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国鉄スハ32系客車(こくてつスハ32けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1929年(昭和4年)から製造した20 m級鋼製客車の形式群である。
国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、1929年より製造が開始されたスハ32600形(のちのスハ32形)および1932年(昭和7年)より製造が開始されたスハ32800形(のちのスハ32形)と同様の車体をもつ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。
製造当初は1928年の称号規程に準拠した5桁番号の形式が使用されていたが、1941年の称号改正後は2桁の形式番号の後ろに車両番号を付番する方式となった。
鉄道省最初の鋼製客車のグループであるオハ31系客車(1927年〈昭和2年〉から製造)は、従来の木造客車の車体をそのまま普通鋼製としたような構造で、荷物車、食堂車など一部の車種を除いて全長が17 m(車体長16.5 m)であったほか、台枠も荷重に対して強度を確保できるが重量のかさむ魚腹形台枠を用いていた。ところがそれら最初の鋼製客車完成後に実施された荷重試験で、必ずしも台枠を魚腹形とする必要はないことが判明した[1]。
その結果、スハ32形以降の客車台枠は、原則的に溝形鋼を用いた、単純で軽量な長形台枠に変更された。それと同時に、全長は等級・用途を問わず、すべての車種で20 m(車体長19.5 m)に統一された。
座席のシートピッチはオハ31形では木造車並みの1,300 mmで、ボックス席2つにつき3枚の窓が並んでいたが、スハ32形では、シートピッチを1,455 mmに拡大して居住性を改善し、ボックス席1つに2枚の窓が並ぶようになった。[2]窓の左右幅は変わらないが、上下寸法は735 mmに拡大された。また窓框の床面からの高さは、その後日本の旅客車両の多くが採用するようになる800 mmとなった。
台車は、オハ31系では球山形鋼と呼ばれる特殊な断面の鋼材を使用する釣合梁(イコライザー)式のTR11(2軸ボギー式)およびTR71(3軸ボギー式)が採用されていたが、造船需要の急激な減少に伴い、用途の限られる球山形鋼の製造が打ち切られたことで、これらの台車の継続生産が困難となり、全面的に構造を変更する必要が生じた。
そのため本系列では、ペンシルバニア形と呼ばれる鋳鋼製軸ばね部と一般的な形鋼による側梁を組み合わせた簡潔な構造の軸ばね式台車が新たに設計された。これらは2軸ボギーがTR23、3軸ボギーがTR73と呼称し、TR23は二等座席車・三等車(荷物合造車および寝台車を含む)・荷物車それに郵便車に、TR73は一等車(展望車を含む)・食堂車(合造車を含む)・寝台車(一等および二等。合造車を含む)などの優等車にそれぞれ装着された。なお、スシ37740形に限っては全車とも球山形鋼を使用するTR74[3] が装着され、台枠もこれにあわせて専用品が採用されたが、その理由は定かではない。
TR74を除くこれらにおいてはいずれも台車枠側面の大型部品であった釣合梁が廃止された。このため、摩耗部品であるブレーキシューの交換が容易となったほか、ばね下重量の軽減によって軌道破壊を抑制できるメリットがあった。
3軸ボギーのTR73もTR23と同様に1929年度より製造され、こちらも軸ばね部などの構造についてTR23と同様の改良が順次実施されている。世界的にみて3軸ボギー台車で釣合梁をもたない純粋な軸ばね式とした例はペンシルバニア鉄道3D-P1系を除くと少数派であり、この台車ではイコライザー式のTR71・72と同様に各車軸間に設けられた枕ばねを専用の「へ」の字形の梁で連結し、側受にかかる荷重を分散支持するため(この方式は九州鉄道ブリル客車に装着されていたJ.G.ブリル社製3軸ボギー式台車の方式を模倣したものである)に、設計上変則的な部分が見受けられる。
TR23台車は構造が比較的簡単かつ保守も容易なため、第二次大戦後にウイングばね式のTR40が登場するまでの20年にわたって国鉄客車に幅広く採用された[4]。イコライザ式は1929(昭和4)年度のもの(図面番号VA3058)に始まって、同一形式のままで改良が順次加えられており、基本的にはほぼ同仕様で太平洋戦争後まで製造が継続し、さらにコロ軸受化されたTR34に発展している。
ブレーキはオハ31系で初採用されたA動作弁によるAVブレーキ装置(自動空気ブレーキ)が、車体シリンダー方式で当初より標準装備とされた。また、従来の客車では天井裏に単純な重力落下式の給水機構とともに設置されていた便所用水タンクが、このAVブレーキ装置のブレーキ管から流用して供給される空気圧で揚水するように変更され、保守面で有利な床下設置とされたのも、目立たないながら重要な改良点であった。
本系列の台枠は、基本的には溝形鋼を主材料とするが、初期の二重屋根車から1933年度製までは側梁に乙形鋼が使用され、2軸ボギー車には基本的にUF21が[5]、3軸ボギー車にはUF45が使用された。
合造車であるスハニ35650・35700形、スハユ35300形の各形式については製造当初側面に大きな開口部をもつことによる強度不足が懸念され、オハ31系の20 m級3軸ボギー車用魚腹台枠であるUF46の台車心皿位置を2軸ボギー式台車用に変更したUF22が採用され、さらに荷重の大きな荷物車については、オハ31系に属するUF46を使用した一世代古い設計のカニ39550形が1930年(昭和5年)まで継続生産された。この懸念は後日実施された応力解析の結果強度に問題なしと判明したことから、1931年以降設計のグループでは開口部の大きな郵便・荷物車も台枠をUF21に変更している[5]。
また例外的に台車に旧世代のTR71を改設計したTR74を装着するスシ37740形は台車側受取り付け位置の相違などの事情から枕梁の設計を一部変更したUF45Aを、展望デッキ[6] の関係で展望室側車端部の細部構造や寸法が変更された展望車については、スイテ37000・37010形がUF47を、そしてスイテ37020形がUF47Aをそれぞれ使用した。
1934年度製以降は側梁を入手が容易な山形鋼とするなど溶接技術の進歩などを受けて改良が施され、2軸ボギー車にはUF30が、3軸ボギー車にはUF48が、食堂車には出入台が必要ないことから側梁の設計が変更されたUF49がそれぞれ使用された。
その後の解析の結果、前後の枕梁間に合計8本設けられていた筋交い梁が必要ないことが判明したことから、1936年度および1937年度製ではそれまで2軸ボギー用と3軸ボギー用が共通設計されていた枕梁の設計をそれぞれ専用設計とし、溶接組み立てを各所に採用し、2軸ボギー車にはUF37を、3軸ボギー車にはUF50を使用、1937年度以降は溶接組み立てを大幅採用した2軸ボギー車用UF38と3軸ボギー車用UF51の登場で20 m級一般形客車[7]用台枠は完成の域に達し、次代のオハ35系客車に引き継がれている[8]。このように、部材の配置・種類とその接合手法が合理化されていったことは、台枠そのものの軽量化進行に寄与した。
初期に製造された車両では、屋根は二重屋根[9] となっていた。この方式は、段差の部分に採光窓を設けることができるなどの利点があったが、構造が複雑で製造上の工数もコストも大きかった。そこで単純な丸屋根への変更が検討された[10] が、当初は形状が大きく変わることへの反対が大きく、実施には至らなかった。
ところが、1931年(昭和6年)に製造された初の三等寝台車である30000形(のちのスハネ30形)において車両限界を最大限活用し上段寝台のスペースを確保する目的で丸屋根が必然的に採用され、同形式の製造過程で屋根製造にかかる工数とコストの削減が確認された。この結果他の車両についても増備車は丸屋根とすることとなり、1932年以降の新造車はすべて丸屋根に変更となった。
また、1934(昭和9)年度以降新造のグループでは溶接技術の進歩や台枠の設計変更でリベットの使用本数が大幅に減少し、ウィンドウ・シル/ヘッダーの他、長土台と側板の接合部などに各1列残るばかりとされた。
1938年(昭和13年)になると、客用窓を1 m以上に拡大したオハ35系の製造が開始され、以後製造される一般型客車はそちらに移行したが、保温や凍結による破損防止などの観点から、北海道向けの三等座席車には従来通り狭窓のスハ32形の二重窓車が1941年(昭和16年)まで製造された。また、オハ35系では転換クロスシート式二等車は太平洋戦争後になるまで製造されなかったため、転換クロスシートの30850形(のちのオロ35形)が、やはり1941年まで継続製造されている。
一方客室内部も製造時期により変化が見られ、二重屋根車までは木製客車同様妻羽目中央に束が入っていたが、丸屋根車ではこの束を取り払い、四方の枠縁で鏡板となるベニヤ板を押さえる構造となり、1934年(昭和9年)ごろからは押縁で押さえる構造に変更し、また37400形(のちのマロネ37形)の1940年度落成の一部の車両では鏡板一枚張りが試みられるなど、室内から束や枠縁を取り払う構造が随所に現れている。
クシ桁[11] は二重屋根車では「妻壁(室内)の一部」として木地塗りとされていたが、丸屋根車ではこれを「天井の一部」として天井と同色に塗装された。後年二重屋根車でも丸屋根車と同様にクシ桁を天井色とした車両が存在した。 1935年(昭和10年)製で、東京都立小金井公園で静態保存されているスハフ32 2146はこの時期の製造で、クシ桁・枠縁が残っている。
このクシ桁には中央の引戸上部に飾り押縁が取り付けられ、優等車のものは扇風機取り付け座を兼ねていたものを用いた。しかし、1936年(昭和11年)から扇風機の取り付け位置が天井に変更されたことからこの年以降飾り押縁は取り付けないこととなった。
丸屋根車の屋根上に取り付けられたガーランド形通風器は、30000形(のちのスハネ30形)用では通風口が通風器の直下になかったのに対して、32800形(のちのスハ32形)グループ向けでは通風口を通風器の直下に置くことが可能となったことから通風口には室内灯が組み込まれた。
通風器と通風口の間には室内からてこで開閉する通風戸とシンダ = 石炭の燃えカスや煤煙の侵入を防ぐための金網が設けられ、二重屋根車の「通風窓開閉装置」と異なり開閉状態が目視で確認できないので、てこには通風戸の開閉状態が確認できるように一方は白色、反対側は黒色の塗装が施され、白色側が上にあるときに通風口が開くように作られていた。
ガーランド形通風器は「走行風で室内の空気を吸いだして排気する」構造になっているが、室内には「外気の取り入れ口」がないことから、室内への空気の供給は窓や戸からの「すきま風」に頼るという、矛盾した構造となっている。
以下の形式一覧では1928年称号規程と1941年称号規程の両者を併記して「スハ32600形 → スハ32形」のように示す。
スイロフ30550形は、皇族、政府高官などの要人貸切用として1932年3月に鉄道省小倉工場で2両(スイロフ30550・30551)が製造された一二等緩急車で、前位には奥行きが深く低座面の長手式腰掛を設備する一等室(定員18名)、後位には転換式腰掛を設備する二等席(定員36名)が設けられた。1941年10月の称号改正によりスイロフ30形とされ、スイロフ30 1・2が付番された。終戦直後、進駐軍に接収され二等座席車として使用された。1949年(昭和24年)、進駐軍より一等座席側のみ日本側に返還されたが、一等座席車として使用できないため二等座席に格下げしスロフ34形(初代)に改造された。
