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日本の島 ウィキペディアから
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで[注 1]、その南西部に位置する。
北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり[7]、この中では3番目に大きい島で[注 2][注 3]、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。[注 4]
地質学や考古学、交通などの分野では九州島という名称も使用される[8][9][10]。
九州島、または九州島とその付随する島、および琉球諸島を含めて九州地方(きゅうしゅうちほう)と呼ばれる。最大都市は福岡県福岡市である。
九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照)
九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は約1,257万人(2023年)、沖縄県を含めた8県総人口は約1,404万人(2023年)である。都道府県の人口一覧#推計人口(最新)(右表 九州地方のデータ参照)
九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。
九州を大きく二つに分けると、北部九州と南九州に分ける場合と、東九州(日豊)と西九州(筑肥)に分ける場合がある。北部九州と南九州の中間となる地域を中九州ということもある。ただし、これらの地域区分は使用される側によって大きく変化する(詳細は北部九州・南九州を参照)。
中央に九州山地が形成されている。その中核をなす阿蘇山は東西18キロメートル (km) 、南北25 kmにも及ぶ世界最大級のカルデラを持つ。九州の地形は大きく3つに分けることができ、北部と中部の境界は松山-伊万里構造線で、中部と南部の境界は中央構造線の一部である臼杵-八代構造線で分けることができる。北部は比較的なだらかな山地、南部は白亜紀から第三紀にかけて生成された付加体であるため北部とは全く異なった地質であり、比較的険阻な山地になっている。また、中部は数十万年前まで瀬戸内海の延長の海で分かれており、それが阿蘇山の数回にわたる噴火によって溶岩で埋まり、一つの島になった。 尚、以下の項目では九州本島ではなく、九州地方に属するものを挙げる。
九州地方は、日本の地域の中では小笠原諸島に次いで温暖な地域である。鹿児島県の奄美地方以南の地域と、種子島・屋久島地方以北の地域では平均気温が大きく違う。
九州島や種子島・屋久島以北の島嶼部は、夏は暑く降水量が多い。冬は寒さを感じるほどに気温が下がり、雪が降る。域内の南北で大きな気温の差は1~2℃ほどしかない。
九州山地周辺(熊本県阿蘇地方・大分県の西部・宮崎県の北部山間部)では積雪は珍しくなく、年に数日は真冬日となるため希に根雪になることもある。しかし暖かい日もあるため中国地方以東とは異なり豪雪地帯は存在せず、積雪は比較的少ない方である。また大分県の西部は内陸性気候で昼と夜の気温差が大きく、寒暖の年較差も大きい。特に大分県の日田市では夏は猛暑の日が多く、冬は厳寒の日が多い。
南部の太平洋沿岸に当たる大分県の南部・宮崎県・鹿児島県の大隅地方、種子島・屋久島地方は太平洋側気候の南海型で、夏に降水量が多いが、冬は温暖で降雪することもほとんどなく、晴天の日が多い。夏から秋にかけては台風の影響を受けることが多いため「台風銀座」と呼ばれていて、鹿児島県は1951年(昭和26年)以降の台風上陸数が日本一である。その中でも日本列島に大きな被害をもたらした台風として「枕崎台風」「ルース台風」「洞爺丸台風」「台風13号(1993年)」「台風16号(2004年)」などがある。
福岡県の北九州地方の瀬戸内側と大分県の北部・中部は瀬戸内海式気候の特徴を持ち、降水量が多い梅雨時を除けば九州の中では降水量が少ない地域(大分市の年間降水量:約1,680 mm)であるが、それでも関東以北の東日本太平洋側と比べると多い。特に、北九州地方では九州型の影響との遷移地域で梅雨時の降水量が非常に多い。なお、冬季は曇天が多く降雪することも珍しくない。大分県中部では太平洋側気候の南海型ほど影響がないものの、梅雨時の降水量と秋雨や台風の接近による降水量もやや多いなど山口県の東部以東の瀬戸内海式気候の地域と比べると、夏季の降水量が少ないという特徴は薄くなっている。冬季の大分県北部、中部では、雲が九州山地に遮られるために晴天の日が多い。積雪はどの地域でも少ないが、九州山地にあたる地域ではやや多くなる。
