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1954年に日本の北海道函館港沖で発生した海難事故 ウィキペディアから
洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。死者・行方不明者あわせて1155人[注 1]に及ぶ、日本海難史上最悪の事故となった。
転覆し船腹を見せる洞爺丸。画面奥に停泊しているのは貨物船「第六真成丸」 | |
日付 | 1954年(昭和29年)9月26日 |
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時間 | 22時45分ごろ(JST) |
場所 | 函館湾内 函館港第三防波堤燈柱から真方位267度・約1.4キロメートル、七重浜海岸から約1キロメートルの地点 |
原因 | 台風第15号による風速57メートルの強風と波浪の影響、浸水および防水防止に関する船体構造の欠陥(車両搬入口、甲板、機械室等に開口部)、船長の出航判断および天候予測、運航管理の不適。 |
関係者 | 日本国有鉄道・青函鉄道管理局 |
結果 | 台風第15号の影響が遠のいたと判断して出航するも、函館湾内に入ったところで激しい強風と波浪に襲われたため、函館港防波堤灯台から真方位300度・約1.5キロメートルの地点で投錨。圧流によって走錨が始まり、客貨車搬入口より甲板へ浸水が起こり船尾は水没状態になる。排水不能により機関室とボイラー室にも浸水し発電機と主機が停止、右舷側に傾きながら航行不能で浅瀬へ漂流、船底が海底に接触する。台風による強風と波浪に加え、防波堤から跳ね返る変則的な高波を受けて横倒しとなり、搭載していた客貨車12両が甲板で横転、復元力を失って転覆し沈没するに至った。 |
生存者 | 159人 |
死者 | 1155人 |
行方不明者 | 不明 |
1954年(昭和29年)9月26日未明に九州南部に上陸していた台風第15号(のち沈没した船名を冠し1958年に洞爺丸台風と命名される)は、函館海洋気象台によると、15時時点で青森県西方約100キロメートルにあって、中心気圧968ミリバール(当時の単位。数値はヘクトパスカルと同一)、時速110kmで北東に進んでおり、その後17時頃渡島半島を通過して津軽海峡にもっとも接近すると予想されていた。
以下、事故当日の洞爺丸の経緯を記述する。
この事故では、国鉄本社での鉄道管理局長会議に出席する途中だった浅井政治・国鉄札幌総支配人と旭川・釧路の鉄道管理局長も巻き込まれて犠牲となり、北海道遊説の帰途だった冨吉榮二元逓信大臣と菊川忠雄衆議院議員も遭難。元衆議院議員の冨永格五郎や元宝塚女優の佐保美代子などの著名人や劇団中央芸術劇場所属の6人の団員も犠牲者の中に含まれている。逆に、当時中央競馬の調教師であった西塚十勝は、転覆した便の切符を持ちながらも私用で乗り遅れたこともありこの便には乗船せず難を逃れ、漫才師のWけんじの二人(東けんじ、宮城けんじ)も東が深酒し乗り遅れたために難を逃れ、一時期乗船が伝えられた川村善八郎衆議院議員も、その後誤報と判明し自身は遭難現場へと駆けつけている。
なお、激しい風雨や情報の混乱などで救助活動が遅れ[注 11]、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたもののそこで力尽きて亡くなった者が相当数いたという話もあり、「娘一家が乗船し遭難」との一報を受けた父親がショック死した後に娘の夫から、娘一家は乗船しておらず無事という旨の電報が届いたという悲話も残る。[要出典]多くの犠牲者が一度に発生したことから既存の火葬場では処理が追いつかず七重浜に仮設の火葬場が設けられ[17]、更に身元照会の混乱から遺族になりすまし補償金を詐取しようとする事件まで発生した[18]。
事故直後「荒天での無理な出航は一等に乗船していた浅井総支配人及び旭川・釧路・青函[注 12]局長らが国鉄本社での会議に間に合わせるために船長に出航を強要したものだ」との新聞記事が出され、後年になっても事故の一因として語られるが、これは一等から出航前に下船して事故を免れた乗客の放言によるところが大で、青函局長や乗組員の証言によると連絡船が遅れた場合に備えた切符の手配[注 13]をしていたので、船長に出航を強要する必要はなかったと否定している[19]。
当時の函館港内には8隻の船舶が在港しており、係留索切断・錨鎖切断・走錨などの事態となったが、沈没は免れた。しかし港外に錨泊・踟蹰(ちちゅう)した船9隻のうち、無事であったのは2隻のみで、2隻が座礁、5隻が沈没した。その5隻は、洞爺丸を含めてすべて青函連絡船である。
洞爺丸のほかにも、函館港外で碇泊した僚船北見丸、日高丸、十勝丸、大雪丸、第十一青函丸、第十二青函丸の6隻でも同じような状況が発生して、石狩丸、大雪丸、第十二青函丸は危機を逃れた[注 14]ものの、他の4隻は函館港外で相次いで転覆・沈没した(第十一青函丸は転覆しないまま船体破断で沈没)[注 15] 。開口部である車両甲板に海水が浸入し滞留した場合、機関室への浸水を防ぎ切れないという、気付きそうで気付かれることのなかった連絡船の構造上の問題が浮き彫りになった[注 16]。
