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かつて運航されていた北海道旅客鉄道の鉄道連絡船 ウィキペディアから
青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、本州の幹線鉄道の北端の青森駅と北海道の幹線鉄道の南端に位置する函館駅間の連絡航路で、鉄道国有化後の国営の国鉄、戦後の公共事業体の国鉄ならびに民営化後の北海道旅客鉄道(JR北海道)により、運航された鉄道連絡船である。航路長は61海里[1][2]、営業キロ上の距離は113.0 km[3]、貨物営業キロ程300 km[4]であった。陸岸から最も離れる津軽海峡中央部でも20海里以内のため、就航船の航行資格は沿海区域であった。
国鉄・JR以外の組織が青森港 - 函館港間に運航する航路は「津軽海峡フェリー」「青函フェリー」を、帝国鉄道庁(国鉄)による連絡船就航以前の沿革については「青函航路」を参照。
イギリスで建造された当時最新鋭の蒸気タービン船 比羅夫丸型2隻を擁して、国鉄直営航路として1908年(明治41年)に開設されて以来、本州と北海道の鉄道を連絡する基幹ルートとして、客貨双方の輸送を担って来た。1925年(大正14年)には、日本初となる大型車載客船 翔鳳丸型4隻による 鉄道車両航送を開始し、貨物輸送効率の画期的な向上を達成した[5]。
しかし太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)夏の空襲と、1954年(昭和29年)秋の洞爺丸台風では、多くの尊い人命と連絡船を失い、そこからの復興に努めながら、その後の日本の高度経済成長を支える大動脈として、当時の最先端技術を駆使した連絡船を多数就航させた。1972年(昭和47年)には、1日最大30往復もの運航をする最盛期を迎えたが[6]、この頃から開設され始めた長距離フェリー航路の影響、大型ジェット旅客機の国内線への投入等による航空運賃の相対的低下、1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックに続く景気低迷、さらには、度重なる労働争議による「国鉄離れ」もあって、1970年代後半(昭和50年代)以降は、客貨ともその輸送量を急激に減らし、減船、減便を余儀なくされながらも、1988年(昭和63年)3月13日の青函トンネル開業まで、この基幹ルート維持の使命を全うした。
運航区間は全期間を通して、青森と函館間であったが、1944年(昭和19年)から1984年(昭和59年)までは函館港内有川埠頭の貨物専用岸壁も使用された。また、青森側でも、1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけての短期間、夏泊半島東側の小湊にLST改装貨車渡船用の桟橋を急造し、上記の有川埠頭との間にLST改装貨車渡船航路が開設されていたことがあった。また、夏期を中心とした連絡船による航路外の港への周遊運航は、1926年(大正15年)以来、 終航まで、1936年(昭和11年)から1947年(昭和22年)の輸送力不足と戦争、混乱の時代を除いて度々実施された[7]。
1908年(明治41年)3月7日の開設当初は、青森、函館とも連絡船が着岸できる岸壁はなく、沖繋りで、旅客、貨物は小蒸気船やハシケを用いて乗下船、荷役が行われた。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
運賃・料金はすべて廃止時のものである。普通運賃はこども半額で、それ以外の料金は大人子供同額。
なお、国鉄(JR)の鉄道・バス路線と航路とを乗り継ぐ場合には、それぞれ別々に運賃・料金を計算したが、航路を間に挟んで国鉄(JR)の鉄道路線を利用する場合、前後の鉄道路線の営業キロは通算し、そこに青函航路の運賃を加算する方法がとられていた。通過連絡運輸に準じた取扱いである。例えば東京から東北本線・青函航路・函館本線経由で札幌に行く場合、運賃は東北本線と函館本線の営業キロ数を通算した運賃と、青函航路の運賃の合計となった。
