、
といった「真正な哲学的営み」を、一度も見聞きしたことが無い多くの人々が、こうした (哲学の扱いの) 主張に納得せず、反対するのは、驚きではないのであり、そうであるからこそ、先ほど自分は、
のどちらかによって、「哲学者による国家統治」が為されるようにならなければ、(そうした「哲学の扱い」の変更も実現せず)「国家/国制」も、「個人」も、決して「完全な状態」に達することは無いと主張したのであり、実際これらは (「実現困難」ではあったとしても) 決して「実現不可能」ではないと主張する。
というのも、前者 (哲学者→統治者) の場合は、大衆に対して、
ならば、納得させることも可能だし、後者 (統治者→哲学者) の場合も、
という可能性も、全く無いわけではないからと。
こうしてソクラテスは、改めて「哲学者が統治する最善の国制」は、不可能ではないと主張する。アデイマントスも同意する。
続いてソクラテス等は、晴れて「哲学者による国家統治」というソクラテスの考えが明示/共有されたことに伴い、改めて「国の守護者 (としての哲学者) の教育/育成」について、仕切り直して議論していくことにする。
そしてソクラテスはまず、「最大/最重要な学業の終極」としての、「善の実相 (イデア)」に言及する。
すなわち、(以前の「国の守護者」の「自然的素質」の議論においても、また「哲学者」の「自然的素質」の議論においても、同じく話に出てきたように) 「国の守護者 (としての哲学者)」は、「鋭敏さ/勇敢さ」と「堅実さ/穏やかさ」を併せ持った人物でなくてはならないし、「国家の利益」についての信念を護持できる者であるかどうかも含め、(以前の議論でも述べられたように、金を抽出/精錬するように) 様々な労苦/恐怖/快楽などを含む課題/訓練を課して、それが観察/検証されなくてはならず、その検証のための課題/訓練には、当然様々な「学業」も含まれるが、その中でも「最大/最重要な学業の終極」とも言えるものが、「善の実相 (イデア) への到達」であると。
そしてソクラテスは、以前の議論で行った、「魂を三分して、その役割/関係性によって、「知恵/勇気/節制/正義」といった徳性を説明する」といったやり方は、言わば「厳密さに欠ける、大まかな理解/説明をするための、近道の議論」であり、そうした諸々の徳性を、十分完全に正確明瞭に理解/解明するには、本来はそれら諸々の徳性を (人間にとって)「有用/有益」たらしめている「善の実相 (イデア)」そのものを、学業を重ねる「長いまわり道」を通って十分に知らなくてはならないし、逆に言えば、そうして「善の実相 (イデア)」を知らなければ、他の事柄をどれだけ知っていたとしても、(それらの本当の意味での「善悪 (利害)」や「適切な用法」が、分からない/分かってないのだから) 何の役にも立たないと指摘する。アデイマントスも同意する。
更にソクラテスは、多くの人々には「善」が「快楽」だと思われているし、(初期対話篇のソクラテス等のように) ちょっと気の利いた人々には「善」は「知恵」だと思われているが、前者の場合は「快楽 (善) には「善い快楽/悪い快楽」がある」といった具合に、後者の場合は「善とは「善を知る知恵」である」といった具合に、結局は「善の実相 (イデア)」そのものを知らなければ/示せなければ、循環論法/堂々巡りから抜け出せず、論争が止むことはないこと、また、「正義 (正しさ)」や「美 (美しさ)」程度なら、そうであると「思われる (評判)」の水準で満足できる人々も多いが、
である「善 (善さ/利となるもの)」に至っては、もはや人はその「思われ (評判)」の所有ごときでは、到底誤魔化しも満足もできないし、「そうで「ある」もの」を求めずにはいられないと、指摘する。アデイマントスも同意する。
そしてソクラテスは、このように、人々は「善」について、「求めるが、十分に把握できず、それゆえに他の事柄についても、その善し悪し (利害) がよく分からない (不明な) ままそれをする」という状態に陥ることになるが、国民が万事を委ねる「国の守護者」たちまで、そのような不明でいてもらっては困るのであり、「国の守護者」たちには、「善」を知り、「正義」や「美」を知った上で、国家を監督し、完全なる秩序を確保することが要請されるのだと、指摘する。アデイマントスも同意する。
