明治大学
東京都千代田区にある私立大学 ウィキペディアから
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明治大学(めいじだいがく、英: Meiji University)は、東京都千代田区神田駿河台一丁目1番地に本部を置く日本の私立大学。1881年創立、1920年大学設置。大学の略称は明大(めいだい)、明治(めいじ)。
明治大学 | |
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大学設置 | 1920年 |
創立 | 1881年 |
創立者 | |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人明治大学 |
本部所在地 |
東京都千代田区神田駿河台一丁目1番地 北緯35度41分50.1秒 東経139度45分41.2秒 |
キャンパス | |
学部 | |
研究科 | |
ウェブサイト |
www |
江戸幕府の洋学所の伝統を引き継ぐ大学南校(現在の東京大学法・理・文学部の前身)から優秀な生徒を抜擢して設立された司法省明法寮で学び、司法省法学校の第一期卒業生となった岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操達が、「近代市民社会を担う聡明な若者を育成する」ことを目指し、1881年に創設した明治法律学校を前身とする[1]。日本で西洋近代法を習得した第一世代にあたり、明治期の日本の司法を支えることとなった、司法省法学校の第一期生の過半数が明治大学の創設に関与している。創立期のメンバーからは近代法起草に携わった法曹や大審院院長などの他、西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)など、政治家や外交官として活躍した者などが多数誕生している。
有楽町数寄屋橋内の旧島原藩上屋敷「三楽舎」を校舎として開校したが、その後、1886年に駿河台に校舎を構え、以来、同地に本部を構え現在に至る。駿河台を含む御茶ノ水エリアは文教施設が集積し、「日本のカルチェ・ラタン」とも称される日本を代表する学生街となっている[2][3]。本部以外に、東京都に2キャンパス、神奈川県に1キャンパスを設置[4]。10学部及び大学院12研究科と、高度専門職業人の養成を図る専門職大学院(ガバナンス研究科(公共政策大学院)、グローバル・ビジネス研究科(ビジネススクール)、会計専門職研究科(会計大学院)、法務研究科(法科大学院))を擁する総合大学である。
入試においては、実志願者数[5] や、「生徒に人気の大学」ランキング[6] などで、例年トップクラスにランキングされている。経営・財務面でも例年、安定的(AA) の評価を得ている[7]。大学の略称は「明大」であり「めいだい」と発音するほか、 和泉キャンパス最寄には「明大前駅」が存在する。学校法人明治大学は、大学名として商標「明治大学」 称呼「メイジダイガク、メイジ」 を商標登録(登録商標日本第3043764号)しているほか、略称として商標「明大」称呼「メイダイ、メーダイ」も商標登録(登録商標日本第6049745号)をしている。
創立時からの伝統によって確立された建学の精神「権利自由、独立自治」[注釈 1] に基づき、自由と自治の精神を養うことを理念とし、「知の創造と人材の育成を通し、自由で平和、豊かな社会を実現する」ことを大学の使命としている[8][9]。
国際社会を牽引する「世界に開かれた大学」を目指すとしている[8][10][11]。「個」の確立を通じて近代化を図るべきであるとの視点のもと、近代市民の育成を目指し、創立以来有為な人材を輩出し、「個」の確立を基礎とした教育方針は「個を強くする大学」という理念へと継承され[8]、大学の公式パンフレット等[12] [13][14]では 「個を強くする[8][10][11] 都心型大学」をキャッチフレーズとして使用することも多い。
明治法律学校を起源としており、旧民法、旧商法、家族法などの作成に携わり日本の近代法の基礎を築いた先駆者たちや、大審院長や司法次官経験者など近代日本の司法を支えた法曹たちが教鞭を執り、明治法律学校時代の代言人(現在の弁護士)試験や判事検事登用試験では、合格者数が全体の4割近くに達するなど[15]、近代司法史に大きな足跡を残している。
一方、渋沢栄一や名村泰蔵(大審院長)らの尽力により開設され、後に明大総長となる志田鉀太郎の他、同じく後に東京商科大学初代学長となる佐野善作や、山中篤太郎(一橋大学第3代学長)などを始めとする、東京高商(現一橋大学)関係者を中心に招聘された当時の代表的な商学者たちが講義を行い[16]、設置から廃止までの全期間(1911~1926年)に亘って務めた渋沢の他、阪谷芳郎、早川千吉郎、豊川良平、近藤廉平、中野武営、武井守正、吉村鉄之助など、当時を代表する財界人たちが評議員を務めてきた商学部や、同じく私学で初めて開設された経営学部など、伝統的に商学、経営学でも知られる。(渋沢を「日本資本主義の父」と形容したのは、日本資本主義論争などで論陣を張り、日本の歴史学や経済学に影響を与え、経営学部教授も務めた土屋喬雄である)
日本の教育界における、女性の社会進出に向けた女子教育の先駆けとして、穂積重遠[17][18]、横田秀雄などが中心となり、1929年に法科と商科からなる専門部女子部を開設[19]。女性法曹、および実業界で活躍できる女性を育成すべく、学部と同じ教員が最新の法学や経済学を講義し、女性として日本初の弁護士、裁判官、高等裁判所長官、キャリア官僚などが誕生し、更に他学部からも日本初の女性国会議員の一人などが生まれるに至り、日本の女性の社会進出に大きな役割を果たしてきた。
開設以来、夏目漱石や上田敏、笹川臨風などを始めとした、当時を代表する著名文学者たちが教鞭を執り、一時閉鎖された際は与謝野晶子や北原白秋ら時代を代表する文豪たちによる「明治大学文科復活の運動」が起こり、再開後も初代文芸科長を務めた山本有三の他、里見弴、豊島与志雄、岸田國士、横光利一、小林秀雄、舟橋聖一、吉田甲子太郎、今日出海、土屋文明、笹川臨風、佐々醒雪、登張竹風、内海月杖、大町桂月、阿部知二、萩原朔太郎、唐木順三、平野謙、中村光夫、本多秋五、山本健吉等々、近代日本の名だたる作家や評論家たちが数多く教鞭を執ってきた文芸系や、私大最古の歴史をもち、静岡県登呂遺跡の発掘や、日本において最初に発見された旧石器時代遺跡であり古代日本の歴史を書き換えたと言われる群馬県岩宿遺跡の発掘など戦後の考古学会をリードしてきたとされる考古学系[20]、日本最大規模の学生演劇プロジェクト「明治大学シェイクスピアプロジェクト」を主催し、多くの演劇人を送り出してきた演劇学系等々の歴史をもつ文学部など、人文系に於いても優れた伝統を有する。
