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孝純太后(こうじゅんたいごう、万暦21年9月15日(1593年10月9日) - 万暦42年7月24日(1614年8月28日))は、明の泰昌帝の皇太子時代の側室で崇禎帝の母。姓は劉氏。
淮安府海州の庶民の劉応元と徐氏のあいだの娘として万暦21年(1593年)に生まれる。万暦年間、太子朱常洛(後の泰昌帝)の邸に入り、淑女(皇子の側女)となった。万暦38年12月24日(1611年2月6日)、朱由検(後の崇禎帝)を産んだ。
万暦42年(1614年)、太子に憎まれ、体罰を受けて急死した。太子は父の万暦帝による自身への懲罰を恐れ、死体を密かに金山へ葬った。
天啓2年(1622年)8月、朱由検は信王に封ぜられ、劉氏は賢妃に追尊された。
朱由検(崇禎帝)が即位すると、孝純恭懿淑穆荘静毗天毓聖皇太后の諡号を贈られて追尊され、泰昌帝の陵に改葬された。後年、国事のストレスにさいなまれた崇禎帝は、実母への強い懐旧の念を抱いた。そこで、傅懿妃・郭定嬪らの助けも得て、劉氏の肖像を描かせた。また、劉氏を「智上菩薩」と称して泰山の長椿寺に祀った。すぐ後に明が滅亡して祭祀は廃絶されたが、肖像は残された。
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