成蹊中学校・高等学校
東京都武蔵野市にある中高一貫校 ウィキペディアから
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成蹊中学校・高等学校 (せいけいちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都武蔵野市吉祥寺北町三丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校。
1914年に旧制成蹊中学校を創設し、1925年に旧制成蹊高等学校に発展した。
官立が多かった旧制高等学校の中で、全国でも4校(成蹊、成城、武蔵、甲南)しかない私立の7年制(尋常科4年+高等科3年)の旧制高等学校の歴史を受け継ぐ。
成蹊の名称は『史記』の作者司馬遷が、「李将軍列伝」において李廣の人物を讃えるために引用したことわざ「桃李不言下自成蹊」に由来する[1]。桃や李(すもも)は何も言わないが、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と蹊(こみち)ができるという李広将軍その人を讃えた故事である。桃や李は人格者であることの例えで、そのような人物は黙っていても徳を求めて人々が集まってくるという意味を持つ。
成蹊高等学校は、明治末期から大正期の教育者である中村春二が、三菱財閥総帥の岩崎小彌太、今村銀行(第一銀行と合併)頭取の今村繁三の協力を得て創設した私塾「成蹊園」を源流に、1912年(明治45年)4月に設立された「成蹊実務学校」を母体として設立された[2]。
中村が設立を目前にして1924年に死去したため、成蹊高校の設置者(経営団体)となったのは、中村が1919年(大正7年)に設立した財団法人成蹊学園(現在の学校法人成蹊学園)である。成蹊高校開校にあたり、三菱合資会社(後に三菱本社)社長であり、成蹊学園初代理事長だった岩崎小弥太が多大な支援を行い、実務学校の所在地であった池袋(豊島区)からの移転先として現在地の吉祥寺を選定するとともに、当地に所有していた1万余坪の農園と、新たに購入した隣接する8万余坪(270,000平方メートル)の広大な土地を併せ、個人的に成蹊学園に寄附した。現在、池袋の跡地は豊島区立元池袋史跡公園となり、記念碑が建てられている。
代数 | 氏名 | 就任年月 | 退任年月 | 前職 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 岩崎小彌太 | 1925(大正14)年 | 11月1945(昭和20)年 | 12月三菱財閥4代目総帥 三菱合資会社社長 |
男爵岩崎家2代当主、三菱財閥創業者岩崎弥太郎の甥 |
2 | 山室宗文 | 1945(昭和20)年 | 12月1947(昭和22)年 | 2月三菱地所会長 三菱信託会長 |
陸軍中将・山室宗武の兄 |
3 | 石黒俊夫 | 1947(昭和22)年 | 2月1964(昭和39)年 | 6月三菱地所会長 三菱レイヨン取締役 |
理事長職務代行 |
4 | 岡野保次郎 | 1964(昭和39)年 | 6月1964(昭和39)年 | 9月三菱重工業社長 | |
5 | 小笠原光雄 | 1964(昭和39)年 | 9月1978(昭和53)年 | 12月三菱銀行頭取 | 安田財閥幹部・小笠原鑅次郎の長男 成蹊学園評議員会議長(石坂泰三の後任) |
6 | 古賀繁一 | 1978(昭和53)年 | 12月1992(平成4)年 | 4月三菱重工業会長 | |
7 | 三橋啓了 | 1992(平成4)年 | 4月1993(平成5)年 | 2月理事長職務代行(成蹊大学教授) | |
8 | 飯田庸太郎 | 1993(平成5)年 | 2月2002(平成14)年 | 2月三菱重工業会長 三菱自動車工業取締役 |
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9 | 岸暁 | 2002(平成14)年 | 2月2009(平成21)年 | 3月東京三菱銀行頭取 | ★旧制成蹊高等学校23期卒業生 |
