象潟地震
江戸時代後期に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震 ウィキペディアから
江戸時代後期に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震 ウィキペディアから
象潟地震(きさかたじしん)は、江戸時代後期、文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時ごろ)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震である。
地震の約3年前の享和元年7月2日(1801年8月10日)には鳥海山が東側斜面から噴火を開始し、1804年頃まで活動を続け、享和岳(新山)と呼ばれる溶岩円頂丘を形成した。また、『田中又右衛門聞書』には地震発生とほぼ同時刻の状況として「四日夜四ツ時、鳥海山鳴事雷の如し、等しく地震」と記録されている[2]。
この年の5月下旬頃からこの付近で鳴動があり、象潟内陸部の長岡、小瀧では地震前に井戸の水位低下や水の濁りがあったという[4]。『金浦年代記』には夜四ツ時、大地が2、3尺持上げられたように感じられた直後、激しい揺れに襲われたとある。地震は多くの人々が就寝中の夜の発生であったため、潰家の下敷きとなり犠牲者を出す結果となった[5]。
近江八幡でも有感であったとする史料も存在し、酒田、鶴岡では6月中余震が続いた記録がある。6月6日朝五ツ時(7月12日8時頃)の余震は強く、酒田で潰家15軒、津波も生じた[4]。
近代的な観測記録が存在しない歴史地震であるため、この項の数値は不確定性を含む。
河角廣はMK = 4.5としてマグニチュード M = 7.1を与えていた[6]。震度分布から M = 7.3[7] あるいは震源断層モデルから Mw = 7.5[8] との推定もあり、宇佐美(2003)は M = 7.0 ± 0.1[3] としている。
発震機構は地殻変動や津波による推定から、象潟の十数km沖で海岸線にほぼ平行した長さ約42kmの高角逆断層の変位が生じたものと推定されている[8]。
由利郡、飽海郡、田川郡で特に被害が著しく、本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、本荘藩、庄内藩領内周辺では潰家5500軒余(内本荘領1770軒、庄内領2826軒)、死者366人(内本荘領161人、庄内領150人)の被害となり、幕府は本荘藩主六郷政速に金2千両を貸与した(『文化日記』)。象潟(現・にかほ市象潟地区)、遊佐(現・遊佐町)、酒田などでは地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が70%に達した。
液状化による泥水の噴水が各地で見られ、小出村(現・にかほ市)では地割れから硫黄臭のする泥水が吹き上げた[5]。酒田では四五尺程までに地が裂け、泥を吹上げ五尺余(1.5m以上)の深さの泥海となり(『宝暦現来集』)、鶴岡では井戸で水鉄砲の様に水が一丈余(3m以上)も吹出した(『東野其抄録』)。
地震後、一旦海水が引き、その後津波が襲来して芹田(現・にかほ市仁賀保地区)の白雪川や吹浦川を遡上した。金浦(現・にかほ市金浦地区)では大雨と津波遡上が重なって河川が溢れ、港が被害を受けた。津波は象潟やその南に位置する関村(有耶無耶の関跡との説がある)では4 - 5m、吹浦で4m、仁賀保で3 - 4m、酒田で3 - 3.5mの高さがあったものと推定されている。酒田では新井田川河口付近から遡上し、市内は水が溢れ深さ3尺余(約1m)浸水し、田畑にも汐が入り荒廃した。
津波の規模は地震の規模に対して相対的に大きく、今村・飯田の規模ではm = 1.5と見積もられ、波源域の長さも南北約60kmに達していたと推定されている[7]。
象潟を中心に出羽国の沿岸が南北約25kmに渡って隆起し、芦田0.9m、金浦1.3m、象潟2.0m前後、川袋1.25m、吹浦0.9mの隆起量であった[9][10][11]。この隆起で南北約2kmの象潟湖の大部分が陸地化し、一部沼地となった。この隆起で新たに形成された水田は、新田と呼ばれている。現在象潟海岸にある高さ4.3mの唐戸石は、地震前は大部分が海中にあった。一方で象潟の内陸側の小瀧では1m沈降している[3]。
江戸時代の名大関・雷電爲右エ門が象潟地震の2ヶ月後に象潟を訪れており、その時の様子を『諸国相撲和帳』、俗に『雷電日記』と呼ばれる旅日記に記録している。この日記は寛政元年(1789年)から文化12年(1815年)まで書き綴っていたもので、主たる内容は「何処で興行し、どのような収支となったか」であり、雷電の私事を記述していない。にもかかわらず記録されている象潟地震の報告は、雷電が受けた衝撃の大きさを物語る。
以下にその内容を引用する(日付はすべて旧暦)。
(文化元年)八月五日(秋田を)出立仕り候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ、道中にて六合(由利本荘市)より(酒田街道を)本庄塩越通り致し候ところ、まず六合より壁こわれ、家つぶれ、石の地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越(にかほ市象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺杉木地下へ入りこみ、喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまで水あり、塩参り節(満潮時)はくびまでもこれあり候。その形九十九島あると申す事に御座候。大じしんより、下よりあがりおか(陸地)となり申し候。その地に少しの舟入り申し候みなと(港)もあり、これもおか(陸地)となり申し候。 (聞き書きとして)「六月四日、夜四つ(午後十時)の事に御座候。地われ(割れ)て水わき出ず事甚だしきなり。年寄、子供甚だなんじゅう(難渋)の儀に候。馬牛死す事多し。酒田まで浜通り残りなしいたみ多し。酒田にて蔵三千の余いたみ申し候と申す事に候。酒田町中われ、北がわ三尺ばかり高くなり申し候とのことに候。長鳥山(鳥海山)その夜、峰焼け出し、岩くづれ下ること甚だしきなり。(八月)七日に鶴ヶ岡へ着き仕り候。 — 雷電爲右エ門、『歴史読本特別増刊号’87-8 目撃者が語る日本史の決定的瞬間』246頁、新人物往来社、1987年
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