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日本の東京都港区にあるレコード会社 ウィキペディアから
日本コロムビア株式会社(にっぽんコロムビア、英: NIPPON COLUMBIA CO., LTD.)は、日本のレコード会社である。戦前は日産コンツェルンの一員であり、戦後は日立製作所が筆頭株主である日立グループの一社で第一勧銀グループの社長会である三金会でも旧財閥に属さぬ「勧銀15社」で、民族(国内)資本の名門レコード会社であった。
入居するフェイス南青山 | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 |
非上場(以下は過去のデータ) |
略称 | コロムビア |
本社所在地 |
日本 〒107-0062 東京都港区南青山6丁目10-12 フェイス南青山 |
設立 | 1910年(明治43年)10月1日 |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 2010401022656 |
事業内容 | オーディオ・ビデオソフト等の制作、宣伝、販売、音楽アーティストのマネジメント |
代表者 | 阿部三代松(代表取締役社長) |
資本金 | 10億円 |
発行済株式総数 | 1,351万2,870株 |
売上高 |
連結:140億20百万円 単独:131億59百万円 (2017年3月期) |
純資産 |
連結:39億23百万円 単独:31億39百万円 (2017年3月31日現在) |
総資産 |
連結:97億63百万円 単独:86億71百万円 (2017年3月31日現在) |
従業員数 |
連結:228名 単独:165名 (2017年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 |
(株)フェイス 100% (2017年8月1日現在) |
主要部門 |
コロムビアレコード コロムビアジャパン コロムビアハウス コロムビアインターナショナル |
主要子会社 |
コロムビアソングス(株) 100% コロムビア・マーケティング(株) 100% |
関係する人物 |
平澤創(会長) 正坊地隆美(元社長) 中島正雄(元社長) |
外部リンク | https://columbia.jp/ |
特記事項:2010年4月6日に平澤創(フェイス代表取締役社長兼創業オーナー)が取締役会長に就任。2002年10月1日から2010年9月30日までの社名(法人名)は「コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社」であった。2017年8月1日より株式会社フェイスの完全子会社(機能子会社)となる。 |
後述の2001年(平成13年)に実施された経営再建に伴うグループ外企業からの出資・経営支援により、みずほグループや日立グループの系列から脱退[注釈 1]している。2012年(平成24年)現在の主要取引銀行は三井住友信託銀行である。フェイスグループ入り以前は三菱東京UFJ銀行であった[注釈 2]。
かつて関係があった米コロムビア・レコードとハリウッドの大手映画スタジオであるコロンビア ピクチャーズは、英語では同一表記であるが、両社間は元々関わりがなかった。しかし、ソニーによる買収により1990年(平成2年)以降はソニーグループに属している。
1907年(明治40年)10月に松本武一郎が国産の円盤式レコードの生産と販売を行う日米蓄音機製造を創立し、1910年(明治43年)10月1日、神奈川県橘樹郡川崎町(現在の川崎市川崎区)で日本蓄音器商会として法人化された[1][2]。日本国内における老舗(最古参)のレコード会社である。大正時代に東洋蓄音器[3][4]、帝国蓄音器商会、三光堂、東京蓄音器を買収。
1927年(昭和2年)から米国コロムビア・レコード社(現在の米国ソニー・ミュージックエンタテインメント)とは提携関係にあり、ソフトはもとより、レコード盤や蓄音機の技術面での輸出入が行われていた。1928年(昭和3年)に日本コロムビアへ改称。 戦時中は日蓄工業に改称したが、1946年(昭和21年)に再び日本コロムビアに変更した[5]。1960年代までRCAビクター( ← ビクタートーキングマシン)[注釈 3]とコロムビア・レコードの米国2強によってレコード盤(カッティング・録音)・蓄音機(再生)技術双方の開発が競われており、日本コロムビアはLP盤による邦楽作品をいち早く売り出した。