10 | 佃和夫 | 2009(平成21)年 | 3月2021(令和3)年 | 3月三菱重工業会長 三菱商事取締役 三菱総合研究所取締役 |
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11 | 小林健 | 2021(令和3)年 | 4月現職 | 三菱商事会長 | 日本商工会議所会頭 日本経済団体連合会副会長 |
上表のように成蹊学園理事長には代々三菱金曜会のトップが就任している。
そのほか歴代の成蹊中学・高等学校長に谷正紀 (三菱自動車工業副社長★[3])、栗原美能留(高知県知事★)、土田誠一(東京高等学校教授)、中屋健弌(東京大学教授)、跡部清(成蹊小学校校長★)がいる。現在は、仙田直人(元東京都立三鷹中等教育学校校長、元品川女子学院中等部・高等部校長★)が就任している(★は成蹊学園出身者を示す)。
成蹊学園総長には高柳賢三(東京大学名誉教授、貴族院議員、初代成蹊大学学長)がいる。2024年現在、成蹊学園長は江川雅子(女性初、東京大学理事)が就任している[4]。
評議員にも三菱グループ関係者が数多く登用されている(以下に2024年現在までの評議員経験者を一部抜粋するが、特に★は成蹊学園出身者を示す)。
明治末期~大正期の教育者である中村春二が、高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)時代からの友人であった、岩崎小弥太(後の三菱財閥総帥)と今村繁三(後の今村銀行頭取)の協力を得て東京・本郷の自宅に創設した私塾「成蹊園」が母体となっている[8]。
旧制成蹊高校当初の学級定員は1学級30名とし、尋常科は1学年1学級、高等科は文科・理科に分け1学年各1学級だった。履修する第1外国語により、文科甲類(英語)・文科乙類(ドイツ語)・理科甲類(英語)・理科乙類(ドイツ語)と細分された。当時、医学部に進学する人はドイツ語を学ぶために理科乙類に入った。学制改革に際しては、高等科は新制成蹊大学へ、尋常科は新制成蹊中学・高校へそれぞれ移行したと考えるのが一般的である。
当時、東京府下の中学校は第一中学校から第四中学校までの府立中学校、29の私立中学校、ほかに慶應義塾普通部・慶應義塾中等部、宮内省管轄の学習院中等科、中村の母校東京高等師範学校附属中学校などがあった。
1914年4月、実務学校舎南側に成蹊中学校が開校する。同時に翌12月6日付の朝日新聞や読売新聞の朝刊で5人(岩崎・中村・今村・永井・高木)を理事とする財団法人の設立と、学校の特色が報じられた。開設決定の場は高輪の岩崎邸であった。尋常小学校卒業を入学資格とする修業年限5年制学校であり、1886年公布の中学校令に準じ「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」ことを目的に設立される。設立申請書は東京都公文書館に所蔵されている。
卒業生の進路としては高等学校・専門学校が多かった。成城学園創立者澤柳政太郎、甲南学園創立者平生釟三郎も自身の子弟の教育を託した。成蹊園客員の男爵新田義美(岩松新田家3代当主)とその兄弟も他校から成蹊に転入した。
中学校設立には中村春二の東京高等師範学校附属中学校同窓生らも賛同していて、特に外務次官の永井松三・医師の高木兼二(東京慈恵会医科大学創設者で海軍軍医総監を務めた男爵の高木兼寛の次男)の2名が熱心に後押しし成蹊中学校理事にも就任した。両者もまた中村の成蹊設立の趣旨に賛同し、自身の子息らを1915年創設の成蹊小学校に入学させている[9]。
学則により入学は選抜試験合格者に限る事が定められた。また学則第8章には「生徒心得」として守るべき校訓5カ条を掲げている。これは中村自身が附属中学校入学に際して陸軍少将の山川浩校長から授かった訓示を踏襲したもので、同校で学んだ精神を成蹊中学校にも継承した。学費は入学金1円、授業料は月額5円であり、当時の私立中学の学費相場(1円から3円)を上回っていた。寄宿舎に子弟を入舎させる場合はさらに高額となった。自他共に認める高額の月謝徴収を決めた成蹊中学校でも、実務学校創立理念を受け継ぎ学則にはない特待生制度を用意した。