スロ30800形は、転換式腰掛をもつ定員64名の二等車で、1929年に日本車輌製造本店および川崎車輛において14両(スロ30800 - 30813)が製造された。年度ごとの製造状況は次のとおりである。
1941年10月の車両称号改正では、全車がスロ32形(スロ32 1 - 14)に改称された。
戦災により2両が廃車され、終戦後5両が進駐軍に接収され、その際に2両がスハネ34形に改造された。接収解除後に残った3両が復帰したが、1962年(昭和37年)よりオシ16形へ2両が、残りがオハネ17形へそれぞれ台枠を供出した。
スロ31000形は、腰掛間隔1,980 mmのボックスシートをもつ定員64名の二等車で、1929年と1930年に40両(スロ31000 - 31039)が製造された。年度ごとの製造状況は次のとおりである。
全車が東鉄局に配属され、東海道本線東京 - 沼津間、いわゆる湘南列車で運用されており、直流1500 V給電による電気暖房装置を備えていた。本形式も一部が1933年末の紀勢西線延伸開業に伴う準急「黒潮号」の白浜口延長運転開始時に阪和電鉄への乗り入れ運用に追加充当されている。1938年に9両(スロ31031 - 31039)が陸軍の要請により華中鉄道へ供出され、1941年10月の称号改正時に在籍していた31両がスロ33形とされ、スロ33 1 - 31が付番された。
戦災により7両が廃車となり、終戦後16両が進駐軍に接収され、その際2両がスハネ34形に改造された。接収解除後14両が復帰したものの、オシ16形へ1両、19両がオハネ17形へそれぞれ台枠を供出、残りが1956年(昭和31年)にスハ51形に格下げされた。
スロ30750形は、化粧室2箇所と給仕室を設備した転換式腰掛をもつ定員60名の二等車で、1930年に川崎車輛で10両(スロ30750 - 30759)が製造された。
落成後、特急「富士」や「燕」に連結されて運用され、1941年10月の称号改正時にスロ30770形とともにスロ34形とされ、スロ34 1 - 10が付番されたが、うち6はスロ30755時代の1941年9月16日の山陽線網干駅列車衝突事故により大破したため、「現車が実在しない」幻の番号となった。同車は1943年3月に廃車となった。
戦災により1両が廃車となり、終戦後は5両が進駐軍に接収された。1952年(昭和27年)に返還され8両が普通二等車として運用されたが、1962年より台枠を利用してオシ16形へ2両、オハネ17形へ6両が台枠を供出した。
スロフ31200形は、1929年と1930年に20両(スロフ31200 - 31219)が製造された、スロ31000形に対応する定員60名の緩急車である。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。
スロフ31250形は、1930年に日本車輌製造本店で2両(スロフ31250・31251)が製造された、スロ30800形に対応する定員60名の緩急車である。
1941年の称号改正では、スロフ31形に改称され、スロフ31 1・2が付番された。2両とも無事に戦争を乗り切り、終戦後に2両とも進駐軍に接収された。その後返還されて復帰したが、1両がオハネ17形に台枠を供出、残ったもう1両はスハフ51形に格下げされた。
スロハ31450形は、1930年および1932年に23両が製造された二・三等合造車である。定員は二等36名、三等40名。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。
二等室は固定クロスシート装備である。二等室と三等室の間に便所と洗面所が設けられているが、1931年度製造車では位置関係が逆になっている。本形式も電気暖房搭載車両の一部が阪和電鉄直通の準急「黒潮号」に充当された。
1941年の称号改正により、丸屋根のスロハ31500形とともにスロハ31形とされ、スロハ31 1 - 23が付番された。戦災により2両が廃車され、終戦後に1両が進駐軍に接収された。その後返還され復帰するが、4両がオハネ17形に台枠を供出、残りがスハ50形に格下げされた。
スロハフ31700形は、1931年および1932年に13両(スロハフ31700 - 31712)が製造された、スロハ31450形に対応する緩急車である。定員は二等36名、三等32名。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。
二等室は固定クロスシート装備である。二等室と三等室の間に便所と洗面所が設けられているが、1931年度製造車では位置関係が逆になっている。
1941年の称号改正により、丸屋根のスロハフ31750形とともにスロハフ30形とされ、スロハフ30 1 - 13が付番された。戦災により1両が廃車された。2両がオハネ17形に台枠を供出、2両がオヤ35形に改造され、残りはスハフ34形に格下げされた。
スハ32600形は、本系列の基本となる三等座席車で、汽車製造東京支店、日本車輌製造本店・支店、川崎造船所/川崎車輛、藤永田造船所、新潟鐵工所、梅鉢鐵工所、田中車輛、大阪鐵工所において、1929年から1931年にかけて合計158両(スハ32600 - 32757)が製造された[12]。年度ごとの製造状況は次のとおりである。
オハ31形の腰掛間隔のまま20メートル車に換算すると定員は96名になるが、腰掛間隔を1,455 mmに拡大して定員を88名とし、腰掛も背摺りが板張りであるものの傾斜をもたせて座り心地を改善した。
1938年に22両(スハ32704・32706 - 32724・32733・32734)が陸軍の要請により華中鉄道に供出されたため1941年10月の称号改正時に在籍していた136両が丸屋根のスハ32800形とともにスハ32形とされスハ32 1 - 136が付番された。3両が戦災廃車され、97両がオハネ17形に、1両がオシ16形に台枠を供出し、残った車両も1969年(昭和44年)1月にスハ32 2037(仙フク)が廃車され区分消滅した。
スハ33900形は、従来東京 - 下関間の特急「櫻」専用として使用されていた木造車のスハ28400形を置き換えるために設計された、2人掛け2列一方向き固定クロスシートを設置した三等車で、1930年3月に28400形と同数の19両(スハ33900 - 33918)が汽車製造東京支店(10両。スハ33900 - 33909)および日本車輌製造東京支店(9両。スハ33910 - 33918)で製造された。1937年(昭和12年)にスハ32550形に改形式ののち17両が病客車スヘ32550形に改造されたため、1941年10月の称号改正時に残存していた2両がスハ33形とされ、スハ33 1・2が付番された。これに前後して腰掛が向かい合わせ4人掛けに改造された。1両が戦災により廃車され、残った1両は1967年(昭和42年)に廃車された。
スハフ34200形は、スハ32600形に対応する三等緩急車で、日本車輌製造本店・支店、川崎造船所/川崎車輛、田中車輛、新潟鐵工所、汽車製造東京支店、藤永田造船所、梅鉢鐵工所、大阪鐵工所において、1929年から1931年にかけて105両(スハフ34200 - 34304)が製造された。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。
1938年に7両(スハフ34251・34252・34290 - 34294)が華中鉄道に供出されたため、1941年10月の称号改正時に在籍していた98両が、丸屋根のスハフ34400形とともにスハフ32形とされ、スハフ32 1 - 98が付番された。1両が戦災廃車され、3両がオハネ17形に台枠を供出し、5両がスエ31形に、1両がスヤ37形に改造された。残りも廃車が進められた。
最後まで在籍していたのは、肥薩線で煤煙侵入防止のために通風器をすべて撤去し、使用されていたスハフ32 44(熊ヒト)で、1972年(昭和47年)1月に車籍抹消(除籍)となり、区分消滅した。
スハフ35250形は、スハ33900形に対応する三等緩急車で、置き換え対象となるスハフ28800形と同数の12両(スハフ35250 - 35261)が汽車製造東京支店(6両。スハフ35250 - 35255)および日本車輌製造東京支店(6両。スハフ35256 - 35261)において1930年3月に製造された。1937年に全車が病客車スヘフ35250形に改造されて消滅した。以降は、#病客車を参照されたい。
スハニ35650形は、1930年に20両(スハニ35650 - 35669)が製造された三等および荷物の合造車である。台枠はまだ強度に不安があった[13] ためにスハユ35300形とともに魚腹台枠のUF22を使用しているのが特徴。1941年の称号改正でスハニ31形(スハニ31 1 - 20)に改称された。2両が戦災廃車され、11両がスハニ33形に改造され、このうち8両は復元された。1両がスエ31形に、3両がオル32形にそれぞれ改造され、残りは1968年(昭和43年)までに廃車された。
スハユ35300形は、1930年に6両(スハユ35300 - 35305)が製造された三等および郵便の合造車である。台枠は魚腹台枠のUF22を使用している。1941年の称号改正でスハユ30形(スハユ30 1 - 6)に改称された。戦後も残った4両のうち1両がスエ31形に改造され、残りは1968年に廃車された。
マニ36700形は、1931年から翌1932年にかけて18両(マニ36700 - 36717)が製造された荷物車で、荷重は14トン。この形式は、3軸ボギー台車、魚腹台枠のカニ39550形を大きく改良し、マユ36050形とともに強度に問題がないことが確認されたため、二軸ボギー台車のTR23を履き、長形台枠を使用した。1941年の称号改正で、マニ31形(マニ31 1 - 18)に改称された。戦後、連合軍専用客車に指定された車両のうち、1両がオシ33形に、1両がオハニ35形に改造されたが、この2両は原番号に復元された。また、1両がオシ30形に改造されたが、こちらは復元されなかった。7は1952年の更新修繕の際に丸屋根に改造された。4両が電気暖房化され、原番号+2000となった。1955年に5が事故廃車され(前述のマイネフ38 5と同様に洞爺丸と運命をともにした)、1両がマニ32形に、1両がスエ32形に、4両がスエ31形にそれぞれ改造され、残りは1964年から廃車が始まり、1970年(昭和45年)に全廃となった。
マユ36050形は、1932年に3両(マユ36050 - 36052)が製造された初めての鋼製かつ20 m級の郵便車である。鉄道省の所有であった。荷重は13トン。長形台枠を使用し、台車はTR23を履く。1941年の称号改正でマユ31形(マユ31 1 - 3)に改称された。戦後も残っていた1と3は電気暖房化がされ、原番号に2000を加えて2001と2003となった。1967年に2001が、翌1968年に2003が廃車され消滅した。
スイテ37000形は、1930年に特急「富士」用の展望車として3両(スイテ37000 - 37002)が鉄道省大井工場で製造された一等展望車である。定員は、一等13名、展望室11名である。
展望室は当時流行のアール・デコ様式のモダンな洋風デザインを取り入れ、同時期に新築した東京日本橋の白木屋百貨店の内装デザインに似ていることにちなんで「白木屋式」と呼ばれた。1両(スイテ37002)が1931年に特急「燕」用予備車として区分室付きのスイテ37030形に改造されたため、1941年10月の称号改正時に残存していた2両がスイテ38形とされ、スイテ38 1・2が付番された。
戦時中は使用停止となり疎開していたために空襲にも遭わず、状態が良好であった1は戦後進駐軍に接収された。これに対し2は接収されなかったため、1949年に特急「へいわ」用としてマイテ39 21に改造された。マイテ39 21のその後は#展望車の改造車のマイテ39形を参照。
