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日本の鉄道会社 ウィキペディアから
京成電鉄株式会社(けいせいでんてつ、英: Keisei Electric Railway Co., Ltd.)は、千葉県市川市に本社を置く、東京都区部東部と千葉県北部に鉄道路線を有する鉄道事業者。大手私鉄の一つであり、京成グループの中核企業である。
京成八幡駅前にある京成電鉄本社ビル | |
種類 | 株式会社 |
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機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 | 京成 |
本社所在地 |
日本 〒272-8510[広報 1](専用郵便番号) 千葉県市川市八幡三丁目3番1号[広報 1] 北緯35度43分25.1秒 東経139度55分40秒 |
設立 |
1909年(明治42年)6月30日[広報 1] (京成電気軌道株式会社) |
業種 | 陸運業 |
法人番号 | 7010601012155 |
事業内容 | 鉄道事業・不動産業など |
代表者 | |
資本金 |
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発行済株式総数 |
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売上高 |
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営業利益 |
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経常利益 |
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純利益 |
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純資産 |
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総資産 |
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従業員数 |
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決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | 有限責任監査法人トーマツ[2] |
主要株主 |
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主要子会社 | 京成グループの項目を参照 |
関係する人物 | 「歴代社長」の節も参照 |
外部リンク |
www |
略称は京成(けいせい)で、運営路線の起終点の頭文字である東京の「京」と成田の「成」に由来する。東京証券取引所プライム市場上場企業であり、日経平均株価構成銘柄の一つである。
鉄道業を本業とし、不動産事業も展開している。また、鉄道・バス・タクシーなどの交通機関を運営する京成バス・東京ベイシティ交通・北総鉄道・新京成電鉄・関東鉄道・千葉交通などの親会社であるとともに、東京ディズニーリゾート(TDR)などを運営するオリエンタルランドの筆頭株主である(「主要グループ会社」参照)。
コーポレートスローガンは「いろんな笑顔を結びたい」[3]。マスコットキャラクターは京成パンダ。
かつての社名は京成電気軌道で、当時の英語略称は「K.D.K」(Keisei Denki Kidō)であった。また、2000年代に発売していたパスネットでの符号はKSであった。
2023年3月末時点で152.3 kmに及ぶ営業路線を有し、路線全体の駅数は69駅[4](京成高砂駅を除く京成の列車が停車する北総鉄道北総線との共同使用駅となる4駅[注釈 1]を含む)ある。
2025年4月1日に子会社の新京成電鉄を吸収合併する予定であり[広報 3][広報 4]、合併後は、営業路線も26.5 km増え178.8 kmとなり、日本の大手私鉄では西武鉄道(西武)及び南海電気鉄道(南海)を抜いて、近畿日本鉄道(近鉄)、東武鉄道(東武)、名古屋鉄道(名鉄)、東京地下鉄(東京メトロ)に次いで第5位の路線総延長となり[注釈 2]、駅数も22駅増えて91駅となる[注釈 3]。
メインバンクが大阪の三和銀行であった時期が長かった歴史的経緯から、大手私鉄では阪急電鉄(阪急阪神東宝グループ)や南海と共に三和グループに属し、みどり会の会員企業であるため、ルーツである三菱UFJ銀行をメインバンクとしている[広報 5]。京成カード(鉄道定期券、スカイライナー券)加盟店。
社紋は1909年(明治42年)の会社創立とともに初代社長となる本多貞次郎によって考案された。京成の「京」を円形に図案化し、チームワークの重要性や路線延長の将来性を象徴したものである。1964年(昭和39年)改正の新社紋は旧社紋の基本的な図形を踏襲しているが、線をより太くすることで力強い印象を与えている[5]。
2001年(平成13年)に制定された京成グループのグループマークは「ベストマナー向上推進運動(BMK推進運動)」の一環として、グループの一体感とイメージアップを目的に導入されたものである。青(ライナーブルー)はグループの将来性と社会への貢献を、赤(ライナーレッド)は情熱と向上心を表している[6][5][7]。
京成グループの中には新京成電鉄や京成タクシーホールディングス傘下に再編される前の京成直系のタクシー各社など京成電鉄の社紋をアレンジした社紋あるいは社章を持つ会社もある。ただし、新京成電鉄とかつての新京成タクシー、およびかつての佐倉交通(現・京成タクシー佐倉)の社章はいずれも京成の社紋の中心にSが入っているがそれぞれの形状が異なる(新京成電鉄は初代を基に変形させたS、新京成タクシーは初代を基に通常のS、佐倉交通は2代目を基に通常のS)。
日本の鉄道会社は、有名な神社・仏閣への参拝客輸送を目的として設立されたケースが少なくない。成田山新勝寺も江戸時代から多くの参拝客を集めており、1897年(明治30年)に総武鉄道佐倉駅を起点として成田鉄道(初代)が開業すると、多くの参拝者が利用した。その後、1900年代に入ると全国的に電気鉄道ブームが起きる中で、東京と成田を直結する電気鉄道が3者競願で計画されたが、後に3者は合同し1903年に東京府東京市本所区押上 - 千葉県印旛郡成田町間を軌道条例によって出願。1907年5月28日に押上 - 成田・佐倉町宮小路 - 佐倉停車場について特許を得て、1909年6月30日に京成電気軌道株式会社を設立した。日露戦争後の経済不況のなかで株式募集は難航したといわれている。