戦後、主に演歌・歌謡曲や伝統芸能・学校音楽教材のレコード制作・発売が中心であったが、1960年代中盤以降はグループ・サウンズ、アニメや特撮等の子供向け番組のアニメソング、1970年代中盤以降はアイドル歌謡曲分野にも進出した。一方で米国コロムビア・レコードは1967年(昭和42年)6月30日付を以って提携解消、その翌年の6月30日を以って輸入発売権、および一部の邦楽におけるCBSレーベルの使用権に伴う猶予期間もそれぞれ失効したため(#「コロムビア」の商標についてを参照)、洋楽(ロックバンド・ポップスなど)のラインナップは大幅に減少し、現在では自社プロデュース或いは発売権取得によるクラシック音楽やジャズ演奏を中心とした少数派に留まっている。2002年(平成14年)10月のコロムビアミュージックエンタテインメントへの社名変更以来、1990年代中ごろより不採算部門と言われたJ-POPへ力を入れている。
昭和期には、美空ひばり・石川さゆり・島倉千代子・都はるみ・藤山一郎・舟木一夫らの演歌・歌謡曲の大御所が多数所属し、ビクター音楽産業・東芝EMI・テイチクエンタテインメントと市場を二分する程の勢いがあった。一方、J-POP部門はそれらレコード会社やソニー・ミュージック・ポニーキャニオン・エイベックスなど新興勢とは相反して、ゴダイゴ・中村雅俊・榊原郁恵・松山千春・ザ・コレクターズ、平成期以降はthee michelle gun elephant・ピチカート・ファイヴ・毛皮のマリーズ・04 Limited Sazabysなど、ファン層が比較的限定されたアーティストで占められていた。
1947年(昭和22年)に傘下となった日本電気音響(DENON)は、1963年(昭和38年)に放送局向けに開発・供給していたMC(ムービング・コイル)型カートリッジ「DL-103」を1964年(昭和39年)ごろに一般オーディオ市場に流通させたことをきっかけとして、以後デンオン(デノン)ブランドによるコンポーネント機器を発売した。また、カラー本放送開始と同じ1960年にはカラーテレビを発売し、冷蔵庫も手掛けるなど、総合家電メーカーへの指向を示した一時期もあった。1972年(昭和47年)ごろには、NHK技研との共同開発による世界初の実用PCMデジタルレコーダー(DENON「DN023R」)によるデジタル録音・LP盤発売を実施するなど、ソフトとハードを兼ね備えていたメーカーとしての顔も見せていた。しかし後述の経営再建策により、2001年(平成13年)にデノン(後のデノン コンシューマー マーケティング)として分社化され、その後の日本マランツとの経営統合により、高級志向に特化したオーディオ機器メーカーとして事業を行っている。
1992年(平成4年)ごろに、ANIMEXレーベル内の特撮音楽(旧ブラジルレコード)とアニメソング一部作品の制作・発売元を株式会社フォルテ・ミュージックエンタテインメント(Forte Music Enterprise、FME)に分社化し[注釈 4]、ディレクターが独立。しかし、1996年(平成8年)ごろに債務超過に陥り会社が清算されたため、コロムビアが同社の音源を買い上げるかたちで収束している。
平成期に入ると、小室ブームの牽引により売上シェアが急激に拡大したエイベックスの様にミリオンセラーを誇るキラーアーティストの不在に加え、他社と比べて積極的ではなかったJ-POP部門で、THE YELLOW MONKEY( → ファンハウスへの移籍を経てその後の再結成と同時に古巣のコロムビアに一旦回帰、2022年現在はワーナーミュージック・ジャパンに在籍中)・HOUND DOG( → R and C)・観月ありさ( → avex tune)ら、当時のオリコンチャートに入る複数の有力アーティストが1997年(平成9年)前後に所属事務所側の意向によって他社へ移籍すると、代わりの新人アーティスト発掘に出遅れたこと、演歌・歌謡曲部門では、2000年(平成12年)デビューの氷川きよしを除いてヒット曲に恵まれなかったこと等による売り上げ減少が続き次第に経営不振に陥った。
このため、経営再建のスキームとして2001年(平成13年)5月に日立製作所と主力取引銀行(第一勧銀・三和銀など)の意向により、経営権を企業再生ファンドであるリップルウッド(RH)の手に委ねた。