特に第十一青函丸は、戦時標準船のため船体に使用されていた材質が脆いうえに、事故直前の6月から9月にかけて行われた船底補強工事で、かえって船体が歪み強度低下を生じさせたといわれ、大波を受けた衝撃で一気に船体が3つに破断した。
また、遭難した5隻は車両を積載していて、遭難を逃れた船は空船だった。車両を満載していたことによって重心が高くなっていたのに加え、車両甲板に海水が侵入し始めた際に、車両甲板に開口している機関室やボイラー室への換気口を閉鎖しようとしたが、車両が邪魔をしてこれらの開口部の閉鎖が完全に行えず、機関室等への浸水を防げなかったことが沈没の遠因となっている。
当時の函館湾内の波の波長は洞爺丸の水線長115.5mより僅かに長い約120mであり、この場合車両甲板へ流入する水の量が極端に増大し、しかも排出されにくくなることが後の調査で判明している[20][21]。そのため、以後の連絡船は防水を徹底させるため車両積込口に防水扉を設置、さらに生き残った洞爺丸型3隻については下部遊歩甲板の角窓を水密性に優れた丸窓に交換、石炭積卸用の開口部を閉鎖するため燃料の重油転換も図られる。
洞爺丸以外の4隻が函館港外での停泊を選択した背景には、台風から避難する船舶で港内が混雑していることもあったが、当時港内の係船浮標(ムアリングブイ)に係船されていた貨物船エルネスト(アーネスト)号(イタリア船籍・7,341トン)が16時30分頃港内で走錨事故を起こしたことも背景にある[28]。この時函館港内にある船舶では最大だったエルネスト号は5月にメキシコから石炭を輸送中に室蘭で座礁事故を起こして船底を破損、函館に回航後スクラップ前提の状態で係留されており、荒天操船に必要な人員がいなかった。連絡船の船長たちはエルネスト号が再度走錨した時に、狭い港内でかわすことに不安を感じていたといわれている。
また、沈没には至らなかったものの、アメリカ海軍のLST-1級戦車揚陸艦LST-546号(2,319トン)が座礁して難を逃れた、などの記録が残っている[29]。更に海難救助にあたっていた海上保安庁のはつなみ型巡視艇「うらなみ」も二次遭難している(乗員は全員救助)[30]。
一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば、発生時点では1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故であった[注 20]。他にも大雪丸のように沈没こそしなかったものの航行不能となった船もあり、青函連絡船は終戦前後の時期に近い壊滅的打撃を受けた。まさに航路開設以来、また未曾有の大惨事であった。
台風は、予想と異なり、渡島半島を通過せず日本海側を進んで北海道北西岸に接近、しかも速度を大きく落としさらに発達、南西に開口した函館湾には、台風の危険半円内に入ったこともあって暴風と巨大な波が長時間にわたって来襲することになった。また、台風の目と思われた晴れ間は台風の前にあった閉塞前線の通過によるものであった。しかし、この時代にはまだ気象衛星はなく、気象レーダーはようやく一部で運用に達した段階であり[注 21]、また、気象観測機は在日アメリカ軍任せであったために[注 22]、このような複雑な気象現象を正しく観測し、予想することは非常に困難なことであった。また事故後に行われた気象データの解析も困難をきわめることになった[注 23]。
この特異な台風はその他にも西日本で約300名の死者行方不明を出すなど、各地に甚大な被害を残しており、後に「洞爺丸台風」と命名された。なお、閉塞前線により一時的な晴れ間が見えたということから想像されるように、近年では事故時点での洞爺丸台風は既に温帯低気圧になっていた可能性が高いと推定されている。
1954年9月27日、函館地方海難審判理事所の理事官が、重大海難として高等海難審判理事所から応援を得て調査を開始。
10月1日、函館地方海難審判理事所所長が中間発表の記者会見で「調査の結果荒天準備が不十分で、船長の過失のにおいが濃くなった」と発表。同じ頃、最高検察庁は「平常の経験からこの程度では航行できると判断して出航したらしいので、業務上過失にはならない。また船長が死亡しているので問題にならない」との見解を発表した。
11月27日、函館地方海難審判理事所は函館地方海難審判庁に洞爺丸を含む5隻の沈没事故について審理申立を行なう。
1955年2月15日、函館地方海難審判庁で第一回の審理開始[注 24][31]。受審人は各船の所属乗組員9名(事故当時非番のものを含む)。指定海難関係人は日本国有鉄道の総裁であった長崎惣之助及び青函鉄道管理局長、中央気象台長、函館海洋気象台長を指名。この後生き残った乗客・乗組員、青函局部課長、造船技師などを証人として審理が行なわれた。
