海士町

島根県隠岐郡の町 ウィキペディアから

海士町map

海士町(あまちょう)は、島根県隠岐郡に属す。日本海に浮かぶ隠岐諸島島前にあり、中ノ島を主島とする1島1町の自治体である。

概要 あまちょう 海士町, 国 ...
あまちょう 
海士町
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海士町旗
1970年(昭和45年)制定
海士町章
1915年大正4年)
7月8日制定
日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 島根県
隠岐郡
市町村コード 32525-2
法人番号 9000020325252
面積 33.44km2
総人口 2,224[編集]
推計人口、2025年2月1日)
人口密度 66.5人/km2
隣接自治体 西ノ島町知夫村隠岐の島町
海士町役場
町長 大江和彦
所在地 684-0403
島根県隠岐郡海士町大字海士1490番地
北緯36度05分48秒 東経133度05分49秒
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役場庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

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― 市 / ― 町 / ― 村

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少子高齢化による人口減少が進んでいたが、2010年以降はほぼ横ばいとなっている[1]

地理

要約
視点

海士町は島根半島の北約60 km日本海に浮かぶ隠岐諸島島前にあり、主島は島前三島のひとつである中ノ島である[2]。面積は33.46 km2、周囲長は89.1 km[2]。2015年の国勢調査によると、世帯数は1,057世帯、人口は2,353人。

地勢

山岳

中ノ島は北東から南西に走る山地で二分されており、南東部を上方(うえがた)、北西部を海士方と呼ぶ[3]。中ノ島中央部の山地には豊田の南側に標高168 mの金光寺山[4]、中里の南東側に227 mの唯山[4]、御波の北西側に213 mの無名峰[4]、多井の北西側に204 mの高峯[4]などがある。上方には知々井の東側に147 mの熊野山[4]などがあり、海士方には菱浦の南側に標高239 mの家督山[4](海士町最高峰)、北分の北側に126 mの角山[4]などがある。外海に面する上方は地形が急峻で平地が少なく、海岸線が入り組んでおり良港に恵まれている。内海に面する海士方は平地が多く、海士町の穀倉地帯となっている[3]

  • 金光寺山(きんこうじさん) : 標高168 m[4]玄武岩の台地上に噴出した流紋岩丘である[5]。山頂には真言宗の金光寺があり、隠岐に配流された小野篁は金光寺にこもって放免を祈願したとされる[6]。本尊である地蔵仏が小野篁の作であるとする伝承(『隠岐島誌』)、後鳥羽上皇がしばしば登って山麓を眺めたとする伝承(『隠州記』)、山上の湧水が眼病に効果があるとする民間信仰がある[5]。山頂にはドライブウェイが通じており、展望台からは西ノ島や島後を見渡すことができる[6]。中腹には海士町都市農村交流センターがある。
  • 家督山(あとどやま) : 標高246 mであり[7]海士町最高峰。玄武岩の台地上に噴出した粗面岩丘である[7]。帆船の時代には航海の目標となった[7]。かつて北斜面は桑畑として利用されたが、現在は島根県立隠岐島前高等学校の敷地などとなっている[7]。家督山から菱浦湾までの風景は、小泉八雲が『日本暼見記』で「清閑な地」と称えている[7]
水文

中ノ島は地下水が豊富であり、ダムに頼らずとも飲料水を得られる[2]。約400トン/日の湧水量がある「天川の水」は環境省による名水百選に選ばれている[8]。金光寺山から諏訪湾に向かって諏訪川が流れており、諏訪川の流域には東や中里など、海士町の主要施設が集まる集落がある。西ノ島知夫島に水田はないが、中ノ島には100ヘクタールほどの水田があり、島前3島の需要を賄えるほど米の生産量が多い[2]