指導面で特に留意したのは英語と数学で、英語講師には英語学と英語教育の専門家、青木常雄(東京教育大学名誉教授)を採用している。青木は当時東京高等師範学校でオーラル中心の新教授法が早期から導入されており、それを参考に成蹊中学校でも口頭練習を多分に取り入れた授業を展開した。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者津田梅子や、学習院の熊本謙二郎といった当時の英語教育の第一人者も授業を参観している。鈴木ビアトリス(文化勲章受賞者の鈴木大拙夫人)や香港総督秘書であった英国伯爵リチャード・ポンソンビー・フェインら外国人教師も招かれ本場の英語に触れて欧米文化を吸収した。図画教師には成蹊園に在籍する曽宮一念(洋画家)が任命された[10]。
また、成蹊中学校の精神主義・鍛錬主義の教育は注目を集め陸軍士官学校長や陸軍幼年学校長が度々来校した。1916年3月には陸軍大将の上原勇作、同じく元陸軍大将で学習院長の大迫尚敏が来校して凝然や授業を熱心に参観し「生徒の気込を真剣ならしむる点は実に良い」と述べた。当時、陸軍当局が優秀校として注目していた東京府下の中学校は成蹊中学校を筆頭に、府立四中、開成中学の3校であり、成蹊中学校の生徒たちは陸軍士官学校の卒業式、恒例の観兵式に特別招待された。1925年4月、「陸軍現役将校学校配属令」発令に伴い、習志野で中高合同の野外練習が実施され、軍事教練査閲では近衛師団長の朝香宮鳩彦王からは「成蹊は全国学校中、最優秀である」との講評を受けている。
1916年9月1日、岩崎によって「財団法人成蹊学園設立許可願」が文部大臣宛に提出され認可を得た。私立成蹊実業専門学校は1916年(大正5)年10月、財団法人成蹊学園理事の中村春二によって設立申請され、12月に文部大臣高田早苗により認可された。日清戦争・日露戦争を経て日本は産業革命を達成し国内経済が飛躍的に発展する中、就学率が向上し高等教育である専門学校への進学希望者が増加していた。専門学校令、改正し実業学校令が公布され私立では3番目に成蹊実業専門学校が設立された。
学園理事には、三菱の三好重道(初代検事総長三好退蔵の子、三菱製鐵社長・三菱造船取締役)と山室宗文(陸軍中将山室宗武の兄、三菱銀行常務・三菱信託・三菱地所会長)が名を連ねていたが、岩崎の「近頃は安心して金庫の鍵を預けられる人材が少なくなった」という発言に対し、三好と山室は「成蹊学園において真に信頼しうる人材を養成してみてはどうか」と提案した。この提案によって成蹊実業専門学校が設立されるに至った、と今村繁三が証言する。すなわち成蹊実業専門学校設立は実業界、特に三菱における中堅的人材の育成が求められて企画されたものであった。
三菱が社員養成を目的とする、1878年(明治11年)開設の三菱商業学校(慶應義塾の分校となる)のように、三菱の銘売った学校を創らずに、中村の成蹊に教育を託した根底には、岩崎と中村の長年の信頼に基づく関係があった。岩崎は教育者としての中村春二に絶大な信頼を有し、惜しみない支援をしたいという思いがあった。中村もまた岩崎の思いを受け、実務学校において着実に教育成果をあげて社会から高い評価を得ると共に、社会状況を受けて岩崎の求める三菱や実業界の人材教育の実践に向かったといえよう。実業専門学校設立を提案した三好重道と山室宗文もまた中村の成蹊教育に共鳴し、成蹊小学校に師弟を通わせていた保護者であった[11][信頼性要検証]。山室は1934年にも学園理事となり、1946年から成蹊学園理事長(第2代)を務め成蹊学園の運営に深く関わっていく人物である。