これと前後して、J-POP部門を1998年(平成10年)に分社化した株式会社ヒートウェーブ(HEAT WAVE)が2001年(平成13年)3月に債務超過に陥り、清算後にコロムビアに吸収されている。同年8月にはレコーディングスタジオを兼ねた赤坂4丁目の本社屋の不動産を売却し、六本木移転まで賃借する形式をとった[注釈 5]。
そして同年10月1日に、先ず音響機器部門をデノンとして分社化(日本コロムビア完全子会社)。即座にリップルウッド中間持株会社の「ニューデノン」(98%・59億円出資)と日立(2%・1億円出資)に、デノン持株分を日本コロムビアが売却することで60億円を調達。さらに事業分割後の日本コロムビアは、同日に第三者割当増資によって65円の優先株を9230.8万株発行し、匿名組合出資ファンド「リップルウッドニッポンコロムビアパートナーズ」(リップルウッドが8割、第一興商と三菱商事が残りの1割ずつ出資)に対して83%、日立製作所に13%を割り当て、投資ファンドが筆頭株主(全体の41.66%出資)となる。この時点で日立製作所の持株比率が全体の2割強となり、外資主導の資本構成となる。なお、日立へ累積債務の引換として41億円相当の普通株が割り当てられた[6]。
100億円規模の資金調達が実現した結果、財務状態は健全化。当時の株価が200円前後で推移したため、普通株に転換できればこの時点でリップルウッドに含み益が発生しているが、2002年(平成14年)7月にも、リップルウッドを主な引受先とする68億円分の普通株発行により資本を増強している。
リップルウッドは、2002年(平成14年)にデノンと日本マランツが株式移転(経営統合)によって設立したディーアンドエムホールディングスの株式保有を続け、2008年(平成20年)にベインキャピタルへ売却したことにより、126億円という莫大な譲渡益(キャピタルゲイン)を得ることになった。
RHの方策により、アメリカのBMGエンタテインメントで会長職を歴任したストラウス・ゼルニックが代表取締役会長に内定し、ソニー・ミュージックのプロデューサー・BMGファンハウス(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)副社長を歴任した元サディスティック・ミカ・バンドのメンバーであった松村克己(ジャック松村)と、ビーイングでプロデューサーをしていた中島正雄を取締役として招致した。RHへ経営権が移る2001年(平成13年)10月1日付けで松村が代表取締役CEOに就任する新体制が築かれた。
これよりJ-POP部門のアーティスト育成に本格的に乗り出すとされたが、2002年(平成14年)8月に松村は心不全により48歳で急逝し、CEOは中島に交代となった。そして2002年(平成14年)10月に55年間親しまれてきた「日本コロムビア」から、「コロムビアミュージックエンタテインメント」へ社名変更された。
まず社名変更後の同年10月末に一青窈のデビュー作として発売された『もらい泣き』が、ロングセールスとオリコンチャートトップ5へのランクインを記録した。それ以降も2003年(平成15年)の木村カエラのデビューや、氷川きよし等既存アーティスト作品の安定した売上に加え、演歌・アニメソング分野でのベスト盤の発売、虫プロダクションの旧作アニメや中部日本放送の昼ドラマキッズ・ウォーシリーズのDVDソフト化を次々と行うなどの施策によって売上は微増傾向となっていく。
なお、2005年(平成17年)までの間に、コロムビア音響工業、旧日本コロムビアのライブハウス事業と位置づけられていた株式会社エッグマン(Shibuya eggman運営) 、コロムビアデジタルメディアの3子会社を企業買収ファンドを営むパインリッジ株式会社へ売却した。売却後もコロムビア健康保険組合の事業主を構成しているため、旧日本コロムビアグループとして括られている。
経営再建途上の2007年(平成19年)以降、レコード会社業界全般で音楽配信のシェアが急速に拡大し、CDメディアの売上が縮小する状態に陥る。コロムビアもその影響を受けて売り上げが再び減少。これに伴い、制作部門を含めた数百人規模の社員希望退職者募集に加え、売上不振となっているアーティストとの所属契約を期間満了で更新させずに退かせるなど、大胆なリストラを行った。
2007年(平成19年)にはTDK子会社で映像ソフトを中心とした制作・販売を行う「TDKコア」を15億円で買収し、2008年(平成20年)にクリエイティヴ・コアへ社名変更した。映像ソフト分野については事業統合するも、飛躍的な事業拡大へは至っていない。