1911年11月9日に第一期工事として押上 - 市川(仮・現江戸川駅西方)・曲金(現・京成高砂) - 柴又間を着工し、翌1912年11月3日に開業した(なお、この時市川へは渡船で連絡していた)。また、これに先立つ同年4月27日には帝釈人車軌道(柴又 - 金町間)を買収。すなわち、京成最初の営業路線は人車軌道であった。
1913年10月21日に改築が完成した柴又駅 - 金町駅間を開業させ、以後1914年9月1日に江戸川駅 - 市川新田駅(現・市川真間駅)間、1915年11月3日に市川新田駅 - 中山駅間、1916年12月28日には中山駅 - 船橋駅間と延伸を繰り返した。
船橋から先はまず県都・千葉を目指すこととし、1921年7月17日に船橋駅 - 千葉駅(後の京成千葉駅、現・千葉中央駅)間が開業。当時の京成の千葉駅は現在の千葉中央公園の位置にあって、千葉市の中心部には省線の千葉駅よりも近く、1935年(昭和10年)7月1日に省線が電化されるまでは利用客数で圧倒的優位に立っていた。
1925年10月には本来の目的地・成田への延伸に着手。翌1926年12月9日に津田沼駅 - 酒々井駅間、24日には酒々井駅 - 成田花咲町駅(仮駅)間を開業し、ここに東京と成田までが結ばれることとなった。なお、成田の駅の位置を巡っては新勝寺門前により近いところへの設置を画策して成田電気軌道(旧・成宗電気軌道)を買収(1925年)してその線路を接続する案もあったが、成田山門前の商店街の猛反発に折れ、1930年(昭和5年)4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。
東京側のターミナル駅となっていた押上は、京成開業後発展していたものの、都心へは市電の乗り換えを必要とし、押上 - 浅草間の路線延長を計画した。しかし京成に隣接する東武が隅田川を越えて浅草花川戸地区への路線延長を計画すると京成側でも、これを計画して東武との競願になった。そして、1928年(昭和3年)9月に京成が自社に有利になるように東京市会議員に働きかける中で不正資金供与に発展した京成電車疑獄事件が発覚し、社長・専務ら会社幹部が逮捕される事態となり、結果的に浅草延伸は断念に追い込まれた。
その後、日暮里 - 筑波に鉄道敷設免許を有していた筑波高速度電気鉄道を東武との競合の末に1930年(昭和5年)10月21日に吸収合併。その免許を利用する形で翌1931年(昭和6年)12月19日に青砥駅 - 日暮里駅間、1933年(昭和8年)12月10日に日暮里駅 - 上野公園駅(現・京成上野駅)間を開業。念願であった都心延伸を果たした。また日暮里駅 - 上野駅間は上野公園下の地下線となったが、これは東京の郊外電車としては初のケースとなった[注釈 4]。
この頃、1928年(昭和3年)4月7日には白鬚線(向島駅 - 白鬚駅間)を開業した。白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道(現・都電荒川線)と結ぶ計画もあったが、上野延伸と引き換えの形で1936年(昭和11年)2月28日に廃止された。
また、1927年(昭和2年)8月21日には谷津支線(京成花輪駅〈現・船橋競馬場駅〉 - 谷津遊園地駅間)を開業したが、後に谷津海岸駅(現・谷津駅)からの道路が開通したために1931年10月27日に休止、1934年(昭和9年)6月22日に廃止されている。
創業時から兼業として電灯電力供給事業、その後バス事業や土地分譲、谷津遊園の開設などが行われていたが、昭和恐慌での経営不振の打開策として、東京電燈から千葉県及び茨城県の一部の電灯電力供給事業を譲受すべく交渉。1934年(昭和9年)11月9日に当事者同士での契約調印がなされたが、監督官庁の逓信省が認可しなかったため不成立に終わった。しかし、資金・人材の手当は済んでいたこともあり、ここから積極的な兼業展開を展開することとなる。1936年(昭和11年)には幕張に畜産加工工場を設立して「京成ハム」「京成ソーセージ」などの商品名で精肉・加工肉製造販売や「京成シミトール」(湿布薬)などといった薬品を直営で販売[注釈 5]。1938年(昭和13年)には帝都タクシーを設立、梅鉢車輛(後の帝國車輛工業)を系列化。これ以外にも、百貨店経営や株式会社大日本東京野球倶楽部(東京読売巨人軍の前身)への出資(筆頭株主であった)などが行われていた。
その後、太平洋戦争下の1942年(昭和17年)には電灯電力供給事業を関東配電株式会社(東京電力の前身)に譲渡。また陸上交通事業調整法の下で常磐線以南のエリアの統合中核企業とされたが、系列下にあった総武鉄道(2代)は東武に、城東電気軌道は東京市電に統合されたためバス会社の統合のみが行われた。この時総武鉄道(2代)を喪失したことが戦後新京成電鉄を設立する動機になったといわれている。併せて千葉県下の成田鉄道(2代)・小湊鉄道・九十九里鉄道が京成の資本系列下に入り、戦後に千葉県下全域へ事業を拡大する基盤を得ることとなった。
また1943年(昭和18年)には軍の命令により、日本占領下インドネシアのセレベス島(現:スラウェシ島)における全長77 kmの鉄道建設を請け負うこととなり、京成の出資で設立されたセレベス開発鉄道を通して用地取得や突貫工事を敢行、翌1944年(昭和19年)8月までに8.6 kmを完成させた[8]。さらに同年11月にはボルネオ島での鉄道建設も命じられ、セレベス島での人員資材を割いて10 kmの線路を敷設したものの、終戦によりいずれの鉄道も放棄された[8]。
その他戦時中特筆することとしては、日暮里駅 - 上野公園駅間が当時の運輸省の接収を受けたことであろう。戦争末期に空襲が激しくなってきたことに伴い、運輸省の疎開先として上野公園下の地下トンネルに目を付けられたのだったが、ほとんど機能しないまま間もなく終戦を迎えることとなる。また、終戦直前の1945年(昭和20年)6月25日には、社名を京成電鉄株式会社に改めている。
戦後、労働組合が結成される中、1945年(昭和20年)12月11日、京成電鉄争議が発生。業務や運賃管理などが争点となり、同年12月29日に解決した[9]。
沿線の下総台地にあった陸軍施設が軍隊解散とともに民間施設に転用された。中でも千葉県下の津田沼には鉄道連隊が設置され、演習線が津田沼を起点に県内の松戸に延びていた。この演習線跡地に目を付けた京成電鉄は仮称「下総電鉄」を設立して、連合軍総司令部 (GHQ)・運輸省への払い下げ交渉を開始した。西武との激しい競合の末に1946年(昭和21年)3月に転用許可を、8月には路線免許を獲得。10月には正式に新京成電鉄を創立して新線開業を押し進めることとなった。
また、交通統制が緩んだこの時期に東京の電鉄各社は都心延伸の免許申請を行った。しかし、電鉄各社や営団、東京都との利害が輻輳し、京成でも1950年(昭和25年)8月に押上 - 有楽町間の免許申請を行ったものの、1957年(昭和32年)6月に運輸省の行政指導で「地下鉄網の建設・運営は『営団』『東京都』が担当」「各電鉄は地下鉄に相互乗り入れ運転」の方針が決定される。京成電鉄は京浜急行電鉄(京急[注釈 6])とともに東京都が担任する1号線(現・浅草線)に相互乗り入れすることとなったが、京成と京急の間では軌間の違い(京成1372 mm / 京急1435 mm)が最大の問題となった。