教務主任には第一高等学校・東京帝国大学時代の同級生であった中島万次郎(哲学者、天台宗大学講師)の他、生徒監には渡辺八郎(秩父宮御用掛、学習院学生監)が着任した[12]。民法・経済学は末弘厳太郎(東京大学名誉教授)、森戸辰男(第63・64代文部大臣、広島大学学長)[13]、石坂音四郎(京都帝国大学教授)を通じて鳩山秀夫(衆議院議員、第6代衆議院議長の鳩山和夫次男)が担当した。鳩山は成蹊教育に期待して一人息子を成蹊小学校に入学させた保護者でもあった。商業科目講師は三菱の選任によった。三菱は1912年から毎年社内で定期的に簿記講習会を開催した。1916年からは早稲田大学商科教授の吉田良三(会計学の権威、のちに一橋大学名誉教授)が講師を担当し、翌年に開校した成蹊実業専門学校の講師にも吉田を起用させている[14]。
実務学校創立趣旨に準じて成蹊実業専門学校においても特待生制度を設けた。この奨学金を積極的に支出した後援者は、久原房之助(鉱山王、第32代逓信大臣、立憲政友会総裁)や川崎財閥総帥二代目川崎八右衛門、平生釟三郎(甲南学園創設者)、内田信也(鉄道大臣・農商務大臣)などの大富豪らであった。志願者は毎年5倍を超える人気であったが、1920年になると、第一次世界大戦後の反動不況により、奨学金を支援していた久原房之助や内田信也ら実業家の経営状況が悪化したため特待生募集は中止された。代わりに賃費生を若干名募集した。
第1回卒業生の17名の就職先内訳は、三菱合資会社6名、川崎銀行4名、久原財閥関係2名、そのほかは横浜正金銀行・台湾銀行・三井銀行などであった。1919年から1923年までの本科生卒業後の進路としては、三菱銀行13名で最も多く、三菱製鐵や三菱商事、三菱製紙、三菱造船などやはり三菱グループの就職が多かった[17]。
1872年の学制公布、同時に「学事奨励に関する被仰出書」が出され、国民皆学が原則となった。1917年(大正6年)に目白に創設された成蹊女学校は、高等女学校令に基づく学校へと改組され、1921年(大正10年)4月校名を「成蹊高等女学校」に変更した。修業年限は本科4年(専攻科3年)で、定員は各学年本科25名(専攻科20名)、授業料は年額84円であった。同年の第1期入学者は20名で、うち成蹊小学校からの内部進学者は15名であった。
1919年(大正8年)9月に奥田正造が女学校主事に就任、翌年中村春二の後を受けて高等女学校長となった。中村は厳格な賢母教育を実現するため女子に対しては男子よりも厳しい指導の必要性を強調し、炎天下での草取りや寒中の体操などで心身を鍛えさせていた。卒業後の進路の中では専攻科への進学が最多であったが、1928年度卒業者は東京女子大学、聖心女子学院、東京家政学院に進学する者もあった。
1924年(大正13年)、三菱本社で理事会が開催され成蹊高等女学校の学園からの分離が議題に挙がったが今村繁三頭取の助力で回避された。しかしながら第一次世界大戦後の不況が長期化する中、7年制高等学校開校を間近に控える学園の財政状況に決して余裕はなかった。廃校後、特殊な女子教育機関として現校長奥田が経営を続ける案や、新財団法人設立のため安田財閥や近藤滋弥(実業家、男爵)と交渉努力を重ねるものの話はまとまらなかった。
1935年に財団法人東京成蹊高等女学校設立の申請が行われ許可が下り、10年に及ぶ分離独立問題は上記の形で決着した。理事長は今村繁三、理事には荻野仲三郎(歴史学者)、奥田正造校長、監事に土肥章司(東京慈恵会医科大学教授)が就任した。1947年から「(東京)成蹊女子中学校・高等学校」と改名したが、1954年成蹊学園へ合併、1956年廃校となった[18]。
1917年(大正6年)4月に成蹊女学校と成蹊実業専門学校が開校したことにより、中村春二が校長を務め、池袋と目白に校地を有し、名称に「成蹊」を冠する5つの学校が出揃った。
5校の設立主体は、小学校および高等女学校は中村個人だが、中学校は中村春二が設立した財団法人私立成蹊中学校、また実務学校・実業専門学校は岩崎小弥太が設立した実業教育を主たる目的とする財団法人成蹊学園であった。女学校は中学校の保護者で秋田の最上直吉(銀行家・衆議院議員)[19]が寄付金を出資し、岩崎が継続的に他を出資した。しかしながら教育・経営の両立は安定性を欠いたものであった為、統合する方向へ舵を切った。