するとそこで、アデイマントスが我慢できずに、ソクラテス自身は結局、「善」をどのようなものと考えているのかと問い質すが、ソクラテスは、知らないので語れないと答える。
しかし、グラウコンにも、以前の「知恵/勇気/節制/正義」のような、大まかな説明でも良いので、説明してもらいたいと懇願され、ソクラテスは仕方なく、「善そのもの」ではなく、代わりに「善に最もよく似ている」ように見える、「善の子供」にあたると思われるものの説明を、行っていくことにする。
ソクラテスは、「善の子供」を「太陽」に喩え、「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」という一連の比喩を用いて、その説明を行う。
まずソクラテスは、「太陽の比喩」において、
といったことを確認しつつ、
といった、2つの領域における類比的な構図/図式を提示し、
といったことを主張する。
次にソクラテスは、「線分の比喩」を用いて、これまで繰り返し提示されてきた「可知界」(思惟の対象) と「可視界」(見る (思わくする) 対象) といった2区分の中に、それぞれ「原物」と「似像」という区別を持ち込んで4区分とし、そのそれぞれに対応した能力と共に、
といった構図/図式として提示しつつ、特に (思惟の対象となる)「可知界」における、「「原物」に対する問答 (弁証) 的認識」と「「似像」に対する論理的/数学的認識」の違いについて、
と主張する。
そして最後に、ソクラテスはこれまでの「太陽の比喩」と「線分の比喩」を総合した、「洞窟の比喩」を持ち出し、「可知界」と「可視界」の区別を、「地上世界」と「地下の洞窟世界」に置き換えて (ズラして) 表現しながら、
といった構図/図式として提示しつつ、
といった説明を、更には、
といった説明を、付け加える。
ソクラテスは、以上の話を踏まえた上で、
といったこと指摘する。グラウコンも同意する。
更にソクラテスは、
と主張する。
グラウコンが、「そのような (上方の)「善い生活」ができる者に、(下方の)「悪い生活」を強いることは、「不当な仕打ち」をすることになるのではないか」と指摘すると、ソクラテスは、
などを指摘して、反論する。グラウコンも同意する。
続いてソクラテス等は、「教育科目」の話題に移る。
「国の守護者の候補者」たちの「魂」を、「昼夜の混在 (生成/可視界)」から「真実の昼 (実在/可知界)」へと向け変えて、「光明ある上方」へ導くことは、「陶片遊び」(オストラキンダ、ὀστρακίνδα[24]) のように簡単お手軽なものではないということで、どの学問なら、そうした効果があるのか (更に言えば、「戦争術」を学ぶ上でも役立つのか) を、考察することにする。
そしてまず、(以前の議論で出てきた)「体育」は、成長衰退 (生滅) する「身体」に関するものであり、対になる「音楽・文芸」と共に、(それら自体には) そうした効果は期待できないと指摘される。
そしてソクラテスは、「「全ての技術/思考/知識」に共通して用いる、最初に学ばなくてはならないもの」として、「数」と「計算」を挙げ、これこそは「戦争術」を学ぶ上でも、「知性」を目覚めさせる上でも、役に立つと主張する。
というのも、「可視界」における「感覚に与えられるもの (対象)」の中には、
の区別があり、例えば、
のであり、「数」(とりわけ、その基本である「一」) こそは、こうした後者の最たるものである (なぜなら、見える (感覚される) ものは、常に「一」(個別/単独) としても「無数/無限」(集団/類) としても、現れる) からと。
そして、ソクラテスは、
なども、指摘する。グラウコンも同意する。
こうして「計算術」は、「国の守護者」の (「哲学」と「軍事」両面の能力を、養成/育成するための) 教育科目の第1番目として、承認されることになった。
次にソクラテス等は、「数/計算術」とのつながりから、「幾何学」を検討することにする。
グラウコンが、「幾何学」(の一部) が、