京成・京急・都の3者での協議の結果、軌間は1435 mmに決定。そのため、京成電鉄では全線を11工程13工区に分けて改軌工事を実施、運転を継続したまま1959年(昭和34年)10月9日夜から12月1日朝までの50日間にわたって工事を行った。また、同年2月には押上駅の地下移設工事に着工し、翌1960年(昭和35年)11月30日に現在の新駅が営業開始、予定の12月1日より3日遅れの4日午後より1号線押上駅 - 浅草橋駅の開業によって初の郊外電車 - 地下鉄の相互乗り入れが行われることとなった。
戦災にあった千葉市は、戦後の戦災復興都市計画により抜本的な区画整理が行われ、この時に国鉄・京成電鉄の路線変更および両者の千葉駅の移転も行われることとなった。京成千葉駅(現・千葉中央駅)が現在地に移転して仮開業したのは1958年(昭和33年)2月10日である。
1960年(昭和35年)前後には千葉・茨城県下の交通各社を系列下に収めるべく、1959年(昭和34年)5月に常総筑波鉄道、11月には鹿島参宮鉄道(以上2社は後の関東鉄道)、1960年(昭和35年)11月には銚子電気鉄道(千葉交通の傘下に)の各鉄道や周辺バス会社を傘下に収めていった。同じ頃には兼業部門の拡充を再開。流通部門では京成百貨店の開業(1963年)や京成ストアの設立、不動産部門ではオリエンタルランド(1960年)や京成不動産(1971年・不動産部の独立)、谷津遊園の拡充や京成ホテルの設立などが行われた。
1970年代に入ると、1969年の営団(現:東京メトロ)東西線西船橋駅延伸や1972年の総武本線東京駅 - 津田沼駅間複々線化(総武快速線)開業といった競合路線の新設や輸送力の増強によって旅客を奪われるようになり、交通事業での収益を上げることが難しくなっていった。このため、収益源を兼業部門に求める傾向がますます強くなり、特に沿線を離れた東北地方や北海道での土地買収・開発を押し進めていった。具体的には、常磐急行交通(1962年〈昭和37年〉)での長距離バス進出(新橋 - 日立)、いわき貨物自動車(1962年系列化)・日本陸運(後に「みちのく急送」に改称、1964年系列化)での陸送部門での関与、さらには南部縦貫鉄道へも資本参加している。
また、ニュータウンの交通機関として新線建設を目的とした会社に相次いで出資した。1972年(昭和47年)には北総開発鉄道(現・北総鉄道)、1973年(昭和48年)には千葉急行電鉄(1998年解散、現在の京成千原線を経営)、遅れて1981年(昭和56年)には東葉高速鉄道が対象となった。そして、1966年(昭和41年)に建設が決定した新東京国際空港(成田空港)へのアクセスを目指し、1968年(昭和43年)12月に新線免許を申請した。しかし、運輸省と新東京国際空港公団(ともに当時)が空港ターミナルビル地下への乗り入れを拒否した(当時予定されていた成田新幹線との兼ね合いもあった)。結局、第1・第2ターミナルビルの中間に駅を設置(空港通勤者の交通機関という位置付けとされた)することとなり、1970年(昭和45年)11月に着工、突貫工事により1972年11月には建設工事を終了し、1973年2月には習熟運転も始まった。しかし、反対運動による開港の延期で6年あまり営業できない期間が続いた[注釈 7]。都心側でも、京成上野駅の改良工事が1973年6月から1976年7月まで行われた。
こういった大型投資を繰り広げている最中にオイルショックに見舞われた。1977年(昭和52年)度決算ではついに無配に転落。空港新線が開業できなかったことも一因としてあるが、とりわけ積極的な土地投資が裏目に出て、土地評価額の下落と金利負担が経営を圧迫、ついには累積赤字が1980年(昭和55年)度上半期で133億円、1983年(昭和58年)度下半期で281億円に達し経営危機となったことで、1980年より1990年までの10年間にわたって、戦後の大手私鉄では唯一味わうこととなる暗黒時代を迎えることとなった。
1980年(昭和55年)10月に経営再建計画を策定、25%に上る人員削減といった徹底した合理化と系列百貨店閉鎖などの兼業整理、谷津遊園跡地や津田沼の車両工場などの資産処分を次々と行った。また、同年3月には日本民営鉄道協会からも脱退(再建後の1990年4月に復帰)し、春闘の賃上げ交渉も独自に行うなど、なりふり構わぬ経営再建を図った。このため、1980年代前半までは労働組合による単独のストライキが頻発することもあったが、傘下のオリエンタルランドが東京ディズニーランドの招致に成功したことや、リストラ策が功を奏して経営が好転した。1988年(昭和63年)度上半期に12年ぶりの経常利益を計上[10]、1989年度上半期には累積赤字を解消[11]。下半期には株式配当も復活し、ようやく経営危機からの復活を果たすこととなった[12]。
1980年代後半以降、成田空港のアクセスを巡っては、開港後も駅の立地の悪さから離れた場所で苦戦を強いられ、投資が回収できない状態が続いた。しかし、高速道路の渋滞によりリムジンバスの遅延が慢性化するようになったため、当時の運輸大臣石原慎太郎の意向もあって、1988年(昭和63年)になって空港アクセス鉄道建設に対して真剣に検討が行われた。この結果、1991年(平成3年)3月19日に東日本旅客鉄道(JR東日本)と共同でのより空港に近い成田空港駅への乗り入れが実現し、利便性が向上した[13][14](旧来の成田空港駅は東成田駅に名称変更[15])。
21世紀に入り、鉄道部門では新型車両の導入や駅員の大量募集といった積極経営を行っている。駅員募集は毎年のように行われており、数多くの人数を受け入れている。また、M&Aの動きが活発化する中で、高い資産価値を持つオリエンタルランドに対して簿価の小さい京成電鉄が親会社となっていることへの懸念が指摘されており、2008年6月に株式の敵対的買収に対する防衛策を導入した(2019年に廃止)[16]。
そして、2010年(平成22年)7月17日には成田スカイアクセス(成田空港線)が開業した[17]。日暮里 - 空港第2ビル間を北総線経由で最速36分で結ぶことになり、成田空港へのアクセスの利便性がさらに向上した[17](後述の路線の節も参照)。また、同日からは京成線各駅と北総鉄道・芝山鉄道で一斉に駅ナンバリングを導入した[18]。京成電鉄では「京成」を示す「KS」と2桁の数字の組み合わせで駅を識別する。ただし、既に北総鉄道北総線として開業済みの新柴又駅 - 印旛日本医大駅間は京成としての駅ナンバリングの対象からは除外され、押上線押上駅は都営地下鉄浅草線の駅ナンバリングとして付与されている「A20」と京成の駅ナンバリングとして付与される「KS45」を併記している[広報 6]。また、乗り入れ先のうち新京成電鉄は導入されていなかったが4年後の2014年2月23日に導入された。なお京急は3か月遅れの10月21日(羽田空港国際線ターミナル駅開業日)に導入している。当時は、東京メトロ以外の大手私鉄が全線全駅で駅ナンバリングを導入するのは京成電鉄が初めてであった。京成電鉄が導入する以前に大手私鉄他社では、東京メトロのほか、近鉄が2006年にけいはんな線のみに導入していた程度であった[注釈 8]。