この統合には三菱財閥3代目当主である岩崎久弥の協力が得られ、1917年に賛助員となって岩崎小弥太と今村と共に各自5万円ずつを出資し校地1,4000坪の大部分を購入、将来的に財団の基本財産となる資産を蓄積し、新財団法人への移行準備に取り掛かった。翌年、東京府知事を通じ文部省(文部大臣中縞徳五郎)に提出、設立登記が行われた。成蹊実務学校・成蹊実業専門学校・成蹊中学校・成蹊高等女学校・成蹊小学校の5校が1つの財団法人成蹊学園に統合された。
2012年5月12日、学園創立100周年記念式典が東京国際フォーラムと東京會舘で2万3000人の来場者のもと実施されている[20]。主な出席者には中村春二・岩崎小弥太・今村繁三の三家の代表者らのほか、東儀秀樹(雅楽師★)、服部克久(作曲家★)、高島彩(進行役★)、中江裕司(映画監督)、鶴見辰吾(俳優★)、中井貴一(俳優★)、佃和夫(理事長)、平野博文(文部科学大臣)、吉沢英成(甲南学園理事長)、波多野敬雄(学習院院長)、谷正紀(元中学高等学校長★)がいた。
100周年記念として前年の2011年11月19日から2日間に渡って、学園本館(横幅70m、高さ20m)に複数の大型プロジェクターで高解像度のCGアニメーションを投影する、国内最大規模の3Dプロジェクションマッピング上映イベントが実施された。NHKエンタープライズとピクスが共同で行った[21]。
100周年記念映画『たしかなあしぶみ なかむらはるじ』が制作され、記念式典にて上映された[22]。成蹊学園創立者・中村春二の生涯を綴ったドキュメンタリードラマ。同年9月には紀伊國屋ホールでも特別上映された[23]。
キャスト
2022年(令和4年)7月8日11時31分ごろ、第26回参議院議員通常選挙のための街頭演説を奈良県奈良市の近鉄大和西大寺駅前付近にて行っていた際に、自作銃で背後から2発撃たれ、その内2発目が命中し心肺停止状態になる。銃撃した当時41歳の奈良市在住の男は奈良県警察によって取り押さえられ、11時42分に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。その後、安倍は奈良県橿原市にある奈良県立医科大学附属病院に搬送されて蘇生措置を受けたが、17時03分、銃撃による失血死のため死亡が確認された。67歳没。
日本国政府は死没日付をもって従一位に叙し、日本国の最高勲章である大勲位菊花章頸飾および大勲位菊花大綬章の追贈を決定した。
葬儀は妻・昭恵を喪主とし、関係者による通夜が同月11日、告別式は同月12日に東京都港区の増上寺で執り行われ、その後桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。
成蹊学園においても同月12日から30日まで献花台と記帳台が設置され、多くの在学生や教職員、卒業生、地域住民らがメーセージカードに想いを綴った[24][25]。また、成蹊学園正門には日本国旗と学園旗の半旗が掲げられた。
学園は事件当日の公式サイト上で「本日、本学園の卒業生で、元首相の安倍晋三さんが、とても痛ましい事件によりお亡くなりになりました。成蹊学園は今、大きな悲しみに包まれています。本学園を大切な母校とし愛してくださった安倍晋三さんに、心より哀悼の意を表します。」と訃報に触れた[26][27][28]。
「個性の尊重」「品性の陶冶」「勤労の実践」
2019年11月、建学の理念が国際連合教育科学文化機関憲章(通称ユネスコ憲章)に通ずるものと評価され、パリに所在する国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)本部よりユネスコスクールとして認定された[30][31]。また、成蹊大学はユネスコスクール支援大学間ネットワークへ加盟している[32]。