など、「軍事」に役立つことは明らかだと指摘したのを受け、ソクラテスが、それでは「幾何学」が、「可知界への魂の向け変え」「「善の実相」「実在」の観想を促し、生成を見させないこと」に関して、寄与するかどうかの検討を行い、
を指摘しつつ、「幾何学」には、「魂を上方/真実へ向け、引っ張っていく力がある」ことを認定し、第2番目の学科に定める。
次に、ソクラテスが一旦は「天文学」を取り上げようとしたが、それを撤回し、自分たちは、
と指摘しつつ、「天文学」を扱う前に、先ほどの「(平面) 幾何学」(二次元) に続いて、「立体幾何学 (空間幾何学)」(三次元) を扱うよう促す。
グラウコンが、「立体幾何学」はまだ「未成熟な分野」であると指摘すると、ソクラテスが、その原因は、
の2つにあるのであり、これらが解消されれば、この分野は大いに成長発展することになるし、軽視/無理解によって冷遇されている現状ですら、この分野は、それ自体の魅力によって成長しつつあると指摘する。グラウコンも同意する。
こうして、2番目の学科である「平面幾何学」に続いて、3番目の学科には「立体幾何学」が指定された。
そして、4番目の学科として「天文学」が指定されるが、グラウコンが先ほど「天文学」が話題に出た際に、それによって「月/年の移り変わりを正確に感知することは、農耕/航海/軍隊統率に役立つ」と評価し、ソクラテスに俗っぽい (「大衆の視線/実用性」を意識し過ぎ) と指摘されたのを受け、「天文学」は「魂を強制して上方を見させ、天上へと導くもの」であることは、万人にも明らかだと、哲学者向けの評価も付け加えるも、ソクラテスは、
であると指摘しつつ、
ということを指摘する。
そして、5番目の学科としては、「目 (視覚) は天体の調和的な運動 (天文学) と密接な関係にあり、耳 (聴覚) は音階の調和的な運動と密接な関係にある、そして両者に関する知識は姉妹関係にある」というピュタゴラス学派の主張を参考に、「音階論」を指定することにする。
ただし、こちらも「天文学」の場合と同じように、「耳に聞こえる協和音などの音響を、様々な楽器/道具を使って聴き比べて考察する」といったやり方ではなく、「数的な割合/関係性/原理性」こそを探求すべきであることを、ソクラテスは付言する。
グラウコンも同意する。
そして最後にソクラテスは、以上の数学諸学科の学習/研究は、
といった水準まで達しなければならず、そうして初めてこれらの学科は、(「魂/知性」を「上方/可知界」へと向け変え、「上昇の道」を進ませるという) 目的に資するものになるし、逆に言えば、そうした水準に達しないならば、ただの「無駄骨」に終わると指摘する。
グラウコンは、同意しつつも、それは「大変な仕事」だと感想を漏らすが、ソクラテスは、これらはまだ「前奏曲」(予備学) に過ぎないと指摘する。
そしてソクラテスは、ようやく「本曲」(本学) としての「哲学的対話/問答法 (弁証術/ディアレクティケー)」の話題に移る。
ソクラテスは、「洞窟の比喩」で言えば、先程までの「前奏曲」(予備学) としての「数学諸学科」の学習/研究は、
であり、それに対して、この「本曲」(本学) としての「哲学的対話/問答 (ディアレクティケー)」こそは、
であると指摘しつつ、
のだと主張する。グラウコンも同意する。
続いてグラウコンが、「哲学的対話/問答 (ディアレクティケー)」とは何であるのか、その機能/過程について、先程の「数学諸学科」のように説明してもらいたいと、要請したのに対して、ソクラテスは、
を主張しつつ、以前示した「線分の比喩」の図式を (直前の主張に合わせるように、一番上を「ノエーシス (知性的思惟)」から「エピステーメー (知識)」に置き換え、「ノエーシス (知性的思惟)」は「実在/可知界」全般の認識を表現する概念として、適用範囲を拡張するなど、多少の修正はありつつも) 改めて持ち出して、
といった構図/図式として提示する。
更にソクラテスは、
などを付け加えつつ、
と主張する。グラウコンも同意する。
こうして「教育科目」についての議論が終わったことを受け、最後にソクラテス等は、それらを含んだ「国の支配者」の「教育 (選抜) 課程」の検討に移る。
