秋田県
日本の都道府県 ウィキペディアから
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秋田県(あきたけん、旧字体・異体字:秋田縣・穐田縣・龝田縣[1])は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は秋田市。
あきたけん 秋田県 | |||||
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| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 東北地方 | ||||
団体コード | 05000-8 | ||||
ISO 3166-2:JP | JP-05 | ||||
面積 |
11,637.52km2 | ||||
総人口 |
896,225人[編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 77人/km2 | ||||
隣接都道府県 |
青森県 岩手県 宮城県 山形県 | ||||
県の木 | 秋田杉 | ||||
県の花 | フキノトウ | ||||
県の鳥 | ヤマドリ | ||||
県の魚 県の歌 マスコット |
ハタハタ 秋田県民歌、県民の歌 んだッチ | ||||
秋田県庁 | |||||
知事 | 佐竹敬久 | ||||
法人番号 | 1000020050008 | ||||
所在地 |
〒010-8570 秋田県秋田市山王四丁目1番1号(本庁) 北緯39度43分07秒 東経140度06分09秒 〒010-8572 秋田県秋田市山王三丁目1番1号(第二庁舎) | ||||
外部リンク | 美の国あきたネット | ||||
ウィキポータル | 日本の都道府県/秋田県 | ||||
ウィキプロジェクト |
秋田県は日本海に面しており、気候区分は日本海側気候に分類される。日本海側気候の中でも秋田県の特徴として沿岸部の冬季の降水量はそれほど多くないが、日照時間が極端に少ないことが挙げられる。
内陸部では低温のため、同じ日本海側の山形県や新潟県と同様に県内陸部のおよそ90%の地域が特別豪雪地帯に指定されており、雪が多く降り積もりやすい県である。冬季間の日照時間は全都道府県の中で最も少ない。そのため、朝晩の放射冷却現象が起こらず(鹿角市と仙北市などの内陸部を除く)、特に日本海側沿岸部などは北関東よりも朝の気温が高いことも多いなど緯度の割には温暖であり日較差が非常に小さいのが特徴である。内陸部の一部はケッペンの気候区分による亜寒帯湿潤気候(Dfa,Dfb)となり、寒さが厳しい。また、秋田沖付近に発生する暖流の突発的な大気潮汐によって生み出された寒冷渦や極低気圧からもたらされる暴風雪や「ドカ雪」と呼ばれる豪雪がしばし見られることもある。
一方で、夏季は高温多湿でどんよりとしており梅雨明けのないまま秋を迎えることも珍しくない。しかしながら、太平洋側から吹く季節風は奥羽山脈の山々に遮られ、フェーン現象が発生することがある。太平洋側に冷害をもたらすと言われるやませも高温乾燥した風となり、県内陸部中央から県内陸南部では気温が上昇し真夏日や猛暑日になることもある。特に仙北市周辺では、この風が豊作をもたらすとして「宝風」と吟われる(生保内節)。
平年値 (月単位) |
日本海側沿岸部 | 北東部内陸 | |||||||||||||||
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八峰町 八森 | 能代 | 大潟 | 男鹿 | 五城目 | 秋田 | 秋田市 岩見三内 | 秋田市 雄和 | 秋田市 大正寺 | 由利本荘市 本荘 | 由利本荘市 矢島 | にかほ市 象潟 | 北秋田市 鷹巣 | 北秋田市 脇神 | 北秋田市 阿仁合 | 大館 | ||
平均 気温 (℃) |
最暖月 | 23.9 (8月) | 24.1 (8月) |
23.6 (8月) | 23.5 (8月) |
23.7 (8月) | 24.5 (8月) | 23.7 (8月) | 23.6 (8月) | 24.1 (8月) | 24.5 (8月) |
24.9 (8月) | 23.5 (8月) |
23.0 (8月) | 23.2 (8月) | ||
最寒月 | 0.4 (1月) | -0.2 (2月) |
-0.3 (1月) | -0.5 (1月) |
-1.1 (1月) | 0.0 (1月) | -1.5 (1月) | -1.2 (1月) | 0.5 (1月) | -0.4 (1月) |
2.1 (1,2月) | -1.2 (1月) |
-2.4 (1月) | -2.5 (1月) | |||
降水量 (mm) |