株価についても、2008年(平成20年)以来100円前後から徐々に下落した。特に世界金融危機によって株式市場全体で株安傾向が強まっていた2009年(平成21年)2月22日には年初来最安値の16円を記録した。その後は2009年3月期決算が悲観的ではなかったため40円台まで回復したものの、継続企業の前提が財務諸表に付記され、2009年(平成21年)9月以降は25円-30円台という低水準で推移するといった厳しい経営状態が続く。
2009年(平成21年)に日本航空の再建問題で挙がった確定給付型企業年金の積立金不足問題に関連して、2009年(平成21年)12月9日の日経新聞朝刊9面(企業欄)に、コロムビアの給付債務の不足金(約41億円)に自己資本(約8億円)を割ると不足額比率が489%となり、上場企業では最悪であることが掲載された。この時期に、OBに対して給付額の減額交渉を行い、大半の同意を得たことが同月11日付記事で掲載された。企業年金の給付額削減の妥結を見いだした事例として、2010年(平成22年)3月22日号の日経ビジネスにも特集記事として詳述されている。
2010年(平成22年)1月、コンテンツ配信サービス企業のフェイスは、2001年(平成13年)10月以来筆頭株主で経営権を握っていた、RHJインターナショナルが組成した「リップルウッドニッポンコロムビアパートナーズ」から、コロムビアミュージックエンタテインメントの発行株式(合計31.39%)を取得すると発表[7]。これにより、フェイスはコロムビアの筆頭株主となり、持分法適用会社として同社グループ入りとなった。
なおこの結果、CEOをはじめとする現職の取締役が全て退任し、フェイスグループから派遣された役員による新経営陣への刷新が、同年4月6日に行われた臨時株主総会および同年6月の定期株主総会で承認され、フェイス創業者の平澤創が取締役会長に、代表執行役社長兼COOに原康晴(前副社長、旧日本コロムビアで営業畑を歩んできた生え抜き)が就任。社外取締役と社外監査役はほぼフェイス側の役員が兼任する形となった。
一方、日立製作所は2009年(平成21年)9月と2010年(平成22年)2月以降、徐々に保有しているコロムビアの株式を売却していることがEDINETでの5%ルールによる大量保有報告書(変更報告)の提出[8]によって明らかとなっている。
フェイスは2014年(平成26年)3月に株式公開買付けの結果、出資比率を50%超とし、コロムビアを子会社とした[9]。
2017年(平成29年)8月、フェイスは株式交換によりコロムビアを機能(完全)子会社化し[10]、2021年2月1日に本社をフェイスの東京オフィス内に移転した[11]。
2010年(平成22年)5月、創業1世紀(100周年)を迎える同年10月1日に、社名を日本コロムビア株式会社(にっぽんコロムビア、三代目。英: NIPPON COLUMBIA CO., LTD.)に再変更を発表した。旧社名に回帰するのは、2002年10月1日付でコロムビアミュージックエンタテインメントに社名変更して以来8年ぶりである。そして、同年10月1日に予定通り社名変更が実行された。社名変更後の社章は旧社章を復活させるものの、シンボルカラーは2002年(平成14年)9月までの黒色ではなく、CME時代の紺色を継承する[注釈 6]。
理由としては、同年に筆頭株主(支配株主)が約10年振りに外資ファンドから国内企業に異動したことや、現在グループ内での主な事業が音楽・映像ソフト主体から映像・ゲーム関連へと拡大したことにより、社名にミュージック(音楽)を付けるのは現状にそぐわないとの判断が現経営陣によってされた結果による。
正式な社名表記は「コロンビア」ではなく「コロムビア」であり、英語による表記も「Colombia」ではなく「Columbia」である。
音符(16分音符の2連符)のロゴマークは「ツインノーツ」と呼ばれ、米コロムビア・レコードが1938年まで使用していたロゴマークを継続使用している。2002年のコロムビアミュージックエンタテインメントへの社名変更時にロゴマークも一新したが、ツインノーツの意匠は変わっていない。