東京都墨田区押上にある本社の老朽化に伴い[広報 7]、2013年9月17日に本社を千葉県市川市八幡に移転した[19][注釈 9]。新社屋は本線京成八幡駅・都営地下鉄新宿線本八幡駅の両駅前の再開発地区(八幡三丁目2番1号の旧・京成百貨店跡地)に建設された。
2010年7月17日時点で次の7線区 152.3 km を有する。
本線のうち、駒井野分岐部 - 成田空港駅間 2.1 kmは、成田空港高速鉄道(第3種鉄道事業者)が線路・施設などを保有しており、京成電鉄は第2種鉄道事業を行っている。
本線の海神駅 - 船橋競馬場駅間にて高架化工事が進められ、2004年11月27日より海神駅 - 船橋競馬場駅間の上り線、2006年11月25日より同下り線がそれぞれ高架化された。押上線では、押上駅 - 八広駅間が2015年8月22日に高架化工事が完了した。2021年時点で、押上線の四ツ木駅 - 青砥駅間で高架化工事が行われている。
本線の青砥駅 - 京成上野駅間は筑波高速度電気鉄道の免許を買収してその免許を利用して敷設したものだが、元々、上野には押上から浅草を経て行く計画だった。しかし、先に東武に浅草延伸が認められたため、焦った京成は東京市会有力者を巻き込んだ京成電車疑獄事件を引き起こしてしまい、この計画は頓挫した。仕方なく王子電気軌道との接続を目指して白鬚線を建設するなどしたが、会社合併を持ち掛けた筑波高速度電気鉄道からの話に乗る形で、やや遠回りではあるが現行の日暮里駅経由の経路で上野乗り入れを果たした。その他の筑波高速の免許線については「もし、戦争がなかったら筑波にも延伸する予定」と社史などに書かれているが、実際には戦前に免許が放棄されている(現在の茨城県石岡市における気象庁地磁気観測所の存在も問題ではある)。京成上野駅付近のトンネルは当時御料地であった上野公園の下を通過することから、御前会議にまでかけられた。
「成田スカイアクセス」の愛称がある成田空港線は、北総鉄道北総線を延長する形で印旛日本医大駅から空港第2ビル駅までの新線が成田高速鉄道アクセスの手によって建設され、2010年7月17日から京成電鉄が京成高砂駅を除いて北総鉄道・千葉ニュータウン鉄道・成田高速鉄道アクセス・成田空港高速鉄道の各社から線路と施設を借受け、第2種鉄道事業者として列車の運行を行っている。同線を使用した場合の空港第2ビル駅 - 日暮里駅間の所要時間は、スカイライナーで36分、特別料金不要のアクセス特急で59分としている。これにより路線総延長も150 kmを超え、関東大手私鉄(東京メトロを含む)での総延長順位は小田急電鉄を抜いて第4位となった。
成田空港線のうち北総鉄道北総線との共用区間である京成高砂駅 - 印旛日本医大駅間を成田空港線の列車として京成乗務員が運転する場合は京成側の運転規定が適用され、北総線の列車として北総鉄道の乗務員が運転する場合は北総鉄道の運転規定が適用される。
以下の路線と相互直通運転が行われている。5事業者間で直通運転を行っている。
京成の車両は1999年から2018年までの間、京急蒲田駅から全て空港線に入るため、同駅より南側の多摩川を渡って神奈川県に入る定期運用はなかった(1991年から1995年までの間、平日夜に三崎口駅まで乗り入れたことがあった。また、京急蒲田駅が完全高架化される2012年までは箱根駅伝による毎年1月3日の臨時ダイヤで運行される時のみ、京急川崎駅まで運転される運用が存在した)。しかしながら、2018年12月8日のダイヤ改正で再び京成車両(成田スカイアクセス線対応車のみ)の神奈川県乗り入れ運用が平日夜のみ再開された。
以下の路線で片乗り入れによる直通運転が行われている。
かつて新京成線が全線開通した1950年代中頃にも直通運転が行われていた(当時は相互乗り入れ)が、その後廃止されていた(ただし1960年代後半に京成千葉線内急行で臨時での設定があった)。しばらく直通運転は行われていなかったが、2006年12月10日のダイヤ改正から千葉線への乗り入れが新京成車両の片乗り入れにより再開された。ほとんどの駅(京成幕張本郷駅 - 新千葉駅)のホームの有効長が6両分しかないので8両編成は乗り入れなかった。現時点では新京成車両の千原線への乗り入れや京成車両の新京成線への乗り入れ運転は行っていない。「京成・新京成直通車両規格」に準拠した車両のみ入線可能である。
1956年8月、運輸省(現・国土交通省)が『東京およびその周辺における都市交通に関する第1次答申』を策定する。この答申は東京のターミナル駅における混雑の緩和を狙ったもので、11の地下鉄を整備し、一部での相互直通運転を行うというものだった。この「相互直通運転」の対象となったのは都営地下鉄1号線(現・都営地下鉄浅草線)および京成・京急である。これにより3者による規格統一に向けての議論が行われるが、規格統一の際に浮かび上がった大きな難題が軌間の違いである。
当時、京成電鉄は軌間1372 mmの「馬車軌(偏軌)」、それに対して京急は軌間1435 mmの標準軌を採用しており、相互直通運転に際して当然ながら統一する必要があった。ともに運転頻度の高い路線だが、車両数の少ない京成電鉄が対策をとることとなった。この時1372 mmと1435 mmの三線軌条や四線軌条とする案も挙がったが、車輪やレール同士の干渉など物理的な問題により[61]結局、全線改軌の方針となった。まず、1959年(昭和34年)春に犬釘をレールの外側に仮打ちする準備工事を実施、改軌工事のスムーズ化を図った。
改軌のテストも兼ねて同年8月18日 - 11月30日に同じ1372 mmの軌間であった新京成電鉄新京成線の改軌[注釈 16]を実施し、この成果を見て改軌工事計画を立案した。
既に京成線は通勤路線として機能しており1日の運休も許されず、また動員できる作業員も限りがあるため、一夜で全車両と線路全線を改軌することもできないことから、全線をいくつかの工区に分けて順次改軌を行い、旅客は2つの軌間が共存する駅で乗り継ぎさせることにした[62]。しかし一夜に工事できる距離は限られているため、駅間隔の長い区間では既設の駅で乗り継ぎさせることができず、京成臼井駅 - 京成佐倉駅間には仮駅となる鹿島川専用乗継場(旅客案内上および営業上では「京成臼井・京成佐倉間仮駅」)を建設した[62]。そして同年10月9日 - 12月1日に改軌工事を行うこととした。
改軌工事の工程は、
となっており、1工程終了後最低2日以上の準備期間を設けて行うというものであった。
