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北海道苫小牧市にある港湾 ウィキペディアから
苫小牧港(とまこまいこう)は、北海道苫小牧市から勇払郡厚真町にかけてある港湾。港湾法上の「国際拠点港湾」、港則法上の「特定港」であり、日本国内に8ヵ所ある「中核国際港湾」の1つに指定されている。港湾管理者(ポート・オーソリティ)は、北海道と苫小牧市によって設立した特別地方公共団体(一部事務組合)「苫小牧港管理組合」である[9]。
苫小牧港は、1963年(昭和38年)に開港した世界初の内陸掘込式港湾である西港区と、1980年(昭和55年)に開港した「苫小牧東部開発計画」による東港区からなる港であり、新千歳空港まで車で約30分、札幌市までトラックや鉄道による移動の1時間圏内に位置しており[10]、高速道路などの交通網によって北海道全域をカバーしている[10]。
北海道内の港湾取扱貨物量の約50 %を占めているほか(平成25年)[11]、全国でも第4位の港湾取扱貨物量になっている(令和3年)[12]。また、内航取扱貨物量において全国第1位の取扱量になっているなど[13]、北日本で最大の国際貿易港になっている[14]。
「苫小牧港大規模掘込港湾施設」として「土木学会選奨土木遺産」に選定されている[15]。
本港地区
真古舞地区
勇払地区
汐見地区
外港地区
弁天地区
浜厚真地区
外港地区
「外航定航船就航状況一覧」参照[17]
北米
韓国
中国・韓国
「内航定航船就航状況一覧」参照[18]
常陸那珂
京浜
東京
川崎
横浜
名古屋
敦賀
大阪
「定期フェリー一覧」参照[21]
八戸
仙台
大洗
仙台・名古屋
秋田・新潟
秋田・新潟・敦賀
敦賀
苫小牧周辺の漁業は「樽前浜」と呼ばれ、江戸時代末から明治時代当初、イワシの地引き網と金肥の魚粕(〆粕)づくりで賑わっていたが、明治時代の末になると漁が衰え、沖合い漁を望む声が高まった[22]。そこで、漁業権を持っていた今井寅之助は1918年(大正7年)に私財を投げ打って勇払川河口に漁港築港を試みた[22]。これが苫小牧の港造りの先駆けとなった[22]。その後、苫小牧町や漁家の永井勇三郎が漁港造りを試みたが、いずれも打ち寄せる波と潮の流れで水路が砂に埋もれてしまった[22]。1923年(大正12年)に苫小牧町は初めて政府や国会へ勇払原野の開発と苫小牧港開発を陳情した[22]。1924年(大正13年)には当時の留萌築港事務所長であった林千秋が、北海道庁で発行していた『港湾持論』の中で「勇払築港論」を発表した[22]。1935年(昭和10年)に試験突堤を造り、1939年(昭和14年)には北海道庁も本格調査に乗り出すなど、築港への動きが進んでいった[22]。
戦後、1949年(昭和24年)に衆議院議員に当選した篠田弘作が国会で勇払原野の開拓と工業港築設の必要性を訴えた[22]。岩倉巻次の支援もあり、1935年に着工したまま波に洗われていた試験突堤が港湾調査規則上の「港湾」として認められた[22]。1950年(昭和25年)には防波堤を築く試験工事が行われ、国の昭和26年度予算でついに苫小牧港築港のための予算が計上された[22]。当初は、石狩炭田で採掘した石炭を本州に向けて積み出す拠点港として整備した[23]。これは、産炭地から海までの距離が短く、室蘭港と比べて貨物輸送の運賃が安い優位性があったからである[23]。
「苫小牧港の歴史」参照[24]
姉妹港
友好港
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