乗用車の航送は、車の長さが3mまでが9,700円、4mまでが12,900円、5mまでが16,200円、5mをこえ5.3mまでが21,100円で、航送料金には運転する人1名の運賃が含まれ、往復割引も設定されていた。航送申込の際には車検証を提示する必要があった。自動車以外は、自転車は700円、オートバイ・スクーターは125cc以下のものが1,100円、125ccをこえるものは2,200円だった。なお、いずれも乗船者の運賃別である。
青函航路は、本州・北海道間の一般的な移動手段が鉄道だった1960年代までは、メインルートの一部を担っていた。青森発着の「はつかり」「みちのく」「白鳥」などの特別急行列車や特急「はくつる」、「ゆうづる」、急行「八甲田」、「十和田」などの夜行列車、函館発着の特急「おおぞら」、「北斗」、「北海」、「おおとり」、急行「宗谷」、「ニセコ」、「すずらん」などの優等列車や夜行普通列車は、青函連絡船との接続を重視したダイヤを組んでいた。青森と函館では深夜・早朝に発着する例(下記の1・2便接続)も見られたが、札幌での時間を有効に使えることから、利用率はかなり高かった。
なお、上野駅 - 青森駅を結ぶ寝台特急「ゆうづる」は、最盛期には7往復が設定され、岩手県内や青森県内での有効時間帯を重視したダイヤ以外に、電車寝台を使用した列車を中心として青函連絡船接続(3・4便)を意図したダイヤも組まれていた。列車番号に関しても、電車寝台を使用した1往復を除き2本ずつの続行運転を行っていたため、下り列車は先発列車が5000番台、続行列車が一桁もしくは二桁の列車番号が与えられていた(上り列車は逆となる)。各列車の列車番号と、接続する青函連絡船の便名は揃えられており、下りの1便接続を例にとると、本州側が「はつかり」の「1M」や白鳥の「4001M」など、北海道側が「おおぞら」の「1D」や「北海」の「11D」などとなっていた(同時間帯の上りはそれぞれが「2」となる)。
青函航路と接続列車との間には最短でも20分程度の乗り換え時間が取られていたが、列車が青森駅や函館駅に到着した際、あるいは連絡船がそれぞれの桟橋に着岸した際には、目指す船や列車の席(自由席)を確保しようとする乗客でプラットホームや跨線橋がごった返す様子もみられ、荷物を抱えた乗客が競って駆け出すことから「桟橋マラソン」と呼ばれる光景を見せていた。ときには接続する連絡船が定員を超えて乗船できない「積み残し」が起こることもあった。
なお、鉄道の座席指定券の発売は乗車1か月前(1980年(昭和55年)9月までは7日前)からが原則であるが、青函連絡の乗客の座席を最優先に確保するため、本州・北海道の指定券を乗継割引で購入する場合は、指定券は1980年(昭和55年)9月までは8日前から、同年10月以降は1か月1日前からそれぞれ発売された。1か月1日前発売(1980年(昭和55年)9月までは8日前)となる列車は指定されており、函館発は全ての列車が対象になっていたのに対し、青森発の列車は「はつかり」(1980年(昭和55年)9月までは全列車、同年10月以降は2号のみ)、「みちのく」、「白鳥」、「しらゆき」、「いなほ4号」(8日前発売は1980年(昭和55年)9月まで、同年10月以降は1か月前発売)のみが対象となった。国鉄・JRの規則では、航路の乗船券の名称も「乗車券」だった。
多数の乗客を安定的に輸送するため、本航路では、青森駅・函館駅での接続列車の指定券を持つ乗客を最優先に乗船させる施策をとった。航路廃止時(1988年(昭和63年)3月13日)には、函館と札幌方面を結ぶ函館本線の特急「北斗」には、青函航路連絡の乗客の乗車を確実なものとするために全車指定席の便が1往復設定されていた。次に優先されたのは優等列車の乗客で、青森、函館着の特急列車・急行列車の車内では、優等列車からの乗継を区別するため、「特」の文字や赤い線が印刷された乗船名簿を配布する方法が用いられた。
本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物が1971年(昭和46年)に855万3033トン、旅客が1973年(昭和48年)に利用者498万5695人を数え[60]、それぞれピークを迎えたが、航空機とフェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客(旅客と荷主)の減少などの要因により、1974年(昭和49年)以後は利用が減少傾向に転じた。