最多月 | 167.3 (7月) | 161.9 (6月) |
161.5 (8月) | 170.4 (8月) |
175.9 (8月) | 183.5 (11月) | 233.4 (7月) | 209.4 (11月) | 211.7 (12月) | 270.6 (11月) |
188.5 (7月) | 203.5 (7月) |
236.1 (8月) | 210.5 (7月) | ||
最少月 | 58.3 (2月) | 76.0 (3月) |
62.5 (2月) | 72.0 (2月) |
78.8 (3月) | 84.0 (2月) | 111.7 (3月) | 101.9 (3月) | 101.0 (3月) | 117.5 (5月) |
93.9 (3月) | 86.5 (2月) |
111.3 (3月) | 72.5 (2月) | |||
平年値 (月単位) |
北東部内陸 | 仙北・南東部内陸 | |||||||||||||||
鹿角 | 鹿角市 湯瀬 | 鹿角市 八幡平 | 仙北市 田沢湖 | 仙北市 角館 | 大仙市 大曲 | 横手 | 由利本荘市 東由利 | 湯沢 | 湯沢市 湯ノ岱 | ||||||||
平均 気温 (℃) |
最暖月 | 22.8 (8月) | 22.1 (8月) |
19.9 (8月) | 23.0 (8月) |
24.0 (8月) | 24.0 (8月) |
24.4 (8月) | 23.7 (8月) |
23.7 (8月) | 22.4 (8月) | ||||||
最寒月 | -3.1 (1月) | -3.0 (2月) |
-5.1 (1月) | -3.0 (1月) |
-2.0 (1月) | -2.0 (1月) |
-1.8 (1月) | -1.4 (1月) |
-1.8 (1月) | -2.4 (1月) | |||||||
降水量 (mm) |
最多月 | 165.8 (7月) | 167.0 (8月) |
209.8 (8月) | 266.8 (7月) |
234.4 (7月) | 187.2 (11月) |
167.8 (12月) | 251.4 (12月) |
172.2 (8月) | 214.8 (8月) | ||||||
最少月 | 58.9 (2月) | 72.8 (3月) |
94.0 (2月) | 94.2 (2月) |
120.5 (3月) | 90.1 (3月) |
79.4 (3月) | 121.5 (4月) |
70.5 (3月) | 116.8 (3月) | |||||||
県下には、以下の13市6郡9町3村がある。秋田県では、美郷町、三種町、八峰町が「ちょう」である以外は、町はすべて「まち」、村はすべて「むら」と読む(対等合併によって誕生した町が「ちょう」を名乗る傾向がある。平成の大合併以前は、すべて「まち」と読んだ)。人口は2024年10月1日現在。
1980年 | 1990年 | 1995年 | 2000年 | 2005年 | 2010年 | 2015年 |
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秋田 都市圏 38万4718人 |
秋田 都市圏 43万5144人 |
秋田 都市圏 45万0274人 |
秋田 都市圏 45万2316人 |
秋田 都市圏 42万9178人 |
秋田 都市圏 41万2968人 |
秋田 都市圏 39万7801人 |
大館 都市圏 9万5521人 |
能代 都市圏 10万2767人 |
横手 都市圏 11万1887人 |
横手 都市圏 10万8286人 |
大仙 都市圏 14万8258人 |
横手 都市圏 16万8880人 |
横手 都市圏 15万6739人 |
能代 都市圏 9万0847人 |
大館 都市圏 9万0069人 |
能代 都市圏 9万9720人 |
大曲 都市圏 10万4840人 |
由利本荘 都市圏 11万8527人 |
大仙 都市圏 13万9543人 |
大仙 都市圏 13万0585人 |
横手 都市圏 7万2708人 |
横手 都市圏 7万8822人 |
大館 都市圏 8万8231人 |
能代 都市圏 9万5578人 |
横手 都市圏 10万6832人 |
由利本荘 都市圏 11万2773人 |
由利本荘 都市圏 10万5251人 |
大曲 都市圏 6万9993人 |
大曲 都市圏 7万7328人 |
大曲 都市圏 8万7986人 |
本荘 都市圏 8万6256人 |
能代 都市圏 9万0887人 |
能代 都市圏 9万0028人 |
能代 都市圏 8万2476人 |
本荘 都市圏 6万7337人 |
本荘 都市圏 6万8446人 |
本荘 都市圏 8万2462人 |
大館 都市圏 8万6246人 |
大館 都市圏 8万2504人 |
大館 都市圏 7万8946人 |
大館 都市圏 7万9514人 |