1904年の経緯学堂の開設などにより、アジア各国からの留学生も多く、卒業生からは金炳魯(韓国初代大法院長)、呉鐸根(韓国検察総長、法務部長官)などの法曹の他、政界指導者などが多数誕生している。
近年に於いては、社会科学を軸に人文科学や自然科学を含めた学際的な観点から構成したカリキュラムにより、 創造性、発信力のある人材を養成する情報コミュニケーション学部、数理科学と情報技術を軸に文理融合型の教育により IT系分野のリーダーを養成する総合数理学部[21]、完全英語教育により地球規模の諸問題への対応を研究し、グローバルリーダーを養成するグローバル・ガバナンス研究科、国際建築家の養成機関として 大学院理工学研究科建築学専攻に開設された「I-AUD」(国際プロフェッショナルコース[22][23])、商学部が推進するファッション・ビジネス教育など、学際的、国際的なアプローチによりクリエイティブで実戦的な人材の養成を志向する学科・専攻が多く設置されている。
専門職大学院では、多くの現職議員、市長等が在籍するガバナンス研究科(公共政策大学院)、日本のビジネススクールとして初めて EFMD(欧州経営開発財団)が発行する国際認証のEPAS(EFMD Programme Accreditation System)を取得した明治ビジネススクール(経営大学院)、明治法律学校以来の伝統をもつ法務研究科(法科大学院)、近年公認会計士・監査審査会が行う公認会計士試験合格者数ランキングでTOP3が定着している[24] (公認会計士試験#大学別合格者数参照) 会計専門職研究科(会計大学院)などが設置されている。
生涯学習としては「リバティアカデミー[25]」を1999年に創設し、4つのキャンパスで420講座を設置開設。2015年度からは文部科学省の履修証明制度を導入し、女性の再就職支援やキャリアアップのための職業実践力育成プログラムを設置。
産学連携では、国家的プロジェクトでもあるメタンハイドレートの実用化研究[26][27][28][29] や、人工意識や脳科学研究[30][31]、惑星探査におけるJAXAとの共同開発[32][33]、ナノテク·IT分野におけるNEDOとの共同研究[34]、世界的な環境問題に対応した高分子科学研究所による生物由来のバイオプラスチックの開発[35]、自治体との提携による自動運転の実証実験などが行われている。
特に総合数理学部では、文理融合のクリエイター的発想によるアウトプット志向の研究が多く進められており、折り紙工学の提唱及び産業活用を見込んだ研究開発[36][37][38] や今後、広範なビジネス展開が見込まれ 2023イグ・ノーベル賞(栄養学)を受賞した 電気味覚や味覚メディア技術[39][40][41][42] などの他、企業とのインタラクションデザインの共同研究などによる、新しいライフスタイルの提案などが進められている。
大学発ベンチャーとしては、成田国際空港や三菱地所の大型オフィスビルでの運用が開始された、理工学部開発による自律移動型ロボットとクラウド技術の融合による次世代警備ソリューションサービスや、パナソニックなどとの共同開発によるITソリューションサービス(両方とも、2019大阪サミットで、「日本の革新的な技術とアイデア」として招待展示された[43])などの他、農学部による熟成肉の製造技術「エイジングシート」のレストランチェーンやホテルへの大規模展開、バイオリソース研究国際インスティテュート(MUIIBR) [44]による 移植用ブタ臓器の生産・実用化を 大幅に加速する スピンオフベンチャー[45][46]、総合数理科学部と総合電機メーカーなどによるIoT系商品開発、等々が進行中である。
海外留学プログラムでは、ハーバード大学やスタンフォード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなど、指定された海外の大学機関への留学に対し返還義務のない給付型助成金を支給し、英語集中プログラムなどにより異文化コミュニケーション力の向上を実現させ、2 - 3年次での留学を目指す「明治大学海外トップユニバーシティ留学プログラム」が設置されている他、各学部独自のプログラムも設置されており、政治経済学部では学部独自にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、北京大学、延世大学、南洋理工大学などと学部間協定を結んでおり、留学先と双方の学位を同時取得可能な「ダブルディグリープログラム」や「デュアルディグリープログラム」などを設置している。
一方、国内で初めて英語を公用語とし、MBAプログラムが英国「エコノミスト誌」他、世界の各種ランキングで日本No.1のビジネススクールと評価された[注釈 2][注釈 3][47] また、オックスフォード大学やフランス国立科学研究センターなど、世界主要研究機関との国際ネットワーク拠点として、文部科学省の「共同利用・共同研究拠点」にも選定された「先端数理科学インスティテュート(MIMS)[48]」が同省の期末評価でSランクを獲得し認定更新となっている他、同じく国際機関である「バイオリソース研究国際インスティテュート(MUIIBR) 」[49]「生命機能マテリアル国際インスティテュート」等々、各種の国際研究プロジェクトが進行中である[50][51]。
教育、研究の綜合的な国際化プログラム[52][53] への取り組みに関して、文部科学省の国際化拠点整備事業(グローバル30)[54] では、国内の国際拠点校13校の1校として採択され、グローバルCOEプログラム[55] などにも採択されている。
国際機関との連携では、2009年に知的財産法政策研究所(IPLPI)[56] を設置し、国内で初めて世界知的所有権機関(WIPO)と知的財産法等に関するデータベースの充実に向けた協力協定を締結。高分子科学研究所は日本の大学研究機関として初めて、WIPOの環境技術パートナーズに登録認定されている。また、国連食糧農業機関(FAO)と連携の覚書を締結している[57]。2010年には地球規模の課題解決を目指す「国連アカデミック・インパクト(UNAI)」に発足と同時に参加[58][59][60]。
2019年には、国際化及び、共創的学習・教育の推進の一環として、国際コミュニティの形成を志向した国際混住寮「明治大学グローバル・ヴィレッジ」(MGV)を和泉キャンパスに開設。2022年に政治経済学部で、専門領域をもち国際通用性を伸ばすことを主眼に置いたプログラム「グローバルキャリア形成プログラム」(GCD)が開設。