中学校のクラスはAからG組の7クラスであり(ただし中学1年次は国際学級H組が存在する)、高校のクラスはAからH組の8クラスがある。体育等の授業では隣り合う組と合同であるが、中学校のGH合同ではH組の人数が若干少ないために比較的少人数での授業となる。
高校1年次は芸術以外はすべて共通科目で、芸術は必修選択科目となっており、音楽・美術・工芸デザイン・書道の中から1つを選択する。ちなみに、戦中戦後の成蹊小学校から大学までの書道担当者には上條信山(東京教育大学教授、文化功労者、日本芸術院会員)がいる。
高校2年次からは文系・理系に分かれ、英語・数学が習熟度別の少人数クラス編成となる。第2外国語として、ドイツ語・フランス語・中国語・朝鮮・韓国語を選択することも可能。
高校3年次からは現代文・英語・体育など一部が必修となり、18のコースからなる選択科目が中心の授業になる。英語・理系数学は学力別に少人数授業が行われる。例えば、高校3年では数学がグレード①から④、英語がグレード①から③に別れる。中学1年の英語の授業では、原則として成蹊小学校からの内部進学者と成蹊中学校からの入学者で分かれるが、2年次以降は合同である。
1962年11月の学園審議会で、当時の成蹊小学校長の杉山穣により海外勤務者子女教育を目的とする特別学級の復活が提案された[33]。これよりも以前に成蹊学園は1918年設置の「和組」、1935年設置の「操要学級」と海外勤務者の子弟を受け入れてきた経緯があった。しかし戦中の国際関係悪化を理由に1940年に廃止されていた。戦後日本が高度成長へと向かう中で、外交官や貿易商社・銀行等の金融機関の海外勤務者が著しく増加した。帰国子女を対象とする教育施設の設備は当時の日本においてごく僅かな先例しか存在せず、公立学校では皆無だった。本格的には1964年1月高瀬荘太郎学園総長の任命により特別学級設置委員会が発足した。3月に委員会策定による「在外子弟のための特別学級開設計画」が審議会に提案・決議された。
1期生(1964年度入学)の保護者の勤務先はボンベイ・ニューデリー・サンフランシスコ・マニラで、商社3名、外務省1名であった[33]。1964年当時、帰国子女クラスを設置する国公立小中学校は存在せず、翌65年東京学芸大学附属大泉中学校に、69年に同小学校に設置されたのが国公立初の事例[34]である。成蹊中学では帰国生受け入れのため、1964年から国際特別学級(1995年に国際学級と改称)を設置している。1967年に文部省(文部科学省)から海外帰国子女教育研究協力校の指定を受けた[34]。
過去には全学年に設置されていたが、現在は国際学級が1学年制になり、中学2・3年からの国際学級編入試は廃止となったが、2008年からは中学2年への帰国生編入試を実施し、中2一般クラスへ編入する。2000年以降、中学国際学級は海外での説明会を実施し、香港・シンガポール・ヨッロッパ等の複数の都市で開催されていた[35]。
なお、1980年代後半には横手長治校長によりベルギーのリンブルフ州ハッセルト市に成蹊中高の分校を設立する構想が提案されていた。しかし、校長交代により中高内で推進派と慎重派とで意見が分かれ、臨時合同会議では賛成派が僅かに上回ったものの、最終的には古賀理事長の慎重な姿勢もあって計画は実現に至らなかった。
成蹊高等学校では、2020年より大正製薬・三菱みらい育成財団主催のもと、慶應義塾高等学校(神奈川県)、柳川高等学校(福岡県)の3校が協働で探究学習を実施している。この探究学習ではリポビタンDのオリジナルボトルデザインを製作し、学内の紀伊国屋書店ブックセンターとオンライン上で販売している。2021年度は販売本数が5000本に上った[36][37]。
10スクールと呼ばれる米国の名門ボーディングスクール(全寮制の寄宿学校)3校への留学プログラムなど多数の国際交流がある。
学園入口から中学校・高等学校正門まで約600メートル続くケヤキ並木(124本)は「日本の音風景100選」(環境省)、「新東京百景」(東京都)に選定されている。全体としても、成蹊学園キャンパスは2011年度グッドデザイン賞を受賞した。[39]
