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日本のグループサウンズバンド ウィキペディアから
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(ジャッキーよしかわとブルー・コメッツ、Jackey Yoshikawa & His Blue Comets)は、日本のバンドで1960年代に一世を風靡したグループ・サウンズの1つ。1957年に結成されたロックコンボが母体。グループ名の由来は[1]「どの星よりも光り輝く彗星のように」である。当時の所属芸能事務所は大橋プロダクション(渡辺プロダクションと業務提携)。21世紀の所属事務所はオフィス・アタック。略称は「ブルコメ」が定着しているが、公式では「コメッツ」を用いている。なお、ステージ用の衣装スーツは紳士服メーカー「エドワーズ」の特別製を着用していた。
「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」のメンバーを含む(正式な加入脱退時期は不明)。
ジャッキー吉川とブルー・コメッツの前身であり母体であるブルー・コメッツは、1957年9月、大橋道二、ロジェ滋野(男爵滋野清武とフランス人妻との子)ら米軍キャンプ回りのバンドマンを中心に結成された。専属シンガーを付け、渋谷のジャズ喫茶を中心に活動した。1959年6月には、来日したジーン・ヴィンセントの地方巡演のツアーバンドに選ばれる程までに音楽性を高めた。1959年9月、一旦解散するが、彼らの支持者だった鹿内タカシによって再興され、1960年4月に新メンバーで再スタートした。当初は鹿内タカシをメインに中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、こまどり姉妹、尾藤イサオ、アイ・ジョージら、多数の歌手のバックバンドとしてコンサートやスタジオ・レコーディングをこなし「日本一の伴奏グループ」を目指していた。フジテレビの「ザ・ヒットパレード」出演を機に注目を集めるようになり、1965年にはザ・ピーナッツのバックで第16回NHK紅白歌合戦に出演を果たす。
1961年に小田啓義が加入するが1年で「田代久勝とウエスタンキャラバン」に移籍。
1962年に大橋の引退により高橋健二が加入。
1963年からはジャッキー吉川がリーダーになり(ジャッキー吉川を参照)、高橋が脱退し、ベーシストが江藤勲に交代。また井上忠夫が加入。
1964年に小田が復帰し、三原綱木も加入。
1965年に江藤が脱退し、高橋が復帰したことにより、グループ・サウンズ全盛時代を築くメンバーがほぼ揃った[2]。
地方公演で電車に降り損ねた尾藤イサオの代役で唄ったのをきっかけにグループ・サウンズとしての活動が始まったとされていたが、小田の証言で「バックバンドとしての紅白出演(1965年)に飽き足らなくなった井上が、『バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ。』とバンドの方向性を見直す進言をし、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(のちの作曲家すぎやまこういち)に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至った。」と詳細な経緯が明らかになっている。本格的なデビューに先駆けてブルー・コメッツはマネージャー川村龍夫の助言により「デューク・エイセス」の当時のセカンド・テナー、和田昭治にコーラスの猛特訓を受ける。
1966年に日本コロムビア(レーベルは洋楽部門のCBSコロムビア[注釈 1])から発売された(ボーカル入りの楽曲としては)デビュー曲となる英語盤の青い瞳「Blue Eyes」が10万枚、日本語盤の「青い瞳」が50万枚のヒットになった。日本コロムビアは家電・音響機器部門(現:デノンコンシューマーマーケティング〈ディーアンドエムホールディングス〉)の業績悪化で当時5億円の借金を抱えていたが、ブルー・コメッツの偉業で窮地を脱した。66年には彼らは、ザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの日本公演[3]の前座として出演。その際彼らはビートルズよりやや低めの位置に設けられたステージで井上忠夫作曲のビートルズ讃歌「ウェルカム・ビートルズ」を演奏した。ビートルズのメロディーやハーモニーを重視した曲作りは彼らを経て日本独特のグループサウンズへと受け継がれた[4]。その後も「青い渚」「何処へ」など順調にヒットを連ねていき、1967年に発売された「ブルー・シャトウ」は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の第9回日本レコード大賞を受賞。名実ともに「日本一のグループ」になった。