1976年(昭和51年)には利用者数が400万人台を割り、1977年(昭和52年)は314万人と急減したため、1978年(昭和53年)にはグリーン自由席(124席)の約1/3のスペースを転用して「サロン海峡」という名の喫茶室、麻雀ができる娯楽室を設置。接客設備の改善とイメージアップを図ったが減少に歯止めはかからなかった[61]。
「国鉄離れ」の加速で末期には閑散としていた。末期でも、青森ねぶた、函館港まつりの行われる旧盆、弘前・函館の観桜と時期が一致するゴールデンウィーク、年末年始などの最多客期には超満員となり、臨時便(臨時客扱)の運航や、乗船名簿に便名、または出航時刻をスタンプで押印した乗船名簿を配布する措置がとられることがあったが、通常期の利用状況は悪かった。
利用客数は最末期で年間に約200万人だった。しかし廃止が決定されてからの1年間は260万人に利用客が増えた。その多くが青函連絡船に別れを惜しんでやってきた者たちであり、それまで一度も連絡船に乗ったことのない者までが、「お別れ乗船」のために全国から訪れた。普段であれば冬季間は閑散としていたが、1988年(昭和63年)1月から3月の土日には、臨時客扱(臨時便)を行うほどの活況を呈した[62]。
1988年(昭和63年)3月13日の青函トンネルの開通に伴い、同日をもって青函航路の通常運航が終了し、青森 - 函館間の連絡は青函トンネルにゆだねられた。
その後、青函トンネル開通記念博覧会と世界・食の祭典に合わせて同年6月3日から9月18日まで「羊蹄丸」「十和田丸」を用い昼間1日2往復の暫定運航(復活運航)を行うとともに、夜間には函館港に羊蹄丸と青森港に十和田丸を停泊させホテルシップ営業を行った[63]。この期間には通常営業時は入ることができなかった操舵室や車両甲板が乗組員の案内で見学でき、航海中の船尾扉開放も見られた。暫定運航が終了した翌9月19日付で青函連絡船は正式に廃止となった。
廃止後30年以上が経過した現在でも、青森駅には連絡船の案内表示や桟橋の可動橋へ向かう線路など、青函連絡船の痕跡が数多く残っており、函館駅や有川桟橋周辺にも着岸の際に目標として用いていた標識などが今でもわずかに残存している。
1986年(昭和61年)には、国鉄が荷物・郵便輸送から撤退したのに伴い、青函連絡船での郵便輸送が廃止された。貨物輸送については、運航終了日の1988年(昭和63年)3月13日101便(青森0時05分発、函館4時00分着)檜山丸をもって下り貨車航送が、170便(函館2時40分発、青森6時35分着)八甲田丸をもって上り貨車航送が終了した[64][65][66]。なお、八甲田丸は折り返し青森第1岸壁7時30分発、函館第2岸壁11時20分着の23便で旅客輸送、乗用車航送のほか、青森に配備されていた控車20両を航送し[67]、これが青函連絡船における最後の貨車航送となった。
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国鉄では1962年(昭和37年)頃から自動車航送を検討していたが、道南海運は1964年(昭和39年)6月に大間 - 函館間に、翌1965年(昭和40年)4月には青森商船が三厩 - 福島間にフェリー航路を開設し[68]、互いに競争しつつ青森 - 函館間フェリー航路開設の準備をしていた。ここに国鉄の乗用車航送計画が表面化したため、フェリー会社からは「民業圧迫だ」との声も上がり、衆院運輸委員の中からも慎重論が出て、計画は一時頓挫した。しかし、1966年(昭和41年)7月・8月の東北集中豪雨では東北・奥羽両本線が不通になり、北海道 - 本州間の貨物列車は運休。その代替輸送のトラックが急増し、上記フェリー航路だけでは到底運びきれず、青函連絡船檜山丸(初代)を用いた緊急のトラック航送が8月18日から23日に実施された[69][70]。国鉄はこうした実績を重ねながら、運賃を民間フェリーと同一にするなど、共存共栄の方向性を示し国の認可を得ることができた[71]。