湯沢 都市圏 4万9612人 |
湯沢 都市圏 6万8421人 |
湯沢 都市圏 8万1476人 |
湯沢 都市圏 7万7989人 |
湯沢 都市圏 7万3557人 |
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県の地域振興局の管轄地域により、県内は8つの地域圏に区分されている。それらは「県北」「中央」「県南」の3つに大別されている。由利地域振興局管内(旧由利郡地域)を県南とすることもある。ただし、衆議院選挙・小選挙区の区割りでは、秋田市(1区)・県北(2区)・県南(3区)とされている(この区分では、いわゆる男鹿潟上南秋地区が、県北部の扱い)。
地域圏の名称は目的に応じて多少違いがあり、振興局の名称は旧郡名、地域の名称は平成の大合併前の中心市名と旧郡名、都市計画における広域都市圏の名称は平成の大合併前の中心市名となっている。 以下に記載する人口は、2006年(平成18年)8月1日現在の推計人口。秋田県の総人口は1,135,156人。
現在の秋田県は、令制国での出羽国と陸奥国の各一部(明治初年にそれぞれ分割されたうちの羽後国と陸中国の各一部)からなる。「秋田」の名前の由来は、飛鳥時代の斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫の日本海遠征において、この地を訪れ地名を「齶田(あぎた)」と報告したことから始まる。「齶田(あぎた)」はアゴに似た地形から付けられたものだともいわれており、雄物川河口部の古地形のことを示している可能性がある[3]。
その後、天平5年12月26日(734年2月4日)に庄内地方にあったとされる出羽柵が高清水の岡に移し置かれ、後に天平宝字年間ごろには、「秋田城」と呼ばれるようになり、「秋田」の表記で定着した。中世後期には日本最古の海洋法規集「廻船式目(廻船大法)」には三津七湊の一つとして「秋田湊」と呼ばれ重要な湊の一つに数えられた。
秋田県にも旧石器時代から人が住んでいた証拠として多くの遺跡が発掘されている。それらの遺跡から人の手によって加工された石器が多数出土している。製作技術からナイフ形石器、細石刃などと命名されている。このうち細石刃は木や骨などに溝を彫ってそこに埋め込み、鋭利な刃物として使用したと推測され、旧石器時代終末から縄文時代草創期にかけて使用されたと考えられている。
遺跡発掘としては、1969年(昭和44年)から5次にわたって発掘された大仙市協和の米ヶ森遺跡がはじめである。この遺跡からは石器・石核・石片などおよそ1,000点が出土している。この後は工業団地や自動車道などの建設工事で多くの遺跡が発掘調査されている[4]。
今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった。縄文時代である。縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルある。太平洋戦争中は「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。
西日本では、この縄文人に加え弥生時代ごろから弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えた。雑多な民族は次第に統一され、ヤマト民族としての統一国家が近畿地方を中心に形成された。これが後に朝廷と呼ばれるようになる。朝廷は8世紀に国号を「日本」と改めた。現在の秋田県を含む東北地方北部はこの時点で、朝廷に属していなかった。そのため朝廷はこの地方への征服活動を進めた。
8世紀前半の奈良時代に出羽の秋田地域は、朝廷によって日本海沿岸の北辺地域の交易や征服などの拠点とされた。出羽柵が現在の山形県庄内地方に設置されるが、天平5年12月26日(734年2月4日)、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田市寺内)へ移設された(続日本紀)。出羽柵は760年ごろに秋田城に改称される。このころから「秋田」の表記で定着している。780年には出羽国府が秋田に移されたが、エミシ民族(蝦夷:縄文人の末裔とも、朝廷に属さないヤマト民族ともいわれる)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び移されることになった。秋田城はこの後朝廷側によって再建され、北東北日本海側征服の一大拠点となる。このころになると墾田の私有が認められ、地方豪族の勢力はいっそう発展した。9世紀ごろの平安時代には太政官の命令で、勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬとの規則が出るほどになる。