1929年に専門部女子部を創設し、1932年に大学学部の第二次入学資格者として女子部卒業生の入学を認めるなど、先駆的に日本の女子高等教育を担ってきた歴史をもつ。OGからは日本初の女性弁護士、裁判官、キャリア官僚、政治家、東大大学院合格者、法学博士などが誕生している[61][62][63][64]。(2024年に放映されたNHK連続テレビ小説『虎に翼』では、OGで初の女性法曹のひとりである三淵嘉子や、設立の中心メンバーである穂積重遠などをモデルとした登場人物が主人公、主要人物に配され、女子部開設当時の状況などが描かれている)
その伝統は、2004年に設置された情報コミュニケーション学部に受け継がれ、更に2010年の「ジェンダーセンター」の設置や、2015年の、世界トップレベルの女性研究者養成に向けた「女性研究者研究活動支援事業推進本部」や「男女共同参画推進センター」の創設に継承されている。同じく2015年に、女性幹部人材の養成を目的とし、女性経営者等による講義・実践両面の指導、大手企業との連携を内容としたカリキュラムの「女性のためのスマートキャリアプログラム」を開設。
また、スポーツに於いても、一般入試メンバーによる自主運営チームであるラクロス部が2年連続で国内大会3冠を制覇したのを始め、ゴルフ、フィギュアスケート、フェンシング、剣道、射撃などが女子競技に於ける強豪として知られ、近年、大学王座に就いている。また、初のバトン・チアリーディング部や女子野球部員なども誕生している。
明治大学におけるスポーツの歴史は古く、明治法律学校開校翌年の1882年(明治15年)には飛鳥山で最初の運動会が行われている[65]。1906年(明治39年)、学友会に陸上運動部(剣道、庭球)と水上運動部(端艇)が設けられ、さらに明治末年までに弓道、競走、柔道、野球、相撲、大正末年までにサッカー、水泳、体操、射撃、ラグビー、ホッケー、山岳、ボクシング、バスケット、馬術、スケート、スキーの各部が設立された[66]。
現在ではユニバーシティ・アイデンティティの一環として、スポーツと知性の高度な次元での融合を促し、スポーツを通じた教育、社会貢献を果たすべく、カレッジスポーツ全体のインテグリティの向上を進めている。
2019年にサッカー部が大学タイトル全5冠を制覇した他、野球部、ラグビー部、スケート部(フィギュア・スピード・アイスホッケーによる総合)、水泳部などのメジャー競技に於いて大学王座に就いている。また、女子競技に於いても、ラクロスやフィギュアスケート、ゴルフ、フェンシング、剣道、射撃などで大学選手権優勝を果たしている。
大学新聞コンテストで数多くの優勝を果たした「明大スポーツ」を発行。2019年には「明治大学学長杯三種混合e-sports大会」として、国内で初めて大学主催のe-sports大会を開催。
他校に比べ、少数精鋭の体制をとる運動部が多い中、サッカー、野球などではプロ志向の選手も多く、サッカー部は4年生全15名中12名がJリーガーとなり(2020年度)、野球部はドラフト連続指名記録を更新中である。いずれも現役プロ選手数は大学別で1位である[67]。また、野球部が公式試合にも使用可能な「内海・島岡ボールパーク」を本拠地とし[68]「駿台倶楽部」という強固なOB組織を運営する一方、サッカー部、競走部などでは、サポーターズクラブ運営やスポンサー企業による支援など、外部資金も活用した独自の社会貢献活動が行われており、スポーツと社会をつなぐ新たな仕組みをづくりが進められている。
時代を先導する「暁の鐘」をシンボルに用い、「個を強くする大学」 をキャッチフレーズとしており、また、「社会連携・貢献」を教育・研究とともに 大学の使命[8][69][70][71][72][73][74]と位置づけている。
東京都心部に本部キャンパスを構え、国内外の企業・大学・政府系機関 などとの交流による実践的教育、総合大学ならではの学問環境や課外活動プログラムを提供。特に演劇や音楽などが盛んであり、演劇は例年4,000人以上の観客を動員するアマチュア最大規模の演劇イベント「明治大学シェイクスピアプロジェクト」などで知られ、音楽は有名ミュージシャンを招聘する「御茶ノ水ジャズフェスティバル」の他、御茶ノ水の街全体でも音楽イベントを開催する。
都心型大学として、各分野の第一線との交流も盛んであり、特に演劇では文学座、音楽ではエイベックス、OJT型学部講座ではフジテレビ、スポーツではナイキなどとのタイアップイベント等が行われている。また、国際日本学部では、米国ディズニーランドとの提携による、単位取得・インターンシップ報酬等の伴った留学プログラムなどの特色ある留学プログラムも設置されている。
近代国家を樹立する上で近代法制度の確立が最重要課題であった明治政府は、欧米諸法の比較研究による新法典の編纂および近代法制度を理解しその運用にあたる官僚の養成が急務となっていた。こうした事項を担う機関として、1871年(明治4年)9月、司法省に明法寮(後に司法省法学校)が創設された。
1872年(明治5年)7月に第一期生20名が入学。その多くは後に裁判官・検察官として明治期の日本の司法を支えることとなる。創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操はこの20名のうちの3名であり、日本で西洋近代法を習得した第一世代にあたる。1876年(明治9年)7月に司法省法学校を卒業した岸本と宮城はボアソナードの推挙によってフランスに留学し、矢代は国内で在野法曹として活動することとなる。
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明治大学は、当時20代の青年法律家、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操 の3人が1881年(明治14年)1月17日に設立した明治法律学校をその母体とする。
開校の直接のきっかけとなったのは講法学舎(旧紀州藩出身の北畠道龍らが設立した法律学校)で起きた集団退学騒動である。フランス留学から帰国した岸本と宮城は公務に就くかたわら矢代が幹事を務める講法学舎にも出講していたが、1880年(明治13年)11月に同校で内紛が起こり、集団退学した学生十数名が岸本らに新しい法律学校の開設を求めたのである[78][79]。