その他

1963年(昭和38年)には隠岐諸島が大山隠岐国立公園に指定されている。2009年(平成21年)には隠岐諸島が日本ジオパークに認定され、2013年(平成25年)9月には世界ジオパーク隠岐世界ジオパーク)に認定され、2015年(平成27年)11月にはユネスコ世界ジオパーク(隠岐ユネスコ世界ジオパーク)に認定された[10]。中ノ島の東岸にはスコリアと呼ばれる火山噴出物が露出した明屋海岸がある。中ノ島の北岸の沖合には、3つの岩が海上に屹立する三郎岩があり、菱浦港から出港する海中展望船あまんぼうの目的地のひとつとなっている。海士町の主島である中ノ島の周囲には、北西側にニホンアワサンゴやアミメサンゴなどの日本の生息域北限である松島、灯台がある二股島、灯台がある小森島などがあり、南東側にヒーゴ島などがあり、諏訪湾沖に自然散骨所があるカズラ島、灯台があるカモ島、三郎岩などがあり、明屋海岸沖にオイシマなどがある。

  • 三郎岩 - 大・中・小の3つの岩が海上に屹立する奇岩[6]玄武岩が海食されて現在の景観となった[6]。大きい方から太郎・二郎・三郎と呼ばれる[6]菱浦港から出港する海中展望船あまんぼうの目的地のひとつになっている[6]。また、島前と島後を結ぶフェリーや高速船からも見学することができる[6]
  • 明屋海岸(あきやかいがん) - 中ノ島の東岸にある景勝地[6]。赤褐色のスコリアと呼ばれる火山噴出物が露出した断崖を持つ[6]。夏場は海水浴場となり、また海士町営のキャンプ場もある[6]隠岐ユネスコ世界ジオパークのジオサイトのひとつ。

気候

日本海に浮かぶ隠岐諸島は暖かい対馬海流の影響を強く受け、「夏涼冬暖」の温和な気候である[11][12]。年間降水日数は193日である[11]。冬季の月平均気温が摂氏3度を下回ることはない[13]ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候 (Cfa) に分類される[14]

春季から夏季には南風が吹き、夏季には偏東風が多くなる[15]。夏季に強風は少なく、海洋性気候が涼しい風をもたらす[15]。冬季には北西風が強く吹き、海上が荒れることが多い[15]。晴天日は年平均142日であり、快晴日は年平均37日に過ぎない[15]。年間平均気温は摂氏14.4度、年間降水量は1,662 mmである[14]

さらに見る 海士の気候, 月 ...
海士の気候
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
最高気温記録 °C°F 17.3
(63.1)
21.9
(71.4)
23.6
(74.5)
26.6
(79.9)
30.4
(86.7)
32.8
(91)
35.5
(95.9)
35.9
(96.6)
35.0
(95)
30.5
(86.9)
25.6
(78.1)
20.1
(68.2)
35.9
(96.6)
平均最高気温 °C°F 8.2
(46.8)
8.7
(47.7)
11.7
(53.1)
16.8
(62.2)
21.3
(70.3)
24.6
(76.3)
28.2
(82.8)
30.1
(86.2)
26.3
(79.3)
21.4
(70.5)
16.3
(61.3)
11.0
(51.8)
18.7
(65.7)
日平均気温 °C°F 5.3
(41.5)
5.2
(41.4)
7.8
(46)
12.5
(54.5)
17.1
(62.8)
20.7
(69.3)
24.8
(76.6)
26.3
(79.3)
22.3
(72.1)
17.1
(62.8)
12.3
(54.1)
7.8
(46)
14.9
(58.8)
平均最低気温 °C°F 1.6
(34.9)
1.0
(33.8)
2.9
(37.2)
7.3
(45.1)
12.6
(54.7)
17.2
(63)
21.9
(71.4)
22.9
(73.2)
18.3
(64.9)
12.3
(54.1)
7.7
(45.9)
3.8
(38.8)
10.8
(51.4)
最低気温記録 °C°F −6.6
(20.1)
−8.0
(17.6)
−4.7
(23.5)
−3.3
(26.1)
2.8
(37)
7.6
(45.7)
11.4
(52.5)
14.2
(57.6)
6.1
(43)
1.9
(35.4)
−0.7
(30.7)
−2.7
(27.1)
−8.0
(17.6)
降水量 mm (inch) 116.9
(4.602)
86.4
(3.402)
108.6
(4.276)
107.5
(4.232)
125.7
(4.949)
167.0
(6.575)
203.7
(8.02)
141.6
(5.575)
197.8
(7.787)
97.7
(3.846)
105.8
(4.165)
126.7
(4.988)
1,589.3
(62.571)
平均月間日照時間 70.9 93.4 157.9 204.6 215.2 156.1 161.5 213.2 164.8 163.6 110.2 78.5 1,790
出典:気象庁
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人口

