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存命中の人間の肉体を少しずつ切り落とし長時間にわたり激しい苦痛を与えて死に至らしめる処刑方法 ウィキペディアから
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代までの中国や李氏朝鮮の時代までの朝鮮半島で処された処刑の方法のひとつ。人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えながら死に至らしめる処刑方法で、中国史上最も残酷な刑罰とも評されている。
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歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。「水滸伝」に凌遅刑の記述が記されている。別名を剮、寸磔とも称し、中国の史書に「磔死」の語が多く登場するが、いわゆる磔ではなく凌遅[1]を指し、蒸殺が最も重い刑罰とされた李氏朝鮮[2]でも実施された。酷似した処刑法に隗肉刑がある。
死体を陵辱する刑罰は、有史以前から中国で存在した。「孔子の弟子である子路が反乱で落命し、体を切り刻まれて塩漬けにされる刑罰を受けた」の記述が『史記』「孔子世家」にあり、漢の時代は、彭越が斬首されて腐敗しないようにその死骸を切り刻まれて塩漬けにされたほか、首を市にさらす棄市という処刑法もあり、隋の時代に斛斯政もほぼ同様に処刑され、釜茹でにされた。秦、漢、魏晋南北朝、隋唐までは、反乱者も単なる斬首刑で死刑に処すことが原則で、凌遅刑が法制化されたのは唐滅亡後の五代十国時代である。混迷した中国大陸を統一した宋の時代に、斬首、絞首にならぶ死刑の手段とされたが実施されなかった。これらの時代は、少数民族が言語や文化・習俗などが大きく異なる圧倒的大多数の漢民族を中央集権的に統治するため、恐怖政治に頼らざるを得なかった征服王朝の制度も影響し、「長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑」として凌遅刑が政府の刑罰として定着[要出典]した。同じ少数民族同士ではあるが金の時代、モンゴルのアンバガイ・ハーンに対して「木馬に生きながら手足を釘で打ち付け、全身の皮を剥がす」処刑を執った。明代は袁崇煥が、清代は、国家転覆を企図した謀反人に対する処刑方法とされた。凌遅刑は貴賤や老若男女問わず重罪人に対し行われている。 この手法は残虐であるとして何度か廃止が建議された。清末に西洋のジャーナリストらがこの刑罰の凄惨な様子を当時の最新機器であった写真などで伝えると「中国の野蛮な刑罰」と非難された。光緒31年(1905年)に公式に廃止されたが、チベット地方で1910年頃まで行われていたという記録もある[3]。
朝鮮では凌遅処斬(능지처참, 凌遲處斬)または凌遅処死(능지처사, 凌遲處死)と称される。三つの等級に分けられ、一等級は墓に葬られた死体を掘り起こして胴体、腕、脚など六部分に切り取って晒し、二等級は牛を用いて八つ裂き、三等級は存命のまま皮膚を剥ぐ。高麗の恭愍王の時代に導入され、李氏朝鮮の太宗のほか、世祖や燕山君や光海君の治世でしばしば執行されたとされる。その後は仁祖により段階的に禁止されたものの、実際は高宗の時代に実施された甲午改革(1894年)に際して廃止された[4]。朝鮮では、罪人への懲罰刑以外にも呪術として行われ、残虐であるほど呪いの効果が上がると信じられた[要出典]。
画像外部リンク | |
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閲覧注意 | |
晒し首にされた金玉均 - 凌遅刑の後、晒し首にされた金玉均 |
近代以前は、イギリスやフランスにおいても類似した処刑方法が行われていた。詳細については首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を参照。
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