設立に際して西園寺公望[注釈 4]や杉村虎一、さらに旧島原藩主・松平忠和(江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の弟)らの協力を受けた。また、岸本の出身藩(旧鳥取藩)当主の池田輝知から4年間にわたって毎月20円ずつ補助を受けた[81]。
開校準備段階では学校の位置を東京府麹町区上六番町36番地の宮城浩蔵宅としていたが[82]、実際の開校地は麹町区有楽町3丁目1番地の旧島原藩邸(数寄屋橋内旧三楽舎跡)となった。
開校時に発表された「明治法律学校設立ノ趣旨」は西園寺が杉村と相談しながら起草したものといわれている[83]。
上記の人物のほか司法省法学校出身の磯部四郎・井上操・熊野敏三・高木豊三やフランス留学組の光妙寺三郎などが参画し、当時最先端のフランス法学を教授したが[85]、司法省法学校で創立者たちを直接指導したボアソナードは明治法律学校とは当初関わりを持たなかった。岸本と宮城、さらに講師の西園寺や光妙寺らが留学先で急進的法学者エミール・アコラスの影響を受けたことでボアソナードの怒りを買い、やがてボアソナード直系の法学校たる東京法学校とも激しく対立することとなる[86]。
しかも開校地の旧島原藩邸は民権結社・三楽舎の演説会場でもあり、最初の入学者44名中2名は藩閥政府のスパイだったことからもわかるように、明治法律学校は開校当初から民権派の牙城と目されていた[87]。当然ながら学生や卒業生、あるいは中退者の中には自由民権運動に身を投ずる者が多く、立憲改進党結成に参画した丸山名政、加波山事件で刑死した横山信六、三大事件建白運動に奔走した佐藤琢治、第1回衆議院議員総選挙に当選した岩崎万次郎などはその代表格であり、若き日の伊藤左千夫も政治家を夢見て明治法律学校に籍を置いたことがあった[88]。
1886年(明治19年)12月には神田区駿河台南甲賀町(現在の日大病院東側付近)の新校舎に移転し、法律学部・行政学部の2学部を設置した。
この頃から国家権力による私立法律学校への締め付けが次第に強まり、明治法律学校は他の五大法律学校各校(専修学校・東京法学校・東京専門学校・英吉利法律学校)とともに私立法律学校監督条規の下で帝国大学特別監督下に入る。さらに1887年(明治20年)には同条規が特別認可学校規則へと改定され、各法律学校は文部大臣の直接管轄下に移されることとなる。
1889年(明治22年)から1892年(明治25年)にかけて行われた民法典論争では和仏法律学校とともに実施断行論を掲げたが、最終的に断行派は敗れ、明治法律学校の校運は一時衰退した。この時期に創立者の矢代と宮城が相次いで病没し、岸本が司法官弄花事件に連座して下野したことも痛手となった。
その後はドイツ法全盛の下で岡田朝太郎、仁保亀松、志田鉀太郎、鵜澤總明などの独法系学者を多数招聘することによって生き残りを図ることとなる。
1903年(明治36年)に専門学校令による旧制専門学校となった際に現校名に改称し、翌年の学則改正により法学部・政学部・文学部・商学部を置いた(文学部は間もなく募集停止)。1911年(明治44年)に現在の駿河台キャンパスの地に移転した。
1920年(大正9年)4月に大学令により旧制大学となる(他の5校とともに、私大としては早稲田大学・慶應義塾大学についで3番目)[注釈 5]。このとき認可されたのは法・商2学部で、政治経済学部は少し遅れて1925年(大正14年)に認可された。
1923年(大正12年)の関東大震災で駿河台の校舎はすべて灰燼に帰したが、学生・校友らの募金活動によって復興建築が進められ、1928年(昭和3年)に待望の記念館(3代目)が竣工した。翌年には専門部女子部を設置し、卒業生の中から日本における女性法曹の先駆者を出した。久しく募集停止していた専門部文科は1932年(昭和7年)に復活し、山本有三や横光利一などの著名作家が教壇に立った。
予科校舎移転については1929年頃から議論が行われていたが[89]、京王電軌社長井上篤太郎の尽力により1934年(昭和9年)に杉並区和泉町への移転が実現し、翌年には予科校舎の最寄り駅として明大前駅が開業した。
戦争の時代に突入する中で1939年(昭和14年)に専門部興亜科、1944年(昭和19年)に東京明治工業専門学校、戦争中から準備が進められていた[90]明治農業専門学校は終戦後の1946年(昭和21年)に設置された。
1949年(昭和24年)に法・商・政治経済・文・工・農の6学部からなる新制大学に改組し、翌年短期大学部を併置した。1953年(昭和28年)に私学で初となる経営学部を設置。駿河台・和泉・生田の3キャンパスに3万人以上の学生を擁する総合大学へと発展した。
戦後の明治大学の歩みは順調とばかりは言えず、専教連(専任教授連合会)による改革闘争、大学の規模拡大にともなう施設整備問題、あるいは大学紛争などの激動の時代を経て、1980年(昭和55年)に創立100周年を迎えた。
1991年(平成3年)に起きた替え玉入試事件では大学全体のガバナンス欠如の実態が明るみになり、社会全体からの厳しい批判の目にさらされた[91][92][93]。
その後の変革の動きは目覚ましく、2004年(平成16年)に情報コミュニケーション学部、2008年(平成20年)に国際日本学部、2013年(平成25年)に総合数理学部を相次いで新設。駿河台の校舎群はリバティタワーをはじめとする高層校舎に生まれ変わり、2013年に第4のキャンパスとして中野の警察大学校跡地に中野キャンパスを開設した。
2023年(令和5年)現在の明治大学は10学部、大学院12研究科および4つの専門職大学院を擁する。
『明治大学校歌』 (作詞:児玉花外、補作詞:西條八十、曲:山田耕筰)[169][170][171][172][173][174][175][176]
『明治大学応援団100年史』(明治大学応援団100年史編纂委員会、2021年)では校歌のほか応援歌13曲、学生歌2曲、応援曲16曲、愛唱歌4曲、その他4曲が紹介されているが、学生たちに歌い継がれることなく消えていった楽曲もあると考えられている[205]。
前身の明治法律学校は、代言人(現在の弁護士)試験、判検事登用試験において、その合格者数が全体の4割近くに達していた[15][211][212][213]。1920年(大正9年)に大学令による学部として認可された。
法曹志望者のために「法制研究所」 が、国家公務員総合職志望者には 「行政研究所」 が開設されている。大学院・法科大学院進学希望者で、成績が特に優秀な学生を対象とする早期卒業制度(3年)[214][215] がある。
また学部3年次時迄に司法試験に合格し 一定基準で直ちに司法修習を目指す者に対しても、早期卒業制度 (3年) を 2024年度から 拡大適用する[216]。