福岡県の北九州地方の大部分を除く地域・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県の西部・鹿児島県の薩摩地方は太平洋側気候(九州型)で、夏は降水量がかなり多く、特に華南、南西諸島からの熱帯モンスーン気団による湿舌などの影響を直接受けやすい初夏から梅雨時に降水量が非常に多くなり、しばしば大きな被害をもたらす。なお、秋雨時の降水量は少ない。冬は降水量が比較的多いが、1 mm以上の降水が観測される降水日数の最多月は日本海側気候のように冬季(1・2・12月のいずれか)ではなく、他太平洋側気候各地と同様に春季 - 秋季(3 - 11月のいずれか)で、年間降水量が少なく、冬は北西からの季節風の影響を受けるため曇天が多いなど島根県の石見地方や山口県の北部と似た気候が現れる。一方で、朝鮮半島のある関係で降雪日数は福岡市で約17日と東京・大阪よりは多いが、積雪は少なく首都圏・京阪神などと同じように5 cm程度の積雪でも大雪とみなされるために交通機関が麻痺してしまう。台風の影響は東シナ海側から朝鮮半島、日本海側を進んだ場合に降水量が多くなる傾向がある。
奄美地方以南の地域は南日本気候(南西諸島気候)で、大東諸島を除きどの島でも年間降水量は2,000 mm以上と多く、一年中降雨がある。台風の接近が多く、時々強い台風が襲来して被害をもたらす。年間の気温の差が小さく1年を通して気温が高い。また昼と夜の気温差も小さい。降雪の記録は過去に数回しかない。盛夏時は晴天の日が多く日照時間も非常に多いが、にわか雨が多い。なお、冬季は北西からの季節風で曇天と雨天が多く日照時間も少ない。梅雨時の降水量は九州本島程ではないがかなり多い。
日本は14,125の島で構成される島国であるが[注 1]、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び「八つの島」の総称としている(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )。
その『古事記』での九州の呼称表記は「筑紫島(つくしのしま)」である[11]。
『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記しており、その中に筑紫国、火国、豊国、日向国、熊襲国が現われる。
16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物においては、明確に「九州」という名称を見出すことができる。しかしこの名称がいつ生まれたか正確な時代は不明である。鎌倉時代後期に作成された吾妻鏡の元暦2年(1185年)2月13日と2月14日の記事では、源範頼が「九州」を攻めようとしていることが記載されている。もともと中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、九州とは9つの国という意味ではなく、天下のことを指す(参考:九州 (中国))が、平安時代後期に朝廷が発した保元新制で使われている「九州」の意味も、こちらである。また新羅の九州の実例もある[12]。
一般に「九州」とは、令制国の西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9国の総称とされている[13]。四国と同じ理屈で、九国(きゅうこく、くこく)とも呼ばれたといわれる。
この令制国に基づく定義では、九州島の九国と、この九国に編入された周辺の附属島嶼が「九州」の範囲となる。ただし周辺の島嶼が九国の令制国に編入された時期はそれぞれ異なるため、歴史を通し一義的な範囲には定まらない。
このように編入時期が異なる事による意識および解釈の差が存しうるが、少なくとも一度も編入された事がない壱岐、対馬、および沖縄県の領域は、令制国上の「九州」には含まれないことになる(なお、奄美群島は日本本土における廃藩置県・府県合併および琉球処分の後に大隅国《鹿児島県》に編入されたため、行政区分としての「九州」に組み込まれたのはそれ以降である)。さらに後述の太平洋戦争終戦後のアメリカ統治時期も令制国の範囲に変更はないので、この定義に変化はない事になる。
上記九国とともに対馬、壱岐を含む西海道は、九国二島、九州二島とも呼ばれた。また、西海道の別名として鎮西とも呼ばれていた。
廃藩置県・府県合併以降[注 5] は、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の8県を指して「九州地方」とされ[14]、これにより令制国上の「九州」には含まれなかった対馬・壱岐・奄美群島・沖縄県の領域をも含む事となった。