その後1は接収解除されたが特急運用には充当されず、1956年にオシ17形へ台枠を供出した。
当初形式 | 1941年 改正後 | 区分室 | 展望室 様式 | 屋根 |
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スイテ37000 | スイテ38 | なし | 洋式 | 二重 |
スイテ37010 | スイテ39 | なし | 桃山式 | 二重 |
スイテ37020 | スイテ48 | あり (前寄) | 洋式 | 二重 |
スイテ37030 | スイテ47 | あり (中央) | 洋式 | 二重 |
スイテ37040 | スイテ49 | なし | 洋式 | 丸 |
スイテ37010形は、特急「富士」用として1930年に鉄道省大井工場で2両(スイテ37010・37011)が製造された一等展望車で、基本構造はスイテ37000形に準じるが、展望室は国際連絡列車としての「富士」の性格や、当時鉄道省が海外で実施していた外国人観光客誘致政策との連動企画として、桃山式と呼ばれる御殿造りの豪奢な内装とされた。定員は、一等18名、展望室12名である。
1941年10月の称号改正によりスイテ39形とされ、スイテ39 1・2が付番されたが、戦時中は使用停止となり、戦後は2両とも連合軍の接収を受けなかったことから特急用として整備された。もっとも、戦時中空襲により破壊された1は内装部材の一部を比較的状態の良好であった2に提供して簡素な洋式内装で復旧しマイテ39 1に改造、部材の提供を受けた2は新造以来の桃山式で復旧してマイテ39 11に改造された。その後は#展望車の改造車のマイテ39形を参照。
スイテ37020形は、特急「燕」用として1931年に鉄道省大井工場で2両(スイテ37020・37021)が製造された一等展望車で、隣接して一等寝台車が連結されるために区分室を必要としなかった「富士」用の各形式と異なり、昼行特急で一等寝台車の連結がない「燕」の場合、政府要人や貴賓客のための区分室の設置が特に求められたため、出入台寄りに3人用区分室が設備された。定員は、一等19名、展望室10名である。
展望室のインテリアは再びモダンな洋式とされた。1941年10月の称号改正によりスイテ48形とされ、スイテ48 1・2が付番された。戦時中は使用停止となり、2両とも戦後進駐軍に接収され、軍用列車の最後尾に連結される司令官座乗車として重用された。スイテ48 1は1949年接収解除後、整備の上「はと」用として1950年(昭和25年)から使用されたが、のちに返還された車両が増えると予備に回り、2は接収解除された後は休車となり、結局ともに1956年・1957年(昭和32年)にオシ17形に台枠を供出した[14]。
マイネ37130形は、特急「富士」用として1930年に鉄道省大宮工場で5両(マイネ37130 - 37134)が製造された一等寝台車で、区分室を5室(2人用3室、4人用2室)を設備するほか、貴賓客用に特別室が設備された(当初2人用、のちに3人用)。1935年、時の鉄道大臣内田信也の発案により大井工場でマイネ37130にシャワー浴室を設け、同年7月15日から営業を始めたが[15]、1両のみの改造であったため4日おきの営業充当となった上、一・二等乗客限定であったために利用率は極めて低く、8月には平均7人(/日)、9月は平均3人(/日)と低迷。同年9月20日東京発の列車をもってシャワー室の営業を打ち切った。一等車の改造費約2000円に対し、利用料金の収入は75円にとどまった[16]。
1941年10月称号改正によりマイネ38形とされマイネ38 1 - 5が付番された。1944年(昭和19年)4月に戦局の悪化に伴い使用停止となった。戦後、連合軍に接収され、同時期に1・4・5に対し車軸駆動式のKM型冷房装置を設備した。4については軍番号1202、軍名称Miamiとしてアイケルバーガー将軍用専用車指定された[17]。1952年に連合軍より国鉄に返還された後は、1955年(昭和30年)7月等級制改正によりマロネ49形に改形式され、1960年(昭和35年)に全車オシ17形へ台枠を供出した。
マイネフ37230形は、1930年に鉄道省大宮工場・大井工場で5両(マイネフ37230 - 37234)が製造された一等寝台緩急車で、寝室は2人用区分室を8室設備する。大宮工場製が2両(マイネフ37230・37231)で、大井工場製が3両(マイネフ37232 - 37234)である。
戦前は、東京 - 神戸間の急行17・18列車で限定運用され、1941年10月称号改正によりマイネフ38形とされマイネフ38 1 - 5が付番された。戦後、全車両が連合軍に接収された。接収解除による返還後は東京 - 札幌間の連合軍専用「特殊列車」で使用された。1954年(昭和29年)ごろに更新修繕で外板の張替えが施工され鋼体を溶接で組み直したことからウィンドウ・シル/ヘッダーなど車体表面のリベットが見えなくなった。1955年7月の等級制改正によりマロネフ49形に改形式され、1962年までに全車廃車となった。
なお、マイネフ38 5は1954年9月26日の洞爺丸事故で沈没した洞爺丸に積載されていたほかの客貨車と運命をともにした。1955年7月にマロネフ49 5とされたが、6月に引き上げられた洞爺丸が保全命令を受けたため廃車手続きができず「現車が実在しない」幻の番号となった。10月に同船の保全命令が解かれ廃車された。また、更新修繕が行われていたかは不明である。
マイネロ37260形は、1931年に鉄道省鷹取工場で4両(マイネロ37260 - 37263)が製造された一等寝台二等車である。
前位には寝台区分室(2人用3室、4人用1室)、後位には二等座席(転換クロスシート)を設備する。当初から札鉄局用として設計された寒冷地向け車両で、配属後函館 - 旭川間の急行401・402列車で使用された。1934年12月に東海道・山陽本線以外の一等車の連結中止措置に伴い本州に転属し予備車として仙台・大阪・門司の各鉄道局に分散配置された。1937年7月の特別急行「鴎」運転開始に伴い東鉄局に転属、一等展望車スイテ37050形の連結まで一等車として使用された。1940年(昭和15年)にマイネロ37261 - 37263の3両は緩急車化され、マイネロフ37261 - 37263に改造された。1941年10月の称号改正でマイネロ37260はマイネロ37形とされマイネロ37 1が付番された。戦後、連合軍に専用客車として接収された後、1950年に特別職用車マヤ57形(マヤ57 1)に改造された。
マイロネフ37280形は、1931年3月に鉄道省小倉工場で3両(マイロネフ37280 - 37282)が製造された一・二等寝台緩急車である。
前位に一等区分室寝台(2人用2室、4人用1室)と後位に二等開放寝台(ツーリスト式寝台)を設備する。欧亜連絡列車として東京 - 敦賀港間で使用された。1934年(昭和9年)に同列車は二等寝台車のみ連結となり編成から外れている[18]。1941年10月称号改正でマイロネフ37形とされマイロネフ37 1 - 3が付番された。戦後、全車両が連合軍に専用客車として1952年まで接収された。返還後の1953年(昭和28年)の称号改正でマイロネフ29形に改形式する予定であったが、一等寝台の利用が見込めなかったため一等区分室寝台を二等区分室寝台に格下げ、特別二等寝台とし、特別室つき二等寝台車マロネフ38形(マロネフ38 1 - 3)へ改造された。
マロネ37350形は、マロネ37300形の増備車として製造された二等寝台車で、1929年12月から1931年8月にかけて大井・鷹取・小倉の各鉄道省工場と日本車輌製造、川崎造船所で合計49両(マロネ37350 - 37398)が製造された。その状況は、次のとおりである。
開放寝台14組(ツーリスト式寝台、定員42名・寝台数28)が設けられたが、室内の配置を見直し隅用洗面台を2台設けた2人用化粧室を新設し、洗面所を3名分に増やして利用者に使いやすい構成となった。また最終落成のマロネ37397・37398は便所の配置を車端前後に振り分ける構成となり利用者の利便を図り、以後の二等寝台車の車両構成の基本となった。四国以外の全国に配置され、主要幹線で特急、急行列車に連結された。瀬田川事故でマロネ37372・37373が翌年5月に一旦廃車となったが、1936年3月に復旧の上で車籍復活(復籍)した。1941年10月の称号改正でマロネ37300形・マロネ37400形とともにマロネ37形とされ、旧マロネ37300形に番号を続けマロネ37 44 - 92が付番された。1944年4月に戦局の悪化により寝台車の使用が停止され、同年6月より全車戦時三等車マハ47形(マハ47 44 - 92)への改造が計画されたが、本形式は43両が改造され、6両(うち1両は最終増備車のマロネ37 92)はマロネ37形のまま残された。戦後、寝台車としての設備を維持していたこれら6両はすべて連合軍に接収されたが、1952年までに接収解除された。1953年6月の称号改正でマロネ29形(21以降)に改番されたが、最終増備車は室内構成が異なるため番号を区分してマロネ29 31が付番された。以降急行列車に連結されたが、1963年(昭和38年)2月までに全車廃車となった。
マロネフ37550形は、マロネフ37500形の増備車として4両(マロネフ37550 - 37553)が製造された二等寝台緩急車で、1932年3月に鉄道省大井工場(マロネフ37550・37551)と日本車輌製造(マロネフ37552)、川崎車輛(マロネフ37553)で製造された。
開放寝台12組(ツーリスト式寝台、定員36名・寝台数24)が設けられた。車掌室を設けたため37350形より定員が座席6名・寝台4名分減少したが、その分スペースに余裕ができたため、洗面所は一人用洗面台を3名分設け喫煙室も向い合せ座席で定員も増やしている。車体はスハ32600系で一番遅くに落成したためリベットが少なくなり、アンチクライマーも取り外されたため従来より軽快なイメージになった。落成後は品川区に配置され、東海道線の急行列車に連結された。1941年10月の称号改正でマロネフ37形とされ、旧マロネフ37500形に番号を続けマロネフ37 24 - 27と付番されている。1944年4月に戦局の悪化により寝台車の使用が停止され、1945年(昭和20年)2月にマロネフ37 24が戦時三等車マハ47 121に改造された。残りはマロネフ37形のまま残された。戦後、連合軍に接収され、1952年までに接収解除された。1953年6月の称号改正でマロネフ29形(11 - 13)に改番され、引き続き品川区に配属された。1964年(昭和39年)3月までに全車廃車となった。
スシ37740形は、1929年から1931年にかけて19両(スシ37740 - 37758)が製造された食堂車である。スシ37700形を改良したグループであるが、基本仕様は同じで台車は三軸ボギーのTR74を履く。1941年の車両称号改正でスシ37700形とともにスシ37形とされ、スシ37 39 - 57を付番されている。1944年の食堂車使用停止で不要となり、7両がマハ47形(199以降)に改造された。残りは調理室と冷蔵箱、物置以外の車内設備を撤去、三等用腰掛を設備してスハシ48形に改造された。終戦後に食堂車がないことからスハシ48 1・4・6 - 12がスシ37 46・49・51 - 57に復元された。うち7両はすぐさま進駐軍に接収され、4両が冷房化改造された。1953年の車両称号改正で、冷房車がマシ29形とされ、残りはスシ28形(0番台)に改番された。1962年までに廃車された。