まずソクラテスは、「国の支配者」候補者たちの「自然的素質」について、改めて大まかに確認することにし、
などを挙げつつ、こうした「心身健全な者」たちを、「重要な学習」と「厳しい訓練」で教育するならば、「正義/裁きの女神」(ディケー) にも咎められることはないし、「国家/国制を安全に保つ」ことになると、指摘する。
そしてソクラテスは、ようやく本題に入り、
といった「教育 (選抜) 課程」を述べる。
そして更に、30歳以降に、更に選抜された者たちが、「哲学的対話/問答 (ディアレクティケー)」の学習を課されることになるが、ここでソクラテスは一旦話を中断し、「哲学的対話/問答 (ディアレクティケー)」にまつわる「大きな害悪/危険性」に言及する。すなわち、
といったことを指摘する。
そしてソクラテスは、「教育 (選抜) 課程」の話を再開し、
といった説明を行う。
最後にソクラテスが、「男女の同一待遇」や「妻子の共有」といった他の提案/原則を踏まえつつ、
を主張し、こうして「善い国家/国制」と、それに「相似た人間 (としての哲人統治者)」についての議論は、十分に尽くされたと指摘する。グラウコンも同意する。
こうしてソクラテス等は、「善い/優れた/正しい国家/人間」としての、
について、(ソクラテスが最初は隠していた、「3つの非常識な提案」部分も含めて) 十分かつ詳細に議論し終えたことで、改めて、(「3つの非常識な提案」の議論に、脱線する前の)「議論の本筋」であった、
という流れに戻ることにする。
そしてソクラテスは、脱線直前に言いかけていた、4種類の「悪い (劣った) 国制」には、
があること、更に、
を確認しつつ、これら残り4種類の「国制」の性格を持った「国家/個人」について、1つずつ検討していくことにする。
まずソクラテスは、「優秀者支配制」(アリストクラティア) から、「名誉支配制」(ティモクラティア) が生じる仕組みについて、
と説明する。
そしてソクラテスは、その国制の性格を、
と説明しつつ、このように、「名誉支配制」(ティモクラティア) とは、
と指摘する。グラウコンも同意する。
続いてソクラテスは、この国制に対応 (相応) する「個人」について、
といったものであると、指摘しつつ、更に、そうした人間が形成される仕組み/背景を、
といった形で説明する。アデイマントスも同意する。
次にソクラテスは、「名誉支配制」(ティモクラティア) から、「財産評価に基づき、金持ちが支配する国制」としての、「寡頭制」(オリガルキア) が生じる仕組みについて、
と説明する。
そしてソクラテスは、この国制の性格、この国制が抱えている「誤り/欠点/悪」について、
と説明する。アデイマントスも同意する。
続いてソクラテスは、この国制に対応 (相応) する「個人」について、まずは、それが生まれる仕組みを、
と説明しつつ、その性格を、
といったものであると指摘する。アデイマントスも同意する。
続いてソクラテスは、「寡頭制」(オリガルキア) から、「民主制」(デモクラティア) が生じる仕組みについて、
と説明する。
そしてソクラテスは、その国制の性格を、
と説明する。アデイマントスも同意する。
続いてソクラテスは、この国制に対応 (相応) する「個人」について、まずは、それが生まれる仕組みを、
と説明しつつ、その性格を、
といったものであると指摘する。アデイマントスも同意する。
最後にソクラテスは、「民主制」(デモクラティア) から、「僭主制」(テュランニス) が生じる仕組みについて、
と説明する。
そしてソクラテスは、その国制の性格を、
と説明する。アデイマントスも同意する。
続いてソクラテスは、この国制に対応 (相応) する「個人」について、まずは、それが生まれる仕組みを、
と説明しつつ、その性格を、
といったものであると指摘する。グラウコンも同意する。
こうして5種類 (1+4種類) の「国制」(的な「国家」と「個人」) を述べ終え、ソクラテス等は、本来の目的である、
の議論へと移行する。
まずソクラテスは、
を確認しつつ、「幸福/不幸」に関する、第1番目の検証 (証明) として、