「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった1960年代当時、数多のグループ・サウンズの中でザ・ワイルドワンズと共にNHKへの出演が許され、NHK紅白歌合戦に第17回(1966年)から3回連続(前年のザ・ピーナッツのバックを含めれば4回連続)で出場した。これはまず何より、他のグループ・サウンズよりも圧倒的に音楽的水準が高かったことである。全てのメンバーは読譜力に優れ、作編曲ができ、卓越した楽器演奏とアンサンブル、緻密なコーラス・ワークで、あらゆるジャンルを高い完成度で演奏できるバンドだった。
NHK紅白歌合戦に出演できた理由は、外見が短髪でスーツ姿=銀行員風のサラリーマンに見えることが、評価されたからでもある。(「ジジコメ」というあだ名すらついたこともある。)もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。逆にコンサートなどでかつらを被って長髪を試したところファンに不評だった(ただし、70年代に入ると三原やジャッキー吉川が髪を伸ばすようになっている)。ビジュアルイメージを考えていなかったわけではなく、ショーン・コネリーが演じるジェームズ・ボンドをコンセプトに、全員が移動時にお揃いのアタッシェケースを持っていた(デビュー曲が「サンダーボール」のカバーだったことからもその姿勢が窺える)。
1967年美空ひばりの希望で「真赤な太陽」のレコーディングに参加。音楽的能力を高く評価され、その後たびたび共演する。
1968年にはエド・サリヴァン・ショーに出演のため渡米→。このときに演奏したのはイントロに琴の音をフィーチャーした、編曲を変えた「ブルー・シャトウ」だった。欧米のロックやポップスに圧倒された井上忠夫は、帰国後すぐにグループの解散を打ち出すつもりだったが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。同年発売されたムード歌謡的な傾向が強いシングル「さよならのあとで」がヒット。その後しばらくはムード歌謡路線が続くも、1971年の「雨の賛美歌」から原点回帰を見せつつ、独自のサウンドを展開して曲を次々と発表した。
またこの年に発売したカバーアルバム「G.S.R.」では、バート・バカラック風のアレンジの曲に挑戦するなどした。しかし、「グループサウンズ」として見られ続けたことが足を引っ張る形となり1969年以降はレコードの売り上げと人気は徐々に下がり、他のGSバンドの解散が続く中でも活動を続けたが、巻き返しはならず1972年10月にコロムビアが契約を打ち切り。井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入、これに伴い1973年3月にビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント〈二代目〉)へ移籍した(GSとしてのブルー・コメッツの終焉でもあり、GSブームを支えた有名グループは既に早期解散していたことから「最後のGS解散」=遅すぎた解散と報道された)。なお、星勝らのモップスは、この後もバンド活動を継続した。1977年にもメンバーチェンジし、1984年には小田も脱退する。時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称して活動している。GS時代のメンバーでも懐メロ番組に出演することが度々あったが、井上が2000年5月に自殺してしまう。2002年にGS時代のメンバーでも本格的に再結成した。バンドは、全国ツアーを展開するなど精力的に活動を続けていたが井上の死去から約20年後の2020年4月、リーダーの吉川が死去し[5]、2021年7月には高橋も死去。これにより、存命オリジナルメンバーは小田・三原の2名を残すのみとなった。
井上忠夫(セルマー社/テナー・サクソフォン、フルート)
三原綱木(フィルモア社/ファーストマン エレキ・ギター)
高橋健二(フィルモア社/ファーストマン エレキ・ベース・ギター)
小田啓義(エーストーン社/コンボ・オルガン、ハモンド社B-3/オルガン)
ジャッキー吉川(ラディック社/ダウンビート)
この節の加筆が望まれています。 |
(#1 - #17・#20・#23 - #24・#27 - #28 :コロムビア、#18 - #19・#21:ビクター、#25:インディーズ、#26:渡辺音楽出版)
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放送年月 | 曲目 | 再放送 |
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1968年(昭和43年)10月 - 11月 | ぶたが逃げた | 1969年(昭和44年)1月2日 1969年(昭和44年)2月 - 3月 2021年(令和3年)12月 |
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