マイシ37900形は、九州島内の急行1・2列車[19] に連結のため、1931年3月に鉄道省大宮工場で5両(マイシ37900 - 37904)が製造された一等および食堂の合造車である。1934年12月時刻改正で東海道・山陽本線以外の一等車の連結が廃止されたため、翌1935年12月に一等室の設備のまま二等に格下げし、喫煙室と給仕室を食堂に改装してマロシ37900形(同番)となった。同時に37900 - 37902は大阪鉄道局(山陰線用)へ、37903・37904は札幌鉄道局(北海道)に転属した。1941年10月の称号改正によりマロシ37形とされマロシ37 1 - 5を付番されている。1944年4月の食堂車使用停止で不要となり、厨房と物置を除き車内設備を撤去、三等用腰掛を設備してマハシ49形(マハシ49 1 - 5)に改造された。
スロシ37950形は、北海道内の急行201 - 204列車用として製造された二等および食堂の合造車で、1932年3月に大宮・鷹取の両鉄道省工場で5両(スロシ37950 - 37954)が製造された。
この車両から側柱と外板が溶接で組み立てるようになったため外板のリベット数が減少した。また食堂側仕切引戸が食堂のテーブル配置に合わせて取り付けられているため食堂寄りの隅用腰掛が片側一人席と二人席の組み合わせとなったため、定員は二等19名・食堂18名となっている。1941年10月の称号改正でスロシ38000形とともにスロシ38形とされスロシ38 1 - 5が付番された。これも1944年4月の食堂車使用停止以降は余剰車となり、厨房と物置を除き車内設備を撤去、三等用腰掛を設備してマハシ49形(マハシ49 6 - 10)に改造された。
スハネ30000形は、1931年に10両(スハネ30000 - 30009)が製造された、初の三等寝台車。のちのナハネ10形と同様に車両の片側に廊下を設け、枕木方向に三段式寝台を向かい合わせで設置した。当初は寝台を区分するカーテンは一切用意されていなかった。
本形式では車両限界を有効活用すべく本系列初の丸屋根構造が採用され、以後の新造車が丸屋根構造へ移行する端緒となった。このため大半の車両では二重屋根車に準じたリベット組み立て構造となっており、過渡期の設計であったことをうかがわせていた。 1931年1月に隅田駅 - 土浦駅間で試運転が行われた[20]後、同年2月1日から東京 - 神戸間の夜行急行13・14・19・20列車[21] に5両が投入、さらに同年6月より増備車5両の完成を待って特急「櫻」[22] への連結と前述の急行4列車への増結が実施された。1941年10月の称号改正によりスハネ30形となりスハネ30 1 - 10が付番されることとなったが、その直前の7月に三等寝台車の使用停止が決定されたため実際に改番されたのは1 - 7・9の8両に留まり、8と10は新番号へ改番せずに直接オハ34形に改造された。また、スハネ30形とされたグループについても1942年度までにオハ34形 に改造された。
スハネ30100形は、1932年から1937年にかけて日本車輌製造本店および支店・汽車製造東京支店・新潟鐵工所・田中車輛・梅鉢鐵工場[23]・大阪鐵工所で合計110両(スハネ30100 - 30209)が製造された三等寝台車である。スハ32800形(丸屋根車)のグループでは最初に登場した。
車内は、前位より便所および給仕室、三段式寝台が側通路方式で向かい合わせに9区画、後位には便所および化粧室(洗面台を前後の隅に2台配置)が設けられていて、定員は72名(寝台数54)[24] である。
1941年の車両称号改正によりスハネ31形とされ、スハネ31 1 - 110が付番された。
車体は、スハネ30100 - 30143は台枠にUF21を使用し車体裾のリベットは2列、スハネ30144以降は台枠をUF30に変更し車体裾のリベットが1列となっていて、台車はTR23を装着する。
室内は、構体設計の見直しで車体高が40 mm拡大されたことから各段の寝台間隔が変更されていて、寝台長を1900 mmから1855 mmに短縮することにより通路幅を確保したほか、寝台通路側に頭部のみを覆うカーテンが装備され、また臭気防止と騒音防止の観点から前後位にある便所および化粧室と客室の間には開き戸が設けられた。1936年度予算車からクシ桁の構造が変更され、北海道向け車両では側窓の二重窓化や便所化粧室への暖房管設置が行われた。
落成後は特急「富士」など主要な優等列車に連結されて運用されたが、スハネ30000形の項にあるように三等寝台車が使用中止とされたことから、1942年から1944年にかけて全車オハ34形 に改造され、形式消滅となった。
スロ30770形は、1936年から1937年にかけて日本車輌製造と川崎車輛および鉄道省鷹取工場で合計11両(スロ30770 - 30780)が製造された給仕室付の二等車である。
1941年の車両称号改正によりスロ30750形とともにスロ34形とされ、スロ34 11 - 21を付番された。
基本構造はスロ30750形と同様で、給仕室は寝台車のそれとは異なり給仕の控室として使用され、給仕室を設けたことから給仕室の向かいに化粧室を増設して化粧室が2箇所設けられているのが特徴である。
客室は転換式腰掛が隅用を含み15列設けられ、定員は60名とされた。
また本形式から隅用腰掛[25] が転換式腰掛に合わせた新意匠のものへ変更され、扇風機が天井設置とされたことからクシ桁の飾り押縁が省略されたほか、従来枠縁構造とされていた室内のベニヤ板の固定方法を押縁で押さえる構造に変更した。
また1936年に落成したスロ30774 - 30776・30779・30780は便所が水洗式に、台枠がUF37にそれぞれ変更となり、鋼体に溶接組み立てが採り入れられた。
落成後は特急「燕」に使用されていたが、特急廃止後の使用状況は不明となっている。
戦災により2両が廃車となり、終戦後連合軍に接収された車両が4両存在した。
接収解除後は給仕室をもつことから、主に急行列車などで使用され、1964年に2両が給仕室を車掌室に変更してスロフ34形(2代)に改造、1両がオハネ17形へ台枠を供出、残りはスハ52形に格下げされた。
スロ30850形は、1934年から1941年にかけて日本車輌製造・汽車製造東京支店・田中車輛・川崎車輛・新潟鐵工所で合計70両(スロ30850 - 30919)が製造された二等車である。
1941年の車両称号改正に重量記号変更を併施して[26] オロ35形とされ、オロ35 1 - 70を付番された。
スロ30800形(スロ32形)を丸屋根化した構造をもち、定員は64名とされた。鋼体はスロ30850 - 30870までは台枠にUF30を使用したリベット組立とされたが、スロ30871以降は溶接組み立てとされ、スロ30871 - 30894は台枠にUF37を、スロ30895以降はUF38をそれぞれ使用している。またスロ30871以降は内装材の固定を枠縁構造から押縁止めに変更し、従来クシ桁に取り付けられていた扇風機を天井設置としたことからクシ桁に取り付けられていた飾り押縁が廃止された。
戦災により6両が廃車となり、終戦後連合軍に接収された車両が18両存在した。
接収車両は接収解除時に元形式・元番号に復旧されているが、スハネ34 9に改造されていたオロ35 33は復旧時に改番が行われオロ35 53(2代)[27] とされた。
1959年(昭和34年)から1962年にかけて、主に東北本線や北陸本線で運用される26両に電気暖房装置設置工事が施工され、自重増により重量等級が変わったことから該当車両はスロ43形に改造された。
その後近代化改造工事の施工などを受けながら普通二等車(いわゆる並ロ)として使用されてきたが、特別二等車(特ロ)の増備により6両がマニ36形に改造され、残りはオハ53形(0番台)に格下げされた。
スロフ31050形は、1934年と1937年に日本車輌製造本店および東京支店・汽車製造で合計11両(スロフ31050 - 31060)が製造された二等緩急車である。
1941年の車両称号改正時に重量記号変更を併施して[26] オロフ32形とされ、オロフ32 1 - 11を付番された。
スロ30850形(オロ35形)を前後逆向き[28] にして後位1区画に車掌室を設けた構造となり、定員は60名とされた。
車体は、スロフ31050 - 31052は台枠にUF30を使用したリベット組み立て構造、スロフ31053 - 31060は台枠にUF37を使用した溶接組み立て構造とされた。スロフ31053以降は同時期に製造された車両に倣い室内が押縁構造に変更され、扇風機が天井に移設されている。
戦災で2両が廃車となり、終戦後連合軍に接収された車両が6両存在した。
接収解除後は特に大きな改造を受けることなく使用されたが、1965年(昭和40年)に7両がオハフ52形に格下げされ、残った車両も1967年にオロフ32 11(大ムコ)が廃車となり形式消滅した。
スロハ31500形は、スロハ31450形の後継形式として1932年から1939年(昭和14年)にかけて日本車輌製造と田中車輛で合計38両(スロハ31500 - 31537)が製造された二三等座席車である。
室内配置はスロハ31450形同様前位に固定式腰掛を設けた定員36名の二等室、後位に定員40名の三等室を設け、その中間に便所・化粧室を設けた構造となっている。
1941年の車両称号改正によりスロハ31450形とともにスロハ31形とされ、スロハ31 24 - 61を付番された。
スロハ31500 - 31506はスロハ31450形をそのまま丸屋根にした構造で、台枠にUF21を使用し、車体裾のリベットは2列、腰掛は二等用腰掛甲種(図面番号VB11168)と三等用腰掛(図面番号VB11170)の組み合わせとなっていて、三等用腰掛の背摺は木製のままとされた。スロハ31507以降はUF30台枠を使用して車体裾のリベットは1列に、三等室の腰掛は背摺が木製からモケット張り(図面番号VB11660)に、スロハ30508から二等室の腰掛を甲種から改良された乙種(図面番号VB11757)に、台車中心ピンキセと桟板もそれぞれ形状が変更された。またスロハ31514からは三等室の仕切壁のクシ桁の飾り押縁が廃止されて隅用腰掛に肘掛が取り付けられ、スロハ31520から内装材の固定方法が枠縁構造から押縁構造に変更されたことで室内が明るくなり、二等室の扇風機はクシ桁から天井に移設し、網棚の形状も変更された。
1942年、樺太庁鉄道向けに本形式の設計を流用したスロハ2550形が1両のみ日本車輌にて製造されている。他の樺太向け車輌同様、貫通幌に両開きの扉を設けるなど、北海道以南向けより耐寒性能を引き上げている。
戦災により6両が廃車となったほか、3両が連合軍に接収された。
1949年に1両がスヤ31形(のちのオヤ31形)に改造され、1962年に5両がオハネ17形に台枠を供出、残りは1963年にスハ50形に格下げして形式消滅した。
スロハフ31750形は、スロハフ31700形の後継形式として1932年に田中車輛で3両(スロハフ31750 - 31752)が製造された二三等緩急車である。
1941年の車両称号改正によりスロハフ31700形とともにスロハフ30形となり、スロハフ30 14 - 16を付番された。
室内配置はスロハフ31700形同様前位に固定式腰掛を設けた定員36名の二等室、後位に定員32名の三等室と車掌室を設け、その中間に便所・化粧室を設けた構造となっている。車体はスロハフ31700形をそのまま丸屋根とした構造で、台枠にUF21を使用し、車体裾のリベットは2列、腰掛は二等用腰掛甲種と三等用腰掛の組み合わせで、三等用腰掛の背摺は木製であった。1932年度予算車であることから室内は枠縁構造でクシ桁には飾り押縁が取り付けられ、また北海道向けとして製造されたことから側窓は二重窓とされ、鎧戸に替えて窓掛装置が取り付けられていたのが特徴である。
1945年に1両が事故廃車となり、残りはスハフ34形に格下げされた。