準備が整った10月9日に改軌の第1工程となる千葉線京成幕張駅 - 京成千葉駅間の改軌を開始、翌10日に予定通りに終了し、同区間で最新鋭の3050形による始発列車が運転された。その後、工事は順調に進み、11月30日に最終11工区の京成上野駅 - 日暮里駅間の改軌を予定より2日前倒しして終了、これをもって京成線全線の改軌が終了した[63]。
これと並行して、京成電鉄は軌間1372 mmの旧型車両の改軌と東武の協力を得て押上駅の地下化も行い、1960年11月29日の地下化をもって全て終了した。12月4日に都営浅草線浅草橋駅 - 押上駅間が開業し、浅草橋駅 - 東中山駅間で日本初の民鉄・地下鉄の相互直通運転が開始された。
2004年10月時点で、京成では手動式踏切が3か所設置されていた。このうち、船橋1号踏切は高架化工事に伴う同年11月の上り線切り替え時に自動化された。残る高砂1号・2号踏切も東武伊勢崎線竹ノ塚駅の踏切事故を受けた安全対策の一環として自動化が行われることとなり、2号踏切が2006年3月30日に、1号踏切が9月28日に自動化された。
京成電鉄では、一般列車として普通・快速・通勤特急・特急・アクセス特急・快速特急、そして有料特急列車としてスカイライナー・モーニングライナー・イブニングライナーが運転され、種別数は臨時列車のシティライナーを含めると10種別が設定されている[注釈 17]。
有料の空港アクセス列車として、一般列車の特急より上格の列車である「スカイライナー」を1973年12月30日から運行している(成田空港乗り入れは同空港が開港した翌日の1978年5月21日から)。その後同列車は1985年10月19日から朝夕はそれぞれ「モーニングライナー」・「イブニングライナー」と名称と料金体系を変え、JRでのホームライナーに相当する通勤輸送も行っている。
2010年7月17日から「スカイライナー」は成田空港線(成田スカイアクセス)経由に変更となり[17]、従来のスカイライナーは「シティライナー」に改称された。その後「シティライナー」は成田空港駅への乗り入れをやめ、2014年11月8日から定期運行は土休日1日1往復のみとなっていたが、2015年12月5日のダイヤ改正にて定期運行が廃止された[広報 16]。
普通列車は、路線図や発車案内装置においては「普通」と案内されるが、駅の放送などによっては「各駅停車」と呼ばれる。
2002年10月12日のダイヤ改正より、京成高砂駅以東の「急行」を廃止して「快速」を新設するなど、種別の再編を実施した。
2006年12月10日のダイヤ改正より特急停車駅が大幅に見直され、京成佐倉駅 - 成田空港駅(一部は芝山千代田駅)間が各駅停車となり、早朝・夕夜間に従来の特急停車駅と同じである「快特」が新設された。しかし、快特の登場により「快速(カイソク)」と「快特(カイトク)」の発音が似ており、誤乗を招くという問題が発生したため、2007年8月16日より一部案内において快特を「快速特急」と案内するよう変更され、その後案内表記も「快速特急」に統一された。空港アクセス列車であるが、快特も特急も英略は京急と同じく「Limited Express」である。
2010年7月17日のダイヤ改正より、急行が廃止され、新たに「アクセス特急」が設定された。
時刻表などの印刷物では上記の通りだが、旧型のLED表示機での表現ができない色などは一部上記と違う色で表示されることがある。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
行先標がまだ方向幕でなく行先板だった時代、駅名ごとに三角や丸など異なる背景がデザインされ、遠くからでもデザインを見ただけで、行先が判断しやすくなる行先標を採用していた鉄道事業者が一部に存在した。大手私鉄の背景デザインは、関西では多用されていたが、関東では京成と京王帝都電鉄(現:京王電鉄)京王線の二社が比較的後世まで使用していた。京王は窓下方向幕でも背景デザインを使っていたが、京成では行先板のみである。山と溪谷社のヤマケイ私鉄ハンドブック『京成』『京王帝都』にも、当時両社で使われていた背景デザイン付きの行先標がすべて掲載されている。
京成の背景デザインは必ず一駅に一背景でなく、都営浅草線内の行先はすべて八角形であり、千葉中央駅など新たに追加された駅名は白地だった。背景も車体色、つまり新造時の初代3000形以前の塗装「青緑」か、塗りかえられた初代3000形および新造時の初代3050形以降の塗装「朱色」と合わせていた。子会社の新京成も京成の追従が多く、京成と同じ仕様で当時の車体色であった行先板を採用している。一部の鉄道事業者では、複数の列車表示でも別の板に差し替えず、めくるだけでの容易に変更できる行先板を採用した会社もあったが、京成はすべての表示をめくれる仕様にしていた。
やがて方向幕が採用されると、表示位置は新造車両も更新で追加された車両も、窓上の狭い位置だったため、背景デザインは採用されなくなる。更新による方向幕追加は、一般に中規模以上の更新と同時に行うことが多いが、京成では当初、中規模更新でも行先板を使い続けたケースが多く、方向幕追加は初代3100形の更新時期の後半からである。なお新京成の全車方向幕化は更新を待たず、西武や京急同様、窓の内側に方向幕を後付けという、安価な方法を使った。こうして京成の背景デザインは、行先板の廃止と同時に姿を消した。
2018年2月2日時点で営業用車両582両を保有する(事業用車・休止車両・保留車等を除く)。各系列の詳細、使用線区、運用などについては、それぞれの記事を参照のこと。
都営浅草線乗り入れ列車は、初代3000形以降の一般車全形式が地下鉄乗り入れ規格である「都営1号線直通車両規格」準拠となっている。助士席(車掌台)側には遮光幕を設けないのが特徴である。途中駅での分割・併合は行われないので、固定編成が大多数を占める。
形式呼称は小田急や京急などと同様に「…系(けい)」ではなく「…形(がた)」を使用する(初代3000形から3300形までの1号線直通車両規格普通鋼製通勤車、いわゆる「赤電」を総称して3000系と呼ぶことがあるが、あくまでも通称である)。
京成における車両システム上の特徴は、初期新性能車の750形から駆動装置を2種(中空軸平行カルダン駆動方式→TD平行カルダン駆動方式およびWN駆動方式)併用で採用していることである(1970年代から1980年代にかけて新造され、WN駆動方式に統一された初代AE形、3500形、3600形ならびに初代AE形の電気機器を再利用した3400形を除く)。保守・管理上からは統一する方が望ましいが、これは新3000形においても継続されている。
また3000系列および3500形は全電動車編成であるが、このうち3221以降の3200形と3300形・3500形以降についてはコスト削減を目的に、主電動機を75kWから100kWに出力アップして2両あたり8台から6台に減らしており(1.5M-0.5Tユニット、6M車と呼ばれる。2両あたりの合計出力は従来の8M車と同じ)、京成の抵抗制御車の特徴となっている。