元慶2年(878年)元慶の乱が起こった。これは重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反抗であった。秋田城や民家は焼き払われ、多くの物資や兵を失った。朝廷は急いで陸奥国から五千人の援軍を派遣したが平定に失敗し、新任出羽守の藤原保則を派遣した。保則は反乱の平定に蝦夷をもって当たらせることで成功した。この後、城の修復や兵力の増強をはかったが、天慶2年に再び天慶の乱が発生した。当時はこのように蝦夷に対する朝廷の力は絶対的なものではなく、「俘囚の長」と呼ばれたヤマトに服属するエミシ民族の地方豪族の力は加速度的に強大になっていった[5]。
中央の律令政治が衰えるとともに、私有地の占領が次第に増え、農民は有力豪族の保護を求めるようになり、蝦夷地の各所には豪族を中心とする武士の集まりができた。豪族は更に、重要地点に分家を配して勢力を拡げて団結を強固にした。その中の有力だったものが陸奥の安倍氏、出羽の清原氏である。
北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏は朝廷に対する貢租・徴役を怠り、横暴な態度であるというので朝廷は討伐を行った。これが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年))である。しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり戦いを繰り広げた。頼義も自軍のみで討伐できずに横手付近に根拠をおいた豪族清原光頼に臣下の礼の形を取り参戦を依頼した。光頼は弟の武則を大将とする一万余の兵を出し、遂に討伐に成功した。源頼義、義家の兵力はわずか三千であったが、この清原氏が出した兵力だけでもその武力を伺い得る。
しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族争いが起こり、家衡が出羽国、沼柵(現在の横手市雄物川町沼館)に立てこもる。家衡はここを源義家に攻められ、金沢柵(横手市金沢中野)に移ったが、遂に敗れた。これが後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年/寛治元年(1087年))である。この戦の後に、清衡が奥州藤原氏として栄えた[6]。
奥州藤原氏は初代の清衡から二代基衡、三代秀衡を経て四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄え、東北の天地は完全に豪族の支配下になった。藤原氏の支配原理は、代々押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使し、併せて荘園の管理も請け負うというものであり、当時の秋田では比内郡の河田氏、秋田郡の大河氏、由利地方の由利氏が藤原氏の支配下にあったと言われているが、近年の研究では出羽国に奥州合戦後も御家人として在地支配を許された豪族が多いことおよび渥美・常滑焼が広まった平泉付近を中心とする太平洋側と珠洲焼の出土が多い秋田郡近辺の陶器文化圏が異なることから、在地領主の家人化が進んだ陸奥国と押領使としての軍事指揮権に留まった出羽国の差を指摘する見解もある。特に出羽北部である秋田地方には荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとされている。
隆盛を極めた藤原氏も、鎌倉幕府を創設した源頼朝が平泉の藤原氏にのがれた弟義経を追討することによって打ちくだかれる。頼朝は文治5年(1189年)、19万の軍勢を率いて奥州合戦を行った。藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡を始めたが、途中立ち寄った河田氏の元で裏切りに遭い、河田次郎によって討ち取られる。同年12月に挙兵した大河氏の大河兼任も挙兵3か月で討ち取られた。
数世紀にわたった豪族の天下も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となった。藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に配し、東北における大きな政治的転換点となった。頼朝が秋田に配した御家人は成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などであった。また由利氏は藤原氏に仕えていたが、そのまま由利地方を治めることとなった。これらの豪族はほぼそのまま藩政以前までその地を治めることとなる。