スハ32800形は、スハ32600形の後継となる三等座席車で、1932年から1942年にかけて日本車輌本店および支店・田中車両・汽車製造本店および支店・藤永田造船所・梅鉢鉄工場[23]・大阪鉄工所・新潟鐵工所・川崎車輌・日立製作所のほか小倉・苗穂・大井・大宮・鷹取の各鉄道省工場で合計727両が製造された。定員は88名である。
1941年の車両称号改正後はスハ32600形とともにスハ32形とされ、スハ32 137以降の車号が付番された。
台枠は32800 - 32832はUF21、32833 - 33115はUF30、33116 - 33512とスハ32 836 - 863[29] は筋交い梁が省略され枕梁や横梁の設計が変更されたUF38を使用し、台車はいずれもTR23を装着する。
車体については台枠にUF21を使用する1932年・1933年度落成車は車体裾を2列のリベットで接合しているが、台枠をUF30に変更した1934年度からはこの部分の設計を変更してリベットが1列になり、また小倉・苗穂・鷹取の各鉄道省工場で製造された車両の一部は構体について全溶接組み立てが試行された。さらにその中でも鉄道省小倉工場製車については、幕板帯を側柱の間に組み込んで幕板の内側に隠した「ノーヘッダー車」とされ、異彩を放った。なお、同時期の電車ではモハ52形に代表される「ノーシル・ノーヘッダー車」が盛んに製造されていた。
腰掛は1932年度予算車である32800 - 32813はスハ32600形と同じもの(図面番号VB11170 - を、1933年度予算車である32814 - 32832には背摺り板が1枚張りに変更されたもの(図面番号VB11614)と木製背摺りの腰掛が使用されたが、1934年度予算車以降背摺りに布団を設け(図面番号VB11660)、座り心地が大幅に改善された。[2]
窓の日よけは鎧戸とされたが、北海道向けの車両は鎧戸の部分に内窓を入れて二重窓としたことから窓掛装置(巻き上げカーテン)を取り付けた。
また田中車両製の32848 - 32859と鉄道省鷹取・小倉工場製の33024 - 33039は特急用として製造されたため窓には網戸と窓掛装置、天井には扇風機が設置された。
1943年には21両が腰掛減少工事を施工してスハ36形とされ、戦災で72両が廃車となっている。
上記の新造車のほか、本土に残存していた樺太庁鉄道向け車両の編入[30]や戦災被災車などを復旧した車両がある。戦後、連合軍に接収された車両のうち、4両が復元されなかった。11両がオハネ17形に台枠を供出し、142両がスハ33形(2代)に、22両がオハ56形に、59両がマニ36形に、6両がマニ37形に、2両がオヤ31形に、1両がスエ31形に、4両がマヤ20形に改造され、残った車両も1982年(昭和57年)にスハ32 832(札サツ)が廃車され形式消滅した。
なお、本形式中スハ32 266は1955年5月に東海道本線で発生した踏切事故に被災し、1956年に国鉄名古屋工場でオハ35 1314として復旧された。詳細は国鉄オハ35系客車#二等車(旧三等車)を参照。
スハ33000形は、特急「富士」に三等座席車を連結することになったことから1934年に汽車製造で2両と1935年に大井・鷹取の両鉄道省工場で10両、合計12両(スハ33000 - 33011)が製造された車両である。
スハ32800形(スハ32形)やスハ33650形(オハ35形)の増備に伴い、スハ33900形(スハ33900 - 33911) → スハ33980形(スハ33980 - 33911)と順次改番が行われ[31]、1941年の車両称号規定改正時に重量記号変更が併施され[26] オハ34形となりオハ34 1 - 12が付番された。
室内はそれまでの三等車とは異なり、腰掛間隔を1,455 mmから1,600 mmに拡大し、定員はスハ32800形の88名から80名とされた。
また特急用ということから窓には鎧戸に替えて網戸と窓掛装置が取り付けられ、隅用腰掛には肘掛が設けられた。
客室の天井灯の照度が2等車と同等に変更されて天井には扇風機が4基設置されたほか、1935年に省工場で製造された10両は中心ピンキセと桟板の意匠が変更された。
定員が少ないことから戦後は優等列車で使用される機会が少なくなり、晩年は松本区(長モト)に配置された1を除き富山区(金トヤ)に集中配置され1969年にオハ34 2・4・10が廃車され形式消滅した。
なおオハ34形には上記の新製車のほか、スハネ30形およびスハネ31形を戦時改造により三等車化した車両がある。→『その後の改造』の戦時改造車の項参照。
スハフ34400形は、スハフ34200形の後継となる三等座席緩急車で、1932年から1942年にかけて日本車輌本店および支店・大阪鉄工所・新潟鐵工所・梅鉢鉄工場[23]・川崎車輌・汽車製造支店・田中車両のほか大宮・鷹取の両鉄道省工場で合計311両が製造された。定員は80名である。
1941年の車両称号改正後はスハフ34200形とともにスハフ32形とされ、スハフ32 99以降の車号が付番された。
台枠は34400 - 34428はUF21、34429 - 34578はUF30、34579 - 34693とスハフ32 393 - 409はUF38を使用し、台車はいずれもTR23を装着する。
このうち鷹取工場で製造された34529 - 34532の4両は特急用として製造されたために鋼体は全溶接組み立てとされ、窓には網戸と窓掛装置、天井には扇風機が設置された。
腰掛・窓の構造はスハ32形に準ずる。
1943年には3両が腰掛減少工事を施工してスハフ35形とされ、戦時中に事故により5両が、戦災により41両が廃車となった。
戦後8両が接収を受け(内1両はのちにオヤ31形に改造)、接収解除後は事故廃車が2両ある。5両がスヤ37形に、1両がマニ37形に、19両がスハフ36形に、15両がオハフ35形にそれぞれ改造され、1984年(昭和59年)2月までに全車両が一旦休車となり、1987年(昭和62年)4月にスハフ32 2357が東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承されたほかは廃車となっている。
なお、本形式中スハフ32 257はスハ32 266同様1955年5月に東海道本線で発生した踏切事故に被災し、1956年に国鉄小倉工場でオハフ33 627として復旧された。
また1938年に樺太庁鉄道が同形車を4両導入し、スハフ2600形(スハフ2601 - 2604)としている。当時の樺太仕様として、連結器取付け高さが低く、制動装置は真空式であった。1943年に鉄道省に編入されたが、改番は行われなかった。
スハニ35700形は、1932年から1938年にかけて藤永田造船所・大阪鉄工所・日本車輌製造東京支店で合計28両(スハニ35700 - 35727)が製造された三等座席・荷物車で、定員は50名、荷重は5 tとされた。このうち3両(スハニ35723 - 35725)は、1940年に荷物室を郵便室に改造してスハユ35300形(スハユ35306 - 35308)に編入されたため、1941年の車両称号改正時にスハニ35650形とともにスハニ31形とされたのは25両で、番号は改造を行った3両分の番号を詰めてスハニ31 21 - 45を付番された。
構体は、1932年度落成のスハニ35700 - 35706は台枠にUF21を使用して車体裾のリベットが2列、1934年 - 1937年度落成のスハニ35707 - 35724はUF30を使用して車体裾のリベットは1列になり、1938年度落成のスハニ35725 - 35727は台枠がUF38に変更されていて、台車はTR23を装着する。
室内は、前位より出入台、三等室および便所、荷物室および車掌室が配置され、便所の位置はスハニ35650形の2-4位側から1-3位側に移設、1935年度落成車からはクシ桁の飾り押縁が省略された。
客室設備はスハニ35700 - 35706は腰掛の背摺りが木製であるが、スハニ35707以降は背摺りがモケット張りに変更されている。このうち1934年度落成のスハニ35707 - 35710は特急用として製造されたことから客室の側窓には網戸と窓掛装置が設けられた。
1943年に2両が腰掛減少工事を施工してスハニ33形に改造され、戦災により1両が廃車となった。
終戦後3両が進駐軍の接収を受けたが、これらは1949年から1952年にかけて返還された。
その後、1961年よりオル32形へ4両、マニ35形へ16両が改造され、残った車両も1968年にスハニ31 38(名ナコ)の廃車により形式消滅した。
マユ36100形は、マユ36050形の増備用として1935年に日本車輌製造東京支店で3両(マユ36100 - 36102)が製造された取扱便用の郵便車で、積載荷重は13 t、取扱郵袋数は965個とされた。1941年の車両称号改正によりマユ32形とされ、マユ32 1 - 3を付番された。
鋼体は台枠にUF30を使用し、台車はTR23を装着する。
外観はマユ36050形を丸屋根化した形態とされたが、後位の引戸は郵便物受渡機の使用が終了されたことに伴い1200 mm幅の両引戸に変更された。
室内は中央部に休憩室および便・洗面所を配置し、区分棚室と郵袋室の間には仕切りが設けられていなかったことから押印台は可搬式のものが使用された。また、後位には車掌室が設けられていた。休憩室と前後の郵袋室との間には1220 mm幅の両引戸が設けられたことから便・洗面所の幅が狭く、通風器を屋根中央に設けたことから屋根に設けられた水槽の水口は車体中心線から離して取り付けられていた。
戦後も引き続き郵便車として使用され、1970年に1・3(大ミハ)の廃車により形式消滅した。
マユ36120形は、1937年から1938年にかけて汽車製造・日本車輌製造・梅鉢鉄工所[23] で合計16両(マユ36120 - 36135)が製造された鋼製客車初の逓信省(のちの郵政省)所有の取扱便用郵便車で、積載荷重は14 t、取扱郵袋数は824個とされた[32]。1941年の車両称号改正によりマユ33形とされ、マユ33 1 - 16が付番された。
室内は前位より締切郵袋室、区分棚室、便・洗面所および休憩室、区分棚室、締切郵袋室とされ、休憩室を拡大したためにそれまでの郵便車に設けられていた車掌室は落成当初設備されなかったのが特徴である[33]。また、本形式より幕板部に採光用と換気用を兼ねた回転窓が設けられた。
戦災により1両が廃車となり、その後2は進駐軍に接収を受け1946年(昭和21年)にマニ33形に改造、1950年には車掌室がないことが運用上の支障となったため後位に車掌室を設置、1952年から1953年にかけて返還されたマニ33形を含む6両が護送便用車に改造された。
その他の車両は引き続き取扱便用として使用され、1971年(昭和46年)に2013(新ニイ)・2014(仙フク)の廃車により形式消滅した。
マユニ36250形は、1935年から1936年にかけて汽車製造・川崎車輛で合計13両(マユニ36250 - 36262)が製造された郵便荷物車で、郵便室荷重7 t、取扱郵袋数542個、荷物室荷重6 tとされた。1941年の車両称号改正によりマユニ31形とされ、マユニ31 1 - 13を付番された。
室内は、マユ36100形の後位半室を荷物室とした構造とされていて、後位車端寄りには荷扱車掌と運転車掌の乗務する乗務員室が設けられた。また、車室中央には広いとはいえないものの休憩室と便所が設置されていて、天井に屋根水槽が取り付けられた。
戦災や事故による廃車、進駐軍による接収を受けることなく使用され、1964年からは2両がスエ32形へ、1967年からは4両がスエ31形へそれぞれ改造され、1971年にマユニ31 10をスエ31 181に改造して形式消滅した。
マニ36750形は、1932年から1939年にかけて梅鉢鉄工所[23]・日本車輌製造本店および東京支店・川崎車輛・大阪鉄工所・田中車輛・汽車製造・日立製作所で合計54両(マニ36750 - 36803)が製造された荷重14 tの荷物車である。1941年の車両称号改正時にマニ36700形とともにマニ31形とされ、マニ31 19 - 72が付番された。