1903年(明治36年)に校友実業会の総会で商科設置が可決され、翌年9月に授業を開始した。創設に当たっては、東京商工会議所会頭渋沢栄一や校友実業会名誉校員名村泰蔵らの協力があり、佐野善作や関一などの東京高等商業学校教授が講師として多数招聘された[218]。1920年(大正9年)に法学部とともに大学令による学部として認可された。2001年(平成13年)に商学科、産業経営学科の2学科制から商学科・7コース制に再編。有名企業とのタイアップにより、学生がビジネスの現場において、チームによる課題解決能力などを養成すると共に、各社の経営幹部層へのプレゼンテーションを経て、実際に商品化や番組放送等を行うといった、特別プログラムが設置されている[219]。成績が特に優秀な学生を対象とする早期卒業制度(3年)[214] がある。
商学部ではファッション・ビジネス教育を推進している。座学と実践、海外研修が一つとなっている授業なども設置されている[220]。
政治経済学部の起源は1886年(明治19年)に設置された行政学部で、1904年(明治37年)の学則改正により政学部として再出発した(のちに政治経済科と改称)[221]。1920年(大正9年)の旧制明治大学発足時に政治経済科は学部昇格を見送られたが、学生や校友らの昇格運動により1925年(大正14年)に法・商両学部からの独立を果たした[222]。
2002年に地域行政学科を設置。2008年度にはカリキュラム改定により「ゼミ指導型コース制」を導入。3、4年次の科目選択の目安として、4つのコースを設け、さらにそれを区分して、それぞれ3つずつの科目パッケージを配置している。学生はゼミの担当教員の指導に基づいて、自身の研究テーマにふさわしいコースならびに科目パッケージを選ぶ。ジャーナリスト育成プログラムがあり、「基礎マスコミ研究室[223]」では、現役ジャーナリストによる講義・演習等が行われている。留学も含めて4年間での卒業が可能なダブルディグリープログラムなども設置されている。「ACE(英語実践力養成コース)」を設け、TOEICなども全学生が大学で受験可能である。
1905年(明治38年)に錦町分校で文学研究会が発足し、夏目漱石や上田敏らが課外講義を行った。専門学校令による文学部は翌年9月から正式に授業を開始したが、収支償わないとの理由で第1回の卒業生を出しただけで学生募集を停止した[224]。
その後1931年(昭和6年)の明治大学創設50周年を機に文科復活運動が起こり、翌年文芸科(昼間)・史学科(夜間)・新聞高等研究科(昼間)の3科をもって専門部文科が復活。戦後の1949年(昭和24年)に新制学部として文学部が発足し、文学科と史学科(翌年史学地理学科と改称)を設置。2002年(平成14年)に心理社会学科、2004年(平成16年)文学科に文芸メディア専攻、2018年(平成30年)心理社会学科に哲学専攻を設置した。
起源は1944年に設立された東京明治工業専門学校で、戦後の学制改革により1949年に工学部となり、1989年に理工学部に改組[225]。学部学生の3割程度が大学院に進んでいる[226]。
学部と大学院理工学研究科が一体となった教育・研究システム“I-MAST”(Institute of Meiji Advanced Science and Technology)により、学生に多くの選択肢を用意しており、学科横断の混合クラスによる一般教養授業や実践的言語教育などのカリキュラムの他、全国有数のシステム環境下での情報処理教育などに特色がある。また、グローバル人材養成の一環として、文系のキャンパスで英語などの授業を受けることも可能であり、内外の有力機関との共同研究なども進められてきている。
1946年に設立された明治農業専門学校が前身[225]。経済産業省の支援による拠点整備事業として、食料の安定的供給と農業の産業化を実現していく「植物工場」に関する研究開発・人材育成の全国8大拠点の一つである。化粧品や食品の研究もあり、女子比率が50%を超える学科もある。2012年には川崎市黒川地区の13.3ヘクタールの土地に、先端技術を集積した総事業費数十億円の研究・実習施設 明治大学黒川農場[229][230] を開設。
1953年、私学初の経営学部として設立。経営管理を対象とする専門の学部として、商学部から分離する形で発足。2002年に、経営、会計、公共経営の3学科制に移行。1990年代には学部単独で2万人以上の志願者を集めた。
学部一括入試を実施し学科所属は2年次からであるが、所属学科以外の演習(ゼミナール)や専門科目の履修も可能。リーダーシップや高度なコミュニケーション能力を養成する人材育成プログラムなどもカリキュラムとして設置。「グローバル人材の育成」の一環として、実践的英語教育、IT教育にも力を入れる。学部間共通総合講座に『青年社長育成講座』(事業継承予定の後継社長候補の学生や、起業志望の学生を対象)等が設置されており、現役企業経営者による講義など実践的なプログラムが用意されている。ソウル大学経営学部などと独自の学部間協定を結んでいる。成績が特に優秀な学生を対象とする 早期卒業制度(3年)[214] がある。
2004年に開設。文系・理系の枠を越えた教育カリキュラムを展開し、『社会、人文、自然の諸科学を超える新しい学問領域』の学部として位置づけられている[232]。1929年に設置された「専門部女子部(1944年に明治女子専門学校、さらに1950年に明治大学短期大学に改組)」の流れを受け継ぐ形で学部開設に至った経緯があり、男女共同参画社会の更なる推進や、女性のキャリア形成などのジェンダー研究には特に重点をおいており、ジェンダー研究という新しい学問分野を切り開き発展させるべく、2010年にジェンダーセンターを学部内に設置[232]。テレパシーによる情報伝達やコミュニケーション等を研究する超能力(超心理学)などの講座も置かれている。
少人数のゼミナール教育を1年次から4年次まで段階的に行っており、興味をもった分野を専門的に学んでいくことが可能である。情報処理においてはCCNAやオラクルマスターを目標として情報リテラシー教育を実施。国際関連科目も充実させており、他大にない外国語教育メニューなども揃える。社会調査士の資格取得に向けたプログラムなども設置。
メディア・リテラシーの養成に向けたプログラムでは、フジテレビジョンとの共同番組制作によるユニークな講座(映像表現論)を開設[233]。フジテレビ番組制作スタッフの指導により、学生がニュース映像の企画・立案、取材等を行い、最終的にひとつの番組として完成させる[234]。