その後、日本海北部に勢力を持った安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下し、戦国時代になると檜山安東氏と湊安東氏の一族抗争があったものの、安東愛季の時代に統一し最盛期を迎えた。横手盆地には戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持っていた。由利郡は由利氏の一族と地頭であった小笠原氏の子孫などが中小の豪族に分かれ、由利十二頭と呼ばれる勢力になった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて天下の実権を握った。秋田県下の諸大名は西軍についた小野寺氏以外は所領安堵されたが、慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封され、鎌倉時代以来となる長年の領主と住民のつながりは切れた。
慶長7年(1602年)、秋田郡を領有していた秋田実季(安東氏から改姓)などと入れ替わりで、関ヶ原の戦いで西軍に内通していた佐竹義宣が常陸国から転封され、久保田藩を立藩する。義宣ははじめ秋田氏の居城であった湊城(現在の秋田市土崎港)に本拠を置いたが、まもなく神明山(秋田市千秋公園)に久保田城を築いて居を移した。また、一国一城令の例外として、横手城・大館城が支城として存続した(檜山城・角館城などは破却)。組織としては、領内統治を担当する家老の下に財政担当の勘定奉行、城下支配の久保田奉行、そのほか能代奉行、各郡の郡奉行、鉱山支配の銅方奉行、山林支配の木山奉行などを配した。このような藩の組織機構の下、直接生産を営む農民と、その中間の商人・職人が位置づけられ、新たな時代の生活が始まった[7]。
常陸時代には54万石の大身大名であった佐竹氏は、明治まで表高20万石の久保田藩を治めることになった。実高は新田開発などで田地が増し、40万石くらいであったとされる。領内に存在した院内銀山や阿仁銅山などの諸鉱山、および全国的に著名な秋田杉なども久保田藩の収入源となったが、常陸時代以来の過大な家臣団が財政を圧迫し、幾度も財政改革を行う必要に迫られた。
久保田藩からは思想家の佐藤信淵・平田篤胤・安藤昌益や、秋田蘭画を切り開いた佐竹義敦(曙山)・小田野直武らが出ている。「エレキテル」で知られる博物学者の平賀源内は、久保田藩の依頼で技術指導のため阿仁鉱山を訪れ、途中立ち寄った角館で小田野直武に遠近法を伝えたといわれる。享保年間には鈴木定行と加藤政貞の2名が古来の観音信仰にもとづき、秋田六郡三十三観音霊場の古跡をたずね、巡礼歌を添えた巡礼記をのこした。
元和8年(1622年)、山形藩主最上氏が改易され、旧最上領は幕府領と中小の大名領に分割された。このうち由利郡には、関ヶ原の戦い後に転封ないし改易されていた六郷政乗(2万石)、岩城吉隆(2万石)、仁賀保挙誠(1万石)、打越光久(3,000石)などが入部し、それぞれ本荘藩、亀田藩、仁賀保藩、旗本になった。後に仁賀保氏と打越氏は改易され(仁賀保氏は分家2家が旗本として存続)、代わって讃岐国高松藩主だったがお家騒動で改易された生駒高俊(1万石)が転封され、矢島藩となっている。
本荘藩領にあった象潟は全国的に著名な景勝地であったため、松尾芭蕉・雷電爲右エ門らがこの地を訪れている。文化元年(1804年)の象潟地震で隆起し、潟湖から陸地へ、そして農地へと変わったが、蚶満寺住職の覚林による自然保護運動により、かつての小島であり景観の基である丘が残された。
明治維新時点で後の秋田県下に政庁を置いていた藩は以下の5つ(石高は戊辰戦争直前の値)。この他に盛岡藩領と旗本領(仁賀保二千石家・千石家=旧仁賀保藩主の分家、生駒伊勢居地家=矢島藩主の分家、六郷氏=本荘藩主の分家)があった。
慶応4年(1868年)に起こった戊辰戦争で、久保田藩ら出羽諸藩は朝敵扱いされた会津藩・庄内藩の赦免嘆願のため奥羽越列藩同盟に加わる。しかし、久保田藩内の勤皇派がクーデターを起こして久保田藩は新政府側へ転向したため(前後して久保田新田藩=後の岩崎藩、本荘藩、矢島藩および現山形県の新庄藩も転向)、他の奥州諸侯の標的とされて秋田戦争が勃発した。佐賀藩や鹿児島藩などの救援を受けて最終的に勝利したものの、大館城・横手城・本荘城と矢島陣屋・仁賀保陣屋は落城し、広範囲の土地が荒廃した。
また、亀田藩も久保田藩に同調して新政府軍へ転向したが、山口藩から派遣された監軍の横暴な振る舞いに堪えかね、新政府軍が本荘・亀田を見捨てた際に同盟軍へ再加入して久保田方面の新政府軍を攻撃した。しかし新政府軍の反撃で亀田城も焼失することになった。
増加
減少
5.0 - 7.49 %
2.5 - 5.0 %
5.0 - 7.5 %
7.5 - 10.0 %
10.0 % 以上 |
※以下特記しないものは2018年
