横田秀雄
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横田 秀雄(よこた ひでお、文久2年8月19日(1862年9月12日) - 1938年(昭和13年)11月16日)は、日本の裁判官(大審院長)。法学博士。明治大学総長。帝国学士院会員。雅号は鵠山。
信濃国埴科郡松代城下代官町(後の長野市松代町)に、松代藩士の父・横田数馬、母・亀代子の長男として生まれる。長じて1877年長野県師範学校に入学し、同年第十八番変則中學校の英学専門生となるが、翌年中退。上京して1880年司法省法学校に入学。
1888年(明治21年)帝国大学法科大学(のち東京大学法学部)を卒業。判事になる。
1899年(明治32年)慶應義塾大学部政治科教授(物権担当)。東京専門学校や明治法律学校などにも出講した[2]。1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)まで大審院長を務めた。
たぬき・むじな事件を無罪とする[3]、また男子の貞操義務を認める、など複数の画期的・進歩的な判決を出した[4][5]。
1924年(大正13年)11月から翌年2月まで明治大学学長、5月復職、1932年(昭和7年)3月同大学総長[2]。学長および総長在任中に関東大震災で焼失した記念館の再建、政治経済学部や専門部女子部、専門部文科の設置、和泉グラウンド(のちの和泉キャンパス)の開設などに尽力したが、学内紛争への対応に苦慮し[6]、1934年(昭和9年)3月辞任[2]。
横田は乃木希典を非常に尊敬していた。長男の正俊によると、「軍人や役人は乃木さんのようでなければならない。」というのが口癖で、乃木将軍殉死の報に接したときは、正座してハラハラと涙を流したという。
横田は寄席が好きだった。寄席について「一体講談や落語はいいものです。世間の事情、下層階級の生活状態がよくわかる。裁判官はこういう処へ行って見るのもいいですね。私がよく通った頃は円朝の全盛時代でしてね、その頃橘之助という三味線の爪弾などをよくやる女がいて書生に人気があった…」と述べている(『国民新聞』昭和2年8月)。
退職後の横田は明治大学学長、総長のかたわら郷里に象山神社を建設しようと奔走した。横田は「七十五歳になった今日しなければならないことが二つある。その一つは同郷の先輩である佐久間象山先生のことで、神社建設のために狂奔していること、今一つは、今少し先生の事蹟を世間に発表したいこと」と述べている(『文藝春秋』昭和11年8月)。
(和田英#家系・親族も参照)
桂太郎━━三郎 ┃ ┣━━━井上光貞 ┃ ┃ 井上馨━━千代子 ┃ ┃ 伊達宗徳━━二荒芳徳 ┃ ┃ ┏明子 ┣━━┫ ┃ ┗治子 北白川宮能久親王━━━拡子 ┃ ┃ ┏一義 ┃ ┣泰介 ┃ 石坂泰三 ┣泰夫 ┃ ┃ ┣━━╋泰彦 ┃ ┃ 織田一━━雪子 ┣信雄 ┃ ┣智子 ┃ ┗操子 ┃ ┏霜山精一━━━徳爾 ┃ ┗秀野 ┏正俊 ┃ ┃ ┣━━━╋吾妻光俊 ┃ ┃ ┏━秀雄 ┗雄俊 ┃ 横田数馬━╋和田英 ┃ ┗小松謙次郎
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