二重屋根で製造されたマニ36700形(マニ31 1 - 18)の屋根を丸屋根化した構造とされた。台車はTR23を装着する。
車号と製造時期・構造の差異は、下記のとおりである。
戦災により2両が廃車となり、連合軍に接収され改造を施工された車両が2両存在した。なお、接収解除後に現番に復元されている。
戦災廃車となった71を除き1953年の車両称号改正時に59 - 72を車体構造や設備が同一であるマニ32形に編入、後年22両に便所と水タンクを設置してマニ32形へ改造、9両がスエ31形やスエ32形の種車となり(その後の改造参照)、残った車両も1970年のマニ31 38(南シナ)の廃車により形式消滅した。
スイテ37040形は、特急「富士」用に使用されていたスイテ37000形およびスイテ37010形の置き換え用として増備された一等展望車で、1938年に鉄道省大井工場で2両(スイテ37040・37041)が製造された。1941年10月称号改正によりスイテ49形とされ、スイテ49 1・2が付番された。
1937年度予算で製造されたため台枠にUF50A[34] を使用した溶接組み立ての鋼体を有し、台車はTR73を装着する。
展望室には1200 mm幅の側窓が、その他の場所には700 mm幅の側窓が使用され、展望室と一等室の間には向かい合わせ固定座席(ボックスシート)が8名分用意されたほか、車軸駆動冷房装置の搭載[35] を考慮して調和装置(エバポレータ)の取り付け位置や還気風道(ダクト)があらかじめ準備された。展望室の内装は明るくモダンな洋式が取り入れられ、床面は営業用客車初のじゅうたん敷きとされた。
戦時中は使用停止となり、2両とも戦後進駐軍に接収され、2には冷房装置が設備された。接収解除された後、1は一等室をリクライニングシートに改造するとともに冷房装置を設備、2は落成時の状態に復旧して1949年から特急「はと」用として使用され、1953年にマイテ49形に改形式された。以降については、#展望車の改造車のマイテ49形を参照されたい。
マイロネフ37290形は、三直宮[36] および貴賓客の御乗用として1938年に鉄道省鷹取工場で3両(マイロネフ37290 - 37292)が製造された一・二等寝台緩急車で、1941年10月称号改正時に重量記号変更を併施して[26] スイロネフ38形とされ、スイロネフ38 1 - 3が付番された。定員は一等室8名(寝台数2)、二等室24名(寝台数12)とされた。
1937年度予算で製造されたことから台枠にUF50を使用した溶接組み立ての鋼体を有し、台車はTR73を装着する。
落成後37290・37291は東京局へ、37292は京都区に配置された。
車内は前位に一等寝室(1人用区分室)を2室、後位の二等寝室は寝台格納時に向かい合わせ座席となるプルマン式寝台を鋼製客車で初めて採用し、のちに新造される二等寝台車はこの寝台の構造を基本とした。一等寝室には各部屋ごとに寝台と回転式の安楽椅子とテーブル、隅棚が線対称に設備されていて、間仕切を開放することでお互いの部屋の間を側廊下を通らずに行き来できる構造とされた。また一等寝室の出入台よりには二人用区分室並みの広さをもつ専用の化粧室と便所が設備され、便所には洋式便器が設備された。一等室側には区分室側・側廊下側とも1000 mm幅の側窓が採用され、同時期に登場しているスロ30960形(オロ36形)やのちに登場するスハ33650形(オハ35形)、スハフ34720形(オハフ33形)などの広窓車グループへの橋渡し役として重要な意味合いをもつ車両であるといえる。
終戦後は、全車進駐軍に接収を受け、車軸駆動冷房装置を搭載して特別車として使用された。1については軍番号1309、軍名称Hartfordとしてアイケルバーガー将軍用専用車指定された[17]。1949年にスイロネ37形に改造された。→「その後の改造」の進駐軍用改造車の項も参照のこと。
マロネ37400形は、マロネ37350形の増備車として1933年(昭和8年)から1941年にかけて日本車輌製造・川崎車輛・田中車輛と鉄道省大井工場で合計46両(マロネ37400 - 37445)が製造された二等寝台車で、定員は42名(寝台数28)および喫煙室2名とされた。1941年の車両称号改正によりマロネ37300形・マロネ37350形とともにマロネ37形とされ、マロネ37 93 - 138が付番された。
車体については、1933年製のマロネ37400 - 37402は37350形に引き続き台枠にUF45を使用し、1934年から1937年製のマロネ37403 - 37413はUF48を使用、1939年以降製のマロネ37414 - 37445はUF51を使用し、構体も溶接組み立てとされ、台車はTR73を装着する。
室内はマロネ37350形マロネ37397・37398の構造を引き継いでいるが、丸屋根構造となったことから上段寝台の取り付け位置が85 mm上昇し、寝台幅もわずかながら拡幅された。台枠にUF48を使用するマロネ37403以降は寝台の構造が変更され、腰掛となる下段寝台の取り付け高さや台枠変更による床下機器の設計変更が、台枠がUF51に変更されたマロネ37414以降でも床下の配管や機器配置の変更が行われている。また1940年落成の一部の車両は内装をベニヤ板一枚張りとされ、シンプルかつ近代的装いとなった。1941年落成車は戦時統制の影響で資材に代用材を使用してグレードが若干下がった。1944年4月戦況の悪化により寝台車としての使用が中止され、1944年7月に20両 (93 - 112) が戦時三等車マハ47形 (93 - 112) への改造対象とされたが、このうち14両が改造されたのみにとどまる。終戦後マロネ37形として残っていた30両は連合軍に接収され、接収解除後1953年の車両称号改正によりマロネ29形(101以降)に改造され、主要幹線の夜行特急・急行および準急列車に連結された。1960年以降オロネ10形一等B寝台車の増備に伴い定期運用から引退し、末期は臨時団体列車に利用された。その後1961年(昭和36年)に3両が蛍光灯照明に改造され、1963年8月に113・114の給仕室に緩急車設備と出入台に手ブレーキを追設しマロネフ29形 (111・112)に改造、1967年11月に127・130(東シナ)の廃車により形式消滅した。
なお、本形式は戦後にも増備が計画され、1945年に1940年の設計を基に台枠をUF116台枠の三軸ボギー用としたUF53とした折妻、鋼板屋根の鋼体と鏡板1枚張りの室内構造、台車をTR73の軸受をコロ軸受化したTR77とした設計が行われ、形式図まで完成していたがその後の計画変更により製造は行われなかった。
マロネ37480形は、1935年から1936年にかけて日本車輌製造と川崎車輛で合計7両(マロネ37480 -37486)が製造された特別室付二等寝台車で、前位に側通路式の区分室(座席定員6名、寝台数4)2室と後位に長手式2等寝台(座席定員18名、寝台数12)、車室中央部に4名定員の喫煙室を有し、定員は34名(寝台数20)および喫煙室4名とされた。1941年の車両称号改正によりマロネ38形とされ、マロネ38 1 - 7が付番された。
1934年に東海道・山陽線以外の路線で一等寝台車が連結中止となった東北・常磐線の201・202列車や青函連絡船を経由して運行される函館・宗谷線列車に充当し、高官・賓客が利用する際、区分室を利用することとした。
このうち1936年に製造されたマロネ37484 - 37486は北海道向けのため、側窓の二重窓化や便所・化粧室への蒸気暖房放熱管の設置などの寒冷地対策が施されているほか、区分室の間仕切の羽目構造や桟板が新しい意匠に変更されている。
区分室は洗面台がないのを除けば一等車並みの設備を持っていたことから、特別室の二等寝台料金は一等寝台と二等寝台のほぼ中間に相当する金額に設定されていた。
終戦後は全車が連合軍に接収され、マイロネ38形とされた。1については軍番号1303、軍名称Minneapolisとしてアイケルバーガー将軍用専用車指定された[17]。1952年までに接収解除となりマロネ38形に復元された。
1955年の等級制改正の際、区分室に洗面台がなかったことから区分室を含め二等C寝台とされ、その後急行「雲仙」や「北斗」・「みちのく」などで運用され、1964年に全車廃車され形式消滅した。
マロネフ37560形は、マロネフ37550形の増備車として1938年に日本車輌製造で3両(マロネフ37560 - 37562)が製造された二等寝台緩急車で、前位より便所・化粧室、喫煙室(定員4名)・給仕室、長手式寝台(定員36名、寝台数24)、化粧室2か所と3位側に便所、4位側に車掌室が設けられていて、片側車掌室となったことから3位側の客用扉は下降窓付きの開き戸とされた。
鋼体は台枠にUF50を使用した溶接組み立てとされた。なお、この台車はUF37を三軸ボギー車向けとしたもので、採用したのは本形式と37290形のみである。
1941年の車両称号改正によりマロネフ37500形・マロネフ37550形とともにマロネフ37形とされ、マロネフ37 28 - 30が付番された。
戦災により1両が廃車となり、残った車両は進駐軍による接収後1952年に返還、1953年の車両称号改正によりマロネフ29形 (101・102) に改形式・改番された。品川客車区に長らく配置され、1956年11月より運行が開始された特急「あさかぜ」(1956年11月 - 1957年9月)および「さちかぜ」(1957年10月 - 1958年9月)に連結されるなど華々しい運用もあったが、1968年に廃車され形式消滅した。
マロネロ37600形は、1936から1939年にかけて日本車輌製造と川崎車輛、それに鉄道省大宮工場で合計35両(マロネロ37600 - 37634)が製造された二等寝台および二等座席の合造車である。
室内構成は37400形と30850形を折衷した構造となっていて、前位より便所・給仕室、化粧室と定員2名の喫煙室、長手式2等寝台(定員18名、寝台数12)、転換式腰掛(二等用丙種)を配置した2等席(定員32名)、便所・化粧室が配置され、寝台室と座席室の間には仕切り壁が設けられている。
1941年の車両称号改正によりマロネロ37形とされ、マロネロ37 1 - 35が付番された。
鋼体は、マロネロ37600 - 37625は台枠にUF48を使用して車体裾に1列のリベットが残り、マロネロ37626以降はUF51を使用し溶接組み立て構造とされた。また1936年度予算となったマロネロ37607以降は二等室の扇風機がクシ桁から天井に移設されたことからクシ桁の飾り押縁を廃止し、溶接構造となったマロネロ37626以降は二等室の室内が枠縁構造から押縁構造となり、便所が水洗式便所装置に変更されたことから車内に2か所ある便所・化粧室の上に通風器が追設されている。
製造後は、主に亜幹線や普通列車で使用されたが、二等寝台と二等座席の合造車であることから半車単位での増結が可能であり、そのため、車両の需給調整などの理由で東海道線の急行列車などでも運用されていた。
1944年4月に戦局の悪化により寝台車の使用が停止されたことによるあおりを受け、同月に23両(1 - 18・23 - 29)が戦時三等車マハ47形 (136 - 160) への改造対象になったが、16両(1 - 11・14 - 18)が改造されたのみにとどまる。
残った車両のうち1両は戦災により廃車となり、戦後進駐軍の接収を受け、そのうち4両が改造されたが、1両が復元された。
1953年の形式称号改正でマロネロ38形(番号は1 - 6・9 - 13・15・16・21・22。このうち21・22は北海道向け)に改形式・改番が行われた。
