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1627年から1644年まで在位していた明朝の最後の皇帝 ウィキペディアから
崇禎帝(すうていてい)は、明の第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗、のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(隆武帝による)、懐宗(清による)。諡号は弘光帝が紹天繹道剛明恪倹揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝懷宗端皇帝、そしてのちに欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝莊烈愍皇帝と改めた。一般的に清における崇禎帝の諡号を清の2つ目の諡号を略し莊烈愍皇帝とする[1]。また清は崇禎帝を明朝歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした[2]。
第15代皇帝泰昌帝の五男として生まれた。天啓2年(1622年)に兄の天啓帝より信王に封じられた。天啓7年(1627年)に天啓帝が急死し、その男子がみな夭折していたため、翌崇禎元年(1628年)に皇位を継ぐことになった。即位してすぐに、兄帝の下で専横を振るった宦官魏忠賢を排除し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。
当時は北に満州族の後金が侵攻し、南では李自成たちの反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。
崇禎帝は祖父万暦帝や兄天啓帝らと違い、政治に熱心であり、色事にふけるようなこともなく、倹約を心がけていた。しかし猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を有していた。即位直後から重臣を次々と誅殺し、特に山海関で満州族からの防衛を一手に引き受けていた名将袁崇煥を誅殺したことは致命的であり、明が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が挙げられる。在位17年の間に、崇禎帝によって誅殺された重臣は総督7名・巡撫11名に上り、その他罷免された者も多数おり、このことが重臣達の著しい士気の低下を招くこととなった[3]。
崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するため増税を行ったことにより、窮迫した民衆が李自成軍に加わり、まったくの逆効果であった。
崇禎17年(1644年)、李自成の順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落した。前夜から、崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34。李自成の命令で、皇貴妃田秀英の墓が開かれ、崇禎帝と周皇后が合葬された。
娘の長平公主を斬るときは「ああ、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。しかし、泣きながら振るった刀が急所をそれたため、公主は左腕に傷を負ったのみで一命をとりとめ、王承恩の機転で紫禁城を抜け出した。
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