国勢調査では1950年(昭和25年)の6,986人をピークとして人口が減少し続け、2010年(平成10年)調査では2,374人となった。しかし、UターンIターン者を獲得するための施策を行った結果[16]、2010年以降はほぼ横ばいとなっている[1]。現在では人口の約20%がIターン者であるとされる[17]。移住者は20代から40代の若い世代が多く、定着率も高かった[18]。2009年時点の年少人口(15歳未満)率は9%、老年人口(65歳以上)率は39%である[12]。高校卒業者の多くが隠岐諸島外に出るため、20代から30代の人口比率が極端に少ない[12]

さらに見る 国勢調査による海士村/海士町の人口, 年 ...
国勢調査による海士村/海士町の人口[19]
世帯数人口
1925年1,233戸5,478人
1930年1,232戸5,308人
1935年1,223戸5,048人
1940年1,110戸4,620人
1945年1,475戸5,705人
1950年1,487戸6,986人
1955年1,450戸6,678人
1960年1,416戸6,160人
1965年1,346戸5,145人
1970年1,245戸4,257人
1975年1,206戸3,809人
1980年1,203戸3,537人
1985年1,168戸3,339人
1990年1,137戸3,119人
1995年1,098戸2,857人
2000年1,095戸2,672人
2005年1,160戸2,581人
2010年1,052戸2,374人
2015年1,057戸2,353人
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海士町と全国の年齢別人口分布(2005年) 海士町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 海士町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
海士町(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 4,257人
1975年(昭和50年) 3,809人
1980年(昭和55年) 3,537人
1985年(昭和60年) 3,339人
1990年(平成2年) 3,119人
1995年(平成7年) 2,857人
2000年(平成12年) 2,672人
2005年(平成17年) 2,581人
2010年(平成22年) 2,374人
2015年(平成27年) 2,353人
2020年(令和2年) 2,267人
総務省統計局 国勢調査より