このようにして、乗用車航送は1967年(昭和42年)6月1日1便 十和田丸(青森第1岸壁0時01分発 函館第2岸壁3時50分着)、2便 羊蹄丸(函館第2岸壁0時25分発 青森第1岸壁4時15分着)から実施された[72]。積載場所は津軽丸型の遊歩甲板後部遊歩スペースで、甲板上でUターンしなくて済むよう両舷の柵の一部を開閉可能な構造として乗用車乗降口とした。これに対応するため、青森第1岸壁には船尾右舷の副岸側から遊歩甲板船尾右舷乗降口に達する斜路が、函館第2岸壁には遊歩甲板船尾左舷乗船口まで乗用車を昇降するエレベーターが設置された。乗用車は船の進行方向横向きに、2台縦列が3列の6台積載であった。当時は青森・函館両駅の構内配線改良工事は未完で、積載鉄道車両の積卸しを迅速に行い、55分で折り返せる岸壁は、青森第2岸壁と函館第2岸壁だけで[73]、津軽丸型7隻による3時間50分運航は行われてはいたが、5船12往復と1船2往復の組み合わせで、青森と函館の使用岸壁の割り当ては複雑であった[74]。このため乗用車乗降設備のある青森第1岸壁と函館第2岸壁相互間発着便は限られており、また旅客定員の関係から、なるべく特急接続便は避け、さらに同年3月から就航していた東日本フェリーの青函航路[68]と重ならない時間帯での設定、などの条件から、岸壁変更なしで乗用車航送可能な深夜の特急接続便1便・2便、同じく岸壁変更なしの特急非接続208便(函館12時35分発 青森16時25分着)、ならびに青森第2岸壁発ではあるが第1岸壁着発便とは重ならない特急非接続209便(青森14時30分発 函館18時20分着)を第1岸壁発に変更のうえ、これら2往復で乗用車航送を開始した[75]。ところが乗用車航送開始後、まもなく満車状態が続くようになり、8月1日から9月20日まで、津軽丸型で運航される貨物便258便(函館21時35分発 青森1時25分着)・253便(青森2時20分発 函館6時25分着)の青森での折り返しを、期間中のみ第2岸壁から第1岸壁に変更し、乗用車航送便として3往復とした。さらに9月27日発生した室蘭本線 豊浦 - 洞爺間岩石崩落による貨物輸送障害対策として、同年10月10日から10月20日まで、東日本フェリー青函航路がトラック航送に専念できるよう、国鉄は258便・253便の乗用車航送復活のほか、岸壁変更不要であった特急接続便の4便(函館19時15分発 青森23時05分着)と貨物便259便(青森21時35分発 函館1時25分着)でも乗用車航送を行い4往復とした。しかし、その後は元の2往復に戻された[76]。
1968年(昭和43年)7月1日からは多客期に対応するため、上記4往復に加え、貨物便254便(函館4時45分発 青森8時35分着)・特急接続便5便(青森9時40分発 函館13時25分着)の青森折り返し岸壁を第2岸壁から第1岸壁に変更、106便(函館7時20分発 青森11時10分着)・207便(青森12時05分発 函館15時55分着)も同様に青森折り返し岸壁を第2岸壁から第1岸壁に変更し、計6往復の乗用車航送が行われた[77][78]。
1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正では、青森・函館両桟橋とも、第1岸壁・第2岸壁同時作業での55分折り返し運航が可能となり[79]、津軽丸型の全面2.5往復運航が開始された。津軽丸型2隻5往復の運用を3組とし、それぞれ、甲・乙・丙系統として計15往復運航された[80]。このうち、1便(青森0時30分発 函館4時20分着 乙系統)と12便(函館0時05分発 青森3時55分着 甲系統)、5便(青森7時25分 函館11時15分着 丙系統)とその反対便の20便(函館7時30分発 青森11時20分着 丙系統)、21便(青森12時15分発 函館16時05分着 丙系統)と反対便の22便(函館12時15分発 青森16時05分着 丙系統)、324便(函館14時25分発 青森18時15分着 甲系統)、105便(青森17時00分発 函館20時50分着 丙系統)と反対便の4便(函館17時00分発 青森20時50分着 丙系統)、27便(青森19時10分発 函館23時00分着 甲系統)と6便(函館19時45分発 青森23時35分着 乙系統)、169便(青森21時45分発 函館1時35分着 丙系統)の6往復で乗用車航送が行われ、この6往復は冬季間を通して継続された。
1969年(昭和44年)6月20日から9月30日までは、さらに、12便の折り返し303便(青森4時50分発 函館8時40分着 甲系統)の函館着岸壁を変更して乗用車航送便とし、岸壁変更なしで162便(函館2時40分発 青森8時30分着 丙系統)と1便の折り返し164便(函館5時15分発 青森9時05分着 乙系統)、青森発岸壁変更した163便(青森14時55分発 函館18時45分着 乙系統)を加えた8往復で乗用車航送が行われた[81]。