乗り入れ先の京急の信号システムが先頭台車を動力車とする前提で設計されている[64] ため、京成車が京急に通常ダイヤで乗り入れるようになった1991年以降製造された3700形以降の各形式では、京急の車両規定により先頭車が電動車とされ、製造時は先頭台車が付随台車だった“6M車”も車体更新時に先頭が電動車となるように改造された。
さらに成田スカイアクセス開業に際し、最高速度120km/h運転に対応した専用車両3050形の新製もしくは3700形の改造を行った。このため、一般列車用車両の運用は、編成両数だけでなく、「京急に入線できるか否か」「成田スカイアクセスに速度面で入線できるか」も要素の一つである。一方、京成線内のみの運用となる有料特急用の2代目AE形は京成初のボルスタレス台車装備車となった。台車の色は3700形以前の車両でサックスブルーで塗装されていたが、2003年2月デビューの新3000形以降はグレー塗装とし、3700形以前の在籍車両も2003年7月 - 2007年4月の全般検査・重要部検査時にグレーの塗装に変更した。
車体塗装は自社線専用の「青電」、地下鉄直通用の「赤電」に分かれていたが、1980年の一般車の塗装簡略化の際に車両を問わず新赤電塗装に塗り替えられた。その後、1992年から再度塗装変更が始まり、AE形の新塗装に採用されたフューチャーブルーとヒューマンレッド(地色は鋼製車は白・ステンレス車は無塗装)に統一された。成田スカイアクセスで運用される2代目AE形は独自の塗装を使用しているほか、一般車(3050形・新3100形)については、スカイアクセスのラインカラーであるオレンジを基調とした塗装が採用されている。
車両番号は前面、側面のみでなく妻面にも表記されている。妻面への番号表記は阪神電気鉄道とともに数少ない事例である。編成番号は京急と同様、3000形・3100形・AE形を除き、浦賀・上野方先頭車の車号で呼称する。弱冷房車は8両編成の浦賀方3両目に設定されている[広報 17](京急車のみ7両目にも設定[65]。また新京成所属車の6両編成にも浦賀・松戸方の3両目に設定)。なお、3700形以降は、3600形以前で使われていた「モハ」「クハ」「サハ」の使用を取り止め、関西私鉄や営団と後身の東京メトロ、および西武の30000系以降と同じく、番号のみで区別するようになっている。
2018年時点で、新京成電鉄を除いて他社へ譲渡された車両はほとんどなく[注釈 19]、民間に売却されて保存されている車両も海外に譲渡された車両もない。一方、冷房化対策として相互直通先である京急からリース形式で車両を借り受けた経験があるほか、自社の一部車両はグループ会社にリース形式で転出が行われている。
関東地方の大手私鉄で唯一、4扉車の使用と10両編成の列車の運行をしたことが無い。
初代3000形などでは、車体側面に「Keisei」のステンレス切り抜き文字が貼り付けられていた。同じロゴは新本社ビルや京成カード(MUFG)でも見られる。
2022年に『中期経営計画D1プラン』の中で新型車両3200形(2代目)の導入、スカイライナー車両の増備が掲げられた[66]。
1931年新造の200形から1946年新造の220形までは扉配置が左右対称ではなく点対称という特徴のあるデザインであった。扉を左右非対称に配置することで混雑の均等化を狙ったといわれている。また、1970年代後半頃までは新京成電鉄に移った車両が多かった。
なお、旧型車は形式が多種多岐にわたるが車体サイズや性能から便宜的に以下のように分類される。
(※:多段式制御装置を持つ形式)
このほかにもある。
車両は2016年11月時点で、日本車輌製造(日本車両/日車)・東急車輛製造・東急車輛の後身の総合車両製作所(J-TREC)の3社で製造されている。
日本車両との関係は戦前から続いている。1972年以前は前身の蕨工場でも製造が行われていた。日車製の車両は日車豊川製作所からJR線上を仮台車を装着した上で甲種輸送され、J-TREC本社・横浜事業所に搬入され標準軌の台車に取り換え、京急本線金沢八景駅から都営浅草線経由で回送というのが慣例だったが、3100形(2代)では日本貨物鉄道(JR貨物)の武蔵野線越谷貨物ターミナル駅から印旛車両基地までの陸送が一部編成で行われた。ただしAE形(2代)の日車製は京葉臨海鉄道臨海本線千葉貨物駅ないしは越谷貨物ターミナル駅から陸送で搬入され、東急車輛・J-TREC製はメーカーから直接陸送された。
J-TRECとの関係は、旧東急車輛が1968年(昭和43年)に合併した帝國車輛工業に端を発する。帝国車輛が梅鉢車輛と呼ばれていた戦前は、京成が梅鉢車輛の親会社だった時代もあり、戦後資本関係を解消した後も取引を続けてきた(「帝國車輛工業#鉄道車両」・「東急車輛製造#概要」を参照)。
1960年代以前は東京都江東区に工場があった汽車製造でも製造されていたが、川崎重工業(旧・川崎車輛)との合併に伴い発注残を川崎重工業(車両カンパニー。現・川崎車両)に引き継ぎ、1979年(昭和54年)納車の3500形3576編成を最後に取引を打ち切った(「京成3500形電車#編成ごとの差異」・「川崎車両#製造工場」を参照)。
なお3400形の一部には、旧津田沼工場や宗吾工場で車両の改造・更新を請け負っていた大栄車輌の製造名義が今でも見られる。
また、電装関連では一貫して東洋電機製造製の制御機器を採用している[注釈 20](一般車のモーターは三菱電機と混用、3500型以降の社内型番は“KMM-”で統一)。
京成電鉄の鉄道運賃は以下の三つに区分されて定められている。
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規則上の「京成電鉄線」 |
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旅客営業規則には「京成電鉄線適用」と「成田空港線適用」の二つが存在し、前者は本線(規則上の名称は京成本線)など成田空港線以外の鉄道線に適用される。千原線は他路線との営業キロ程通算を行わない。
大人普通旅客運賃(小児半額・端数はICカード利用時は1円単位で切り捨て、切符購入時は10円単位で切り上げ)。2024年3月16日改定[広報 20]。運賃には鉄道駅バリアフリー料金制度による加算料金(10円)を含む。
キロ程 | 運賃(円) | キロ程 | 運賃(円) | ||
---|---|---|---|---|---|
ICカード | 切符購入 | ICカード | 切符購入 | ||
初乗り3 km | 146 | 150 | 36 – 40 km | 555 | 560 |
4 – 5 km | 167 | 170 | 41 – 45 km | 618 | 620 |
6 – 10 km | 199 | 200 | 46 – 50 km | 681 | 690 |