秋田県の人口は96万9462人(2019年6月現在)で、全国38位。人口増減率は6年連続全国最下位で[注釈 3]、全国的にも最も人口減少が進んでいる地域の一つである。出生から死亡を引いた自然増減率、転入者から転出者を引いた社会増減率共に全国最下位だった。
死亡率は7年連続全国1位と高い反面、出生率は24年連続全国最下位である。高齢化率が全国1位で、年少人口比率も全国最下位と、少子高齢化が進んでいる。婚姻率も24年連続最下位[41]、乳児死亡率は全国2位、周産期死亡率も全国3位[41]。自殺率も2017年は全国1位だったが、2018年は改善して1位を返上した。しかし、2019年には再び全国1位となっている。
1人の女性が生涯で産む子供の数を比較した合計特殊出生率は1.33で全国42位となっている[39]。この数値は通常都市部で低く、地方で高い傾向にあるが、秋田県はこれに当てはまっていない。大都市圏の大阪府、千葉県、埼玉県よりも低く、神奈川県に並んでいる[39]。秋田県の合計特殊出生率は複雑な経過を辿っており、1925年時点では6.12と全国トップレベルの高さだったが、高度経済成長期に急速に低下し、1970年には1.88と全国最下位に転落した(同年の東京都は1.96)[42]。その後1990年代には全国水準よりやや高い程度で安定したが、2000年代以降は全国的な回復傾向に乗れず、2010年に1.30と過去最低を記録し、全国40位となった。以後も低い状態が続いており、2015年は1.35で東京都と北海道に次いで低かった。2019年も1.33と低水準になっている[43]。
秋田県と全国の年齢別人口分布(2005年) | 秋田県の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 秋田県
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
秋田県(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
2024年8月1日現在の人口は898,197人で全国39位の規模となっている。1920年(大正9年)に行われた第1回国勢調査898,537人の人口を下回った。(現在の人口が第1回国勢調査人口を下回るのは、島根県・高知県に続き秋田県が3県目となった。)長い間人口減少に直面している秋田県だが平成に入ってからの低迷が大きく、1995年以降5回連続国勢調査人口増加率全国47位、県人口は1963年から1997年まで長年120万人台で推移したが1997年に120万人を割り込むと、2009年に110万人,2017年に100万人,2024年に90万人を下回っており人口減少が加速している。
実施年 | 人口(人) | 増減人口(人) | 人口増減率(%) | 国内増減率(%) | 増加率全国順位 |
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1960年 | 1,335,580 | - | - | - | - |
1965年 | 1,279,835 | 55,745 | 4.15 | 5.20 | 38位 |
1970年 | 1,241,376 | 38,459 | 3.00 | 5.54 | 41位 |
1975年 | 1,232,481 | 8,895 | 0.72 | 7.92 | 47位 |
1980年 | 1,256,745 | 24,264 | 1.97 | 4.57 | 46位 |
1985年 | 1,254,032 | 2,713 | 0.22 | 3.40 | 47位 |
1990年 | 1,227,478 | 26,554 | 2.12 | 2.12 | 46位 |
1995年 | 1,213,667 | 13,811 | 1.13 | 1.58 | 45位 |
2000年 | 1,189,279 | 24,388 | 2.01 | 1.08 | 47位 |
2005年 | 1,145,501 | 43,778 | 3.68 | 0.66 | 47位 |
2010年 | 1,085,997 | 59,504 | 5.19 | 0.23 | 47位 |
2015年 | 1,023,119 | 62,878 | 5.79 | 0.75 | 47位 |
2020年 | 959,502 | 63,617 | 6.22 | 0.75 | 47位 |
人口減少が進む秋田県内においても秋田市と他自治体では状況が大きく異なっており格差問題が課題となっている。2024年8月1日現在の秋田県の総人口は89.8万人であり,1975年国勢調査(約半世紀前)からは約33.5万人の人口減少となっている。秋田市以外の人口が35万人の大幅な減少の一方で,秋田市に限れば1.5万人の増加となっている。