を開始する。
ソクラテスはまず先に、「徳」(善/悪) に関して、
ということを確認する。
続いて、本題である「幸福/不幸」についての検討も始め、「僭主(独裁)制」的な「国家」と「個人」について、
といったことを確認する。
それを受けて、グラウコンが、
と主張するが、ソクラテスはそれに異論を唱え、厳密には、
こそが、真に「最もみじめな人間」であると主張しつつ、そのことについての「思考実験」として、「僭主 (独裁者)」の境遇を小規模に喩えた、「富裕な奴隷所有者」の話を持ち出しつつ、
といったことを指摘した上で、
と主張する。グラウコンも同意する。
以上の議論を踏まえた上で、ソクラテスがグラウコンに、「幸福」という点で、
の5つに、順位づけをしてもらいたいと要請すると、グラウコンは、「徳(善/正義)/悪徳(悪/不正)」という点でも、「幸福/不幸」という点でも、ソクラテスが挙げた順番通りの順位であると答える。
それを受けて、最後にソクラテスは改めて、
を確認する。グラウコンも同意する。
続いてソクラテスは、第2番目の検証 (証明) として、
を開始する。
ソクラテスは、以前の議論で用いられた「魂の三区分」を、
と表現し直しつつ、これらの内、「どの部分が、他の2つを支配しているか」によって、人間を、
の3種類に分け、これらそれぞれに対応する、
といった、「固有の「快楽」のあり方」がある ことを確認しつつ、
を、考察していくことにする。
まずソクラテスは、
という、3者の相容れない「三つ巴」状態を提示しつつ、
ということを指摘した上で、
を考察することにする。
そしてソクラテスは、
といったことを確認しつつ、
を主張する。グラウコンも同意する。
最後にソクラテスは、第3番目の検証 (証明) として、先の第2の証明で言及しつつも、前提的/外形的な話で止まっていた、
について、その詳細を、
などを絡めつつ述べていく、
を開始する。
ソクラテスは、
といったことを指摘/論証した上で、「王者」と比べて、「僭主 (独裁者)」がどれだけ「不快な生活」を送ることになるかについて、
と主張する。グラウコンも同意する。
こうして「正しい行為」と「不正な行為」の「効力」(と、それがもたらす「快/不快」「幸/不幸」) について確認し終え、遂にソクラテスは、議論の「終着点/仕上げ」となる、
についての検証/論証の締め括りに、取り掛かることにする。
ソクラテスは、「魂の三区分」を、
といった具合に喩えつつ、
といったことを確認した上で、
といったことを指摘しつつ、
と主張する。そこで、グラウコンが、
と指摘すると、ソクラテスは、
と答える。グラウコンも同意する。
こうしてソクラテス等は、当初の議論の目的であった「正義/不正」とその「利/害」について、(「国制」や「魂 (の三区分)」の議論を経由しつつ) 見事に論証し終えたが、ソクラテスはそのまま更に、「詩 (創作)」や「魂の不死/冥府」といった「追加的/補足的な話題」へと移行する。
続いてソクラテスは、自分たちが言論で構築してきた「優秀者支配制」の理想国家は、多くの点でこの上無く正しく建設できたけれども、とりわけ、
は正しかったし、「魂の三区分」(や「線分の比喩/洞窟の比喩」などの「対象と認識能力」の区分) の議論を経た今となっては、そのことがより一層明らかだと主張しつつ、(初期対話篇『ソクラテスの弁明』『イオン』に見られる「詩人批判」と同類の)「ホメロス/悲劇作家 (悲劇詩人) 批判」を開始する。
ソクラテスはまず、「寝椅子 (クリネー)」を例に、
といった構図を提示しつつ、
等を指摘する。グラウコンも同意する。
そしてソクラテスは、「悲劇作家 (悲劇詩人)」たちや、(彼らのルーツであり、「最初の師」「指導者」とも言うべき) 叙事詩人ホメロス (やヘシオドス) に関して、
といったことを指摘しつつ、具体的に、彼らは、
といったことを指摘した上で、
といったことを確認する。グラウコンも同意する。
更にソクラテスは、
といった対比を提示しつつ、「作家 (詩人)」の「無知」が、いかに酷いものであるかを強調する。グラウコンも同意する。