大字

中ノ島は北東から南西に走る山地によって、北西部の海士方と南東部の上方(うえがた)に分かれている[3]。海士町は以下の7の大字に分かれている。

海士方(北西部)
諏訪川の河岸にある大字海士の平野部
  • 海士(あま)
    中央部。1979年の人口は1,393人[20]。西、中里、東、北分の4集落に分かれる[20]諏訪川の流域に平地が開けている[20]。中里には海士町の主要施設が集まっており、海士町役場、隠岐開発総合センター、海士町中央公民館、海士町中央図書館海士町立海士中学校海士町立海士小学校海士町後鳥羽院資料館、診療所、隠岐島消防署海士出張所、浦郷警察署海士駐在所、海士郵便局、海士町商工会、隠岐どうぜん農協海士支所、けいしょう保育園などがある[20]。かつては松江地方法務局海士出張所があった[20]。また、諏訪神社、健須佐雄神社、諏訪神社、東神社、北乃惣神社などの寺社があり、「後鳥羽上皇行在所跡」「後鳥羽上皇御火葬塚」、「御番鍛冶跡」などの史跡もある[20]
  • 福井(ふくい)
    北西部。1979年の人口は769人[20]西ノ島にもっとも近い大字である[20]。福井、菱浦の2集落に分かれる[20]江戸時代西廻海運が発達すると、菱浦は菱浦港による港町として栄え、農業集落である福井を規模で上回った[20]。菱浦港には海士町と本土や島後を結ぶフェリー/高速船、海士町と西ノ島知夫里島を結ぶ島前内航船が寄港する[20]。標高239 mの家督山は海士町の最高峰である。
    島根県立隠岐島前高等学校海士町立福井小学校、診療所、菱浦郵便局、隠岐どうぜん農協菱浦出張所などがある[20]。かつては浦郷警察署福井駐在所、農林水産省島根統計事務所海士出張所、慶照第二保育園、国民宿舎隠岐緑水園、ユニチカサンシ隠岐乾繭場があった[20]。また、宮田神社、御倉神社、西方寺、大社教教会所がある[20]
  • 豊田(とよだ)
    東北端部。1979年の人口は193人[20]島後にもっとも近い大字である[20]。第2種漁港の豊田漁港は漁業基地として発展しており、海士町漁協豊田支所がある[20]。島後海峡に面して明屋海岸がある[20]。平安時代に小野篁が配流されたのが豊田であり、金光寺山には小野篁が彫ったとされる仏像がある[20]。また、式内社の奈岐良比売神社がある[20]
  • 宇受賀(うずか)
    北部。1979年の人口は314人[20]。水田と畑が多い農業地域であり、日本海に面する宇受賀漁港がある[20]宇受賀命神社は『延喜式神名帳』による式内大社であり、平安初期の『続日本後紀』にも登場する[20]
上方(南東部)
  • 知々井(ちちい)
    中央東部。1979年の人口は306人[20]。上方の中心となる大字である[20]。知々井簡易郵便局、浦郷警察署知々井駐在所、海士町漁協知々井支所、診療所がある[20]。かつて海士町立知々井小学校があったが[20]、1983年に海士町立福井小学校に統合された。また、穂々美神社、北野神社、真言宗の清水寺があり、清水寺の木造聖観音菩薩立像は島根県指定文化財である[20]
  • 崎(さき)
    南端部。1979年の人口は468人[20]。第2種漁港の崎漁港は漁業基地として発展している[20]。崎郵便局、崎保育所、隠岐どうぜん農協崎出張所、診療所がある。かつて海士町立崎小学校があったが[20]、1983年に海士町立福井小学校に統合された。また、多井神社、三穂神社などの寺社がある[20]
  • 御波(みなみ)
    南部。1979年の人口は348人[20]。御波、須賀の2集落に分かれる[20]。それぞれ漁業集落であり、海士町漁協御波支所、御波簡易郵便局がある[20]。かつて海士町立御波小学校があったが[20]1983年に海士町立福井小学校に統合された。奈須神社、布施神社、日御碕神社、浄土真宗の蓮生寺がある[20]

歴史

要約
視点

原始・古代

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式内社の宇受賀命神社

諏訪湾沿岸にある郡山遺跡からは、隠岐諸島最古の縄文土器が発掘されている[3]。郡山遺跡のほかには、黒曜石による石器が出土した三田遺跡、佐々木遺跡、北分遺跡などの縄文遺跡がある[3]弥生時代の遺跡である竹田遺跡からは、弥生土器銅剣が出土している[3]古墳としては郡山西古墳、郡山東古墳、河原古墳、東神崎古墳があり、山尻断崖には横穴式古墳群がある[21]

藤原京からは「海評海里」(あまのこおりあまのさと)と書かれた出土した木簡が出土している[21]奈良時代には隠岐国海部郡(おきのくにあまのこおり)と記録されており、『和名抄』によると布施郷、佐作郷、海部郷の3郷があった[21]。『地名辞書』によると布施郷は布施・知々井・太井・崎の4か村、佐作郷は豊田・宇受賀の2か村、海部郷は海士・福井の2か村である[21]

聖武天皇の神亀元年(724年)には隠岐が遠流の地と定められている[21][22]小野篁は2年あまりを隠岐で過ごしているが、前半は海士郡豊田村で、後半は島後の都万村で過ごした[21]。延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』には、海士の宇受賀命神社奈伎良比売神社が掲載(式内社)されている[22]

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまのつり舟小野篁、『古今集

中世・近世

さらに見る 『隠州記』(1688年)における海士郡内8か村, 村名 ...
『隠州記』(1688年)における海士郡内8か村
村名石高戸数人口牛馬
海士村1,070石余115戸914人465匹
宇津賀村105石余19戸136人20匹10艘(うち手安船2艘)
豊田村95石余33戸185人23匹23艘(うち手安船11艘)
知々井村228石余50戸241人43匹10艘(うち手安船4艘)
太井村79石余20戸103人19匹11艘(うち大船1艘・手安船7艘)
布施村
崎村326石余70戸321人162匹32艘(うち大船1艘・手安船19艘)
福井村238石余56戸262人97匹56艘(うち小渡海船1艘・手安船3艘)
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「後鳥羽天皇御火葬塚」