秋田市以外の人口は,最盛期には現在の秋田県の総人口を超える、110万人を抱えていたが現在は60万人程度しかおらずほぼ半減している。一方で秋田市は中心市街地の空洞化の問題などはあるが、人口減少がそこまで大きな問題になっておらず秋田県と秋田市では人口減少対策に対する温度差も見受けられる。
1950年においては秋田県民の6人に1人が秋田市民であったが,2024年現在では秋田県民の3人に1人が秋田市民となっている。
実施年 | 秋田市人口(人) | 秋田市以外人口(人) | 秋田県人口(人) |
---|---|---|---|
1950年 | 200,525 | 1,108,506 | 1,309,031 |
1975年 | 281,408 | 951,073 | 1,232,481 |
2000年 | 336,646 | 852,633 | 1,189,279 |
2024年8月 | 296,515 | 601,682 | 898,197 |
1950年からの増減率 | +47.9% | -45.7% | -31.4% |
1920年(大正9年)に行われた第1回国勢調査と2024年9月1日時点の推計人口を比較した上での秋田県の人口増加率は全国ワースト3位の-0.14%である。なお、ワースト1位は島根県、2位は高知県で、この3県は大正時代の人口規模を下回っている。
実施年 | 秋田県人口(人) | 島根県人口(人) | 高知県人口(人) | 秋田県増加率 | 島根県増加率 | 高知県増加率 |
---|---|---|---|---|---|---|
1920年 国勢調査 |
898,537 | 714,712 | 670,895 | - | - | - |
最盛期 | 1,349,936 (1956年) | 929,066 (1955年) | 894,119 (1954年) | 50.2 | 30.0 | 33.3 |
2024年 9月1日 |
897,286 | 641,903 | 656,390 | 33.5 | 30.9 | 26.6 |
このように秋田県の場合はこの2県とはやや異なる人口動向を辿っている。前述にもあるが20世紀前半の秋田県は非常に高い出生率を誇っており秋田県の人口は1920年から最盛期の1956年までわずか36年で1.5倍まで45万人近く増加したことが挙げられる。第1回国勢調査の人口を下回った島根県や高知県はこの期間に人口をあまり伸ばせなかった。
ただし、ピークの1956年には1,349,936人いた人口も2024年9月時点では897,286人(-33.5%)と最盛期の3分の2の規模まで落ち込んでいる[44]。最盛期からの人口減少率で見ると全国ワースト1位である。ちなみに2位は島根県(ピークは1955年で-30.9%)。中でも秋田県の場合は特に1970年以降の人口動態が非常に厳しく10度の国勢調査において7度人口増減率ワースト1位を記録している。直近5回1995年以降は全てワースト1位となっている。1970年以降の期間から2024年9月までの人口動態を当ててみると秋田県の人口はこの期間において-27.7%減少しており、島根県の-17.0%や高知県の-16.6%を大きく上回っており近年の秋田県の状況は非常に厳しいものとなっている。
実施年 | 秋田県人口(人) | 島根県人口(人) | 高知県人口(人) | 秋田県増加率 | 島根県増加率 | 高知県増加率 |
---|---|---|---|---|---|---|
1970年 国勢調査 |
1,241,376 | 773,575 | 786,882 | - | - | - |
2024年 9月1日 |
897,286 | 641,903 | 656,390 | 27.7 | 17.0 | 16.6 |
人口あたりの刑法犯発生(警察による認知)率が日本で最も低い都道府県である。人口10万人あたりの犯罪件数は最少である。この理由については犯罪が発生しにくい街の構造(近年における商店街の空洞化など)であることや少子高齢化、および人口減少、過疎化が他県に比べて進んでいることなども影響しているという[45]。また、高齢化の影響で人口10万人あたりの自殺率が平成7年から平成26年の19年間(1995年~2014年)で最下位の状態が続いていたが、県・市町村のレベルでそれぞれ対策を行った結果、平成26年度にワースト1位を脱却した[46]。
携帯電話やPC、タブレットなどの通信機器に不可欠な固定コンデンサの出荷額は1712億円で全国1位[47]。あきたこまちの名産地であり、米の産出額は新潟県、北海道に次いで全国3位[48]。日本酒の生産高は、兵庫県、京都府、新潟県、埼玉県、愛知県に次いで全国6位である[49]。1人当たりの県民所得は全国34位(平成21年度)[50]。また、2020年代の今日ではエダマメの出荷量が全国1位になったり、風力発電を中心とした新エネルギー産業に力を入れている。