日本の文化と社会システムを教育研究対象とする一方で、少人数での集中的な英語教育と異文化を正しく理解するための国際教養教育に力を注ぐ。留学プログラムとしては、オックスフォード大学等への語学留学や、セメスター留学の他、フロリダ州立大学・ディズニーワールドと提携した、インターンシップ留学(ディズニーの本拠で同社役員等による組織マネジメント、リーダーシップ等の授業を受けると共に、ディズニーワールドでの現場実習に於いて報酬を得ながら、国際社会におけるコミュニケーション力・リーダーシップを養うという半年間のインターンシップ)等のプログラムを設置[235]。また、北京大学とは共催講座を設けるなど特に交流が深い。また、漫画・アニメ文化に関する講座はこの学部に置かれている。男女比は約1:2と女子の比率が高い。2013年4月に和泉キャンパスから、新設された中野キャンパスに移転した。成績が特に優秀な学生を対象とする 早期卒業制度(3年)がある[236]。
2013年に開設した新学部[21]。数理科学と情報技術の最先端を教育し、数理科学やIT系分野のリーダーとなる人材を育成する。社会・人文・自然科学にまたがる複合的な視点から、数理的・論理的根拠をもって向き合うことのできる人材を養成する。
文理融合型の教育を重視することから、同じキャンパス内に設置されている国際日本学部の科目などの履修も可能としている。1年次からゼミ参加が可能。
2003年に文部科学省の大学知的財産本部整備事業モデル校として採択され、「明治大学研究活用知財本部」を設置。
2008年度に『明治大学先端数理科学インスティテュート(MIMS)[48]』 による「現象数理学の形成と発展」プログラムが明治唯一のグローバルCOEプログラムとして採択[55]。現象数理学とは、地震などの自然現象から世界経済などの自然や社会に多数存在する複雑なシステムを解明して社会貢献を目指す明治大学の研究者が生み出した新たな学問分野である。世界の研究機関と協定を締結しており、国際レベルでの教育研究交流を行っている。若手研究者教育の国際的ネットワークの構築を目的とし、EU諸国のInitial Training Network(ITN)と呼ばれる若手研究者育成プログラムに、日本側の連携機関となり、ヨーロッパ11カ国の大学と共同で申請を行っている[277]。
国内の大学としては最先端・最大級のITインフラを構築、ユビキタスカレッジ計画を実施する。また、2005年には東京有力私大の情報関連部門を連携させ、大学情報サミットを創設した。
共創的研究の促進及び、学外への紹介を目的とし、2017年より開催。学問間の枠をとった共創的コミュニティーの構築を目指し、激動する社会変化を先導的に予測し、未来に向けた技術や知見を社会に問うことで、産官学連携による画期的なイノベーションを起こすことを企図する。大学の研究成果の発表や、外部機関、企業などとのコラボレーション交渉、内外の有識者を招聘したシンポジウムや、一般参加者も含めたディスカッションなども行う。
1999年に設立した生涯学習機関リバティアカデミーは大学のもつ知的資産と大学院・図書館・博物館等の生涯教育部門をネットワーク化。基本理念は、高度専門職業人への貢献、地球市民の抱える課題・人間存在を探究する学問(リベラルアーツ教育)、地域主義(地域社会への貢献)の三つで、特別企画、教養・文化、資格・実務、語学、ビジネスの5部で講座を開講。各キャンパス と黒川農場において400以上の講座を開設[289][290]
2015年4月より、文部科学省高等教育局が推進する 「 履修証明制度(プログラム) 」[291] に参画し、『 女性のための スマートキャリアプログラム 』 を開講[292][293]。開講科目には、「ビジネス英文実務」 「ビジネス・プレゼンテーション」 などの 実務科目のほか、「ビジョン・ロードマップ」 「コーチング」 などの 自己啓発セミナー系分野の科目がある[294]。講座コーディネーターは、商学部 小川智由教授と、元フジテレビ・アナウンサーで情報コミュニケーション学部教授の 牛尾奈緒美が務めている[293]。
2015年12月22日には、加藤勝信一億総活躍担当大臣が同プログラムを視察に訪れ、福宮賢一学長と小川教授を交えて意見交換を行い、実際にコーチング科目での自己啓発の様子を見学した[295]。
2003年に文部科学省の大学知的財産本部整備事業のモデル校として採択を受け、「明治大学社会連携促進知財本部」を設置。社会と大学の新しい連携フレームの構築を目指し、研究成果から生まれた大学の「知」を社会還元することを、研究・教育に並ぶ大学の使命として位置付け、数々の事業を展開。
2024年現在、国内外に60万余の卒業生を送り出した 「明治大学校友会[297][298]」は 「明治はひとつ[299]」の精神のもと、母校発展・充実に寄与し、後に続く学生が各人の夢を実現し、社会に貢献し得るよう精力的な活動を続ける[300]。開校翌年の1882年には校友規則が決められ、校友資格として卒業生、塾監、部長経験者を校友と称すこととした。「校友」という名称を使ったのは、同大学が初めてとしている[301]。
そのほかの校友組織は業界や地域毎に「駿台クラブ」や「駿台会」という名称がつけられることが多く、大学の紀要として「駿台史学」という名称のものが刊行されるなどしているが、これらは明治大学本部のある「駿河台」の地名からつけられたものである。因みに、これらの組織・紀要の表記方法と駿台予備学校の表記方法は似ているが、直接的な関係はない。(駿台予備学校の創立者は、元教授の山崎寿春)
国内のOB・OG連合組織である『連合駿台会』は、1953年に経済界OB・OGの集いとして設立された『茗水クラブ』と、1964年に政界・学界・財界で活躍するOB・OGで日本を代表する大学造りを目指して結成した『明友クラブ』が、2002年に統合し設立された[302]。海外では、ニューヨーク、ロサンゼルスなどを始め、世界10拠点に校友組織が置かれている。その他、業界ごとの主なOB・OG組織として下記のものがある。
東京都心部に位置し、『リバティタワー』を中心とした都心型キャンパス。付近一帯は、江戸期には大名屋敷や旗本屋敷が軒を連ね、明治期には皇族や華族、三菱財閥本家などが居を構えた地であり、駿河台キャンパスは1910年に旧小松宮邸跡に開設された。
大学の象徴的存在である『リバティタワー』は、世界の情報発信基地を目指し更に1998年に竣工[314][315]。国土交通省による『都市景観大賞』などを受賞している。以後、2004年に『アカデミーコモン[288][316][317]』、2006年に『紫紺館』(校友会館)[318]、2013年に『グローバルフロント』[319][320]が完成。2021年「現代マンガ図書館」「米沢嘉博記念図書館」が猿楽町に新装オープン[321]。更に 猿楽町地区の再開発が、計画されている[322][323][324]。