成蹊学園が池袋から吉祥寺に移転した後、1924年(大正13年)に植樹された欅並木で、樹齢は100年を超える[40]。ケヤキ並木は、五日市街道から本館まで、さらに学園正門から中学・高校に至る道筋の約600メートルに100本以上が植樹されている[40][41]。
環境庁の音風景100選では、春の「新緑の優しく爽やかな葉擦れ」、夏の「濃い緑の下のしじま」、秋の「軽やかに舞う落ち葉」、冬の「木枯らしの後に一瞬の静寂」が評価された。
成蹊学園のケヤキ並木は、以下の3つに選定・指定されている。
2017年には「けやき循環プロジェクト」を開始し、1日の2トンにもなる落ち葉を資源とし、サステナビリティー(持続可能性)教育の場として活用されている[40][42]。
成蹊学園構内には、1924年(大正13年)の移転時にケヤキと共に桜が植えられたため、正門から成蹊小学校の先まで続く「桜並木」が存在する。桜はソメイヨシノ・ヤエザクラ・シダレザクラ等の合計120本に及ぶもので、間もなく樹齢100年を迎える。関連行事として毎年4月の第1日曜日に開催される成蹊学園桜祭が春を告げる恒例行事となっている。(11月には欅祭が開催される。成蹊中高の学園祭は蹊祭と呼ぶ。)ただし、2021年と2022年に関しては新型コロナウイルス感染症拡大の影響で開催中止となった。
成蹊中学・高等学校ではないが、成蹊大学情報図書館と成蹊小学校新校舎(成蹊学園100周年記念事業の一環)の設計は世界的建築家坂茂と三菱地所設計が共同であたった[43][44]。坂茂は成蹊小学校、中学校、高等学校(第27回)の卒業生である。
中央館にある成蹊中学校・高等学校図書館の蔵書数は合計で約15万冊であり、中高の図書室としては日本有数の規模と設備を誇る。成蹊大学情報図書館の蔵書数は130万冊を超える。利用許可書(生徒部で発行)と身分証明書、高等学校図書室利用カード(通称『族(うから)』)の提示があれば中高生にも大学図書館の利用が可能である。また、2008年度のグッドデザイン賞を受賞している[45]。
旧制成蹊高等学校は1938年に「緑陰堂文庫」を開設し、情報図書館2階にはその横額、学園史料館には原版が保管されている。文庫の命名は岩崎小弥太理事長によるもので、自作の句「緑陰清風筧の音のありところ」が由来とされ、欅並木のように青葉茂った木立の日陰で快適に読書できる場所を意味している。現代の高度情報化社会の中でも岩崎小弥太理事長の考え方が成蹊の伝統として受け継がれている[46]。
成蹊学園は成蹊気象観測所を所有している。1924年、尋常科理科の教諭として赴任した加藤藤吉によって翌1925年に設立された。気象観測法に基づいた精密な気象観測を生徒らと進めたのが最初で、公式記録は1926年から出されている。戦時中に東京管区気象台から吉祥寺観測所の指定を受け1959年に正式な所有権が成蹊学園に移り、私立の気象観測所として設立された。この気象観測の精密さは、気象庁による観測と同程度であり、実に100年前(2022年現在)から高精度な観測が実現されていた。観測記録をつけた野帳は1926年から存在し、観測開始から1日の欠測も無く記録が続けられている。民間の気象観測所では最も長い観測記録を保有する[48]。1993年に東京都環境賞、2004年5月に平成16年度地域環境保全功労者として環境大臣賞を受賞[49]。歴代所長には宮下敦(成蹊大学教授、元成蹊中高教諭)がいる。
この他に、学校行事や体育の授業では成蹊大学の施設を通年利用する(以下参照)。
ただし、上記以外にも成蹊小学校が所有する屋内プール、成蹊大学が所有する馬術場・北体育館・小体育館が存在するが、中高の授業では原則利用しない。
主に成蹊大学および大学図書館が利用されている作品だが、参考までに以下に列挙する。
冬服は、黒蛇腹の縁取りを施した紺色のホック留め詰襟。夏服は、白いワイシャツまたは開襟シャツに、紺色のズボンを着用する。中学は冬服の場合襟に学年とクラスを表した金バッジを、夏服の場合はワイシャツないし開襟シャツに校章を付ける。