一方、単に「九州」とする場合はそのうち沖縄県を除いた7県がその対象とされる[15]。よって、令制国上の「九州」と比較すると対馬・壱岐・奄美群島が加わる事となった。
トカラ列島の一部、奄美群島および沖縄県の領域は太平洋戦争終戦後、アメリカに占領され日本に返還されるまでの間に一時的に日本の施政権が停止されるが、実質的取扱(実効支配)はともかく、「九州」の範囲に影響を与えたことはない。(なお、トカラ列島は上三島が日本に残留し、下七島が施政権停止されたため、両者間で地方公共団体が分離される事となった。)
以上のように単に「九州」と言うと西海道九国の領域、あるいは廃藩置県・府県合併以降の7県(福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県)の領域を指す。いっぽう「九州地方」に沖縄県を含める百科事典が多いが[13][16][注 6]、実際には沖縄県を含めた8県の場合は「九州・沖縄地方」との呼び方が使われている。
歴史上も、「九州地方」などと言う地方区分の概念が導入されたのは廃藩置県後の明治時代以降であると考えられる(それ以前は令制国による区分であった)。なお、近現代の法令上、行政上の区分は、個別の法制度に基づくため、必ずしもこれらとは一致しない。例として九州総合通信局の管轄範囲に沖縄県は含まれない。行政機関の地方支分部局や企業の営業地域などでは沖縄県を九州地方に含む場合も多く、あるいは沖縄を含むことを明示するために「九州・沖縄地方」と表現する場合が一般的である。
例として『NHK年鑑』では見出しを「九州」とする一方で、本文中では「九州・沖縄」と表現している。テレビ番組としては九州朝日放送制作のブロックネット番組「スーパーJチャンネル九州・沖縄」などがある。
また、本州に位置する山口県は、令制国は山陽道の周防国、長門国に属し中国地方に区分されるが、北九州地方(かつての豊前国)に地理的にも近く歴史的な縁の深いこともあり、山口県を便宜上の同一区分に含めることもある。その場合は明示して「九州・山口地方」と表現する[注 7]。
北部九州では、長崎県の入口遺跡や福岡県の、辻田遺跡の中期旧石器時代石器群等が挙げられる。日本の東北地方の中期旧石器時代の石器と形態的に同じであり、現時点では西日本で最も古い石器の一群である。
南九州の現鹿児島県からは、上場遺跡が発掘されている。 これは日本初の旧石器時代の住居跡の発見例であり、ナイフ形石器文化→細石器文化への移りかわりや、爪形文土器と細石器の関係が層位的に確認された3万年前から1万年の間に5時期の生活の跡が確認された遺跡である。
九州の縄文文化は、草創期から早期にかけては他の地域に先がけて目覚ましい発達がみられる。 佐賀県の「最古の湿地性貝塚」である東名遺跡や長崎県佐世保市の泉福寺洞窟からは世界最古級の豆粒文土器が出土している他、鹿児島県では9500年前の「日本最古の村」とされる上野原遺跡や栫ノ原遺跡等、日本最古級最大級の遺跡が発掘されている。
2021年5月に宮崎県都城市山之口町の「相原第1遺跡」で縄文時代早期(約11000年前)の集落跡が見つかった。この集落跡より古い地層からも石器や土坑が発見された事から旧石器時代までさかのぼる可能性が高いとしている[17]。
約7300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文文化は壊滅的な被害を受けたと予想され、前期から中期にかけて衰退しているが、後期から晩期にかけて再興している。
北部九州では全国でも稀である多数の装飾品を纏って埋葬された女性人骨など20体以上が発掘された山鹿貝塚や、牡蠣殻の仮面などが発掘された阿高黒橋貝塚などがあり、九州独特の文化を形成していた。
古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表、#歴史書における呼称)。
3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった[注 8]。 続日本紀によるとヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古天皇17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、弘仁15年/天長元年(824年)以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。