日本コロムビアは創業当初から1960年代まで、英EMIのコロムビア・レーベルのソフトと米コロムビア・レコードの日本での発売権を持っていたが、前者は1962年(昭和37年)に当時の東芝音楽工業(現:ユニバーサル ミュージック合同会社)に移籍し、後者は1968年(昭和43年)にソニーと旧米コロムビア・レコードの母体であるCBS(CBSレコード)との合弁で設立されたCBS・ソニーレコード(後のソニー・ミュージックエンタテインメント)設立により移管され、現在はソニー・ミュージックエンタテインメント(SMEJ)の機能子会社のソニー・ミュージックレーベルズ(SML)が発売元となっている。
日本コロムビアはこれ以降、日本でのツインノーツマークと、レコードなど音楽ソフトにおける「コロムビア」(COLUMBIA)の商標(登録番号・第318664号ほか)のみを残す形となった。それでも、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)発売によるコロムビア・レコードレーベル商品の輸入盤については、輸入発売元が先述同様、ソニー・ミュージックレーベルズ(2014年3月31日以前はソニー・ミュージックジャパンインターナショナル(SMJI))ではあるが、日本コロムビア(またはコロムビアミュージックエンタテインメント)の社名ロゴと商標承認の文字が記載されたシールが貼付され、同社はライセンス料を得る形となっている。
なお、米国コロムビア・レコードのレーベルのマークは、上述のような商標権利上の関係から、かつての日本コロムビアの社章でもあったツインノーツ(旧社は黒色、新社は紺色)ではなく、旧母体であるCBSの「目玉マーク」をアレンジしたもの(通称:ウォーキング・アイ)が用いられ、2000年代からは日本コロムビアと同一の商標ロゴであった「COLUMBIA」の字体(プロポーション)を縦長に改変して区別している。SMEJではマークと同様商標権利上の関係から、表記を『コロンビア・レコード』としている。また、SMEJで発売する1950年代などのアナログレコードの復刻盤では、レーベル面の「COLUMBIA」を「SONY MUSIC」に改変する措置が取られている。
また、SME傘下のコロムビア・レコードのクラシックレーベルとして1990年代に設立された「ソニー・クラシカル」は、コロムビア・レコードの“ツインノーツ”の代わりに、新たにデザインされた『赤地に2連符の白抜きを模ったロゴ』とSONYのロゴタイプを併記したマークを使用している。
創業から2000年代中盤まで、自社でレコード・CD・DVD等の各種ディスクメディアの大規模なプレス工場「川崎工場」(神奈川県川崎市川崎区港町)を保有する数少ないレコード会社であった(他にはSMEJ、ビクターエンタテインメント、東芝EMI(後のトエミ・メディア→メモリーテック)、テイチク(プレス事業は撤退)など)。2005年(平成17年)にプレス工場をコロムビアデジタルメディア(CDM) と子会社を設立したうえで、土地は株式会社原弘産(下関市)、建物は企業買収ファンドのパインリッジ株式会社へ売却された。
その後も生産活動を行っていたが、2007年(平成19年)7月ごろに川崎港町から静岡県焼津市の東名高速道路沿いにあるソニーDADCジャパン静岡工場大井川(DADJ-O)(現・ソニー・ミュージックソリューションズ 大井川プロダクションセンター)敷地内に拠点を移転。会社名をCDMパートナーズへと変更したものの、2009年(平成21年)に従業員による破産申し立てにより倒産している。
川崎工場跡地には、京浜急行電鉄と大和ハウス工業の開発による大規模分譲マンション「リヴァリエ」(建設時の仮称:川崎港町プロジェクト)が建てられた。
なお川崎工場の最寄り駅だった京急大師線港町駅は、1932年(昭和7年)の開設(臨時乗降場からの昇格)から1944年(昭和19年)まで「コロムビア前駅」だった。これが縁で、2013年3月1日、港町駅構内に川崎工場の歴史を辿るフロアが新設され、同駅の発車メロディに美空ひばりの代表曲『港町十三番地』が採用された。駅構内には同曲の歌碑も設置されている。
2021年(令和3年)現在、日本コロムビアの各種パッケージメディアの生産委託に関しては音楽テープを除き、ソニー・ミュージックソリューションズ・メモリーテック(クラシック、ジャズ、UHQCD商品など)・JVCケンウッド・クリエイティブメディア(主に幼児作品のDVD)が担当している。
引退、解散、死去したアーティストも含む。
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