1969年(昭和44年)10月1日改正では、甲系統・丙系統は全て青森第1岸壁、函館第2岸壁使用となり、これら10往復全てで乗用車航送可能なダイヤとなったが[80]、閑散期でもあり、11便(青森0時05分発 函館3時55分着 甲系統)・12便(函館0時20分発 青森4時10分着 甲系統)、のほか5便(青森7時35分発 函館11時25分着 丙系統)・20便(函館7時20分発 青森11時10分着 丙系統)、21便(青森12時10分発 函館16時05分着 丙系統)・22便(函館13時20分発 青森17時10分着 丙系統)、38便(函館14時50分発 青森18時40分着 甲系統)、25便(青森17時05分発 函館20時55分着 丙系統)・4便(函館17時00分発 青森20時50分着 丙系統)、27便(青森19時35分発 函館23時25分着 甲系統)・26便(函館19時20分発、青森23時10分着 甲系統)、169便(青森22時45分発、函館1時35分着 丙系統)の6往復で乗用車航送が行われ、1970年(昭和45年)5月1日から、33便(青森5時05分発 函館8時55分着 甲系統)、37便(青森9時45分発 函館13時35分着 甲系統)・166便(函館9時50分発 青森13時40分着 甲系統)、152便(函館21時50分発 青森1時40分着 丙系統)を加えた8往復とし[82][83]、多客時となる7月1日からは、151便(青森2時40分発 函館6時25分着 丙系統)・162便(函館2時50分発 青森6時40分着 丙系統)、23便(青森14時35分発 函館18時25分着 甲系統)、34便(函館4時55分発 青森8時45分着 甲系統)の2往復が加わり、甲系統・丙系統の10往復全便で乗用車航送が行われた[84]。以後、閑散期6往復、通常期8往復、多客期10往復が続けられた。津軽丸型7隻のうち6隻による甲・乙・丙系統15往復体制は、その後のダイヤ改正でも、便名変更や若干の時刻変更はあったもののその大枠は維持された。
1982年(昭和57年)の津軽丸(2代)・松前丸(2代)引退後も、石狩丸(3代)・檜山丸(2代)の2隻の車両渡船を、旅客定員650名、乗用車20台積載可能な客載車両渡船に改造し、甲系統に充当してこの体制は継続された。両船は石狩丸型と呼ばれ、その乗用車積載場所は、津軽丸型より1層低い船楼甲板後部であったため、石狩丸型用として、青森第1岸壁副岸側に斜路が、函館第2岸壁にはエレベーターが設置された。なお石狩丸型の全長は144.6mと津軽丸型 より12.6mも長いため、函館第1岸壁では岸壁長を148mから165mに延長する工事が行われた[57]。
1984年(昭和59年)2月1日のダイヤ改正では、車両渡船も2隻減船され、空知丸(2代)1隻となった。しかし貨物専用の有川桟橋も廃止されたため、通常 空知丸で運航される2往復の貨物専用便が、函館桟橋に1日2回着発(53便2時10分着から50便3時05分発まで、51便16時35分着から52便17時30分発まで)することになった。しかし函館第1岸壁は長さは125mと短く[56]、全長144.6mの空知丸は、岸壁長165mの函館第2岸壁使用となった。このため、着発時間帯の重なる丙系統の2往復(173便1時45分着から170便2時40分発まで、3便16時05分着から22便17時00分発まで)が函館第1岸壁着発となって、乗用車航送ができなくなり[85]、乗用車航送便可能便数は8往復となった。しかし、この時期は閑散期の6往復のため問題はなかった。この改正後初めての多客期である7月1日からは、この時期まだ明るい17時前後に行われる51便・52便の函館折り返しを第1岸壁に変更し、丙系統の3便・22便を第2岸壁に移し、かろうじて乗用車航送便9往復を確保した[86][87]。1985年(昭和60年)3月14日のダイヤ改正からは、51便・52便の函館折り返しは第1岸壁となったが、乗用車航送の多い時期以外は、第2岸壁が使用された[88]。