中世には、博多が自治都市として栄える。摂津国の渡辺氏の分流の松浦氏の一族や、藤原純友の乱において勲功のあった大蔵春実、橘公頼などの子孫が土着し、在地の豪族となる。
平家の勢力圏であり、九州の武家は平家方に属したが、治承・寿永の乱(源平合戦)の趨勢から菊池氏や松浦氏をはじめ諸氏は源氏方に寝返り、鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭に補任される。
しかし、九州の武家は親平家方であったため、源頼朝は「戦後処理」として、九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の少弐氏や島津氏、大友氏を守護として九州に送り、これらの「下り衆」が勢力を強め、菊池氏や松浦氏、秋月氏などの在地の武家を抑え、その後の九州の武家の中枢となる。
鎌倉時代には2度に渡る元寇があり、少弐氏など北九州の武士を中心に撃退した後に、それまでの異国警固番役に代わり鎮西探題が設置される。
元弘元年(1331年)に京都において後醍醐天皇が元弘の変で蜂起すると、少弐氏や大友氏などが鎮西探題の北条英時を攻撃する。鎌倉幕府が滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が成立し、後に足利尊氏は新政から離反し、尊氏は京都での戦いに敗れて九州へ逃れる。少弐氏らは尊氏を迎え、宮方の菊池武敏らを多々良浜の戦いで破る。尊氏は九州で体勢を整えた後に一色範氏・仁木義長らを足利勢力として残し、京都に上り、室町幕府を開く。
後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れて南朝を開き、宮方の武将に自身の皇子を奉じさせて各地で南朝勢力の集結を呼びかけ、九州には懐良親王が宇都宮貞泰に守られて派遣され、菊池氏に奉じられる。懐良親王は明から倭寇鎮圧の要請のために派遣された使者を迎え、「日本国王」として冊封されて明の権威を背景に勢力を広める。また、足利家では観応の擾乱と呼ばれる内紛が発生し、尊氏の側室の子である足利直冬が九州で尊氏と敵対して戦う。
中央では南朝勢力は衰微し、幼い3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が今川貞世を九州の南朝勢力討伐のために派遣すると懐良親王も博多、大宰府を追われ、貞世の働きで九州の南朝勢力は鎮圧される。貞世は九州で独自の勢力を築いたため義満に排除され、その後は大内氏が台頭する。寧波の乱で細川氏を破った大内氏と博多の商人により大陸との貿易を独占する。
応仁の乱以後は少弐氏は衰退し、戦国時代には大友氏、大内氏、島津氏などが戦国大名に成長する。天文12年(1543年)、種子島にポルトガル人により日本に初めて鉄砲が伝わる。南蛮貿易の中心地となり、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠などのキリシタン大名も生まれる。
主要な戦国大名
近世には豊臣秀吉の九州征伐を経て豊臣政権下に組み込まれ、北九州は秀吉による朝鮮出兵である文禄・慶長の役の拠点であった。
江戸時代には幕藩体制の確立に伴い薩摩藩、佐賀藩、福岡藩、熊本藩、対馬藩をはじめとする諸藩が成立する。江戸時代の鎖国体制下では平戸・出島などが対外交易の入り口となり、長崎奉行所がおかれた。
江戸前期には島原の乱が発生する。
幕末には薩摩藩などが明治維新を主導する雄藩となった。
「九国」、九州および「九州地方」の地名に関連した年表。
第一次産業では、農業、漁業、林業 がバランスよく九州各県に広く分布しており、出荷額も多い。温暖な気候を利用して筑紫平野では米、オオムギ、小麦の二毛作が展開される。宮崎平野ではビニールハウスを利用した野菜の促成栽培が行われている。加えて熱帯・亜熱帯地域が原産のサツマイモ、マンゴー、ザボン(ブンタン)、バナナなどの生産も行われている。鹿児島県や宮崎県南西部には稲作には不向きなシラス台地が広がり、畜産が盛んである。
第二次産業では、北九州工業地帯を中心に、歴史的に鉄鋼、石炭などの素材産業やエネルギー産業が盛んであった。また、三菱重工業や佐世保重工業(長崎県)などの造船業に代表される重工業も盛んであるほか、久留米市ではブリヂストンといったゴム工業、大牟田市は三池炭鉱の石炭を中心とした化学工業、延岡市では旭化成が石油化学を中心とした化学工業が発展してきた。また、1980年代には、IT産業の進出により、半導体分野での世界シェアは1割を占めるまでになり、「シリコンアイランド」と呼ばれた。さらに1990年代からは、トヨタ自動車・日産自動車・ダイハツ工業・ホンダなど自動車メーカーの工場の立地が進み、濃尾地方に次ぐ国内の自動車製造拠点となり、先に「シリコンアイランド」と呼ばれていた経緯から「カーアイランド」と呼ばれる事もあった(一時期の台数ベース世界シェアは1.9%)。