鎌倉時代に編纂された『吾妻鏡』には「阿摩郡苅田郷」という地名が登場する[21]。承久3年(1221年)には後鳥羽上皇が海部郡に配流となり、源福寺を配所として崩御するまで19年間暮らした[21]。後鳥羽上皇は当地で『隠岐本 新古今和歌集』を編纂したり、御歌合せを催すなどしている[21]。元弘2年(1332年)には後醍醐天皇も隠岐に配流されたが、翌年に隠岐を脱出している[22]

室町時代の明応5年(1496年)には海士郡が海士村・宇津賀村(宇受賀村)・豊田村・知々井村・太井村・布施村・崎村(埼村)・福井村の8か村に分かれ、この8か村の体制が1904年(明治37年)まで続いた[21]戦国時代末期には美作国から豪族の渡辺氏が崎に定着し、大地主として海士郡のみならず島前全体に勢力を拡大した[21]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には堀尾忠氏出雲国隠岐国の領主として移封された[23]。寛永14年(1637年)に松江藩主の京極忠高が死去して京極家が廃絶すると、隠岐国は没収されて天領(幕府直轄地)となった[23]。その後は幕府から松江藩に預けられる形となったが、名目上は幕末まで天領のままだった[23]。中ノ島も松江藩による支配を受けており、島前では西ノ島の別府に代官所が置かれている[24]

近代

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1939年に創建された隠岐神社

1868年(明治元年)に起こった隠岐騒動の際、島前の各島は島後とは異なり中立の立場を取り続けたが、1869年(明治2年)以後の廃仏毀釈は島後同様に徹底して行われた[21]。この騒動の過程でいったんは鳥取県の支配下に入り、1869年(明治2年)には新たに設置された隠岐県の一部となったが、1876年(明治9年)に島根県の管轄下で落ち着いた[24]。このさなかの1873年(明治6年)には崎、知々井、海士、福井、布施の5地区に学校ができ、1874年(明治7年)には菱浦にも学校ができた[22]。1879年(明治12年)には豊田村と宇受賀村の2か村が連合して豊田村に戸長役場を置き、また布施村と太井村の2か村も連合して布施村に戸長役場を置いた[25][21]。1884年(明治17年)には海士村・宇受賀村・豊田村・福井村の4か村が連合して海士村に戸長役場を置き、布施村・太井村・崎村・知々井村の4か村も連合して布施村に戸長役場を置いた[25]

1904年(明治37年)4月には中ノ島の8か村が合併して1郡1村・1島1村の海士郡海士村に改称、同年5月1日には他地域の町村制に相当する「島根県隠岐国ニ於ケル町村ノ制度ニ関スル件」が施行されたことで、海士村は大字海士に村役場を置いた[25]。1913年(大正2年)には初めて海士村議会議員選挙が行われた[22]。1920年(大正9年)の海士村は、戸数が1,351戸、人口が6,001人だった[21]。この後、昭和戦前期には出稼ぎや移住などで人口が減少し、1940年には1,110戸・4,620人となっている[20]紀元二千六百年記念行事の一つとして、1939年(昭和14年)には島根県によって隠岐神社が創建された[22]

現代

海士村の人口は1950年(昭和25年)に6,986人とピークを記録したが、その後は一貫して減少している。1959年(昭和34年)には一畑バスが菱浦から豊田までの路線バスの運行を開始した[22]。1963年(昭和38年)には隠岐諸島が大山隠岐国立公園に指定され、観光ブームが起こったことで、1965年(昭和40年)には島後に隠岐空港が開港している[22]

1969年(昭和44年)1月1日には町制を施行して海士町となった。同年4月には旧隠岐国4郡が1郡となり、隠岐郡海士町となった。1970年(昭和45年)には隠岐と本土との間で初めてフェリーの運航が開始された[22]。1995年(平成7年)には隠岐汽船の高速船レインボーが菱浦港に寄港するようになった[22]。2002年(平成14年)には承久海道キンニャモニャセンターがオープンした[22]。1953年(昭和28年)に離島振興法が制定されると、港湾や防波堤の整備など数多くの公共事業が行われてきたが[22]、2000年代には財政再建団体への転落も危ぶまれるほどの財政危機に陥った[26]