こうして「詩作 (創作/ポイエーシス)」を含む「模倣/真似の技術」が、「どれだけ「(事物の) 真実」から程遠いものであるか」を論証し終え、次にソクラテスは、その「詩作 (創作/ポイエーシス)」を含む「模倣/真似の技術」が、「人間にどのような「害悪」を及ぼすものであるのか」についての、説明に移る。
ソクラテスはまず、
といったことを確認した上で、「詩作 (創作/ポイエーシス) の術」に関しても、同様に検討し、
といったことも確認しつつ、
と主張する。グラウコンも同意する。
更にソクラテスは、
等を指摘/強調しつつ、「詩作 (創作/ポイエーシス)」に関する話を締め括る。グラウコンも同意する。
続いてソクラテスは、「正義 (徳) の報酬」へと話題を移すが、わずかな時間に過ぎない短い「現世」を超えた、「全永劫の時間」における「正義の報酬」も語っていくために、まずはその前提となる「魂の不死」を、(前作『パイドン』とは、また少し違った切り口で) 論証していくことにする。
ソクラテスはまず、
といったことを確認した上で、「魂」に関しても、そうしたことを検討していくことにし、
と論証する。グラウコンも同意する。
更にソクラテスは、
といった話を付け加えつつ、
と主張する。グラウコンも同意する。
次にソクラテスは、「正義」の「死後における報酬」を述べる前に、「現世 (生前) における報酬」を先に述べる。
ソクラテスは、「正義」を巡る先程までの議論においては、「正義 (不正) それ自体」の「性質/働き」と、それが直接的にもたらす「利/害」を露わにするために、「正義」に付随する様々な「評判/利益」を (「完全に正しい/不正な人間」の反実仮想のように) 度外視してきたが、その議論が終わったので、禁止を解除し、「正義」に付随する様々な「評判/利益」を、まずは「現世 (生前) における報酬」として述べていくことにする。
ソクラテスは、「正しい人間」には、先の議論で論証された「正義それ自体がもたらす、数々の善きもの」に加えて、
といったものが、もたらされることになるのであり、逆に、「不正な人間」には、先の議論で論証された「不正それ自体がもたらす、数々の悪いもの」に加えて、
といったものが、もたらされることになると、指摘する。グラウコンも同意する。
そして最後にソクラテスは、「死後」における「正義の報酬」を説明するために、「エルの物語」という冥府の話を持ち出すことになる。
(これは、『パイドン』『国家』『パイドロス』という同時期の3作品において言及され、徐々に発展・成熟させられていくことになる冥府話の2番目に位置するものであり、『パイドン』の冥府話では、単に生前の生き方に応じて死後の冥府で賞罰が与えられるというだけの設定だったのが、本作『国家』の「エルの物語」では、死後に与えられる賞罰の期間が「1000年」であることや、(生前の生き方に応じた、動物の選択肢も含む)「輪廻転生」があるという設定が加えられることになり、更に『パイドロス』の冥府話では、「魂」が「馬車の比喩」で喩えられ、「1000年単位の輪廻転生を10回繰り返すと、魂の翼が再生して、「神々がいて、天球外のイデアも観照できる天上界」に帰還できるが、愛知 (哲学) 人生を3回送った者は、特別にその3回だけで帰還できる」という、詳細な設定が付け加えられることになる。)
ソクラテスは、先に述べた「正しい人/不正な人が、生存中に、神々と人々から与えられる褒賞/報酬/贈物や刑罰」は、「死後」において待ち受けているものと比べると、数においても大きさにおいても、些細なものであると主張し、それを説明するために、「「パンピュリア族のアルメニオスの子エル」という人物が、死後12日間に渡って冥府を巡る臨死体験をした話」としての「エルの物語」を、話し始める。
そしてソクラテスは、死後の「魂」は、
といった内容の「エルの物語」を述べた上で、グラウコンに、この物語を信じ、「向上の道」を外れることが無く、「正義/思慮」に勤しむならば、生前においても、死後においても、我々は幸福であることができると勧奨しつつ、話を締め括る。
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