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南方特別留学生(なんぽうとくべつりゅうがくせい)は、太平洋戦争中の1943年から1944年にかけて、大日本帝国政府が東南アジアの各占領地区から招いた国費留学生である。略称は南特(ナントク)。
留学生の出身地は、現在のマレーシア・インドネシア・ミャンマー・タイ・フィリピン・ブルネイであり、当時の各地の有力者、政治家の子弟などそれぞれの土地の将来を担うと見られた有為の人材が多かった。なかでも日本実質支配下での傀儡政府首脳(ビルマ国首相バー・モウ、フィリピン行政府長官バルガス、フィリピン(第2)共和国大統領ラウレルなど)の子弟が含まれていた。
留学生の総数は205名(一説には195名)とされ、そのうち1943年入学の第1期生は104名、1944年入学の第2期生は101名、すべて男子で高等学校在学者・卒業者から選抜された。地域(占領地)別内訳は、フィリピンが最も多く51名(うち第1期生27名 / 以下同じ)、次いでビルマ47名(17名)、ジャワ44名(24名)、スマトラ16名(7名)、マライ12名(8名)、タイ12名(0名)、セレベス11名(11名)、南ボルネオ7名(7名)、バリ・セラム3名(3名)、北ボルネオ2名(0名)である(『アジア戦時留学生』)。
1942年初頭から半ばにかけて開始された日本軍政のもと、東南アジアの各占領地では日本語教育が実施された。このような状況の中で日本への留学生が募集され、試験により選抜された候補生たちは、来日に先立って各軍政当局により軍隊式訓練を受けた(インドネシア(オランダ領東インド)の場合、軍政開始にともない3大学すべてが閉鎖されたため、日本留学は高校卒業後の教育を受けられる唯一の機会であった)。
そして第1期生は1943年5月、第2期生は1944年4月頃に来日した(第2期生の来日時、既に日本軍は制空権・制海権を奪われていたため、日本渡航は非常な危険をともなっていた)。彼らは最初の1年間、東京の目黒にあった国際学友会(大東亜省管轄)の日本語学校で語学研究を受け、2年目(第1期生は1944年4月、第2期生は1945年4月から)は指定された専門学校・高等師範学校で大学入学のための予備教育を受けた。留学生の受け入れ校は彼らの出身地を考慮して九州・中国地方など気候温暖な地域の学校(第1期生の場合、最初の受け入れ先で特に多かったのは宮崎高農(現・宮崎大・農)の10名、久留米高工(九大・工)の18名、熊本医大附属専門学校(熊本大・医)の8名、最多が広島高師(広島大・教)の20名で、警察官志望者の場合は横浜警察練習所など)が割り当てられ[1]、私学では明治大学が唯一の受け入れ校となった[2]。留学生はこれらの受け入れ校で日本人学生と区別された特別コースで勉学に励んだ。3年目(第1期生は1945年4月以降)になると留学生は京都帝大・広島文理大(広島大)・陸軍士官学校などに入学した。
留学生は当時の金額で月額100円~120円の奨学金を支給されており、経済的にはあまり困窮していなかった(しかし物資難により食糧の確保には苦労したという)ものの、起床から消灯に至るまで厳格な時間割を順守することが求められ、外出にも許可を要したため一般市民と交流を深める機会はほとんどなかった。また(戦前から滞日していた)一般の東南アジア出身留学生との交流も厳しく制限されていた。
戦局悪化にしたがって留学生も戦災に遭うようになり、神奈川県相武台の陸士に入学したジャワ出身留学生の一人はアメリカ軍機の機銃掃射により死亡した。1945年に入って東京での空襲が本格化すると、戦災を避けて留学生を順次地方都市に移す措置がとられ、特に大学の場合、京都帝大が集中的に受け入れることとなった。しかし東京が空襲で壊滅した後には地方都市への空襲が激化したため、各地で留学生寮や受け入れ学校、国際学友会の施設が破壊され、行き場を失った留学生は再び焼け跡の東京に戻らざるを得なくなった。
特に1945年8月6日の広島への原爆投下においては、この時点でインドネシア出身者4名、マラヤ出身者3名が広島文理大・高師で学んでいた。彼らのうちある者は講義中の教室、あるいは市内大手町の萬代橋東詰付近にあった留学生寮(興南寮)において被爆した。行方不明になったマラヤ出身のニック・ユスフ(後に避難先の五日市での死亡が判明し、同町に墓がある)を除く留学生たちは元安川岸に避難し、比較的軽傷であった者は他の被爆者の救援に当たった。彼らは8月末に列車で東京に向かったが、サイド・オマール(マラヤ出身)が体の不調を訴え途中下車して京大病院に入院するも9月初めに死去、京都市内に埋葬された。
敗戦により南方特別留学生受け入れ事業は中止となり、特にマラヤ・ビルマ・フィリピンなど欧米の旧宗主国による支配が復活した地域では留学生に対し帰国命令が出たため、彼らは学業半ばで帰国させられることになった。日本での残留を希望した者は、駐留する連合軍で通訳などの仕事をしながら勉学を継続し、旧オランダ領東インド出身者はインドネシア独立戦争の影響もあって帰国は遅れたものの、多くは1950年代初頭までには学業を終え帰国した(広島で被爆した留学生も、先述の死亡した2名を除き無事に帰国した)。
出身地に帰国した留学生からは、その後政治家・教育者・実業家・法律家など祖国の政治・経済の中核を担った人々が輩出した。また知日家として各分野で日本との実務交渉にあたった人物も多い。
日本実質支配下での傀儡政府首脳など、各地の有力者・政治家の子弟を含んでいた「南特」は、そのため皮肉をこめて「大東亜の人質」と呼ばれることもある[3]。また留学生の多くが現地民族の出身者であって華人やインド系の青年が含まれなかった点をもって、人種差別的と指摘されることもある[要出典]。尚美学園大学准教授の荘発盛はスレンバン出身であり地元の大学に進学できず日本に留学した経歴を持つが、かつての「南特」の制度に対しては否定的であり、戦争を美化する行為であるとの見解を持っている。
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