11 – 15 km | 272 | 280 | 51 – 55 km | 743 | 750 |
16 – 20 km | 335 | 340 | 56 – 60 km | 796 | 800 |
21 – 25 km | 387 | 390 | 61 – 65 km | 859 | 860 |
26 – 30 km | 450 | 450 | 66 – 70 km | 912 | 920 |
31 – 35 km | 502 | 510 |
大人普通旅客運賃(千原線)(単位:円)。2024年3月16日改定[広報 20]。
千葉中央駅 | 199 | 261 | 324 | 335 | 377 |
---|---|---|---|---|---|
200 | 千葉寺駅 | 199 | 261 | 303 | 335 |
270 | 200 | 大森台駅 | 261 | 261 | 303 |
330 | 270 | 270 | 学園前駅 | 199 | 261 |
340 | 310 | 270 | 200 | おゆみ野駅 | 199 |
380 | 340 | 310 | 270 | 200 | ちはら台駅 |
千原線の運賃は別途定められている。千原線と他線の駅との間の運賃は、千原線の運賃額と他線の千葉中央駅までの運賃の合計から10円(鉄道駅バリアフリー料金の二重加算分)を引いた額となる[注釈 21]。ただし、谷津駅 - 京成千葉駅の各駅(千葉中央駅から15 km以内270円(前述の理由によりバリアフリー料金を含まない)までの駅)と千原線の駅との間には、これに以下の額の割引がある。
大人普通旅客運賃(成田空港線。小児半額・端数はICカード利用時は1円単位で切り捨て、切符購入時は10円単位で切り上げ)。2022年10月1日改定[広報 22]。成田空港線の運賃には鉄道駅バリアフリー料金は加算されない[広報 20]。括弧内は京成高砂 - 印旛日本医大の各駅間相互発着時[広報 23][広報 24]。
キロ程 | 運賃(円) | キロ程 | 運賃(円) | ||
---|---|---|---|---|---|
ICカード | 切符購入 | ICカード | 切符購入 | ||
初乗り3 km | 210 (188) | 210 (190) | 24 – 26 km | 796 (720) | 800 (720) |
4 – 5 km | 314 (279) | 320 (280) | 27 – 29 km | 828 (768) | 830 (770) |
6 – 7 km | 388 (330) | 390 (330) | 30 – 33 km | 859 (811) | 860 (820) |
8 – 9 km | 462 (379) | 470 (380) | 34 – 37 km | 891 | 900 |
10 – 11 km | 524 (427) | 530 (430) | 38 – 41 km | 922 | 930 |
12 – 14 km | 597 (475) | 600 (480) | 42 – 45 km | 953 | 960 |
15 – 17 km | 660 (547) | 660 (550) | 46 – 49 km | 974 | 980 |
18 – 20 km | 712 (617) | 720 (620) | 50 – 52 km | 995 | 1000 |
21 – 23 km | 765 (667) | 770 (670) |
成田空港線(成田スカイアクセス線)にも別途運賃が定められており[広報 25]、成田空港線と他線の駅との間の運賃は乗車経路に応じて成田空港線の運賃額と他線の運賃を合算して算出する。京成高砂駅経由の場合は同駅で区切って、成田湯川駅以西各駅 - 空港第2ビル駅 - 京成成田駅以西各駅・東成田駅間の運賃については、京成本線と成田空港線との接続点 - 空港第2ビル駅間のキロ数(片道0.5 km)を含めず、接続点で区切って算出する[広報 26]。
京成高砂駅 - 空港第2ビル駅間では、経由路線と運賃が2種類(成田スカイアクセス経由と、京成本線経由)存在することになる。そのため、空港第2ビル駅と成田空港駅のホームを京成本線専用ホームと成田スカイアクセス専用ホームに分け、両駅の京成本線コンコースに中間改札を設置してルートの特定と運賃の算定を行っている。
空港第2ビル駅 - 成田空港駅間相互発着の運賃は160円(IC157円)となっている。
成田空港線において、京成は京成高砂駅 - 印旛日本医大駅の各駅相互間の乗車券を発売しない。詳細は「京成成田空港線」を参照。
京成電鉄の特徴として、入場券の価格が駅によって異なることがある(小児半額・端数は10円単位で切り上げ)[71]。2024年3月16日改定。
宗吾参道駅の近くに京成研修所があり、乗務員の養成などの研修を行っている。自社の電車運転士の教習を行うほか、有料で他社の電車運転士の養成も受託しており、新京成電鉄や北総鉄道など京成グループの運転士も養成している。従って京成グループの運転士は一度他社(京成)の施設および電車と線路を使って教習を受けるということになる。自社で研修所を持たない鉄道会社も多いため、他社で教習を受けることは珍しくない。車掌や駅員も同様に現地で研修を実施している。
所内には3000形(2代)と3700形のシミュレータが存在する。
なお、以前は東葉高速鉄道の運転士養成も受託していたが、同社が委託先を変更したため、現在は受託していない。
また、ここ最近では舞浜リゾートラインのほかに島根県の一畑電車からも委託を受けて乗務員養成(車掌および運転士)を行っている(2016年7月時点で委託生は3人目)。
順位 | 駅名 | 路線名 | 人数 (人) | 前年比 (%) | 前年 順位 | 前年人数 (人) | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 押上駅 | ■押上線 | 209,421 | 10.9 | 1 | 188,833 | 東京都墨田区 | 都営浅草線の連絡人員は181,818人 |
2 | 京成高砂駅 | ■本線■金町線■成田スカイアクセス線 | 97,368 | 8.0 | 2 | 90,137 | 東京都葛飾区 | 北総線の連絡人員は62,227人 |
3 | 日暮里駅 | ■本線 | 94,963 | 13.3 | 3 | 83,830 | 東京都荒川区 | 上位2駅は連絡人員を含むため事実上は京成最多 |
4 | 京成船橋駅 | ■本線 | 88,095 | 6.4 | 4 | 82,828 | 千葉県船橋市 | |
5 | 京成津田沼駅 | ■本線■千葉線 | 57,251 | 4.3 | 5 | 54,899 | 千葉県習志野市 | 新京成線の連絡人員は33,142人 |
