磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5月26日) - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の法学者。大審院検事・判事。弁護士。法典調査会委員。衆議院議員。貴族院勅選議員。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
経歴
- 1851年(嘉永4年)
- 1857年(安政4年)
- 6歳で養家を相続し、上野秀太郎と称する。
- 1868年(明治元年)
- 1869年(明治2年)
- 東京に上京。昌平学校に入るが、すぐに退校。亀谷省軒に漢学を学ぶ。
- 1870年(明治3年)
- 村上英俊の達前堂に仏学を学ぶ。
- 1871年(明治4年)
- 1872年(明治5年)
- 1875年(明治8年)
- 1878年(明治11年)
- 8月4日、井上と共に法学士号取得。光妙寺三郎(同年2月23日取得)に次ぐ、日本人として2番目の取得者であった。
- 12月、帰国。
- 1879年(明治12年)
- 1880年(明治13年)
- 1881年(明治14年)
- 11月、司法省少書記官兼参事院議官補。
- 1884年(明治17年)
- 5月、司法省大書記官。
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)
- 11月、司法省法律取調委員会報告委員。
- 1890年(明治23年)
- 1月、明治法律学校機関誌『法政誌叢』に「法理精華ヲ読ム」を発表し、江木衷ら延期派(英法派)を痛罵。
- 7月、第1回衆議院議員総選挙において富山県第1区より当選。
- 10月、大審院判事に任ぜられ、議員辞職。
- 1891年(明治24年)
- 7月、大審院検事となる。
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)
- 7月、法典調査会査定委員。
- 1898年(明治31年)
- 5月、東京組合弁護士会会長(以降5回当選)。
- 1900年(明治33年)
- 古賀廉造と刑法改正論議。老朽批判を受ける。
- 1902年(明治35年)
- 東京府から第7回衆議院議員総選挙に出馬、衆議院議員となる(以降、連続3回当選)。
- 1907年(明治40年)
- 法学博士。
- 1908年(明治41年)
- 1910年(明治43年)
- 1914年(大正3年)
- 3月31日 - 貴族院議員に勅選される[5]。
- 1923年(大正12年)
- 1月、電車に接触し、右踵を切断。
- 5月、東京弁護士会会長となる。
- 9月1日、関東大震災に被災し、避難先の本所被服廠跡にて焼死(享年73)。遺骸は発見されなかった。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[8]
逸話
花札賭博が大好きで、大審院検事のとき、大審院長や同僚を誘い、柳橋で芸者をあげて遊興三昧のあげく、辞職に追い込まれた。それでも花札は終生止められず、明治天皇にまで教え、いたく興味をもたれたという[9]。
1892年(明治25年)の弄花事件は、前年の大津事件の報復とも、大審院内部の判事対検事の抗争とも言われるが、磯部の免官は、この事件で訴追側の検察内部に疑惑の中心人物がいては不都合だったためとも考えられる[10]。
主な著作
- 『大日本帝国憲法註釈』阪上半七、1889年。
- 『日本刑法講義筆記』(3冊合本)警官練習所、1889年。
- 『刑事訴訟法講義』(上下2冊)八尾書店、1891年。
- 『民法釈義』(「財産編 第1、2部」「人事編―附・法例釈義」「相続法」「証拠編」に分冊刊行 )長島書房、1893年。
- 『刑法講義』(上下2冊)八尾書店、1893年。
- 『商法釈義』(全16冊)長島書房、1893年。
- 『改正刑法正解』六合館、1907年。
脚注
参考文献
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