セーラー服。冬服は紺襟に桃のマークと白線3本が入った紺のセーラー服で、夏服は紺襟に桃のマークと白線3本が入った白のセーラー服。中学はえんじ色のスカーフ、高校は黒色のスカーフを着用する。2022年より女子生徒のスラックス着用が許可され、新たな制服が誕生した。
ホームページに記載されている校歌、心力歌(こころの力)以外に応援歌の「太陽の子」「若草薫る」(1958年発表)、虹之寮寮歌の「山の友によせて」(1952年発表)、「箱根寮の歌」「波左間のうた」(ともに1951年発表)、「膚を濡らす」(1930年代発表)と数多くある。
作成は成蹊学園創立者中村春二の盟友であった小林一郎。小林は少年期に奥津雁江の私塾において和漢書を学習し、東京帝国大学を卒業後は西洋哲学の著訳書を相次いで出版、さらには日蓮、法華経などの仏教を中心に東洋哲学に精通している研究者でもあった。教育の基本的な在り方を日本古来の教育理念である「修養」としたことから、生徒に心の奥底にある「尊い心」を気付かせるための手段として制作を依頼され1913年に完成。構成は全8章で漢文調であり、人間の内面的主体性の重要性を多角的に説く[54]。1922年には当時の成蹊実務学校の英語教師により英訳され海外も紹介された。現在も入学式や卒業式の際に唄われ成蹊教育の重要な役割を担っている。
成績上位者には、成蹊大学への内部推薦の権利を持ちながら他大学を受験できる内推併願制度がある。基準は評定平均8.0以上とされる。成蹊大学への内部推薦には従来「内推テスト」が実施されていたが廃止された。内部推薦基準は評定平均6.5以上(10段階)とされる。ちなみに成蹊中学校から高等学校への内部進学には、中3評定が6.0以上で欠点(4.0以下)が無いことが条件である。
例年、卒業生の約3〜4割が系列校の成蹊大学に進学し、その他の多くは国公立大学や私立大学へ進学する。実際2019年と2021年の成蹊大学内部推薦者は卒業生のうち約30%、2020年は36%であった。ただし上記の内部推薦併願制度による他大学進学者も若干名含まれている。
2020年の大学合格状況は、東京大学4名(うち推薦1名)、慶應義塾大学41名(うち慶應義塾大学医学部1名)、早稲田大学43名など。上智大学・東京理科大学も合格者は例年30名を超える。
医学部への進学者も多く、2019年は53名、2020年は27名、2021年は39名が医学部に合格した[55]。
海外大学合格実績も豊富であり、2019年はスタンフォード大学、ニューヨーク大学、ロンドン大学キングスカレッジ、2021年は清華大学に合格者を出している。
硬式テニス部は強豪で、中学男子は全国大会優勝3回・準優勝2回を誇る。最近の成績では2020年に全国中学生テニス選手権代替大会で優勝している。
高校男子も過去に2度インターハイに出場、他の全国大会には度々出場している。
ラグビー部は旧制高校時代の1923年創部の古豪で、花園に4度出場。
都心ながら校内に馬場を持つ馬術部や、スキー部も全国大会に出場している。
サッカー部は旧制中学校時代の1918年に「日本サッカー界の父」と称された内野台嶺が学生と協力して創部された。2018年の創部100周年記念式典には安倍晋三元内閣総理大臣が祝辞を送った[56]。
籠球部(バスケットボール部)は1927年創部で、旧制成蹊高校時代の1927年、全国高校バスケットボール大会準優勝。1931年には、第10回全日本籠球選手権大会(現 全日本総合バスケットボール選手権大会)で、高校生ながら大学を含む強豪チームを破り、全日本制覇という偉業を達成したことがある。
天文気象部は気象観測で知られ、メディアにも度々登場し(構内に1926年設立の成蹊気象観測所がある)、「小柴昌俊科学教育賞」奨励賞を受賞している。
都内では珍しいストリングス部(1978年創部)、サイクリング部も存在する。
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