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戦国時代から江戸時代初期の大名。肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名。従五位下修理大夫。 ウィキペディアから
有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男[9]。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 永禄10年(1567年)[1] |
死没 | 慶長17年5月7日(1612年6月5日) |
改名 | 鎮純、鎮貴、久賢、晴[注釈 1] |
別名 | 十郎(通称)、鎮景、鎮真[注釈 1]、左衛門大夫 |
霊名 | ドン・プロタジオ[3][注釈 2] |
官位 | 従五位下修理大夫[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠 |
藩 | 肥前日野江藩主 |
氏族 | 肥前有馬氏 |
父母 | 有馬義貞、安富入道徳円妹[1] |
兄弟 |
義純[5]、マセンシア、波多親、晴信、 千々石純友、カタリーナ、掃部、純実、純忠ら |
妻 |
有馬義純または大村純忠娘[6]ルチア[7]、中山親綱娘ジュスタ[8]、 山田純規娘・大上、荒木氏 |
子 | 西郷純経室、直純、純貞、酒井摂津守室、菊亭季持室、有馬純忠室、富蘭、於松、実尊ら |
大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた[注釈 1]。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったとするが、史料的に裏付けるものはない[2]。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている[3]。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴の偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名した。
元亀2年(1571年)、兄の義純が早世したため5歳のときに家督を継承した[10]。肥前守護でもあった大友宗麟(義鎮)から偏諱を賜い「鎮純」さらに「鎮貴」を名乗る。守護の大友氏に従っていたが有馬氏は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが[11]、天正12年(1584年)に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした[12]。しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。
家督を継いだ当初はキリシタンを嫌悪していたが[13]、天正8年(1580年)に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち[14]、以後は熱心なキリシタンとなった。天正10年(1582年)には大友宗麟や叔父の大村純忠とともに天正遣欧少年使節を派遣している。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおいては、教皇から贈られた「聖遺物」を胸に懸け、「大きな十字架を描いたうえに我らの文字で聖なるイエズスの名を記した」軍旗を掲げて勇戦した[15]。またこの合戦に先立って誓願を立て、長崎近傍の浦上の地をイエズス会に寄進した[16]。天正15年(1587年)に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。
文禄の役では、弟の有馬直政(のちの純忠)に日野江城の留守を命じ、2000人の兵を率いて出陣した。小西行長、宗義智以下他の諸大名とともに、第一軍として釜山へ攻め込んだ[17]。以後、慶長3年に撤兵して帰国するまでの六年間、朝鮮で過ごした[18]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、加藤清正とともに小西行長の宇土城を攻撃することとなった。そのとき、晴信は眼病のため出陣できず、かわりに直純がその名代として出陣した[19]。
慶長14年(1609年)2月、幕府の命を受けて高山国(台湾)に谷川角兵衛を派遣し、貿易の可能性を探っている(『有馬家代々墨付』)[20][21]。
慶長14年(1609年)、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めた。そこへマカオにおけるポルトガルのカピタン・モール(総司令官)であるアンドレ・ペソア (Andre Pessoa) がノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲した。ところが船長は船員を逃がして船を爆沈させた。
この事件の後、晴信は鍋島直茂の所領となっている旧領三郡を家康に願い出て回復しようとした。これを知った本多正純の家臣であった岡本大八が慶長17年2月28日、晴信に接近した。そのため晴信は、大八に白銀600枚を贈った。しかし、その後、幕府から旧領回復の沙汰がなかったため不審に感じた晴信が正純に詰問したため、幕府は晴信と大八を対決させることにした。晴信は数通の証文を提出し、これに対して大八は全く弁明ができなかった。そして事実を白状したため大八は下獄された[22]。ところが、大八は3月18日、獄中から、晴信が長崎奉行の長谷川藤広(左兵衛)を殺害しようとする計画を有していると訴えた。そのため幕府は大八を獄から出し、晴信と対決させたところ、大八は晴信の陰謀の詳細を述べた。これに対して、晴信は何ら弁明することができなかったため捕えられた。大八も獄に戻され、江戸に送られ、阿倍川原で火刑に処せられた。そして22日、晴信は甲斐国に流され[23]、5月7日に自害させられた[24]。
日本側の記録では切腹して果てたとされているが、キリスト教徒側の記録によればキリシタンであった晴信は自害を選ばず、妻たちの見守るなかで家臣に首を切り落とさせたという[25]。
諸史料によってかなり異同があり、またキリシタンがらみの事情で後世の史料から削除されたと思われる事項も多く、正確な家族関係は判明していない。以下は外山 (1997)および鶴田文史[要追加記述]に基づくものである。
父母
正室、継室
側室
子女
養女
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