長きに亘り大学の象徴であった『旧記念館』は関東大震災後、教職員はもとより学生・校友達がいち早く駆けつけ、自主的に復興活動を行って全学的に建設が進められたものであり(他にも西園寺公望による1,000冊以上の図書購入、三菱合資会社による1万5千円(当時)の寄付金等多くの援助があった[115]。後年、重要文化財指定候補となったが、維持運営等の問題により建替えに至る)、後身である『リバティタワー』はOB・OGをはじめとした大学関係者等からの約100億円(当時)の寄付などにより建設された[325]。
1930年に用地を取得、野球部やラグビー部などのグラウンドとして先行使用を開始。1934年4月、予科校舎が移転。杉並・永福の住宅街をバックグラウンドとする一方、明大前駅は渋谷・新宿・吉祥寺・下北沢の結節点にあたり、それぞれから約3 - 10分という立地でもある。
元より明大前駅は、校友の利光鶴松(小田急グループ創業者)と井上篤太郎(京王グループ創業者)の協力により、離れた地にあった双方の企業所有の二つの駅を移転・統合させ「明大前駅」として新たに開設されたものであり、更に沿線の発展の歴史も加わり、渋谷、新宿、吉祥寺など主要タウンへのアクセスに恵まれた地でのキャンパス誕生に至った。
2005年4月には情報コミュニケーション学部開設に合わせ、地上7階建て全面ガラス張りの新校舎である「和泉メディア棟」が完成、メディア自習室、語学用Call自習室、メディアライブラリー等を設置。2009年3月には国際日本学部の開設に合わせ 「和泉インターナショナルハウス」(国際交流会館)が完成。
2012年5月に開館し、「グッドデザイン賞(2013年度)[261]」 及び 「日本図書館協会建築賞(2014年度)[262]」 を獲得した 新和泉図書館[258][259] は「入ってみたくなる 滞在型図書館」のコンセプトを掲げ、学生の利用率が非常に高く[260]、留学生の間では「Terminal」との愛称で親しまれている。
2022年3月には 創立140周年記念事業として、新しい教育棟 和泉ラーニングスクエア (LS) が竣工。和泉LSは、学修意欲の促進をはかるため、各フロアが広く見渡せる 吹き抜け構造をとる。用途に応じた大中小の教室、自由な雰囲気で机·椅子のない「カイダン教室」ほか、学生同士の様々な交流を促す「プレゼンテーション·ラウンジ」や 外から見透せる 少人数学習ユニット「グループ·ボックス」、「自習スペース」 や 外気にもあたれる「休憩スペース」など、多種多様なスペースを 数多く設置する。新しい学修環境を 積極的に取り入れて、学生の主体的な学びを支援する。また和泉LSは、最新の省エネ化建築物に付与される「ZEB ready」認証を取得。先進の技術により、従来比 52%の省エネ化を実現する[328][329][330]。
現在、和泉キャンパス 新研究棟建設計画の 検討が進められている[331]。
学生の間では、駿河台への進級後に和泉での授業を再履修することを「和泉返し」、留年することを「和泉止まり」という俗語が存在する。
キャンパスは、新宿から電車で20分余の距離にある生田の高台に立地。17万m2の敷地に最新鋭の設備や大規模な実験装置などを擁する。
この地は旧陸軍科学研究所傘下の登戸研究所跡地で、終戦後の1945年10月から1949年秋までは慶應義塾大学医学部予科、工学部予科、法学部予科(1年)の仮校舎として使用されていた[333]。
かつて存在した第二校舎3号館(現在の第二校舎A館の場所)は、山崎豊子原作の映画『白い巨塔』(1966年公開)のロケ地となったことでも知られていた[334]。
『明治大学平和教育登戸研究所資料館』が2010年に開館、『新化学棟』(第二校舎D館)が2011年に完成。2012年に約1,240m2のキャンパス隣接地を取得し 『地域産学連携研究センター』 を開設。市民講座「リバティアカデミー」の開設や 小中学生対象の夏休み科学教室[335]、中高生対象の最先端研究成果体験プログラム等を実施。2014年、第一校舎6号館竣工。敷地内には大型のグラウンドの他、馬術部などの練習所も設置されている。なお、2012年4月には生田キャンパスとは別に、川崎市麻生区黒川の里山を有する自然豊かな地(12.8万m2)に、最先端の農学研究・実習施設である明治大学黒川農場が新たに開設された。現在、生田キャンパスにおける多様な学びの推進、教育施設の充実を目的とした「生田キャンパス第二中央校舎(センターフォレスト)」整備が本格化。2023年4月着工、2025年度からの利用開始を目指す[336][337][338][339][340][341]。
また、生田キャンパス 第一校舎 新1号館 建設計画の 検討が 進められている (’21年度事業計画P.15)。
2013年4月、戦前・戦中は陸軍中野学校、戦後は警察大学校があった中野区の中野四季の都市内に第4のキャンパスとして開設。これに合わせて、総合数理学部の新設と国際日本学部の和泉キャンパスからの移転を行った。
教室・研究室等の入る地上14階、地下1階の「高層棟」と食堂・図書館・ホール(400席)等の入る地上5階の「低層棟」からなる(設計・監理:三菱地所設計、施工:清水建設)[344][345]。両棟はガラスの吹き抜けのアトリウムでつなっている。自習スペース・コミュニケーションスペースとして、キャンパス各所に多くのラウンジを設けている。
現在、中野キャンパス 第2期整備計画 (仮称) の 検討が進められている (’21年度事業計画P.15)。
明治大学では1929年(昭和4年)11月に東京学生消費組合の支部として駿台学生消費組合が発足したが、大学当局の公認を得ることはできず、1936年(昭和11年)9月に閉店する。その後賀川豊彦の後援により一度再建したが、経営難により翌年消滅した[120]。
戦後の1959年(昭和34年)1月17日に明治大学消費生活協同組合が発足し、同年4月11日に駿河台・和泉・生田の各キャンパスで店舗営業を開始した。同年8月に和泉で生協食堂が開店し、翌年には生田で生協食堂が開店し、和泉で学生会館が開館した[359]。