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樹齢200年をこえる天然秋田杉は木曽のヒノキ、津軽のヒバと並び、日本三大美林のひとつであり、木材生産量は全国4位。
1982年、首都圏における秋田杉の需要拡大を名目として秋田銀行、羽後銀行、秋田県木材産業協同組合連合会などと秋田県木造住宅株式会社を第三セクターとして設立、秋田県が25パーセントを出資し、副知事を取締役に据え県職員も出向させるなど実質的に支配した。ところが、千葉県を中心に分譲された住宅で地盤沈下により基礎が浮き上がったり秋田杉を建築材としてほとんど使用していないなど欠陥が頻発し、住人らから損害賠償請求訴訟を起こされ、最終的に170億円ほどの負債を抱えて破産した。住宅の販売に際しては当時の県知事である佐々木喜久治がパンフレットにコメントを寄せたり「秋田県庁が設立した第三セクターならではの質と価格」などと銘打っていた。
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鉄道ほとんどの区間は単線であり、秋田市内の一部区間[注釈 4]を除いて毎時1本以下である。秋田市内の区間によっては並行している秋田中央交通の路線バスが本数的に圧倒的優位となっている。 かつて存在した鉄道路線バスかつては秋田市交通局も路線バスを運行していたが、秋田中央交通への移管により廃止された。 |
道路高速道路
一般国道県道空港
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私立
私立
国立
デジタルテレビ・県域FM局・補完FM局の親局送信所は、いずれも秋田市の大森山に置かれている。
民間放送局の本社はいずれも秋田市に置かれている。
秋田県はビデオリサーチによる視聴率調査が行われている都道府県の中で唯一JNN系列の放送対象地域外である。県境に近い地域で隣県の電波を受信できる地域、およびケーブルテレビの区域外再放送で隣県のJNN系列局を視聴している世帯がある。
NHK受信料支払率は、平成23年度末の初公表において全国トップの94.6%であった。
※秋田県にはJNN系列局がないため、同県の同系列局による報道取材は主にIBC岩手放送[注釈 10]が行っている(かつて、取材拠点として秋田支局を設置していた)。IBCが対応できない場合、宮城県の東北放送(TBC)が対応する。
各ケーブルテレビ局では地域密着の独自番組を放送しているほか、隣県のJNN系列を再送信している。
秋田方言は一般的には本土方言-東日本方言-東北方言-北奥羽方言に含められ、金田一春彦による案では、外輪方言に含められている[58]。
秋田方言の語彙中で、共通語と異なるものは、かつて中央語で使われていたものが古語として残存したものと、中央以外で独自の発展をしたものがある。周辺の県と連続する分布のものも多い。現在では共通語と異なる語彙は衰退が激しく、急激に共通語に置き換えられつつある。
秋田方言の母音音素は、共通語より1つ多い、/a/ 、/i/ 、/u/ 、/e/ 、/ɛ/ 、/o/ の6つが認められる。子音音素は、共通語と同じであるが、共通語のカ行にあたる /k/ 、タ・テ・トにあたる /t/ 、チ・ツにあたる /c/ は語中で有声化(濁音化)して、それぞれ [ɡ] 、[d] 、[z] と発音される。サ行にあたる /s/ やパ行にあたる /p/ は有声化しない。
米どころであり、酒どころである。特に日本酒の消費量が多く、酒の飲み過ぎが多い[59]。また雪国のため漬け物などの保存食が発達した一方、濃い味が好まれる影響もあり、ガンの死亡率は全国上位となっている[60]。
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秋田県名誉県民の称号は、1981年(昭和56年)3月13日に制定された秋田県名誉県民条例(昭和56年3月13日秋田県条例第1号)に基づき、「秋田県の発展に卓絶した功績があり、県民が誇りとしてひとしく敬愛する者」へ贈られる(条例第1条)[63]。対象者は「政治経済の発展、学術文化の振興、地方自治の振興、社会福祉の向上その他県民の福祉の増進に広く貢献した者」であり(秋田県名誉県民条例施行規則第2条)[64]、秋田県知事が秋田県議会の同意を得て選定することが定められている(条例第2条)[63]。名誉県民に選定された者には、秋田県名誉県民称号記と秋田県名誉県民章が贈呈される(条例第3条)[63]。
スポーツ・文化などの分野で顕著な業績をあげた個人・団体に秋田県県民栄誉章が贈られており、2018年10月までに19個人3団体が顕彰されている。
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