その後1960年から1961年にかけて7両が客室照明を蛍光灯化され、晩年は準急「利尻」に充当されていたが、一・二等寝台車オロハネ10形の登場により1966年(昭和41年)に5・9・10(札サツ)が廃車され形式消滅した。
スシ37800形は、スシ37740形の増備車として1933年から1936年にかけて日本車輌製造と川崎車輛、それに大宮・鷹取の両鉄道省工場で合計20両(スシ37800 - 37819)が製造された食堂車である。1941年の車両称号改正によりスシ37700形・スシ37740形とともにスシ37形とされ、スシ37 58 - 75・77・78が付番された。
車体は、それまで出入台のみを締め切った形状とされていた車端部に外板を張って完全に閉鎖した形状に改められた。初期製造のスシ37800 - 37809は台枠に出入台がある車両向けのUF45をそのまま使用しリベット組み立てとされていたが、スシ37810以降は台枠の設計を変更し食堂車専用としたUF49を使用して台枠との接合を含め全溶接組み立てとされたほか、料理室の熱気対策として屋根上にグローブ形の通風器が追設された。
室内構造でも製造時期による差異が見られ、スシ37800 - 37809では食堂内部の二連窓を一体の内窓枠で囲み、吹寄と幕板にベニヤ板を張って壁紙張り仕上げとしていたが、スシ37810以降は窓上にチーク材彫刻のクシ形の飾り模様を取り付け、吹寄せと幕板は壁紙張り仕上げに替えて乾燥すると荒肌面仕上となる特殊な塗料で塗装された。
戦時輸送体制により1944年より18両が料理室付三等車スハシ48形 へ改造された。
終戦後に食堂車がないことからスハシ48 13・15・23・25・27・28・30・33がスシ37 58・60・68・70・72・73・75・78に復元されるが、スハシ48形に改造されなかった車両を含めた9両がすぐさま進駐軍に接収されたことから、復元工事のペースを下げざるを得ない状況となった。接収車のうち、7両が冷房化改造がされた。その後、スシ39 4がスシ37 64に復元された。
1949年に2両がスシ47形に改造され、残った車両も1953年の車両称号改正により冷房車がマシ29形とされ、残りはスシ28形(100番台)に改形式・改番された。1967年までに廃車された。
スシ37 76(スシ37818)についてはオハ31形の項で説明する。
スロシ38000形は、スロシ37950形の増備車として1933年と1935年に日本車輌製造と小倉・鷹取の両鉄道省工場で合計15両(スロシ38000 - 38014)が製造された二等・食堂合造車である。1941年の車両称号改正によりスロシ37950形とともにスロシ38形とされ、スロシ38 6 - 20が付番された。
落成後スロシ38000 - 38005は札幌局に、スロシ38006 - 38014は門司局にそれぞれ配置された。
1933年に落成したスロシ38000 - 38004は、台枠にUF45を使用し車体裾が2列のリベットで接合され、スロシ38005以降は台枠がUF48に変更され車体裾のリベットが1列に変更されていて、スロシ37950形では出入台を締め切った形状とされていた物置と冷蔵庫置場も側板を外妻まで延長する形で塞ぐ構造に改め、これにより物置の容量がわずかながら増加している。
室内は、スロシ37950形同様前位より便所・化粧室と5列分の転換式腰掛をもつ二等室、二人掛けと一人掛けのテーブルが各3列配された食堂と調理室が配置されていて、二等室と食堂を仕切る仕切壁の引戸は食堂のテーブル配置に合わせて中心よりオフセットされて取り付けられているため、この部分の隅用腰掛もそれに合わせて幅が変更されていることから一人掛けテーブルのある側の腰掛は幅が狭く二人掛けとできないことからこの部分を一人掛けとして使用し、定員は二等室19名・食堂18名とされた。
また、食堂の内装もスロシ37950形から大きく変更され、スロシ38000 - 38004はのちのスシ37 58 - 67と同様吹寄と幕板部分を一体化したベニヤ板を壁紙張り仕上げとした構造になり、スロシ38005以降はのちのスシ37 68以降と同様食堂の窓上にクシ形模様が取り付けられたほか、幕板および吹寄は壁紙に替えて乾燥すると荒肌面仕上となる特殊な塗料で塗装された。
1942年より門司局に配置されていた9両をスロハ37形に改造する予定とされたが、実際に改造されたのは1両で、残りはその後の計画変更により1944年に調理室付三等車マハシ49形として改造され、スロシ38 19をマハシ49 23に改造して形式消滅した。
1940年にマイネロ37260形3両を緩急車化改造した車両で、二重屋根車。1941年10月称号改正によりマイネロフ37形とされマイネロフ37 1 - 3が付番された。戦後、全車両が進駐軍に特別軍用車両として接収され、1953年の称号改正によりマイネロフ29形へ改番され、同時期に1・2が進駐軍から国鉄に返還された。2両が1954年に国鉄大船工場で改造工事を受け、利用の見込めない一等区分室寝台の洗面台を撤去し二等区分室寝台に格下げ、特別二等寝台と称した。また、二等席を長手座席(ロングシート)の二等開放寝台(ツーリスト式寝台)に改装し給仕室および喫煙室を追設して特別室つき二等寝台車マロネフ38形とされ、1両はマイネロ29形に改造された。
スイテ37000形から改造された車両で、二重屋根車。1941年10月の称号改正でスイテ47形となる。戦時中は使用停止となり鷹取で放置されて荒廃していたが、1947年(昭和22年)CTSの要求に応じて整備し寝台や会議室、調理室の増設が行われる。1948年(昭和23年)冷房改造しマイテ47形となった。
スハ32形・スハフ32形・スハニ31形の一部は戦時輸送への対応のため出入口付近の座席を撤去し、定員増加が図られた[43]。
戦時輸送体制による旅客列車の削減による混雑を緩和するためにスハ32形をセミロングシート化した車両である。施工内容は車端寄りの固定腰掛を一部撤去し長手腰掛とつり手を設置、一部の車両は固定腰掛を三人掛け可能にするために肘掛を取り外されていた。
種車の元形式により、下記の番号に区分される。
スハ36形と同様の事情でスハフ32形をセミロングシート化した車両で、定員は92名(座席72、立席20)とされた。
主に湘南列車に使用され、種車の元形式により下記の番号に区分される。
戦後、残存車は客室設備を復元し元形式、元番号に復帰した。
1943年に戦時改造でスハニ31形をセミロングシート化した車両で、定員は56名(座席46、立席10)、荷重5 tとされた。
主に湘南列車に使用され、種車の元形式により下記の番号に区分される。
1937年7月の日中戦争勃発とともに鉄道輸送が拡大し特急「櫻」の三等座席車も32550形より定員が8名多い一般型の32800形に置き換えられ、輸送量の増強が図られた。同時に中国大陸の前線から後送されてくる傷病兵輸送のための専用客車が必要となり、遊休状態となった二重屋根車のスハ32550形が改造種車に選ばれた。1937年12月スハ32566 - 32568の3両が鉄道省小倉工場で病客車スヘ32566 - 32568に改造された。
施工内容は室内の座席をすべて撤去し、片側を通路とし片側に3尺×6尺の畳を16枚敷くというもの(戦後登場した「お座敷客車」と同様)で、傷病兵が横臥したまま輸送できるようになっていた。車室の両側には付添の衛生兵が着席する座席が設けられていた。外観は一般客の誤乗を防ぐため白帯に赤十字マークと車体中央に白地に赤十字マークが表記されていた。この3両は門鉄局に配属され、1938年3月に残る14両が幡生、大宮、大井の各鉄道省工場で集中的に改造を受けて広鉄局に配属された。
1939年に通路との仕切りに手すりが設けられ、1941年10月の称号改正でスヘ30形とされ、3両がスヘセ30形に改造された。
終戦と同時に軍による傷病兵の輸送は終了し休車状態となったが、連合軍専用客車の改造種車として13両が指定を受け、1・3の2両がスヘ31形へ、2・4 - 7、9 - 14の13両がスイネ30形(軍団長車)へ改造された。残った8は座席車となり、スハ32 874とされた。
特急「櫻」に使用していた二重屋根車のスハフ35250形も上記の理由により一般型のスハフ34400形に置き換え、遊休状態となったスハフ35250形は1937年12月から翌1938年3月にかけて12両全車が大井、名古屋、鷹取、吹田、小倉の各鉄道省工場で病客車スヘフ35250 - 35261に改造した。改造はスヘ30形と同様(畳は15枚)、外観および付添座席も同様である。車掌室は車掌弁などの緩急車設備を残していたが、当初は医務室として薬瓶置き台を設けて軍医が詰めていた。
1939年に通路との仕切りに手すりが設けられ、車掌室にも「車掌」の表記が戻った。1941年10月の称号改正でスヘフ30形とされ、3両が戦災により大破し廃車(1両は広島駅にて原爆により被災した)となったが1両はスハ36 103として復旧した。
終戦と同時に軍による傷病兵の輸送は終了し休車状態となったが、連合軍客車の改造種車として8両が指定を受け、6がスヘ31形に、4、5の2両がスイネ30形(軍団長車)に、1、2、7、8の4両がスイネ32形(地区司令官車)、3がスイネ32形(特別車)に改造された。残った12は座席車となり、スハ36 104とされた。
スヘセ30形は1944年5月にスヘ30 15 - 17の3両を改造したもので、畳5枚を撤去し保護室(精神的障害を負った傷病兵を収容するためのもので、畳2枚と板の間、排泄用区画が備えられていた)と輸送指揮官席を設置した。終戦と同時に軍による傷病兵の輸送は終了し休車状態となったが、連合軍専用客車の改造種車として3両全車が指定を受け、17がスヘ31形へ、15・16の2両がスイネ30形(軍団長車)へ改造された。
全国で使用された本系列は、太平洋戦争末期の米軍による空襲により、多数が被災し廃車された。また、戦後の混乱期にも事故により一部が廃車されている。これらは、一部がオハ70形客車として復旧されている。
一等車(旧二等車)の中でも、並ロと呼ばれた固定クロスシートや転換クロスシートを備えた車両は、特別二等車の普及に伴い設備の格差が目立ち始めた。そのため、1963年から、設備はそのままで等級帯を消して二等車に格下げが行われた。
「並ロ」を格下げした形式のうち、オハ53形・オハフ52形・スハ54形の一部は通勤輸送対応のため車内のオールロングシート化などの改造を行い、オハ41形・オハフ41形・スハ57形となった[64]。
スイテ47 1を冷房改造。二重屋根車。1950年に特別職用車マヤ47 1に改造された。
1948年にスハユ30 8・9の郵便室設備を荷物室に復旧した車両で、丸屋根車。のちにマニ35形へ改造された。
マニ31形(旧36700形および36750形)に便所と水タンクを追設した車両である。
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1949年から1961年にかけてスロハ31・スハシ33・スハ32・スヤ34・スヤ51の各形式より改造された建築限界測定用試験車。
鉄道省制式客車として大量生産された本系列であるが、これと同様式の私鉄向け客車は僅かに1形式1両、産業セメント鉄道(旧称:九州産業鉄道)向けの17 m級車が存在するのみであり、これも戦時買収で国鉄籍に編入されて新形式を起こされ、オハフ36形となっている。これは、播丹鉄道ホハフ500形[82] とともに私鉄買収客車に省制式形式が与えられた希少例の一つである。
1932年に田中車輛で製作された1両のみである。車体形状は、長さはスハ32系の20 mに対し、側窓にして4枚分車体長を短縮されて17 m級とされた以外は、ほぼ完全にスハフ34400形に準じて設計製造されている。後は1967年に廃車し、私鉄等への払い下げも行われず、そのまま解体された。