2月25日、東京大学加藤弘教授らによる「洞爺丸等復元性鑑定書」が提出。
9月5日、理事官、受審人、指定海難関係人及び海事補佐人による最終弁論。
9月22日、洞爺丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。主文は「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運航管理が適当でなかった事も一因である」とし、指定海難関係人十河信二 [注 27]に対して勧告した。気象台と青函鉄道管理局長については勧告を見送った。
12月21日、十勝丸・日高丸・北見丸・第十一青函丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。十勝丸・日高丸・北見丸については洞爺丸と同様の裁決となった。第十一青函丸については乗組員全員死亡により原因不明とされた。 これらに対し理事官・国鉄の双方から二審請求が提出される。
1956年4月6日、高等海難審判庁で第二審の審理開始。
1957年1月22日、この日の審理で気象庁から発表された「昭和二十九年台風十五号報告」に対する説明が行われ、国鉄側からも質疑を行なう。
1959年2月9日(他四隻については1960年3月15日)、ほぼ一審裁決を踏襲した裁決を発表。ただし、国鉄に対してはすでに改善措置がとられているとして勧告はなされなかった。
国鉄は内容を不服として東京高等裁判所に裁決取り消しを求めて提訴したが、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に最高裁判所に上告したものの、1961年4月20日に上告を棄却して裁決が確定した。
一方、審判進行中から「殉職した船長が弁明の機会のないまま一方的に断罪されること」について疑問視する意見が出され、海難審判庁で行われた海難審判制度改革の議論の中でも「海難で船長が殉職した場合、一言の弁明の機会もないまま裁決文に『職務上の過失』と明記されるのはいかがなものか」との意見がまとめられたため、その後は船長が殉職した海難事故の裁決理由の中に船長の名前が出たとしても、「『船長の職務上の過失』の語句は使用しない」と申し合わされることとなった。
この事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、船尾車両積載口への水密扉の設置、下部遊歩甲板の旅客室窓の水密丸窓への交換、蒸気機関への重油燃焼装置や自動給炭機の設置[注 28]、客載車両渡船(第十二青函丸、石狩丸)の車両甲板上にある旅客室の撤去による重心の低下化等が行われ、青函連絡船の運航についても、出航判断等は船長による決定に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になり、荒天時には気象台との連絡を緊密にする、台風や低気圧通過時の退避先は湾が開口していて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等の改善措置が図られた。
この事故以降に新造される連絡船の船体構造についても、主機関のディーゼルへの転換、車両積載口への水密扉の採用、車両甲板下の旅客区画の廃止、機関室から車両甲板への開口部の全廃、凌波性・復元性の向上、船底部水密区画及び水密扉の設置、操舵性向上のための二枚舵が採用されるなど設計が大きく変更され、それまでにも増して安全性に力が入れられた。その結果、1988年の終航まで、青函連絡船で2度と洞爺丸事故級の大事故がおきることはなかったが、この事故をきっかけに、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化された。
洞爺丸の船体は後日引き揚げられたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造(特に右舷側)の損傷が著しく、現場検証後に解体された。また、第十一青函丸、北見丸も引き揚げ後の調査で船体の損傷が著しいことが判明し、同じく解体された。一方、十勝丸と日高丸は引き揚げ後の調査で車両甲板より上部の船体は喪失していたものの、損傷が軽微であったことや喪失部分を新製すれば再使用可能であることが分かり、喪失部分の船体を新製して1956年に航路に復帰。日高丸は1969年、十勝丸は最後の蒸気タービン船として1970年まで使用された。
また、第十一青函丸から洞爺丸に積み替えられたマイネフ38 5は翌1955年7月の等級制変更によりマロネフ49 5となったものの、マロネフ49 5は現車が存在しない書類上だけの車号となり、同じく洞爺丸に積まれたスニ73 1、マニ76 91と共に本船の保全命令が解かれた同年10月に正式に廃車手続きが取られた。
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