1986年(昭和61年)11月1日のダイヤ改正では不定期貨物便1往復が削減されたが、乗用車航送に変化はなく、閑散期6往復、通常期8往復、多客期9往復が続けられた。1988年(昭和63年)3月13日終航の日の丙系統は八甲田丸と羊蹄丸で、それぞれ4便(函館7時20分発 青森11時15分着)と23便(青森7時30分発 函館11時20分着)まで乗用車航送を行い、以後旅客扱いのみとなったが[89]、甲系統の石狩丸は臨時8011便(青森16時40分発、函館20時30分着)で下り旅客便として下り最終乗用車航送を行い、下り最終便となった7便 八甲田丸に25分先行した。同じく檜山丸は臨時8010便(函館16時40分発 青森20時30分着)で上り旅客便として上り最終乗用車航送を行い、上り最終便となった22便 羊蹄丸に20-25分先行した[64]。
乗用車積載台数は当初は6台、1971年(昭和46年)4月からは車間をつめて4列8台に、1972年(昭和47年)7月からは、遊歩甲板を後方へ延長して12台とし、後に再度車間をつめて13台とした[90]。1982年(昭和57年)参入の石狩丸(3代)・檜山丸(2代)においても当初の20台が、後年22台に増やされていた[91]。積載する乗用車の大きさ制限は、当初は全長5.6m、車幅2.1m、車高1.85m、車両重量2.5トンで[92][93]、その後、長さ制限が5.3mとなり[94]、1980年(昭和55年)秋からは、車高のみ1.95mに緩和された[95]。積み下ろしの待ち時間が少ないこと、発着場所がそれぞれの都市の中心駅であることなどから、ターミナルが郊外に位置する東日本フェリーとの棲み分けが成立しており、固定需要があった。
津軽丸型では、露天の遊歩甲板後部に乗用車を積載したため、荒天時には、波しぶきが航送車両にかかることもあったが、1982年(昭和57年)参入の石狩丸型の2隻では、船楼甲板後部に新設された甲板室内に乗用車を収容したため、その心配はなくなった。また石狩丸型では1984年(昭和59年)7月7日より乗用車積載区画にバイク・自転車の積載も開始したところ好評で、翌1985年(昭和60年)4月1日からは津軽丸型でも同様サービスが開始された[87]。
乗用車航送開始2ヵ月後の1967年(昭和42年)8月から、臨時扱いながら、津軽丸型で運航される旅客扱いしていない貨物便での乗用車航送が開始され、翌1968年(昭和43年)7月からは津軽丸型による貨物便での乗用車航送は定期化された。そのため日本交通公社などから発売されていた日本国有鉄道監修時刻表の、国鉄の営業案内ページの連絡船に関する部分には航送船の時刻表が掲載されており、欄外には「時刻表本文に載っていない便は、乗用車・自転車・オートバイ・スクーター航送の運転者・同乗者以外はご利用になれません」と書かれていた。
航送予約に関しても自動車の航送予約は乗船日の14日前からの受付で、一部の駅の窓口や一部の旅行センター、日本交通公社と日本旅行の一部営業所しか取り扱わなかった。1982年(昭和57年)当時、窓口で航送予約取り扱っていたのは青森・函館両駅の他に、釧路・帯広・旭川・札幌・東室蘭・長万部・八雲・森・浅虫・一戸・盛岡・弘前・大館・秋田の北海道・青森・岩手・秋田の4道県の16駅のみだった。駅の旅行センターでは新宿のみで取り扱っていた。
船舶電話を介して、全国各地と通話が可能であった。船内からかける場合は、船内案内所に申し込んだ上で通話が可能だった。船内へかける場合は、北海道は函館船舶台、本州・四国・九州からは青森電話台へそれぞれ申し込んだ上で船内への通話が可能だった。1981年頃にダイヤル直通[96]の公衆電話となり、船内からかける場合は案内所を通さず、普通の公衆電話と同様に使用できた。 なお、ダイヤル直通になる前の公衆電話は距離課金制で、例えば船内から東京へかけると690円ほどしたという。それでも「今連絡船乗ってるんだよ!」と電話するための行列ができたという[97]。ダイヤル直通になってからも地上の公衆電話よりは高額なため、100円玉しか使用できなかった。
船内の廃棄物は海峡の途中で投棄していたが、下北半島の国定公園等に漂着して美観を損ねたり、陸奥湾内の沿岸に漂着するなどして漁業被害も出るようになったため、1971年(昭和46年)12月1日より船内の廃棄物は函館に陸揚げし陸上で処理するようになった[98]。
飯田線が地滑りによる被災で運休し、佐久間湖経由で電源開発の船舶による代行輸送が行われた際には運航のため青函連絡船の船員が派遣されたことがあった。