唐津焼・有田焼・伊万里焼などに代表される陶磁器生産が17世紀から伝わっていることから窯業も盛んである。北九州市に本社を置くTOTOはトイレ等衛生機器のトップ企業である。
九州の産業生産額に占める第三次産業の割合が高く、九州全域を市場として発展している。
九州での卸売業は福岡県が中心となっており、九州全体の卸売業年間販売額の62.5 %は福岡県内である[21]。小売業では全般的に零細店舗や百貨店が低迷する一方、大型店の増加がみられる[22]。また、九州ではドラッグストアの売上高、店舗数の増加が日本全国的にみても大きい特徴がある[23]。
金融の分野では、都市銀行の店舗は少なく、各県に地方銀行の本店があり、地域に根ざした営業網を展開している。また、不良債権を抱え、経営困難に陥った地方銀行の救済を目的に、資金力のある地銀による吸収合併が進んでおり、九州管内での業界再編が行われている。ふくおかフィナンシャルグループは親和銀行[注 10] や熊本ファミリー銀行[注 11] を傘下に入れ、西日本シティ銀行は長崎銀行を傘下に入れた。また山口県に地盤がある山口フィナンシャルグループ傘下の山口銀行が北九州地方に攻勢をかけており、2011年(平成23年)10月には北九州銀行が山口銀行の北九州地区部門から分割・設立するなど北九州地方の動きが活発である。
※順位・人口・割合のデータは2024年11月1日現在。
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
総計 [単位 千人]
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
男女別 [単位 千人]
沖縄県含む九州8県の主要都市を掲載する。データは2024年11月1日現在。
九州地方の主要都市 | |||||||||
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# | 都市名 | 県名 | 人口 | # | 都市名 | 県名 | 人口 | ||
1 | 福岡市 | 福岡県 | 1,658,786人 | 11 | 佐賀市 | 佐賀県 | 228,229人 | ||
2 | 北九州市 | 福岡県 | 907,858人 | 12 | 都城市 | 宮崎県 | 159,545人 | ||
3 | 熊本市 | 熊本県 | 737,598人 | 13 | 沖縄市 | 沖縄県 | 141,527人 | ||
4 | 鹿児島市 | 鹿児島県 | 583,091人 | 14 | 諫早市 | 長崎県 | 131,206人 | ||
5 | 大分市 | 大分県 | 470,817人 | 15 | うるま市 | 沖縄県 | 127,087人 | ||
6 | 宮崎市 | 宮崎県 | 394,279人 | 16 | 飯塚市 | 福岡県 | 122,935人 | ||
7 | 長崎市 | 長崎県 | 388,165人 | 17 | 霧島市 | 鹿児島県 | 121,355人 | ||
8 | 那覇市 | 沖縄県 | 310,541人 | 18 | 八代市 | 熊本県 | 117,751人 | ||
9 | 久留米市 | 福岡県 | 299,026人 | 19 | 延岡市 | 宮崎県 | 111,292人 | ||
10 | 佐世保市 | 長崎県 | 230,244人 | 20 | 唐津市 | 佐賀県 | 111,445人 |
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専用鉄道#九州地方も参照
定期路線が就航する空港は、九州本島内で福岡県には福岡空港と北九州空港の2か所あり、その他の各県にも1か所は存在するなど比較的早期から整備が進められており、東京や大阪を中心とした本州への便は山陽新幹線と激しく競合している。また、鉄道では行きにくい四国や北海道と九州を結ぶ空路や、沖縄本島と九州島内各地への空路、九州島内相互間の空路もある。離島にも空港が整備され、九州本島と離島を結ぶ空路も多く利用されている。
地理的に大韓民国や中華人民共和国など東アジア、東南アジアの周辺国が東京や大阪よりも近いこともあり、九州本島ではすべての県に韓国への便があり、最大規模の福岡空港では周辺国や東南アジア・ハワイ・ヨーロッパ方面への便もある。
九州出身の著名人は以下のリストを参照。
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