6 | 勝田台駅 | ■本線 | 47,512 | 4.2 | 6 | 45,600 | 千葉県八千代市 | |
7 | 青砥駅 | ■本線■押上線 | 46,937 | 6.9 | 7 | 43,907 | 東京都葛飾区 | 他社線との接続がない駅としては京成最多 |
8 | 京成上野駅 | ■本線 | 45,083 | 16.9 | 9 | 38,573 | 東京都台東区 | |
9 | 八千代台駅 | ■本線 | 42,892 | 4.4 | 8 | 41,077 | 千葉県八千代市 | 単独駅としては京成最多 |
10 | 京成成田駅 | ■本線■東成田線 | 34,539 | 10.9 | 13 | 31,140 | 千葉県成田市 | |
11 | 京成大久保駅 | ■本線 | 34,389 | 5.2 | 10 | 32,694 | 千葉県習志野市 | |
12 | 京成八幡駅 | ■本線 | 33,920 | 5.8 | 11 | 32,061 | 千葉県市川市 | |
13 | 京成立石駅 | ■押上線 | 33,675 | 5.0 | 12 | 32,060 | 東京都葛飾区 | |
14 | お花茶屋駅 | ■本線 | 31,424 | 6.8 | 14 | 29,420 | 東京都葛飾区 | |
15 | 京成千葉駅 | ■千葉線 | 30,276 | 8.2 | 15 | 27,978 | 千葉市中央区 | |
16 | 空港第2ビル駅 | ■本線■成田スカイアクセス線 | 29,106 | 57.3 | 20 | 18,503 | 千葉県成田市 | |
17 | 成田空港駅 | ■本線■成田スカイアクセス線 | 28,580 | 60.8 | 25 | 17,769 | 千葉県成田市 | |
18 | 実籾駅 | ■本線 | 23,144 | 4.4 | 17 | 22,158 | 千葉県習志野市 | |
19 | 京成関屋駅 | ■本線 | 23,003 | 2.3 | 16 | 22,495 | 東京都足立区 | |
20 | 京成金町駅 | ■金町線 | 22,905 | 4.0 | 18 | 22,029 | 東京都葛飾区 |
名称 | 上部組織 |
---|---|
京成電鉄労働組合 | 日本私鉄労働組合総連合会 |
主に千葉県を中心に、バスやタクシーなどの交通や観光関係の事業を展開しているグループ会社が多い。2003年10月1日にはバス事業が分社化されて京成バスとして発足した。このほか、流通業を営むコミュニティー京成ではスーパー銭湯「笑がおの湯」を千葉県内で1店舗展開している。
京成電鉄が筆頭株主であるオリエンタルランド(OLC)の株式時価総額が京成電鉄のそれを上回っているため、京成電鉄を買収することでオリエンタルランドの経営権を手にすることができることから、敵対的買収のリスクを抱えることを回避するため、買収防衛策を取り入れた。
なお、2005年7月になって東証2部上場の投資会社(バイアウト・ファンド)「プリヴェチューリッヒ企業再生グループ」(現・プリヴェ企業再生グループ)が筆頭株主となった。
2006年3月10日、OLCと京成電鉄は業務提携及び資本提携の強化を発表。また同関係を強固なものにするため、OLCは6日までに京成電鉄の普通株式を約1千万株(発行済み普通株式の約3.4%)取得したと発表した。これは、株式を持ち合うことにより上記のプリヴェなどによる企業から京成を経由してのOLCへの経営支配力を弱めることが目的とされている。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
京成電鉄は日本の鉄道事業者で初めて映画やテレビ番組・CMのロケーション撮影を鉄道施設内で行うことを認めた会社である。その後、京王電鉄や関連会社の北総鉄道でも実施され、同社の方が登場機会が多くなった。
経営危機に陥った1970年代後半に、運輸省(現・国土交通省)出身の佐藤光夫が社長に、日本興業銀行出身の村田倉夫が副社長にそれぞれ外部招聘で就任。それ以来ごく最近まで運輸省のOBや銀行出身者が経営に参画し、事実上の国家管理・銀行管理となっていた(厳密には国家管理・銀行管理ではない)。これは、不動産投資の失敗や石油ショック後の不況、成田空港関連の先行投資負担(及び開港の遅れによる損失)が重なって破綻寸前に追い込まれたためである。上野の京成百貨店が撤退したことや谷津遊園を閉園したのもこの影響である。佐藤・村田のリーダーシップの下で京成はなりふり構わぬ徹底した経営再建を推し進め、その努力は1989年度の累積赤字一掃・復配により結実した。
京成電鉄では広報小冊子『京成らいん』を毎月発行しており、京成電鉄各路線全駅の専用スタンドや都営地下鉄及び京急線の主要駅、2019年度からは同じ空港アクセス輸送を担う南海の駅に置かれている。1951年に『京成文化』という題名で創刊、その後1969年1月号に『京成ライン』に改称、2002年4月号から「京成らいん」と改題。当初は有料で販売していた[77] が、現在は無料配布している。2008年2・3月号で通巻第600号を数えている。沿線案内や京成グループ各社のPRだけではなく、京成沿線にゆかりのある有名人・文化人などのインタビューコーナーもある。また、2015年12・2016年1月号では近鉄との間で初詣スポットの相互PR記事が掲載された(京成側は近鉄の広報誌『近鉄ニュース』2016年1月号で成田山新勝寺を紹介した)。なお、京成電鉄ホームページからも最新号およびバックナンバー(ただし過去7号まで)をFLASH形式で閲覧することができる。
中央競馬では、三大都市圏の5場において観客輸送を担う鉄道事業者が特別競走に賞を出しているが、京成も中山競馬場の観客輸送をJR東日本とともに担っているため、京成杯と京成杯オータムハンデキャップ(共にGIII競走)に社杯を提供している。中山競馬場の最寄り駅は東中山駅である。特に皐月賞・有馬記念といったGI競走の時は特急が臨時停車することもある。
一方、地方競馬の船橋競馬場では1997年に南関東重賞(G3)「京成盃グランドマイラーズ」を創設、社杯提供を受け冠名が取られた。2006年のみ「京成盃スカイライナースプリント」という競走名で施行されたが、翌2007年より競走名を「京成盃グランドマイラーズ」に戻され、現在は南関東SII競走として施行されている。船橋競馬場の最寄り駅は船橋競馬場駅である。船橋競馬においても休日開催などで多客となった時には特急が臨時停車することもある。
2019年3月26日より、スマートフォン向けアプリ「京成アプリ」の配信を開始した[78][注釈 25]。同時に首都圏の鉄道会社の公式スマートフォンアプリの列車走行位置・時刻表機能の連携に参加している[79]。さらに、同年5月20日13時からは新京成電鉄が運用している「新京成アプリ」との列車走行位置機能の連携を開始した[80]。
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