2002年(平成14年)には民間企業の経営感覚を持つ山内道雄が海士町長に就任した。平成の大合併時には島前の2町1村も合併に向けた協議会を立ち上げたが、地政学的条件などが理由で合意には至らず、2003年(平成15年)12月14日には協議会が解散している[27]。山内は大胆な行政改革と産業創出策を行い、海士町は「地方創生のトップランナー」と謳われるほどの町となった[28]。2009年(平成21年)には日本で最も美しい村連合に加盟した。

年表

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旧海士町役場(2018年4月)

経済

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第三セクターのマリンポートホテル海士

1953年(昭和28年)の離島振興法制定以後、漁港道路の整備などの公共事業が多く行われてきたが、国・地方自治体の財政難から公共事業が減少し、2000年代初頭には財政再建団体への転落も現実味を帯びるほどの危機的状況に陥っていた。2000年(平成12年)3月には観光土産として「さざえカレー」を売り出したところ、隠岐や島根県を訪れた観光客に人気のヒット商品となった[30]。同年11月には自治省(現・総務省)による「潤いと活力のあるまちづくり自治大臣表彰」を受け[30]、この成功によって海士町は産業振興にいっそう力を入れることとなった[30]。2000年代以降には、「隠岐牛」(牛肉)や「隠岐のいわがき」(牡蠣)や「海士乃塩」(塩)などの地域食材を用いた商品開発、CAS凍結センターの建設による海産物の鮮度向上など、様々な産業振興の取り組みを行っており、雇用創出や定住者の増加などの効果を挙げている。

2005年(平成17年)の国勢調査によると、海士町の産業就業人口は1,199人である[31]。産業別人口では第一次産業が211人(17.6%)、第二次産業が241人(20.1%)、第三次産業が747人(62.3%)である[31]。主な企業には、「隠岐牛」の肥育を行っている有限会社隠岐潮風ファーム、「隠岐のいわがき」の養殖を行っている海士いわがき生産株式会社、第三セクターマリンポートホテル海士の経営を行っている株式会社海士、第三セクターで承久海道キンニャモニャセンターの運営を行っている株式会社ふるさと海士などがある。農林水産業とともに建設業が大きな産業となっており、2005年時点で建設業の従事者数191人は全産業従事者数の15.9%を占めていた[31]

行政

歴代町村長

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海士村/海士町の歴代町村長[19]
名前就任日退任日名前就任日退任日
1小谷琢五郎明治37年7月24日明治41年7月19日18大前久次郎昭和30年5月1日昭和34年4月30日
2明治41年7月20日明治45年7月19日19昭和34年5月1日昭和37年4月30日
3明治45年7月20日大正5年7月19日20田畑十次郎昭和37年5月31日昭和41年5月30日
4大正5年7月20日大正9年7月19日21昭和41年5月31日昭和45年5月30日
5村尾輝一大正9年9月13日大正11年2月28日22昭和45年5月31日昭和45年5月30日
6渡辺新太郎大正11年6月5日大正12年9月25日23昭和45年5月31日昭和53年5月30日
7若林台造大正12年10月22日昭和2年10月21日24昭和53年5月31日昭和57年5月30日
8小谷琢五郎昭和2年10月22日昭和5年10月7日25竹谷正幸昭和57年5月31日昭和61年5月30日
9松野輝雄昭和6年7月6日昭和10年8月5日26昭和61年5月31日平成2年5月30日
10岡田久三郎昭和10年8月17日昭和10年9月25日27山中正巳平成2年5月31日平成6年5月30日
11錦織滝次郎昭和11年1月18日昭和14年6月19日28石倉郁郎平成6年5月31日平成10年5月30日
12岡田久三郎昭和14年7月12日昭和16年9月24日29平成10年5月31日平成14年5月30日
13毛利権八昭和16年11月2日昭和20年11月1日30山内道雄平成14年5月31日平成18年5月30日
14昭和20年12月6日昭和21年5月30日31平成18年5月31日平成22年5月30日
15前田穣昭和21年9月30日昭和22年4月1日32平成22年5月31日平成26年5月30日
16山本長太郎昭和22年4月10日昭和26年4月4日33平成26年5月31日平成30年5月30日
17昭和26年4月23日昭和30年4月30日34大江和彦平成30年5月31日[32]現職
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公共機関