明大生協は過激派による学生運動の活動拠点として、その資金源ともなっていた[360]ため、明大当局が警察の協力を得て2003年までに解体した(詳細は「明治大学#新制明治大学」を参照)。明大当局は並行して1996年1月に、外郭事業会社である株式会社明大サポートを設立しており、現在は生協の事業を引き継ぐ形で運営している[361]。明大サポートが明治大学から受託している施設は下記の学生食堂・カフェ・レストラン他、図書館やコンビニなど多岐にわたっている[360][362]。
明治大学での学生食堂の歴史は1922年(大正11年)9月に大学の監督下で開業した付属食堂に始まる。関東大震災後の1924年(大正13年)に業者として精養軒、1926年(大正15年)に丸の内の中央亭が入った[363]。1941年(昭和16年)に現在のアカデミーコモン付近で師弟食堂が開店。リバティタワー17階にスカイラウンジ暁ができる前は大学会館の地下1階で営業していた[364][365]。
企業等、外部機関による寄附講座が充実しており、ジャーナリズム、メディア戦略からファッションビジネスまで様々な専門分野を網羅。
下記の各自治体と、交流事業、地域支援等の協定を締結。数々の事業を展開。
1910年にはアメリカのコロンビア大学、ペンシルベニア大学、シカゴ大学等との間で留学生協約を結ぶなど[383]、当時の国際交流の最先端を進んでいたが、大戦等を挟みドメスティックな方向に流れ、近年になって国際化の流れを再開。現在では、主な協定校にケンブリッジ大学、オックスフォード大学、パリ大学 の他、伝統的に人事交流の強いアジア圏では、中国の北京大学、清華大学、上海交通大学、南京大学、韓国のソウル大学(経営学部)、高麗大学、延世大学と交流をもつ。研究機関ではフランス国立科学研究センター(ヨーロッパ最大の政府基礎研究機関)、ロシア科学アカデミー、中国社会科学院など、各地域の研究機関との国際的な連携体制の構築が進められている。
大学が設置する海外留学助成制度の中でも特に指定された海外の名門大学に、協定留学か認定留学の制度を利用して留学する学生に対し、返還の必要のない給付型助成金を支給する制度。入学後、早期に留学カウンセリングを行い、英語集中プログラムや英語授業科目の受講などにより、英語力と異文化コミュニケーション力の大幅な向上を実現させ、2 - 3年次に指定された名門大学への留学(1学期間 - 1学年間)を目指す。
文部科学省の平成21年度国際化拠点整備事業に、東大・京大等と共に日本を代表する国際化拠点校として採択された[54][384]。世界トップレベルの大学を目指し、『グローバルコモン・プログラム』を立ち上げ、2020年度までに4,000人の留学生を受入れ、1,500人の学生を世界に送り出す計画を推進する。更なる国際競争力の強化に向け、国際的に活躍できる高度な人材の養成を図る。北京やモスクワの日本留学センターなどの他、シドニー、ニューヨーク、パリ等でも設置を進め、ワンストップサービスを日本の大学全体に提供する。
クラブ・サークルが、大学の教室、学生共用施設、体育施設等会場等を使用するためには、大学公認の登録団体となって(責任者の部長には、大学専任の教職員が充てられる)大学当局の指示を受ける必要がある[396][397]。明治大学では公認していない団体については、学内での 勧誘活動を 認めていない。毎年特に春の入学シーズンには、新入生を狙った悪質な勧誘等が 学外でも横行するので、充分な 注意を要する[398][399]。
明治大学体育会は、1906年に公認された剣道、庭球、端艇の各部を最古とし、明治末年までに弓道、競走、柔道、相撲、野球の各部が相次いで創部され、現在43部を数える。1953年には日本初の学生スポーツ新聞『駿台スポーツ』(のちに『明大スポーツ』と改題)を創刊。1959年には、野球部OB会の『駿台倶楽部』をはじめとした各部のOB組織により、体育会の総合組織として駿台体育会が結成される。2020年現在、日本版NCAAとも称されるUNIVASへの参加は見送っているものの、メジャー競技を中心に大学トップレベルの成績を収めており、2019年には、野球、ラグビー、サッカーなどが学生チャンピオンになっている他、女子の躍進も見られ、近年ではラクロス、フィギュアスケート、ゴルフ、剣道などの女子部が同じく大学王者となっている。また、在学中から国際的な舞台での活躍を志向する者もみられ、サッカー、ラグビー、卓球などのプロ選手第1号が本学から誕生している。
この節の加筆が望まれています。 |
前身の明治法律学校は設立趣意書の中で「権利自由」を掲げていたこともあって、政治集会や自由党などの政党活動に関与する学生も少なくなかった[87]。
1913年(大正2年)の第一次護憲運動の暴動に加わって退学処分を受けた学生の中に大野伴睦(のちの自民党副総裁)がいた[456]。
大正デモクラシー期には青年白熱党や木堂会、オーロラ協会、渡部義通の七日会(建設者同盟に連絡する学生団体)などが続々と結成される一方で[457]、日本魂会のような学生右翼団体が誕生するなど、学生間での思想対立も次第に顕著となっていった[458]。また、旧制大学への昇格時に認可見送りとなった政治学科の学生たちが中心となって学長排斥運動を起こしたこともあった(植原・笹川事件)。
昭和期にも学校騒動がたびたび発生し、1932年(昭和7年)の授業料・教育条件問題同盟休校事件、さらに翌年の予科同盟休校事件によって横田秀雄総長以下理事全員が引責辞任へと追いやられた。
卒業生の進路で最も多いのは民間企業で、帝国データバンクによる出身大学別・社長数ランキングでは第4位[459]。私学で初めて商学部及び経営学部を創立した伝統を有し、多くの著名企業の創始者を輩出してきた。 就職支援体制の強さから“就職の明治”などとも呼ばれ、主要メディアによる大学別就職指導関連ランキングでは第1位となっている[460][461][462][463]。1年次から企業の人事担当者による授業があり、駿河台や生田キャンパスでは、企業約70社を集めて学内採用選考会・面接会などが開催される。
公務員試験の指導機関としては、『行政研究所』(1学年定員約100名。筆記・面接試験により選抜)が設置されており、資格取得予備校から講師が招かれるなど、事実上の学内予備校ともいわれる。司法試験、公認会計士試験等の国家試験受験者用に、駿河台キャンパス猿楽町校舎などに専用施設『国家試験指導センター』を開設。また、インターンシップ制度の充実、キャリア支援の更なる強化に向け、「就職キャリア支援センター」が設置されている。
付属学校は中高それぞれ3校あるが、学校法人明治大学が管掌しているのは明治大学付属明治高等学校・中学校のみで、残る2校は別法人の所属であり、実質上系属校にあたる。
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