青函航路の管理・運航上の本拠地は函館であり、函館に置かれた青函船舶鉄道管理局(現在のJR北海道函館支社)が青函航路を所管していた。そのため、国鉄分割民営化後の青函航路はJR北海道が経営した。また、国鉄時代の連絡船は国鉄本社のある東京を船籍港としていたが、分割民営化に伴い船籍港は函館に移されている。函館で保存されている摩周丸の船体を見ると、英字表記のうち「TOKYO」の文字が白く塗りつぶされているほか、「東京」の文字を白く塗りつぶした上から「函館」と書き直した痕跡があることが現在も確認できる。
日本初の蒸気タービン船を導入して運行を開始。
1925年(大正14年)8月から車両航送を開始した。さらに1942年(昭和17年)以降は戦時下の鉄道貨物輸送の増加に対応するためW型戦時標準船が急ピッチで建造された。
しかし、1945年(昭和20年)、青森湾は米海軍艦載機の攻撃を受け、7月14日に「翔鳳丸」「飛鸞丸」「第二青函丸」「第六青函丸」が、8月10日には 「亜庭丸」が撃沈され、131人が亡くなった[162]。 さらに7月14日と15日には津軽海峡と函館湾にも攻撃があり(津軽海峡では「津軽丸」「第三青函丸」「第四青函丸」が沈没)、乗員乗客424人が亡くなり、青函連絡船は一時全滅となった[162]。終戦直後稼働できたのは第七・第八青函丸の2隻のみであった。戦災から60年目にあたる2005年(平成17年)7月14日、青森港に「青函連絡船戦災の碑」が建立された[162]。
戦災による輸送力不足を補うため休止状態の関釜航路・稚泊航路から連絡船を転属させると共に、貨車航送船にも客室(デッキハウス)が造設された。戦争中に着工していた戦時標準船3隻が就航。
1946年にGHQが建造を許可した車載客船4隻・車両渡船4隻が急ピッチで建造された。設計期間短縮のため戦時標準船の設計を踏襲している。
1954年(昭和29年)の洞爺丸事故で喪失した3隻の代船が建造された。船尾扉を設けるなど事故を教訓に設計が改められている。以降の新造船は全てディーゼル船。
タグボートとして連絡船の離着岸時に船体の曳き出し・推進作業を行うほか、錨地停泊中の連絡船への交代乗員の送迎、航路標識整備、港内清掃などに従事した[174]。 しかし1908年3月の比羅夫丸型による青函連絡船開設から、1925年8月の翔鳳丸型による車両航送開始までの時期は、当初は両港とも連絡船は沖荷役で、客貨とも小蒸気船またはそれに曳航されたハシケで運んでおり、時代が下がるとともに桟橋が整備され、それに伴う離着岸補助作業が発生した[175]。この時期は補助汽船とは呼ばず小蒸気船と呼ばれ、巨船を押す作業はなかった[176]。
1925年の翔鳳丸型による車両航送開始以降は、補助汽船には風圧面積の大きい全長100m以上の車載客船を迅速に離着岸させる能力が求められ、出力400馬力級の双暗車船(2軸船)茂浦丸、七重丸、尾花丸が新造され、洛東丸を釜山から転属させた[177]。日中戦争勃発前後からの増便に対しては1938年 豊浦丸を釜山から転属させ[178]、太平洋戦争開戦後の急激な増便に対しては、700馬力級の第五鐵榮丸、第六鐵榮丸、第八鐵榮丸の3隻が配属された。戦後は1947年から1948年にかけ、第九鐵榮丸、第十鐵榮丸ならびに、プロペラに固定コルトノズルを装着して推力を増強した えさし丸型4隻が新造配属された[179][180]。
連絡船の離着岸作業は狭い水域での作業のため、国鉄では早くも1936年に操縦性能の高いフォイトシュナイダープロペラ装備の補助汽船を関釜航路に投入していたが[181]、青函航路への投入は1954年7月転属の第四鐵榮丸からであった。その後1967年4月から可変ピッチプロペラ・コルトノズルラダーを装備し、出力も1620馬力に倍増された えさん丸型4隻が就航し、第三鐵榮丸、第四鐵榮丸以外の補助汽船は引退した。1978年5月からダックペラ装備の2000馬力の ひうら丸型2隻が投入され、第三鐵榮丸、第四鐵榮丸も引退した[179]。
着岸作業時に係留索を連絡船から岸壁に渡す作業を行う小型艇で[204]、車両航送開始以来長らく手漕ぎの伝馬船が使われて来たが、安全性と能率向上のため、1953年から船底前部にフォイトシュナイダ―プロペラ1基を装備した4隻の綱取自動艇が順次建造され[205]、バウスラスターを持たない十和田丸 (初代)以前の連絡船の入港時に使用された[206]。宇高から転入の しらさぎ は固定ピッチプロペラであった[207]。「自動艇」とは、伝馬船に対する動力艇の意で、自動制御等ではない。
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