1935年10月に開催された台湾始政40周年記念博覧会のため、客車不足でありかつ台湾での工場設備能力が不足により、急遽内地の優秀車両メーカーに注文し、3か月以内に26両の客車が製造完成する必要があるため、出来る限り当時鉄道省の最新型車両の設計をそのまま流用されて製作された車両である。車種内訳は、二等車(ロボ32001 - 32004、日本車輌本店)、三等車(ハボ32001 - 32014、汽車会社東京支店、川崎車両)、三等緩急車(ブハボ32001 - 32004、日本車輌東京支店)、荷物車(ブボ32001 - 32004、日本車輌本店)。車体形状は、長さはスハ32系の20 mに対し、3 mを短縮し17 mになり、高さも100 mm低くしたが、他の構造は基本的にスハ32800の車体形状と同様。台車も、TR23を基本として10トン短軸仕様になって、枕ばねを3連になったもの。1937年、一二等車3両(オイロ32001 - 32003、汽車会社東京支店)を追加製造され、1940年にまた二等車3両(オロ32005 - 32007)、三等車3両(オハ32015 - 32017)を増備され、1941年以降の増備車は大窓車32100形に移行されたから、最終的に同系車は35両になった。 一部戦災廃車を除いて、戦後は、車種記号が英数に変更し、内装など改造がある外、長年に車体はそのまま使い続けて、1973年、唐栄鉄工廠により、更新改造の名目で新製車体に乗せ換え、30SP・SPK32100型に改造されて型式消滅した。
スハ32系は当初は東海道本線・山陽本線を中心に使用され、戦前は特急「富士」・「櫻」・「燕」でも運用された。
戦前の急行列車では、東京 - 神戸間の急行17・18列車にマイネフ37230形を含む鋼製客車が投入された。この列車は官設鉄道時代の最急行以来の伝統と格式を誇った一・二等急行列車で、本形式2両を含め3両の一等寝台車と5両の二等寝台車、食堂車、それに1両の二等座席車で構成される、当時の日本を代表する夜行急行であった。その豪華さや名士のみが乗車できるところから名士列車という通称がファンから与えられた。1942年(昭和17年)11月のダイヤ改正で急行113・114列車に改称されたが一・二等急行としての格式は保たれ、1943年10月のダイヤ改正をもって廃止となった。
第二次大戦中に中断していた特急列車の運行は戦後に再開された。1949年に「へいわ」が、1950年には「つばめ」(「へいわ」より改称)・「はと」が運行を開始し、スハ32系列の食堂車や展望車も編成された。1956年11月運転開始の夜行特急「あさかぜ」・「さちかぜ」では最後部にマロネフ29形が連結されていた。
九州地区では営業用の二重屋根車で最後まで残った車両も使用されていた。スハフ32 43・44の2両が1968年度から1970年度まで肥薩線で使用され、人吉駅 - 吉松駅間の矢岳越えではD51形牽引の混合列車に連結された[83]。
東北本線系統ではスハ32系が遅くまで残っており、福島客貨車区には1982年度まで配置があった[84]。スハ32系として最後まで一般営業運用が残ったのが磐越西線の普通列車で、末期は郡山客貨車区に配置されてオハ35系や60系客車と混用されていたが、50系客車への置き換えにより1984年2月までに運用を終了した[85]。
北海道では窓幅が狭く二重窓の開閉が容易としてスハ32系が長く使用され、オハ35系の登場後もスハ32系が引き続き1941年まで投入されていた。スハ32系が北海道での運用を終了したのは1983年度であった[86]。
東京 - 敦賀港間では敦賀港からウラジオストク航路とシベリア鉄道を経由してヨーロッパへ連絡する「欧亜国際連絡列車」が運行され、一・二等寝台車のマイロネフ37280形が連結されていた。
往路は毎週金曜発で東京 - 米原間は急行17列車に、米原 - 敦賀間は京都発上野行き604列車に、そして敦賀 - 敦賀港間は3列車に併結されて西下し、復路も毎週金曜発の6列車、青森発大阪行き急行502列車、そして下関発東京行き急行10列車に順に併結されて東上するという、敦賀港 - ウラジオストク間の国際航路の運行に合わせた変則的な運用形態であった。
スハ32600形とスハフ34200形のうち、東京鉄道局(東鉄局)配置で直流1500 V給電による電気暖房装備に改造された一部の車両は、大阪府と和歌山県を結ぶ阪和電気鉄道(後の国鉄阪和線)に貸し出された。阪和電鉄は直流1500 V電化で蒸気暖房は使用不可であり、直通運転にあたっては母線給電で電源確保が可能な電気暖房車搭載車が必須であった。
南紀直通準急「黒潮号」(戦前期の準急は料金不要)として阪和天王寺(現・天王寺) - 紀伊田辺(のちに白浜口へ延長)間で運転された。特に阪和電鉄線内の阪和天王寺 - 阪和東和歌山間61.2 kmは同社の誇る超特急と同じ45分で走破し、表定速度は81.6 km/hという戦前日本最速の超高速運転であった。
編成は800馬力級電動車であるモタ300形あるいはモヨ100形2両(多客期には1両を最後尾に増結)が3両ないしは4両の鉄道省借り入れ客車を牽引する構成となっており、電動車の走行性能や客車の自重から最高120 km/hを超える、当時としては破格の超高速運転が実施されていた可能性が高いと見なされている。
頭端式ホームでしかも機回り線が設置されていない阪和天王寺へ客車編成を回送する際には、杉本町から高速での推進運転で出入線する必要があった。このため、スハフ34200形は車掌台に阪和で標準採用されていた東洋電機製造製主幹制御器やM23ブレーキ制御弁などが搭載され、実質的に総括制御運転可能な制御車となっていた。また、このことや多客期に増結された電動車が編成の最後尾に連結されて先頭の電動車から総括制御されていたことで判るとおり、他の貸し出し車についても主幹制御器用の制御線引き通し改造が実施されている。ただし、高速運転を支える重要コンポーネントであったU自在弁の高速応答に必要となる元空気溜管引き通しの有無については、定かではない。
スハ32系の2軸ボギー旅客車でJRに承継されたのはJR東日本のスハフ32 2357のみで、イベント列車に使用される。3軸ボギー車は展望車のマイテ49 2が国鉄最末期に静態保存から車籍復活してJR西日本に承継された。
建築限界測定車のオヤ31形はJR四国を除く旅客5社に承継されているが、本節では割愛する。
JR東日本にはスハフ32 2357が承継された。同車は2022年10月14日以降、当系列唯一の動態保存車で、JR東日本所有の現役、かつ、営業線路上で稼働可能な旅客用車両としては最古の車両でもある[87]。
JR東日本ぐんま車両センターに在籍し、イベント列車などで使用されている。トイレは未整備のため使用停止中ではあるが、東日本の旧型客車の中では唯一、車内の床が木製板であることやニス塗りのボックスシートを使用していることなど、歴史的価値が極めて高くより昔ながらの雰囲気を味わえることから、多くの乗客からかなりの人気を集めている(そのため、一番稼働率が高い車両となっている)。また、2007年度にはデジタル無線も取り付けられ、車掌室側の妻面上部にデジタル無線のアンテナが追加装備されている(戦前に製造された鉄道車両としては唯一)。
2011年(平成23年)には、新たに復活したC61 20の牽引客車として再整備が実施され、同センターに所属する同車を含むすべての旧型客車に対して乗降ドアの半自動改造が行われた(電磁石により固定されたすべてのドアを、磁力解放時にクローザーの引力を利用して閉めた状態で、スイッチ操作によりロックを掛けられる集中鎖錠装置の設置)。なお、同車のトイレは引き続き使用停止であるが、その代わりにトイレ室を利用した機械室が設けられている。また、同車の尾灯はLED方式に変更し、バッテリーの耐久性を増強した。続けて2012年(平成24年)秋から2013年(平成25年)早春までの全般検査では、室内灯のLED化が行われ、それまでの蛍光管から電球色のLED室内灯へ改造された。いずれも、将来的な静態保存に備えて、改造・復元を極力最小限に留めた上での整備である。
JR西日本には国鉄分割民営化直前に車籍復活したマイテ49 2が承継され、イベント列車に使用されていた。2022年に廃車となり、京都鉄道博物館で静態保存されている。
私鉄払い下げ車としては以下の2両があり、どちらも戦災廃車・事故廃車となった車両である。
1948年に事故廃車となったスハ32 671が譲渡されて復旧した車両で、旅客営業廃止後の1971年に廃車された。
片上鉄道事業所に在籍。新造扱いだが実際は戦災廃車となったスロ33 25の台枠を短縮し再利用したもので[88]、1950年に富士産業宇都宮工場で製造された。車体は新造で、60系客車をベースにした17mセミクロスシート車で、車端部の乗降口がオープンデッキとなっているのが特徴だった。末期は休車状態だったが1991年の廃線まで車籍を保持していた。廃線後の1992年4月に片上駅構内にて解体された[89]。
番号 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
マイテ39 11 | 鉄道博物館 | 青梅鉄道公園に保存され、のち東京総合車両センターに移され保存されていたが、2007年10月に開館した鉄道博物館に移設展示され、車外から桃山式の展望室が観察できる。 |
マロネフ59 1 スシ28 301 |
京都鉄道博物館 | 1962年、交通科学館(のちの交通科学博物館)に開館とともに展示保存され、2014年の閉館時点では土日に実施される「ミュージアム探検ツアー」で車内が公開されていた。2016年4月29日にオープンした京都鉄道博物館に移設され、展示が再開された[90]。 |
マイテ49 2 | 2009年(平成21年)8月15日の運用を最後に運用から離脱。以降は網干総合車両所宮原支所の庫内にて保管されていたが、2022年(令和4年)10月14日に車籍を抹消されるとともに、京都鉄道博物館の扇型機関庫の収蔵車両となった。車籍が抹消されたため、日本の営業線から3軸ボギー客車は消滅した。 | |
スハフ32 2146 | 東京都立小金井公園 | 1975年から敷地内に蒸気機関車C57 186とともに保存され、櫛桁に取り付けられた飾り押縁や妻羽目の枠縁が残る丸屋根車初期の内装を留めている(冬期を除く土休日を中心に展示場を公開。車内は原則非公開)。 |
保存後に解体 | ||
スハネ30 2122 | 仙台市ガス局 | 1972年10月より、仙台市ガス局本庁舎裏の同局旧・原町工場の引込線跡でD51 1108・C58 365・C11 351・オハ35 2004と共に保存されていたが、1995年にオハ35と共に解体された[91][92]。D51・C58・C11については利府町のJR東日本新幹線総合車両センターに移されたが、これらについても2019年に解体されている。 |
スハ32 349 | 福岡県福岡市貝塚公園 | |
スシ28 102 | 東京都青梅市青梅鉄道公園 | 開園した際に保存された。食堂として使用されていたが、老朽化が進み、1980年にED16 1号機が搬入されるのと入れ替わりに解体撤去されたため、物議をかもした。TR73三軸ボギー台車だけは交通博物館を経て鉄道博物館に現存している[93]。 |
マシ29 107 | 交通科学博物館 | 1966年に当時の交通科学館に保存された[94]。館内食堂として利用され、すでに前記のスロシ38000(スシ28)形が存在していたため、供食スペースの拡張という目的から厨房設備が撤去されてその跡に客席が増設された(『交通科学博物館50年史』p.12掲載の車内写真で確認できる)。1980年にナシ20形(ナシ20 24)が同館で保存された際に撤去された[95]。3軸ボギー台車1基は廃棄を免れ、鉄道博物館に保存されている[96]。 |
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