町役場
  • 海士町役場は海士町大字海士1490番地に所在する。2025年(令和7年)1月14日に新庁舎に移転し[29]、新設建物である庁舎棟(鉄筋コンクリート造、地上3階)と交流棟(鉄筋コンクリート造+木造、地上1階)、既存建物である隠岐開発総合センター(鉄筋コンクリート造、地上2階、塔屋1階)と水道管理棟(鉄骨造、地上2階)で構成されることとなった[33]
消防
警察
  • 海士町の警察は、島前地域(海士町・西ノ島町・知夫村)を管轄する浦郷警察署(西ノ島町)が担っている[34]。海士町には海士駐在所と知々井駐在所がある[34]
郵便
  • 海士町には郵便の集配局として菱浦郵便局(684-04xx)があり、無集配局として海士郵便局・崎郵便局・知々井簡易郵便局・御波簡易郵便局がある[35]
電話

教育

学校教育

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島根県立隠岐島前高等学校
小学校
中学校
高等学校

社会教育

交通

海上交通

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フェリー/高速船や島前内航船が発着する菱浦港

江戸時代には松前藩大坂を結ぶ北前船が隠岐で一か月ほど停泊して順風を待つようになり、海士町では菱浦・日之津・須賀などに停泊した[36]。隠岐諸島と松江を結ぶ民間の定期航路はなかったが、松江藩による御用船が運航されていた[36]。明治時代になると蒸気船による定期航路の開拓が計画され、1884年(明治17年)には初めて蒸気船の運行が開始された[37]菱浦港は隠岐諸島と本土とを結ぶ隠岐航路の発祥の地とされる[21]。1895年(明治28年)には菱浦港に隠岐汽船株式会社が設立され、航路の拡張や船舶の増強などを行っている[38]

現在の海士町の玄関口は菱浦港である。隠岐汽船がフェリー・高速船を、隠岐観光が島前内航船を運行している。フェリーでは本土まで2時間30分から3時間、高速船では本土まで約1時間40分である[2]。北西からの季節風の影響により、冬季には船便が欠航することも多い[2]。フェリー・高速船は、隠岐諸島内の別府港西ノ島町)・来居港知夫村)・西郷港隠岐の島町)との間で、また島根県本土の七類港松江市)・境港境港市)との間で運行されている。島前内航船は、島前内の別府港(中ノ島町)・来居港(知夫村)との間で運行されている。

陸上交通

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隠岐海士交通のバス停

明治以前の海士村の陸上運搬手段は人や牛による運搬が主だった[39]。1889年(明治24年)には菱浦から海士を通って豊田に至る二間幅の車道が開通し、その後も明治後期から大正初期にかけて、各集落を結ぶ道路の改修が行われた[40]。1927年(昭和2年)の海士村には荷車46台・自転車18台が見られた[39]。1959年(昭和34年)以後にも主要道路の改修が行われている。同年には一畑バスが菱浦と豊田を結ぶバス路線の運行を開始したが、1970年(昭和45年)には経営難により撤退した[41]。この路線は石倉バス(のちの隠岐海士交通)が引き継ぎ、また石倉バスは崎・知々井・保々見などの集落にも至る新路線の運行も開始した[41]

現在の海士町内では隠岐海士交通が島内巡回バス(路線バス)を運行している。豊田線は隠岐汽船乗り場(菱浦港)から海士町役場を通って豊田の集落までほぼ東西のルートを取り、海士島線は海士町役場から知々井・御波・崎の各集落までほぼ南北のルートを取っている。

  • 隠岐海士交通
    • 豊田線:隠岐汽船乗り場 - 役場前 - 豊田
    • 海士島線:役場前 - 知々井 - 御波 - 崎

名所・旧跡・祭事・施設

名所・旧跡・祭事

施設

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海士町後鳥羽院資料館

出身者

脚注

参考文献

外部リンク

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