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沿岸漁業の漁法またそれに用いる漁網 ウィキペディアから
陸岸を拠点にして海の沖合に網を張り廻し、網の両端につけた引き綱を引き浜辺に引き揚げて漁獲するもので、魚群を船に引き寄せて捕獲する船引網とともに、引網類を代表する漁法である。1艘の網船による片手廻しのほか、2艘の網船で両側に投網する両手廻しの大地引網がある[1]。当初行われていた漁撈は、網綱の片方を浜辺に残し1艘の網船で沖に向かいながら投網し、半円状にかけ回し浜辺に戻って引綱を引く、片手廻しといわれる小地引網であり、また日本全国各地で行われる一般的な地引き網は、網船1艘に水主数人、引き子30人程度の片手廻しの地引き網である。なお初期の地引き網には中網が無かったが、その後片手廻しでも中央に袋網が設けられ、機械化が進んだ現在も中央の袋網の部分の作業は人力で行なわれる[2]。
大地引網は九十九里浜が有名である。九十九里浜の地引き網の歴史は、弘治元年(1555年)に紀州の漁師西之宮久助が剃金村(現在の千葉県白子町)に漂着し、紀州漁法である地引き網を伝えたことに始まるとされている[3]。伝えられた地引き網は片手廻しの小地引網であるが、遠浅で海底に岩が隠れていない九十九里浜は、網を引いても破れるおそれがないので、大規模な地引き網に適していた[4]。2艘の網船が沖合いで袋網を中央にして網を連結し、左右に別れ両側に投網する両手廻しの大地引網は、寛永年間(1624年-1658年)に一宮本郷村(現在の千葉県一宮町)の片岡源右衛門が工夫したもので、その規模は網の長さ片側300間、中央部に30〜40間の大袋網が付き、水主60〜70人、岡者200人とされる[5]。九十九里浜の地引き網によるイワシ漁は佐藤信季の「漁村維持法」に、「予あまねく四海を遊歴して地曳網に働く者を見ること多し、然れども諸国の漁事、九十九里の地曵に如くものあることなし」と評され、網数は200余張に達していた[6]。
大規模な地引き網は多くの資金と労働力を必要とし、豊漁であれば一攫千金も夢ではないが常に漁があるわけではないので、背後に穀倉地帯である九十九里平野がひかえ豊富な資金力と必要時のみ動員できる労働力などの社会的条件が背景にある九十九里浜で特に発展した[7]。近世の大地引網漁はほとんどこの方法によって行われ、九十九里浜のほか肥後天草などが名高い[1]。
大規模なものでなくとも、地引き網は多くの漁夫、引き子の労働力を必要とした。網引きへのろくろの採用が一般化したのは明治前期、揚網ウインチの採用は近年のことである。人手の問題に加えて、代表的な沿岸漁業であり漁撈の特質から沿岸への回遊魚が豊富な時代は隆盛であったが、工場や生活排水などによる漁場汚染により回遊魚が減少したことと、沖合船引網漁の発展により衰退した。現代の地引き網漁の主なものを以下に示す[8]。
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